「苦しみを祝福に変えてくださる神様」

2010年、私の結婚生活は夫の実家で義母と一緒にスタートしました。

結婚という未知の生活、慣れない土地、義母との同居、様々な不安がありましたが、そこに至る経緯に不思議な出来事が重なっていたことに神様の導きを感じ、祈り、決断してのスタートでした。

しかし、数カ月後、義母と大きな衝突が起きました。それからは義母の意に反することが何よりも恐ろしく、常に義母が何をしたら怒るかばかりを考えるようになりました。今振り返ると、夫とも家族になりきれておらず、お互いの信頼関係もなかった中で、私にとって義母の存在は絶対に逆らえない重圧でした。小学校1年生の時に父を亡くした夫にとって、女手一つで一生懸命育ててくれた義母がどれ程影響力があるかを考えると、私たちの結婚を壊せる恐ろしい存在に思えたからです。義母から言われた言葉が頭から離れず、夜も眠れず、食事も喉を通らず、嘔吐する中で、「自分を認めてもらうためには『一点の非もない人間』でならなければならない」「ふさわしい嫁にならなければ」と思い込み、夫に自分の弱さを相談することもできず、家にはなるべく遅く帰るために残業をしたり、駅や近くの公園で夫の帰りを待ったりする日もありました。徐々に心の中で義母に対する不信感が芽生え、義母の粗探しをすることで義母が非難したものを正当化するようになりました。すでに心に愛や平安はなく、恐れと憎しみで渇ききっていました。義母から解放されることだけが私の希望であり、そのためには離婚すら考えるようになりました。

結婚から1年、夫と2人で夫の実家を出て新居に引っ越しました。義母から絶縁され、私は完全に教会に行けないと思いました。夫から義母を奪ってしまった私が、自分だけ自分の実家の家族が集まる教会に行くなんてできない、義母と良い関係を築けなかった私がクリスチャンとして夫に証なんてできないという思い、そして、私がいない間に義母が夫を離婚するようにと説得したら…夫が実家に帰ってしまったら…という恐怖心から私は教会と自分の実家の家族から離れ、仕事以外のほとんど全ての時間を夫と過ごすようになりました。

しかし、離れれば解放されると思っていたのに、優しく思いやりのある夫の姿に義母に対する感謝が起こり、夫のしぐさや口癖に義母の影響を感じて嫌悪感が起こり、義母の言葉を思い出して許せない気持ちが再燃し、最愛の息子に会えず寂しく暮らしているであろう義母を想像して涙し、どんなに蓋をしたりコントロールしようとしても義母を思わない日は一日もなく、むしろ自分の汚い泥沼の感情の中でもがき苦しみ続けました。

そんな中で、私は生まれて初めて心の底から神様を求めるようになりました。考えてみたら、それまでの私は受動態の信仰でした。クリスチャンの両親のもとに生まれ、物心つく前から教会に通い、小学校6年生で受洗し、中高はミッションスクールに通い、必要な御言葉、メッセージは常に求める前から与えられてきました。祈りに応えてくださる神様が大好きで、イエス様も聖霊様も信じていました。しかし、どうにもならない自分の醜い感情、弱さ、愛のなさを嫌というほど思い知らされ、それでもなお自分を正当化しないと生きていられないような苦しみの中で、言葉にならない言葉で神様を求めました。初めて自分から「生きる指針」を探し、神様とのつながり、神様の御心、聖書をもっと知りたいと願うようになり、ネット配信されている中川健一先生の「ハーベストタイム」を聞くようになりました。毎日の通勤や帰宅後、ひたすら創世記、出エジプト記、ローマ人への手紙、福音書の講解メッセージ(毎回一章ずつ順番に解説するもの)を聞き続けました。それまで知ってるつもりになっていた聖書への理解が全く変わっていきました。

