今年の4月に主人と共に日本語教会に転入してから半年余り、錦織先生をはじめとして、主にある兄弟姉妹との嬉しい出会いをたくさん経験させていただきました。決して模範的なクリスチャンではありませんが、私がどのようにしてイエス様を救い主として受け入れたのかを証しさせていただきます。
私の両親は台湾人です。私には2歳年上の姉と2歳年下の弟がいます。私は次女として3人兄弟の真ん中に生まれました。私が5歳の時、家族で台湾から日本に引越しました。当時、父の兄が神奈川県の平塚市で中華料理店を経営していました。父はその縁で日本に招かれ、料理人として働くようになりました。20代だった母は、日本語が不自由ながら仕事をして、3人の幼い子供を育てました。父は仕事がら夜遅くまで帰宅せず、私たち3人が同じ公立小学校に通いはじめた頃も、顔を合わせない日も少なくありませんでした。家でも学校でも使うのは日本語だけで、中国語も台湾語も忘れました。学校では友達やクラスメートといっしょに楽しく勉強したり、遊んだり平凡な子供時代を過ごしました。ところが、私が中学1年を終えた時、家族全員で渡米することになりました。ブルックリンに在住する知人の薦めに父が独断で決めたことでした。ただ私にとっては迷惑な話しで、日本の友達とも別れ、英語もわからぬまま、現地の公立中学校に編入させられてしまいました。英語も話せず、友達もできず、大学に進学するまでの6年間は、ただ学校と家を往復するだけのつまらない毎日でした。
なぜか小さい頃から、母の愛情は学校の成績がよかった姉と弟にだけ注がれていたようです。台湾では男の子の方が女の子よりも望まれていたからでしょうか、2番目の女の子として生まれた自分は、母にとっては期待はずれのやっかい者だったのかもしれません。日本にいた時から父は仕事で忙しく、日本の生活に戸惑う母は、3人兄弟の中で一番成績が低かった私に、その鬱憤と不安に荒れた心をぶつけました。優秀な姉や弟と学校の成績を比べられ、ささいなことで叱られる毎日。私はヒステリックな母の怒りから逃れることばかり考えていました。小学校時代の自分のバイブルは少女マンガでした。「ベルサイユのばら」のオスカルに憧れ、「生徒諸君」のナッキーを目標に、正義感と友情に厚い人間を目指していました。そんな少女時代に「自分は何のために生まれてきたのか。」といつも考えていました。
ようやく高校を卒業し、私は母から離れて自立するために、看護師を目指してマンハッタンにある市立大学に進学しました。後に看護師の勤務が不規則で、おまけに夜勤まであることを知り、2年生の時に専攻を薬学に変えました。自分には看護師よりも薬剤師の方が合っていると考えたからです。姉と弟は私立の有名大学に進学しました。私は親の経済的な援助を一切受けまいと心に決め、学費の割安な市立大学に進学し、アルバイトで学費を稼ぎながら、自力で大学を卒業して薬剤師の免許を取りました。私が大学3年の時に両親はルイジアナに引越して、レストランをオープンしました。私は母と顔を合わせずにすむようになりほっとしました。そんな時、アルバイト先で今の主人と知り合いました。彼は日本から語学留学でニューヨークに来たばかりでした。大学を卒業して5年後に彼と結婚し、ニュージャージに引越しました。主人は米系の金融システム会社に就職し、私も病院の勤務に多忙な日々でした。
その頃、勤めていた病院で知り合ったフィリピン人の医者夫婦に誘われて、はじめて超教派の福音集会に参加する機会がありました。ホテルのボールルームに設置さえた会場は2000人ほどの人で埋まり、コンテンポラリーな賛美歌と聖書メッセージが続き、まるでコンサートのような雰囲気でした。メッセージの内容は、今まで思っていたキリスト教の教えよりも、ポジティブで現実的でした。そこで母との長年の確執によって、生きることの意味をずっと考えてた私の心が、伝道者の書の12章1節の言葉を捕らえました。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」自分は母ではなく、神に造られ、神に生命を与えられ、神に生かされていることを知りました。母の批判的な言葉に心傷ついていた私には、それは大きな救いであり慰めでした。同時に、母を赦せない心、姉と弟を妬む心も教えられました。それは神の愛と聖さからほど遠い自分であり、贖いきれない自分の罪でした。その罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを知った時、私はこの方を救い主として受け入れました。その後、主人といっしょに教会に集いはじめ、1993年10月に洗礼を受けました。イエス様を受け入れたとは言え、心は寛大さに欠け、人を赦すことさえ難しいのです。それでも神さまはそんな自分をありのままに受け入れ、見放すことなく、見捨てることなく、ずっと導き続けてくださいました。これからも家族といっしょに愛なる神と恵み深い救い主なるイエス様に従っていきたいと思います。
カテゴリー: 証
「この世に、命を授けて頂いてから半世紀・・・」
この世に、命を授けて頂いてから半世紀以上、そしてその半分以上をクリスチャンとして生活している私ですが、洗礼を授けて頂いたボーンアゲインの頃の、純心な主への思いは、様々な困難により、強まる様でもあり、ゆるんで行く事も、多かれ少なかれ・・・のようです。
人生は、バラ色だの、楽しむものだのと、若い頃は夢多き日々を送っておりましたが、辛い日々の方が多いのでは?でも、その中で鍛えられているのです。
両親がクリスチャンだった母ですが、クリスチャンではない父と結婚をして、その父が肝癌で亡くなる2年前に、二人はアメリカに来て、NJ日本語キリスト教会の初代牧師から洗礼を授かりました。その後、母は晩年をアメリカで私と一緒に過ごして天国へ召されました。
私には、歳の離れた3人の兄がおり、兄弟みんな東京の玉川学園で、小学部からキリスト教の礼拝を受け、賛美歌を賛美し聖書を学びながら、青春時代を過ごしておりました。
ところが私はどうした事か、高等部卒業後、友達の反対をもおしきり、大阪のPL女子短大へ進みました。寮生活で、リーダー的な立場で、異教の教えにどっぷり浸かり、なんとも、変った宗教人生の、スタートを歩んで来ました。日本人の多くの方は、色々な様々な宗教や、教育を受けられて、こんなに柔軟な考え方、教育経験を持っておられる人種は、少ないのではと思います。
そんな中で、私がクリスチャンになれたのは、アメリカに元夫と来て、息子も生まれ、贅沢な人生を送っていた時でした。そんな生活だったのですが、親離れが出来ていない、お互いの生活に危機が起こり、近所に住んでいたNJ日本語キリスト教会の方に救われました。
そこで、家族3人で、洗礼を授かり、めでたしメデタシ・・・とは終わらず・・・。
元夫も、新品クリスチャンになった頃は、日本語教会の初代牧師のカバン持ちをするなど、熱心な教会活動をしていました。でも、何が起こるか、人知では計りしれません。その後、マンハッタンの日米合同教会に移籍する事になりました。
その時も、熱心に家庭集会を開いて、近所のクリスチャンでない方も招いたり、有名な、アーサー・ホーランド先生や、森祐理さんも、家に宿泊して頂いたりした事もあるほどの、信仰に恵まれていたファミリーだったのですが、その後、離婚、息子との別離が続きました。洗礼を授かりクリスチャンになって、イエス様を主として、愛の家族として生まれ変ったはずなのに・・・今の私には、全てを善き事にして下さる神様の御業は、まだまだ先が見えません。
私の証しでつまずく方も、おられるかもしれませんが、いまだに、クリスチャンではない方とキリスト教の話をすると、「だからクリスチャンって・・・」と言われると、抵抗出来ずに、なんと頼りない不信仰な私です。
でも、試練と共に祝福もあります。カルフォルニアに住んでいる兄家族が全員、義姉とお母様、娘と新婚でコリアンの夫5人全員もが、同時にクリスチャンに、なれたのです。また日本に居る一番上の兄も、強力な母の願いで、日本で洗礼を授かりました。残るは、真ん中の兄だけですが、来年の母のメモリアルに、カルフォルニアで集合する時をチャンスにと、祈り願っております。
今年は、カルフォルニアで、NJ日本語教会の牧師が講師で、「生きる」という事をテーマにリトリートがもたれました。素晴らしいリトリートでした。日本から一番上の兄も来て本当に恵まれた集会でした。
そこで、今までアメリカ人教会と日本語教会とフタマタで、ご奉仕を両教会から避けていて、ただ、礼拝と賛美の栄光だけを、毎週頂くという、なんとも、ズウズウシイ教会生活をさせて頂いていた事を、悔い改めさせて頂きました。気が変らないうちに、すぐに、転入届けを出させて頂き、又、元の古巣へ、戻って来る事が出来ました。
このきっかけになった事の一つをご紹介します。
私の住んでいる部屋はコンドの8階にありますが、元々、母が日本から持ち込んだ家具や、荷物が満杯で身動き出来ない状態でした。ところがクーラーを直しに来た人が栓を閉め忘れるという考えられない事件が起き、ほとんどの物が水びたしになり、ダメージを受け、カーペットも全て取り外しとなりました。費用は相手の保険が殆んどカバーして下さいました。それは、母が亡くなってから、半年たってからの事でした。
多くのものを処分してガラガラになった部屋に、スペースが出来たところに、日本語教会の聖歌隊リーダーが、ルームメイトとなってくださいました。その方と行動を共にする事が増え、礼拝だけではなく、家庭集会や他の集会にも、顔を出すようになりなりました。この事も、主のご計画の一つでしたのでしょう。
色々様々な出来事を通して、主は導き又、たまには、試されるのです!
私には、「キリスト教の教えを伝える」というよりも、「イエス様の愛を感じて頂く様に伝える」方が、平安で居られます。イエス様が、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に、休みが与えられるであろう。わたしの、くびきは負いやすく、荷は軽いからである。」(マタイ11-29~30)私のために準備されたカスタムメイドのくびきは、なんと有難い事でしょう。無理する事は無い。全て疲れている人は、イエス様の所に来なさい、とも言って下さっている安心感はなんとも言えない喜びです。
再び洗礼を授けて頂いた教会に戻り、聖歌隊にも入れて頂き、新しく又生まれ変わった私のこれからの歩みは、まだまだベビーの様に危なっかしいですが、皆様の御協力を得て、一歩ずつ進歩している様ですので、宜しくお願い致します。
「地のちりにひとしかり」
今年の3月に妻と共に日本語教会に転入しました。錦織先生をはじめ、教会員の皆様に愛をもって受け入れていただき、感謝でいっぱいです。今日は私自身がどのようにして主イエス・キリストを信じ、救われ、クリスチャンとしての歩みをはじめたのかを証しさせていただきまます。
1970年、私は大阪のカトリック系ミッションスクールに進学しました。それは中高一貫の男子校で、大阪城の南、大阪冬の陣で真田幸村が徳川家康の東軍に対峙して布陣した真田山にありました。校舎の屋上には大きな聖母マリア像が建ち、そのやさしい目が校庭を見下ろしています。当時の公立の中学生の男子は丸坊主が一般的でしたが、私たちには短髪がゆるされ、大阪では「ボンボン学校」として有名でした。月に一度、全校生がステンドグラスの講堂に集められ、ミサに参加させられます。ステージに祭壇が設けられ、豪華なガウンに身を包んだ祭司が、一列に並んだ会衆の口に丸くて小さい煎餅を入れいきます。また銀のカップを高々に持ち上げるや、それを一気に飲み干します。キャンドルと香の香りに満ちたその儀式は厳粛な雰囲気に満ちていました。ただ、学校生活といえば、カトリックの教育方針のもと、厳格な校則と膨大な量の宿題に追われる多忙な毎日でした。成績は中の下、スポーツも取り立てて得意でなく、目立たない平凡な生徒でした。人前では従順で真面目な生徒を装いつつ、その心の中は、何の取り柄もない平凡すぎる自分への不満でいっぱいでした。
クラスメートは裕福な家庭に育つ「ええとこの子」ばかりでした。親が心斎橋を中心に関西割烹を数店も経営していたり、白浜の豪華なリゾートホテルを所有していたり、都銀のエリートバンカーであったり。それにひきかえ、私の父は輸出用のサングラスを生産する小さい町工場で経理として働いていました。母は自宅を洋裁店に改装して、四国や山陰地方から住み込みで上阪する若い娘たちに洋裁を教えながら、地元のおばちゃんを顧客にして洋服のリメイクやリペアで収入を得ていました。ところが、中学2年の夏ごろから、父の勤めていた会社が傾きはじめました。アメリカが電撃的に新しい金融政策を発表したのです。それはドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金を導入するというものでした。これで固定相場制が終焉し、1ドル360円の時代が終わり、ドルは暴落しました。ニクソンショックです。この円高によって、日本の輸出業者の収益が激減し、ほどなく父の勤めていた会社も倒産しました。私の学費に加え、四天王寺にある私立の仏教系スクールへ進学した妹の学費も加わり、もはや父の収入をあてにできなくなった母は、洋裁店で稼いだ資本を元手にアパート経営をはじめました。食べるに困ることはありませんでしたが、家計に余裕はありませんでした。そんな経済状況の中、親の苦労も努力も知らない世間知らずの私は、裕福な家庭環境にあるクラスメートが妬ましく、失職した父や懸命に働く母を見下しはじめていました。
中学時代は吹奏楽部でフレンチ・ホルンを吹いていました。全国大会に出場することを目指し、土日を返上して練習する毎日でした。中学2年の時に大阪大会で優勝し、有力候補と期待されながら、近畿大会では3位に終わりました。私が大事なパートで失敗したのが原因でした。先輩部員たちからは冷遇され、コンクールでの失敗に責任を感じて退部せざるを得ませんでした。その後、目標もなく、ぶらぶら暇をもてあましている時、福音集会の看板を目にしました。大阪南部の泉州にある和泉キリスト集会(プレマス・ブレザレン)が、大阪市内ではじめて開く特別伝道集会でした。それはカトリックのミサとは対照的で、小さい公民館の会議室で行われた50人ほどの集会でした。ただ、そこではじめて聞く聖書のメッセージは衝撃的でした。はじめて聖書を手にしました。読まれた聖句は創世記の1章1節でした。「はじめに神が天と地を創造された。」そこで宇宙を創造された方の存在を聞きました。自分はこの方に生かされていること。自分の人生には目的と意味があることを知りました。
もはや自分の取り柄のなさとか、クラスメートの裕福さとか、すべてがどうでもよくなりました。天地創造の神がいるという事実に心踊りました。その日から2年間、毎日聖書を読み、福音集会に通い続けました。ところが、クリスチャンとの交わりと聖書の知識が増えるに従って、神の存在に対する喜びと感動が徐々に薄れて来ました。聖い神と汚れた自分の心に大きな隔たりを感じ始めたからです。虫歯程度に考えていた自分の罪が、神の前には癌以上の深刻な問題であると教えられていきました。自分のわがままさ、自己中心、ねたみ、両親を見下す傲慢な心など、自分は神の怒り以外に何も値しない人間であることに気づきました。そこで一大決心をして、神の怒りを静めるために善行にも励みました。過去に犯した罪のリストを作成し、善行によってその罪をひとつずつ償おうとしたのです。ところが、努力すればするほど、新たな罪に気づかされ、自分の罪が累積債務のように増えていきました。
そんな重い心に沈んでいた高校時代、岐阜県高山市での二泊三日のバイブルキャンプに参加しました。それは若いクリスチャンたちが乗鞍岳の自然の中に集い、賛美あり、ゲームあり、証しありの楽しいキャンプでした。でも、私はひとり罪の重荷に押し潰されて、どんなプログラムも楽しむことができません。自分は神に嫌われている。自分はいつか神に裁かれ、神の手によって滅ぼされてしまう。もはや救いをあきらめ、疲れ果てた私は、人目を避けて、誰もいない場所を見つけて一人跪いて祈りました。「神さま、もういいです。今すぐ私を裁いてください。自分は罪だらけです。頭の上からつま先まで。もうどうにもなりません。」それは救いではなく、裁きを求める祈りでした。しかし、その祈りに対する応答はなく、しばらく静寂の時が続きました。すると自分のあわれな姿が、癒しをもとめてイエス様の足元に跪く全身をツァラトに冒された病人と重なりました。その瞬間、耳を疑うようなイエス様の言葉が心に届きました。―イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「私の心だ。清くなりなさい。」
涙がとめどなく溢れ出ました。父なる神とイエス様の思いは、私の罪に対する激しい怒りではなく、私の無力さに対する深いあわれみでした。溢れる涙を手で拭いながら、私は祈りつづけました。「こんな罪人をどのようにして清められるのですか。」次の瞬間、すべてが理解できました。「父よ。彼らをお赦しください。」これは自分を十字架に釘付けた者たちのために、イエス様が十字架で捧げられた祈りです。あの十字架の祈りこそ、私の罪を赦すためのとりなしでした。流された血潮は、私の魂を贖うための代価でした。そして、暗闇の苦しみは、私が受けるべき永遠の裁きの身代わりでした。私の悔い改めを待たず、神は赦しを用意し、惜しまずご自分の御子を犠牲にされました。赦しは神のあわれみであり、救いは神の一方的な恵みでした。心にのしかかる罪の重荷がすべて取り除かれ、平安と喜びで心がはじけそうでした。あの日から40年余りの年月が流れました。今、日本語教会に導かれ、あの日と同じ喜びと感動で主の愛を賛美できる恵みを感謝しています。
「地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ。御救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん、恵み深きイエスを。」
「何故またこのような時なのだろうか?」
何故またこのような時なのだろう か?
仕事や出張続きで忙しく、時間が 無い訳では無いのですが、物事が思ったように進まず「神様何故?」と思っている時に限ってこ のような原稿の依頼を受けました。 このまま忙しいのを理由に断ろうか、とも思いましたが、信仰が揺らいでいる(?)からこそ、神様が 「もう一度信じようと思った時の事 を思い出してごらん」とまだ地盤が緩い私に手を差し伸べてくれたのかも知れません。
私は生まれたのはスペイン・バルセロナ、育ったのはアルゼンチン・ブエノスアイレスと18 歳までずっとカトリックの国に住んでいたので、キリスト教は非常に身近なものでした。憧れのサッカー選手もピッチに入る時には十字を切っていました し、タクシーの運転手も教会の前を通る度に十字を切るのを 目にしていました。当時は「なんか格好良いなぁ」と思いながらも、自分以外の事に目を向ける事ができず結局キリストを 信じるには至りませんでしたが、健全な学生生活を日本で過ごし、社会人になりアメリカに赴任した頃に、妻と出会い、その時に再びキリスト教に出会いました。
ただ今回は憧れではありませんでした。
結婚当初、妻と意見が合わなかったりで色々と喧嘩が絶えな かった時期があったのですが、その際に妻が教会に連れて行ってくれと私に言ったのです。運転に自信が無かった彼女が喧嘩している相手である私にそこまでお願いするという事は相当に切羽詰まっているに違いない、と嫌々ながらもメイ ウッドの教会に来た事を覚えています。当時は、「中に入って しまったら二度と出して貰えなくなるのではないか?」「中に 入ったら全員が妻の味方で私は敵としてやっつけられてしま うのではないか?」と恐れ、一人駐車場で本を読みながら礼拝が終わるのを待っていた事を思い出します。
雪解けのきっかけは教会メンバー主催のバーベキューでした。 まさに花より団子なのですが、美味しいお肉につられて参加 してみると、とても面白い方々と知り合う事ができました。お 酒が進むにつれ色々な話になり、有名大学の卒業生や某宇 宙研究所の元研究員といった聡明な方々と「いかに神様は 存在せず、聖書は律法のために作られただけの書物である か」を熱く議論したりしました。酒宴は遅くまで続く事もありま したが、議論は尽きず、更には次回の議論のネタのために、 あえて聖書を開いてみたりするしまつでした。「神はわれらの 避け処 また力である。詩篇 46:1」の「さけどころ」って「酒処」 としか見えていなかった時代です。今となっては酒のツマミの 為に聖書を読んでいた、と非常に申し訳ないのですが。。。 そのような私でしたが、次第に変化が起こってきました。
クリスチャンの方々と深く関わるにつれ、非常に辛い(?)大 変(?)な思いをするようになりました。それは聖書に書かれている「生き方」を知れば知るほど、いかに自分が理想から 遠い、「なっていない人間」という事を突きつけられる事です。 もし聖書やキリスト教と出会っていなければ、神様はおろか、 隣人を愛そうともしないだろうし、まして自分を嫌う人の為に祈ろうなんて考えつきもしないと思います。しかし、それを知 ってしまったがために、自分がどれほど「嫌な奴」なのかが事 あるごとに突きつけられるようになってしまったのです。一方 で、私の身近にいるクリスチャンの方々と接していると、羨み、 憧れのような感情が出てきたのです。どのようにしたら、あの ように強く、優しく、愛に溢れて生きていけるのだろうか?答えはわかっていたのかと思いますが、それでも目を逸らし続けていました。心のどこかで、クリスチャンになったほうが大変、ならない方が良いのではないかと思っていました。
しかし、やはり私は弱い人間ですし、突っ張りながらも神様に頼り、祈らずにはいられない時が多くありました。切羽詰まっ ている時には、「この祈りが通じれば信じます」と禁断の取引 までしていました。しかも、何度もです。もちろん全ての祈り は通りませんでしたが(特に飛行機のアップグレード)、それでも多くの祈りは神様に届き、祝福を得る事ができたように思います。ただ、私はズルく、それでも色々と「言い訳」をして 約束を反故にしていました。
「門を叩けば開かれる」と聖書に書かれていますが、毎回神様へのピンポンダッシュをしていた訳です。
それでも神様は機会あるごとに、私に「勇気を出す」、つまり「信仰告白」のきっかけを与えて下さいました。
中でも最も大きなのは、妻ですが(そう書けと言われた訳で はありません)、2 番目は NJ に戻って来た事です。「それで もやっぱり神様を信じない言い訳シリーズ」の中に、まさかまた NJに仕事で戻る事は無いだろうと思って、「僕は洗礼を受 けるなら錦織先生からしか受けない」と公言していました。誤解なきよう改めて書きますが、もちろん、先生から授かりたか ったのですが、ただ、状況的には不可能なのだから洗礼は 受けれない、という言い訳でした。でも実際神様はそんな難しいと思った状況も簡単に覆されました。そして、自分が最も慣れ親しんだ教会に戻ってきて、素直に皆さんと色々な会話 をする事ができて、疑問をぶつけられたり、色々と後押しをし て頂いたり。修養会に参加するキッカケを作って頂いた妻や友人も、参加がキッカケで色々と会話・考えた事も、帰ってか ら夢で神様から直々に「さぁ、そろそろなるか!」と言われた事も。今考えれば、全て「勇気を出しなさい」「そろそろ突っ張るのはやめなさい」という優しい後押しだったのです。
今まで散々突っ張って来ましたが、それでも見放さず、愛を持って色々と与えて下さった事にしっかりと目を向けて感謝し、 自分一人の力では何一つできていなかったと、降参!と思わされました。
こうして私は「ただの罪人から、目指すべき姿を見つけてしまった罪人」に、「ただの迷い人から、行くべき場所を見つけて しまった迷い人」になったのです。
クリスチャンになってみて
すっきりしました(笑)。やっと聖餐式でまわってきていたあの 白い物体と赤い液体を味わう事ができました。初回は不謹慎ながら、乾杯までしたくらい待ち望んだ瞬間でした。また、今まではコソコソとお祈りしていましたが、堂々とお祈りできるようになりましたし、もごもごと「ァメン」と呟いていたのも、「アー メン」と言えるようになりました。
しかし、人間的にはどうなのでしょうか。変われている実感、 自信はまだ無いのが本音です。「前より輝いている」と仰ってくれる方もいらっしゃいますが、あれ?前頭部が後退?はた また脂ぎっしゅになってる?と傷つきますし、「柔らかくなって る」とか言われても、ん?顔が太ったから?お腹??とへこ みます(お腹とは裏腹に)。毎朝通勤時にアプリで聖書朗読を聴いているのですが、その後にある短いメッセージを聞きながら、歩きスマホをしている人に舌打ちしたり、タイミング的に譲れば良いのにあえて自分の歩調を緩めなかったりして、 やった瞬間に後悔しています。折角の有難いメッセージも効 果 0.1 秒しかもたない嫌な奴です。
しかし先日の上海出張の最終日の事です。朝 3 時まで仲間 と飲んでしまったのに早朝ランニングに出たのですが、そこで初めて「あーなんて素晴らしいんだろう!神様に感謝!」と 自然に出て来たのです。PM2.5 の中を前日 3 時まで飲んで走った身体の細胞が勝手にそんな事思うはずがないと思いませんか?
こういう幸せな体験が起こったり、常に拠り所(さけどころ)が ある事で思考に余裕が出て来ました。感謝できるようになりました。また、例えば仕事で偉くなりたい、もっとお金を貰いたい、みんなに誉められたい!とかしか考えられずに他人の せいにしていた事も、今はこれがご計画で、このご計画には意図がある。この中にある私の使命・役割は何なのか?と考えられるようになりました。これが出来る事で、怒る事が大分少なくなりました。もちろん稀に、怒る事が私の使命だ!と怒って後悔する事もありますが、私がどう喜ぶか、上司が喜ぶか、という単純な尺度では無く、神様が喜んでくれる私の役割は何か?を基準に動けるようになりました。これはすごく大 切な事だと思うのです。自分が与えられるものを与える。言葉にするとすごく簡単ですがとても難しい事です。しかも、人類のためにとか、地球のために、とかそんな小さな次元じゃ ありません。宇宙をも超えた、神様のためにです。
そしていつかは、かつて自分が感じたように、「あの人は何故あんな素敵なんだろう?」と、私を引きずりこんで(導いて)くださった皆様のように、神様を信じて生きていく事の素晴らし さを言葉ではなく生き様で伝えていく事ができたらと思ってい ます。
妻、そして皆様との出会いと神様の導きに感謝します。
「ヨナと私」
皆さんは、聖書の登場人物の中で、誰がご自分に一番近い、あるいは、最も共感できると思っていらっしゃいますか?私だ ったら、旧約聖書のヨナ書に出てくるヨナを選びます。あの、ニネベの町に行きなさいと主にいわれ、行きたくないと別の 船に乗ったあげく、魚に飲み込まれ、ニネベの海岸に打ち上 げられたヨナです。
私は、代々のクリスチャンホームに生まれました。日々、聖書 が開かれ、祈り、讃美歌も四つのパートで歌うそんな家庭でした。両親はお互いを深く尊敬し、私達三人兄弟の個性を尊 重しつつ、見守り育ててくれました。後に、自分が母親になり、子育ての困難にぶつかった時に、「こんな時、両親だったらど う対処しただろうか。」と思うと必ず解決策が見つかり、そのことをどんなにか、幸せに思ったことでしょう。
ただそんな中でも、私はマイペースというか、こうと決めたら、てこでも動かない所があって、幼稚園に来ていく洋服一つとっても、真冬でもズボンは嫌!というような子供でした。母は 仕方なく、私に二枚重ねのタイツをはかせ、厚手のウールでスカートを縫ってくれました。そんな様子を見て父は決まって溜息混じりに「空の鳥を見るがよい。」とマタイ 6 章の聖句を唱えるのでした。まだ世の中全体が貧しく物不足の時代でしたから、欲しいものがすべて手に入る訳ではなかったのです が、それでも「神と人とに愛されるように」との願いを持って育 てられたお蔭で、神様の存在を疑うこともなく、豊かな子供時代でした。
最初の挫折は大学受験でした。浪人に反対され、母の出身 校のキリスト教主義の学校に入れて貰いました。卒業後は、 アメリカの UCC(United Church Of Christ)の招へいでノース カロライナで一年を過ごしました。その町は大学も教会も UCC の系列で、聖歌隊で歌い、教会学校のヘルプ、チルドレ ンズホームのボランティアと、授業以外にも恵まれた毎日で した。帰国後は欧州の会社に勤務。海外との往復で、教会へ の出席は難しくなっていた頃に出会ったのが、ノンクリスチャ ンの夫で、結婚。長女出産後も仕事は続け、夫の海外駐在 を機に退職し、次女出産後サンフランシスコに赴きました。その後ニューヨークに転勤になり、SMJ(Special Ministries for Japanese:NY地区で、日本語を使う方々のためになされているクリスチャンの働き)の存在を新聞広告で知り、そこにあ った番号に電話して Fort Lee での家庭集会を教えて頂いたことが、この地でのキリスト者の交わりに加えて頂いた最初 でした。
駐在員家庭の常で、殆ど母子家庭という状況の中、私は、何とか子供達に宗教教育を、と真剣に考えていました。浄土宗 の夫に、マンハッタンの仏教会に子供達を連れて行きたいか問うたところ、返事はノー。私が教会に連れて行くならどうぞと言うので、近所の合同メソジスト教会に通い始めました。私自身も様々な学びや奉仕の機会を与えられる中で、子供達3 人が洗礼を受け、教会ファミリーの中で育てて頂けたことは何よりの喜びでした。
ここまでの道のりは、今から考えるとすべて主の導きの中、 守られて最善の道が開かれたように思えますが、その時々の私は「なんで私が?」「こんなのあり?」「もっと違う道があ ったかも?」というつぶやきを、神様、イエス様に投げかけていました。実際、別の道を歩きかけて、神様に引っ張り戻されたこともありました。また絶対無理と思うご用も、不思議にやり遂げられて、これは、もう私の力ではないと確信したことも度々ありました。
さて、最初のヨナの話に戻ります。ヨナは仕方なく、ニネベの 人達に「悔い改めなさい。さもないと神様に滅ぼされます。」 と伝え歩いたらこれが大成功、全員悔い改めてしまったので、 主が「せっかく悔い改めた人達だから助けてあげる。」とおっ しゃったとたん「それだったら、何で自分をニネベになんかに 連れて来たの?」と文句を言ったのです。私の信仰生活を振り返ると、このヨナの気持ちがよくわかって、思わず「そうそう、そうなのよねえ。」と手を握り締めたくなります。
ヨナには最初から全知全能の神の声がしっかり聞こえていま した。でも自分の力不足も知っていたし、後は神様が何とかするでしょうからという気持ちもあって、自分の意思で反対の方向に向かいます。でも神様はこの役目を果たすのはヨナ以外にないと敢えて選ばれたのです。その後のヨナの仕事ぶりは目覚しく、神様は当初の予定を変更されます。神様のご計画は、ヨナの行動次第で路線変更ありというのも嬉しく、勇気付けられる思いがします。
もうひとつ私とヨナの共通点があります。それは、ヨナが嵐の吹き荒れる海で、騒ぎをよそに熟睡し、どうも自分のせいで 船が沈みそうとわかった時に「あの~、どうぞ私を海に投げ込んで下さい。そしたら、嵐は静まりますから」と伝える時に、 恐怖よりも「神様はどこまでも自分と共に居て下さる」と疑わなかったことです。私もこの思いに同感です。夜中にふと目を 覚まし、あ、今から神様の声を聴こうと思った時、心の底から楽しい気持ちになり、神様の声が聞こえないうちに、またすっ と眠りにつくことが何度もあります。反対に、全く予期していない車の運転中に神様の声が聞こえてきて、びっくりすることも あります。人生の分岐点では、「神様、これがもし御心でなければ、何とか、邪魔を送ってそっちに行かせないようにして下 さい。」とか、「神様、本当に大事なことを忘れないように優先順位が狂ったら、突っついて下さい。」というのが多くなります。 神様は私達と繋がるライフライン(命綱)にかけた手をご自分からは決して外さない方だとわかっているからです。
私の日々の課題は、神様、イエス様の声を聞き逃さないようにする事、そして、それを実行に移す事です。お祈りが「家内 安全、無病息災、商売繁盛」にならないように、主が私に何をさせようとなさっているか、そのアサインメントを見極め、歩ん でいくことです。イエス様はあの宗教的政治的圧力の中、社会の価値、常識を覆し行動されました。私の次のニネベ行きがいつになるか分かりませんが、その時が来たら、きっとま たぶつぶつ文句を言いつつ、それでも不思議な力が湧いてきて、神様のご用が達成できますようにと願っております。
月報2017年5~6月号より
「クリスチャンの夫と結婚して」
昨年11月、私はここNJ日本語教会で受洗させて頂きました。まだまだ歩み始めたばかりのベイビークリスチャンの私ですが、私がどのように信仰に導かれたか証させて頂きたいと思います。
私が育ったのは、キリスト教とは全く縁のない家庭です。大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けるとその足で神社に初詣に行く、そんなよくある典型的な日本の家庭で、信仰というよりも日本古来の慣習を大切にしてきました。ですから、夫と知り合い、彼がクリスチャンホームで育ったクリスチャンであることを知ったときも実感がわかず、「へー、なんかかっこいいね!」と軽く受け止め、まさかこのことが自分の結婚生活に大きな影響を及ぼすとは思いもしませんでした。
そんな私が初めて教会に行ったのは、夫との結婚が決まる前後のことです。ここで、私は、大きなカルチャーショックを受けます。勝手にヨーロッパ風(?)の厳かな礼拝をイメージしていたのですが、行ってみてビックリ。想像とは正反対のポップな賛美、真剣にメッセージに聞き入り祈りを捧げる人々。まるで異世界に連れてこられた感じ。すっかり圧倒され、礼拝が終わるとドッと疲れて教会を後にしました。それでも、結婚後は転勤先の愛媛県に住むし、夫も礼拝はインターネットで見るというし、たまにお付き合いで行くぐらい別にいいかなと、特に気にせず結婚生活をスタートさせました。
しかし事態が変わったのは、長男が1歳になる頃、再び転勤で、愛媛県から夫の母教会のある神奈川県に帰ってきた時です。主人の家族と共に教会に行く機会が増え、また子供を教会に連れて行きたい夫の意向もあり、気がつくと毎週のように礼拝に参加するようになりました。初めは私も嫁として教会に顔を出し、キリスト教のことを理解したほうがいいのかなと思い、教会について行っていたのですが、「私達は神がつくって下さった。」「神が我々の罪を赦して下さった。」「私達は勝利している。」「救い」「聖霊」そういった言葉ひとつひとつに強い反発を抱くようになりました。「私を生んで育ててくれたのは神様ではなく私の両親。」「自分は決していい人間ではないけれど、神様に赦しを求めるほどの悪人でもない。」「いったい何に勝利しているというのか。」「救われなくても私は十分幸せに生きているから大丈夫。」しかし、夫だけでなく夫の家族も通っている教会で、こういったことを口にするのは彼らの信仰を否定することになる思い、私はこれらの違和感や反発心を心の中にため込んでいきました。夫の家族はいつも私を温かく迎えてくれて、一緒に過ごす時間はとても楽しいのですが、「日曜日そのまま教会も一緒に行きましょう。」となると、私の心はずどんと重くなりました。教会に行くのが当たり前の夫の家族と、教会に行くのが憂鬱でしょうがない自分との間に大きな溝を感じ、次第に私の足は教会から遠ざかっていきました。
こうして、教会には主人と子供たちが通い、私は別行動をするという日曜日がスタートしました。私が教会に行かないことについて、夫も夫の家族も責めるどころか、むしろ「なかなか無い1人の時間。少しでもリフレッシュできるといいね。」という温かい言葉をかけてくれました。これで、問題解決!かと思いきや、私の心は全く晴れません。それどころか、心の中のモヤモヤは増すばかり。確かに子育てに追われバタバタする毎日の中で、1人の時間は貴重です。でもこれは本当に自分が求めていたものなのか。夫と家族になりたくて、一緒に家庭を築きたくて結婚したのに、なぜ自分は毎週日曜日に一人で過ごしているのか。私が一緒に教会に行けばいいのだろうけれど、これ以上無理をすると私の反発心が夫や夫の家族に向いてしまいそうで、どうしても礼拝に行くことが出来ませんでした。このままでは、私がクリスチャンになる日なんて来るはずないし、夫とも一生わかりえることなんてないだろう。そんな風に諦めかけていた時、神様は全く思いもしなかった方法で、私が教会に行くきっかけをつくって下さいました。主人が転勤になり、家族でアメリカに引っ越すことになったのです。これは我が家にとって大きなサプライズでした。
海外引越しのダメージは想像以上に大きく、私はアメリカに到着した時、すっかり疲れきっていました。慣れない運転に、子供達の学校の手続きや病院探し、今まで当たり前に出来ていたこと1つ1つにつまずき落ち込み苛立ちました。また子供達が、赤ちゃんの頃から過ごしてきた町や幼馴染と離れ、誰も知らない、それどころか言葉も通じない学校に通うことを考えると、胸が痛くてしょうがありませんでした。そんな中、本当に不思議なのですが、先に渡米していた夫がすでに通っていた教会に、私も行きたい!という気持ちがむくむくと湧いてきたのです。日本ではあんなに拒否していた教会。でも、この押しつぶされそうな不安から逃れたい。まさに藁をもつかむ思いでした。夫に付き合ってあげるのではなく、嫁としてのいい顔をするためでもなく、本当に自分の意思で、心から教会に行きたいと思ったのです。この時、私が初めて教会に行ってから9年が経っていました。
初めてこちらの教会の門をくぐり、皆さんが「よく来たねー!」と笑顔で迎えてくれた時、私は心がすっと軽くなるのを感じました。今思えば、「アメリカによく来たね。」という意味だったと思うのですが、私には「教会によく来たね。」と言ってもらっているように聞こえました。神様を信じられない自分でも、私は私のままでここに居てもいいのだと思うことが出来ました。
教会やスモールグループでは、先生やクリスチャンの皆さんが、今まで私が心情的に受け入れられなかったこと、そして新生活への不安について親身に話を聞き、一緒に祈って下さいました。すると、私の中の不安やモヤモヤが消え、心が温かくなっていきました。教会に通いだしてから短い間に、様々な出会いや体験をさせて頂きましたが、中でも私に大きな影響与えたのはジョイジョイキャンプです。当初、子供達の送迎だけするつもりだったのですが、友人に「一緒にキッチンスタッフをやろう。」と誘ってもらい、急きょスタッフとして参加することになりました。暑い夏の盛り、元気いっぱいの子供達を相手にする5日間は、体力的にとても大変だと思うのですが、スタッフの皆さんが本当に心からの笑顔で、子供達を喜ばせるために楽しそうに奉仕する姿は、私にとって衝撃でした。私は自分の子供がお世話になっている小学校のPTAですら参加するのが億劫なのに、みんなを動かしているものは一体何なのだろう。みんなの信じている神様はどんなことを言っているのだろう。それが知りたくなり、私は生まれて初めて聖書を手にとりました。
聖書を読み進めていくうちに、自分の内面が少しずつ造りかえられていくのを感じました。もちろん、難しくて納得できない箇所もありました。しかし、一つ気がついたことがあります。それは、私がずっと求めても得られないと思っていた愛は、神様から頂くべきものだったということです。私は子供の頃から今まで、誰かに評価してもらうことをモチベーションに生きてきました。「音楽やスポーツが苦手な分、このテストで良い点を採ったら親はほめてくれるかな。」「良い学校に入ればみんなはスゴイといってくれるかな。」「この資格を取れば、私は自分に自信を持つことが出来るかな。」成果が出ると一瞬は満たされるけれども、また周りと自分を比較しては物足りなくなるという繰り返し。そんな生き方に疲れ、今度は「自分は頑張らないと愛してもらえないのか」、「頑張れない自分も受け入れてほしい。」そんなことを、身近にいる家族に期待しては、自分の思ったものが得られず、怒り悲しみ落ち込んできました。私はずっと、自分には罪はないと思っていたけれど、神様の存在を否定し、わが身を信じ、それによって不安定になることで、どれだけ大切な人達を振り回してきのか、それこそが私の罪であると気がつきました。
