2025年2月23日、私は準会員としてニュージャージー日本語教会に転会致しました。そこに至るまでの神様の導きを証させていただきます。
「お父さんの母親がカトリック信者で、お母さんの両親はプロテスタントのクリスチャン。母方で数えると、私は四代目。それで、お父さんは私が中学に入る時に脱サラして牧師になったんだー。」「実家が教会だからさ。私もクリスチャンなの。教会の二階が家なんだよねぇ。」そう言うと、びっくりしながらもほぼ全員が納得した顔をしてくれるので、いつからか家族のことを聞かれると、そう答えるようになっていました。
両親は熱心に奉仕する信徒で、私は小学六年生まで埼玉県の大きな教会で育ちました。朝から夕方まで奉仕で忙しい両親を待つ間、世代や性別を問わず多くの方に可愛がってもらったことを覚えています。教会は小学校以外の大切な居場所であるのと同時に、自分が愛されていることを実感できる場所。私は教会も、神様も大好きな子供として育ちました。
中学受験を終え、晴れて第一志望のミッションスクールへの入学が決まった冬、父は私に「牧師になろうと思うんだけど・・。」と切り出しました。正直驚いたし、その言葉は具体的にどんな未来を示しているのか、当時の私には想像もできませんでした。けれども「サラリーマンとしてではなく、クリスチャンとして生きる方が父に似合っているのではないか。」そう強く思えて、「いいんじゃない?」と答えました。ふいに涙があふれて、不思議に感じたのが印象的でした。幸い祖母からの支援もあり、春からは希望の中学に進学が許され、6年間温室のような環境でぬくぬくと過ごしました。高校卒業と同じくして父も神学校を卒業し、千葉で開拓伝道を始めることとなりました。
実家=教会となった後も、両親と教会員の皆さんの優しさから「のんちゃんは礼拝に出ているだけでいい。」と甘やかされ、奉仕もろくにしなかったように思います。いえ、しませんでした。たまに、PK(牧師の子供)の方と出会い、「子供の頃から奉仕が当たり前だった。」などと聞くと、非常に恥ずかしく、肩身の狭い思いをしています。
「礼拝に出ているだけでいい。」の後には、続きがありました。「まずは神様の愛に養われなさい。心の器が愛であふれるように、今は神様に向き合い、愛を思い切り味わおう。」父の説教で繰り返し聞いた言葉は、小さな教会に浸透しているようでした。
大学に進学し、社会の荒波に揉まれ、時に味わう挫折や、様々な人との出会い。私は神様に向き合うどころか、遠く離れては泣きついてを繰り返していました。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。(詩編126:5)』私の信仰は赤ちゃんレベルも同然でしたが、神様はどんな時も私を離さず、いつの間にか涙を静かな喜びに変えて下さるお方なのだ。私は少しずつ気づき始めました。
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)』
ニュージャージー州は、私たちが子育てする4番目の地です。転勤の多い夫について、家族友人知人がいない地に引っ越すのはいつも不安です。子ども達が新しい環境になじめるのかを考えると尚更でした。しかし、東京・ロサンゼルス・神奈川のどこへ行っても、私は多くの助け手に出会い、喜びや悲しみを分かち合うことが許されてきました。それぞれの地に、神様の家族が増えていくのは何とも言えない喜びです。私は姉妹たち(※)の生き様からキリストの香りを感じています。感謝し尽くせないほど、祈り支えられてきました。そして、クリスチャンとして、新米母として、育てていただきました。
だから私は今回も「良い教会に繋がれたらきっと大丈夫。」という思いを与えられ、新居に到着してすぐの日曜日、ニュージャージー日本語教会の礼拝に出席しました。牧師先生ご夫妻・教会員の方々に温かく迎えられ、渡米直後の不安が少し晴れたのを覚えています。
ニュージャージーでの生活の中でも、神様は今までと同じように恵みを用意して下さっていました。寂しさや不安がある中でも、エッグハントのように日常の中に見つかるのです。振り返ってみればずっとそうでした。神様の愛と恵みは一度きりではなく、長い時間をかけて、私がわかる形で、私が気づくまで続いている。毎週教会に集うなかで、私の心に喜びと感謝があふれるようにと、長い間愛を注ぎ続けて下さった神様の姿に気づかされていきました。本当に『主は良いお方』です。
『しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。するとイエスは言われた。「それを、ここに持ってきなさい。』(マタイ14:17-18)」
そんな時、錦織先生の説教でこの御言葉に出会いました。長い間愛だけ注いで待っていて下さった神様が、ついに招いてくださったのだと感じました。そのときの気持ちを言葉にするのが難しいのですが、自分の心に届いた神様からのメッセージが、あまりにタイミング良く、まっすぐだったので、「はい。」と応えるのが自然でした。もしも去年どこかの教会で「準会員になりませんか?」と訊かれたとしたら、断っていたかもしれません。今が、神様の完璧なタイミングであったと確信しています。神様は、良い意味で用意周到で、本当に粋なことをされると思います。
これが、転入会しようと思い至るまでの出来事です。私が持っているものはほんの僅かですが、神様の愛に応えようと思わされています。今は、神様が用意してくださった親子クラスでの奉仕に関わることができて、とても嬉しいです。これから、教会に集う皆様と交わり、一緒に祈り、神様を賛美して過ごせたら感謝です。
(※教会では同じ信仰を持つお互いを神のもとにある家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)