別居から2年後、義母との交流が再開し、その半年後に夫の転勤でNYに引っ越し、NJ日本語キリスト教会に導かれました。礼拝堂に入った瞬間、初めての教会なのに、何とも言えない懐かしさ、喜びが溢れました。ほぼ4年ぶりの牧師先生の生の説教、賛美、クリスチャンの方々との交わり、全てが嬉しくて感謝と感動で心が震え、「帰ってきた…」と感じました。しかもずっと願っていた夫と一緒に。それから1年、素晴らしい主にある家族との交わり、先生を通して必要なメッセージを語ってくださる神様のもと、感謝に溢れる毎日を過ごさせて頂いています。

先月、義母をNYに迎えました。約2週間の滞在でしたが、義母に遊びに来てもらおうと提案したものの、日が迫るにつれ過去の記憶がよみがえり、不安になっていた私に、「好きは感情、愛は行動」「好きという感情は持てなくても、愛するという行動はできる」とメッセージ(2016年2月28日「敵意を超える生き方」)を与えてくださり、「愛をもってお義母さんと接することができますように」と祈りました。義母と一緒に過ごす中で、ふと義母の背中の小ささに気づかされました。驚きました。私にとって義母は絶対に動かすことができない大きな大きな存在だったからです。義母の手の白さに「あぁ、この手で一生懸命夫を育ててくれたんだ」と胸が熱くなり、過去のことも「義母も必死だったんだ」と分かった瞬間、慣れない外国で驚いたり喜んだりしている義母の笑顔が愛しくなり、「夫の」ではなく「私の」母と思うことができたのです。「何事もなく無事に」と願っていた母の帰国日は、母への愛情と寂しさと神様への感謝で涙が溢れました。神様は私の人生最大の奇跡、私の心に義母に対する愛情を与えてくださったのです。

夫の実家を出たあの日、こんな日が来るなんて誰が想像できたでしょうか。あの頃、夜中に起きては聖書を開き、「神様なぜですか」と泣きながら問い続けました。「何かの報いでしょうか」「神様は本当に今も私の側にいてくだるのでしょうか」と。

今回、この証を書きながら、あの頃の苦しみが今の私への祝福だったと分かりました。

義母、実家族との遮断を通して、私自身も精神的に「父母を離れ」、夫にどんなことも相談し、強い絆と信頼関係をもった夫婦になれました。夫を失いたくない一心でしたが、夫を愛し、夫に仕えることを学びました。何より、義母とのことで自分の中の悪、どうにもならないに醜さ、弱さ、渇きを知りました。「罪を犯すから罪人」ではなく「罪人だから罪を犯す」とメッセージで聞いた時、まさに自分の事だと胸に衝撃が走りました。イエス様がゲッセマネで血の汗を流されたほど恐れた“父なる神との断絶”は、本当は私が永遠に味わうはずの恐怖だったのだと気が付き、心から悔い改め、イエス様の十字架に感謝し涙が溢れました。

「同居さえしなければ」「私がもっと違ってたら」「結婚しなければ」…「たられば」で頭がいっぱいだった長い年月の一つ一つ、全て何も欠けては成り立たない神様のご計画でした。義母とのことがあったから、自分の罪を知りました。神様を求め聖書を学びました。教会に行けなかったから、教会に集える喜びを知りました。結婚したから、夫との愛を通して神様の愛が分かるようになりました。本当の平安は、復讐や憎しみからは得られない、また、自分の努力でも得られない、神様からの愛だけが苦しい心に平安を与えるのだと心から信じることができました。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』(伝道者の書3章11節)

神様が私にどのような未来を準備されているか私はまだ知りません。より大きな困難があるかもしれません。より長い時間苦しみの中を通るかもしれません。けれど、どんな困難な時も、満たされている時も、どんな時も神様に喜ばれる生き方を選ぶ知恵と勇気が与えられますよう、神様を信頼して希望をもって進んでいけますよう、祈りつつ生きていきたいです。

 

