「私の証」

現在、私はスペインのジローナという地中海に面したところに住んでいます。アメリカのニュージャージーに2007年から5年半住んでいました間は、ニュージャージー日本語キリスト教会に参列させていただきました。
アメリカ勤務時代は、日本の大企業の北アメリカ拠点経営責任者をしていました。その私が、2013年4月にアメリカでの荷物をまとめ、全てを捨ててスペインに渡り、現在は、こちらのバプテスト教会の教会員です。そしてJTJ(Jesus To Japan)宣教神学校の2年生です。

一体何が私にこの変化をもたらしたのか、私の決断に至るまでの経緯、今の私の人生の目標は何かについて少しお話しさせていただきます。
アメリカでは、コンシューマ部門の経営責任者でした。日本との時差が13時間ありましたので、いつも2台のパソコン、そしてスマホ、タブレットも使い、いつでも、どこでも24時間、365日、日本の事業場、本社、そして北米のお客様とコンタクト出来るようにしていました。

ご存知のように、アメリカ、カナダは広大な面積の国ですので、アメリカにいる時は国中を飛び回り、そして日本へは5年半で50回ほどニューヨークと大阪の間を飛びました。毎朝、目を覚まして最初に考えるのは「今どこで寝ているのだろう?ホテル?飛行機の中?それとも家?」でした。

このように私の生活は、超多忙で、かつ一見すると華やかに見えましたが、華やかな外見とは別に実際心の中はかなりかけ離れてすさんでいました。数ヶ月先までスケジュールが埋まっており、毎日毎日それをこなすので精一杯で、抜け出すことができない螺旋階段を登っているようでした。

そしていつも頭の中では、同じ疑問がどこに行っても、誰と会っていてもつきまとってきました。

「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」そして「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」そして大きな目に見えない「空しさ」に何もできない自分に気づくのです。

私たちはこのような状態になることがわかっていても、人生の中で立ち止まって自分の価値が誰に対してあるのかを考えることもしません。人生の意味を考えることなどをタブー視するからです。ですからどうして良いかわからない時、空しさを覚えるのだと思います。私たちは、自分では一人で生きている、自分の考えで生きていると思いがちですが本当は自分の人生の意味を考えることを避け、みんなと同じように生きようとします。何故なら、信仰のない人にはこれらの質問には答えがなく、真っ暗な空しさは結果として不幸せを呼ぶような気がするからです。しかし、年と共に必ず、私が持ったような質問はその姿を現します。そしてその空しさはドンドン大きくなるのです。

私が学んでいる神学校の先生はいつも、「その空しさは神様だけが豊かに満たしてくれます」と言われます。

これを読まれている皆様の中にもこの「空しさ」を感じ、同じような質問、体験を持たれた方がおられると思います。もしそうであれば、それはとても良い体験をされていると思います。何故なら、皆さんも気づかないうちに神様を求めておられるからです。私は、心からお勧め致します。一回立ち止まって、「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」を考えて見ることをお勧め致します。

さて、私の体験に戻ります。

忙しい生活を続けている内に、私は健康の問題がおき、生検の結果、手術を受けるべく入院することになりました。先生によると手術はとても簡単で、一日入院でよいとのことでした。ところが、実際は、全く予想と違いました。血圧が急激に下がり、めまいがしてついには気を失ってしまいました。また、体が急速に冷たくなるのが分かりました。頭の中では「もしかしたら」と思いました。特別看護室に妻と一緒に入れられました。看護師がひっきりなしに部屋に来て血圧を測っていました。ところが、周りの緊張した雰囲気とは別に私は落ち着いていました。「久しぶりにこんなに寝たなあ。これも悪くないなあ。」などとトンチンカンなことを思っていました。しかし、だんだん頭の中で、「これから私はどうなるのだろう?」と考えていました。

その時です。身動きできない私に何か声がしたような気がしました。「もういい加減にしないか、いつまで自分の力で生きていると思っているのか?なぜ私を無視するのか?」という内容でした。意識朦朧の中でこれは夢かしら、それとも・・・・と考えました。と同時に、ヨハネによる福音書21章1ー15節に出てくるペテロの話の光景が浮かんできました。

