2025年6月号<牧師室より>「私が神を信じるわけ」

わたしは牧師の家庭に生まれました。気がついたらそこは教会だったのです。子どもの時から神さまの存在はあたり前、毎日聖書を読んでお祈りをして、日曜日は教会に皆さんが集まり、楽しく過ごす、良くも悪くもそれが当たり前の環境の中で育ちました。

 でも、学校に行くと、そんな生活をしているのは少数派。それでも、小学校低学年の頃は日曜日には教会に来る友達もいました。でも、小学校高学年から中学に行く頃にはそんな友達も減っていき、「神なんているわけない」「神がいるならば、証明してみろ」「神がいるなら、おまえんちの教会はなんであんなにボロいんだ」なんて言われることが増えてきました。高校くらいになると、そんな意地悪な言葉だけではなく、もっと真摯な問いかけを受けるようになりました。「どうして錦織君は神さまを信じているの?ホントに信じているなら、それを説明してほしいな」とか・・・。そんな環境に揉まれる中で、私も、一度だけ、「ホントは神はいないのかもしれない・・・」と思ったことがありました。

しばらく悶々と過ごしたのですが、ちょうど新緑の頃だったと思います、何の気なしに窓から見た木々の葉に走る葉脈に、これすごいな、と思いました。そして、自分の手を見たとき、その複雑な動きに、これは偶然ではないな、神が造られたんだろうな、と思わされたのです。

つい先日、教会の方が「これ見てくださいよ」とあるテレビ番組(2025年4月27日放送 NHKスペシャル 人体III 第一集 命の源 細胞内ワンダーランド)を紹介してくださいました。人間の小さな細胞の中に本当に多くの物質があって、それがそれぞれの役割を果たして、命が支えられている、という番組でした。小さな細胞一つの中でこんなことが起こっているなんて、ホントにすごいなあと思って見ていたのですが、番組のまとめのところで、IPS細胞の山中伸弥教授が「まあ、わたしも科学者なんですが、ちょっとその、やっぱり、神がいるんじゃないかとか、そういう気持ちになってしまうこともありますね」と言っておられました。科学者の先生がそう言われるとホントに説得力ありますが、高校生の錦織少年も、まさに、その素人・超初心者バージョンの気持ちになったわけです。

そして、歳を重ねる中で、自然界の中で神を感じることが増えてきたな、と思います。

天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。
話しもせず語りもせずその声も聞こえない。
しかしその光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた。
詩篇 19篇1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ニュージャージーも6月になって外で過ごすのが楽しい季節になってきました。教会もいくつか野外での集まりがあります。

まずは、6-9月の毎月第1土曜日の朝6時半からFort LeeのRoss Dockでの、早天祈祷会。ハドソン川のほとりで、マンハッタンのスカイラインを遠くに見ながら、共に聖書を開き祈る時を持ちます。

また、6月15日(日)の午前10時からはParamusのVan Saun Parkでの野外礼拝。緑いっぱいの公園の片隅で、礼拝とランチ、レクレーションの一時を持ちます。

水と緑と動物たちと一緒に、私たちを、そしてこの世界を
造られた神さまの素晴らしさと力を賛美しましょう!

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