そして、ルカ5:1~11に目が留まりました。漁師だったシモンに対してイエスは「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」と言われます。それに対して、シモンは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」と答え、そのとおりにしたところ沢山の魚がとれるのです。このシモンはまるで私のようです。心を頑なにして、神様を受け入れようとしない私を、神様は思わぬサプライズでこの教会に導いてくださり、沢山の出会いや居場所を与えて下さいました。そして私にも、「もうここで網を下ろしなさい」と言っているように感じたのです。今まで9年間、教会に行ってあげているという気持ちでいた時には、どんなに素晴らしいメッセージを聞いても全く心に響いてきませんでした。しかし、心を開き、本当に自ら求めて教会に行った時、神様は聖書を通じて、また礼拝のメッセージを通じて、私に語りかけて下さるようになったのです。
「地上の平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」
(マタイによる福音書10章34節)
先日、この箇所についての先生のメッセージ(2017年2月12日「本当の平和」)を聞いた時、まるで自分のことを言われているような気持ちになりました。クリスチャンの夫に出会い結婚したことで、イエス様は、私自身の人生に、家庭生活に、また人間関係に、つるぎを投げ込まれました。そのつるぎによって、私が今まで必死にたもとうとしてきた見せかけの平和は見事に壊されました。夫とは信仰や教会のことで言い争いもしましたし、教会と関わることで自分の親に対して後ろめたい気持ちになることもありました。「夫がクリスチャンでなければ、こんなモヤモヤした気持ちを抱えながら生きなくてすんだのに。」と思うことが何度もありました。けれども、私が自ら心を開き、本当に渇き求めた時、神様は、夫がクリスチャンだから、夫の家族がクリスチャンだからではなく、私自身にむかって救いの手を差し伸べ、本当の心の平安を与えて下さいました。結婚して9年。夫とは一生わかりあえることはないだろうと諦めていましたが、わたしが神様を受け入れた時、やっと本当の家族になれた気がしました。今まで、憂鬱だった日曜日。今は一週間で一番幸せな日にかわりました。夫と出会わせてくださった神様に、心から感謝します。
月報2017年3~4月号より
妻が受洗に導かれたことへの感謝
<はじめに>
妻が受洗に導かれたことへの感謝を証させて頂きます。
<クリスチャン4世>
私はクリスチャンホームに生まれ、物心ついた時から日曜 学校に通っていました。
クリスチャンが少ない日本で、友達 と違うことに違和感を感じることもありましたが、祖父母が神棚・仏壇に手を合わせるのを見ていたため、異なる神様を信じていても家族は円満に過ごせると信じていました。小学 5 年生で受洗の恵みに導かれた後も、(思春期特有の?) 寄り道をしたり、(青年特有の?)万能感に酔ったりと、奥底にしまって置きたい記憶もありますが、神様が人生の伴走 者として守ってくれているという安心感を持って、歩んでこら れたことに感謝しています。
<結婚、避けたい話題>
妻との結婚に際し、信仰の有無が大きな障害になるとは考えていませんでした。インターネットのおかげでメッセージ を聞く時間・場所の自由度は増し、週末は家族の時間(実 際には仕事で潰れる日も多くありましたが)として新婚生活 を過ごしました。子供が生まれ、母教会に通える距離に転居してからは、子育てに追われる妻のリフレッシュと、教会に行きたい私の希望を叶えるために、子供達と私が日曜日は教会に通うスタイルも確立し、Win-Win の関係が実現できているかのように見えました。 地元のキリスト教系幼稚園に入園し教会学校にも通う息子らの口からは、次第にキリスト教的価値観が出るようにな ります。そんな息子達を見て安心する私、他方の妻は息子達が知らない考えに染まっていくことに不安を感じたり、疎外感を感じたことと思います。親の信仰と子供の信仰、葬儀やお墓のことなど、宗教にかかわる点での衝突が増えてきました。私はこの状況で妻がクリスチャンになることなど不可能だと決めつけ、祈りの課題はクリスチャンとして模範的な夫になり家族の和を保つことになりました。日常生活は上手くいっていても、信仰に関わる話題では妥協点を見出す ことが難しくなり、次第に私はその種の話題を避けたい気持ちが強くなりました。
<転機の訪れ>
海外赴任の地がアメリカだったことは家族にとってもサプ ライズでした。赴任が決まってからはバタバタで、子供の学校、家などの押し寄せる課題を夫婦で協力してこなしてきま した。しかし、教会に妻が来てくれることなど夢にも思わなか ったため、アメリカに行ってからの教会探しは秘密のミッショ ンです。折角だから、ガッチリと現地の人々と交流するのも良いと思い、家探しと並行して英語の教会を探していまし た。メイウッドの教会の存在を知ったのも自宅候補付近の教会をグーグル検索した時で、英語と日本語の教会の違いを見てみようと思う程度の気持ちで訪ねてみました。行って みると日本で通っていた教会員の縁がある教会であり、ま た皆さんの暖かい歓迎を受ける内に、私と子供で通おうと決意しました。妻を誘う勇気は持てていなかったのです。ア メリカ生活に妻が慣れるまで、日曜日の過ごし方について 話すことは避けたいという思いを抱きつつ、引越しのために日本行きフライトに乗り込みました。 息子らの友達作りという大義名分で申し込んでいた Joy Joy Camp が始まります。送迎だけお願いするつもりだった 妻がキッチンスタッフを申し出たところから神様のご計画は私に見える形で始まりました。妻は初めて家族・親族と全く 繋がりのないクリスチャンに接し、キリスト教に興味を持ち 始めてくれました。心地よい雰囲気に抱かれながら、家庭集会で出会った人・メッセージの意味を会話することが増え、 信仰について会話するときのファイティングポーズは要らな くなりました。
<妻の受洗>
妻の信仰告白は突然訪れます。結婚以来、乗り越えることの出来なかった障壁はいとも簡単に崩されました。喜び踊りたい気持ちよりも、神様が整えて下さった環境の完璧さへの驚きが上回り、「いったい今までの言い争い、そしてこの スピード展開は何なのだろう?」とポカンとしてしまいました。
「神は、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召さ れた者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ人への手紙8・28)
私が試練に遭った時、妻と信仰について意見が食い違い 途方にくれた時にも励ましてくれた御言葉です。神様を愛する方々の真ん中に我が家を移して下さり、妻が受洗に導かれたご計画を目の当たりにし、益々この御言葉への信頼が強められました。 日曜日を何となく妻に対して後ろめたい気持ちで過ごして きた日から、最も幸せな日に変えて下さったことに感謝します。
今後も家族揃って主の下で歩んで参りたいと思います。
月報2017年1~2月号より
「燃える柴のように」
私は、6月に大好きなニュージャージー日本語キリスト教 会に転入会しました。
この度はご挨拶も兼ねて、神様がい かに私の人生に関わって下さっているかをお証をする機会 を頂きました。ニューヨークに来て一年経ったこの生活を振 り返って、お証致します。
私が昨年、ピアノの勉強のためにこの地に来ることができ たのは、神様が与えて下さった奇跡でした。自分の能力や 努力ではどうすることもできなかったところに、主が働いて 下さり、明らかに道を開いて下さいました。「神様はやっぱり 凄いお方だ。この神様に信頼していけば何も怖くない!」と 実感できる奇跡だったのです。それなのに、来てからは試 練の連続で、何度も心に恐れを抱いては「大丈夫」と自分に 言い聞かせる日々でした。特にピアノの練習は不安で、競 争の激しい環境に圧倒され、思うように集中できない自分に イライラし、「本当に神様は私をここに呼んでいたのだろう か」と疑うこともあったのを思い出します。
そんな生活の中、ニュージャージー日本語キリスト教会で の毎週の礼拝は酸素吸入のようでした。賛美とメッセージ、 また皆さまの優しいお心遣いに、いつも励まされました。ど んなに沢山の心配事を抱えていても、礼拝に来ると、いつも 「神様に信頼しよう」と新たに思わされました。今も、よい教 会に導かれて本当に感謝だと痛感しています。
そうして数か月が経ち、2月から3月頭にかけて、博士課 程を受験しました。そもそもこの地で勉強をしていたのも受 験準備のためだったので、大きなプレッシャーを感じていま した。怖気づく中、イザヤ14:1「主はヤコブをあわれみ、イ スラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる」とい う御言葉に励まされ、挑みました。しかし結果は惨敗で、受 けた三つの学校どれも落ち、賛美の歌詞にもありますが、 目の前が暗くなりました。「神様、あなたが私をここに置きま した。明らかにこの道を示して下さいました。なぜですか。次 はどうしたらいいのですか。」しかし神様は何も答えて下さい ません。
次のステップは、二つの選択肢がありました。帰国する か、OPT(Optional Practical Training と言って、留学生がビ ザを延長して働くことができる制度)で残るか。そしてOPTを するのだったら、どこで働くのか:以前いたイリノイ州に戻る か、この地にとどまるか。私の中では、導かれて来たこの地 に残って、もう一度受験に挑戦したいという思いが強くあり ました。しかし、経済的にも、帰国するかイリノイに戻ったら どうか、と親は言います。どうすることもできない状況だった ので、神様に切に祈り、委ねました。すると、神様はまたも や私を憐れんで下さり、全ての必要を満たして下さいまし た。OPT の申請も全てスムーズに済み、こんな恵みは相応 しくない私に、主はもう一度チャンスを下さったのです。行先 の答えを下さらないと思っていた神様は、一歩一歩、暗闇の 中で私の手を引いて下さっていたのだと今になって気づき ます。
もう一年はここにいられるとわかり、錦織先生に転入会の お話を頂きました。とてもお世話になっているこの教会にも っと関わって何かお返しできたらという思いと、自分の信仰 の成長のためにも奉仕を通して神様の働きを拝見したいと いう思いで、喜んで転入会させて頂きました。BIG(中高生の 集まり)のスタッフ、通訳、奏楽の奉仕の機会を頂けている のは大きな恵みです。 特に BIG での奉仕は、始めることができてよかったです。 最初にこの奉仕をやってみないかと聞かれた時、とても躊 躇いました。日本の教会学校での奉仕は小さい子ども相手 だったので、高校生と接する自信がなかったのです。「この 子たちのこの大事な時期に、躓かせてしまったらどうしよう。 こんな私が高校生にお話なんてできない」と、尻込みしてい ました。でも、やった方がいい、と聖霊様に突かれる気持ち がありましたし、OPT のため時間にも余裕があったので、引 き受けました。当初の恐れも、第1コリント3:6「わたしは植 え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、 神である」という御言葉で和らぎました。大事なのは私が頑 張って何かを語ることではなく、神様がこの子たちの心に働 かれることなのだと気づかせて頂けたのです。
BIG の奉仕を通して、私自身、今のところ二つの面で変化 させられています。一つ目は、祈りです。私は自己中心的な ので、自分のことはよく祈っていました。でも、9月に教師任 命式で前に立たされた時、このままではいけない、毎日彼ら の名を挙げて祈ろうと思い立ちました。これまで、誠実に継 続して誰かの祝福を祈ったことはあまりなかったのですが、 神様がその思いを与えてくださったので、変わることができ ています。すると不思議なことに、今まで名前もあまり知ら なかった高校生達に(勝手に一方的に、ですが……)興味 が湧き、もっと関わりたいという思いが与えられました。ま た、祈りの習慣が変えられたことから、他の様々な悩みの 種も、毎朝神様の前に持っていって、委ねて平安を頂く経験 をさせて頂けています。
二つ目に変えられたのは、神様をもっと知りたいという渇 きです。ある日の BIG でリーダーから「今神様から何を頂き たいか」という質問がされました。勇気や力という答えも挙 がり、信仰と答えた子も何人かいたのを覚えています。「神 様への信仰をもっと強く持ちたい」という言葉を聞いた時、私 は「神様がどんなお方で、どれだけ信頼できる方なのか伝 えたい」という思いを与えられました。すると次に心に浮か んだのは、「私自身はどれだけ神様のことを知っているのだ ろう」という疑問です。ずっと教会に来て、聖書を読んでいた 気になっていましたが、何も知らないのだと気づかされまし た。神の属性に関する本を何冊か読み、祈り求めるうちに、 ますます神様の素晴らしさ、私の理解を超えたその深く大き な愛を思い知らされ、もっとこの方を知りたい、そして私の人 生ももっとお委ねしたいと渇きを頂くことができました。
この二つの変化は、BIG の奉仕を引き受けていなかったら 得られませんでした。そして、受験に失敗し、OPT による時 間の余裕がなかったら奉仕を引き受けることはなかったと 思います。神様は私の失敗を用いて、私の弱さを示して下 いました。さらに、失意のモーセのもとに燃える柴の中で現 れたように、主は奉仕を通してご自身を私に現してくださり、 よりすがる渇きを与えて下さったのです。まだまだ変化の過 程の中にいますが、これから神様がどのように私を導いて 下さるのか、全ての面で主に信頼して、期待しつつ歩んでい きたいです。
「すべてはキリストのためであることを知っているので、そ の『とげ』も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜ん でいます。なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。― 無力であればあるほど、それだけキリストによりすがるよう になるからです。」 (第2コリント12:10)
月報2016年11~12月号より
「The Brave教師に導かれて」
ニュージヤージー日本語キリスト教会で「主にある家族」としてお付き合いくださり、数え切れないほどの祈りと助けと励ましをくださった皆様へ、心より感謝申し上げます。
7月初めにカリフォルニアへの引越しを無事に終え、今ニュージャージーでの教会生活を振り返り、特に強く神様の導きと訓練を感じました「The Brave (教会学校)」の教師というご奉仕についてお証しさせていただきます。
「受けるより与えるほうが幸いです。」(使徒行伝20章35節)このみ言葉に励まされ、2009年の9月からThe Brave教師の奉仕に立ちました。しかし当初は、私の中に教師としての「自信」などは全くなく、聖書のお話やみ言葉の意味をどのように子供たちに伝えたらよいのか、毎回悩みの連続でした。
聖書の中に、イエス様のもとに5千人が集まるシーンがあります。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と問うイエス様に対し「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と答えた弟子の言葉はそのまま私のつぶやきでした。「この小きき者に一体何ができますか?」と。このような信仰が浅かった私に対しても、主は「それをここに持ってきなさい」(マタイ14章18節)と言われ、忍耐強く私を導いてくださいました。
月1回のThe Brave&BIG教師のミーティングである「教師会」に集い初めた頃を思い出します。みことばシェア(お証)、祈りの時、カリキュラム確認と続き、子供達のための様々なイベントについて毎回真剣に話し合い、神様の導きを求めつつ、意見を交わす、その確立した体制や熱意ある先生達の祈りに「教会の子供達は実に恵まれている」と感心したことを覚えています。
教会学校の教師がひたすら祈ることは、教会へ来ている子供達が神様の普遍の愛—無限であり無償でいただける、優しくて強い「神の愛」を知ることです。聖書にはこう書かれています。
「愛は神から出ているのです。…私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 (第一ヨハネ4章7—10節)
さらに現代の複雑な社会の中で、思春期の子供達が不安・混乱・矛盾、心の葛藤などを経験していく時にも、神様に依り頼み、善悪を見極めて誘惑をはねのける力、問題を解決していく力、希望を失わず生きる力が神様から与えられていくことです。
「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4章22-23節)
この「いのちの泉」とは、決して渇くことのない水があふれる所ですが、ある日ふと「教師会」が私にとっての「いのちの泉が湧く所」になっていることに気付きました。毎日3歳と5歳の子供の世話で忙しくしていた私に「教会学校教師」という奉仕が与えられたのは、実は「神の前に静まり、祈りの時を持ちなさい」との主の招きだったのです。聖書を開き、み言葉に親しみ、心を一つにして祈り合うことこそ、当時の私にとって必要なことでした。主を身近に感じながら、私はいつも平安を得ることができました。
教会学校では一年を通して様々な活動があります。毎週日曜日のThe Braveの礼拝に加え、主の復活を祝うJoy Joy イースター、主の御降誕を祝うJoy Joy クリスマス、夏の一大イベントであるJoy Joy キャンプ etc…。これらを担っていくため、プログラムを組み、準備に時間を割き、人々に仕えていく、それはまた自分を犠牲にすることでもあります。体と心が疲れた時に、繰り返し私の心に響いていたのは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)というみ言葉でした。
そしてこのみ言葉は、ニュージャージーの教会での最後の礼拝で我が家の子供達が洗礼を授かった瞬間に成就したのです!同時にこの洗礼の恵みは「奇跡」でもあります。子供達の「神様の子とされて歩みたい」「錦織先生から洗礼を受けたい」との思いが現実にされたからです。一年前にも6ヶ月前にもこのようなことは考えられませんでした。今、子供達の心の中に確かに教会で培われた神様の愛、聖書の一つ一つのお話やみ言葉、神様の子供とされた喜びが着実に育っています。錦織先生、教師の皆様、教会の皆様の愛とお祈りに深く感謝するとともに、主が与えてくださった恵み、み言葉の確かさを覚え、救い主、主をほめ讃えます。
「教会学校の教師」という重荷を用いて、主は確かに私の霊性を整え、信仰を鍛え、教会に来る子供達への愛情を増してくださいました。そして子供達の中にある純粋さ、素直さをみるたびにいつも心に語られたのは、イエス様のこのみ言葉でした。
『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』 (マタイ 19章14節)
月報2016年9~10月号より
「苦しみを祝福に変えてくださる神様」
2010年、私の結婚生活は夫の実家で義母と一緒にスタートしました。
結婚という未知の生活、慣れない土地、義母との同居、様々な不安がありましたが、そこに至る経緯に不思議な出来事が重なっていたことに神様の導きを感じ、祈り、決断してのスタートでした。
しかし、数カ月後、義母と大きな衝突が起きました。それからは義母の意に反することが何よりも恐ろしく、常に義母が何をしたら怒るかばかりを考えるようになりました。今振り返ると、夫とも家族になりきれておらず、お互いの信頼関係もなかった中で、私にとって義母の存在は絶対に逆らえない重圧でした。小学校1年生の時に父を亡くした夫にとって、女手一つで一生懸命育ててくれた義母がどれ程影響力があるかを考えると、私たちの結婚を壊せる恐ろしい存在に思えたからです。義母から言われた言葉が頭から離れず、夜も眠れず、食事も喉を通らず、嘔吐する中で、「自分を認めてもらうためには『一点の非もない人間』でならなければならない」「ふさわしい嫁にならなければ」と思い込み、夫に自分の弱さを相談することもできず、家にはなるべく遅く帰るために残業をしたり、駅や近くの公園で夫の帰りを待ったりする日もありました。徐々に心の中で義母に対する不信感が芽生え、義母の粗探しをすることで義母が非難したものを正当化するようになりました。すでに心に愛や平安はなく、恐れと憎しみで渇ききっていました。義母から解放されることだけが私の希望であり、そのためには離婚すら考えるようになりました。
結婚から1年、夫と2人で夫の実家を出て新居に引っ越しました。義母から絶縁され、私は完全に教会に行けないと思いました。夫から義母を奪ってしまった私が、自分だけ自分の実家の家族が集まる教会に行くなんてできない、義母と良い関係を築けなかった私がクリスチャンとして夫に証なんてできないという思い、そして、私がいない間に義母が夫を離婚するようにと説得したら…夫が実家に帰ってしまったら…という恐怖心から私は教会と自分の実家の家族から離れ、仕事以外のほとんど全ての時間を夫と過ごすようになりました。
しかし、離れれば解放されると思っていたのに、優しく思いやりのある夫の姿に義母に対する感謝が起こり、夫のしぐさや口癖に義母の影響を感じて嫌悪感が起こり、義母の言葉を思い出して許せない気持ちが再燃し、最愛の息子に会えず寂しく暮らしているであろう義母を想像して涙し、どんなに蓋をしたりコントロールしようとしても義母を思わない日は一日もなく、むしろ自分の汚い泥沼の感情の中でもがき苦しみ続けました。
そんな中で、私は生まれて初めて心の底から神様を求めるようになりました。考えてみたら、それまでの私は受動態の信仰でした。クリスチャンの両親のもとに生まれ、物心つく前から教会に通い、小学校6年生で受洗し、中高はミッションスクールに通い、必要な御言葉、メッセージは常に求める前から与えられてきました。祈りに応えてくださる神様が大好きで、イエス様も聖霊様も信じていました。しかし、どうにもならない自分の醜い感情、弱さ、愛のなさを嫌というほど思い知らされ、それでもなお自分を正当化しないと生きていられないような苦しみの中で、言葉にならない言葉で神様を求めました。初めて自分から「生きる指針」を探し、神様とのつながり、神様の御心、聖書をもっと知りたいと願うようになり、ネット配信されている中川健一先生の「ハーベストタイム」を聞くようになりました。毎日の通勤や帰宅後、ひたすら創世記、出エジプト記、ローマ人への手紙、福音書の講解メッセージ(毎回一章ずつ順番に解説するもの)を聞き続けました。それまで知ってるつもりになっていた聖書への理解が全く変わっていきました。
別居から2年後、義母との交流が再開し、その半年後に夫の転勤でNYに引っ越し、NJ日本語キリスト教会に導かれました。礼拝堂に入った瞬間、初めての教会なのに、何とも言えない懐かしさ、喜びが溢れました。ほぼ4年ぶりの牧師先生の生の説教、賛美、クリスチャンの方々との交わり、全てが嬉しくて感謝と感動で心が震え、「帰ってきた…」と感じました。しかもずっと願っていた夫と一緒に。それから1年、素晴らしい主にある家族との交わり、先生を通して必要なメッセージを語ってくださる神様のもと、感謝に溢れる毎日を過ごさせて頂いています。
先月、義母をNYに迎えました。約2週間の滞在でしたが、義母に遊びに来てもらおうと提案したものの、日が迫るにつれ過去の記憶がよみがえり、不安になっていた私に、「好きは感情、愛は行動」「好きという感情は持てなくても、愛するという行動はできる」とメッセージ(2016年2月28日「敵意を超える生き方」)を与えてくださり、「愛をもってお義母さんと接することができますように」と祈りました。義母と一緒に過ごす中で、ふと義母の背中の小ささに気づかされました。驚きました。私にとって義母は絶対に動かすことができない大きな大きな存在だったからです。義母の手の白さに「あぁ、この手で一生懸命夫を育ててくれたんだ」と胸が熱くなり、過去のことも「義母も必死だったんだ」と分かった瞬間、慣れない外国で驚いたり喜んだりしている義母の笑顔が愛しくなり、「夫の」ではなく「私の」母と思うことができたのです。「何事もなく無事に」と願っていた母の帰国日は、母への愛情と寂しさと神様への感謝で涙が溢れました。神様は私の人生最大の奇跡、私の心に義母に対する愛情を与えてくださったのです。
夫の実家を出たあの日、こんな日が来るなんて誰が想像できたでしょうか。あの頃、夜中に起きては聖書を開き、「神様なぜですか」と泣きながら問い続けました。「何かの報いでしょうか」「神様は本当に今も私の側にいてくだるのでしょうか」と。
今回、この証を書きながら、あの頃の苦しみが今の私への祝福だったと分かりました。
義母、実家族との遮断を通して、私自身も精神的に「父母を離れ」、夫にどんなことも相談し、強い絆と信頼関係をもった夫婦になれました。夫を失いたくない一心でしたが、夫を愛し、夫に仕えることを学びました。何より、義母とのことで自分の中の悪、どうにもならないに醜さ、弱さ、渇きを知りました。「罪を犯すから罪人」ではなく「罪人だから罪を犯す」とメッセージで聞いた時、まさに自分の事だと胸に衝撃が走りました。イエス様がゲッセマネで血の汗を流されたほど恐れた“父なる神との断絶”は、本当は私が永遠に味わうはずの恐怖だったのだと気が付き、心から悔い改め、イエス様の十字架に感謝し涙が溢れました。
「同居さえしなければ」「私がもっと違ってたら」「結婚しなければ」…「たられば」で頭がいっぱいだった長い年月の一つ一つ、全て何も欠けては成り立たない神様のご計画でした。義母とのことがあったから、自分の罪を知りました。神様を求め聖書を学びました。教会に行けなかったから、教会に集える喜びを知りました。結婚したから、夫との愛を通して神様の愛が分かるようになりました。本当の平安は、復讐や憎しみからは得られない、また、自分の努力でも得られない、神様からの愛だけが苦しい心に平安を与えるのだと心から信じることができました。
『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』(伝道者の書3章11節)
神様が私にどのような未来を準備されているか私はまだ知りません。より大きな困難があるかもしれません。より長い時間苦しみの中を通るかもしれません。けれど、どんな困難な時も、満たされている時も、どんな時も神様に喜ばれる生き方を選ぶ知恵と勇気が与えられますよう、神様を信頼して希望をもって進んでいけますよう、祈りつつ生きていきたいです。
月報2016年7~8月号より
「私の人生が変えられた理由」
私は、幼いときから誰よりもこの自分を知りたいという強い願いがありました。一生懸命勉強をしたら、いずれかこの願望が叶うと信じていましたし、その為努力を一杯積んできました。だから、大きくなってから、私は生命科学の道を選びました。
それと同時に、自分も自然に幸せになれると思っておりました。
しかし、その考えに大きな落とし穴があると言う事に最初に気づいたのは、大学にいた頃、私の同級生が一時成績が最良でなかっただけの理由で、自殺をした事でした。
自分をを知るため勉強をしたのに、なぜその途中で自分を死に追い込まなければならないのか。それは、幸せを感じなかったではないのか。
そう思いながら、私は、そもそも幸せが何かを、考え始めたのです。
自分の肉体のことをいくら知っても、心が幸せじゃなければ、それは自分が自分を知るということにはなってない。
卒業の後、私は臨床と研究とビジネスの道を歩み、二十年を過ぎました。その間も、自分自身も色々な人生の難関に出会いました。
心の安らぎを求める為、私は一時期いろんな“心豊かな“人と友達になり、そして成功した人が書いた書物も一杯読みました。心の教養レベルがこれで上がると信じたわけです。
名声ということに興味が沸いた時があります。他の人たちの“リーダー”となって有名になることさえできれば、心豊かな有意義な人生を送れるのではないかと思ったのです。その名声というのは、なにも学問とか能力とかにこだわらなくてもいいと思ってました。
それに大きな疑問をかけたのは、去年夏ごろ故郷中国上海に帰ってからでした。その時、私は昔の中学校の同級生達の同窓会を参加しました。気づいて悲しくなったのは、彼らの多くが、自分が他人より優れてることに凄くこだわっている事でした。彼らは、ひたすら自分がどれだけ裕福なのか、どれだけ事業に成功してるのか、どれだけ会社で高い位置についてるのかを見せびらかし、他の人たちの“リーダー”になりたがってました。彼らは、明らかに、高度発展の社会の悪の誘惑に負けたのです。人間性は生まれながら弱い、それに抵抗するために高い霊性を持たなければならないと私はその場でふっと思ったのでした。
アメリカで、私の以前からの親友にこの感想を持ち出して話したところ、クリスチャンであるその方からクリスチャンへの信仰を勧められました。今までの十年間、私は以前も何度も行ったり行かなかったりクリスチャンの礼拝に参加した事もありましたが、この時はじめてイエス・キリストを信じる決意をしました。『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』(詩篇119:105)
人間はみな弱みを持ってます。その弱みを克服するためには、肉体と心を知るだけでは足りません。信仰によって、より高い霊性を養わなければいけません。その霊性とともに、自分を愛し、そして他人も愛する。それは、まさに、イエス・キリスト自身の歩みではないでしょうか。。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで心理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。』(コリント人への第一の手紙13:4-7)
主イエス様。私はあなたを必要としています。あなたが私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。私の罪を赦し、私を清めてくださったことを感謝します。私は今あなたを、私の救い主、人生の主としてお迎えいたします。私の人生を導き、私をあなたが望んでおられるようなものに変えてください。アーメン。
月報2016年3~4月号より
ランディ・ホンゴー牧師による証
今回の証は、私たちの教会を東海岸の母教会と呼んで懇意にしてくださっているChristian Visionのランディ・ホンゴー先生が書いてくださいました。
(http://www.rghongo.com)
私は1947年7月1日、ハワイのビッグアイランドと言われるハワイ島のヒロという町で生まれました。私の父は日系人で、母はハワイ人と中国人のハーフでした。2歳下にルツという妹がいます。両親はランの栽培をしていました。私は子供の頃は農園で花を摘む手伝いをしていました。大きくなって車の運転ができるようになると、私はランを花屋に届けたり、世界中に出荷するために、空港まで配達したりしていました。私の両親は、ずっと、私が家の仕事を継ぐことを期待していました。
しかし、ハイスクールの時に、私はクリスチャンになり、人生が変わりました。私はユース・フォー・クライストというクリスチャンクラブに参加するようになり、そこで、クリスチャンの友達がどのように信仰を持つようになったのかという証しを聞いたのです。初めて聖書を読みました。クリスチャンの賛美歌を知りました。4ヶ月その集まりに通ううちに、私はイエスがどんなに私のことを愛してくださっているかを知りました。イエスを私の個人的な主、救い主として受け入れる準備ができたのです。そして、1963年12月22日、私はイエスを受け入れました。
それから、私は神様に、自分にどんな仕事をして欲しいと思っておられるか、見せてください、と祈るようになりました。私は10歳からピアノを始めていましたが、ピアノを弾くのが大好きでした。また文章を書くのも好きでした。ですから、私は神様に祈りました。「私は家を継いでランの農園をすべきでしょうか?それとも、英語の教師でしょうか?それとも、音楽の教師でしょうか?」
1965年にハイスクールを卒業すると、私はオアフ島に出てきました。ホノルルのハワイ大学に入学したのです。私は英語の先生になろうと英語を勉強することにしました。でも、私は音楽が大好きだったので、音楽のクラスも取りました。その音楽のクラスでキュートな女の子に会いました。彼女の名前はゲイ・シンサトといいました。彼女と私は最初は良い友達となり、やがて恋に落ちたのです。
ゲイはとても美しい歌声をしていました。そして、時々は私も一緒に歌を歌いました。それまでの私はシンガーというよりもピアニストでしたが、彼女と一緒に歌うことによって、シンガーとしても上達したようです。彼女は私に会う前の年にクリスチャンになっていました。彼女は私を教会に誘ってくれました。私は他の島からやってきたので、ホノルルの教会については何も知らなかったのです。ゲイのおかげで、私はカリヒ・ユニオン・チャーチに通い始めました。
英語で学位を取って、私は大学を卒業しました。卒業してすぐ、ゴスペルを歌うチームの一員として、アメリカ本土に招かれて、1年間、アメリカ中を回りました。そして、ハワイに帰って、1971年7月31日にゲイと結婚しました。
結婚する頃には、ゲイと私はチームとして、自分たちの教会や他の教会でも、一緒に歌うようになっていました。ゲイはハイスクールで音楽を教え、私は小学校の4年生を教え始めました。そんな時、神様は、私に音楽の仕事をするようにと語り始められたのです。3年ののち、1975年に私たちはケンタッキーのルイビルに引っ越しました。そこで神学校に通い、教会音楽の修士号を取るためです。このころの私の計画はハワイの教会で音楽主事として働くということでした。このルイビルで1978年の4月3日に息子のアンドリューが生まれました。ルイビルでは多くのバプテスト教会が私たちを招いてくださって、賛美の歌を歌うチャンスを与えてくれました。この期間は、ハワイの文化や音楽、そして、クリスチャンとしての証しを分かち合う働きを始めるための準備の時として、神様が私たちを訓練してくださる時だったのだと思います。
私たちは1980年にハワイに戻りました。そして、カリヒ・ユニオン・チャーチで音楽主事として働き始めました。同時に、いくつもの教会から「歌って欲しい」との依頼が入るようになりました。私たちは神様の導きを感じて、1982年に教会の音楽主事の職を辞し、独立して「Christian Vision」という団体を作って働きを始めることにしました。それから、Christian Visionを通して、ハワイや、アメリカ各地、そして全世界で、音楽を通して神様の良き知らせを伝える働きをさせていただいてきました。ゲイの故郷である日本では24回、そして、他にも、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、ブラジル、ドイツ、オーストリア、スイス、イングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダなど各地を回って、コンサートをさせていただきました。19枚のCDを出しました。1998年にはアメリカの大統領のお招きをいただいて、朝食祈祷会で賛美をさせていただきました。神様は神様のための私たちの音楽の働きを豊かに祝福してくださったのです。
2011年に、私は多発性骨髄腫という、血液のガンと診断されました。私たち家族は2011年12月からしばらく南カルフォルニアに滞在することになりました。それは、私がシティー・オブ・ホープがん研究センターで治療を受けるためにです。そこで5ヶ月間のキモ・セラピーを受けた後、2012年7月に幹細胞移植を受けました。2012年8月の末にはハワイに戻り、そして、2014年の11月に私のがんの担当医はガンが寛解していると診断を下しました。神様が癒してくださったのです。ハレルヤ!
しかし、ガンの治療を受けている間に、私の腎臓はダメージを受けて、人工透析を始めなければなりませんでした。また、2014年の6月には中程度の心筋梗塞を起こしました。その後、心臓は強められていますが、休息は必要ですし、スケジュールもあまり忙しくならないように気をつけています。コンサートは続けていますが、休息のために十分な時間を取らなければならなくなっています。
今、私は健康について多くの戦いを感じています。しかし、神様が私を強めてくださって、続けて神様を愛し、神様に仕えることができるようにしてくださっています。私は、日々、私のことを心にかけてくださり、私に目をとめてくださっている神様に感謝しています。私は、日々、イザヤ書41:10のみ言葉に立たせていただいています。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」
私の人生の中で、健康な時も病の時も、神様はいつも私と一緒におられました。
神様は、高校生だった私にご自身を示してくださって、私はクリスチャンになりました。
神様は私のところに美しい日本人の女性を連れてきて、今日まで44年間連れ添う私の妻として与えてくださいました。
神様は私に、今はニューヨークに住んでいる素晴らしい息子アンディーを与えてくださいました。
神様は私の人生の仕事は神様のために音楽の働きをすることだと示してくださいました。
神様は私に世界に広がる音楽の働きを与えてくださいました。
神様は私にたくさんの歌を書かせ、たくさんのCDを録音させてくださいました。
そして、私の病の時には、私を支え、強くし、神様が私を愛してくださっていること、心にかけてくださっていることを示してくださいました。
神様が与えてくださった素晴らしい人生のゆえに、また神様がしてくださったすべてのことのゆえに、私は神様をほめたたえます。私は命の日の限り神様を賛美する歌を歌い続けます。
月報2016年1~2月号より
「先日、娘が結婚しました。…」
先日、娘が結婚しました。
10 歳のころから、教会に、教会の皆さんに、いえ神様に育てていただいた一人娘です。本当に、神様に出会っていなかったらどうなっていたかと思うと、この不思議なご計画に、ただ、ただ感謝です。
「絶対泣くよ」、「大泣きだよ」、「大きなタオル持って出席しないと」、などという皆さんの暖かい?お言葉に送られて、日本での結婚式に臨みました。日頃から涙もろい私は、自分でもきっと涙が止まらないだろう、号泣しちゃうかもしれないな、でもこの日ばかりは許してもらおう、と覚悟していました。
式を明日に控えた前日、家族で夕食を共にしました。食事の前のお祈りで、娘を神様から与えられたことに感謝しようと口を開いた途端に、今までのすべてのシーンが、頭の中に次々に現れてきて、涙が噴き出し嗚咽で口がきけなくなっ
てしまいました。家族から(娘からも)笑いがこぼれる中、何とか感謝とアーメンを言うことができました。明日はどうなることか、、、でも、仕方ないよね、という感動の一夜を過ごしました。
さて、いよいよ当日。おとなしく花嫁の父を演じていては、ただのむさくるしい涙ジィさんになってしまうことは容易に想像がつきましたので、趣味を生かし、カメラマンをやることにしました。「花嫁の父がカメラマンするのぉ?」という周囲の声もありましたが、何かに集中していないと、やっぱり泣いちゃうような気がして・・・・それに、赤ん坊のころから何千枚も撮り続けた娘の写真を今日撮らないでどうする、という思いがありました。従って、準備には気合が入っていました。優しい奥様の許可を得て、ちょっといいカメラと高級レンズを購入。いつもは持たない予備の電池もアマゾンで購入。新しいカメラには修養会のカメラマンで慣れ、準備万端でした。何しろ私にしてみれば、今までの思いの集大成とも言える「時」なのですから。
式が始まり、目頭が熱くなって前がよく見えなくなること数回。やっと花嫁の父役から解放され、モーニング姿のカメラマン登場です。ファインダーの中で、娘の花嫁姿と赤ん坊の頃の娘の姿が重なり、夢中でシャッターを押し続けました。前半快調に撮ったおかげで、アマゾンの安い電池は早くもアラーム点灯。やっぱり予備があってよかったねと、電池を換えようと思った瞬間、背筋がゾォ?っとして、心臓バクバク。「予備電池失くした!!」なに?っ!!これからいい所なのに・・・新郎新婦入場は?ケーキカットは?家族の集合写真は?