ペテロは、キリストのために一旦は、網を捨てた人でした。彼は献身していました。そして彼は多くの弟子が離れ去っても、従い通してきました。ところが、キリストが十字架にかかるために囚われたと分かると、彼はキリストを捨てたわけです。そして、キリストの処刑前に「キリストを知らない」と3度も否定するのです。そして元の生活に戻っていたのです。彼はイエス様に対する言葉を裏切ったのです。それでも、イエス様はペテロを受け入れ、赦されたのです。そして信頼されたのです。そして、彼に福音宣教を委ねようとされたのです。「火を起こして、朝食を取りなさい」と言われた時に、ペテロは、神様の絶対的な愛、裏切り者をも愛する愛が分かったのです。

私は、会社生活の中で、洗礼を受けていながら、何回も、何回も「キリストを知らない」と言ってきました。本当に後悔し、悔い改めるべきことです。「もうそろそろ私の声を聞きなさい」と言われた時に、私も本当にイエス様の愛が分かりました。

私たちの生活では様々なことがおきます。たとえこれまで何の問題もなく生きてきた人でも、誘惑、交通事故、突然の病気、家族の不幸、失業、麻薬、依存症などがいつ起きてもおかしくないと思います。そして最後に登場するのが「死」です。
ところが、この世の中で、唯一死に打ち勝ったお方がおられます。主イエス・キリストです。そしてその方を自分の救い主として受け入れた時にこの世での死はキリストと共に天国いる永遠の命を与えてくださると聖書は言っています。

さて、退院してからも私はずっとあの時の「声」のことを考えていました。「あれは、夢だったのかしら?」「意識朦朧の中だったので明確にはわからないなあ」と思っていました。退院後、1ヶ月が過ぎ、日本の本社から電話がありました。それは、私に現在の仕事を全て退き、顧問になってほしいという内容でした。この時、私ははっきりとあの病室での「声」の主がわかったのです。主がベッドで動きの取れない、最悪の状況の私に現れたのです。私のそれまでの過去は全く意味をなさず、主が私に新しい人生のチャンスを与えてくださったのです。

神様により近づき、たとえこれから大きな試練が来ても主は私を満たしてくださる、ここに私の人生の意味があると確信しました。私は主の召命を受け入れ、献身の決意をしました。早速、私の思うところを家内、息子、そして母親に説明しました。驚いたことに彼らは、安心したように私の思いを支持してくれました。

入院から2ヶ月後には神学生になるべく申請書を提出しました。どうしても主のことをもっと学び、真理を学びたいと思ったのです。そして主を近くに感じながら、主のために働きたいと思いました。

ほぼ同タイミングで、アメリカからスペイン(私の家内の国)に荷物を送り、入院して2カ月半後にはスペインでの生活が始まりました。今は、Rosesというところにある教会に参列し、教会のために奉仕しています。また、毎日、神学校の勉強も楽しみながら励んでいます。現在の私はとても充実しています。主がいつも一緒におられることを実感しながら信仰生活を送っています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ヨハネ3章16節

月報2015年1~2月号より

「東海岸日本語教会合同ファミリーキャンプ」

キャンプから早1ヶ月が過ぎ、もう秋が駆け足で忍び寄る今日この頃です。今回は8月30日から9月1日の3日間、いつもの広大なNew York upstateにある美しい山間のホテルにて行なわれました。「まことの豊かさを求めて」というタイトルで、著名な川崎の招待キリスト教会主任牧師の趙南洙牧師から4度のメッセージをいただき、賛美は透明感と力強い声の持ち主、向日かおりさんをお招きしての至福の時間でした。
全体集会の始めの賛美は、今年は各教会の担当、大勢が主にあって心をひとつにして、賛美するのはキャンプならではの恵みです。中では2日目夜のNew York の日米合同教会によるゴスペルは聞かせる賛美で、さすがでした。
集会の合間々々には、あちこちでなつかしい他教会の仲間との再会、無事を喜び合う嬉しい会話と笑顔が飛び交いました。こんな恵みって、合同ファミリーキャンプ以外にありましょうか。
ここで私は充実したプログラムの中から、特に趙先生の説教を主に書きたいと願っています。