月報2016年7~8月号より

「私の人生が変えられた理由」

私は、幼いときから誰よりもこの自分を知りたいという強い願いがありました。一生懸命勉強をしたら、いずれかこの願望が叶うと信じていましたし、その為努力を一杯積んできました。だから、大きくなってから、私は生命科学の道を選びました。

それと同時に、自分も自然に幸せになれると思っておりました。
しかし、その考えに大きな落とし穴があると言う事に最初に気づいたのは、大学にいた頃、私の同級生が一時成績が最良でなかっただけの理由で、自殺をした事でした。

自分をを知るため勉強をしたのに、なぜその途中で自分を死に追い込まなければならないのか。それは、幸せを感じなかったではないのか。
そう思いながら、私は、そもそも幸せが何かを、考え始めたのです。
自分の肉体のことをいくら知っても、心が幸せじゃなければ、それは自分が自分を知るということにはなってない。

卒業の後、私は臨床と研究とビジネスの道を歩み、二十年を過ぎました。その間も、自分自身も色々な人生の難関に出会いました。

心の安らぎを求める為、私は一時期いろんな“心豊かな“人と友達になり、そして成功した人が書いた書物も一杯読みました。心の教養レベルがこれで上がると信じたわけです。

名声ということに興味が沸いた時があります。他の人たちの“リーダー”となって有名になることさえできれば、心豊かな有意義な人生を送れるのではないかと思ったのです。その名声というのは、なにも学問とか能力とかにこだわらなくてもいいと思ってました。

それに大きな疑問をかけたのは、去年夏ごろ故郷中国上海に帰ってからでした。その時、私は昔の中学校の同級生達の同窓会を参加しました。気づいて悲しくなったのは、彼らの多くが、自分が他人より優れてることに凄くこだわっている事でした。彼らは、ひたすら自分がどれだけ裕福なのか、どれだけ事業に成功してるのか、どれだけ会社で高い位置についてるのかを見せびらかし、他の人たちの“リーダー”になりたがってました。彼らは、明らかに、高度発展の社会の悪の誘惑に負けたのです。人間性は生まれながら弱い、それに抵抗するために高い霊性を持たなければならないと私はその場でふっと思ったのでした。

アメリカで、私の以前からの親友にこの感想を持ち出して話したところ、クリスチャンであるその方からクリスチャンへの信仰を勧められました。今までの十年間、私は以前も何度も行ったり行かなかったりクリスチャンの礼拝に参加した事もありましたが、この時はじめてイエス・キリストを信じる決意をしました。『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』(詩篇119:105)

人間はみな弱みを持ってます。その弱みを克服するためには、肉体と心を知るだけでは足りません。信仰によって、より高い霊性を養わなければいけません。その霊性とともに、自分を愛し、そして他人も愛する。それは、まさに、イエス・キリスト自身の歩みではないでしょうか。。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで心理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。』(コリント人への第一の手紙13:4-7)

主イエス様。私はあなたを必要としています。あなたが私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。私の罪を赦し、私を清めてくださったことを感謝します。私は今あなたを、私の救い主、人生の主としてお迎えいたします。私の人生を導き、私をあなたが望んでおられるようなものに変えてください。アーメン。

月報2016年3~4月号より

ランディ・ホンゴー牧師による証

今回の証は、私たちの教会を東海岸の母教会と呼んで懇意にしてくださっているChristian Visionのランディ・ホンゴー先生が書いてくださいました。
(http://www.rghongo.com)

私は1947年7月1日、ハワイのビッグアイランドと言われるハワイ島のヒロという町で生まれました。私の父は日系人で、母はハワイ人と中国人のハーフでした。2歳下にルツという妹がいます。両親はランの栽培をしていました。私は子供の頃は農園で花を摘む手伝いをしていました。大きくなって車の運転ができるようになると、私はランを花屋に届けたり、世界中に出荷するために、空港まで配達したりしていました。私の両親は、ずっと、私が家の仕事を継ぐことを期待していました。