「何のために、カメラ買ったんだ??っ!」
結局、しばらくして、失くした電池が見つかり、モーニングカメラマンは復帰したのですが、その間の写真は数枚しかないということになってしまいました。
そして、その日最後のクライマックスシーン。花束贈呈の後、私が両家を代表してご挨拶をすることになっていました。私の筋書きでは、この時点で、持参したタオルはグチャグチャで、泣きはらした目で感動的な挨拶をする予定でした。もちろん、そういう状況下でのスピーチの原稿は、誰にも言っていませんが、頭の中で何度も練習していました。ところが、、、、
この時まで、不思議なことに全然泣いていないんです。私の心の中の原稿は、自分でも良い話だと自負していたのですが、泣いてないと話せない内容でした。急遽、スピーチの内容変更。泣いてもいないのに、しどろもどろのご挨拶にな
ってしまいました。
実は、少し前から、娘の結婚が近づくにつれ、神様が絶えず私に語りかけているような、実際神様の声が聞こえるような、ふとそんな気持ちになることが幾度もありました。
娘が巣だって行くことはやはり寂しいことで、気がつくと涙がこぼれていることがあるのは事実です。しかし一方、とても喜ばしいことでもあります。何しろ、この人生という、決して楽しいばかりではない、長い道のりを共に歩く伴侶が与えられたのですから。けれども、親として、若い、幼いカップルを離れて見ていると、本当に危なっかしい。些細なことで喧嘩したり、メソメソしたり。親から見るとこうすればいい、ああすればいいと教えてあげたいことが山ほどあります。できることなら行って、忠告したり、なだめたり、何かしてあげたい。そういう思いが何度も心の中に湧いてきます。
でも、それは若い2 人が望むことでもないし、本当に本人たちのためになることなのかわからない。第一、地球の反対側に居ては、実際そんなことができるわけがない。結局、直接には何もできないんだなぁと、親の無力さに、また寂しくなっていました。そんな時、その思いの中に、神様が、「私がいる。私が2 人のそばに居て良くするのだから、何も心配しないで、ただ祈っていなさい。」そう語っていました。
そして、結婚式をも用いて、主は、
「自分の力ですべて良くしようと思っても、お前には何もできない。いくら万全の準備をしたつもりでも、娘の写真1 つ思うように撮れず、自分の感情すら思いと異なるのだから。ただ、私に依り、祈りなさい。」
そのように、語ってくださいました。私の、何でも自分が頑張れば良くなる、自分が何とかしなくては、という思いの限界をお示しになり、神様の愛に頼る生き方を教えて下さっているかのようでした。
まだまだ長い残りの人生を、喜びにあふれ、しっかりと歩むうえで常に見上げて行くものは何か。娘の新しい門出に、人生の道しるべを与えられたのは、この私でした。
私の心には、次の御言葉がこだまのように響きわたっていました。
「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩篇46: 11)
アーメン。感謝します。
月報2015年11~12月号より
「私の生まれた地は、現在のロシア…」
私の生まれた地は、現在のロシアのサハリン(旧樺太、戦前は日本の領土)です。戦後、昭和23年11月に日本人として最後となった船で、親戚を頼りに大家族11人と共に引き揚げて、北海道紋別郡生田原町に落ち着きました。数年後、奇しい出来事が起こり、岩見沢市郊外に住み、小学から高校まで過ごしました。やがて、社会人として札幌に移り、数年後には結婚、長女出産、その後、室蘭市に仕事の関係で移り住みました。
ある日、近くで開拓伝道をしておられたスウェーデンミッション白鳥台キリスト教会のアナニア・トシエル宣教師が訪ねて来られ、一枚のトラクトを渡されました。以前、中学校で歴史の教科書で学んだキリスト教は、「自由、平等、博愛」の精神が根底に流れていると感じていて、宗教は嫌い、私には必要無いと常に思っていた私の心にその時何かが響いたような気がして、直ぐに祈祷会に出席し、礼拝へと導かれました。また、吸い込まれるように聖書をむさぼり、通読する日が続くようになりました。礼拝とは云っても、トシエル師と若い女性の伝道師と私の三人だけでしたが、私にとって恵みの時、救いの時だったと、後になり神様のご計画であったことを主から知らされました。間もなく、聖書の冒頭にある「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1-2」という御言葉に圧倒され、神様に捕らえられてしまいました。
そのような中にあって、人目にはわからなかったようですが、主人との関係が悪い状態に陥っていました。こんな時こそ神様にすがるしか道が無いと追い込まれました。すると、数々の御言葉が与えられ、祈られ励まされて、神様の愛がどれ程に深く絶大であるかを示されました。そして、何よりも神様の御名を冒涜し、傲慢な私の心が罪であることを知らされました。
二千年前にこの私の罪のために、父なる神は愛する独り子イエス・キリストを人として地上に送り、イエスは私だけでは無く全人類の罪を担い、苦しみの十字架の上で打ち砕かれ、血を流して死んでくださり、その血潮のゆえに罪赦されたことを知りました。また、三日目によみがえり、弟子たちに現れ、神の国を語り教え、天に昇り、父なる神の右に座し、今も私たちのために執りなしてくださっている事を知りました。永遠の命が与えられる希望を固く信じ、イースターにその教会の初穂として洗礼を受けました。洗礼の日、礼拝の始まる前より、涙が止まらず二時間ほど続き、洗礼式に臨んだ事は忘れられません。聖霊が私の体、霊の中に圧倒的に臨んでくださった事を後で確信しました。ハレルヤ!! 私の人生はこれからすべてバラ色、元の幸せな家庭生活が送れるのだと神様に感謝を捧げておりました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16:31」
しかし、主人は私たちの前から姿を消したのです。受洗二週間後、主人から丁重な手紙が届き、帰る事は出来ない、死を選ぶとの内容に驚き、地球が180度回転したような、頭の上では真っ黒な雲が渦巻いている幻を見てしまったのです。幸い、近くに教会がありましたので、1日に何度も祈りに行き、トシエル師には「ご主人は必ず生きていますよ」と励まされましたが、どこかの教会に飛び込んで、神に助けを求めてほしいと泣きながらの日々でした。
やがて、室蘭で住む事が困難になり、札幌に移り、OMF(国際福音宣教会)の教会に集い、祈りと励ましを受けました。興信所に足を運び、主人の行方を依頼する事になったのが、娘が5才の時でした。その時、何よりも力となり、私を支えたのは聖書の御言葉でした。
8ヶ月後、祈りが答えられ、その年のクリスマス・イブの日に仙台で再会し、数知れずの厳しい現実と向き合いつつ再出発しました。仙台で私が行き始めていた仙台国見教会のイースター礼拝に主人は約束通り出席し、礼拝のメッセージと聖霊の助けにより、イエス様を信じ救われました。礼拝後、赤裸々に罪を告白し悔い改めました。そして、ペンテコステの日に洗礼を受けました。
その主人が5年前にスキルス性の胃癌と宣告され、10日間の入院の間、お会いする方々に感謝の言葉を言い続け、イエス様が共に闘ってくれた事を語り、最後には神様の御手に捉まるようにしながら、身許に凱旋しました。葬儀には私の姉妹や甥たちも遠くから駆けつけてくれて、「キリスト教の葬儀はとても良いね。感じる事が多くあった」と言ってくれ、私も十字架の出来事を語る事が出来ました。錦織先生とは以前から再会の約束をしていましたが、ちょうど日本を訪問されていた先生が来られたのが前夜式の時となり、先生からも慰めの御言葉をいただき、神様の愛と憐れみを感じました。
翌年3月11日に東日本大震災が発生し、3分43秒の地震に自然界の恐ろしさを体験しました。私のしていた仕事の関係から、多くの被災者と向き合い、現場にも接し、その苦しみと悲しみを微力ながら共に分かち合いました。
その後、アメリカに住む娘たち家族と生活をするように導かれ、人生で一番長く時間を過ごした仙台を離れ、2012年11月にアメリカにやって来ました。翌年にNJ日本語キリスト教会のメンバーとして加えさせていただきましたことに感謝しています。はや3年を過ぎようとしています。
私が今思う事は、この世の厳しい時代に生かされた者として、この地上では残された時間は少ないかも知れないと感じています。しかし、私たちの国籍は天国にあり、そこには住む家を用意していてくださると約束されている希望のゆえに、患難さえも喜び、忍耐を持って祈り従う者となりますように。これ程までに愛して下さるお方を一人でも多くの人達が信じ、救われますように。そのために約束の御言葉を宣べ伝える事が出来ますように助けて下さいと祈る日々です。再びイエス様がこの地上に来られる事を固く信じます。主イエスよ、来て下さい!! アーメン
月報2015年9~10月号より
「結婚前は自分のことを…」
結婚前は自分のことを愛情深い人間だと思っていました。
人生の価値はいくら貯金をしたかとか、高い地位に就いたとかではなく、どれだけ人を愛し愛されたかにあると公言するほどでした。
主人と私は2009年1月にNJで新婚生活をスタートさせました。ドラマのように甘く幸せな新婚生活を描いていましたが、実際は、初めての共同生活、初めて暮らす土地、言葉の壁、様々なストレスが一気に押し寄せ、口から出るのは不平不満ばかり。
主人は精一杯やってくれているのに、常に心を占めるのは「こんなに頑張っているのに、主人は分かってくれない」というつぶやきでした。
愛を持って穏やかに主人に接したいという思いとは裏腹に辛くあたってしまう毎日でした。
11歳で洗礼を受けたものの、神様から遠く離れた生活を十何年も続けていた私でしたが、その時は不思議と教会へ行こうと思い立ち、すがるような気持ちで毎週教会に通い、涙ながらに祈りました。
自分ではどうすることもできずにいた時、バイブルクラスでサマリヤの女の箇所が開かれました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13・14節
その時、自分の心がカラカラに干涸びた井戸のように思えました。
干涸びた井戸から、なんとか愛を絞り出そうとする自分の姿が見え、ハッとしました。
「神は愛なり」という御言葉は聖書をあまり知らない人でも聞いたことがあると思います。その箇所にはこう書いてあります。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 第1ヨハネ4章8節
神様は愛情深いとか、愛に満ちているというのではなく、「愛そのもの」だと言うのです。
そして愛とは、
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」第1コリント13章4~8節
だと言うのです!
愛して結婚したはずの主人に労りの言葉をかけることも惜しみ、求められるものも与えず、欠点を暴き出しては責め立てる・・。聖書が言う愛とは真逆の自分の姿に、私の心には元々愛など存在しないとはっきりわかりました。
そして、愛の源泉である神様に繋がって愛を頂きながら生きたい!と強く思いました。
愛が神様のものだとわかってからは、自分の力で愛をひねりだそうと自分自身に寄り頼んでいた私の傲慢さが浮き彫りになりました。
それと同時に、そんな私に無償の愛を注ぎ、許し続けて下さる神様の哀れみを感じ、私も主人を無償の愛で愛し、許したいという思いが与えられ、もう一度イエス様に従って歩む決心をしました。
この「二度目の救い」とも言えるような信仰のリバイバルから6年が経ちました。
雷に打たれたように、神様を信じたその日から劇的な変化が!という救いもありますが、私の場合、ノロノロと牛歩のごとくここまできました。
疑い深くなかなか納得しない私の性格に合わせ、神様はゆっくり時間をかけ、一歩一歩階段をのぼる様にわからせて下さいました。
数年前までの私には「何かを成し遂げなければ!」という焦りがありました。
駐在生活で仕事はできないにしても、それに代わる特技のような物を見つけて、いずれは教室が開けるぐらいに極める。というのが、私の生きる目的であったように思います。
それを実現している人を見ては、自分と比べ、焦ったり嫉妬する日々でした。
今思えば、やりたいことが決まっているわけでもないのに、極めたいと思う深層心理には、自分の存在意義を証明したいだとか、誰かに認めてほしいという欲求があったのだと思います。
でも、二つの御言葉に出会い、このような強迫観念が消えてしまいました。というか、生きる目的がすっかり変わってしまいました。
「主を賛美するために民は作られた」 詩編102:19
「全世界に出て行きすべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」 マルコ16:15
「神様を賛美する。」「福音を述べ伝える。」それが神様が私の人生に望んでおられる使命だとわかってからは、自分で自分に背負わせていた重圧から解き放たれ、空を飛べそうなくらい自由で楽しい気分でした。
ありのままの私を愛して下さる神様を前に、誰かと比べて落ち込む必要もなければ、躍起になって自分の存在意義を証明する必要もなく、「自分」の栄光を現すことよりも、ただただ自然体で神様に従って生きて「神様」の栄光を表す方が、何百倍も喜びがあるということを知ってしまいました。
死んだら天国に行けるという約束はもちろん素晴らしいですが、神様に従って生きる時、この地上で天国を一足先に味わえるというのはもう一つの素晴らしい約束であり、クリスチャンの特権です。
先に救いを聞いた者の責任として、福音を伝えること。特にかつての私と同じように苦しんでいる方々に、神様にあっての本物の自由と楽しさを伝えたいという願いが与えられ、それと同時に次々に新しい出会いが与えられています。
神様がどのような大きな御業を見せて下さるのだろうと期待し、わくわくしている今日この頃です。
月報2015年7~8月号より
「私は両親共にクリスチャン…」
私は両親共にクリスチャンの家庭に生まれました。というと小さい頃から教会の子供として育って来たのだろうと思われるかもしれませんが、実は家族揃って教会に行くというクリスチャンホームではありませんでした。父はクリスチャンスクールの校長を長くしておりましたので、学校と教会はほとんど一体で学校では生徒さんたちにお話もすることも多く、家ではよく聖書を広げていました。母は日曜日も祖母や子供達のクラブ活動などのお世話で、ほとんど教会には行きませんでした。兄は野球少年で日曜は不在、私は小学生の時は父と教会に行くこともありましたが、中高生になるとクラブ活動でほとんど教会には行かなくなりました。
大学生の時に韓国研修旅行で現地の礼拝に参加する機会がありました。その時に韓国の学生さんに両親がクリスチャンだと話すと、なぜ教会に行かないの?是非行ってみてと言われました。
いままで誰かに教会に行ったらと勧められた事がなかったので、その時の言葉が強く心に残り、また教会に通うようになりました。それでも自分は小さい頃からお祈りもしてきたし神様が守ってくれているという勝手な自信があり、洗礼を受けようと思った事はありませんでした。
社会人になり将来結婚して新しく家庭を持つことを意識するようになったとき、私は、両親の信仰により今まで守られていただけで、自分で都合の良い神様を作り上げ、本当の神様と直接つながっていなかったことに初めて気がつきました。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15章5節)誰しも一人一人が自分の信仰で神様とつながっていなければならない。結婚を意識した相手がクリスチャンでなかったこともあり(今の夫ですが)、私は自分の中にしっかりとクリスチャンの柱を立てて生きて行きたいと願い横浜の蒔田教会で洗礼を受けました。
結婚と同時(1995年)に駐在で上海に行きました。当時の中国ではキリスト教の集まりを宣伝することができず、どこに行ったら日本人のクリスチャンの方に出会えるのかも全くわかりませんでした。しかし本当に神様の導きとしか思えないように、すぐに家庭集会に出会うことができ、その後小さな礼拝に参加することができるようになりました。そこでは香港の日本語教会から送られてくる説教テープを流しながら礼拝を持ちました。中心になってくださっていたのはある銀行の駐在員の方でしたが、のちに牧師となられました。
日本に帰国後は、子供達が教会の幼稚園に通うようになると教会学校に通い始め、子供達はたくさんの聖句を覚え、私も励まされました。
『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神様があなたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一 16-18)日々の生活の中で、また困難やトラブルの中にある時、弱い私には実行するにはとても難しいのですが、私が常に忘れてはいけないと思っている神様からのメッセージのひとつです。
私たちの家族(実家)に変化があったのは、父が9年前に亡くなった時です。ガンと宣告されてから2ヶ月、本当に短い時間で父は天に召されました。父の葬儀での教会員の方々の励ましや勤めていた学校での追悼礼拝などによって、家庭では見えなかった父のクリスチャンとしての歩みを垣間見ることができました。また、家庭ではいつもおだやかで優しく、よく勉強しよく働き、時にユニークで、でも反抗できないような毅然とした態度の父でしたがそれは教会や学校でも同じでした。そして天国で父が神様に『よくやったね』と喜ばれて迎えられているであろうことを心から感じました。
それから母は教会に行くようになり、教会を中心に皆さんに支えられて今は一人暮らしをしています。そして兄は父の死から1年後家族で洗礼を受けました。私は子供達がお世話になり通っていた大森めぐみ教会に転会しました。天国で父はとてもびっくりしているのではないでしょうか。それとも父は祈りが叶えられ、こうなることをちゃんと知っていたのかもしれません。
今思えば、父と神様のことを話たり、もっと色々と教えて欲しかったと悔やまれます。でも父はただ、私たちが自らの意志で聖書を読み、教会に足をむけ、聖霊の呼びかけに気がつくことを待っていてくれたのだと思います。
そしてこの度、孫娘の佳帆が洗礼を受けたことを誰よりも天国で喜んでくれていることと思います。
このニュージャージー日本語教会に来て、本当にたくさんのことを学びました。
礼拝で先生が語ってくださること、グループや様々な学びを通して、そして教会の活動を通しての教会の意味、大切さに改めて気付かされました。
『教会はキリストの体、一人一人はその器官である。』(コリント信徒への手紙一 12章27節)
それぞれが神様からいただいた賜物を用いて教会に仕える。人と比べて得意なものなど何もないと思っていた私ですが、こちらの教会での賛美の歌の奉仕、子供達のキャンプのお手伝いを通して、私にも教会で役に立てることがあるのではないかと思えるようになりました。そして自分が与えられている賜物をつまらないものであると思うのは神様に対してもとても失礼なことであることを知りました。
7月に4年の滞在を終え帰国することが決まりました。
日本の教会は転会後間もなく渡米してしまい、牧師先生も変わってしまいました。
懐かしいけれど新しい教会にいくような、そして私自身も変えられた今では、どんな教会生活になるのか期待と不安があります。新しくクリスチャンとなった娘と、まだクリスチャンではない夫と息子と共に、神様に期待してキリストにしっかりつながり、私を導いてくださるほうに歩いて行きたいと思います。
月報2015年5~6月号より
「私は小さい頃から教会…」
私は小さい頃から教会に行っていました。母がクリスチャンで、教会の幼稚園に通っていたからです。
このニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、小学四年生の時です。父の転勤で突然アメリカにやってきて、最初は英語もまったくわからず学校の宿題に追われる毎日で、母は教会を探す余裕もありませんでした。
そんなある日、母が聖書の会で、錦織先生と出会いました。そして、錦織先生が母と私を教会へ誘ってくださいました。それから2年が過ぎ、私は錦織先生の元で、洗礼を受ける決心をしました。
きっかけは去年の夏、「ひがきゃん」にいったことです。ひがきゃんとは、東海岸にある日本人教会に通っているユース(中高生)のキャンプです。私はここで神様と向き合う経験をして、たくさんの事を学びました。
一つは、栗栖先生が教えて下さった「神様がいるという証拠は神様によって、変えられた自分なんだ。」と言うことです。私は昔から教会に行ってはいても、神様は本当にいるのかどうかと信じられなかったり、疑ったりする事がありましたが、ひがきゃんに行って、自分が神様によって変えられたと感じました。
二つ目は、友達と大声で肩を組んで泣きながら、笑顔で心から神様を賛美するのがどんなに素晴らしいかを知りました。
そして、神様を信じると決めたのですが、なかなか洗礼を受ける気にはなりませんでした。なぜなら私はあと一、二年で日本に帰るので、洗礼は日本で受けようと思っていたからです。
でもある日、BIG(中高生の分級)で「なぜ教会に行っているのに洗礼を受けないのか」というワークシートをもらいました。その中に「先延ばしにしている人」という題があり、それはまるで私の姿だと思いました。先延ばしにしていると逃すものが多く、損をするだけだというところがすごく印象に残り、早く洗礼を受けたいと思い始めたその日の礼拝後、錦織先生が「クリスマス礼拝に受洗する?」と声を掛けて下さったのです。私はこれは絶対偶然ではなく、神様が受けなさいと私に告げているのだと思い、洗礼を受ける決心をしました。そして、昨年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。
私はもう先延ばしにする人ではなく、神様を受け入れ、これからたくさんのめぐみを受けることができます。この夏、日本に帰り新しい生活がスタートしますが、ここで出会った兄弟姉妹との交わり、たくさんの学び、「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章37節)と言う御言葉などを忘れずに神様と共に歩んでいきたいです。
月報2015年5~6月号より
「支援の中で感じたこと」
今月は元ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーで、今は日本におられる天野潤さんに、東日本大震災の後に支援活動をされた経験の中で、思わされたことを書いていただきました。
「支援の中で感じたこと」
NJ日本語キリスト教会の皆さま、本当にご無沙汰しています。
東日本大震災の時に、サマリタンズ・パース(2011.11~2013.8)の一員として復興について関わってきたので、今日、この記事を書くことになりました。
「なぜ神様はこれを許されたのだろう?」、「なにを見せたかったのだろう?」、「罰が下されたのだろうか?」などと自問します。しかし、まだ答えは見つかりません。この震災については、皆さまも思うところ多いと思うのですが、今日は支援をとおして、私なりに感じ、残しておきたい記憶をつぎの3点にまとめておきたいと思います。
1.終わりの日に備える
この震災では、「そのときは、ユダヤにいる人は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中のものを持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたが逃げるのが冬や安息日にならないよう祈りなさい。」(マタイ24:16-20)というみ言葉が現実となってしまったということを感じました。生き残った人の話でも、家に戻った人がそのまま帰らなかったという証言を多く聞きました。もういちど災害について、あるいは終わりの日に向かって、こころを引き締めましょう。
この大災害をとおして、●自然の災害は人間の想定を超えることがある、●電気のない生活がどんなものか、●石油がない時どうしたか、●食べ物が不足するときの生活、また、●放射能の被害とはどんなものか…など、これまでの各種報道で何度も見てきたと思いますが、来るべき困難な時代がどんなものか、そのサワリを示してくれたように思います。現代は、Proxyの時代だと言われているとおり、電気も、石油も、食べ物も、誰かに(どこかに)依存して暮らしています。実に子供の教育から、親のお世話まで委託に頼りお金で買う時代ですから、委託先がこけると悲惨な目に会います。高層マンションでは、エレベーターの故障・停電だけでも、生活できなくなってしまうでしょう。
もちろん、苦難の日の前に、クリスチャンは携挙(天にあげられること)されるので、信じていればよいというクリスチャンも多いのですが...皆さんはどうでしょうか?この災害が来るべき艱難時代(多くの災いが起こると聖書に預言されている時代)の、神様からの警告だと思われる方はいますか?
2.クリスチャンは必要なとき一致する
サマリタンズのキャンプでは、復旧・復興・支援とフォローアップについて、教会を超え、教派・役職にかかわらずみんなが協力していました。(起床)(朝食)(全員でディボーション)(現場でお祈り)(作業)(家主さんとの会話)(作業)(片づけ)(お祈り)(キャンプでシャワー)(食事+分かち合い)(就寝)というルーチンでしたが、アメリカ、カナダ、ドイツ、オーストラリア、韓国、ブラジルなど、国を超え、ことばの壁を超えて協力し働きました。この一体感はとても心地よく、充実していて、天国の様子を垣間見た心持でした。僕たちクリスチャンは、必要な時に一致できるというのは、大きな励ましです。
使徒の働き2:44-47には、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあります。神様はこのことについても神の国の予告編を教えてくださったように思います。
3.愛は実践
ルカ福音書に記述されたサマリヤ人の例は実践です。旅路の途中、サマリヤ人は傷つき倒れた人に手を差し伸べ介抱しました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。ここにサマリタンズ・パースの原点があります。サマリタンズの働きで救われた人の証を聞くと、泥出しをする人・大工さんたちの働く姿、祈る姿を見て信じたという人が大変多く、実践は説得力であるというのが、僕の実感です。
フロリダの大工さんが言った言葉が耳に残っています、「Sweat & tears only change their hearts!」 汗を流してその人のために働くこと、また涙を流して祈ることが必要だというのです。同様に、子供は親の「やる」ことはまねるが、「言う」ことは聞かないと言われていますよね。
被災者に触れる時、イエスを信じてほしいけれど、自発的でなければ意味がない!その人のため働いていても、「どうせ ”string attach”だ」などと思われたくない!ほんとうの神さまに触れて欲しい!
「エルサレムの娘たち、私は、
かもしかや野の雌鹿をさして、誓っていただきます。
揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。
愛が目ざめたいと思うときまでは。」 雅歌 2:7
人を愛するって、忍耐でしょ!? (祈り)日本の魂にほんとうの救いが訪れますように。
(終わりに) 東北の各地で、この4年間にいままで教会のなかったところに、新しい教会が建てられてきました。今でも石巻では、サマリタンズで働いた若い人たちが残って、ボランティア活動を行っています。2月―3月の作業内容は、海苔の収穫や牡蠣の種付け、仮設の訪問、各種フェローシップなどです。
息子(亮)は(めでたく結婚し)、公立の小中学校では宗教的な「賛美」を教える事は認められないのに「ゴスペル」は、OKというので(笑)、石巻の学校でのゴスペル・クワィアーを通じて子供たちに関わっています。ご存知かもしれませんが、仙台で2014年11月3日、ゴスペルフェスティバルに参加した時、延べ、1500人のミュージシャンが仙台の街9ヶ所でのライブで、朝から晩まで賛美していたのを見ました。1ヶ所で一日中賛美があるのは聞いても、一つの都市で同時に9ヶ所で賛美が歌われたというのは、驚くべきことで、♪御国の心地す♪の祝福でした。また、復興に関わった牧師たちの連絡網は今も生きています。
いまは、わたしは直接は復興の現場に関わっていないのですが、”Food”がキーワードだと聞いたので、農とコミュニティーに関することを始めたいと考えています。フランスのColibris(ハチドリ)運動(南米エクアドルの先住民族の言い伝えで、森火事に一滴ずつ水を運ぶハチドリのこと)にならって終わりの日、または、愛の実践のために、自分にできるひとしずくですね。
賛美主♪天野潤
月報2015年3~4月号より
「私の証」
現在、私はスペインのジローナという地中海に面したところに住んでいます。アメリカのニュージャージーに2007年から5年半住んでいました間は、ニュージャージー日本語キリスト教会に参列させていただきました。
アメリカ勤務時代は、日本の大企業の北アメリカ拠点経営責任者をしていました。その私が、2013年4月にアメリカでの荷物をまとめ、全てを捨ててスペインに渡り、現在は、こちらのバプテスト教会の教会員です。そしてJTJ(Jesus To Japan)宣教神学校の2年生です。
一体何が私にこの変化をもたらしたのか、私の決断に至るまでの経緯、今の私の人生の目標は何かについて少しお話しさせていただきます。
アメリカでは、コンシューマ部門の経営責任者でした。日本との時差が13時間ありましたので、いつも2台のパソコン、そしてスマホ、タブレットも使い、いつでも、どこでも24時間、365日、日本の事業場、本社、そして北米のお客様とコンタクト出来るようにしていました。
ご存知のように、アメリカ、カナダは広大な面積の国ですので、アメリカにいる時は国中を飛び回り、そして日本へは5年半で50回ほどニューヨークと大阪の間を飛びました。毎朝、目を覚まして最初に考えるのは「今どこで寝ているのだろう?ホテル?飛行機の中?それとも家?」でした。
このように私の生活は、超多忙で、かつ一見すると華やかに見えましたが、華やかな外見とは別に実際心の中はかなりかけ離れてすさんでいました。数ヶ月先までスケジュールが埋まっており、毎日毎日それをこなすので精一杯で、抜け出すことができない螺旋階段を登っているようでした。
そしていつも頭の中では、同じ疑問がどこに行っても、誰と会っていてもつきまとってきました。
「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」そして「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」そして大きな目に見えない「空しさ」に何もできない自分に気づくのです。
私たちはこのような状態になることがわかっていても、人生の中で立ち止まって自分の価値が誰に対してあるのかを考えることもしません。人生の意味を考えることなどをタブー視するからです。ですからどうして良いかわからない時、空しさを覚えるのだと思います。私たちは、自分では一人で生きている、自分の考えで生きていると思いがちですが本当は自分の人生の意味を考えることを避け、みんなと同じように生きようとします。何故なら、信仰のない人にはこれらの質問には答えがなく、真っ暗な空しさは結果として不幸せを呼ぶような気がするからです。しかし、年と共に必ず、私が持ったような質問はその姿を現します。そしてその空しさはドンドン大きくなるのです。
私が学んでいる神学校の先生はいつも、「その空しさは神様だけが豊かに満たしてくれます」と言われます。
これを読まれている皆様の中にもこの「空しさ」を感じ、同じような質問、体験を持たれた方がおられると思います。もしそうであれば、それはとても良い体験をされていると思います。何故なら、皆さんも気づかないうちに神様を求めておられるからです。私は、心からお勧め致します。一回立ち止まって、「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」を考えて見ることをお勧め致します。
さて、私の体験に戻ります。
忙しい生活を続けている内に、私は健康の問題がおき、生検の結果、手術を受けるべく入院することになりました。先生によると手術はとても簡単で、一日入院でよいとのことでした。ところが、実際は、全く予想と違いました。血圧が急激に下がり、めまいがしてついには気を失ってしまいました。また、体が急速に冷たくなるのが分かりました。頭の中では「もしかしたら」と思いました。特別看護室に妻と一緒に入れられました。看護師がひっきりなしに部屋に来て血圧を測っていました。ところが、周りの緊張した雰囲気とは別に私は落ち着いていました。「久しぶりにこんなに寝たなあ。これも悪くないなあ。」などとトンチンカンなことを思っていました。しかし、だんだん頭の中で、「これから私はどうなるのだろう?」と考えていました。
その時です。身動きできない私に何か声がしたような気がしました。「もういい加減にしないか、いつまで自分の力で生きていると思っているのか?なぜ私を無視するのか?」という内容でした。意識朦朧の中でこれは夢かしら、それとも・・・・と考えました。と同時に、ヨハネによる福音書21章1ー15節に出てくるペテロの話の光景が浮かんできました。
ペテロは、キリストのために一旦は、網を捨てた人でした。彼は献身していました。そして彼は多くの弟子が離れ去っても、従い通してきました。ところが、キリストが十字架にかかるために囚われたと分かると、彼はキリストを捨てたわけです。そして、キリストの処刑前に「キリストを知らない」と3度も否定するのです。そして元の生活に戻っていたのです。彼はイエス様に対する言葉を裏切ったのです。それでも、イエス様はペテロを受け入れ、赦されたのです。そして信頼されたのです。そして、彼に福音宣教を委ねようとされたのです。「火を起こして、朝食を取りなさい」と言われた時に、ペテロは、神様の絶対的な愛、裏切り者をも愛する愛が分かったのです。
私は、会社生活の中で、洗礼を受けていながら、何回も、何回も「キリストを知らない」と言ってきました。本当に後悔し、悔い改めるべきことです。「もうそろそろ私の声を聞きなさい」と言われた時に、私も本当にイエス様の愛が分かりました。
私たちの生活では様々なことがおきます。たとえこれまで何の問題もなく生きてきた人でも、誘惑、交通事故、突然の病気、家族の不幸、失業、麻薬、依存症などがいつ起きてもおかしくないと思います。そして最後に登場するのが「死」です。
ところが、この世の中で、唯一死に打ち勝ったお方がおられます。主イエス・キリストです。そしてその方を自分の救い主として受け入れた時にこの世での死はキリストと共に天国いる永遠の命を与えてくださると聖書は言っています。
さて、退院してからも私はずっとあの時の「声」のことを考えていました。「あれは、夢だったのかしら?」「意識朦朧の中だったので明確にはわからないなあ」と思っていました。退院後、1ヶ月が過ぎ、日本の本社から電話がありました。それは、私に現在の仕事を全て退き、顧問になってほしいという内容でした。この時、私ははっきりとあの病室での「声」の主がわかったのです。主がベッドで動きの取れない、最悪の状況の私に現れたのです。私のそれまでの過去は全く意味をなさず、主が私に新しい人生のチャンスを与えてくださったのです。
神様により近づき、たとえこれから大きな試練が来ても主は私を満たしてくださる、ここに私の人生の意味があると確信しました。私は主の召命を受け入れ、献身の決意をしました。早速、私の思うところを家内、息子、そして母親に説明しました。驚いたことに彼らは、安心したように私の思いを支持してくれました。
入院から2ヶ月後には神学生になるべく申請書を提出しました。どうしても主のことをもっと学び、真理を学びたいと思ったのです。そして主を近くに感じながら、主のために働きたいと思いました。
ほぼ同タイミングで、アメリカからスペイン(私の家内の国)に荷物を送り、入院して2カ月半後にはスペインでの生活が始まりました。今は、Rosesというところにある教会に参列し、教会のために奉仕しています。また、毎日、神学校の勉強も楽しみながら励んでいます。現在の私はとても充実しています。主がいつも一緒におられることを実感しながら信仰生活を送っています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネ3章16節
月報2015年1~2月号より
「東海岸日本語教会合同ファミリーキャンプ」
キャンプから早1ヶ月が過ぎ、もう秋が駆け足で忍び寄る今日この頃です。今回は8月30日から9月1日の3日間、いつもの広大なNew York upstateにある美しい山間のホテルにて行なわれました。「まことの豊かさを求めて」というタイトルで、著名な川崎の招待キリスト教会主任牧師の趙南洙牧師から4度のメッセージをいただき、賛美は透明感と力強い声の持ち主、向日かおりさんをお招きしての至福の時間でした。
全体集会の始めの賛美は、今年は各教会の担当、大勢が主にあって心をひとつにして、賛美するのはキャンプならではの恵みです。中では2日目夜のNew York の日米合同教会によるゴスペルは聞かせる賛美で、さすがでした。
集会の合間々々には、あちこちでなつかしい他教会の仲間との再会、無事を喜び合う嬉しい会話と笑顔が飛び交いました。こんな恵みって、合同ファミリーキャンプ以外にありましょうか。
ここで私は充実したプログラムの中から、特に趙先生の説教を主に書きたいと願っています。
1.サムエル上1:17~18
初日の説教で内容に入る前に趙牧師は20代始めに韓国で苦労のうちに奥様と牧会を始められたこと、自宅のアパートで礼拝を始めたもののだれも来ず、3ヶ月たって主に“もう止めます”と泣いて訴えたら、お婆さんがひとり見えたこと。その後序々に受けた数々の大きな恵みのこと、そしてこの日の説教の締めくくりに30代で日本に宣教に行くようにとの神から召命を受け来日、今日があると締めくくられた。
祭司達によって預言書が書かれたずっと以前に、エフラムという所に住んでいたエルカナの妻、ハンナは子がないことで2番目の妻に苛められつらい日々を過ごしていたが、そのことで必死に主に男の子を授けて下さるように、授かったらその子の髪に決してカミソリを当てません、そして一生その子を主に捧げます、と祈った。傍らでハンナのこの必死の祈りを聞いていた祭司エリは、「イスラエルの神があなたの願いを聞き入れられますように。 安心して行きなさい。」と声をかけた。 その後ハンナはみるみる元気になり、やがてサムエルを授かり、彼が乳離れするのを待って、「主は私の願いを聞いて下さったので、私もこの子を神に捧げます。」と夫と共に宮に行き、主を礼拝した。
このたった2節の聖書箇所に、それまでの苦しいハンナの物語がこめられていて、サムエル記の見事なスタートになっている。 ハンナほど必死になって主に祈ることが出来るだろうか。これまでなにかを主に祈って大きな恵みをいただいた人々は,どれ程必死の祈りを捧げたのだろうか。 主に頼み祈る大切さをまざまざと見せ付けられる箇所である。
2. サムエル上 2:25~35
祭司エリが、主に罪を犯す息子たちに“何故か”と問いただすが、一向に直らない息子たち。それは確かに私達の姿。(こういう私達の為にイエスは自らを犠牲になさった。)神は我々に何度も礼拝のメッセージや、聖霊を通して必要なことを気付かせて下さろうとしている。 その神の時を見過ごしてはならない。
不良の息子達の故に決してよくはないエリの環境の中でも、サムエルは立派に神にも人にも愛される若者に成長した。 必ずしも人は環境によって左右されない。 罪のある者は今ここで神に悔い改めることが必要だ、と趙牧師は述べられる。
3.サムエル上 3:1~10
目の前に情景がはっきり浮かんでくるような、私も大好きな個所である。 わらべサムエルが神の契約の箱のある主の神殿で休んでいた時、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれ、サムエルはエリが呼んだと思って行くと呼んでない、と言う。 それが3度繰り返された時、エリはそれが神と悟り、サムエルに「今度呼ばれたら、ハイ、ここにおります、とお答えするように」と諭す。 主がサムエルに語られたことは11節以下に書かれているのだが、主のみ声を聞く、聞こえる、ということは最高の祝福である。 その後もサムエルは、神さまに見守られてすくすく成長し、やがてイスラエルの全ての人々にサムエルが主の預言者と定められたことを知らしめた。
人は上からの大きな神の助けによって恵みを受け、霊的に成長できる。大きな大きな神と小さな少年との出会い、それがイスラエルの歴史をここに変えようとしている。私達は日々全身全霊で主に祈り、聞き仕えていくことを、ここから気付かされる。
4. サムエル上 16:13~14
修養会最後の説教は、これまでから下がって16章から。 13節は、主の命によってサウルの次の指導者を求めに出たサムエルが、ベツレヘムで羊飼いをしていたダビデを探し当てた所。14節は主の霊が離れたサウルに悪霊がとりつき、苦しむサウルにダビデが得意の竪琴を聞かせて、悪霊を追い払うシーンに続く。聖霊に満ちていたサウル王が何故変わってしまったのか。それは彼自身が神に十分聞かなくなってしまった。そして祭司の役までやるようになってしまった事が原因。 一方ダビデ王も周知のように、たくさんの悪いことをしては後悔し悩み多い人生を送ったが、そんな時でも今我々が多くの詩篇にみるように、主の前に即必死で詫び、狂おしくも神に救いを求めている。
主から語られる人になるには、このダビデのように失敗したら、言い訳をせずにすぐに神に悔い改めること、そして“私からどうぞ、離れないでください”とお願いすること。 聖霊に満たされて日々生活すること、それがまことの豊かさだ、と趙牧師は纏められた。
さて新旧2巻の聖書は、全て聖霊によって書かれたものです。 だからこの膨大な神の物語は、全てが真実であり、一貫してイエス・キリストの誕生の予言と言われています。旧約は神々や英雄たちの物語、あるいは預言者達の話が主なので、どうしても筋だけを追って楽しんで終わってしまうことが多いのですが、本当の中味を理解するには聖書全般からの引用と、解き明かし、リードがどうしても必要です。
旧約からのメッセージが少ないとの意見がある中で、今回趙先生からじっくりサムエル記からの解き明かしをお聞きできて、参加者は最高の恵みをいただいて、各々帰宅できたことと確信しています。 特に趙先生のユーモアを交えたにこやかな語り口は、私達の気を削がずに引き止めておくのにも最高でした。
5,6年前までの私は、旧約をそれこそ物語として読んでいたものですが、最近は旧約の凄さを実感し、自分だけでは読めないもどかしさを感じています。そしてこれに気付いたのをわずかでも成長したと言えるならば、この私達の教会で長年に渡って、熱心に聖書の通読、勉強を指導してくださっている錦織牧師のお蔭と言わざるを得ません。 その土台が私にあって、今回の趙牧師のメッセージからより多くの恵みを受けられたのだと思います。聖霊に満たされて生活することは、常に祈り求めることから始まると思いますが、教会にいる時以外は常にこの世的な目まぐるしい状況の中にいて、時には周りとの調和に気を遣いつつ、過ごしているのが私達です。日々時間を取り分けて、静かなときを必ず持つことの必要性をしみじみ思います。 神様の御用をなさる聖霊さまの力なしには、なにもできないことを私も知っていますから。
今回この大きな群れを導くために、企画・準備からこれら修養会のすべてを導いてくださった主と牧師先生方に、心から感謝いたします。 ありがとうございました。
「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:10
「主よ、私のくちびるを開い「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:15
キリストに近ずき、探り求めた者達は皆等しく、豊かさと完全さと究極の満足とを間違いなくキリストの内に見出したのである。
(Dr. D. M. ロイドジョンズ、1947年)
月報2014年11~12月号より
「御言葉を行なう人になりなさい」
夏の大イベントであるJOY JOY Campが終わった直後にこの原稿を書いています。本当に多くの方々の祈りとご協力によって、51名の子供たちを受け入れて、神様の話をしてきました。楽しい一週間でした。元気な子供たちの笑顔に励まされた一週間でした。