1.サムエル上1:17~18

初日の説教で内容に入る前に趙牧師は20代始めに韓国で苦労のうちに奥様と牧会を始められたこと、自宅のアパートで礼拝を始めたもののだれも来ず、3ヶ月たって主に“もう止めます”と泣いて訴えたら、お婆さんがひとり見えたこと。その後序々に受けた数々の大きな恵みのこと、そしてこの日の説教の締めくくりに30代で日本に宣教に行くようにとの神から召命を受け来日、今日があると締めくくられた。
祭司達によって預言書が書かれたずっと以前に、エフラムという所に住んでいたエルカナの妻、ハンナは子がないことで2番目の妻に苛められつらい日々を過ごしていたが、そのことで必死に主に男の子を授けて下さるように、授かったらその子の髪に決してカミソリを当てません、そして一生その子を主に捧げます、と祈った。傍らでハンナのこの必死の祈りを聞いていた祭司エリは、「イスラエルの神があなたの願いを聞き入れられますように。 安心して行きなさい。」と声をかけた。 その後ハンナはみるみる元気になり、やがてサムエルを授かり、彼が乳離れするのを待って、「主は私の願いを聞いて下さったので、私もこの子を神に捧げます。」と夫と共に宮に行き、主を礼拝した。
このたった2節の聖書箇所に、それまでの苦しいハンナの物語がこめられていて、サムエル記の見事なスタートになっている。 ハンナほど必死になって主に祈ることが出来るだろうか。これまでなにかを主に祈って大きな恵みをいただいた人々は,どれ程必死の祈りを捧げたのだろうか。 主に頼み祈る大切さをまざまざと見せ付けられる箇所である。

2. サムエル上 2:25~35

祭司エリが、主に罪を犯す息子たちに“何故か”と問いただすが、一向に直らない息子たち。それは確かに私達の姿。(こういう私達の為にイエスは自らを犠牲になさった。)神は我々に何度も礼拝のメッセージや、聖霊を通して必要なことを気付かせて下さろうとしている。 その神の時を見過ごしてはならない。
不良の息子達の故に決してよくはないエリの環境の中でも、サムエルは立派に神にも人にも愛される若者に成長した。 必ずしも人は環境によって左右されない。 罪のある者は今ここで神に悔い改めることが必要だ、と趙牧師は述べられる。

3.サムエル上 3:1~10

目の前に情景がはっきり浮かんでくるような、私も大好きな個所である。 わらべサムエルが神の契約の箱のある主の神殿で休んでいた時、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれ、サムエルはエリが呼んだと思って行くと呼んでない、と言う。 それが3度繰り返された時、エリはそれが神と悟り、サムエルに「今度呼ばれたら、ハイ、ここにおります、とお答えするように」と諭す。 主がサムエルに語られたことは11節以下に書かれているのだが、主のみ声を聞く、聞こえる、ということは最高の祝福である。 その後もサムエルは、神さまに見守られてすくすく成長し、やがてイスラエルの全ての人々にサムエルが主の預言者と定められたことを知らしめた。
人は上からの大きな神の助けによって恵みを受け、霊的に成長できる。大きな大きな神と小さな少年との出会い、それがイスラエルの歴史をここに変えようとしている。私達は日々全身全霊で主に祈り、聞き仕えていくことを、ここから気付かされる。