しかし、ハイスクールの時に、私はクリスチャンになり、人生が変わりました。私はユース・フォー・クライストというクリスチャンクラブに参加するようになり、そこで、クリスチャンの友達がどのように信仰を持つようになったのかという証しを聞いたのです。初めて聖書を読みました。クリスチャンの賛美歌を知りました。4ヶ月その集まりに通ううちに、私はイエスがどんなに私のことを愛してくださっているかを知りました。イエスを私の個人的な主、救い主として受け入れる準備ができたのです。そして、1963年12月22日、私はイエスを受け入れました。

それから、私は神様に、自分にどんな仕事をして欲しいと思っておられるか、見せてください、と祈るようになりました。私は10歳からピアノを始めていましたが、ピアノを弾くのが大好きでした。また文章を書くのも好きでした。ですから、私は神様に祈りました。「私は家を継いでランの農園をすべきでしょうか?それとも、英語の教師でしょうか?それとも、音楽の教師でしょうか?」

1965年にハイスクールを卒業すると、私はオアフ島に出てきました。ホノルルのハワイ大学に入学したのです。私は英語の先生になろうと英語を勉強することにしました。でも、私は音楽が大好きだったので、音楽のクラスも取りました。その音楽のクラスでキュートな女の子に会いました。彼女の名前はゲイ・シンサトといいました。彼女と私は最初は良い友達となり、やがて恋に落ちたのです。

ゲイはとても美しい歌声をしていました。そして、時々は私も一緒に歌を歌いました。それまでの私はシンガーというよりもピアニストでしたが、彼女と一緒に歌うことによって、シンガーとしても上達したようです。彼女は私に会う前の年にクリスチャンになっていました。彼女は私を教会に誘ってくれました。私は他の島からやってきたので、ホノルルの教会については何も知らなかったのです。ゲイのおかげで、私はカリヒ・ユニオン・チャーチに通い始めました。

英語で学位を取って、私は大学を卒業しました。卒業してすぐ、ゴスペルを歌うチームの一員として、アメリカ本土に招かれて、1年間、アメリカ中を回りました。そして、ハワイに帰って、1971年7月31日にゲイと結婚しました。

結婚する頃には、ゲイと私はチームとして、自分たちの教会や他の教会でも、一緒に歌うようになっていました。ゲイはハイスクールで音楽を教え、私は小学校の4年生を教え始めました。そんな時、神様は、私に音楽の仕事をするようにと語り始められたのです。3年ののち、1975年に私たちはケンタッキーのルイビルに引っ越しました。そこで神学校に通い、教会音楽の修士号を取るためです。このころの私の計画はハワイの教会で音楽主事として働くということでした。このルイビルで1978年の4月3日に息子のアンドリューが生まれました。ルイビルでは多くのバプテスト教会が私たちを招いてくださって、賛美の歌を歌うチャンスを与えてくれました。この期間は、ハワイの文化や音楽、そして、クリスチャンとしての証しを分かち合う働きを始めるための準備の時として、神様が私たちを訓練してくださる時だったのだと思います。

私たちは1980年にハワイに戻りました。そして、カリヒ・ユニオン・チャーチで音楽主事として働き始めました。同時に、いくつもの教会から「歌って欲しい」との依頼が入るようになりました。私たちは神様の導きを感じて、1982年に教会の音楽主事の職を辞し、独立して「Christian Vision」という団体を作って働きを始めることにしました。それから、Christian Visionを通して、ハワイや、アメリカ各地、そして全世界で、音楽を通して神様の良き知らせを伝える働きをさせていただいてきました。ゲイの故郷である日本では24回、そして、他にも、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、ブラジル、ドイツ、オーストリア、スイス、イングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダなど各地を回って、コンサートをさせていただきました。19枚のCDを出しました。1998年にはアメリカの大統領のお招きをいただいて、朝食祈祷会で賛美をさせていただきました。神様は神様のための私たちの音楽の働きを豊かに祝福してくださったのです。

2011年に、私は多発性骨髄腫という、血液のガンと診断されました。私たち家族は2011年12月からしばらく南カルフォルニアに滞在することになりました。それは、私がシティー・オブ・ホープがん研究センターで治療を受けるためにです。そこで5ヶ月間のキモ・セラピーを受けた後、2012年7月に幹細胞移植を受けました。2012年8月の末にはハワイに戻り、そして、2014年の11月に私のがんの担当医はガンが寛解していると診断を下しました。神様が癒してくださったのです。ハレルヤ!