その一方で、「ちゃんと私たちの伝えたいメッセージは伝わっただろうか?」という思いも持っています。今年のテーマは「ジョイジョイキングダム~地球は神様のテーマパーク」でした。神様は熱い情熱をもってこの世界を作り、私たち人間とともに歩もうとしておられて、一人一人は神様にとって大切な存在であり、また、神様に背を向けてしまった人間と、もう一度共に歩むために、一人子イエスを与え、その十字架の死によって、私たちはあがなわれたのだ、というメッセージを伝えたかったのです。
言葉としてはそれを伝えました。劇をやったり、お話をしたり、子供たちにわかるように一生懸命に伝えました。多くの方々が時間をささげ、労力をささげて、このことをしてくださいました。子供たちも一生懸命聴いてくれました。そして、中には、その内容について応答をしてくれた子供たちもいました。しかし、その一方で、私たちは、いや、もっと言うならば、私自身は、本当にそのように生きているだろうかと、問われているように思わされたのです。
中には傷を負って歩んでいる子供たちもいるかもしれません。「一人一人は神様にとって大切」と言われても、それが本当にわからない、という環境の中にいる子たちもいるかもしれません。言葉で伝えるだけでは、伝わらないし、もしも言っていることとやっていることがチグハグだったら、子供たちは本当に混乱するだろう、聖書のメッセージを伝える私たちが、その姿、態度、行動でそれを表していかないといけない、と思います。
「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」ヤコブの手紙1 章22節
このことは、決して、単に子供たち対する姿勢だけではありません。教会のあり方、また自分の人間としての生き方に関わる問題です。本当に聴くだけ、語るだけではなく、そのように生きるものとならせていただきたいと思います。
月報2014年9~10月号より
「石賀睦美先生の思い出」
ニュージャージー日本語キリスト教会に導かれて、4年目に、正木先生の後任として来てくださった石賀先生ご夫妻にお会いした時、とても親しみを覚えました。というのも、私達夫婦と年齢も同じ、特に、お二人が兵庫県の能勢から来られたことに、私の子供時代を思い出したからでした。私の父は兵庫県能勢村出身で、姓も、結婚前は能勢だったこと、子供のころ、ちかくの猪名川で遊んだ思い出などがあったからです。
石賀先生ご夫妻はNJの教会では2年間の御奉仕でしたが、御言葉の学び、祈り会など、本当に充実した楽しい2年間でした。礼拝前の睦美先生からの信仰の基礎の学びでは、信仰を持ってまだ短かった私には、本当に必要な学びでした。礼拝後、牧師館にお邪魔しては、食事まで頂いて、さぞ睦美先生も忙しかったと思います。
2年間はあっという間に過ぎて、私達ももっといて頂きたい、との願いもありましたが、帰国されることになりました。私達も日本に帰国の都度、先生が新しく始められた教会での礼拝に参加し、ご一緒に温泉に連れて行って頂いたり、先に帰国された信仰の友たちとの再会も楽しみの一つでした。
2012年の夏に、突然の睦美先生の入院、それも肺がんの末期だと聞き、本当に驚きました。教会の祈祷会でも皆さんにお願いして、祈って頂きました。そして素晴らしい癒しの奇跡を見せて頂き、どんなにうれしかったことでしょう。主の御業をあがめて、ただ感謝でした。癒されて、輝いて、ただただ主の御業を御証して日本の各地、またアメリカにも来られて元気に飛び回っておられるお姿に、これからも長く、生涯、主のために用いられる、と信じていました。
昨年の11月に4年ぶりに日本に帰り、どうしても先生ご夫妻にお会いしたく、ご自宅での礼拝に参加しました。睦美先生がお元気にメッセージされているのに、本当に主の御業を崇めて感謝しました。お元気で、輝いて、若返られたように見えました。そして、それから何ヶ月もたたないのに、再び入院、そして間もなく召された、との知らせにはただ信じ難く、何故?あの癒しは何だったの?と呆然としてしまいました。でも私達は知っています。主がなさることは最善だということを。睦美先生は命をのばされた1年余りを全力で、主の素晴らしさを伝える為に走りぬかれて、主から、「よくやった、忠実な僕よ。」と、栄光の冠を受けて、イエス様にお会いした喜びいっぱいの笑顔が目の前に浮かびます。イエス様が本当に大好きで、イエス様に喜ばれることだけを考えておられた睦美先生は、御言葉を身をもって実践された、と本当に感慨深く思わされます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたにのぞんでおられることです。」(I テサロニケ5:16~18) この御言葉をそのまま実践された睦美先生の信仰と、生き様を見せて頂きました。主に心から感謝します。病の苦しみの中でも、ただ主に信頼し、感謝と喜びで一杯だった睦美先生の言葉は、召される時も「感謝、ハレルヤ」だった、と伺いました。
私達には天国での再会の希望があります。一足先に御国に行かれた睦美先生、多くの人達に励ましを与え、また、主に信頼し切る信仰を見せてくださったことを心から感謝します。
(4月25日に主の下に召されました石賀睦美先生の思い出を、元当教会のメンバーで、今はホノルルキリスト教会で信仰を守られておられます加藤慶子姉に書いて頂きました。)
月報2014年7~8月号より
「Joy2 Camp」
「この迷路かんたんだよ!」 巨大迷路の出口から出てきた5歳のぼくは、息を弾ませながら得意そうに叫んでいたのをよく覚えている。2005年の夏、(ぼくは初めてニュージャージー日本語キリスト教会の夏のキャンプに参加した。その年のキャンプのテーマは「カラダだからだ」、人間の体についてだった。キャンプスタッフたちの寸劇やお話から、人間の体がいかに不思議かを学んだ。初参加のぼくには何もかも新しく、教会ジムに所狭しと張り巡らせられた段ボールの巨大迷路はものすごくインパクトがあった。行っても行っても出口が見えない巨大迷路。怖さをこらえながら何とか闇の中を突き進み、出口に近づいて明かりが見えてきた時は達成感でいっぱいになった。一度完走できるとあとはすっかり自信満々、その後ぼくは何回も何回も迷路を制覇した。もう一つ気に入ったのはテーマソングとダンスだ。早いテンポの曲と早い振付についていこうと必死になって踊りまくった。ぼくは、日本語で自分と年の近い子たちとともに神様のことを学べる、今までにないこのキャンプがすっかり好きになって、その年から毎年、ジョイジョイキャンプが待ち遠しい夏の一大イベントとなった。
ぼくは幼いころから教会っ子だった。母親が熱心なクリスチャンであるため、毎週日曜日、生まれた時から教会に行っていた。ぼくの通っていた教会はウェストチェスターの英語の教会だったので、当時日本語しか分からなかったぼくは、何のことを話しているのか、どんなお話なのかさえも分からないまま、ただ教会にいた。礼拝後のコーヒーアワーのおいしいクッキーが唯一の楽しみだったかもしれない。3歳になる3日前、ぼくは家族とともにニュージャージーの今住んでる町に引っ越して来た。教会も同じ町の教会に変わった。この地元の教会もまた英語の教会だったのでよく話が分からずにいたが、物心もついてきて、母親が家でいろいろ日本語で神様、イエス様、教会のことを話してくれるようになった。また小学一年生になって現地校にも行き始め、英語がだんだん分かるようになってくるにつれ、英語でも神様のことについて徐々に理解することができるようになってきた。ちょうど同じ頃、ぼくは日本語教会の存在を知った。キッズクラブやシンガーズ、ジョイジョイイースターやジョイジョイクリスマスなど日本語教会に行く機会も増えた。生まれた時から日本語環境で育ったぼくは、やはり日本語の方が得意で、楽で、楽しい。すぐさま日本語で神様のお話を聞ける日本語教会が気に入った。
ぼくが小学一年生の時のジョイジョイキャンプのテーマは「ジャングルぐるぐる探検隊」、ジャングルに隠された秘宝を探しに行くというお話だった。壁の様々なカラフルな飾りが印象的だった。教会ジムにジャングルのように青々とした木が茂り、動物の姿や手作りの洞窟もあって、まさに本物のジャングルのようだった。その年は特に工作が楽しかった。自分でブーメランを作ったり、作ったものでほかのキャンパー達と競争したりして盛り上がった。来年も絶対来る!そう思っていたが、残念ながら、その翌年と翌々年は、一時帰国などがあり参加できなかった。
その頃のぼくは、表面的にはいい子でも、本当の自分はそうではないことに気づいていて苦しんでいた。それに、いくら「ごめんなさい」と謝って心を入れ替えても、すぐに同じ間違いを繰り返してしまい全然いい子になれない自分に対して、ものすごく落ち込むことがあり、小学1年生にして死んでしまいたい、消えてしまいたいと思ってしまうこともあった。そんな中、ジョイジョイキャンプで教えてもらった「神様がぼくのそのままの存在を『高価で尊い』と思って下さっている」ことがぼくの心を支えてくれていた。英語が分かるようになっていたぼくは、英語の教会の教会学校やVBS(Vacation Bible School)を通して、また3つの日本語教会合同の2泊3日のキャンプジーザスを通して、日本で牧師をしていた祖父のバイブルクラスを通して、神様の愛とイエス様による救いを教えてもらい、ぼくが死ななければいけない代わりにイエス様が十字架で死んでくださったことを知り、イエス様をぼくの救い主として心にお迎えして2008年8月10日に洗礼を受けてクリスチャンになった。
2回目のジョイジョイキャンプ参加から3年後、2009年のキャンプにぼくは久しぶりに参加した。その年のテーマはHard Rock Caf_ならぬ「Heart Rock Caf_」だった。 テーマソングが格好良く、すごく気に入った。その年のもそれまでのも、ジョイジョイキャンプのテーマソングは全て教会オリジナルであるという事実にも初めて気づき、改めて感動した。その年は初めてキャンパーもスタッフも全員男の高学年グループに入ったので、お互いにちょっとじゃれてふざけあったり、ランチの時には誰が一番早く多く食べれるかを競争して急いでお替わりをしに行ったりもした。毎日の男クッキングは、実に楽しかった。また、ランチの後は、高学年キャンパー限定の外グラウンドでのサッカーにも行けるようになって、友達やスタッフと一緒に汗を流し、久しぶりのキャンプは前回、前々回とはまた一味違うとても楽しいキャンプとなった。
翌年はマタイ7章7節 (“Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.” Mathew 7:7) にちなんで「A.S.K.」という題で探偵のテーマで、2011年小6のぼくにとって最後のキャンプは「Joy2 Factory」だった。その頃のぼくは、高学年になり反抗期が始まっていた。口うるさい親のことも嫌ではあったが、ぼくはついつい反抗的な態度をとってしまう自分のことに嫌気がさしていた。学校での勉強も量が増え難しくなり、楽器の練習やスポーツ、日本語学習の時間のやりくりが大変でイライラすることも多くなった。それぞれに関して自分の理想や目標を掲げていたが、遊びやテレビや漫画の誘惑に負けてしまう精神的な弱さと、やりたいことがいっぱいありすぎて疲れてしまう肉体的な弱さにいつも負けてしまい、目標には程遠い自分が悲しかった。そんなふうに360日闘いの日々が続き、夏になって5日間のジョイジョイキャンプに戻ってくると、このままの自分でいいんだ、このままのぼくを神様は愛してくださっているんだという安心や平安が与えられた。落ち込んでうつむいていた自分が、神様の愛に包まれてまた顔を上げて前に進むことができる、どん底から引き戻される強い神様の愛の力、愛の支配を感じる充電の時、ジョイジョイキャンプはいつしかぼくにとってそのような、ただ楽しい時を過ごす以上の存在になっていた。
「神様はいつも、どこでも、いつまでも、そばにいてくださる」「神様がいるから大丈夫だ!」「求め続けることが大事」これがぼくがジョイジョイキャンプで学んだ、ほかのキャンパーたちにも知ってほしいことだ。キャンパーを卒業しスタッフになったが、ぼくはこれからもすべてを満たして下さる神様に心の必要を求め続け、ほかのキャンパーや愛が必要なすべての人に、ぼくがキャンプのスタッフに教えてもらったように、この神様の最強の「愛」のことを知ってもらいたいと思う。
月報2014年7~8月号より
「『中風の癒し』と救いの恵み覚え続けるために」
マルコによる福音書2章1~12節には、4人の友によって、イエス様のもとに運ばれてきた中風の者が、癒され、起きあがる記事があります。ここでイエス様は、まず「子よあなたの罪はゆるされた」と、「罪の赦しの宣言」をされました。「病よなおれ」より先に赦しでした。私は、高校生のときに、友人関係で悩み、人を心から愛せないでいる、自分の心の醜さや罪に苦しんでいました。でも、教会でこのメッセージを聞いたとき、『ここに罪を赦してくださるお方がいらっしゃる』と知ったのです。自分の力で動くこともできず、長い間の孤独と悲しみに闘う日々の中風の姿は、まるで私の心の状態と重なるようでした。イエス様の罪の赦しは、言葉だけではない、やがて十字架を背負い、罪の身代わりとなって、ご自身の命を与えるということでした。私は、イエス様の十字架が私の罪の身代わりと知り、そしてこの赦しの宣言を信じ、救いの恵みにあずかりました。こんな私を十字架にかかるほど愛してくださるお方、神様の愛に目が開かれ、解放され、大きな喜びと感謝の賛美があふれ、生きる力が湧いてきました。それは脱線した電車が、本来走るべきレールに戻され、真に自由に走れるようになったような経験でした。
またこの記事で、イエス様が癒されたのは、4人の友の「彼らの信仰を見て」と記されています。彼らが立派だからというのではなく、ただ、イエス様なら立ち上がらせてくださるという信頼でした。またその熱意は常識を超えるような愛の行動、4人が一つ思いになってもがく魂に仕える姿でした。しかし、私たち人間の愛の力は、ほんのわずかであることを、認めざろうえません。3年前、奥田先生という、ホームレスのケアーをされておられる牧師を囲んで、語り合った日のことが、私の心に残っています。「先生、でも裏切られることもありますよね。」と語りだす人がいました。愛する行為の中で疲れた姿のようでした。先生は「うん、でも・・・僕もたくさん裏切ってきたからな・・・」と語るのでした。私はその対話の中から、ペテロのことを思わされました。
ペテロが「どこまでもイエス様について行きます。」と告白しながら、イエス様が十字架にかかられる直前に3度も「イエスを知らない」と否んだ出来事、それは人間の弱さそのものです。そんなペテロが立ち直ったのは、限りなく赦してくださる、イエス様の十字架の愛の力でした。著者マルコはこのペテロと親しく、メッセージの通訳もされていたようです。ペテロの失敗談も聞いていたことでしょう。その中から「イエス様の完全な赦しと愛の力」を知り、信頼すべきお方がイエス様であることを正に伝えたかったのでしょう。「彼らの信仰を見て」と記しています。
昨年のこと、働き者で、どこへでも自転車で出かけるほど元気だった私の母は、3月に心臓病と呼吸不全で倒れ、緊急入院しました。幸いにも神様に守られ、やがて酸素も点滴も取れ、リハビリをし、1ヶ月後には退院、自宅療養となりました。姉夫婦が毎日のように母を見舞い、食べられそうな食事を作り、共に祈って、本当に良く支えてくれました。
私が5月の末に母の看病のために一時帰国した時、食事と排泄以外布団に伏す母は、今までとは全く違い、小さく、弱く見えました。姉と一緒に、時には教会に行っていた母でしたが、いろいろな理由と戦争で深く傷つき、苦労を重ねた母にとって、受洗の決心は簡単なものではありませんでした。私は母のためにひたすら祈る中、「彼らの信仰を見て」との言葉が私の心をとらえました。同じときに水郷めぐみ教会の平山牧師夫人もその言葉が心に示されたそうです。母の様子を見ながら、しかし、今のこの時を逃しては、遅すぎてはいけないのでは・・・と思い、平山牧師に訪問をお願いしました。すると以前は訪問を拒んでいた母の心が不思議と解かれ、驚いたことに、布団から這うように進み出、身を低くし牧師夫妻の導きで、病床洗礼にあずかることができました。5月29日が長い間祈っていた母の受洗日となりました。
母は、恐れや、心配から、解放されたからでしょうか、布団の中でもまるで幼子のような笑顔を見せてくれました。また、「お母さん、受洗おめでとう」「祈っています。」のお便りを頂き、多くの方に祈られていることに「ありがたいね。」と、何度も繰り返し、幸いな時を共に分かち合うこともできました。また、母は長男である兄のために祈り、久しぶりに家に戻った兄を迎えては、布団の中でもそれはそれは大きな喜び様でした。まるで「嘆きを踊りにかえてくださった。」詩編30編20節のみ言葉の約束を見たようでした。
8月に病院で検査後急変し、昏睡状態となり、姉と私は毎日泣きながら、葬儀の相談をすることもありました。その1週間後、意識を回復したものの、電話の母の声は、ろれつが回らず、全身から力を振り絞るように「が・ん・ば・る・よ」と答えが返ってきました。8月半ば、教会の皆様からのご理解とサポートを頂き、母の病院に付き添う時が与えられました。弱った母は、ゆっくりと、「イエス様・信じてるから・大丈夫。最高の人生だった。」と、ベットの中でにこっと笑みを浮かべるのでした。真夜中に「イエスさまの歌、歌ってよ」と嬉しい我がままも言ってくれました。多くの方に祈られていること、愛されていることを「あ・り・が・た・い・ね。」と何度も繰り返す母の言葉や顔は、平安そのものでした。「点滴を刺す血管ももう限界です」と告げられ、牧師夫妻の面会とお祈りを頂き、その夜には、姉と3人で賛美し祈る中、母は天に召されて行きました。イエス様の十字架が母を救い、心の傷を癒し、永遠の命を与えて、天国へと導いてくださいました。
神様の愛にそして皆様のお祈りに心から感謝致します。
月報2014年5~6月号より
「覚え続けるために」
ニュージャージー日本語キリスト教会の皆さん、震災以来の継続的なご支援に心より感謝申し上げます。未曾有の危機に直面し、戸惑い、疲労しながら必死で堪えてきた松田牧師とオアシスチャペルにとって、錦織先生およびニュージャージーの皆さんとの出会いは、何より大きな助けとなりました。9.11と3.11。違いがたくさんありますが、似ているところもたくさんあります。ニュージャージー日本語キリスト教会とオアシスチャペルは、大きな被害を受けた地域のただ中に置かれた教会として、同じような痛みや困難、悩みや葛藤を分かち合える『友』とされたのだと思います。松田牧師が錦織先生と出会った頃に語っていたことばが、私の胸に印象深く刻まれています。
「被災した今の自分の状況、大変さをぜんぶ分かってくれたように感じた。そのような人にはじめて出会った。とても有り難かった。」
現在の東北の状況を知り得る範囲でお分かちしたいと思います。
震災当時47万人にのぼった避難者の数は、2014年1月現在、約27万4千人となりました。仮設住宅にいまだに約10万人の方々が生活されています。災害公営住宅の着工・完成が遅れています。ある地域では3年、別の地域では4、5年かかるとも言われています。津波により生じた瓦礫が、いまだに片付いていない地域もあります。宮城、岩手では2014年の春、福島では2015年の春が政府発表による完全撤去の目処となっています(復興庁www.reconstruction.go.jp 「復興の現状と取り組み」参照)。
震災から3年。大きな支援団体が働きをどんどん縮小して撤退していきました。メディアに取り上げられる頻度は下がり、被災地を訪れる人々の数も減りました。震災前からの課題である「過疎」に拍車がかかっている沿岸地域もたくさんあります。「忘れられてしまうのでは・・・」という新たな不安が被災地を覆っています。
様々な領域における「ギャップ」が広がっています。被災地と被災地「外」のギャップ。沿岸部と内陸部のギャップ。復興が進んでいる地域とそうでない地域のギャップ。活動が活発な仮設住宅と、そうでない仮設住宅のギャップ。在宅の被災者の方々と家を失った方々のギャップ。復興プロセスの中でも様々なギャップが生じ、広がっているように思います。
また、あれほどの大災害でしたから、被災した方々は心に深く、大きな傷を負いました。生活も一変しました。経済や環境、状況に余裕があるときには感じなかったようなストレスや悪感情に苛まれている方々がたくさんおられます。上述の「ギャップ」も苦しみを大きくします。人間関係の破壊が起こりがちです。これから先、5年、10年を生きていくための希望や力をどこから見いだせばよいのか? 心すこやかに生きていくこと自体が、大変なチャレンジです。
ニーズ、課題が多様化しています。物資に困っているところもあれば、心のケアを必要としている人々もいます。経済立て直しの知恵が必要とされているところ、コミュニケーションや人間関係に助けが必要なところ、教育の課題、住宅の課題、原発エネルギーの課題、復興遅延ストレスの広がり・・・。
小さな私たちに出来ることは限られていますが、神様が私たちにどのような実を実らせたいと考えておられるか、注意深く求めながら歩ませていただきたいと考えています。
復興への歩みは10年単位、まだまだ先の長い道のりとなります。これから先、特に遠方にいらっしゃる皆様には「東北を覚え続けていただくこと」が大きな助けになると考えています。『覚え続ける』取り組みです。大きなインパクトをもたらした東日本大震災ですが、情報過多の時代に『覚え続ける』ことは至難のわざで、気を抜くとあっという間に風化してしまうのではないかと感じます。風化防止のために5年、10年といった長いスパンで『覚え続ける』ことが大切なのですが、たくさんの方々に息の長い関わり方を模索していただくために『資源ベースの支援』をお勧めしています。
震災発生当時はニーズがシンプルでした(生き延びるための水や食料、衣服や毛布、避難する場所、医療環境など)。緊急支援の期間であり、自衛隊や救援団体、医師や技術者などの専門技術を持った方々が活躍しました。被災地、被災者からのニーズを中心とした要請とそれを受けた支援活動がマッチした期間です。世界中からたくさんの感謝なご支援をいただきました。このような支援を『ニーズベースの支援』と呼びたいと思います。すばらしい助け方です。しかし、こうした支援状況はやがて終息していきます。支援したいと考えている人たちが山ほどおり「どのような支援をするか」がより重要だった時期は過ぎ、「どのような支援でもいいから、継続すること」の価値が高まっていきます。これからは、たとえ専門技術を持っていなくても、あきらめずに関わりを継続しようとする人々が求められます(教会がより力を発揮できる時がやって来たと感じています)。
さて、そのような「継続すること」に主眼を置いた支援を行うために、『資源ベースの支援』がとても有効です。支援する側の人々が元々持っているものや強みを活かした支援です。どこかから手に入れてきたり、新しく勉強したりしなくても出来る支援です。
一例を挙げますと、音楽が盛んでトップクラスの実力を誇るクワイアを擁するアメリカのある教会は、震災を受けて、そのクワイアを10年間、日本に派遣し続けることを決めたそうです。外国からの歌の支援は、震災発生当初はあまり大きな効果を期待出来なかったかもしれません。しかし音楽を用いたこの支援は現在も継続されていますし、今後も続いていきます。この息の長い支援の価値は、これからどんどん高まっていくはずです。彼らならではの資源を活かしたすばらしい支援です。
神様がニュージャージー日本語キリスト教会にお与えになった資源には、どのようなものがあるでしょうか? 冒頭に錦織先生と松田牧師の出会いについて記させていただきましたが、9.11を巡る貴重な経験や痛みは、多くの人々を助けるために備えられた皆様ならではの貴重な資源のひとつなのではないかと思います。
あの震災から3年が経ちました。皆さんが経験された9.11からの3年後はどのような日々を送っておられたのでしょうか? ちょうど10年前(2004年頃)、皆さんは何を感じ、どのような生活をしておられたのでしょうか? どのようなことから慰め、励ましを受けておられたのでしょうか? 時が経つにつれて、心や体、霊的な領域にどのような変化が起こってくるものなのでしょうか?
大変な危機的状況に置かれ、しかし立ち上がり、立ち続けてきた皆さんのご経験や証しに、私たちは大きな関心を持っています。成功も失敗も、恵みも痛みも分かち合ってくださるならば、大きな助けになると感じています。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ 6:9-10)
今後とも、信仰の家族としてのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。神様が結び合わせてくださった皆さんとの関係を感謝いたします。皆さんの存在は、私たちの励ましであり、希望です。心からの感謝を込めて・・・。
月報2014年3~4月号より
「19年かかってわかった神様の恵み」
私は18歳の時、初めて日本に行った。
香港の高校を卒業して、イギリスやアメリカに留学した同級生たちをよそに、人と同じになりたくない、という思いと、テレビで青春ドラマなどを見て憧れていた日本に行きたいという漠然とした思いだけで、ひとり東京へ行った。
東京に住んでみると、言葉はほとんどしゃべれないし、狭いアパートで、夢見ていたことと現実は違った。当時は留学生ビザを取るにも身元保証人を見つけるかブローカーを通すしかなかったので、「自分は自力で何とかするのだ」という思いで、正規な留学生ビザも取らずに語学学校へ入った。そして毎日ひたすら日本語を勉強した。
日本の大学に入るには身元保証人の近辺に住むという条件だったので、おじの知り合いが愛知県におり身元保証人になってくれたが、留学生ビザのない私を受験させてくれたのは岐阜大学だった。なぜあの時岐阜大学が受験させてくれたのか今でもよくわからないが、事情を知った受験係の事務の人が手紙をくれて、「普通の試験を受けてみないか」と言ってくれたので、一般の日本人高校生と同じように日本語で試験を受けて工学部に合格した。すぐに友達が出来、先生たちにも良くしてもらい、留学生としてロータリークラブから生活費に相当する額の奨学金をもらい、充実した大学生活を送ることが出来た。いつもいつも一生懸命前向きに勉強し、家庭教師のアルバイトもして、トップで卒業。自分の道を切り開いていった。ドイツにも憧れ、大学でドイツ人の先生に一生懸命ドイツ語を習い、ドイツ留学をも計画した。
大学院に進む時は、日本政府とドイツ政府から奨学金オファーがあり、ますます自分の努力と運の強さに自信を持った。尊敬する教授のいた東北大学を選び、日本国文部省の国費奨学金もたくさんもらえたので、博士課程の途中で結婚して、新しく出来たばかりの留学生会館に住んだ。昼も夜も研究に没頭し、研究成果が何度も全国版の新聞に取り上げられたので、ますます自分のがんばりに自信を持ち、「運命は自分の力で開ける」、と思った。
博士課程を終えるころ、スタンフォード大学やNASAから博士研究員のオファーがあった中でNASAでの研究を選び、日本から見れば憧れの研究所ですばらしいスタートだと、意気揚々とアメリカに渡った。メリーランドのNASA Goddard Space Flight Centerでの研究生活をはじめとし、フロリダの大学、コロラドの国立海洋大気局を渡り歩いて研究実績を積んだ。
コロラドで妻が教会に行くようになり、結婚9年目にして娘が与えられた。
このころ、アメリカでの研究生活は8年目となっていたが、職場の人たちを見ながら、「アメリカで生まれ育ったわけでなく学校教育を受けたわけでもない、アジア人の自分がこの国でどれだけやっていけるのだろう」、と疑問や違和感、不安を感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、東北大学の教授がコロラドまで来て、「新しく産官学連携事業として研究所を作るので来てほしいと」言ってくださったので、「これはアメリカでつけた実力を発揮して活躍する機会だ」と、故郷に錦を飾るような気持ちで日本に戻った。研究分野も今までの宇宙と大気の光イメージング計測から生体光計測に広がった。
はじめ仙台郊外に出来ると思っていた研究所が山形市内にできることになり少しがっかりしたが、蔵王と月山の間に広がる自然豊かな山形市に、「こんなところで子育てできるなんて幸せ」と妻は喜んだ。田んぼや畑、果樹園、美しい山河、人情豊かな山形の人たちに囲まれて、娘は伸び伸びと育った。妻は山形南部教会に娘と一緒に毎週礼拝に通っていたが、私は気の向いた時についていって、お客さんとして、みんなに親切にしてもらうのがうれしかった。普段は忙しいこともあり、神経がもたないので、子どもの世話も家のことも何もしなかった。特に、娘と接する時間を大切にしなかったことは、今でも悪かったと思っている。
アメリカ帰りで皆に期待されていると思っていたが、国のプロジェクトはなかなか自分の思うようにいかないことが多く、数年ごとに切り替わりそのたびに状況が変わったり、日本経済も悪くなったりして、困難もたくさんあったし、日本流のやり方や職場の状況に不満や怒りもあった。思い通りに行かない不満やイライラを妻にぶつけたり、教会に行っても「つまらない」と思うようになり行かなくなった時期もあったが、教会の人たちや牧師先生はいつも変わらず親切だった。でも、それは「自分がいい人だから相手も良くしてくれるのだ」と考えていた。「あなたは罪びと」などといわれるのはいやで、自分が退職して現場から離れるまで、神様と距離をおきたいと考えていた。
このような研究にかかわる政策と体制に限界を感じ、共同研究していた会社に、「今の研究をアメリカで進めようじゃないか」と持ちかけたところ、会社も賛同して採用してくれたので、東京本社のメンバーとともに、2007年春、ニュージャージーに赴き、会社の研究所を立ち上げた。 山形を去る前に、山形新聞が特集を組んで3日連載で、私の13年間に亘る山形での研究と大学指導の歩みを「産官学連携の実例」として紹介した。それをもって、自分が山形でやったことの意義が明確になり、自分の足跡を残したことに気持ちの整理がつき、心残りなくアメリカに旅立てると思った。
ニュージャージーでは優秀な部下に恵まれ会社の信頼を得て、世界最高機能の眼科診断イメージング装置の開発に成功したことで、日本の国際競争力を高めることに貢献したと喜びを感じている。
いつもいつも自分は試練と闘っていると思ってきたが、その後ろにどれほど多くの人たちの助けがあったか、今わかる。コロラドで妻と娘を温かく受け入れてくれたFirst United Methodist Churchの人たち、山形を出発するその日の朝までお世話になった山形南部教会の人たち、ホテルの玄関まで見送りに来てくれた友人と隣人たち、仕事先の長野で高速道路のインターチェンジまで見送りに来てくれた教会員のことは忘れない。妻と娘を送り迎えするうちに温かく仲間に入れてくださったニュージャージー日本語教会の皆さん。2013年の元旦礼拝でついに洗礼を受けるに至ったのも、背中を押してくれた人たちのおかげであるし、私をたくさんの人が祝福してくださったことは本当に感謝である。「私がいい人だから」「私が何か良いことをしたから」でなく、ただただ私のために祈り助けてくださったたくさんの人たち、その人たちを通して働いてくださった神様の恵みがようやくわかった気がする。私を今まで祈り支えてくれた妻にも感謝している。
今まで数々の試練があったが、それと同じだけの恵みがあったのだと今は思える。試練はその時は苦しいが、時がたてば記憶の中の一部として遠ざかっていく。しかし恵みは遠ざかることないばかりか、記憶の中の一番近くに残って常に自分に喜びと勇気を与えてくれる。今まで知らずに沢山の神様の恵みを受けてきた私、今まで人に与えることを考えもしなかった私であるが、このみ言葉に出会って、このようになりたいと思うようになった。
「受けるよりは与える方が、さいわいである。」
使徒行伝20:35
感謝します。
月報2014年1~2月号より
「信仰生活40年」
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・・・・・、神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」 伝道の書3章1節‐11節
1973年に洗礼を授かりましたので今年は受洗40年の年になりました。この40年間一度も受洗を悔やむことなく、私を選んでクリスチャンの一人に加えて下さった主に感謝の日々を過ごせています事を何よりうれしく感じています。そして40年の歩みの中でいろいろの事が有りましたが、冒頭の聖句に記されています「神のなさることは皆その時にかなって美しい。」ことを実感する事が出来た40年であり、それだけでなく生まれた時からの70年がすべて主の御計画の中で歩ませて頂けていると確信しています。
高校生時代から英語が大嫌いでしたので、アメリカに来る事など思っていませんでした私に、留学の思いを持たせて下さったのも深遠なる主の御計画であったと今更ながらに思わされます。アメリカに来ることが無ければ教会に足を運ぶことも無かったか、または導かれるのにもっと時間が掛かったことでしょう。その後、いろいろな理由で好むと好まないにかかわらず住む地域を変えねばなりませんでしたが、その一つ一つを主が導いてくださったことを思い知らされています。
2年間のカリフォルニアに於ける大学院での学びとその後2年間の米国企業での研修を終えて帰国しましたが、その当時は終身雇用の時代でしたので、一度就職した企業を退社してアメリカに私費留学した者の再就職は容易ではありませんでした。今でこそ当たり前に知られていますMBAという学位も知っている人は皆無で求職の役には立ちませんでした。しかしこの就職浪人期間も主の御計画の一つであったと今は確信しています。
もちろん家族の温かい理解があってこその浪人生活でしたが、帰国しました私に主が御用意下さった教会での経験がどれほどその後の信仰生活の助けになったか分かりません。その教会も本当に不思議な出会いでした。帰国して直ぐに会った妻の叔父が「先週ロータリークラブの会合で牧師がとても素晴らしい話をして下さった。アメリカでクリスチャンになったのであればそこの教会へ行くと良いと思うよ。」と言ってくれました。牧師のお名前を聞きますとカリフォルニア時代に親しくさせて頂いた牧師の弟さんでしたので、主の導きと感謝して先ずはその教会の礼拝に出席させて頂き日本での教会生活が始まりました。共に30歳代半ばで1歳年上のアメリカ帰りの牧師はとても尊敬でき気も合いましたので、仕事が無くて時間が有った私はかばん持ち兼運転手のような立場で牧師の伝道旅行に度々帯同させて頂きました。
その折に見せて頂けた牧師の主にお仕えになる姿勢は何よりも私の信仰成長の糧となりました。行かれる地方でユニークな企画で用いられている教会や、成長している教会をきちんと調べておられて、空いている時間を使われて訪問されそこから学ばれます。教会がどのような場所に立地しているのかを知るために まず教会の近辺を車で回って環境をご覧になってから訪問されます。教会にはアポイント無しで訪問しますので牧師が居られれば短時間で整理されたポイントを質問され、地方の教会ではお留守でも鍵がかかっていない会堂もあって、失礼して中に入らせて頂き、会堂の中を見せて頂く事もありました。その一つでは当時では珍しい喫茶店風のカウンターでコーヒーが飲めるようになっている会堂を見つけてとても感心されて、新会堂の参考になさっていました。また札幌郊外では教会とは別に繁華街で普通の喫茶店を開いて伝道されているニュージャージー州からの宣教師を訪問して、喫茶店伝道のご苦労や喜びをお聞きしながら一晩実際の様子を見せて頂きました。どのようにお客様にアプローチしてどのタイミングで福音を語るのかは、宣教師がアメリカ人である事がとても利していたことは事実ですが、なるほどと感心できる刺激的な経験であった事を今でも思い出します。牧師はその後東京新宿での喫茶店伝道にこの時に感じられ学ばれた事を活かされておられました。さらにこの牧師は教会を運営するには一般のビジネスでの会社経営に通じるものがあると考えておられ、私も良く読んでいない「プレジデント」「日経ビジネス」などを購読しておられて、移動中の車の中や二人だけの食事の時にはそこからの話題や質問が多くありました。組織として運営し成功するには会社も教会も共通点が多いと気付かれて、特にコミュニケーションや人事査定に大変興味を持っておられました。MBAという学位だけは持っていました私にとりましても、牧師との会話は理論を実際に活かすための良き議論と学びの場となりました。
与えられた役割(任務)を真摯にとらえその立場を有効に活かし、共に労する人々と喜びを共にしながら組織をいかに活性化させて主に喜んで頂くかという事を絶えず考えておられ、その使命のために「万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)主に熱き祈りを日々ささげておられる牧師のお姿に身近に接する事で、聖霊様は新しい職に就く前の私にクリスチャン社会人としての仕事に対する心構えを植え付けて下さいました。
人の目から観ますと就職浪人と言う不遇の一年数か月でしたが、主は私のその後の社会人生活と信仰生活に必要な時として聖霊様を通してこの機会を与えて下さった、まさに無駄のない有意義な期間でした。その教会での信徒生活は短い期間でしたが、マーケティングの重要さ、相手の立場になって考えてみる心遣いや、自分からなんでも率先して経験すると言った組織の中での人間関係、熱き祈り等々、社会人生活の中でも大変役に立つ多くの事を理論では無く実際にこの目で見て体験でき、会社ではなく教会生活でそれを身につけさせて下さった主の御愛に心から感謝しています。
40年間の信仰生活を通して沢山の恵みのお証がありますが、その一つを書かせて頂きました。会社人間から引退してこのニュージャージー州に越してきましたのも主の導きであると信じています。これからも主の福音を伝えていく大宣教命令を示されているクリスチャンの一人として、どのような経験を聖霊様がさせて下さるのか大きな期待を持って胸をわくわくさせています。その折々では決して楽な事ではないと感じましても、主が
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それはキリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたは幸いである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(ペテロ第一の手紙4章12-14節)
と約束して下さっていますので、続けて主にお委ねし、お従いする信仰生活を送っていきたいと祈り願っています。
月報2013年11~12月号より
「主とともに歩む 」
この教会に転入会が許され1ヶ月が経とうとしています。ここに至るまでたくさんの方がお祈りにお覚えてくださってましたこと、また家族一同親しくお交わりの輪の中に加えて頂いておりますことを心より感謝申し上げます。何年も前からこの教会や皆様といろいろな関わりを持たせて頂いてますが、どのようにして私が信仰を持ったかお話しする機会がありませんでしたので、そのことをお証しさせて頂きます。
私の両親はクリスチャンで、生後1歳半の長男を日本脳炎で天に送るという試練を通し、家族献身に導かれました。両親の学びの期間、兄と私はインマヌエル綜合伝道団の神学校(聖宣神学院)の家族寮で幼少期を過ごし、その後両親の転任に伴って高松、京都伏見、新潟の地で、両親が奉仕する教会で育ちました。
高松にいたときのことです。私は2歳半、弟が生まれて5人家族になっていました。両親は、間近に迫った春の特別伝道集会の準備に追われていました。当時は、特別集会の準備と言えば、たくさんの立て看板を作って街中の電柱に立てて回ったり、チラシを何千枚も印刷して近隣に個別配布したり・・・。もちろん、チラシやポスターを作るにもガリ版やシルクスクリーンでの手作業という時代でしたから、その直前の忙しさは相当なものでした。そんな矢先、私は、外に出た兄を追って玄関を飛び出し、走って来た乗用車にはねられてしまったのです。車が急停車するブレーキ音を聞き、びっくりして教会から飛び出して来た両親は、血まみれになってゴムまりのように転がっている私を見つけ、大急ぎで病院に運びました。まだ幼くて体がやわらかかったからでしょうか、幸い命は取り留めました。が、左足大腿部を複雑・粉砕骨折しているということで、何度かに分けての手術が必要となりました。説明を受けた両親は、手術を受けたとしても完治は無理かもしれない、将来足を引きずって歩くことになるかもしれないと言われたそうです。両親は祈り、そして私に手術を受けさせる決心をしました。
手術の前の日、私は、牧師である父から病床で個人伝道を受けました。マルコによる福音書10章に出てくる目の見えないバルテマイのお話を通して、イエスさまは「助けてください」「癒してください」と求めるとき、それに応えてくださるお方であることを知りました。そして、交通事故で本当は死んでいたかもしれないこと、きわどいところで命を守ってくださったこと、神さまが私を愛してくださっていること、あの時事故で死んでいたら地獄に行っていたこと、地獄に行かなくてもいいようにイエス様が私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、イエス様の十字架を信じる者には永遠の命が与えられること・・・。この時、それまで教会学校や聖書えほんで語られていたお話と、自分のこととが重なり、私も神さまの子どもになりたい、天国に行ける子どもにしてほしいと思い、罪を悔い改めて祈ってもらい、『しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1章12節)のみことばをいただいて、神さまの子どもになりました。
翌日受ける手術も、怖くなくなりました。もし万が一死んでしまうようなことがあっても、天国に行けるという確信が与えられたからです。大腿部と言えども、全身麻酔ですし、小さな子どもの複雑・粉砕骨折の手術は大変でした。細かく砕けて肉に突き刺さった一つ一つの骨を集め、パズルのように元の形に組み上げていく作業は、手術に付き添った父の目にも、息を呑むような瞬間の連続だったそうです。1回目の手術が無事終わり、筋肉の回復と骨の成長を待って、骨を固定するために取り付けたボルトを外す2回目,3回目の手術が行われました。手術、リハビリ、数ヶ月の入院生活、その一つ一つを神さまは守り、いつも一緒にいてくださいました。体を回復させてくださった神さまは、私の小さな信仰も育んでくださり、さんびか大好き、聖書のお話大好き、教会大好き、教会のお手伝い大好きな子どもにしてくださいました。そして救われた日から2年7ヶ月後、1973年のクリスマス,当時教区長であった川口始牧師に洗礼を授けて頂きました(『少年H』にも登場する先生です)。運動しなければならない時期に歩けなかった私の足は、すっかり筋肉が衰え、退院後も数年に渡り体操教室に通って筋力強化に努めなければなりませんでしたが、ドクターの言葉通りにはならず、小学校に上がる頃には、奇跡的にもみんなと同じように歩いたり走ったり出来るまで回復したのです。(実は頭部も強打していてその影響の方がもっと深刻な問題だった、と二十歳になって初めて知らされた時には驚きましたが・・・。)
クリスチャンとなった私は、その後いつもハッピーで笑顔でいられたかというと、そうではありません。仏教文化の根強い京都で小中学校時代を過ごした時には、「おまえんち、アーメン、ソーメン、冷(ひや)そーめん!」とからかわれ、社会科でキリスト教禁止令を学習すると「教会の子やから、やっぱし踏めへんのか?踏んでみろやー。」と落書きの踏み絵を突きつけられ、礼拝出席の為に日曜日のクラブ活動を休むと届ければ大罪を犯したかのように先輩たちに非難され、学校に行きたくない、クリスチャンであることを隠したい,牧師の家庭になんて生まれて来たくなかったと思い、悩みました。新潟で過ごした高校時代は、公立高校の授業料を期日内に納入できないような経済的な戦いの中にあり、志望大学に合格できなかったものの、家計への負担を考えると自宅浪人したいとも言い出せず、東京に出て働きながら学びました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第1コリント10章13節)