4. サムエル上 16:13~14

修養会最後の説教は、これまでから下がって16章から。 13節は、主の命によってサウルの次の指導者を求めに出たサムエルが、ベツレヘムで羊飼いをしていたダビデを探し当てた所。14節は主の霊が離れたサウルに悪霊がとりつき、苦しむサウルにダビデが得意の竪琴を聞かせて、悪霊を追い払うシーンに続く。聖霊に満ちていたサウル王が何故変わってしまったのか。それは彼自身が神に十分聞かなくなってしまった。そして祭司の役までやるようになってしまった事が原因。 一方ダビデ王も周知のように、たくさんの悪いことをしては後悔し悩み多い人生を送ったが、そんな時でも今我々が多くの詩篇にみるように、主の前に即必死で詫び、狂おしくも神に救いを求めている。
主から語られる人になるには、このダビデのように失敗したら、言い訳をせずにすぐに神に悔い改めること、そして“私からどうぞ、離れないでください”とお願いすること。 聖霊に満たされて日々生活すること、それがまことの豊かさだ、と趙牧師は纏められた。
さて新旧2巻の聖書は、全て聖霊によって書かれたものです。 だからこの膨大な神の物語は、全てが真実であり、一貫してイエス・キリストの誕生の予言と言われています。旧約は神々や英雄たちの物語、あるいは預言者達の話が主なので、どうしても筋だけを追って楽しんで終わってしまうことが多いのですが、本当の中味を理解するには聖書全般からの引用と、解き明かし、リードがどうしても必要です。
旧約からのメッセージが少ないとの意見がある中で、今回趙先生からじっくりサムエル記からの解き明かしをお聞きできて、参加者は最高の恵みをいただいて、各々帰宅できたことと確信しています。 特に趙先生のユーモアを交えたにこやかな語り口は、私達の気を削がずに引き止めておくのにも最高でした。
5,6年前までの私は、旧約をそれこそ物語として読んでいたものですが、最近は旧約の凄さを実感し、自分だけでは読めないもどかしさを感じています。そしてこれに気付いたのをわずかでも成長したと言えるならば、この私達の教会で長年に渡って、熱心に聖書の通読、勉強を指導してくださっている錦織牧師のお蔭と言わざるを得ません。 その土台が私にあって、今回の趙牧師のメッセージからより多くの恵みを受けられたのだと思います。聖霊に満たされて生活することは、常に祈り求めることから始まると思いますが、教会にいる時以外は常にこの世的な目まぐるしい状況の中にいて、時には周りとの調和に気を遣いつつ、過ごしているのが私達です。日々時間を取り分けて、静かなときを必ず持つことの必要性をしみじみ思います。 神様の御用をなさる聖霊さまの力なしには、なにもできないことを私も知っていますから。
今回この大きな群れを導くために、企画・準備からこれら修養会のすべてを導いてくださった主と牧師先生方に、心から感謝いたします。 ありがとうございました。
「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:10
「主よ、私のくちびるを開い「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:15
キリストに近ずき、探り求めた者達は皆等しく、豊かさと完全さと究極の満足とを間違いなくキリストの内に見出したのである。
(Dr. D. M. ロイドジョンズ、1947年)

月報2014年11~12月号より

「御言葉を行なう人になりなさい」

夏の大イベントであるJOY JOY Campが終わった直後にこの原稿を書いています。本当に多くの方々の祈りとご協力によって、51名の子供たちを受け入れて、神様の話をしてきました。楽しい一週間でした。元気な子供たちの笑顔に励まされた一週間でした。
その一方で、「ちゃんと私たちの伝えたいメッセージは伝わっただろうか?」という思いも持っています。今年のテーマは「ジョイジョイキングダム~地球は神様のテーマパーク」でした。神様は熱い情熱をもってこの世界を作り、私たち人間とともに歩もうとしておられて、一人一人は神様にとって大切な存在であり、また、神様に背を向けてしまった人間と、もう一度共に歩むために、一人子イエスを与え、その十字架の死によって、私たちはあがなわれたのだ、というメッセージを伝えたかったのです。
言葉としてはそれを伝えました。劇をやったり、お話をしたり、子供たちにわかるように一生懸命に伝えました。多くの方々が時間をささげ、労力をささげて、このことをしてくださいました。子供たちも一生懸命聴いてくれました。そして、中には、その内容について応答をしてくれた子供たちもいました。しかし、その一方で、私たちは、いや、もっと言うならば、私自身は、本当にそのように生きているだろうかと、問われているように思わされたのです。
中には傷を負って歩んでいる子供たちもいるかもしれません。「一人一人は神様にとって大切」と言われても、それが本当にわからない、という環境の中にいる子たちもいるかもしれません。言葉で伝えるだけでは、伝わらないし、もしも言っていることとやっていることがチグハグだったら、子供たちは本当に混乱するだろう、聖書のメッセージを伝える私たちが、その姿、態度、行動でそれを表していかないといけない、と思います。
「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」ヤコブの手紙1 章22節
このことは、決して、単に子供たち対する姿勢だけではありません。教会のあり方、また自分の人間としての生き方に関わる問題です。本当に聴くだけ、語るだけではなく、そのように生きるものとならせていただきたいと思います。