しかし、ガンの治療を受けている間に、私の腎臓はダメージを受けて、人工透析を始めなければなりませんでした。また、2014年の6月には中程度の心筋梗塞を起こしました。その後、心臓は強められていますが、休息は必要ですし、スケジュールもあまり忙しくならないように気をつけています。コンサートは続けていますが、休息のために十分な時間を取らなければならなくなっています。

今、私は健康について多くの戦いを感じています。しかし、神様が私を強めてくださって、続けて神様を愛し、神様に仕えることができるようにしてくださっています。私は、日々、私のことを心にかけてくださり、私に目をとめてくださっている神様に感謝しています。私は、日々、イザヤ書41:10のみ言葉に立たせていただいています。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」

私の人生の中で、健康な時も病の時も、神様はいつも私と一緒におられました。

神様は、高校生だった私にご自身を示してくださって、私はクリスチャンになりました。

神様は私のところに美しい日本人の女性を連れてきて、今日まで44年間連れ添う私の妻として与えてくださいました。

神様は私に、今はニューヨークに住んでいる素晴らしい息子アンディーを与えてくださいました。

神様は私の人生の仕事は神様のために音楽の働きをすることだと示してくださいました。

神様は私に世界に広がる音楽の働きを与えてくださいました。

神様は私にたくさんの歌を書かせ、たくさんのCDを録音させてくださいました。

そして、私の病の時には、私を支え、強くし、神様が私を愛してくださっていること、心にかけてくださっていることを示してくださいました。

神様が与えてくださった素晴らしい人生のゆえに、また神様がしてくださったすべてのことのゆえに、私は神様をほめたたえます。私は命の日の限り神様を賛美する歌を歌い続けます。

月報2016年1~2月号より

「先日、娘が結婚しました。…」

先日、娘が結婚しました。

10 歳のころから、教会に、教会の皆さんに、いえ神様に育てていただいた一人娘です。本当に、神様に出会っていなかったらどうなっていたかと思うと、この不思議なご計画に、ただ、ただ感謝です。

「絶対泣くよ」、「大泣きだよ」、「大きなタオル持って出席しないと」、などという皆さんの暖かい?お言葉に送られて、日本での結婚式に臨みました。日頃から涙もろい私は、自分でもきっと涙が止まらないだろう、号泣しちゃうかもしれないな、でもこの日ばかりは許してもらおう、と覚悟していました。

式を明日に控えた前日、家族で夕食を共にしました。食事の前のお祈りで、娘を神様から与えられたことに感謝しようと口を開いた途端に、今までのすべてのシーンが、頭の中に次々に現れてきて、涙が噴き出し嗚咽で口がきけなくなっ
てしまいました。家族から(娘からも)笑いがこぼれる中、何とか感謝とアーメンを言うことができました。明日はどうなることか、、、でも、仕方ないよね、という感動の一夜を過ごしました。

さて、いよいよ当日。おとなしく花嫁の父を演じていては、ただのむさくるしい涙ジィさんになってしまうことは容易に想像がつきましたので、趣味を生かし、カメラマンをやることにしました。「花嫁の父がカメラマンするのぉ?」という周囲の声もありましたが、何かに集中していないと、やっぱり泣いちゃうような気がして・・・・それに、赤ん坊のころから何千枚も撮り続けた娘の写真を今日撮らないでどうする、という思いがありました。従って、準備には気合が入っていました。優しい奥様の許可を得て、ちょっといいカメラと高級レンズを購入。いつもは持たない予備の電池もアマゾンで購入。新しいカメラには修養会のカメラマンで慣れ、準備万端でした。何しろ私にしてみれば、今までの思いの集大成とも言える「時」なのですから。