困難に出会う時、いつもこのみことばを思い起こし戦ってきましたが、脱出の道がどこにあるのか分からないことも多々ありました。けれども、若い時からクリスチャンとされた者の幸いは、祈って進んでいく中で必ず神さまが導いてくださる、そしてそれはいつも最善でしかない、ということを理屈ではなく体験的に知っていることではないかと思います。今振り返ると、若い時に通らされた数々の試練のゆえに私の信仰は堅くされたと思いますし、就職、渡米、結婚、子育てと導かれた現在も、日々多くの問題を抱えていますが、「神さまが一緒だから大丈夫!」と思えるのです。
今も30センチほどの手術の傷が私の足には残っています。その傷を取ることを両親は薦めてくれたのですが、私はそうしませんでした。その傷を見るたびに私は、事故のこと,神さまの子どもとされた恵み、イエスさまの手足の釘の痕を思います。キリストの打ち傷によって癒されたことを感謝しつつ。
月報2013年9~10月号より
「母の受洗」
今年84歳になった母は、小柄な身体で、田舎道をどこへでも自転車で出かけるほど元気でした。ところが3月に心不全で救急車で運ばれ、緊急入院、その後の検査で、2つの心臓の弁が狭窄、閉鎖不全による心肥大に加え、肺水腫の診断を受けました。
知らせを聞いても、直ぐに飛んでいけず、涙と心騒ぐ私に、神さまは「あなたは私のために嘆きを踊りに変え、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。」〈詩編30篇2節〉と、み言葉を示してくださり、私の心も支えて下さいました。
母は、神さまに守られ、やがて酸素も点滴も取れ、1ヶ月後に自宅に戻ることが出来ました。近くに住む姉夫婦が、毎日のように、母が食べられそうな食事を作り、仕事の合間に届けに行っては、共に祈り、励ましてくれていました。
私が5月末に母のサポートのために一時帰国した時、母は、長い間の咳と痰に悩まされ、食欲、体力が落ち、食事と排泄以外、布団に伏す姿は、今まで見たこともなく小さく、弱く見えました。そのような中でも、私の出産の時のことを語っては、「範子を産んでよかった。」と涙ながらに語ってくれ、「ありがとう!」の言葉を交わす時が与えられたのは、感謝なことでした。
以前から、イエス様を信じて祈りに手を合わせる母でしたが、今回、水郷めぐみ教会の平山先生ご夫妻のお導きを頂いて、5月29日に自宅で病床洗礼に導かれました。
「神我らと共にいます」(マタイ1:23)
「我が国籍は天にあり」(ピリピ3:20)
そして、その数日後、しばらく会えず、祈っていた兄が帰ってきた時の母の喜び様は、まるで病気を吹き飛ばすような笑顔でした。私にはまるで幼子のような母が、大きな母に見えました。兄は早朝から玄関を履き、自ら「教会に行かなきゃ・・・」と語るのでした。私にとっても、神様の力以外に考えられない、神さまのみ言葉のお約束の出来事を見せて頂きました。兄は教会の祈りの時に、涙を流していたそうです。
それから、「お母さん受洗おめでとう」「祈っています。」のお言葉をたくさんいただき、母が、なんと多くの方に支えられ、愛されているかを知らされる、幸いな時でした。
母も、「ああ、ありがたいね。」とお祈りのサポートに感謝の言葉が続きました。
私の帰米後間もなく、再入院となった母ですが、身体の弱さの中にも、神様の守りと、祈りの使命が母を支えてくれています。この世で多くの苦労がありましたが、今、幼子のように天国の希望を握ることが出来たのは、何と大きな恵みでしょうか。
主に、そして皆さまのお祈りに心から感謝致します。
月報2013年7~8月号より
「高橋さんとは20年以上の…」
今回は、元JCCNJメンバーの五賀潔兄が、3月20日キリスト兄弟団成増教会でもたれた故・高橋剛兄の葬儀でお話しされたお証しを掲載させていただきます。
高橋兄の思い出
高橋さんとは20年以上の親しいお付き合いをさせていただきました。最初の出会いは、92年に私達夫婦が米国のニュージャージー日本語キリスト教会の聖歌隊に入った時です。高橋さんは以前より奥様と2人で参加されていました。その時はまだノンクリスチャンでいらっしゃいました。そして94年に当時の石賀誠先生が日本に帰国されることになった時、奥様と一緒に洗礼を受けることを決心され、その年のイースターに受洗されました。聖歌隊のメンバーと共に高橋さんご夫妻の洗礼を大変喜んだことを覚えています。
その後、正式な教会員として当時私が担当する委員会(宣教?伝道?よく覚えていませんが)にご参加いただきました。議事録作成の担当を快く引き受けてくださり、その委員会の議事録を作成してくださいました。その内容がポイントを簡潔・明瞭に網羅したもので、さすがだなーと感銘したことを覚えています。
高橋さんにとって青二才で経験不足な私のような者に対しても、謙虚に接してくださいました。また、ご自身のプライベートゴルフクラブに私達夫婦をご招待くださり、一緒にゴルフを楽しんだりしました。私を含め、多くの方が高橋さんのご好意に与ったと思います。
私たち夫婦が97年に帰国後、98年に成増教会に通うようになってから、日本のご自宅が近いこともあり日本に帰国された時は必ずといっていいほど成増教会に来られ、ニュージャージー日本語キリスト教会の近況を良く話してくださいました。ニュージャージーの教会の会堂建設の問題等、ずいぶんと心を砕かれ、ご奉仕されていました。2011年末に拠点を日本に移され、成増教会の会員になられてからは、ほぼ毎週のように日曜日の昼食をご一緒させていただいていました。
この場で高橋さんの素直な信仰、率直なお人柄を表したご自身の証しを紹介いたします。2006年にがんの手術を受けられた時の事の証しです。
(以下、高橋兄の証しの要約 : 高橋兄は2006年2月末、日本へ一時帰国された際に受けられた人間ドックで、大腸ガンの診断を受けられました。糖尿病の持病と心筋梗塞の病歴から手術の成功率は5分5分、でもこのままにしておけば2~3年は大丈夫かもしれないが、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょうと担当医から宣告されます。本来、体が弱く60才位まで生きられればいい方だと言われていたのに、75歳(当時)まで生きてこられたのだから今死んでも十二分に元は取れていると、手術を受けない決心をされました。ガンの宣告を受けたにもかかわらず、ご夫妻そろって平安を保っていられたのは、お二人がクリスチャンであるということにあると気付かれ、既に天に永遠の命が用意されていて、無意識のうちに死を恐れない安心感が与えられました。その後、温熱療法や気功治療を受けられましたが、病状の改善は見られず、10月の再検査の結果、主治医の判断で11月1日に手術を受けることとなりました。入院前、高橋兄は「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と祈られました。弟さんを脳梗塞で亡くされ、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさがよくわかっておられたからです。手術後、翌2日の朝まで麻酔から覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こすなど大変な手術ではありましたが、兄の祈りが聞かれ、手術は成功、ガンは切除され、2週間後に晴れて退院となりました。
この経験を通して、高橋兄は神様に守られていることを実感されました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと、第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと、第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で、担当医が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと、第四に脳梗塞を回避できたこと、そしてもう一つ、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘さんがご夫妻のサポートのために飛んできて、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと。「これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。」(本文より、以上)
(証の全文は2009年2月号月報に掲載されております。) http://jccofnj.org/?p=536
この証しの中で、高橋さんはお医者様を通して手術を成功させてくださった神様に感謝し、この後の人生は死んでもおかしくなかったのに特別に付け足していただいたものとして、神様のために生きようと思われたそうです。
最後に一言、3月3日に見舞いに行った時、高橋さんが、「五賀さん、天国に先に行って、あなたの部屋を掃除して待ってますよ」とおっしゃいました。私は、「高橋さん、天国の部屋は掃除する必要がないほど素晴らしいそうですよ。」と言い、高橋さんが「そうですか。そんなに素晴らしいですかね!」笑っておっしゃいました。高橋さんご自身が平安で、天国を待ち望んでいることが強く感じられ、逆に励まされました。
高橋さんのような素晴らしい方が天国で準備して待ってくださることは何と幸いでしょう。主に感謝します。
(3月20日の葬儀にて)
高橋さんは、亡くなる前の数年間を天国への準備期間のように位置づけられて、いろいろな方々にお会いになってもてなされたり、親切にしたりしていらっしゃいました。最後は病室にご家族全員が集まって、天国に見送られました。
晩年をクリスチャンとして人生を全うするお姿を間近で見せていただけた私達は、本当に幸せでした。悲しみの中にも重苦しさはなく、むしろさわやかな気持ちにさせていただきました。
天国への希望を与えてくださり、生きた証しを見せてくださる神様をほめたたえます。
月報2013年7~8月号より
「母を天に送って」
母は3月4日に90歳の誕生日を迎え、3月20日に天国へと旅立ちました。
73歳の時にこちらに来たのが最後でしたが、高校生の姪と来たので、美術館へ行ったり、五番街やモールを歩き回ったりしながら、自分の歩く力が弱っているのをとても気にしていました。
それから少しずつ、少しずつ歩けなくなり、何度も家の中で転んでは入退院を繰り返していました。その頃はショートステイの施設でリハビリをしてはまた家に戻って来て、をしていました。そして週三回デイケアサービスでそこに通っていました。
毎年、母に会うために一時帰国をしていましたが、自分で靴を履いていたのが履かせてもらわなければいけないとできなくなり、最後は車いすの生活になりました。
それでも、車いすを自分の足で漕いで動いていたそうですが、ショートステイの施設はいつまでも置いてくれません。自分から有料老人ホームを探してほしいと弟に伝えたそうです。弟は何十箇所と見て回ったそうです。
家から近く、環境の良いそうして、払える料金のところ、そこは清潔で施設も整い部屋からは若草山が見えました。スタッフの方々も良さそうな方でした。
でも、個室で車いすの生活だと、人と接する機会も減り、去年入居したばかりの頃に会った時には、いろいろ話もしていましたのに、今回は本当にびっくりするほど喜怒哀楽がなく、会話も短いものしかできませんでした。
今回はただいつものように顔を見に帰っただけでしたのに、園に会いに行った次の日、急に具合が悪くなり、入院となりました。体中が痛い痛いと訴え、座薬を入れてもらい、眠り、また痛みのために目を覚まし、また薬、その繰り返しでした。
目を覚ました時、早く死にたいと頼みました。そこで、私はもう一度、私自身がクリスチャンになったことを母に話して、そんなに辛いなら、神様にお願いしようかと聞きました。母はうなずき、私は神様に早く楽になれるように、天国に連れて行ってくださるように、お願いしました。
次の日、うそのように痛みが取れました。
今回、帰る前から、長い間会っていない友達と会う約束をしていて、もちろん、キャンセルするつもりでしたが、弟や義妹が、病院に入っているから、一応安心だし、出かけたら、と言ってくれたので、出かけました。
毎日、様子を聞くために電話をしていたのですが、髪を洗ってもらった、体を拭いてもらった、飲み込む力をつけるため、
リハビリを始めた、と快方に向かっているようでした。予定どおり帰って来て、病院に行き、私のことわかる?と話しかけると、「典子」と言い、長男のことも洋介だとわかると言いました。先生からも一週間ほどしたら退院です、と説明されました。
長男は6年ぶりに母に会ったので、何か話してあげなよ、と言ったのに、あまりの変わりように、ショックを受け、泣いてしまって、何も言えませんでした。
抱き寄せて、ほほにキスしてあげたのが精一杯でした。明日、また来るから、と帰りました。
次の日、明日帰るからね、と病院への向かう途中、先生から電話が入り、早朝から容態が急変したと言われました。病院に着いた時はまだ意識はありました。その日は祭日で先生たちも少なく、説明しますと言われたとたん、急患が入り、そばについていましたが、私たちのことがわかっていたかどうか。
そんな中、心臓が止まり、一時は蘇生しましたが、元気な頃から延命行為はしないと決めていましたので、そのまま午後2時10分永眠しました。
今から思いますと、私を行かせてくれるために、一時的に回復し、そのおかげで、ちょうど同じ頃に天に召された高橋さんとも最後のお別れができました。
髪を洗ってもらい、体を拭いてもらい、旅立ちの準備をしていたのですね。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」 (ヨハネ第一の手紙4:14)
痛みからも解放され、息子と孫と娘に付き添われ、お願いした通り、神様に天国へ連れて行っていただいたのと、確信しています。
私たちのことを待っていてくれたのでしょうか。
遠く離れて住んでいますのに、幸いにも最後に会わせてくださった神様に感謝いたします。
本当にすべてこれで良かったと思っています。
そうだよね、お母さん。
月報2013年5~6月号より
アンドリュー・ホンゴー牧師による証
今回は、私たちの教会を何度も訪問してくださり、(そのうち何度かはハワイアンの歌手であるご両親と一緒に)励ましてくださってきたAndrew Hongoさんが書いてくださった英文のお証しを、日本語に訳してご紹介します。
アンドリュー・ホンゴー
私は今までも宣教の働きに携わってきましたが、ずっと日本に特別な使命を感じることはありませんでした。私は貧しい人々と共に働くことに情熱を感じていたから、ということもあるでしょう。私はもっと冒険的なところ、エキゾチックなところを求めていたということもあると思います。もしかしたら、私が12歳の時に、私はハワイでサマースクールに行って、友達とテニスをしたり勉強をいっしょにしたりしたいと思っていたのに、両親が日本でのサマーコンサートのツアーに無理やり私を引きずって行ったからかもしれません。
けれども、ハワイの教会が日本へのミッショントリップを計画していることを知った時に、それは主が開かれた道だと感じました。ハワイアンの歌手である私の両親は、東日本震災で被災された方々のために、2011年の12月に日本に行く予定にしていましたが、父にガンが見つかり、直前でキャンセルになっていたからです。ちょうど日本に出発するはずだった日に、両親はカルフォルニアの病院で治療を受けるために飛行機に乗っていたのです。両親は私にこう言いました。「アンドリュー、私たちが行けなかったんだから、おまえが代わりに行かなきゃいけないんじゃないかな」と。
私は、このトリップがあの大震災で被災された方々のための働きであることを知っていました。しかし、その地に立つまでは、そのことの重大さがわかっていませんでした。私は「どうして神はこんなことが起こることを許されたのだろうか?」という問いに直面しなければならなかったのです。日本に着いて間もなく、おじのデニスと牧師の藤浪先生と私は、1年半前に起こった被害の大きさを物語る一つの場所に立っていました。そこには、何キロも内陸なのに、何も残っていない土地に、大きな船が打ち上げられていてそのままになっていました。その船の下、右の方には押しつぶされた車がありました。そして、正面には小さなテーブルが置かれて、そこにはソーダやビール、果物、手紙、そして、香炉と小さな十字架がおいてありました。私たちはそこで祈りをささげようとしたのですが、ただ、涙があふれてくるばかりでした。私は、愛の神がどうして、このような恐ろしい状況でたくさんの人々や子供たちが亡くなるということを許されたんだろうか、それを理解することが全くできなかったのです。
私はただ、この震災の被害状況を理解するのが難しかっただけではありませんでした。私たちは、翌日に気仙沼で、ハワイアンショーをする予定にしていたのです。私たちのなすべきことは、希望と喜びを失った人々に、その希望と喜びとを届けることでした。しかし、自分たち自身が悲しみに押しつぶされているのに、どうして、私たちが何かをすることができるというのでしょうか?
翌朝、私は目が覚めた時に、主からの幻を見ました。私たちのチームが公園のステージに立っているのが見えました。おじのデニス、藤浪先生、そして、私が赤いアロハシャツを着て、リリコと二人のダンサーが私たちの前に立っています。そして、私たちの後ろには父なる神が立って、その手を大きく広げて、気仙沼の人々がご自身の元に帰って来られるのを待っておられるのです。それはちょうど、ルカによる福音書の15章の放蕩息子の父親が愛をもって、忍耐深く、情熱的に放蕩息子の帰りを待っているかのようでした。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 (ルカ15:17-20)
私はまだその疑問への答えを得たわけではありませんでしたが、神がどれほど日本の人々を愛しておられるのか、それを感じ始めていました。
それからの日々の中で、私は、そんなことがあるんだろうかと信じられないような証しをいくつも聞きました。ある牧師は津波で流されてしまった漁村で伝道をしていました。以前はその漁師のみなさんは、日々の生活のために忙しくて、聖書の話を聞くことなんか全然できないでいました。しかし、津波の後、漁師の仕事に戻れるまでに時間がかかったために、たくさんの人々が聖書の言葉に耳を傾けることができ、クリスチャンになったといいます。そして、その牧師に言ったそうです。「私たちは津波が来たことを感謝さえしている。それがなければ、私たちは決してイエスさまに出会うことはできなかったから。」ある女性はこう話してくれました。彼女は命からがら津波から逃げることができましたが、高台に逃げる途中に、津波がすぐそばまで迫って来るのを目の当たりにしました。家を失い、仕事も失い、仮設住宅の小さな部屋に住んでいます。でも、それらのことによって、彼女は主を知ることができたのです。彼女の顔は喜びに輝いていました。
神様がどうしてこんなことが起こるのを許されたのか、私にはまだ良くわかりませんでした。この地上にいる限り、わかる日が来るのかどうかもわかりません。しかし、この疑問に苦しみながら、私は自分の父のことを考えないではいられませんでした。父は1年間ガンと闘ってきました。いつまで続くともわからないドクターとのアポイントメント、抗癌剤治療、そして、腎臓透析の日々を送りました。自家造血幹細胞移植の後は話ができないほど弱ってしまいました。熱でうわごとを言うようになり、夜中にトイレに連れて行かなければいけない時もありました。そんな日々のことを思い出していました。そんな時はただただ、神に叫ぶしかありませんでした。でも、そんな時にこそ、今までの人生の中で、イエスの臨在を一番確かで、一番力強く感じたのです。神がどうして、私の父がガンになるのを許されたのか、ということも私には理解できません。しかし、私はすべての疑いを越えて、これらすべての経験の中で、今まで経験したことがないほどに、神が私たちを愛してくださることを知ることができたのです。
去年の8月、私は12歳の時よりもずっと日本が好きになっていました。34歳になって、やっと私は自分の祖先の地に愛着を感じるようになりました。食べ物や文化、言葉、そして、温泉も。私の人生の中で初めて、主の働きのためにそこに戻りたい、という気持ちになりました。今まで何年もの間、両親から「一緒に日本に行かないか?」と聞かれる度に、何の迷いもなく「ノー、サンキュー」と答えてきました。しかし、今、「いつか一緒に日本に行かないか?」と聞かれたら、即座に「ぜひ行きたい!」と答えるでしょう。私の祈りは、主が私の家族を日本にもう一度送ってくださることです。そして、そこで神様が日本の人々を神様の元に導いておられる御業を共に見せていただければと願っています。
月報2013年3~4月号より
「2013年は洗礼20周年です。…」
2013年は洗礼20周年です。これまでの歩みをすべて支えて下さった神様と、家族、教会の皆さんに心から感謝致します。
私の生まれ故郷の浅草は、寺社を中心に祭事の多い威勢のいい町でした。同級生の家は自営業中心で、商店、水商売、とび職、家内産業等でした。実家は製本業を営み両親は働き者で、子供の教育にも熱心でした。私は子供の頃から外国への憧れが強く、大学時代は海外旅行や短期留学をしました。卒業後は大手旅行社に就職し、中国室に配属となりました。上海へ駐在する話もありましたが、当時若い 女性を中国に送るのは危険との声があり、立ち消えになりました。入社後4年目に父を病いで亡くし、母は49才で未亡人となりました。私は若くして父を亡くしたことがショックで、なかなか立ち直れませんでした。親孝行することもなく、自分勝手に生きて来た事が父を殺したような気がしていました。そして弟が結婚し、家庭環境は激変しました。家業を廃業し、母と二人暮らしになりました。一人になるとわびしい思いが溢れてきました。自分がなぜここに存在しているのか、人はどこから来てどこに行くのか、答えのない問いが心を巡ります。時はバブル全盛期、仕事、夜遊び、習い事でスケジュールを埋め、ヨガ、瞑想、ニューエイジ系の本等、心の隙間を埋めてくれるものを探し求めていました。日本では聖書の話を聞いたこともなく、教会とも接点がありませんでした。
その後、海外研修に行くことになりました。行き先は北京か上海かと思いきや、地球の裏側のニューヨークでした。英語は苦手で、不安と期待が混ざる気持ちでNYにやって来ました。仕事もアフター5も充実して、一年弱の研修期間はすぐに過ぎてしまいました。帰国後すぐNYに戻りたくなり会社に交渉しましたが、聞き入れられず退社、母に2-3年行ってくるからと告げて一人でNYに戻ってきました。90年夏のことでした。
まず学校で英語とPCを習いました。久し振りの学生生活は楽しかったものの、減っていく貯金に心細くなり、働かねばという気持ちになりました。その時ローカル誌を開いてみると、一つの求人広告が飛び出してきたように目に留まりました。小さな旅行社でしたが、面接に行ってみるとその場で採用され、就労ビザもサポートしてもらうことになりました。しかし2週間経った頃、突然移民局の査察官が職場にやって来ました。出口が閉ざされ尋問を受け、移民局への出頭が命じられました。仲良くさせてもらった同僚はビザ切れが発覚し、その一週間後に強制送還となってしまいました。彼女も夢をもってNYにやってきた人でした。同じ状況で働いている人は大勢いるのに、やり切れない不条理を感じました。
一年経つ頃には会社の財政状況が悪くなり、別のオフィスビルへ移転、多くの人が入っては辞めていきました。雰囲気が暗く時に怒号が飛び交い、クビを覚悟で2回ほど数日間のプチ家出(無断欠勤)を決行しました。ビザ切替申請もしてもらっていましたが、必要書類が会社から提出されずに、数ヶ月宙に浮いた形となりました。二回目のNYは思い描いていたバラ色からは程遠く、限界を感じていました。
その職場には社長の友人である男性が毎日来ていました。彼はクリスチャンになったばかりの人で、”神様はすごいんだよ”といつも熱く語っていました。社長は忙しく留守がちでしたが、私にも神様を知ってから彼の人生に起こったたくさんの事を話してくれました。ランチをよくご馳走してくれました。こんな会社経営者の中年男性をとりこにする神様とはどんなものだろうと思ったものでした。
誘われるまま、当時マンハッタンで行われていた新来者向けゼロ集会や、家庭集会に行くようになり、91年のクリスマスに初めて礼拝に出席しました。二人の方が洗礼を受けておられました。何だか自分がそこにいるのが場違いな気がしました。それでも、礼拝に何回か行くうちに、そこに聖らかな流れがあることを感じるようになりました。
ある家庭集会で、二代目牧師の石賀先生がこう言われました。”あなたは自分で米国に来たと思っているでしょう。でも違うんだ。神様がここに連れてきたんだよ。あなたはここで色々やりたいと思っているだろう。実は神様と出会う為に来たんだ。それがあなたが米国で経験する一番素晴らしい事になる。あなたが聖書の話を聞きたければ、僕はいつでも、どこにでも行きます。” その言葉を何日も反芻していました。
昔から超自然的な存在を感じており、父なる神様のことはすんなりと受け入れることができました。”でも、そこにイエス・キリストがどう結びつくですか?”核心的な問いが心にありました。ある時石賀先生は、神様⇔イエス様⇔人間の相関図を見せながら、”人間には罪があって、そのままでは聖なる神様のところには行かれない。神様はそれを憐れみ、ひとり子であるイエスを十字架に送り人々の罪を背負わせた。イエスは十字架で死んだのち葬られて三日目に復活した。イエスを信じる者には罪の赦しと永遠の命が与えられ、神様の子とされる。だからにイエスは神様と人間のあいだの架け橋となったんだ。”と教えてくれました。
頭で理解しても、魂のレベルでそれが分るようになるまで相当の時間を要しました。牧師や教会の皆さんは祈りをもって見守ってくれました。自らどうしていいか分りませんでしたが、ある時牧師が、罪の悔い改めとイエス様を救い主として受け入れる信仰告白の祈りをリードしてくれました。聖書の分らないところは、魚のように柔らかい肉から食べて、固い骨は後に取っておきスープにすれば良いと言われました。聖書を読み進むうちにここに真実があり、イエス様の教えは人間の知恵から出てくるものではないと確信するようになりました。
その頃グリーンカードの抽選があり、申請書を千通ほど送ったところ、弟と私が当選しました。ここで道が開かなければ帰国かというところでした。すぐに労働許可が取れ就活を始めると、ホテルでの就職が決まりました。色々ありましたが、社長に引き止められながら、感謝のうちに円満退社することになりました。
93年5月30日に父なる神、子なる神、聖霊なる神のみ名によって洗礼を授かり、罪の赦しが宣言されました。職場で初めて福音を聞いてから約一年半の時が流れていました。その夜それまでにない平安と温かさが心を包み、聖書で約束された聖霊様を受けた事を知りました。
やがて聖霊様は、父の死は神様の主権下にあり、誰も責める必要がないことを示してくれました。また、神様がご計画をもってこの時代に生命を与えNYに導かれたこと、罪過の内に霊的に死んだ状態から引き上げ、イエス様の十字架の恵みに招き入れて下さったこと、神様と歩む喜びに満たし、この地においてもたくさんの使命が用意されていることも….。消化できるよう時間をかけて悟るようにして下さいました。
洗礼に際して頂いた新改訳聖書の裏表紙に、石賀先生がみ言葉を書いて下さいました。
神の全能の力の働きによって、私達信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。(エペソ1:19)
洗礼は、神様による溢れんばかりの祝福へのスタート地点です。この20年間の歩みを通して、私が離れている時でも、神様はこのみ言葉どおり偉大で真実でした。結婚、出産、子育て、大学院進学、再就職等、人生の節目において教会があり、共に喜びを分かち合い、試練の時は祈り支えてくれる人々を備えて下さいました。毎週の礼拝では神様の下で憩い、新しい一週間を歩む力が注がれます。日々神様の恵みを分ち合い、祈り支え合う人々が与えられえています。又、福音を語ってくれた人々、祈ってくれた人々の仕える姿が、クリスチャンとして使命を果たしていく上での良き見本となっている事を感謝しています。
目に見えなくても、イエス様は日々羊飼いとしてその民の歩みを導き、豊かな命を得させて下さいます。そして主の真実はとこしえに変わることはありません。
すべてのご栄光を主にお返しします。
月報2013年1~2月号よ
宮古コミュニティーチャーチ岩塚和男牧師による証
今月は昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた宮古市を中心に支援活動をされている岩塚牧師にメッセージをお願いしました。岩塚牧師ご夫妻は、今年の6月にNJを訪問され、被災地の様子をご報告下さいました。
「被災地の中心で神のシャロームを叫ぶ!」
宮古コミュニティーチャーチ牧師 岩塚和男
その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
He will be called, “Wonderful Counselor,” “Mighty God,” “Eternal Father,” “Prince of Peace.”イザヤ9:6
感謝と祈り
2011年3月11日の東日本大震災から1年8カ月になりましたが、これまで様々な形でご支援下さり、お祈り下さった方々に心から感謝します。
また、先日ニューヨーク、ニュージャージーを襲ったハリケーン「サンデー」で被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。
最も被害が大きかったのは
「東日本大震災で最も被害が大きかったのはどこですか?」
震災後に持たれた復興支援コンサートで司会をさせていただいた時に、このような質問をさせていただきました。
「大槌町」「(宮古市)田老」「……」などの地名があげられましたが、私が被災各地を回り、多くの被災者のお話しをお聞きした経験から「最も被害が大きかったのは私たちの心ではないでしょうか」というと皆さんが同意され、涙を流されていた方もいました。
なかなか癒えない心のダメージ
ガレキが取り去られ、商店が再開し、外見的には復興が進んでいるように見えても、1年後のアンケートでは、85%の方たちが「まったく進んでいない」「ほとんど進んでいない」と答えています。1年8カ月になってもその数字はあまり変わらないように思えます。被災して心に受けたダメージの回復が遅れているのが現状です。
先日、ロサンゼルスで開かれた国際トラウマティック・ストレス学会で日本の精神科医により「福島の子供たちの21.5%が危険な心の状態にあり、大人は21.3パーセントが心的外傷後ストレス障害(PTSD)に陥っている」と報告されました。実に、5人に1人の方が精神的な問題を抱えているのが現状です。
悲しみに寄り添う働き
昨年のお盆の前(震災から4ヶ月後)にある仮設住宅を訪ねたら、一人の男性が無表情で玄関にお盆の準備をしておられました。震災から1年8カ月を迎えようとしている11月に再びその方とお会いすることができ、玄関先でお話しをしました。しばらくすると、奥さまが目の前で津波にさらわれ亡くなられたことをお話し下さり、その深い悲しみで嗚咽しながら泣き出されました。私も一緒に泣きました。少し落ち着かれると、同じく奥さまを亡くされた友人を連れて、教会主催の仮設カフェに来られ、支援に来られていた牧師にこれまで一人で抱えてきた思いを打ち明けられました。そして「震災後初めてこのような機会を持つことができた。ありがとうございます。」とおっしゃって帰られました。この方は、1年8カ月もの間、悲しみを吐き出すことができずにいたのです。
震災で友人を亡くされた仮設住宅で一人で暮らされているご婦人は、自分だけが助かったことに罪悪感を覚えるようになり、また一人暮らしの孤独感で、時が過ぎるにつれて「海に飛び込もうか」「包丁でお腹を突き刺そうか」「……」と自ら命を絶つことばかり考えるようになったそうです。クリスチャンのボランティアが集中的に訪問することにより、今は、「もう死のうなんて言わない」「神様がいるってわかった」とおっしゃっています。
こうした、心が張り裂けそうな悲しみにある方がた、生きる希望が持てずに家にこもっている方がた、アルコール依存症の方がた、死にたいという思いに苛まれている方がた、……が今も大勢おられるのです。
そして、それは決して被災地に限った事ではないのです。
日本では、自殺者が年間およそ3万人、孤独死(孤立死)が東京23区だけで年間およそ3千人。大切な命が悲しみと孤独の中で失われているのです。
あなたの隣人が叫びをあげているのです。
悲しんでいる人々に寄り添う人が必要です。
「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」
東日本大震災から二度目のクリスマスを迎えようとしていますが、
“その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)” と呼ばれる救い主イエス様が一人一人の被災者の心に、そして世界中の救いを求めている方々に訪れるように切に願わされます。
1.「素晴らしいカウンセラー」”Wonderful Counselor,”
「不思議な助言者」は、尾山令仁訳では「素晴らしいカウンセラー」と訳されています。ほとんどの英語訳も同様に訳されているようです。多くの方が気休めや如何わしい助言者ではなく、まことのカウンセラーを求めています。どのような悩み、悲しみ、苦しみにある方にも、イエス・キリストこそその思いのすべてを受け止め、寄り添い共に歩んで下さり、解決を与えて下さるお方です。
2.力ある神
震災後に多くの方がたが感じられて、言われたことは、それまで信じ、仕えてきた偶像の神々が「力ない神」で何の助けも得られなかったことです。教えを説き、御勤めやお布施を求めるが、具体的に助けることはできない神々。まさに“彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。(イザヤ46:1~2)”であったことを身を持って体験したようです。
しかし、震災後に、多くのクリスチャンボランティアに接した方がたが、クリスチャンの信じている神のことを知りたいと言われるのを聞きました。クリスチャンの愛の奉仕や証しを通して、その信じている神の偉大さ、力強さを覚えたようです。「あなたたちの信じている神様は強い神だ!」と言われた方もおられました。
3.永遠の父
“わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)”とあるように、イエス・キリストは、私たちの父であり、愛する子供たち一人一人をみなしごにしない神である。
また、心の行き場のない人々が増えている現代社会で、父の家は私たちの帰るべき魂の故郷でもあります。
震災やさまざまな苦しみによって一人ぼっちになり、みなしごのような状態にある方々にとって永遠の父となって下さる救い主の愛が、私たちの奉仕を通して伝えられるように!
4.平和の君
先日、ある集会で「伝道は自分たちの教団、教派の拡大とそのための信徒獲得のみを目指すのではなく、この世界に神のシャロームを樹立することを目標とすべきだ」と話させていただいた。“シャローム”は単に、争いのない、「平和」な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいい、「健康」「平安」「健全さ」「安全」「欠けることのない十全性」という意味も含まれる豊かなことばです。
キリストはその十字架により、神と人とのシャローム、また人と人とのシャロームを成し遂げて下さった。その福音をことばだけでなく、私たちの存在のすべてを通して伝えられればと強く願わされる。
仮設住宅での生活が長引くほどその生活の過酷さを訴えられる方が増えている。経済の問題、健康の問題などもさることながら人間関係の問題が深刻になっている。ストレスも溜まりDVも急激に増えているようである。
人間関係の難しくなっている仮設住宅の自治会長さんから「教会のボランティアはそういう(和解の働き)のが得意のようだから手を貸してほしい」と相談されたことがあります。私たちには、神から“和解の務め”がゆだねられているのだと再確認させられました。
それは神が求めておられることですが、世の人々も求めていることなのです。
今こそ「平和の君」であるキリストのシャロームが必要です。
月報2012年11月号より
「みんなくるくるクールなスクール~ JOY JOY Academy」
2012年8月14日、ジムに学校の教室ができて、その裏には迷路が広がりました。そして、56人の元気な子供たちが集まって、JOY JOY Academyが始まりました!17日までの4日間、楽しく遊んで、たのしく聖書の話を聞いて、元気よく歌って踊って、スポーツや工作をして、迷路トンネルを探検して、エキサイティングな日々を過ごしました。
詳しくはwww.jccofnj.orgからJOY JOY Camp 2012の写真やニュースレターへのリンクをごらんください。
聖書のメッセージと「くーるVerse」はこのようなものでした。
1日目:
この世界は神様が造ったんだよ
「初めに神か_天と地を創造した。」 創世記1:1
2日目:
神様は一人一人を特別に造られた
「神様は一人一人に何かすく_れた能力を授けてくた_さっています。」 ローマ 12:6
3日目:
神様はイエス様によって私たちの罪を赦してくださいます
「神は実にそのひとり子をお与えになったほと_に世を愛された。それは御子を信し_るものか_一人として滅ひ_ることなく、永遠のいのちを持つ為て_ある。」ヨハネ 3:16
4日目:
イエスさまが友達になってくれたように、私たちも誰かの友達になろう!
「救い主のわたしは、実にこの人のような者を捜し出して、救うために来たのです。」 ルカ19:10
一つ一つの聖書の言葉が子供たちの心の中に残りますように、お祈りしています。
以下にキャンパーとご家族、そして、スタッフから寄せられた声をご紹介します。
<キャンパーとご家族から>
こんにちは。
JOYJOYでお世話になったOとWの母です。
キャンプでは息子達が大変お世話になり、ありがとうございました。昨年、今年と子供たちはとても楽しい数日間を過ごさせて頂くことができました。
昨年初めて参加させて頂いてから、JOYJOY Campのために家族旅行の計画をずらして欲しいというほど楽しみにしていた今年のキャンプでした。
毎日楽しみで、朝起きるのも上機嫌。
でも木曜日になると「あと1日しかないの…」とすでにしょげるほどみなさんによくして頂いて、楽しいだけの時間を過ごさせて頂いたようです。毎日帰りの車の中でも上機嫌で、キャンプであったことをいろいろ話してくれました。
Oのお気に入りの「しもりん」さん、話しの中には何度も何度も名前が出て来ました。本当によくしていただいたのだと思います。
Wにとても優しかった「えりか」ちゃん。いつも笑顔で接してくれて、私もとても話しやすい明るいいい子でした。
私の子供たちもいつかはこんな風に優しい、思いやりのある子供たちに育って欲しいと思うばかりです。
ほかのスタッフの皆様も、本当に優しくていい方ばかりで、こどもたちがJOYJOYファンになる意味がよくわかりました。
錦織先生はじめ、スタッフの皆様、ボランティアで関わってくださった皆様、お手伝いくださった若いリーダーの皆様、本当にありがとうございました。
また来年もお世話になれたらと願っています。
4日という短い時間でしたが、本当にありがとうございました。
—
とても楽しい4日間でした。ありがとうございました。
夏休みがまだ遠かった頃から、娘たちが参加できるといいなと思っていました。
聖書のお話しを聞いた事のない娘たち、このまま大きくなったらさみしいなと考えていました。
長い間、教会へ行っていない私自身ですが。。小学生の頃は、聖書のお話しを聞いたり 暗記したり 夏は何泊かバイブルキャンプへ行ったり、クリスマス会など懐かしい思い出があります。
Joy Joy Campに参加した4日間、娘たちは大好きな工作やダンスだけでなく、スタッフみなさんの温かさに触れてパワーUPした様子です。
—
4日間大変お世話になりました。
兄(8歳)弟(5歳)で参加させていただきました。
2人とも来年もまた行きたいと声をそろえて言っています。
迷路や実験?(ペットボトルの魚つり)が楽しかったようです。
最後の日、お祭り・表彰式から自宅へ帰って来くると次男が急に泣き出しました。
「寂しいよ~、またあそこに行きたいよ~」としばらく泣いていました。キャンプが終わってしまったことが悲しかったようです。素敵なスタッフや友達に出会えて、充実していたんだなぁと改めて感じました。
また来年も是非、参加したいと思います。
ランチまで付いていて本当に大助かりでした。母はとても楽が出来ました。
また来年もランチ付きでお願いします。
4日間ではなく5日間にしてもらえると子供達も喜ぶのではないかと、要望としてキャンプ期間を延ばしていただけたら嬉しいです。
素敵なキャンプを企画、実行していただきありがとうございました。スタッフの皆様、本当にお世話になりました。
—
とても楽しい4日でした。
本当にありがとうございました
Kはいまだに歌を歌い踊ってます
Sもとても楽しんでいました。
二人そろって歌っているときがあります。
—
今回兄弟二人ではじめての参加でした。
毎日子供達を飽きさせることのない内容に、スタッフの皆さまのご準備にどれだけの時間が費やされたのかと思わずにいられません。
皆さまに温かく迎えられ、子供達の癒しになったことは子供達の笑顔が語っています。
二人揃って「もう終わり?来年もまた行くね」と言っておりました。ありがとうございました。
—
こんにちは
KとYの母です。
2人とも、キャンプ中とても楽しかったようで、一番はトンネルで作った迷路と叫んでいます。
お祭りも、とっても楽しかったです。
手作りの工作も多く、楽しかったようです。
一つ・・・お昼ご飯で、自分たちで作った・・・トルティーヤに包んで食べたのが、苦くて食べれなかった・・・辛かった・・・と
美味しかったのは、カレー 牛丼 お祭りのたこ焼き~と言っています。
また来年も行きたい!!と、もう今から、話しています。
色々とありがとうございました。
—
今回、初めて参加させていただきました。
子供たちも最初はどんなことが始まるのか少し不安そうでしたが、毎日「JOYJOY楽しいよ~」と言って戻ってきました。
また、スタッフの皆さまの親切さ、優しさに、子供たちも安心できたのではないかと思います。
わが家はクリスチャンではありませんが、今回のキャンプで神様のお話を聞き、現地校、補習校に習い事と、親子共に心にゆとりがなく過ごしている毎日の中で「神様に守られている」「それぞれに才能を与えられている」等の言葉は少なからず子供たちの心の中に残りちょっと安心したのではないかと思います。これから先、つらい時にはまた思いだして頑張る力となることを願っております。
本当に楽しい毎日で終わってしまった日は、とても寂しそうでした。またJOYJOYに(キャンプだけではなく)行きたいと毎日言っていました。キャンプが終わり子供たちの顔が優しくなったような気がします。子供たちの心に安らぎを与えてくださり、本当に感謝しております。
—
TがJoyJoyキャンプに参加するのは今年で二回目。昨年、アメリカに来てすぐに参加させて頂いたのが楽しくて、その後、月一のキッズクラブにも参加させて頂くようになりました。
今年のキャンプも楽しみにしていて、思い切り楽しんでました。
特にサッカーに熱が入っていたようです。
会場の装飾からプログラムまで至るところに工夫があり、スタッフのみなさまの発想力に頭が下がる思いです。
そして、何よりキャンプの雰囲気が温かく心がこもってる感じがするのがこのキャンプの魅力の一つと毎回感じています。様々な年齢の子とふれあい、神様の教えも学び、そんな中で何か大事なことを感じてくれたらなあとも思ってます。
今年もたくさんのスタッフの方のお力でキャンプに参加出来た事を感謝しております。本当にありがとうございました。
<スタッフより>
いつもながら、こどもたちの心はスポンジのようでした。
神様が世界と地球を造ったんだ、という話に、
”神様って本当にいるの?”と聞いた5才の子。
悪い人は天国に行かれないものね?という劇の語りかけに
“そうだよ。”という反応。
小さいなりに、罪が生む深刻さを感じているんだ。
“そのままでイエス様のところへ行けばいいんだよ。
罪が赦されて、永遠の命がもらえるんだ。”
十字架の愛はいつも感動的。それがこどもたちの心へも拡がっていくのを感じました。
植えられた種、注がれた水。そして、それを大きくして下さる神様の働きを期待しつつ。
キャンプ中に作成した巨大モザイク。
小さな8色の紙片を何百枚も貼っているうちにだんだん声を
失ったものの、やがて出現したイチローに大喜び!