月報2014年9~10月号より

「石賀睦美先生の思い出」

ニュージャージー日本語キリスト教会に導かれて、4年目に、正木先生の後任として来てくださった石賀先生ご夫妻にお会いした時、とても親しみを覚えました。というのも、私達夫婦と年齢も同じ、特に、お二人が兵庫県の能勢から来られたことに、私の子供時代を思い出したからでした。私の父は兵庫県能勢村出身で、姓も、結婚前は能勢だったこと、子供のころ、ちかくの猪名川で遊んだ思い出などがあったからです。
石賀先生ご夫妻はNJの教会では2年間の御奉仕でしたが、御言葉の学び、祈り会など、本当に充実した楽しい2年間でした。礼拝前の睦美先生からの信仰の基礎の学びでは、信仰を持ってまだ短かった私には、本当に必要な学びでした。礼拝後、牧師館にお邪魔しては、食事まで頂いて、さぞ睦美先生も忙しかったと思います。
2年間はあっという間に過ぎて、私達ももっといて頂きたい、との願いもありましたが、帰国されることになりました。私達も日本に帰国の都度、先生が新しく始められた教会での礼拝に参加し、ご一緒に温泉に連れて行って頂いたり、先に帰国された信仰の友たちとの再会も楽しみの一つでした。
2012年の夏に、突然の睦美先生の入院、それも肺がんの末期だと聞き、本当に驚きました。教会の祈祷会でも皆さんにお願いして、祈って頂きました。そして素晴らしい癒しの奇跡を見せて頂き、どんなにうれしかったことでしょう。主の御業をあがめて、ただ感謝でした。癒されて、輝いて、ただただ主の御業を御証して日本の各地、またアメリカにも来られて元気に飛び回っておられるお姿に、これからも長く、生涯、主のために用いられる、と信じていました。
昨年の11月に4年ぶりに日本に帰り、どうしても先生ご夫妻にお会いしたく、ご自宅での礼拝に参加しました。睦美先生がお元気にメッセージされているのに、本当に主の御業を崇めて感謝しました。お元気で、輝いて、若返られたように見えました。そして、それから何ヶ月もたたないのに、再び入院、そして間もなく召された、との知らせにはただ信じ難く、何故?あの癒しは何だったの?と呆然としてしまいました。でも私達は知っています。主がなさることは最善だということを。睦美先生は命をのばされた1年余りを全力で、主の素晴らしさを伝える為に走りぬかれて、主から、「よくやった、忠実な僕よ。」と、栄光の冠を受けて、イエス様にお会いした喜びいっぱいの笑顔が目の前に浮かびます。イエス様が本当に大好きで、イエス様に喜ばれることだけを考えておられた睦美先生は、御言葉を身をもって実践された、と本当に感慨深く思わされます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたにのぞんでおられることです。」(I テサロニケ5:16~18) この御言葉をそのまま実践された睦美先生の信仰と、生き様を見せて頂きました。主に心から感謝します。病の苦しみの中でも、ただ主に信頼し、感謝と喜びで一杯だった睦美先生の言葉は、召される時も「感謝、ハレルヤ」だった、と伺いました。
私達には天国での再会の希望があります。一足先に御国に行かれた睦美先生、多くの人達に励ましを与え、また、主に信頼し切る信仰を見せてくださったことを心から感謝します。
(4月25日に主の下に召されました石賀睦美先生の思い出を、元当教会のメンバーで、今はホノルルキリスト教会で信仰を守られておられます加藤慶子姉に書いて頂きました。)

