日本の家にはよくある風景だと思いますが、私の実家には仏壇と神棚が和室に並んでいました。朝晩お水や炊いたご飯を供えることが子供の頃からのお手伝いの一つでした。運動会や試験の折には、母から「のんのんした?」
「仏さまにお願いした?」の声掛けがあり、仏壇の前で手を合わせるということが習慣になっていました。その様な家庭でしたが、幼稚園年長の頃、クリスチャンではない母が何故か私を教会の日曜学校へ連れて行きました。自身が中高をミッション系の学校で過ごした影響でしょうか、今度母にゆっくり聞いてみたいと思っています。
小学校1年生の時、父の転勤で関西へ引っ越しました。社宅の目の前に教会があり、母はまた私を日曜学校へ連れて行きました。この時の記憶は、クリスマスの生誕劇で一言もセリフの無い羊の役をしたことと、毎週配られる聖句の絵カードを集めるのが楽しかったことです。2年生になると、母の興味が日曜学校からガールスカウトに変わり、私の日曜日はガールスカウトの活動にシフトしました。
再び神様に少し近づいたのは中学の時です。毎日の礼拝や週一回の聖書の授業があるミッション系の学校に入学しました。クラブ紹介でその美しい音色に一目ぼれした私はハンドベル部に入りました。その顧問の先生が宗教主任の先生でした。厳しい方でしたがお話が大変上手で、時々行うハンドベルの演奏や美しいメロデイの賛美歌を歌うことに加え、先生のお話は礼拝の楽しみの一つでした。ある時クラスメイトのお父様が亡くなり、何人かでご葬儀に出席するということがありました。クリスチャンでいらしたので私にとって初めての教会のお葬式でした。故人の好きだった讃美歌を歌い、皆で白い花を献花するというお式は、不謹慎ですが少しあこがれたのを覚えています。
中学2年生の時に父の転勤があり、英国国教会系の学校に編入しました。チャプレンのお話にあまり魅力を感じず、聖歌集に馴染めず、年齢もあったのでしょうか、心が神様から離れてしまいました。
結婚した夫の両親はクリスチャンでしたので、結婚式は両親の教会の牧師先生に会場まで来ていただいてして頂きました。夫の家は食事の前に皆でお祈りすることもなく、ノンクリスチャンの私にとってごく普通で居心地の良いものでした。私たち家族が東京にいる時は、イースターやクリスマスの折に時々教会に誘ってもらいましたが、20数年中、礼拝に出掛けたのは10回に満たないかもしれません。
2019年に夫がニュージャージーに駐在になりました。FBの知り合いを通じて知ったニュージャージー日本語教会に夫が行くといった時、日曜日に特に用事もなく、なんとなく一緒に通うようになりました。聖餐式に初めて同席した折、教会に来ている人はクリスチャンとそうでない人がいることを深く意識するようになりました。私にとって教会に行くということは、学生時代の延長で、賛美歌を歌い、お話を聞き、ひっそり個人的なお祈りをするということで、それで満足でした。その先にある神様を心から信じ洗礼を受けてクリスチャンになるということは、何か特別な天啓のようなものがあったり、神様を求めずにはいられない体験をしたりということが必須であると感じていました。
ですから、2021年突然夫から、受洗しようと思うと聞いたときは本当に驚いたのを覚えています。
教会は仲良しグループの集いではないことは理解しています。ですが、教会の雰囲気は先生を始め集う方々によるもので、それはとても大事なものだと思います。ニュージャージー日本語教会に通い、お茶の時間や教会以外の場所で皆様に本当に暖かく親切にして頂いたと感じています。
日本に本帰国することが決まった頃、何も特別な天啓も体験もありませんでしたが、洗礼を受けるということを少し考えるようになりました。その思いを感じていただいたのでしょうか、1月に先生から「帰国も近いし、もしよかったら聖書の勉強をしてから帰りませんか。」とお誘いを受けました。勉強も後半に差し掛かった頃、受洗についてお話頂きましたが、まだ迷っていた私は、神様をすごく求めるような体験も何もないのに洗礼を受けてもいいのかどうか等、色々なことを尋ねました。イエス様が私の罪を背負ってくださった、そのことを信じられることが一番大切なことです、と先生は何度も話してくださいました。錦織先生と親切にしてくださった皆様のいるニュージャージ―教会で受洗したいと決心しました。
東京に戻って半年、夫の両親の教会へ通っていますが、ニュージャージー教会のことを時々思い出します。先日古い友人と会う機会があり、ひょんなことから彼女が12月に洗礼を受けることを聞きました。私はとても嬉しくなり、自分の時に皆様に心から喜んで頂いた理由がわかったような気がしました。12月彼女の教会へ行き、「おめでとう。」を言う約束をして別れました。
幼い時から神様が何度も招いてくださったことに本当に感謝します。
「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5:8)