近視眼的には分からないが、遠くからだと見えるものがある。
人生もまさにそうではないでしょうか。
1ピースを一日と数えると、24,000ピースは約65年分。
昨日は赤色、今日は青色だったりするけど、いつか全体を
見わたす日がやって来る。
年々肉体的にはきつくなることを実感したキャンプでした。
準備3日間が終わった段階で、(つまりキャンプ開始前に)
疲労はピークに….。
教会やスモールグループの皆さんに毎日祈ってもらったことが大きな支えになりました。祈りのパワーに感謝と感動。
月報2012年9月号より
「主のあわれみに生かされて!」
カリフォルニアから戻り、なつかしいNJの教会の仲間に再び入れて頂きました。若かった仲間の頭にも白いものが増えているのを微笑ましく見ながら、教会に忠実に仕えておられる姿を主に感謝し、昨日も今日も明日も変わる事のない素晴らしい主を共に賛美出来る喜びを感じています。NJを去る時はまたここに戻れるとは思っていませんでした。主人のリタイヤ後は、一人になった母の願いに応えて、日本で一緒に住む計画の方が強かったのですが、父が召された4年後に、あっという間に母が召されてしまいその機会を失いました。同時に起こったリーマンショックやマンハッタンで仕事をしている娘の事を考えると、 必然的に進むべき方向をNJにすることが最善であると示されました。カリフォルニアは日本とNJの丁度中間地点です。天国(?)の様な気候の中で、友人からは「何でわざわざあの寒い遠い所に移るのか?」、日本の親戚からは「もうそろそろ帰ってくるはずでは?と言われました。でも私と主人の思いが一致し、長いアメリカ生活を真実に導いて下さった神様がドアを開けて下さるのを待ちました。 そして、カリフォルニアから一歩を踏み出して、4300マイルを二人で旅しながら、遠いこの地に無事到着しました。知っている土地とは言え、シニアとしての歩みはどのようになるのか未知の世界ですが、与えられた人生の旅の続きをここで進んでいきたいと思います。
「いまは分からないが後で分かる」「私たちのうちに思いを起こさせかつ実現に至らせるのは神である」聖書。
今回、証の依頼を受けて、長くなった人生のどの部分をお証したらよいかと祈りつつ考えていましたが、カリフォルニアでの7年の間に両親を天に送った事を思う時、神様が私達小さいものに現わしてくださった家族の救いの恵みの一部をお話しして、家族の救いを祈って居られる方々の励ましになればと願います。そして自分自身、残された人生をどう生きていくかを考える時としたいと思います。
カリフォルニアでの7年間は高齢になった両親の為に日本に行く事の多い日々でした。教会の大きな行事の合間をぬって、主人の理解ある協力のもとに両親の世話に帰ることが出来ました。アメリカでの新婚生活スタートと同時に、主人と共に救いに預かった私の祈りはまず離れている両親の救いでした。母はクリスチャンホームで育ち、イエス様は受け入れていましたが、洗礼を受けるチャンスがありませんでした。父は大正生まれ、きびしい祖父の元で教育勅語にそった堅い教育を受けた人でした。(横浜でキリスト教の幼稚園に行ってみ言葉カードを集めていた事を後で聞き驚きました)。
妹は若くして洗礼を受けましたが教会から離れている状態でした。私の祈りのノートの初めに両親の救いと妹の信仰のリバイブが書き込まれました。その願いは、いつか必ず聞かれる、神様には出来ないことはないと信じながらも、現実に目が行き、だめかもしれないとくじけそうになる事がありました。両親がアメリカに来た時は共に礼拝に行きました。父は私が洗礼を受ける時も「貴方は自分の信じた道を行きなさい」と理解してくれるのですが、「私は自分の道を行くから」とキリスト教はやはり自分とは関係のないものと思っていたようです。クリスチャンが回りにいても、キリストの福音は知らなかったのです。日本に手紙を出すたびに、イエス様の愛を示す良い機会として、あらゆる手段を用いました。プレゼントに添え、力になるみ言葉やメッセージ、そして聖歌等を書き込みました。祈りつつ父を愛している気持ちをたくさん書きました。父の為に命さえも与えて下さるイエス様の愛が注がれている事を知らせました。それに対する反抗もなく、娘からの手紙は喜んで読んでくれていたようです。
NYにも2回ほど遊びに来ました。娘の大学卒業式に来た時は、錦織先生にお願いしてキリスト教入門の学びの時を作って頂きました。福音を知る一つのステップとなった事を感謝しています。祈り始めてからすでに15年近くがたっていました。
その頃、中野雄一郎先生の奥様のお話しを聞く機会がありました。中野先生のお父様は神学校に行く先生を勘当した程、キリスト教を拒否しておられたそうですが、長い間の祈りと愛の行為で仕えて行く内、「どうしておまえ達はそこまでしてくれるのか!と、イエス様を受け入れ、最後に「おまえが誰よりも一番親孝行だと言われた事を伺いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)「このみ言葉は真実ですよ、祈りは必ず聞かれます、あきらめないで祈ってください。」と言う奥様の言葉が心に残りました。次第に年をます父の救いに、希望を失いそうになっていた私は、否定的な思いが来ると、この聖書の言葉を口に出して言いました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」「主よ、信じます、どうぞ導いてください」。
すぐに事態は変わりませんでしたが、その間、父は母方のキリスト教のお葬式などに出席して、牧師の話に心が動かされるようになります。
父78歳の年、突然妹の17歳の長男が原因不明の病気で緊急入院しました。家族にとって初めてで最大の死に直面する危機でした。皆泣きながら祈り、助けを求めました。あらゆる検査をしても病原菌が見つからず、正確な治療が見つからず、甥は劇症肝炎で命を落としました。家族にとって青天の霹靂、神様に祈る力も失ってしまう悲しみの時でした。 関西におられたNJ教会の2代目の牧師、石賀誠師にお葬式をお願い致しました。甥の友人が200人近く参加した前夜祭で驚く事を聞きました。
彼が英会話を習いはじめた宣教師の先生から、聖書:ヨハネ黙示録3:20「見よ、私は戸の外に立ってたたく、だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼の所に入って、彼と共に食事し、彼も私と共に食事をする」を通して、信仰告白に導かれていた事を知りました。何という憐れみと希望の光でしょう。 「なんでこんな事が起こるのか」そんな悲しさの中で、神様のみ手に抱えられた甥の姿が目に浮かびました。妹も石賀師に導かれ、信仰を新たにすることが出来ました。
前夜式が済んだ夜遅く、さみしい気持ちが充満している静かな部屋の中で、父が突然「私も洗礼を受けてクリスチャンになる」とぽつりと言いました。一瞬何を言ったのか耳を疑いました。「えっ!クリスチャンになるの!」その後は涙が笑いに変わっていったのを覚えています。 あまりに突然!考えてもいないときに祈りが応えられました。時間空間を超えた神様の時でした。神様の約束は真実でした。夜休んでからも胸が高鳴り感謝が溢れました。“此の事をして下さったのは主です” 感謝と喜びと畏敬の念で一杯でした。 しかし気持ちは複雑でした。どうして妹の子がとられたのか?どうして?
妹の子の死は父の救いの一つのきっかけとなりましたが、神様が父や妹の為に此の事をなさったとは思われません。ヨハネ3:16に「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」と書かれています。イエス様がすでに私たちの救いの為に十字架で死んで下さっているのですから。
「いまは分からないが後で分かる」ヨハネ13:7. 人の死は余りに深くて、私たちには理解できないことです。神様のみ手の中にある事と信じ、やがて天国に行ったらすべてが分かる事として神様におゆだねいたしました。
それから父の求道生活は遅れた時間を取り戻すかのように始まりました。
戦争をも含めての深い人生経験から罪もハッキリ分かりました。80歳で石賀師より洗礼を受け、罪から、死の恐れからも解放されて、本当に穏やかな人生に変えられました。年齢ゆえの肉体的苦しみは色々出てきましたが、天国(=神の国=神の愛の支配)への希望を持って、いつも電話すると「ハレルヤ!インマヌエル(主が共におられる)と出てきました。あまりの変わりように、私は嬉しくて笑い出してしまう程でした。母も父の変わりようを見て安堵したように、家族最後の受洗者となりました。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」主の憐れみにより 聖書の言葉が成就しました。 父は地上でのクリスチャン生活を8年間も与えられました。「もっと早くに聖書を読みたかったと言いながら熱心に聖書に赤線を引いていた父に肝臓がんが見つかり、自らホスピス入院を希望、私もホスピスでの一ヶ月を共に過ごしました。
肉体的苦しみの中で、永遠を支える神の平安に守られて天へと帰ることが出来ました。元気だった母も抗がん剤に負けたものの、最後まで明るさを失わず天国へと移動しました。私にとって日本は遠くなりましたが、再会の希望のある天国が近くなりました。主イエスを信じる事がどんなに素晴らしい事なのか、主イエスの真実がいかに本物であるのかを両親の死を通してもういちど教えられ、また日々味わう毎日です。私も母が召された年まで20年を切りました。地上での神の国(「神の愛の支配」と錦織師に教えて頂いたばかりです)を歩みつつ、天の神の国を目指して祈り続けたいと思います。
皆様も家族の救いの為にどうぞあきらめないで、主を信じ祈り続けてください。 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神のみ前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」第二コリント10:4
主を心から誉めたたえます。
月報2012年7月号より
「福島から避難して」
今月は浅野容子姉がお証しを書いてくださいました。浅野ご夫妻は以前、JCCNJのメンバーであり、日本にご帰国後も、住んでおられたその場その場で教会に通い、主に仕えて来られました。今回、原発の事故で山口に避難しておられますが、そのような中で、今回、原稿の依頼を引き受けてくださいました。感謝いたします。祈りつつご紹介します。
「福島から避難して」
懐かしいNJ日本語教会の皆さま、いつも私たちのためにお祈りくださりありがとうございます。震災後一年以上過ぎた今も、私たちは第二の故郷・福島県を離れ、山口県で避難生活をおくっています。
私たち夫婦は退職後、自然の中で自給自足を目指した生活をおくりたい、子どもたちや孫たちにはいつでも来てのんびり過ごしてほしいと願い、福島県葛尾村に移住しました。阿武隈山系に囲まれた人口1500人余り、福島第一原発から約30kmの小さな村です。夫がほぼ独力で建てたログハウス、畑を耕し、鶏を飼い、ささやかな自給生活を楽しんでいました。
昨年3月11日午後2時46分。私は村の加工所仲間の家で、試作のパンをつまみながらお茶飲みしていました。突然、携帯電話の緊急地震警報がウィンウィンと鳴りだすと同時に強い揺れが襲ってきました。横の自動車整備工場の頑丈な建物も倒れるのではないかと思われるほどでした。揺れが少しおさまり自宅に戻るまで、カーラジオ(仙台発)は高い所に避難して下さい!とずっと叫んでいました。道路には大きな石が転がっていて、これは大変なことになった、神さま助けて下さいと祈り続けました。
自宅の建物には損害はありませんでしたが、台所の棚や冷蔵庫はひっくり返り足の踏み場もありません。二階への階段は落ち、薪ストーブもピアノも数十cmずれていました。強い余震がずっと続くなか、ただただ気持ちを静めるために、台所の床に散らばった食器類を片づけ、夫の帰りを待ちました。
郡山市内に通勤していた夫は夜9時過ぎにようやく帰ってきました。JRが不通となったため、会社の車を借り渋滞のなかを戻ってきたのでした。電気は通じていたので沿岸の津波の惨状をテレビで見、私たちはまだ生きているし、家も大丈夫だと感謝しました。一晩中強い余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。
翌12日は津波の被害にあい沿岸部から村の福祉センターに避難してみえた方々に毛布や冬物衣類を届け、その後一番近いスーパー(車で30分)まで食糧の買い出しに出かけましたが、すでに商品棚は品薄でした。午後、テレビで福島第一原発が爆発したというニュースが流れました。その時は電話とネットがつながらなくなっており、情報はテレビからしか得られません。夕方の政府発表は曖昧な内容で鵜呑みにしてはいけない、これはまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを積んで郡山に向かいました。ところが郡山市内も断水、建物の崩落など予想外に被害が大きくどこにも泊まれず、避難所になっていた開成公園という野球グラウンドにやっとたどり着きました。原発近くの市町村からの避難者を待ち受けていたのは、緊迫した雰囲気の中で行なわれるガイガーカウンターによる放射線量検査でした。原発の状況はやはり大変なことになっているのだと、この時、肌で感じました。
その夜から三日間、体育館で過ごしました。津波に追いかけられ泥だらけでやっと逃げおおせた方や、四世代の家族が寝たきりのお年寄りを囲んでいたわりあう姿もありました。原発は安全だと言われて信じていたのに…という声が体育館のあちらこちらから聞こえてきました。娘たちとも連絡が取れず心配をかけてしまいましたが、無事を確認しあえた時は皆、涙、涙で感謝しました。
その後、郡山の会社独身寮、浜松の次女の家、再び会社借り上げのワンルームマンション(郡山)と転々としました。その間に村は「計画的避難区域」に指定されてしまい、全村避難となりました。原発から二十キロメートル圏内の警戒区域と違い自宅への出入りは許されていますが、家の周囲の放射線量は比較的高く、さらに爆発があればもう二度と戻れないのではないかという喪失感に押しつぶされそうで、かつて村で過ごした日々の何気ない一コマ一コマも思い出され、不安な眠れない日々を過ごしました。この間、日本へボランティアに駆け付けて下さった範子姉ともお会い出来たのは何よりうれしい出来事でした。放射線量が高い郡山から避難すべきかどうか悩んでおられる姉妹を訪ね、実際にお聞きし共に祈ったことも忘れ難いことでした。その後、私たちは6月末に下関の実家近くに大移動し、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻し始めました。
私は以前から原発の危険性について知ってはいましたが、反対の声を大きく上げることはしてきませんでした。建設後四十年経った古い福島第一原発が廃炉にもならず、それどころか危険なプルサーマル燃料を使用する方針が決まった時にも大丈夫だろうかと疑問に思いましたが、うかつなことに福島県で原発事故は起こらないものと決めてかかっていたのです。でも、こうして事故は起こってしまい、 森林と里山がひろがる緑豊かな村の風景は震災前と何一つ変わらないのに、里山の財産ともいうべき豊かな森、雑木林、水、空気は目に見えない放射能に汚染されてしまいました。原発事故の当事者となって初めて、原子力発電がいかに危険なものか、どれほど人の心をむしばんできたのか、そして、この日本という国は私たち国民のいのち、そして一人ひとりの生活を大切にしない国だということに思いいたりました。私たちが経験した悔しさと怒り、将来への不安を次世代に負わせないために、二度とこういう事故を繰り返さないために、当事者として声を上げ続けていくことも私たちの責務だと思います。手探りですが、このことも主が最善のことをなして導いて下さると信じ、祈りつつ歩みたいと思います。
政府はこの春にも避難区域の見直しを行い、村への帰還を勧めてくるでしょうが、子どもたちや孫たちが遊びに来られない生活は、私たちの望む生活ではありません。今は山口県内で落ち着き先を求めて祈っているところです。今後の生活がどうなるのか、不安がないといえば嘘になりますし、神さま、この状況はいつまで続くのですかとつぶやくときもあります。でも、天に希望をおく私たち夫婦には平安があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
コリントの信徒への手紙一10章13節(新共同訳)
津波と原発事故により、今も苦しんでおられる福島の方々のことを忘れないでいてください。忘れないでいることも、原発事故を小さく見せようとする勢力に対する一つの抵抗だと思います。そして覚えてお祈りください。祈りの輪の中に神さまはおられ、その祈りを聞き届けてくださいます。神さまは祈られている者たちを覚えていてくださり、いつか立ち上がらせてくださると信じています。
「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌とともに希望の朝をむかえさせてくださる。…あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」
詩篇30篇(新共同訳)
月報2012年5月号より
「助け手と共に逃れの道をも備えて下さる神様」
私が聖書を読み始めたのは、IL州に留学している大学時代のことです。日本から遊びに来ていたクリスチャン女性との出会いが大きく影響しています。彼女は、それまでに出会ったクリスチャンとは違い、とても活発で魅力的な人でした。ちょうど彼女と私は、好きな人が出来たところで意気投合し、仲良くなりました。彼女が、「私は何も心配していないんだ~。彼なのか彼じゃないのか、神様に聞くだけだから。」と言ったのです。私も運命の人を信じていたので、そのことを話すと、「だったら、その人が神様からの人なのかどうか、神様に聞いてみたら?」と言われ、彼女から聖書をもらい、読み始め、神様からの答えを求めて祈るようになりました。彼女と共に礼拝にも出るようになり、彼女が日本に帰る前には、日本人の宣教師夫婦も紹介してもらいました。このご夫婦も、とても素敵で、あ~、こういうクリスチャンだったら、なっても良いな~と思ったことを覚えています。そこでの交わりが楽しくて、私はバイブルスタディに通い、聖書とは、クリスチャンとは、ということを学んでいきました。卒業後、日本に帰ってからも神様を求め続けることが出来たのは、心に触れられる御言葉があったからです。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(エレミヤ書29章11節)
この御言葉を読んだ時、神様は私にどんな計画を持っておられるんだろうとワクワクして、私はいつか必ず神様に出会うんだと思わされました。卒業後もバイブルスタディのメンバーと手紙のやり取りを続け、その中に、神様がこう語られた、神様がこうされた、と書いてあり、私は、そのような経験をしたことがなかったので、「神様、もし本当にあなたがおられ、私を知っていて下さるのなら、私に体験させて下さい。」と祈りました。
その数ヶ月後に、シンガポールでの仕事の話があり、シンガポールに行きました。それは、新しく立ち上げた現地の会社の社長の秘書兼経理の仕事で、社長が使いこんでいたお金を整理することがメインの仕事でした。最初、彼は私も取り込もうとしていたようですが、そういうことが大嫌いな私は、彼を追及し、結果、別の人を雇われ、仕事を取り上げられました。それでも日本側にはレポートを提出しなくてはいけないので、取り上げられたファイルをコピーさせてもらい、自分の仕事をしました。人生初のいじめに遭い、シンガポールの気候にも慣れず、辛い時期を送っていました。毎週教会に通い祈り、眠れない夜、神様に「助けて下さい。次の仕事を与えて下さい。」と祈る日々でした。
そんな中、友達の教会で集会があり、オーストラリアから預言の賜物がある姉妹が来るということで参加しました。その時に、仕事についても語られました。「仕事… 大変ね~。あなたを監視している人がいるけど、大丈夫。神様が、その人の更に上からあなたを見守っていて下さるから。もうしばらく我慢しなさい。時が来たら、あることが起こってあなたはそこから動くから。」預言は吟味する必要がありますが、仕事が大変で助けを神様にいつも祈っていた私にとって、この言葉は大きな励ましとなりました。そして、その言葉通り、その2ヶ月後に、仕事を辞めることになりました。辞めることを告げた次の日に、教会から連絡があり、家庭集会に誘われました。その集会のホストの女性は日本語ができる人で、私の現状を伝えると、彼女はとても驚いていました。というのも、彼女はご主人の都合で、会社を辞めるところだったのです。彼女の会社はドイツのメーカーで、ちょうど日本の企業との取引が始まり、きちんと日本語で対応できる人を後任として入れたいということで、すぐにレジュメを作り、彼女に出してもらいました。そして、面接に行き、あっという間に仕事が決まりました。この一連の出来事を通して、私は、神様が本当におられ、私を知っていて下さることを確信しました。
その確信を頂いてからの神様と歩む人生は、祝福を多く頂きながらも、試練もたくさんありました。でも試練は永遠に続くことはなく、いつも神様は助け手を送って下さり、逃れの道もその都度備えて下さいました。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Iコリント10:13)
JCCNJに導かれたのも、試練の中にあり、更なる試練が訪れる前のことでした。VA州で大学院を卒業し、仕事でNYに来ましたが、家と会社の往復だけの忙しい生活で、日曜日に礼拝を守るのが精一杯の日々でした。私は日本人クリスチャンの集まりに対して恐れがあったので、ローカルの教会に通いつつも、NYには共に祈り合える姉妹もおらず寂しい思いをしていました。そんな中、ある人との会話の中で、はっと思わされました。アメリカ人のその人は、中国人伝道に重荷があるような気がするけれども、本当にそれが神様からの召しなのかどうか分からない状況の中にいました。その人との会話の中で、私は、日本人に対して重荷があることを話し、「はっきりと自分の召しが分かっていることは、神様からの祝福だね。」と彼に言われた時に、私は言っている事とやっている事が全く逆であることに気付かされたのです。あ~、私は日本語の教会に行かなくちゃいけなんだなぁと思わされ、主に祈り、私の行くべき教会へと導いて下さいとお祈りしました。
日本語の教会を探し始めた時、VA州で通っていた日本語のバイブルスタディのリーダーが、JCCNJで礼拝を守ったことがあり、良かったよ~と薦めてくれたのですが、NJまで通うのは無理だと思っていたのでJCCNJは全く考えていませんでした。でも その話を別の姉妹にしたところ、彼女がウェブサイトをチェックしてくれて、マンハッタンから送迎があることを教えてくれました。私は、毎日帰りが遅く、なかなか調べられない中、神様は、姉妹方を通して私をJCCNJに導いて下さいました。初めて教会に来た日は、不安な思いがありましたが、皆さんが気さくに話しかけて下さって、私は居心地が良く、それから通い始めました。その数ヶ月後に、会社からノルマを超えられなかったらレイオフもあり得るという話が出たのですが、その前にJCCNJに導かれた事は、神様の憐れみであり、助けだったと思います。次の道について神様に祈る中、会社をレイオフされる数週間前の10年目の受洗記念日に、永住権当選の書類が届き、神様は次の道をも開いて下さいました。
無事に永住権を取得しアメリカに戻ってきましたが 今も試練はあります。仕事はまだ与えられていませんし、長い間祈っている結婚も、家族の救いもまだです。でもこれらの試練も必ず終わる時が来ると信じています。これからも神様が立てて下さっている将来と希望を与える為の計画を期待して待ち望み、体験させて頂きたいと思います。
※教会では、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」とのイエスの言葉から、互いを「兄弟」「姉妹」と呼ぶことがあります。
月報2012年3月号より
「いまわのときまで」
私の母はアルツハイマー病のため、認知症患者用のグループホームに2010年の春まで3年半入居していました。私は娘達と共に毎年夏に帰国して母を見舞っていましたが、ホームは実家から通うのに2時間近くもかかる場所にあったため、毎年せいぜい4~5回通うのがやっとでした。2年目に訪ねた頃から、母は私のことが認識できなくなったようでした。イザヤ書に、“女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。”(イザヤ書 49:15)とあります。母は病気なのだから仕方がないとわかっていても、“起きるはずがない”と思い込んでいたことが起きて、それまで自分が大好きだった聖句がとても虚しく聞こえるように感じました。
2009年末から翌年にかけての冬、母は血圧が低くベッドから起き上がれない日が多くなりました。食べ物の飲み込みも悪くなり、ホームのスタッフからは、状態が悪化した時に医療介護が無いグループホームでは対応できないので、できるだけ早く医療介護の整った老人ホームへ転居するように勧められました。グループホームは実家から通うには遠いところにはありましたが、小規模でスタッフの方々がとても良く面倒を見てくださる施設でしたので移りたくはなかったのですが、そのまま病状が進んでしまってからでは間に合わなくなるかもしれないと、2010年3月に実家から徒歩で5分とかからない場所にある老人ホームへ移ることになりました。
母が移転して10日程経った3月末に、イースター休みの次女と共に帰国して、1週間ほとんど毎日母を見舞うことができました。初めて母の滞在するホームに行った日、母の乗る車椅子を押して5階のエレベーターホール横の大きなガラスドアの前に立って、外に見える景色を母と眺めていました。実家の直ぐ側の公団住宅とバス通りが見え、その先傾斜に沿って目をやると、なんと母が所属する溝ノ口教会の十字架が見えたのです。その時の驚きは何とも表現ができないものでした。病のために聖書を読むことも賛美をすることもできなくなって久しいのに、主は実家のそばに母をもどしてくださっただけではなく、長年通った教会の十字架が見える場所に住まわせてくださったのです。あの時、母には十字架が見えていたのか、自分の教会の十字架だとわかっていたかどうか、私には分かりません。今思えばむしろあれは、主から私へのメッセージだったのだと思います。それまでの数年間、イザヤ書のあのみことばの一部分に囚われていた私に、主は「みことばの本当の意味から目をそらすな!」と語られたように思えました。
こうして母の入居先がちかくなったことで父は毎日のように母を見舞うことができ、それによって母の状態も落ち着いたようで、また食べられるようになりました。私もその年(2010年)と昨年、夏に滞在していた間は、週に4-5回母を訪ね、食事の世話をしたり部屋で一緒に音楽を聞いたりしました。数回聖書を音読してみたのですが、あまり反応はなく、母の信仰が守られているのかと不安になることもありました。
昨年の11月23日、急遽日本へ向けて出発しました。母が入居先の老人ホームで右肩甲骨の辺りを打撲し、内出血がひどく輸血が必要となり、整形外科のある病院に入院することになったのです。父は春頃から食欲不振に悩まされていましたが、腎臓癌のために右側の腎臓が2倍ほどの大きさに肥大していることが10月の検査で分かりました。そのため、11月末頃に入院して腎細胞の生体検査を受けることにはなっていたのですが、診察をした腎臓内科の医師から即入院して検査するように言われ、父と母がそれぞれ別の病院に急遽入院することになったのです。
実家に着いてみると、父は入院はしたものの、祭日や週末などで肝心の生体検査をいつやるのかわからないと言って、母の入院していることを理由に一晩も泊まらずに帰宅していました。翌日から私は、毎日母に昼ご飯を食べさせるために入院先の病院に通いました。母はアルツハイマー病がかなり進んで、食べることに対する興味も薄れており、また食べ物を飲み込むこともよくできなくなっており、一時間かけてもほとんど何も食べてくれない日が続きました。母のベッドの横でいつまで経っても減らない昼食の盆を見ながら私はとても虚しくなり、「頼むから食べて!主よ、私は何のために此処にいるのですか?」と心の中で叫んでいました。
一週間程で母は退院しホームに戻りましたが、ほとんど摂食できず体力不足のうえに肺炎を発病し、血中酸素量が下がり、退院からわずか5日で治療のためにホームと同じ建物内にある内科のクリニックに再入院となりました。父の生体検査もその週に行われることになり、2日後に父も都内の病院に入院しました。それからの5日間、午前中は父の病院へ行き、帰りに母の病室に赴くという日が続きました。父の検査は無事終了し、順調に回復して予定通りに退院しましたが、母の肺炎は抗生物質を投与し続けていても病気の進行を遅らせるのがやっとという状況でした。その頃からでしょうか、私が母の病床でする祈りが、癒しを願う祈りというよりは主の守りを求める祈りへと変えられました。私だったら、今、何を主に求めるだろうか?「癒してください。でももしもそれが御心でないのならば、みことばの約束の通り、最後まで共にいてください。どうか守り支えてください。」と主に願うのではないだろうか。こんなことを思いながら、母の手を握り祈りました。
延命処置になることはしたくないという父の意向により、総合病院に移って人工呼吸器を使って治療を続けることは断念しました。肺炎は両肺に広がっていて、母は酸素を充分に取り込むことができず、酸素マスクを付けてもかなり呼吸が苦しそうになりました。しかし意識はかなりしっかりしていたので、私の祈りを聞きながら私の手を強く握り返したり、好きだった讃美歌が聞こえてくると一緒に賛美したかったのか声を挙げることもありました。上半身を震わせるようにして息をする母の姿に、十字架の上で苦しまれたイエス様のことを思わされました。
今思うと、母が個室に移ってからの最期の3日間は、私と母がお互いにそれぞれの信仰を支え合うために主から与えられた時間だったのではないでしょうか。私はしゃべることもできなくなってしまった母の祈りを祈り、母は苦しみの中にあっても最後まで主を信頼して生きる姿を私に見せてくれました。母の教会の牧師が訪問してくださった時のこと、母は初め眠っていたのですが、牧師の「聖書をお読みします」の一言に急に目をぱっちりと開け、聖書朗読の間、じっと天井を見つめていました。体は衰弱し切っているのに、母の目には確固たる意志を感じさせるような強さがありました。
「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒行伝16:31)母を天に送って葬儀の準備を進めて行く中で、このみことばがずっと私の中にありました。アルツハイマー病になるずっと前から、母は「たとえ家の都合で自分のお葬式が教会でできなくても、骨は分骨して半分を実家の墓に、残りの半分を教会の墓地に納めてもらいたい」と言っておりました。やがて母は、病気のために教会に通うことも聖書を読むこともできなくなってしまいましたが、その間に主は父の心に母の願いを叶えてやりたいという強い思いを与えて下さり、母は望んでいたとおりに教会で葬儀を執り行うことができ、また、骨も半分ではなくすべて教会墓地に納めることとなりました。母はそんなことになったとは知らずにこの世を去りました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13:5)という主のことばを信じて、母は主にすべてをお委ねしたのだと思います。まさに、みことばを信じる信仰によって母は救われました。そして、そんな母の最期を見届けることによって、私も救われました。
主をほめたたえよ、わが魂よ、主をほめたたえよ、
われ生ける限りは、主をほめたたえ、
わがながらうるほどは、わが神をほめうたわん。
(詩篇146:1~2・交読文より)
月報2012年2月号より
「賛美と踊りと私」
詩篇150編には『どこで』『どうして』『何を持って』『誰が誰を』ほめたたえるのか書かれています。賛美の形は本当に様々。大切なのはそれが神様をほめたたえる行為である事。私が神様をほめたたえながら踊る時、神様はその賛美の中に住んでくださいます。
‐神様との出会い、受洗の証し‐
私は2004年9月、18歳の時にイタリア・ミラノスカラ座バレエ学校へ編入留学しました。初めての海外、イタリア語での生活に必死で、友達を探す余裕はありませんでしたが、留学生活が半年ほど経った頃、私はミラノ市主催のイタリア語教室に通い始め、そこでリー・ウンジョンという韓国人のオペラ歌手志望の女の子と出会いました。彼女はミラノ賛美教会という韓国教会の信者で、牧師は日本人伝道を使命としていて、そこには日本人のグループもあるのだということを教えてくれました。そしてある日「日本人の素晴らしい歌手が歌うから絶対来て!!!!日本人も沢山いるから!!!」と彼女から猛プッシュを受け、教会のコンサートに行きました。その歌手は工藤篤子さん、賛美の歌を通して伝道しておられる方です。その時は誰にも挨拶せずにさっと帰ったのですが、次の日曜日も私を教会に誘う彼女に押し切られるように、私は日本人のグループの方たちと一緒に初めての礼拝を捧げました。礼拝が終わってから牧師夫人が「聖書の勉強はじめませんか」と声をかけてくださり、私は「勉強したいです」と答えました。こうして受洗前の学びが始まり、神様が全ての創り主であること、自分が罪の性質を持った人間である事、それから解放されるにはイエス様の十字架が必要であることなど素直に信じました。嫉妬深い自分が醜く、いくら頑張って練習しても認めてもらえず、それでもプライドだけは高く自分の負けを認められない。人前で素直になれない。こんな醜い心の中は誰にも見せられない。その頃の私はこのままの私を受け入れて改良してくれるものが必要でした。それはまさにイエス様の十字架でした。このようにイエス様を心にお迎えした私は喜びにみたされました。私の暗かった心は神様の栄光の光で輝き始めました。
‐踊りの賜物‐
2005年7月4日に洗礼を受けた後もイタリアでの生活は続きました。でももう独りではなく神様と一緒でした。生まれたばかりの赤ちゃんのような信仰者だった私を祈って支え育ててくれたのはミラノの信仰の家族でした。特に内村伸之牧師、まり子夫人とは2007年から1年半ほど共同生活をさせていただき、その中で沢山の試練、誘惑、祝福を受けました。私はそのころ、学校を終えてヨーロッパでダンサーの仕事に就くという夢を抱いていました。オーディションの情報を集めてはあちこち飛び回り、そしていつも落胆してミラノに戻ってきました。
そんな私をいつも暖かく迎え入れてくださる内村先生ご夫妻ですが、ある日、見るに見かね、このように声をかけてくださいました。「神様の声を聞いていますか?」「踊る仕事を見つけることは本当に神様があなたに計画しておられること?」「今ミラノにいる事にどんな神様の計画があるだろうね?」正直あまり聞きたくなかったです。バレエの世界は本当に厳しく、仕事を見つけられる人はほんの一握りです。その一握りに入る為に毎日必死に練習します。バレエの事に詳しくない人に口を挟まれるのが私は大嫌いでした。内村先生は私の気持ちを良くわかっておられたと思いますが、その時は、私がその場を立ち去ることを許してくださいませんでした。とても悔しかったですが、事実私は神様を知ってからも自分の願いに縛られ神様の介入を無視して生活していました。内村牧師夫妻は私と真剣に向き合い、ふわふわした言葉ではなく高慢な私の心を砕く為の、鋭く痛い、愛で満ちた嘘のない真実な言葉で諭してくださいました。そして私は自分の部屋でうずくまって祈りました。敗北感でいっぱいでした。『私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得るためです。』(エレミヤ42章6節) 心に突き刺さった言葉に納得するのは私の敗北を認める事を意味していましたが、聖霊様によって、凍っていた心が融かされ、涙となって流れ、私は敗北を認め「主の御声に聞き従います」という告白に導かれました。そして自分の夢をあきらめました。「神様、踊る事があなたの御心でないなら私は手放します。でもこの心に空いた穴を埋める為にあなたが私に願う賜物をすぐに与えてください」と祈りました。神様のために私を用いていただけるなら何でも良かったです。私の中の優先順位が変わった瞬間でした。
『私は彼らを彼らの地に植える。彼らは私が与えたその土地から、もう引き抜かれる事はない』(アモス9:15) 『人の歩みは主によって確かにされる。主はその道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまには倒れはしない。主がその手を支えておられるからだ。』(詩篇37:23・24) この御言葉が与えられてから私はミラノ賛美教会に植えられているんだという確信と共に主の助けによる平安を与えられました。
このオーディションで最後、バレエは諦めます、とお祈りして、ミラノから200kmほど離れたビチェンツァという街にあるバレエ団のオーディションを受け、神様の憐れみでバレエ団に採用される事になりそこで4年間踊りました。「そんなに踊りたいなら踊りなさい。しかし私のために踊りなさい」という主の声が聞こえてくるようでした。一度手放した踊りを神様が私の元に戻してくださったこの時から踊りは賜物になりました。ダンサーとして生活しながら思うのは、踊っているときに神様ではなく私自身が主役になっているということです。舞台の上で目立ちたい、どうしたらもっと綺麗に見えるだろう、この人よりも前で踊りたい・・・というように私自身にスポットライトを当てようとしている事に気づきます。そして踊れる事を当たり前のように思い、同僚へのライバル心など自分の心の汚さに落ち込む事や、神様から与えられた五体満足の体に文句を言う事もあります。その度に「私が持っているもので神様から与えられたものでないものは一つもありません、自分を誇りません」、と悔い改め、踊りによって神様を讃え、神様の愛・平安・光・喜び・救い・真実さ・・を表現したいと願う心に変えられることは私が毎日受けている大きな恵みです。『私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身はイエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。「光がやみの中から輝き出よ」と言われた神は私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。』(�コリント4:5-7) これは私の23歳の誕生日に与えられた御言葉です。私は喜びに満たされて、神様を踊りによって伝える事が出来ると確信しました。私が踊っているときに放っている神様からの光は、まだまだ小さく消えそうなろうそくの火かも知れませんが、それでも誰かを照らす事は出来ると信じます。そして、踊りによって私たちの造り主を讃え伝えるために、私の踊りに影響力が与えられるよう祈ります。私は今の自分の姿を愛していますが、今の状態に満足せず私が反射させる神様の光がもっともっと強く暖かく輝くように変わっていく事を願います。
愛する神様、あなたの栄光のため私を踊らせて下さい。私がもっとあなたを知るように。そしてあなたを宣べ伝えさせてください。
月報2012年1月号より
「スモールグループを始めて」
「いまだかつて、誰も神を見たものはありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
第一ヨハネ4章12節
2010年4月、川崎招待キリスト教会で「家の教会」(スモールグループの一種)のセミナーに参加させて頂きました。今でも深く印象に残っているのが、数人のリーダーの方たちの証です。「家の教会」を始めるまでその効果や継続性に対して懐疑的であったこと、始まってからグループ内で感情的なもつれが生じて苦しんだこと、これまでずっと自分が精神的に頼っていたのは神様ではなく他人であったことを示されたこと、などをお分かちしてくださいました。証の中で、この方たちは時間が作れないはずだったのに「家の教会」を始めてから作れるようになった、集中祈祷で神様に自分の葛藤を全て注ぎだして自分の罪が示された、「家の教会」リーダーとなり一回り成長することができた、と報告してくださいました。
私達は不可能だと思うとき、何も頼るものが無いときに、また自分の弱さを知るときに、神様の示しに従うことができるか試されるように思います。私も最近、なぜ自分がリーダーになる必要があるのか?他にもっと適した人がいるではないか?という思いが心を占める経験をしました。一つには日本では小学生の頃から班長や学級委員などが選ばれる時に、面倒くさいからやりたくないから他の人にやらせようというクラスの雰囲気があったり、またリーダーには必要な知恵や助け手が与えられず孤軍奮闘するというイメージが定着しているからといえるでしょう。しかし神様の選びは、日本の公立学校でお荷物のように選ばれる学級委員などとは異なり、必要なサポートも与えられ、いつも最後には私たちを生かしてくださると信じる必要があります。
さらに最近、なぜリーダーを経験する必要があるのか?という記事を読む機会がありました。確かに適材適所という言葉が示すように、全員が同時にリーダーになる必要は無いですし、逆に方向が決まらずにグループがバラバラになってしまうように思えます。聖書にも「あなたがたはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。ではなぜ、それでも自分がリーダーに相応しいと思えなくても私たちはリーダーを経験する必要があるのでしょうか?それはリーダーを経験したことがある人は、他の人がリーダーになった時に、リーダーを尊重し、自分がどうグループに貢献することができるか考えることができるからだ、といいます。私もこれまでリーダーの方の苦労を知り、自分にできる貢献をすることによりグループをまとめる手助けをするという視点があったか?と反省させられました。リーダーを批判することばかりしてきたのでは無いか?と。
わたしたちのスモールグループは、短期的にニューヨークに滞在している方も含めて、女性7名で守っています。週一回のペースで集うことについて時間的な懸念がありましたが、いまのところ一人のメンバーの洗礼式があった週を除いて、欠かさず持つことができています。スモールグループの目的は、御言葉の分かち合い、霊的・精神的なサポート、アカウンタビリティー、祈祷課題や感謝報告を安心して分かち合える場所となることなどです。そして、ただの自助グループではなく、常に神様から頂いている恵みに満たされるような場所となることを願っています。