月報2014年7~8月号より

「Joy2 Camp」

「この迷路かんたんだよ!」 巨大迷路の出口から出てきた5歳のぼくは、息を弾ませながら得意そうに叫んでいたのをよく覚えている。2005年の夏、(ぼくは初めてニュージャージー日本語キリスト教会の夏のキャンプに参加した。その年のキャンプのテーマは「カラダだからだ」、人間の体についてだった。キャンプスタッフたちの寸劇やお話から、人間の体がいかに不思議かを学んだ。初参加のぼくには何もかも新しく、教会ジムに所狭しと張り巡らせられた段ボールの巨大迷路はものすごくインパクトがあった。行っても行っても出口が見えない巨大迷路。怖さをこらえながら何とか闇の中を突き進み、出口に近づいて明かりが見えてきた時は達成感でいっぱいになった。一度完走できるとあとはすっかり自信満々、その後ぼくは何回も何回も迷路を制覇した。もう一つ気に入ったのはテーマソングとダンスだ。早いテンポの曲と早い振付についていこうと必死になって踊りまくった。ぼくは、日本語で自分と年の近い子たちとともに神様のことを学べる、今までにないこのキャンプがすっかり好きになって、その年から毎年、ジョイジョイキャンプが待ち遠しい夏の一大イベントとなった。
ぼくは幼いころから教会っ子だった。母親が熱心なクリスチャンであるため、毎週日曜日、生まれた時から教会に行っていた。ぼくの通っていた教会はウェストチェスターの英語の教会だったので、当時日本語しか分からなかったぼくは、何のことを話しているのか、どんなお話なのかさえも分からないまま、ただ教会にいた。礼拝後のコーヒーアワーのおいしいクッキーが唯一の楽しみだったかもしれない。3歳になる3日前、ぼくは家族とともにニュージャージーの今住んでる町に引っ越して来た。教会も同じ町の教会に変わった。この地元の教会もまた英語の教会だったのでよく話が分からずにいたが、物心もついてきて、母親が家でいろいろ日本語で神様、イエス様、教会のことを話してくれるようになった。また小学一年生になって現地校にも行き始め、英語がだんだん分かるようになってくるにつれ、英語でも神様のことについて徐々に理解することができるようになってきた。ちょうど同じ頃、ぼくは日本語教会の存在を知った。キッズクラブやシンガーズ、ジョイジョイイースターやジョイジョイクリスマスなど日本語教会に行く機会も増えた。生まれた時から日本語環境で育ったぼくは、やはり日本語の方が得意で、楽で、楽しい。すぐさま日本語で神様のお話を聞ける日本語教会が気に入った。
ぼくが小学一年生の時のジョイジョイキャンプのテーマは「ジャングルぐるぐる探検隊」、ジャングルに隠された秘宝を探しに行くというお話だった。壁の様々なカラフルな飾りが印象的だった。教会ジムにジャングルのように青々とした木が茂り、動物の姿や手作りの洞窟もあって、まさに本物のジャングルのようだった。その年は特に工作が楽しかった。自分でブーメランを作ったり、作ったものでほかのキャンパー達と競争したりして盛り上がった。来年も絶対来る!そう思っていたが、残念ながら、その翌年と翌々年は、一時帰国などがあり参加できなかった。