式が始まり、目頭が熱くなって前がよく見えなくなること数回。やっと花嫁の父役から解放され、モーニング姿のカメラマン登場です。ファインダーの中で、娘の花嫁姿と赤ん坊の頃の娘の姿が重なり、夢中でシャッターを押し続けました。前半快調に撮ったおかげで、アマゾンの安い電池は早くもアラーム点灯。やっぱり予備があってよかったねと、電池を換えようと思った瞬間、背筋がゾォ?っとして、心臓バクバク。「予備電池失くした!!」なに?っ!!これからいい所なのに・・・新郎新婦入場は?ケーキカットは?家族の集合写真は?

「何のために、カメラ買ったんだ??っ!」

結局、しばらくして、失くした電池が見つかり、モーニングカメラマンは復帰したのですが、その間の写真は数枚しかないということになってしまいました。

そして、その日最後のクライマックスシーン。花束贈呈の後、私が両家を代表してご挨拶をすることになっていました。私の筋書きでは、この時点で、持参したタオルはグチャグチャで、泣きはらした目で感動的な挨拶をする予定でした。もちろん、そういう状況下でのスピーチの原稿は、誰にも言っていませんが、頭の中で何度も練習していました。ところが、、、、

この時まで、不思議なことに全然泣いていないんです。私の心の中の原稿は、自分でも良い話だと自負していたのですが、泣いてないと話せない内容でした。急遽、スピーチの内容変更。泣いてもいないのに、しどろもどろのご挨拶にな
ってしまいました。

実は、少し前から、娘の結婚が近づくにつれ、神様が絶えず私に語りかけているような、実際神様の声が聞こえるような、ふとそんな気持ちになることが幾度もありました。

娘が巣だって行くことはやはり寂しいことで、気がつくと涙がこぼれていることがあるのは事実です。しかし一方、とても喜ばしいことでもあります。何しろ、この人生という、決して楽しいばかりではない、長い道のりを共に歩く伴侶が与えられたのですから。けれども、親として、若い、幼いカップルを離れて見ていると、本当に危なっかしい。些細なことで喧嘩したり、メソメソしたり。親から見るとこうすればいい、ああすればいいと教えてあげたいことが山ほどあります。できることなら行って、忠告したり、なだめたり、何かしてあげたい。そういう思いが何度も心の中に湧いてきます。

でも、それは若い2 人が望むことでもないし、本当に本人たちのためになることなのかわからない。第一、地球の反対側に居ては、実際そんなことができるわけがない。結局、直接には何もできないんだなぁと、親の無力さに、また寂しくなっていました。そんな時、その思いの中に、神様が、「私がいる。私が2 人のそばに居て良くするのだから、何も心配しないで、ただ祈っていなさい。」そう語っていました。

そして、結婚式をも用いて、主は、

「自分の力ですべて良くしようと思っても、お前には何もできない。いくら万全の準備をしたつもりでも、娘の写真1 つ思うように撮れず、自分の感情すら思いと異なるのだから。ただ、私に依り、祈りなさい。」

そのように、語ってくださいました。私の、何でも自分が頑張れば良くなる、自分が何とかしなくては、という思いの限界をお示しになり、神様の愛に頼る生き方を教えて下さっているかのようでした。

まだまだ長い残りの人生を、喜びにあふれ、しっかりと歩むうえで常に見上げて行くものは何か。娘の新しい門出に、人生の道しるべを与えられたのは、この私でした。

私の心には、次の御言葉がこだまのように響きわたっていました。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩篇46: 11)

アーメン。感謝します。

月報2015年11~12月号より