今わたしたちのグループが願っていることは、このグループが伝道の器として用いられることです。NJの教会にいくことができないNYにおられる方々のための飛び地伝道所としての働きができるように、切にお祈りしています。
月報2011年12月号より
「この一年を振り返って」
私にとって皆さんと過ごすことのできた一年間はあっという間でしたがとっても実りの多い一年でした。お一人お一人にお会いできたこと、祈りあえたこと、礼拝を共に守れたこと、行事に参加できたこと、挙げても挙げてもつきないほど私の中で神様に感謝でいっぱいになります。
昨年の10月末、まだ半袖で過ごしていたヒューストンから念願のニューヨークにとりあえず3ヶ月、仕事のため一人でやって来ました。アパートにスーツケースとかばんひとつで着いた時、アメリカに初めて来た時を思い出しました。夜になってももちろん夫は帰ってこないし、夜寝るときも一人だし、寝てるときもいびきは聞こえてこないし、なんだか慣れない生活が始まるんだという実感が沸いてきました(次の日主人は週末を使って来たのですが)。
仕事初日の前日、ニュージャージー日本語教会に初めて夫婦で行きました。ニュージャージーの教会に行こうと思った理由は10年前のサマーキャンプで、イエス様は私の罪のために十字架に架かってくださったと私の心に力強いメッセージをされたのが錦織先生でしたので、もう一度お会いできることを楽しみにしていたからでした。礼拝中の挨拶の時間やお茶の時間に本当にいろんな方に声をかけていただき、とっても歓迎された気持ちになり、次の週も来たいと思いでいっぱいになりました。仕事も、同僚も、生活も慣れないこと続きで不満がたまっていた次の週、やはり礼拝中の挨拶の時間に「今週もお目にかかれてうれしいわ。」とか「お元気でしたか?」という簡単な挨拶からでも神様の愛が伝わってきて胸がいっぱいになりました。次の週もまた来たいと思い、次もそのまた次もと結局一年お世話になりました。
仕事にも生活にも慣れていくうちに色々ハッと気付かされました。JCCNJでは受難週の集会、地域の集会、修養会、集まる毎に小さいグループに分かれ祈ることが多く、それほど親しい仲ではない私にも祈りの課題を分かち合って、ただおしゃべりをするだけではなくて、私のためにも祈ってくれるという関係が私には新鮮で、これって兄弟愛だなーと思わされました。一人ひとり課題があり、大変な中を通ってはいるのですがそれも分かち合い、共に今与えられている自分の役割に忠実に歩んでらっしゃる集まりで、すばらしいと思います。
もうひとつはヒューストンでは、いつから夫と一緒に教会にいかなくなったのか覚えていないくらいで、私にとってそれは優先順位の低いことだったことにも気づかされました。夫にとってもJCCNJは男の人もいて話ができる人がいるまた行きたくなる場所だったのだと思います。大好きだった仕事ですが優先順位が変わり、妻であることも神様の召しであることを喜んで受け入れられるように私も変えられていきました。
聖書の中でパウロが皆さんを訪ねたいと何回も出てくる気持ちが今はもっと理解できます。皆さんと交われ、教えられた一年私たち夫婦には宝物です。またお会いできる日を楽しみにしています。
月報2011年12月号より
「洗礼に導かれて」
私は明治生まれの父と大正生まれの母の元、2男4女の6人兄姉の末っ子として躾の厳しい家庭に育ちました。そんな私が家族の大反対を押し切って国際結婚をして2人の娘に恵まれました。言葉も習慣も育ちも違う二人ですから、喧嘩もよくしました。
私の家庭は仏教ですが、夫はカトリックだったので娘たちは生後3ヶ月で幼児洗礼を受けました。私と神様との出会いはこの時からです。しかしながら、私は親の反対を押し切って結婚したので、親不孝をしている思いから、国籍と宗教は親の生きている間は変えない方がいいと考えて居ました。
母は80歳を過ぎてから、胆石、胆管炎、腎臓結石と3回の手術をしました。86歳の時には動脈瘤が見つかり、手術をする筈だったのですが、若い人なら血管も弾力性があり、手術にも耐えられるけど、母は年齢的にも血管がおせんべいの様にバリバリになっている為に、体力と血管が手術に耐えられるか、五分五分だと主治医からお話がありました。選択肢は好きな物を食べて普通に生活をさせて上げて3~4ヶ月か、手術をして、万が一成功してもずっと病院で完治をするまで耐えられるかどうか、という話でした。そして父の下した判断は今のままで好きなようにさせて上げたいという事でした。そして兄から連絡が有り、最後のお別れになるかも知れないので直ぐに帰って来るようにと言われて、急遽、母の看病に帰りました。
その頃、夫はアメリカ空軍をリタイヤして教師をしていたのですが、横須賀基地の中にある軍人の子供達が通う学校に移動が決まっていました。9月には転勤になるのでそれまでは、母に頑張って居てほしいと思っていたのですが、7月末に母は亡くなり、父からは9月に帰ってくるのだからお葬式にはかえって来なくてもよいとの事でした。今も母を思い出すと亡くなった姿を見ていないので元気に笑っています。
父は70歳の時に大腸癌を手術してそれから20年再発もなく元気になって、陶芸に没頭して母が生きている時から二人で仲良くやっていましたが、母がなくなって、2年後に腸閉塞で亡くなりました。その頃、私は日本に居たにもかかわらず仕事をしていたので、父は元気だったし何時でも会えると思っていました。知らせを受けて病院に駆けつけた時には、手術中でした。それから2日後に目を覚ます事もなく亡くなりました。私は母の時はお別れが出来ていたのですが、父は突然だったので、悔いが残りました。
その頃、夫は横須賀基地内の学校を辞めて、日本の大学で講師として教鞭を取っていました。日本には2年の滞在のはずが11年も住んでいました。
その間には次女が結婚して、二人の孫が出来て、長女も結婚して、待望の赤ちゃん(ジャック)が生まれました。しかし出産して3日後に退院する直前に心臓に2箇所も欠陥が見つかり、直ぐに手術をしなければ命にかかわるということで、大手術を受けました。
私は、産後の手伝いに日本から来るはずだったので急遽日にちを変更して飛んで来ました。病院に直行してジャックを見た時には声も出ないくらいのショックでした。胸には大きな絆創膏が貼ってあり体中に管が着いていて、顔はパンパンに腫れあがり、可哀想で涙が止まりませんでしたが、それでも大きな泣き声ですごい生命力を感じました。娘はこの子は神様が授けてくれたんだから大丈夫だと気丈に看病をしていました。
ほんとに神様はこの子を助けてくれるのか半信半疑な気持ちでした。娘夫婦は朝に晩に病院内の教会で祈り、自分達が行っている教会の牧師さんや仲間には励まされ、お祈りをしてもらっていました。それから10日後、副作用もなく、傷口は痛々しいのですが、7ポンドの小さなジャックは家に帰ってきて、傷も日増しに完治していき、この時は、神様ありがとうってほんとに感謝しました。
私の夢は、将来は夫と孫の面倒を見たり、ホリデーには家族で集まったりして、みんなで楽しく、そして老後はあちこち旅行などして、ゆっくりと過せたら、なんて思っていました。子育ても夫の転勤先にも付いて行って、仕事もして、慣れた頃には又移動でしたが、その夢に向かっていました。
でも、夫の夢は、私とは同じ方向に向いてなく、残り少ない人生で、もう一度青春を取り戻したい、その思いが年齢を重ねる事に大きく膨らんでいったようです。
それから、私の苦悩の日々が幕を開け、5年間は精神的にズタズタになっていました。娘達にも心配を掛けてしまい、疲れ果てて、40年間の結婚生活に幕を降ろしました。親の離婚は大人になった娘達にも深い傷を負わせてしまいました。私は親の反対を押し切って結婚したのだし、夫も離婚なんて絶対しないと言っていたので、一人になってこれからどうしたらいいか、日本に居る兄姉たちは日本で暮らしたほうがいいと言ってくれたのですが、とにかく長女の居るニューヨークに行こうと決心をして、今まで両親の位牌を置いて、毎日朝のお参りは欠かさずしていた私が、心機一転、位牌を兄に頼んで、私は孫の命を救ってくれた神様のところへ、娘の教会に行きたいと思っていました。
ところが、娘たちはもう完全なアメリカ人であって、日本のように親との同居なんて、考えないし、有り得ない事。そこへ私がボロボロでやって来たのだから、青天の霹靂です!「しかし、今は母を受け入れなくては・・・。来てしまったのだから。」というところだったのでしょう。
それからは私と娘と婿殿の葛藤の日々が続きました。娘達の教会に行っても英語なので分らず、パスターも教会の方々も、私のお友達探しをしてくれるなど、優しい方ばかりでしたが、毎週行っているうちに、自分にあった教会を探したいと思うようになりました。2箇所ばかり行ったのですが、なかなか、「ここだ!」という教会にめぐり合えませんでした。離婚の手続きのために、娘が親の間に入って苦しんで傷ついて、気の毒な事をしました。娘はパスターや教会の皆様にお祈りしてもらっていました。そのときにはわかりませんでしたが、私もその祈りの中で、神様に助けていただいたのだと思います。
そして、月日は一年以上も過ぎて、娘夫婦と私の間の溝が大きくなっていく中で、神様にニュージャージー日本語キリスト教会に導かれました。あの時の感激は今も思い出します。やっと出会えた・・・と思いました。ほんとに嬉しかったです。
そして錦織先生との面談、バイブルの勉強、礼拝、一日も欠かさずに楽しくて仕方がありませんでした。そんなある日、初心者のためのバイブルの勉強をしていた時です。終わりに近付いてお祈りをする頃に、二人の若い女の子が入って来て先生と挨拶をしました。その瞬間、私はこの一人の女の子が別れた夫の新しい奥さんだと気づいたのです。
それは、夫が新しい人と住んでいた所から、ニュージャージーに引っ越して来ているのを娘達にメールで知らせて来ていたからです。娘とミツワや美容院、ドクターに行くたびに「会わなければいい」と何時もヒヤヒヤしていたのに、教会で出会うなんて・・・。私は礼拝堂に入り、彼女が前の方で座っている姿を見ながら、夫に対しての悔しさとか未練とかではなく、やっと好きな教会に出会えて、神様に助けを求めて来ているのに、何で、こんな事が起きるのか、私は直ぐに席を立って教会を出ようと思いました。でも、何で私が出て行かなくちゃいけないの?神様が導いてくれたんだから、何故?こんなひどい出会いを神様は私にさせるのか?涙が止まりませんでした。
そして先生のお話を聞いてるうちに、逃げない。ここは私が救われる教会だから。そして、神様が助けてくれました。この日から私の洗礼を受ける決意が固まったように思います。
今思えば、あの時の出来事は、神様が何時もヒヤヒヤして毎日を送っている私に、「私を信頼しなさい」と、荒治療をして下さったような気がします。そして10月21日に洗礼を受ける事が出来、感謝してます。
これからは迷う事無く神様の導いて下さる道を歩んで行きたいと思います。
“The Lord will watch over your going out and coming in from this time and forever.” Palms(詩篇)121:8
月報2011年11月号より
「911を振り返って」
ちょうど10年前の今日9月11日、忘れもしない雲ひとつない真っ青な秋空でした。私はちょうど第一機めが突っ込んだ世界貿易センターノースタワーの道を挟んで西側のワールドファイナンシャルセンターの20階、世界貿易センターに面した東向きの窓の近くの席で働いていました。
第一機目が突っ込んだとき、朝7時から働いていた私は、自分の席を離れて仕事を一緒にしていた一人のアナリストの個室にいましたが、ビルの上の階が吹っ飛んだのかと思うくらいの爆発音と激しい振動を感じました。驚いて窓をみたところ、燃えている瓦礫が滝のように降ってきていたのが見えました。これはただ事ではない。とっさにそう思いました。窓側に座っていた人達の顔が引き攣り真っ青になって“Get out!!”と叫び、一斉にみんなが非常階段に向かって走り出しました。自分のカバンを席まで取りに戻るかを一瞬考えましたが、走り出した人達のただならぬ雰囲気に圧倒され、一緒に流れに吸い込まれるように非常階段に向かいました。
非常階段から降りて外に避難したのは、私たちのビル南側のロータリーのところで、ちょうど世界貿易センターサウスタワーと同じストリート上にいました。ノースタワーからまっ黒な煙が大きく南へ流れているのが見えました。少し経って誰かが飛行機が突っ込んだらしいと言っていましたが、最初は商業用セスナ機かヘリコプターか何かだと思い、テロだとは夢にも思っていませんでした。
爆発音と同時に逃げた私たちは、何が起こったのかの事実も情報もわからないまま、ただ為す術もなくボーっと煙を見ていたのですが、そのうち何かがパラパラと落ち始めました。誰かが「あれは人だ!」と叫びました。それは紛れもなく飛び降りている人間の姿でした。信じられない光景でした。
あの人は朝、地下鉄で隣に座っていた人かもしれない。信号で止まっていたとき、前にいた人かもしれない。前を歩いていた人かもしれない。もしかしたら私が知らないだけで同じ時間に通勤してすれ違っていた人かもしれない。その人達が私となんら変わらないこと、その人を自分の生活の一部に見たように思えて見るに耐えられなくなり、ハドソンリバーの方に目を背けました。ちょうどその時対岸のNJ側で、ニューアークに行くには低い高度で飛んでいる飛行機が一機見えました。それが、後ほどマンハッタンに向きを変えサウスタワーに突っ込んだ2機目の飛行機になるとは、その時私は思いもしませんでした。
周りにいた人達は、口に手を当てながら“Oh my god!”“Oh shit!”思い思いに叫びながら見ていましたが、2機目が突っ込んだとき、サウスタワーのほぼ真下にいた私達の誰一人、声を発することができないほどの衝撃でした。一瞬の不気味なまでの静まり返った静寂、そして次の瞬間、人々は絶叫しながら南に向かって一斉に逃げ始めました。それは対岸の火事だと思っていたことが、自分の身に危険が及んでいることを感じ取った瞬間でした。かわいそう、大丈夫なの?あの人達はどうなるの?と思っていたことが、他人事ではなく、まさに今、自分に降りかかっていることなんだと認識した瞬間でした。
転ぶ人もいました、かばんを投げ捨てる人もいました。靴も散乱していました。逃げている最中は何がなんだか分かっていませんでした。しかし、ある程度南に逃げてグラウンドゼロから少し離れたところに行けば、そこはまるで何もなかったかのように穏やかなバッテリーパークシティーの住宅地域で、公園と川辺にプロムナードがあり、快晴の青空の下、暖かい日光を浴びてプロムナードの石の上に腰を下ろしていると、30分も経った頃でしょうか、落ち着きを取り戻して、明日どうやって会社に行けばいんだろう?とか、このまま家に帰ってもいいかな?とか、アパートの鍵も財布も携帯も置いてきたしどうしよう?などと呑気な事を考えていました。
その時です。ゴォーという地響きみたいな音に気づき、目を上げてみると目の前でサウスタワーは上から押し潰されるように崩壊し始めました。崩壊して行ったそのサウスタワーの80階で少しだけ私は働いていたことがありました。私はあそこに居たかもしれないと思いながら、これって本当のことですか?目の前で起こっていることが現実だとどうしても思えず、ショックで突っ立っていました。足が動きませんでした。もくもくと煙がこちらに向かって押し寄せてくるのが見えました。まるで映画のようでした。「戦場みたい。」戦争をしらない私が言うのも変ですが、何故かそう思えました。
そこに居た知らないチャイニーズアメリカンの女の子と、気がつくと手を繋いで一緒に走って逃げていました。どちらが言葉をかけたわけでもなく話した記憶もなく、たまたまそこに居合わせて、でも思うにきっと、同じ思いを無意識のうちに感じ取っていたのかもしれません。一人で逃げても二人で逃げても死ぬときは同じで状況は変わらないのですが、不思議と手のぬくもりが恐怖を和らげ、一人じゃないと感じることができて、そのぬくもりに何故か涙が出そうなほど励まされ勇気付けられました。
人間は一人では生きていけないものですね。実は2機目が突っ込む前、私はノースタワーから手を繋いで2人で飛び降りている人達を見ました。とてもショックでしたし、もし自分だったら、とは思いましたが、それでも全く自分のことのようには思えませんでした。なぜなら肉眼であっても、私は安全なところで見ていたからです。一人で飛び降りても二人で飛び降りても地面に叩きつけられて死ぬのは同じですが、その時、私はその人たちの気持ちがすこし分かったように思いました。どんなに怖かったでしょうか。2度のタワー崩壊の灰を2度被り、その後私はCNNのレスキューボートでチェルシーピアまで無事戻ってくることができました。
多分多くの方々は、リアルタイムで奇跡的に助かった生存者と、亡くなられた方々の話をニュースで聞いていらっしゃると思いますが、私が働いていた野村證券も2名の日本人の方が亡くなられました。皮肉なことにその2名の方は、NY支店で働いている方ではなく、世界貿易センターのノースタワーであるセミナーに参加するために、前日東京からこられた出張者のお二人でした。当日彼らは朝7時に私と同じフロアーでセールス、アナリストの人達と会っています。そしてその後、セミナー前に最上階にあるウィンドーアンダーザワールドに朝食を食べに行かれ亡くなられました。嫌な言い方を許されるとすれば、わざわざNYに死にに来られたとも取れるこの皮肉な運命に、なんとも納得できない気持ちでいました。普段なら居ない人がなぜか被害に遭われた。いつもなら居る人なのに、子供がぐずったから、出掛けに何かが起こったから、下にベーグルを買いに行ってたから等、偶然とは片付けられないようなエピソードを山ほど聞きました。一体これは何なのだろう?私たちには考えも及ばない何かがあるように感じてはいましたが、それは「運命」とか「宿命」とか、そういうもののように思っていました。
その当時の私は、宗教と政治、お金は切り離せないものだと思っていました。自分の宗教をリスペクトしないから相手を殺す。そういう宗教も存在していますし、日本で宗教とされる神道や仏教は、冠婚葬祭など伝統的な儀式的な意味合いが主であって、政治色の強い過激的なものは感じられず、宗教なんてそれでいんじゃないの程度に思っていました。ジョンレノンのイマジンの歌詞のように、天国や地獄がないと思えば、宗教がなければ、人は殺し合い死ぬこともない。戦争や飢餓、貧しさをなくす為に、すべての人類が国や宗教を超え兄弟として世界がひとつになることが、宗教より大切で必要なことではないだろうかと当時は思っていました。
しかし、10年経った今、その時と今の私の大きな違いは、私はクリスチャンであり、神様の存在を信じていることです。この世には、神様が本当にいるの?と思うようなことがあります。天災、戦争、テロ、虐待、いじめ、飢餓、貧困等があり、この先もなくならないでしょうし、人間の残虐さ、身勝手さを見る度に、この人のためにも神様は死んだの?と疑問を感じることもこれからもあるだろうと思います。自然の恐ろしさに何故こんな惨いことが起こるの、神様がいるのに?と何度もまた同じところに戻り、立ち止まることもあるだろうと思いますが、それでもクリスチャンになった今、私は信じない者ではなく信じる者になりたいと思っています。
聖書を学ぶようになってこの世が本番ではなくリハーサルのようなもの、この世が全てではないことを学びました。キリスト教とされる私たちが信じている神は、宗教ではなく真実であることを知りました。
何故信じる者になりたいと思うようになったかというと、それは、礼拝のメッセージを通して繰り返し繰り返し聞く神のみ言葉と、真実で正直なクリスチャンの証の中に、ただの知識や絵空事ではないものを感じ取ることができたからだと思います。
人は他人を100%理解することはできません。相手の立場に立つことも難しいです。同じものを見ても聞いても、人それぞれ感じ方も心に残るポイントもリアクションもそれぞれです。しかし、テロリストも含め亡くなった全ての人に共通していることは、その一人ひとりに生きてきたストーリーがあり、一人ひとりの思いがあり、産んでくれた母親がいて父親がいて家族友人がいること、神様から命を受けこの世に存在していたこと。正義と悪だけで単純に片付けられないひとりひとり命の重みがあったこと。を思います。生も死も私たちの理解を超えて、神のみの領域のように思えてなりません。洗礼を受けるまで多くの疑問をぶつけては、納得できないと神を信じられないと思っていた私ですが、私たちの理解や納得自体が、すごく小さなことで、私たちの理解を遥かに超えた大きなものがいっぱいあることを、自分の理解力をどれだけ過信していたのかも思うようになりました。
アブラハムのように行き先(将来)が見えなくても、ノアのように何の兆しが見えなくても、自分が何ができるわけでもなく何も変えられなくても、自分が願っていることが叶わなくても、それを超えてもっとずっと先にある、神様が用意してくださっているものを信じて、神様と共に働く者になりたいと思いました。信じること(信仰)にしか得ることができない希望を、私も持ちたいと思いました。
最後に、イマジンではなく、このマザーテレサの祈りを911と震災で亡くなられた方々と遺族に捧げます。911と震災を通して私たちがさらに神様に近づけますように、私たちが愛ある人へ導かれますように、そして、神様と共に働く者とさせていただきたいと願いを込めて、お読み致します。
『兄弟姉妹の中にあなたを』マザーテレサ
主よ、私たちの目が
兄弟姉妹の中にあなたを見出しますように。
主よ、私たちの耳が
苦しむ人々の叫びを聞き取りますように。
飢えと寒さ、恐怖と抑圧に
さいなまれる人々の嘆願を。
主よ、私たちの心が
互いに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたようにその同じ愛で。
主よ、あなたの“霊”を
今日も私たちにお与えください。
あなたの名において
私たちがひとつの心
ひとつの魂となれますように。アーメン。
月報2011年10月号より
「一人の人のために立ち止まる」
この夏、私はIris Relief Japanというクリスチャン伝道チームのボランティア活動に2週間参加して、3月の地震と津波で大きな被害を受けた仙台と石巻に行きました。この体験は、私の人生において最もすばらしい体験と言っても過言ではないような、驚異的なものでした。
アイリス・チームの活動は、福音を伝えることを第一としています。毎日私たちは避難所や仮設住宅に出かけたり、仙台の街を歩き回って、多くの人々と話をして、傍らに座って話を聞き、祈り、御言葉を語り、時には癒しや奇跡も行いました。私達は聖霊に完全に覆われて、神様は常に私達の行動の中心にいてくださいました。
この2週間の間とても多くのすばらしい出来事が起こりましたが、その中から仙台の路上で伝道中に出会った一人の男性についてお証ししたいと思います。私達は2回、夜中の仙台の繁華街を歩き、酔っぱらいや売春婦達に伝道しました。少し怖い経験でしたが、2週間の体験の中で一番心に残るものになりました。
2回目に夜の繁華街に出ていった時のことです。私のチームが裏道に入ってパチンコ店の横を通り過ぎた時、メンバーのうち二人がそのパチンコ店に入るように神様から語られるのを感じました。正直なところ、私は怖くて中に入りたくありませんでしたが、通訳をしなくてはならないので、仕方なく彼らについて中に入って行きました。パチンコ店に入るのは初めてで、そこはまるで地獄のような情景でした。ずらりと並んだパチンコ台の前で、人々は催眠術にかかったかのようにスクリーンに見入っている。スクリーンには怪物や燃えたぎる炎などが次々と映し出される。そして凄まじい音!小さな金属の玉が機械からジャラジャラと流れでて、タバコの煙と体臭が混じってひどい悪臭が充満していました。
それでも私達は神様に「誰に話しかければいいのですか?」と問いかけながら進んで行きました。ぐるっと一周して入口近くに戻ってくると、そばに漫画が並んだ本棚があり、その横のソファーで一人の男の人が漫画を手に座ったまま眠っていました。私達が彼を見ていると、急にその手から漫画が落ちて彼は目を覚ましました。今から思えば、あれはきっと「この人に語りかけなさい」という神様からのGOサインだったのでしょう。
その人は、津波で自宅が全壊してしまい、自宅付近の避難所で2ヶ月生活した後、生活を立て直そうと仙台市内に出てきたのだそうです。私達が訪れた頃、仙台市の中心地はかなり平常に戻っていて、東京と同じようでした。しかし、彼は仙台で住む所を見つけられず、ただ市内を放浪していたのです。話を聞くうちに、私達3人は神様から同じようなことを語られました。それは、この人は行き場がなくてさまよっているだけじゃなく、心も魂も失ってしまっていて、何かを求めているのだということでした。彼は答えを探していました。どうしてあんな津波が起こったのか、何故善人が死んで悪人が生き残ったのか、何故自分は死ななかったのか。もし死んでいった人々を生き返らせることができるのなら、自分は死んでもかまわないと彼は話してくれました。
私達は彼に、神様は津波の被害に深く悲しんでおられる、決して津波が起こることを望んでおられたのではないと伝えました。神様が天地を創造された時、地震や津波は造られなかった。平和だった世界に罪が入ったことで、すべてが変わってしまったということ、そして、神様は私達に自由な意志を与えてくださったから、人は善と悪の両方を行うのだということも話しました。
彼に聖書を手渡してお祈りをして、近くの教会の連絡先を教えました。最後に彼はこう言いました。「電話するよ。この聖書読んで分からないことがあったら、この番号に電話するよ。」私は彼が、聖書を読んでみよう、電話してみようと思ったのだと信じています。
このパチンコ店の男の人の話は、災害に見舞われた多くの人々がたどってきた道と似ているのではないでしょうか。だからこそ、この話は私にとって一番思い出深い話なのだと思います。彼には神様が必要です。地獄のような状況で疲れ果て、心に深い傷を負い、多くの疑問を抱えているのです。仙台では多くの人々が同じような状況にあります。しかし、神様は働き手を送られます。イエス様を送られたように、人々を愛するようにと私達を遣わされます。そして、私達が人々を愛し、寄り添い祈る時、神様が私達のうちに働いてくださるのです。
この他にも病気やケガの癒しや奇跡など、もっとすごいことも体験しました。でも、このパチンコ店でのでき事のような体験のほうが、私の心には強く響いています。私達がIris Reliefでしたこと、人々と話をしたり寄り添うこと、それは2000年前にイエス様がされたことを思い出させてくれました。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にはイエス様が一人の人のために立ち止まり、その人の横に座り、苦しみ悩みを聞き、祈り、その人を愛したという記述がたくさんあります。これこそが、神様が私達一人ひとりに求めておられる務めなのだと思います。一人の人のために立ち止まり、その人と話をするためならパチンコ店にでも入っていく、そしてその人を愛して救いへと導く。
Irisのメンバーは確信をもってこの方法で活動しています。一人ひとりのために立ち止まり、ハグして、神様の愛を降り注ぐ。もう一度繰り返しますが、その人を私達が愛した時、神様が私達のうちに本当に働いてくださるのです。最後にIris Reliefのリーダー、Yonnieが私達に教えてくれた言葉で締めくくりたいと思います。
「私達の仕事は人を愛すること、その人を癒すのは神様のみわざ」
月報2011年9月号より
「11年前、私が家族と共に…」
初めての礼拝
11年前、私が家族と共にアメリカの西海岸のサンノゼに着いたばかりの頃でした。私の父の知り合いのTさんに台湾系キリスト教教会へ連れていってもらったのが、教会との付き合いの始まりでした。Tさんが、「誰でも外国へ来たばかりの時は、知り合いも無くとても不安なものだ。そういう時、教会というコミュニティで仲間を見つけたり情報交換や情報収集をする場でもあるから来たらいいよ。」と教えてくれました。なるほど、お祈りや礼拝以外にも、教会にはそんな利用方法もあるんだと知りました。不慣れな外国生活でしたので、毎週礼拝にも家族で参加をしました。そのついでに情報を仕入れることも出来ました。その教会では中国語での礼拝、中国語の聖書しか置いていなかったので、私は数回でギブアップしてしまいました。始めて教会に足を踏み入れた私にとっては、未知の世界に等しかったのです。唯一のより所である聖書が無くてはと思いました。サンノゼでの1年は過ぎ、その間私の妻は洗礼を受けました。主がわれわれ家族をこの地を目指すよう、導いてくれたことに感謝します。
聖書
サンノゼでの生活も1年を迎える頃、日本でも仕事で4年間生活をした経験のある、Sさんから1冊のポケットサイズの日英対訳の新約聖書をプレゼントされました。この聖書はSさんが日本に滞在していた頃に購入したものとの事。これでやっと私も自分の聖書を持つことが出来たと大変喜んだのですが、新約聖書はマタイの福音が冒頭にあります。たいていの人は誰でも、書物は1ページ目から開いて読もうとするでしょう。しかしこのマタイの第一章の17節までを読んで理解することは、至難の業のように思えてなりませんでした。こんな系譜のような長い文章を暗誦するなんて出来るわけが無い。最初から大きな高い壁にぶつかったような気持ちでした。何の予備知識も無い私が読むのはやはり無理がありました。いつか読むぞと、常にコートのポケットには入れて持ち歩いてはいました。しかしニュージャージーの教会へ行くまでの数年間、聖書を開いて読むことは稀でした。
ニュージャージーで再び
メリーランドで1年半を過ごした後、8年前にニュージャージーに越してきました。ここの生活にも慣れ、暫くは移動も無いだろうと、5年程前、ニュージャージーの北部で私の妻が教会を探していたところ、付近の中国系のスーパーであるクリスチャン同士の会話を耳にし、問い合わせたところWyckoffにキリスト教教会があることを聞き出しました。中国語での礼拝だったので、当初は私の妻だけが礼拝に参加をしていました。暫くの後、英語の礼拝もあるからと妻に誘われました。少しでも英語が解るなら行った方がいいと、私も娘と共に英語の礼拝に参加するようになりました。私も一生懸命集中して聞いていると、メッセージの輪郭がぼんやりとだけですが伝わってきました。また、メッセージを聞き終えた後“心地よさ”のようなものも感じました。
Sinと罪
私が英語の礼拝で特に興味を示したキーワードが“SIN”という句でした。礼拝ではSINまたはSINNERという言葉が頻繁に出ていたのを覚えています。それからそれが“原罪”と日本語で訳されていることを知りました。日英対訳の聖書でも”Sinは罪”と訳されているので注意をすれば解るのですが、私の知っているレベルの英語では、罪人はCriminalという言葉しかありませんでした。Sinには私の知っているCriminalとは別の意味があるんだと。私の持っていた新約聖書だけでは物足りなく感じました。そもそもコンサイス聖書などは、聖書を読んだことのある人が旅行用に持参するのには便利だが、礼拝では旧約をよく参照することがあるから、旧約の無いこの聖書は私にはとても不便でした。どうしても日英対訳の新旧約聖書でしかもNIV版の訳がいいと、オンラインでその聖書を買い求めました。自分で聖書を買ったぞという満足感がありました。手元に届いた時、真っ先に読んだのが、“伝道者の書“でした。聖書の内容にもこんな文学的な箇所があるんだと感動しました。
ニュージャージーに来てから、われわれ家族にとって教会はすでに情報収集の場としてではなく、神様に祈りをささげられる教会としての神聖な場所でした。
聖書の読み方
以前ハーベストタイムと言うテレビ番組がありました。フジサンケイニュースのあと、テレビをつけっぱなしにしていると、次がこの番組であったのを覚えています。私が実際に観たのはそのホームページにあるルカの福音を扱った19回から成る放送でした。聖書の内容について、どのように聖書を読んだらよいのか、解りやすく説明がしてありました。その頃は英語の礼拝にも行かなくなりました。しかし、妻は私に、日本語の教会に行くことを勧めてくれました。インターネットで検索した結果、付近のいくつかの教会のホームページが掲載されていました。教会の中にはカルト集団もあると聞かされていました。何度もそれらの教会の主旨を読み返しました。私の目にとまったのが“福音主義信仰に立つ単立教会”と書いてあった本教会のホームページでした。この教会へ行ってみようと決心したのはこの一言に尽きます。いや、それ以前にも何度もここの教会のホームページは開いていたのですが。
決心
実は今年の春、中国語教会のL牧師のお母様が天に召されました。私もよく知っているL牧師でしたので、葬儀から帰ってきた妻に私は、「どうだった?」と何気なく聞きました。私の質問自体が妙な質問でしたが、「満面幸せそうな微笑をたたえてたよ」と私の思惑を察したように妻は答えました。私は信じました、そして感じました。この方も主を信じ、主にすべてを委ね、生死をも越えて主と共に歩んでおられるんだと。今でもこの一件は強く私の脳裏に焼きついています。私の曖昧な気持ちを打ち消して、新たな生まれ変わりを決心するエピソードでありました。「信じるものには永遠の命がある」ヨハネ6:47
今年の3月の第一日曜に私の聖書と決断を持って、この教会の礼拝に参加しました。心の霧が拭き取られたようにすっきりしました。毎週の礼拝で語られる御言葉が静かに私の中に染み入り、魂の渇きが癒される思いがしました。3月中旬から錦織牧師宅での聖書入門コースを受講、最後の受講が終わった時点で私は錦織牧師に信仰告白と洗礼のお願いをいたしました。受講以前から洗礼を受ける決心は固まっていましたが、錦織牧師へ告白した時はかなり緊張をしていたのを覚えています。
6月12日晴れて洗礼を受けることが出来ました。主イエスキリストを信じ、主と共に歩むことは、生まれ変わった私にとってのよろこびであります。この証しを通して私は“自分の魂は生かされているんだ“という実感と共に、私に信仰への導きと生命を授けてくれた神様へ感謝いたします。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」ルカ21:33
月報2011年8月号より
「生かされている使命」
「私の家も流され、家族とも会えず、病院には沢山の方が集まっているのに、食べ物も、薬も限界で・・、私も廊下で寝ているんです・・。」震災5日後に、ニュージャージーから石巻の病院に電話をしたときに、電話に出た看護師はそう言いました。それが始まりでした。
今回4,5月と一時帰国し、東北の被災地でのボランティアに行って参りました。宮城県塩釜/多賀城に2週間、石巻に1週間、一度関東に戻って、再び宮城県山元町に15日間、郡山の友人を訪ねた後、石巻の河北町に1週間、それぞれの避難所で看護師ボランティアの活動でした。
この間、被災地の教会を訪問する時間が与えられ、配るための教会案内を頂いたり、物資や聖書を届けてくださる方、助け人も、活動場所へ送られ、共に祈り会うことも出来ました。それは、私一人の行いではない、主が共にいて下さり、皆様の、多くの祈りとサポートをひしひしと感じ、心が熱くなる2ヶ月間でした。
被災地の悲惨さは、想像を絶するものでした。
くの字に折れた電柱、そこに突き刺さった漁船。小学校のプールや家屋に突っ込んだ、車や船。百メートル以上も流された家屋の一部、粉々になった瓦礫の山。2階建ての屋上に乗ったバス。鉄骨の枠だけ残った教習所とぺっちゃんこのバス。真っ黒焦げの学校と積み重なった真っ黒焦げの車やドラム缶もろもろ。海岸近くは、頑丈な堤防が崩れ、コンテナーやドラム缶がゴロゴロ転がり、家屋は基礎だけ残して完全に流された後が・・。
そこには、3月12日から入っておられる自衛隊や警察の方が安否の確認のため必死で作業をしておられたり・・・。
何か思い出のものを・・・と探しに来られる人。今でも毎日海に家族を探して来る人・・・。
言葉に表せない悲しみや悔しさの叫びもありました。
子どもを守るための涙祈り、そして原発の現場で必死で作業される方々のための祈りも捧げられました。
ボランティア活動は、避難所の診療や往診の介助、健康相談、生活の援助、あるいは夜勤の看護などでしたが、掃除や下痢便で汚れたものを洗って明け暮れた日もありました。その合間に皆さんのお話を聞いたり、聖書を開いて祈ったり、「教会があそこにあるからね。」と教会案内をお渡ししたり・・・。
避難所で出会った9歳のK君、高熱後お部屋にいなかったので探し当て、「お部屋に帰ろうか?」と声をかけると、「うわーっ」と大声を上げ、しばらく泣きじゃくるのでした。お母さんも、「子どもの前でも夫の前でも、涙なんか見せられない。・・・でも怖かった・・・。夫は流れる車の上を飛び越え逃げて来たけど、職場も流され、仕事もなくなった。家も車も流され、借金だけが残った・・・。」「奇跡的に家族が無事だった。」と。共に涙の祈りをしました。
ボランティアの合間に訪問した、海のそばのN小学校では、全員屋上に避難し、無事だったと聞きました。私は消防団の許可をいただき、中に入りました。現場の狭い屋上で、あの雪も降る寒い夜、先生や子供たちはここでどんなに怖い思いをしたか、想像しただけで身体が震え、涙が溢れてきました。
2階建て学校の教室全部は波に飲まれ、もちろん周りの家屋も土台だけを残して流されていました。
帰る家も親も失った子どもたちがいるそうです。そのような中、M先生は、ご自分の家も流されたのですが、「一人の小さな手」を歌いながら子供たちを励ましておられるそうです。
もう一つ訪問した宮城県南部S中学校のクリスチャンの若い女性のF先生、4月から派遣された新任教師です。(他県にも合格していたのですが・・・)、「神さまがここに遣わされたのですね。」と使命に立っておられました。放課後に子どもたちと一緒に瓦礫と泥かきの掃除に汗を流したり、子供たちの為、涙の祈りをしておられました。
避難所で出会った方の中には、涙ながらに「最初、自分が助けられたことを喜べなかった。何をしてもらっても『ありがとう』というのが精一杯で、複雑だった。」と語る方もおられました。「でも、周りの方と少しずつ話してみたら、その人の悲しみや苦しみも知って、夜も寝ないでケアーしてもらって・・・、少しずつ、生きてみようかなって思った。今はありがとうって、心から言えるようになってきて、周りの人に一緒にお茶飲もうって言えて・・・。」
ある男性は、「もう分かったよ。分かったから、あんたは家族の待っているアメリカに帰ったらいいよ。自分にはこれから仕事は見つからないかもしれないけど、ボランティアでもして人のために生きるよ!」と、人前で「生きるよ」声を上げられたことが嬉しくて、私は、ここに来て良かった・・・と思いました。
また、石巻の避難所で、ある晩、教会のボランティアによる豚汁の炊き出しがありました。玄関の外での配膳後、一人の方がゴスペルを歌い出し、踊りの輪が自然に大きくなってきたのです。
それまでは、あまりにも悲しみが大きすぎて、避難所では公に歌ったり、踊ったりなど出来なかったそうですが、不思議なように避難者さんが集まって来ました。
「流された友だちと一緒に踊りたかった。」とさらっと笑顔で語る女性。
「いいなあ、こんなの、一番、妻と一緒に見たかったな・・・。」「でも仲間がいるんだ。ほら!」と語る男性。家族も失った悲しみの中、励ましあいながら生きている姿がありました。
また私は、避難所の中に暖かくてしっかり結び合わされた絆を見ました。それはお互いに苦しみ悲しみを分かち合いながら、支えあっている様子でした。
でも被災地はまだまだ、大変です。仮設住宅に移り、周りは変わっても、心の傷や大きな問題が襲ってくるような、孤独との闘いがあるでしょう。実際、私のいる間にも、避難所から、お一人のご婦人がいなくなって、3日後に山でご遺体で見つかったという痛ましい出来事にも出遭いました。
また、今回の震災で愛する家族も何もかも失った方にとっては、どれほど大きな悲しみでしょうか。孤独と悲しみを担ってくださるイエス様の十字架からの慰めと救いがありますように。ただ、神に生かされていることの奇跡に希望を見出していただきたいとこれからも祈り続けたいと思っています。
そして、私自身、気付かされたことですが、改めていのちの尊さを思い知らされました。今まで当たり前のように生きてきたこと、家族、周りの環境にも、もう一度目を止め、今あるのは神様に生かされていることなのだということを覚えたいと思いました。神の栄光のために生かされている使命があることに喜びをもって生きていきたいと願わされました。
帰米前日の夜、ホームレスの支援を長くされておられる奥田先生とお会いするときがありました。「先生、支援を長くされていると、裏切られることもありますよね?」の質問に、先生は、「そうだな、自分もたくさん裏切ってきたからな・・・。」次の場所に移らなければならず、会話は中断しましたが、神様の前では、支援者も、支援される者も同じ罪人なのです。ただ、多く赦されている者が多く愛することができるのだ、という聖書のメッセージを思い出させられました。
「神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第2コリント1章4節)
どれだけ心の叫びを聞き、共に祈ることがどれだけで来たのか分かりませんが、これからもこのNJでできることを続けていきたいと思います。被災地の方々にまた世界中に神さまの救いと恵みがありますように、心からお祈り致します。
月報2011年7月号より
「私が初めてニュージャージー日本語キリスト教会に…」
私が初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、90年代の初めでした。私は以前からhi-b.a.を通して宣教師として日本に行きたいと思っていました。その頃は、そのためにはBergenfieldにあったhi-b.a.の本部でインターンをするというのが唯一の道でした。東海岸で生活をしたことがなかった私は、ただ、ビリー・ジョエルの歌に出てくるから、という理由だけでHackensackに引越してきました。Linden Streetの私のアパートのそば日本語教会があるよ、という話を聞いて、ある日曜日にその教会を訪問しました。神様はJCCNJの人々を用いて、若かった私を育ててくださいました。たくさんのいい思い出があります。特にその頃の中高生との思い出は特別です。
また、5月にもう一度訪問することができ、この教会を通して、何年間も励ましとサポートを与えてさってきた神様の真実をもう一度感じることができました。ああ、わたしたち家族はJCCNJからどれほど多くの愛を受けてきたことでしょうか。