その頃のぼくは、表面的にはいい子でも、本当の自分はそうではないことに気づいていて苦しんでいた。それに、いくら「ごめんなさい」と謝って心を入れ替えても、すぐに同じ間違いを繰り返してしまい全然いい子になれない自分に対して、ものすごく落ち込むことがあり、小学1年生にして死んでしまいたい、消えてしまいたいと思ってしまうこともあった。そんな中、ジョイジョイキャンプで教えてもらった「神様がぼくのそのままの存在を『高価で尊い』と思って下さっている」ことがぼくの心を支えてくれていた。英語が分かるようになっていたぼくは、英語の教会の教会学校やVBS(Vacation Bible School)を通して、また3つの日本語教会合同の2泊3日のキャンプジーザスを通して、日本で牧師をしていた祖父のバイブルクラスを通して、神様の愛とイエス様による救いを教えてもらい、ぼくが死ななければいけない代わりにイエス様が十字架で死んでくださったことを知り、イエス様をぼくの救い主として心にお迎えして2008年8月10日に洗礼を受けてクリスチャンになった。
2回目のジョイジョイキャンプ参加から3年後、2009年のキャンプにぼくは久しぶりに参加した。その年のテーマはHard Rock Caf_ならぬ「Heart Rock Caf_」だった。 テーマソングが格好良く、すごく気に入った。その年のもそれまでのも、ジョイジョイキャンプのテーマソングは全て教会オリジナルであるという事実にも初めて気づき、改めて感動した。その年は初めてキャンパーもスタッフも全員男の高学年グループに入ったので、お互いにちょっとじゃれてふざけあったり、ランチの時には誰が一番早く多く食べれるかを競争して急いでお替わりをしに行ったりもした。毎日の男クッキングは、実に楽しかった。また、ランチの後は、高学年キャンパー限定の外グラウンドでのサッカーにも行けるようになって、友達やスタッフと一緒に汗を流し、久しぶりのキャンプは前回、前々回とはまた一味違うとても楽しいキャンプとなった。
翌年はマタイ7章7節 (“Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.” Mathew 7:7) にちなんで「A.S.K.」という題で探偵のテーマで、2011年小6のぼくにとって最後のキャンプは「Joy2 Factory」だった。その頃のぼくは、高学年になり反抗期が始まっていた。口うるさい親のことも嫌ではあったが、ぼくはついつい反抗的な態度をとってしまう自分のことに嫌気がさしていた。学校での勉強も量が増え難しくなり、楽器の練習やスポーツ、日本語学習の時間のやりくりが大変でイライラすることも多くなった。それぞれに関して自分の理想や目標を掲げていたが、遊びやテレビや漫画の誘惑に負けてしまう精神的な弱さと、やりたいことがいっぱいありすぎて疲れてしまう肉体的な弱さにいつも負けてしまい、目標には程遠い自分が悲しかった。そんなふうに360日闘いの日々が続き、夏になって5日間のジョイジョイキャンプに戻ってくると、このままの自分でいいんだ、このままのぼくを神様は愛してくださっているんだという安心や平安が与えられた。落ち込んでうつむいていた自分が、神様の愛に包まれてまた顔を上げて前に進むことができる、どん底から引き戻される強い神様の愛の力、愛の支配を感じる充電の時、ジョイジョイキャンプはいつしかぼくにとってそのような、ただ楽しい時を過ごす以上の存在になっていた。
「神様はいつも、どこでも、いつまでも、そばにいてくださる」「神様がいるから大丈夫だ!」「求め続けることが大事」これがぼくがジョイジョイキャンプで学んだ、ほかのキャンパーたちにも知ってほしいことだ。キャンパーを卒業しスタッフになったが、ぼくはこれからもすべてを満たして下さる神様に心の必要を求め続け、ほかのキャンパーや愛が必要なすべての人に、ぼくがキャンプのスタッフに教えてもらったように、この神様の最強の「愛」のことを知ってもらいたいと思う。

月報2014年7~8月号より

「『中風の癒し』と救いの恵み覚え続けるために」

マルコによる福音書2章1~12節には、4人の友によって、イエス様のもとに運ばれてきた中風の者が、癒され、起きあがる記事があります。ここでイエス様は、まず「子よあなたの罪はゆるされた」と、「罪の赦しの宣言」をされました。「病よなおれ」より先に赦しでした。私は、高校生のときに、友人関係で悩み、人を心から愛せないでいる、自分の心の醜さや罪に苦しんでいました。でも、教会でこのメッセージを聞いたとき、『ここに罪を赦してくださるお方がいらっしゃる』と知ったのです。自分の力で動くこともできず、長い間の孤独と悲しみに闘う日々の中風の姿は、まるで私の心の状態と重なるようでした。イエス様の罪の赦しは、言葉だけではない、やがて十字架を背負い、罪の身代わりとなって、ご自身の命を与えるということでした。私は、イエス様の十字架が私の罪の身代わりと知り、そしてこの赦しの宣言を信じ、救いの恵みにあずかりました。こんな私を十字架にかかるほど愛してくださるお方、神様の愛に目が開かれ、解放され、大きな喜びと感謝の賛美があふれ、生きる力が湧いてきました。それは脱線した電車が、本来走るべきレールに戻され、真に自由に走れるようになったような経験でした。
またこの記事で、イエス様が癒されたのは、4人の友の「彼らの信仰を見て」と記されています。彼らが立派だからというのではなく、ただ、イエス様なら立ち上がらせてくださるという信頼でした。またその熱意は常識を超えるような愛の行動、4人が一つ思いになってもがく魂に仕える姿でした。しかし、私たち人間の愛の力は、ほんのわずかであることを、認めざろうえません。3年前、奥田先生という、ホームレスのケアーをされておられる牧師を囲んで、語り合った日のことが、私の心に残っています。「先生、でも裏切られることもありますよね。」と語りだす人がいました。愛する行為の中で疲れた姿のようでした。先生は「うん、でも・・・僕もたくさん裏切ってきたからな・・・」と語るのでした。私はその対話の中から、ペテロのことを思わされました。
ペテロが「どこまでもイエス様について行きます。」と告白しながら、イエス様が十字架にかかられる直前に3度も「イエスを知らない」と否んだ出来事、それは人間の弱さそのものです。そんなペテロが立ち直ったのは、限りなく赦してくださる、イエス様の十字架の愛の力でした。著者マルコはこのペテロと親しく、メッセージの通訳もされていたようです。ペテロの失敗談も聞いていたことでしょう。その中から「イエス様の完全な赦しと愛の力」を知り、信頼すべきお方がイエス様であることを正に伝えたかったのでしょう。「彼らの信仰を見て」と記しています。
昨年のこと、働き者で、どこへでも自転車で出かけるほど元気だった私の母は、3月に心臓病と呼吸不全で倒れ、緊急入院しました。幸いにも神様に守られ、やがて酸素も点滴も取れ、リハビリをし、1ヶ月後には退院、自宅療養となりました。姉夫婦が毎日のように母を見舞い、食べられそうな食事を作り、共に祈って、本当に良く支えてくれました。
私が5月の末に母の看病のために一時帰国した時、食事と排泄以外布団に伏す母は、今までとは全く違い、小さく、弱く見えました。姉と一緒に、時には教会に行っていた母でしたが、いろいろな理由と戦争で深く傷つき、苦労を重ねた母にとって、受洗の決心は簡単なものではありませんでした。私は母のためにひたすら祈る中、「彼らの信仰を見て」との言葉が私の心をとらえました。同じときに水郷めぐみ教会の平山牧師夫人もその言葉が心に示されたそうです。母の様子を見ながら、しかし、今のこの時を逃しては、遅すぎてはいけないのでは・・・と思い、平山牧師に訪問をお願いしました。すると以前は訪問を拒んでいた母の心が不思議と解かれ、驚いたことに、布団から這うように進み出、身を低くし牧師夫妻の導きで、病床洗礼にあずかることができました。5月29日が長い間祈っていた母の受洗日となりました。
母は、恐れや、心配から、解放されたからでしょうか、布団の中でもまるで幼子のような笑顔を見せてくれました。また、「お母さん、受洗おめでとう」「祈っています。」のお便りを頂き、多くの方に祈られていることに「ありがたいね。」と、何度も繰り返し、幸いな時を共に分かち合うこともできました。また、母は長男である兄のために祈り、久しぶりに家に戻った兄を迎えては、布団の中でもそれはそれは大きな喜び様でした。まるで「嘆きを踊りにかえてくださった。」詩編30編20節のみ言葉の約束を見たようでした。
8月に病院で検査後急変し、昏睡状態となり、姉と私は毎日泣きながら、葬儀の相談をすることもありました。その1週間後、意識を回復したものの、電話の母の声は、ろれつが回らず、全身から力を振り絞るように「が・ん・ば・る・よ」と答えが返ってきました。8月半ば、教会の皆様からのご理解とサポートを頂き、母の病院に付き添う時が与えられました。弱った母は、ゆっくりと、「イエス様・信じてるから・大丈夫。最高の人生だった。」と、ベットの中でにこっと笑みを浮かべるのでした。真夜中に「イエスさまの歌、歌ってよ」と嬉しい我がままも言ってくれました。多くの方に祈られていること、愛されていることを「あ・り・が・た・い・ね。」と何度も繰り返す母の言葉や顔は、平安そのものでした。「点滴を刺す血管ももう限界です」と告げられ、牧師夫妻の面会とお祈りを頂き、その夜には、姉と3人で賛美し祈る中、母は天に召されて行きました。イエス様の十字架が母を救い、心の傷を癒し、永遠の命を与えて、天国へと導いてくださいました。
神様の愛にそして皆様のお祈りに心から感謝致します。
月報2014年5~6月号より