hi-b.a.のことを初めて聞いたのは、高校生の時。何人かの友達が国際hi-b.a.の集会に誘ってくれたけれど、私にはそれが何なのか見当もつきませんでした。「そこでどんなことしてるの?」と聞くと、友達は「歌ったり、一緒に祈ったり、聖書を読んだりして、互いに交わりを持つんだよ。」と教えてくれました。私は、その友達を疑問あり気に見つめながら言いました。「僕がそんな所に行きたがると思う!?」
当時、私は自称クリスチャンでしたが、イエス様の弟子になりたいという興味や情熱を持ったことはありませんでした。事実、友達が本当に自分の意志でそんな集会に行っている、ということを信じることができなかったのです。私は、キリスト教とは大人が信じるもので、子供たちに強制する、そんなものだと思っていました。すると友達が、集会の後で美味しいデザートが出ると言ったので、私は行くことにしました。
初めてのhi-b.a.集会で私が見たのは、驚くべきものでした。同世代の人達が、喜んで祈り、分かち合いをし、自分の聖書を開き、メッセージを聞き、話し合い、交わりを持ち、さらには自分の個人的なデボーションから学んだ、ということさえ話していたのです。信じられませんでした。私はすぐに、自分にはないもの―つまり、イエス様との生きた関係を、彼らが持っているということに気付きました。
その後、hi-b.a.に毎週出席をし、キャンプに行き、Let’s Be Friendsに参加するようになると、聖霊が今まで経験したことのない方法で、私の中で働き始めました。神様が、イエス様のために生きるという強い願いを与えてくださったので、私は学校で証しし始めました。
大学時代、私は初めてアーバナ宣教大会に参加し、神様が私に宣教師になることを示されていると感じました。もし高校の友達がhi-b.a.に誘ってくれなければ、自分は霊的にどこへ行っていただろうと思いました。また、hi-b.a.スタッフが私にイエス様のことを分かち合うために時間をとってくれたように、成熟したクリスチャンのサポートに触れる機会がない日本の高校生たちのことを考えさせられました。そうして私は、日本の高校生たちに福音を届けるために神様に用いられたいと思い、hi-b.a.の働きに加わりました。
神様が私を愛し、イエス様を与えてくださったことを本当に嬉しく思い、日本での主の働きのために、神様が私の様な者を用いて下さるという事実に、謙ることを覚えさせられています。そしてその事を、hi-b.a.において仕える為の、とても大きな特権だと考えています。
必要なサポートがそれまでに与えられれば、7月の末までには日本に行きたいと思います。わたしたち家族全員、日本に帰ることを楽しみにしています。しかし、日本に着いた時には、わたしたちは多くの変化に直面しなければなりません。わたしたちは新しい地に引っ越すことになっています。ですから、子どもたちは新しい学校に通うことになります。私自身もSEND Japanのディレクターという新しい仕事をすることになっており、前とは違うオフィスに通います。あらゆる方法でhi-b.a.の働きに関わっていきますが、今まで私がしてきたことの責任はほとんど、もう一人の方に引き継ぎます。そして、私自身はほとんどの時間をSENDのリーダーシップチームと過ごすことになります。
わたしたちが今祈っていることはSENDの人材やリソースを、東北の人々の心のケアと、その地の復興のために用いていこうということです。今もSENDの宣教師たちは東京から被災地を訪問して、全力を尽くして働いています。しかし、わたしたちはもっともっと多くのマンパワー、財力、知恵、能力を必要としています。私の希望は、わたしたちが強められ、日本の外からもたくさんのボランティアやチームを受け入れることができ、彼らに、祈り、仕え、福音の希望によって人々の人生が再建させられていくための助けをしていただくことです。どうか、日本の復興のために助けに来ること、ぜひ、考えてみてください。
主が、全ての栄光を受けますように。
月報2011年6月号より
「今が救いの時」
2011年3月11日、午後2時46分(日本時間)。震度7、マグネチュード8.9の巨大地震が日本全体を恐怖に包みました。その知らせを受けたのは、地震直後に届いた東京近郊に住む友人達からのメールでした。「今さっき、東北で大地震がありました。大丈夫ですか?東京でも大揺れでした。」という、仙台に住む母を心配しての内容でした。仙台は地震の多い地域ですので、最初は「またか。。。」というくらいにしか思っていなかったのですが、次々に届くメールからただ事ではない様子が伝わってきました。仙台の自宅に電話しても通じるはずはなく、母の携帯番号もすぐにわからず連絡ができないままでいましたが、そのうちに「無事です」と一言だけ書いたメールが送られてきました。しかし、それだけでは状況がわかりません。その後、母の友人のお嬢さんが、母が職場近くの公園に避難していることを知らせてくれたので安心しました。その数時間後には「大丈夫今宮城野中に避難しました家の中歩けない」という件名のメールが届きました。仙台に住む友人にも思いつくままメールを出したのですが、すぐに返信があったのは数名だけでした。朝になり、家ではニュースを見ることもせずに出かけました。職場に向かう途中、携帯に電話がかかってきたのですが、それはインドに一時帰国している友人からでした。地震に加えて津波による被害がかなり大きかったことを知らされ、段々と不安が高まってきました。会社に着く早々、テレビに写し出される映像を見て唖然としました。そこには自分が知っている地名とともに、家や車が津波による大洪水の渦の中でぐるぐると回りながら流されていく光景だったのです。まるで映画か何かを見ているような感じでした。一緒にテレビを見ていた同僚達から家族の安否を尋ねられましたが、私がこの町の出身だということを告げると、みな大声を上げて驚きました。
この地震が起きる数日前、4月に家族で一時帰国をするための飛行機のチケットを購入していました。しばらく様子を見ていましたが、毎日のように余震が続いていますし、福島の原子力発電所の問題も大きくなっている状況の中、子供達を日本に連れて行くのは無理だろうということで、主人と子供達のチケットはキャンセルし私だけ日本へ帰ることを決めたのです。仙台に滞在する間、私にも何かできることはないか?という思いが与えられ、「どうぞこの機会を用いて下さい。神様の働きのために私を使って下さい。」と祈り始めました。それから間もなくして、母の教会の先生(アメリカ人)があるクリスチャン団体(Iris Ministries)の支援チームと関わりがあること、そしてそのチーム(Iris Relief)が仙台を訪問していることも知りました。先生ご夫妻に連絡をしたところ、ちょうど私が一時帰国する頃、そのチームがミニストリーの第2弾として来仙するので通訳をしてほしいというお返事をいただきました。どんなにか嬉しい知らせだったでしょうか。このようなチャンスを与えて下さった神様に心から感謝しました。
4月18日(月)成田到着。仙台まで行く新幹線が通っていないため、成田からは夜行バスに乗ります。空港で8時間待ち、ようやく仙台行きのバスに乗ることができました。それは“緊急支援バス”という名前に変わっており、ボランティアで仙台へ向かう人達もいたようです。仙台に着いたのは約8時間後の翌日早朝でした。仙台の街はいつもと変わらないように見えました。自宅まで乗ったタクシーの運転手さんに地震の時の様子を伺うと、30年前にあった宮城県沖地震とは比べものにならないほど長く大きな地震であったこと、5分前まで寝ていた場所にいくつもの家具が次々と倒れ、あと5分違っていれば自分はその下敷きになって命がなかったかもしれないということを話して下さいました。家に着くと、母が壊れた家具や食器のかたまり(ゴミの回収が間に合わず、まだ持っていってもらえないということ)、斜めになったままの絵や写真、ベランダに倒れたままになっている乾燥機などを次々に見せてくれました。どの友人に会っても、最初は地震と津波の話で持ちきり。地震があった時に何処にいたか、何処にどのようにして避難したか、どのような被害があったのか、被害にあった親戚や友人のこと、本当に沢山話しを聞きました。1人の友人の会社は津波で流されてしまったのですが、その日のお昼頃お父さんから仕事(商売をしている)が忙しいので手伝ってほしいという連絡があり2時に早退したそうです。もし普段通りに仕事をしていたとしたら、どのようになっていたのか?考えるだけでぞっとしてしまいます。神様がその友人を守って下さったんだと確信しました。
4月22日(金)。この日は当初の予定よりも遅れて、Iris Relief Teamと合流するはずでした。チームのメンバーの半分が、被害にあった家の泥出しや掃除をしたいということを聞いていたので、クリスチャンの友人と共に多賀城市(仙台に隣接している市で、津波の被害が大きかった地域でもある)の市役所内に設置してあるボランティアセンターへ向かいました。そこで合流する予定でしたが、彼らのスケジュールが遅れ、また雨が降っていたこともあり、その日は別行動を取ることに。とても残念ではありましたが、私と友人はそこへ残って古着の配布のお手伝いをさせて頂くことになりました。しかし雨天のため中止となり、消石灰と救援物資を仕分ける作業を任せられました。消石灰を配布する時に被災者の方々とお話をしましたが、本当に大変な経験をされたのが目に浮かぶようでした。救援物資を保管している部屋は、普段は保育室として使用しているそうですが、そこは他県から送られてきた沢山の物資で埋め尽くされていました。ボランティアセンターで働かれているスタッフも他の町や県やから派遣されて来た方々が多く、市の職員の方々ともお話する機会が与えられ、現状を把握する助けとなり、このことも神様が導いて下さったのだと思いました。夕方、市役所を去った後、友人に海岸に近い地域まで車を走らせてもらいましたが、畑や家は荒れ果ており、車からは空っぽになった家の中が見えるような生々しい光景で、私も友人も言葉を失っていました。
4月23日(土)南三陸町へ。ようやくIris Relief Teamと合流。悪天候の中、土砂崩れも心配されていましたが、13名で南三陸町(宮城県の北に位置する、石巻と気仙沼の間にある町)へ出発しました。携帯電話を2台の車で繋げ、何人かが代表して祈りをささげました。2nd Response Relief for Japanとして集まった9名のメンバーは、台湾、アメリカ、イギリス、アフリカの各地に在住していて日本語はまったく話せません。今回お互いに会うのが初めてだという人達もいたようですが、もう既に霊的に一致されたチームが出来上がっているのを感じました。車の中では、他の国で体験した神様の御業を話してくれた人もいましたし、どのようにしてクリスチャンになったのか、献身に導かれたのかを証してくれる人もいました。雨が降る中、無事に南三陸町に到着。テレビで見ていたのと同じような光景が一瞬にして目の前に広がりました。ほとんどの家やビルが、この町を襲った高さ18メートルの津波によって崩壊されていました。そのような中で新しい電信柱だけが悲しげに立っているのです。この町の津波が起こる前と後の写真を見ましたが、あまりにも変わり果てたその姿に、一緒に行ったみんなも愕然としていました。ある避難所(小学校)を訪ねたのですが、そこには大人と子供を合わせて約50人程の人達が今も滞在しています。(既に大部分の人達が他の地域や県に避難されたそうです。) 皆さん津波でお家を無くされた方達ばかりです。仮設住宅ができるまで避難所に滞在されるそうですが、まずは安全な場所を確保し、そこにある瓦礫の山を処理してからではないと仮設住宅の建設も始めることができないので、いつ完成するのか検討がつかないということでした。何人かのスタッフが動物の着ぐるみを身につけ、皆で避難所となっている体育館へ入って行くと、一気に子供達が近寄って来て目を輝かしています。抱っこしたり、よじ登ったり、動物達は何をするわけでもないのですが、その場の雰囲気を優しくしてくれ子供達との距離も縮めてくれます。子供達が嬉しそうにしている姿を見て、大人の人達も喜び心を開いてくれるように感じました。私が2人の女性スタッフと一緒にお話したFさん(77歳)は、静かな方ですが、とても前向きで芯の強い女性のように感じました。一緒に話をしながら、スタッフの1人のYonnie(チームのリーダー)が自分の体験を分かち合ってくれました。心から慕っていたお兄さんが自ら命を絶ち、その悲しみの中で心も体もズタズタで魂の抜け殻のようになってしまった時に、イエス様から慰めと平安をいただき、もう一度立ち上がる力と希望をいただいたこと、だから自分がイエス様からいただいたと同じ平安と希望を持って歩んでほしい、イエス様だけがその約束を与えて下さる方だと。本を読むのがお好きな方なので聖書をプレゼントし、詩篇23篇を朗読して共に祈りました。そして信仰告白の祈りにも導かれ、その場所は喜びでいっぱいになりました。避難所で共に生活する人達とは世間話はしても、心を割って深い話をすることはなかった、こんなに笑ったのは久しぶりだ仰っていました。住居や身の回りのものは失ったものの、少しづつ物資が行き渡ってきている中で、いかに心の支えや霊的な満たしが必要だということを痛いほど感じた瞬間でした。その後、子供達と一緒にゲームをしたりして楽しい時間を過ごし、プレゼントしたおもちゃもとても喜んでくれました。帰る時には大雨が降る中、外まで見送ってくれ「また明日も来てね。」と言う子供達も。避難所の所長さんからは、いろんなボランティアの団体が訪ねて来るけれど、こんなに皆が楽しそうに笑っている顔を見たことがないとも言われました。また、一番近いガソリンスタンドはどこかと尋ねると、貴重なガソリンを2台の車に入れて下さる方もいました。車の中で知ったのですが、Fさんの他にも3人の方がこの日にイエス様を信じて受け入れたそうです。ハレルヤ!
4月24日(日)イースター。礼拝前に朝食会があり、お腹も心も満たされて礼拝がスタート。賛美の中にも、証の中にも、そしてIris Teamによるスキットの中にも主の臨在を感じました。礼拝後は通訳を交えて共に祈り合い、そこにも主が働いて下さり、言葉の壁を越えて皆の心が一つとなりました。また、感謝なことに月曜日から仙台と東京間の新幹線が再開することになり、火曜日にアメリカへ戻る私も、もう一日チームと一緒に神様のための働きをすることができることになりました。もし新幹線が再開しなければ、月曜日の夜にはバスに乗って成田へ向かわなければなりません。そうなれば、あと一日チームと行動を共にすることはできませんでした。確かに神様が働かれ、ご計画を持って導いて下さいました。神様は何というタイミングで、このような素晴らしいことをして下さる方でしょうか!
4月25日(月)亘理へ。亘理は宮城県の南部、阿武隈川の河口に位置する農業田園が盛んな町です。この町も津波の被害が大きく、塩水で覆われた田畑は最低でも5年間は耕作することは不可能だと言われています。ある避難所を訪ねましたが、ここでは40家族が生活しておられ、狭い体育館はたくさんの人であふれていました。それもそのはず、ここの学校は小学校と中学校が合体したため、体育館が二つあるのですが、その日の始業式、翌日の入学式、また授業開始に備えて、それまで別の体育館で生活をしていた人達がもう一つの体育館に移動しなくてはならなかったのです。体育館に入る前に駐車場で4人のカトリックのシスターにお会いしたのですが、それぞれ他の国から今回の震災後に日本へ来られた方達です。手を繋ぎ一つの輪になって、避難所の人達が心を開いてイエス様を受け入れられる方々が起こされるようにとお祈りして下さいました。Iris Teamは金曜日もこの避難所を訪ねていて、その時にイエス様を受け入れた女性と腰痛が癒された女性を探していました。腰痛が癒された女性は今も痛みから解放されて喜んでおられ、共にお祈りしたようでした。また、イエス様を受け入れた女性には更に神様の愛と恵みを分かち合い、イエス様の十字架の赦しとよみがえりを確信されたようでした。私は3人の方との出会いが与えられました。Mさんは右足の太ももに激しい痛みを覚えていて、私達が行く前に体育大学の学生から痛みを和らげる体操を教えてもらったそうですが、その体操をしても痛みは収まらず、棒で足を叩いていたそうです。スタッフのNaomiとお話して、その足のために祈らせて頂きました。すると、どうでしょうか。お祈りをしている最中から足がポカポカと温かくなり、痛みが消えていくのがわかったと仰るのです。立って歩いてもらいましたが、痛みは全くなく、足は汗をかくほど熱くなったそうです。確かにイエス様がその病めるところに手を置き癒して下さいました。次の日もIris Teamはこの避難所に行きましたが、その時もMさんの足は癒されたままだったと聞きました。ハレルヤ!Sさんは小さい字を読むのは目が疲れるので聖書は受け取られませんでしたが、Scottが台湾から持ってきた小さいテレビをもらって下さいました。それには、イエス様の誕生から十字架の復活まで4つのお話が入っています。最初は中国語だったものをコンピューターで日本語に吹き替えをしたそうです。娘さんとお孫さんも興味を持たれていたので、そのテレビが用いられるように祈っています。SさんとScottとChristianと4人で一緒にお祈りすることもできました。Aさんはとても熱心に話を聞いて下さり、ご自分のお話もたくさんして下さいました。途中から加わったAmyが自分の証を分かち合ってくれました。Amyは子供の頃、交通事故に遭い、お兄さんとお姉さんを亡くしたそうです。長い間ずっと、なぜあの時に自分は助かり、お兄さんとお姉さんは死んでしまったんだろう?と罪悪感に苛まれて苦しんでいましたが、ある日イエス様はAmyに語られました。その心の重荷を全てイエス様に明け渡しなさい、お兄さんとお姉さんのことも主に委ねなさい、神様はAmyに素晴らしい計画を用意しておられ、その苦しみをも用いようとされているから、神様に従いなさいと。現にAmyは、いつでも神様の召しに従えるように、アパートも引き払い、車も売り、最低限必要なものだけを残し、バックパックと寝袋で生活しているそうです。あけみさんは神様がいるのは信じているし、聖書にも良いことがたくさん書かれてあるのは知っているけれど、仏教の習慣の中で育ってきたので、キリスト教にのめりこむのが怖い、ご先祖様に申し訳ないという思いがあると正直に話して下さいました。でも、一緒にお祈りをすることができたので、主が必ずあけみさんの心に触れて下さり、Aさんがイエス様を主と告白する日が来ることを信じて祈り続けようと思っています。
Iris Relief Teamの仙台での働きは4月29日(金)まででした。私も出来ることならば、日本滞在を延長して、神様の素晴らしい御業をもっともっと見せて頂きたかったです。その後もここに書くことができないほどの祝福とたくさんの出会いあり、癒される人、イエス様を受け入れる人が多く起こされたようです。今後の彼らの働きのためにも、どうぞお祈りください。http://irisrelief.org/
確かに今回の東日本大震災はとても悲しい出来事で、失ったものは大きく、今も苦しみの中を通られている方は多くいらっしゃいますが、神様はこの時を用いようとされています。神様は日本の国を日本人を愛しておられ、イエス様のもとに導かれるのを願っていらっしゃいます。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ3章16節
月報2011年5月号より
「二年前のちょうど今ごろのことです。…」
はじめに、今回の大震災でさまざまな思いの中を通られている方々に向け平安をお祈りします。
二年前のちょうど今ごろのことです。主人が失業を宣告されました。まさしく寝耳に水でした。主人はアメリカ的な考えというのでしょうか、自分のキャリア・アップを求めて何回か転職してきましたが、年齢を考えて「これが最後の職場」と決めた会社がありました。ところが皮肉なことに、その会社で失業を言い渡されたのです。会社側の計らいで主人には六月末までの猶予が与えられました。仕事をしながら求職活動をして良いという配慮でしたが、アメリカも日本も不況の真っ只中。すぐに仕事が見つかる保証などどこにもありません。果たせるかな、主人はその後、丸一年の失業生活を味わうこととなりました。
苦しみに遭ったことは私にとって幸いでした。私はあなたの掟を学びました。 (詩篇119編71篇 )
私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。
(ヘブル書13章5節 )
主人が失業の知らせを私にくれた時、心に浮かんだ聖書の言葉です。主人は宣告を受けた直後、会社の会議室からこっそり家に電話してきました。どんな心境だったことでしょう。どんな顔をして自分のデスクに戻れるのでしょう。私はその日に残された会社での時間を思い、六月末までの期間を思い、普通でしたらやる気を失くしてもおかしくない状況の中で、主人がクリスチャンとして最後まで与えられた仕事を忠実にこなせるようにと電話口で祈りました。
ちょうど主人との電話を終えた後に電話がかかってきました。「あれ、また主人かな?」と出ると、教会でよく一緒に祈って下さる方からでした。その方からの電話は日ごろ頻繁ではありません。それなのに、このタイミングでかかってきたのは「まさしく神様の計らい」と、私は主人のことを打ち明けて祈ってもらいました。
あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)
主人はまだ誰にも話して貰いたくなかったかもしれません。でも、私は自分ひとりで抱えるよりも、聖書の言葉どおりに、分かち合って祈ったほうが神様が聴いて下さると信じました。そして、主人の口からも早く公表して、心ある方々に祈っていただけるように願いました。
数日後、一番最初に祈って下さった方が近付いてきて仰いました。「今回のことは神様に愛されている証拠ですよ」。何と奥深い言葉でしょう。なんと慈しみに溢れた言葉でしょう。使い方によっては相手を刺すような場面です。ところが、私の中には温かい気持ちが広がりました。その方は聖書の言葉も引用してくださったのですが、まさしく私の心に浮かんだ最初の言葉と同じで、私ははっきりと「ああ、これは神様のご計画だ。大丈夫。」と安心したのでした。
数ヶ月の後に主人は解職され“浪人生活”が始まりました。ちょうど、二人の子供たちが夏休みに入るタイミングでしたので、父親と存分に楽しめる夏を喜びました。私の両親の訪問も加わると更に家中が賑やかになり、食事時など狭いダイニングキッチンで押し合いへし合いになりました。普段は親子三人で囲むことの多かった食卓です。人数が倍増し、食事の品数も会話も増えて幸いなひとときとなりました。
順調に始まった失業生活ですが、もちろん苦悩の時もありました。主人が就職活動をする中で、トントン拍子で進んだ会社に最後で断られたり、仕事の内容としては申し分なく、すぐに採用してくれるという提案ながら、子供の教育や住まいの安全を考えて諦めたり・・・。どの話も現れては消え・・・を繰り返しました。「神様が一番よいものを与えてくださる」と信じていましたが、具体的にどの仕事なのか、いつなのか・・・。先が見えない中で、ひたすら忍耐の日々でした。でも、この時ほど主人に信仰があることを感謝した時はありません。世の中は失業者で溢れています。自殺大国・日本のニュースを耳にしながら、主人だって信じるものがなければ、神様の約束がなければ、自分で命を落とす選択をしてもおかしくない、と思いました。
二人で一緒に聖書を読み、祈る時間を過ごすようになったことも感謝でした。それまで、自分のスケジュールに合わせて別々にやっていた私たちでしたが、ふと気付くと同じ時間帯に異なる場所でしていました。そこで、子供たちの夏休みが終わり学校へ戻るようになってから、朝食後のひとときを聖書と祈りの時間にあてました。一人だけで聖書を読む時には得られない新鮮さと深い味わいがありました。祈りも一人で捧げるより数倍、神様に心を向けることができました。子供や家のことなどをじっくり話し、同じ思いの上に立って祈っている連帯感がありました。主人が仕事に忙殺されていた頃は普段の会話が乏しく、たまに時間が出来るとかえって話題に困った私でした。「こんなことでは老後が思いやられる・・・。」と案じていたのですが、聖書を媒介にして豊かな時間を過ごせることを経験しました。
一年の間に主人はもっと深いレベルで苦悩を味わったことを後から知り(2010年10月号に証しが掲載されています。『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』)気付かないでいたことを申し訳なく思いましたが、私にとっては穏やかで淡々とした日々が続き、「これが神様の語られた“苦しみ”なのかな?」と首をかしげるほどでした。
こうして時が経ち、主人は晴れて新しい仕事に就くことができました。職探しの間、ほかの町や他の州、あるいは日本への引越しまで覚悟した私たちです。経済的な負担を減らすために、同じ町内で小さな家へ引越そうと考えたこともありました。それが結局、前の職場からさほど離れていない会社へ通うことになり、住んでいる家も維持できることになりました。主人が初めて出勤する日の朝、一年前と変わらず、同じ家から同じ時間に同じ電車で出勤する主人を見送りながら、神様に深く感謝しました。神様は聖書の言葉のとおり、私たちを捨てることがなかったのです。そして、傍から見たら以前とまったく同じ生活に戻った私たちですが、主人の失業というフィルターを通して、与えられているものすべての持つ意味が、価値が、大きく変わりました。それは、まさしく、神様の「掟」を知る経験でした。
今、手元に手紙の束があります。主人の仕事が決まった時にeメールでやり取りした皆さんからのメッセージを印刷したものです。すべて大切にフォルダーにしまい、表紙に聖書の言葉をシールにして貼りました。
喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣きなさい。 (ローマ人への手紙12章15節)
沢山の方々が一緒に喜んでくださった証しです。主人の失業を知らせた時には、共に涙してくださいました。仕事が見つかるまでの間は、温かい言葉や差し入れ、祈りによって支え励ましてくださいました。
私たちから決して離れず、いつでも一番心の動きを知ってくださったのはイエス様です。人間の姿となって地上に降りてきてくださった故に、人の苦悩も弱さもご存知で慈しみ深く、しかし神様であられる故に、変わらぬ愛で寄り添うことのできるキリスト・イエスです。でも、神様は私たちの周りにいる方々を通して、さらに豊かに、更に彩りを添えて神様のご計画を成し遂げてくださいました。御手を伸ばしてくださいました。
宝物がぎっしり詰まった一年間でした。主にハレルヤ。感謝します。
月報2011年4月号より
ザイオン教会元牧師ラインハイマー先生のメッセージ
私たちが会堂を使わせていただいているザイオン教会の元牧師のダニエル・ラインハイマー先生が、去る1月27日に突然主のもとに召されて行かれました。先生は、私たちがここで礼拝を持てるようになるために本当に愛を注ぎ、ご尽力された方です。ここに感謝の気持ちを込めて、先生が1999年10月24日に私たちの礼拝で語ってくださったメッセージを掲載いたします。先生が、このメッセージの中で語られた言葉の通り、本当に私たちに深い愛を注いでくださり、私たちに多くのものを与えてくださった、という証言を添えて・・・。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」コリント人への第1の手紙13章13節。
神の民である愛する皆さん、錦織牧師とニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーの皆さんや、ここに集う皆さん、今日、私がここで皆さんと共にいられることをとてもうれしく思います。またここで日本語を話す皆さんのための働きが進められていることを本当に主に感謝します。
1988年の2月のある夜、そうです、正木茂先生が私たちが聖書研究会をしている時に、この教会に入ってこられたその夜のことを私は思い出します。その夜、その正木牧師は、この教会の鍵をその手に、そして、「このザイオン教会で礼拝を守って下さい」という招きの言葉を胸に、この場を後にしたのでした。正木牧師はわずか4家族のメンバーと共に日本語教会を始めました。正式なメンバーは10人で始まったのです。妻と私は、茂先生とまたすばらしいエネルギッシュな奥様、まさえ先生と親しくさせていただきました。先生はとても誠実な、聖霊に満たされた方であり、主に全てをささげ、福音を伝えるのにとても熱心な方でした。先生はまたブレッド・キャスティング・アメリカを設立され、電波を通して福音を伝えることにも時間を費やされました。現在、先生ご夫妻はインディアナ、イリノイ、ケンタッキー、ミシガン、ミズーリにおられる日本人の方々のためにミズーリ・ルーテル教会の宣教師としてご奉仕しておられます。(注:現在は日本に帰国されています)
その次に来られたのが石賀誠牧師でした。1992年から1994年まで2年間牧会をされました。先生と奥さんとまた素敵なお嬢さん方には、アメリカでの最初のサンクスギビングディナーを私たちと一緒に過ごしていただいたことを始め、よい交わりをさせていただきました。また先生がいろんな国の言葉で神様を賛美しておられたのが印象に残っています。
次に日本語の方々のためにこのザイオン教会に来られたのが池原三善牧師でした。言葉の壁がありましたので、先生や御家族とは願っていたほど深くはお知り合いになれません
でした。しかし、先生の豊かな働きによって教会は成長していったのであります。
そして、私は1997年7月に現在の皆さんの牧師である錦織学牧師の按手(注:牧師としての任命式)に加わらせていただくという栄誉と特権に預かりました。それはあの6000人もの方が亡くなった恐ろしい神戸の地震から2年がたった時で、皆さんの悲しみに深く触れていただく時となったと思います。神は私たちの人生の悲劇を用いて主を愛する者たちに約束されたよきものを与えて下さる方です。
皆さんについて本当にすばらしいなあ、と思うことがたくさんあります。祈りに時間をささげ、聖書の御言葉を愛する姿勢。他の方々に神様の愛のよきおとずれを伝えようという情熱。神様から与えられたものを喜んでささげ、大切に使う姿勢。お会いするたびに礼儀正しくまた親しく挨拶をして下さること。神への力強い賛美などです。
皆さんの主イエスへの信仰もすばらしいと思います。そして、そのことで神様に感謝しています。信仰は神の与えて下さるものです。私たちの働きではありません。だれも、聖霊さまの力によらなければイエスを主であると告白することはできないのです。そして、その信仰は神の御言葉を聞くことから生まれるのです。
ここで、今、この場所で、この時に、神様の霊が聞いておられる皆さんの心に信仰を立てあげるのです。信仰とは何でしょうか?信仰はナザレのイエス、神の御子、約束されたメシヤ、キリスト御自身とその御業への信頼なのです。イエスは人として完璧な人生を歩まれました。そして、その命を私たちの罪のために十字架の上に犠牲にされたのです。信仰によってこのお方を受け入れる者はすべて神の子とされ、永遠の命を受け継ぐものとなるのです。私はイエスを信じています。自分の信仰を信じているのではないのです。私の信仰の大きさが山を動かすのではありません。主ご自身の偉大さへの信仰が山を動かすのです。
聖霊様の与えて下さる最大の賜物は信仰と希望と愛です。
私たちの希望は単に、何事でも楽観的に希望的に考えることではありません。神の約束にしっかりと根を下ろしたもので
す。神様の御言葉は真実であり、真理であるからです。私たちの希望は、今持っていないものを慕い求めることであり、
それが与えられると期待しながら求めることです。信仰は私たちの希望に確信を与えてくれるのです。
私たちがあちらの天国に行った時にはもう、信仰も希望も必要ではなくなります。神は天国の宝の中から与えて下さるものがすべてわかっているからです。
しかし、愛は永遠です。「互いに愛し合いなさい」ということこそ、私たちの主から私たちに与えられているただ一つの戒めです。そのような神の愛のあるところに神はおられます。
愛は自分を与えるものです。犠牲を払うものです。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためなのである。」私たちは愛すること無しに与えることはできるでしょう。しかし、与えること無しに愛することはできないのです。愛は自己中心的ではありません。妬むことをしません。高ぶりません。傲慢ではありません。無作法をしません。愛は恨みを抱きません。愛は赦すのです。愛は過ちを数え上げたりしません。古い傷を大事にしたりしません。愛は赦すのです。赦すことができない人は自分が渡らなければいけない橋を壊しているのです。他の人々を赦すことによって神によって赦されるのです。赦すということはクリスチャンだからできる大切なことです。もし私たちがクリスチャンでないならば、別にそんなことはしないでしょう。それは私たちが吸う息であり、私たちが歩く地面のようなものです。赦しのないところに命はありません。愛は赦すのです。神の愛のような愛は忍耐深く、親切で、人を理解しようとします。それはまさにこの世で天国を、パラダイスの雰囲気を、先に味わっているようなものです。愛は永遠なのです。
ですから、パウロは私たちに言っているのです。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。
月報2011年3月号より
「私がニュージャージー日本語教会に行くようになったのは…」
私がニュージャージー日本語教会に行くようになったのは、2008年の夏。そして、2010年の8月22日に受洗の恵みをいただきました。
私が洗礼を受けるまでの2年間、主日礼拝は一週間の心の汚れをクレンジングし、リセット し、新たに始まる一週間へのエネルギーを頂いてはいましたが、洗礼を受けることは、実はかなり抵抗がありました。そこには、私が乗り越えるのが困難だったハードルが2つありました。
一つ目は、『冠婚葬祭のこと』 私の実家は神道。私が小学校に上がって間もない頃、高校に入学したばかりの年の離れた姉が白血病で亡くなりました。神道では、亡くなればみんな神様になって私たち家族を守ってくれるのだ。と母から聞いていましたので、私はそういうものだと思っていました。毎晩必ず寝る前に神棚の前で手を合わせ、祝詞(聖書のみ言葉のようなもの)を唱えてから床についていました。そして、神様は、亡くなった家族やご先祖様だけでなく、太陽や大地、海、山等々自然も含まれ、いっぱいあちらこちらに大勢いるものだと何の疑いもなくそう思っていました。その結果、すべてのものに感謝し神様を受け入れることは、何の疑いも抵抗もなく自然に培われたように思います。
話は?し飛びますが、私がキリスト教に興味を持つようになったきっかけはマザー・テレサでした。何かのTV番組で観たのですが、マザー・テレサが行き倒れて死に行く人の最後を看取る時、その人が信じている宗教を尊重し、クリスチャンなら聖書を、イスラム教徒ならコーランを、ヒンズー教徒には聖典を読んで見送るというのに深く感動しました。 が、教会に来るようになって、神棚も仏壇もだめ、冠婚葬祭で故人の宗教の流儀に合わせない、初詣もしない。というのを知ってかなり疑問に思いました。その人をそのまま受け入れるものが愛であり尊敬ではないの?亡くなった姉や祖父母は偶像ではなく家族であり、生きているか死んでいるかの違いはあっても、自分の家族を思う気持ちは同じ。亡くなった後でも、話しかけたり大変なときに相談したり甘えたりすることを、偶像礼拝の中に含められるのはおかしいと思いましたし、信じている家族の気持ちを思いやる必要はないの?とも思い、なんと視野の狭い、器の小さい宗教だと、その時は感じました。そして、もし私が親戚のお葬式や法事に出ない、死者へ手を合わせなかった場合、母は確実に私をただでは済ませないだろうな。と思っていました。
2つ目は、『なぜ神様と私だけの関係ではだめなの?』 今思えば、勝手に作り上げた完璧なクリスチャンの理想像に対する失望でした。クリスチャンでない私でも、いくつかの聖書のみ言葉は知っていましたし、クリスチャン=敬虔な人だと思っていました。多分、キリスト教や聖書をちゃんと学んだことのない人は、きっと私と同じように思っている人は結構いると思います。あまりにも崇高な聖書の言葉が独り歩きし、そのように生き、実行しているのがクリスチャンだと勝手に思っていたので、人に躓きました。 『人を見ないで神様だけをみて。』と言われても見るのが人間であり、『あの?、人である私を見てるのはクリスチャンの方なんですけど、クリスチャンでない私が言われるんですか?』と思ったこともありました。今思えば不謹慎ですが、『とても良い人なのに神様を知らないだけで地獄に行き、自己中でもクリスチャンになっただけで赦され天国に行くの?天国にはクリスチャンばっかりウジャウジャいるんだったら、地獄の方が楽しくていいかも。』とさえ言い放ち、申し訳ないですが錦織先生を唸ならせ椅子から転げ落ちそうにしてしまったこともありました。ビジターの方が自由で気負いがなく、真面目さゆえに人を責めたり妬んだりする人からのリスクを回避するためにも、このまま神様と私だけの関係だけでいいと思っていました。なんと理屈っぽい、素直じゃないと言われそうですが、私が心から洗礼を受けたいと願い、神様を心から信じ従おうと思えなければ、形だけ知識だけのクリスチャンになりそうで、それでは意味がないと思っていたのも事実でした。
では、何故そんな私が、洗礼を受けたか?というと…、勢いでした。色々問題を抱えていた私は、疲れて考えるのが面倒になり、洗礼を受けたら祝福や恵みや神様の御業を見せてもらえるかも、何かが変わるかもと甘い期待をしていました。また、確固たる基準(経験や状況、感情、人によってころころ変わる基準ではない、不変の基準)を心から求めていました。が、洗礼を受けた後、甘い期待とは正反対の体験、それは2008年9月に東海岸合同キャンプで講師で来られていた中川先生のお言葉を思い出すような体験をすることになりました。
『クリスチャンになって良いことがいっぱいあって楽になったというより、問題が増えて大変な経験をしたと思う人、手を上げて。』大勢の人が手を挙げていました。その時の私は、宗教とは現世利益を得るもので、苦しみや試練が増えるようなら本末転倒。なんでわざわざ試練を受けるために洗礼を受けてクリスチャンになるわけ?と思っていたことを、後になって思い出しました。そして、中川先生がおっしゃった通り、さらに私の問題の状況は悪化してゆきました。生きていくということは、こんなにも虚しく世知辛いものなのか、なんと愛のない人の中で生きていくことなのかという思いの中にいました。ある時は、全ての人の記憶から私の存在を消したいとさえ思っていました。教会の人の記憶からは私が教会に来ていることも洗礼を受けたことも、職場でもプライベートでも私が関わる全ての人の記憶の中から、そして、特に母からは私を生んだことの記憶さえ消し、こんな娘はいなかったと忘れさせることができたらどんなに楽だろうかと。。
しかし、そのような経験も多くの祈りと励ましをいただく中で、?しずつ霊的に目を開かされ、人に傷つき人に生かされ、成長することをことを体験させていただきました。2週に亘っての錦織先生の礼拝のメッセージ『キリストによる新しい共同体(1/16)』『赦し合いの共同体(1/23)』で、私たちは一人で生きていくためでなく、互いに支え赦しあって生きるために神様は私たちを作られた。『赦しあうこと』を学ぶことが目的だったと語られました。それが目的だと分かった今、その為に共同体に招き入れられ、『なぜ神様と私だけの関係ではだめなの?』の答えが、やっと胸の中にストンと落ちたようでした。
それでも人を愛せない、赦せないのが人間で、理解と行動を一致させ簡単に実行できるわけではありません。信頼する、信頼されることの大切さや喜びも学んだ一方、人と信頼関係を築くには、「時間、約束、お金」に誠実でなけば、簡単に崩壊してしまうことも感じました。そして、一度崩壊した関係は、簡単には修復できない難しさも感じています。しかし、本当に自分の罪がキリストの十字架で赦されたと理屈ではなく心で実感できたなら、きっと他人のことは小さくなるのだろうと思っています。
教会図書で借りたある本の中の『はじめに』に書かれていた箇所からで、今でも心に響き残っているものですが、それは著者である牧師が、牧師として一番苦しかった時は?の質問に答えられた文章でした。 『一度でいい、自分は悪くない、君が悪いんだ。』と言いたかった。と書かれていたある牧師の文章に対し深い感銘を受けた。事実を捻じ曲げ捏造され、事実無根のことで責められるとき、人の罪を負うというのはこういうことなのか、そして、全ての人の罪を負ってくださったイエス様の苦しさを計り知る。 そのような内容でした。正当な評価を受けられないことの悔しさ、事実を捻じ曲げられることの苦しさをも受け入れ、そこにキリストの十字架の赦しに心馳せることは霊的成熟がなければできないと思いました。私は、キリストの十字架を本当に私のためのものだったとまだ実感できていないのですが、それでも?しずつ導かれていることに感謝しています。そして、神様からのたくさんの愛を頂き、いつか霊的な心の背丈が伸びた時できるのかな。そうなりたいな。と期待しています。
私たちはみんな『神様の作品』。自分の限界を知り、与えられた賜物を大切にし、それを活かして神様の品性に近づく者とさせていただきたいと思います。できない自分を駄目なんだと卑屈になることなく、できる自分を自分の力だと奢り傲慢になることもなく、今年の聖句である『主イエス.キリストの十字架』を唯一の誇として、そして神の知恵を不変の基準として歩んで行けるようにと思います。洗礼を受けた日の夜、この先神様を信じられないようなことが起こったとしても、私は信じることを自分の意思で選択したのだから、感情ではなく理性をもって信じていこうと思いました。
<2011年の聖句>
私自身には、私たちの主イエス.キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。ガラテヤ6:14
これから神様がどのように私を導き、整え、私だけにカスタマイズされた計画の中で使っていただけるのか、今から楽しみです。
月報2011年2月号より
「私には3人の小さな息子がおり…」
私には3人の小さな息子がおり、2009年の Joy Joy Camp にその当時6歳だった長男を参加させました。一週間のそのキャンプが楽しくてたまらなかったようです。それ以来家族を連れて時間があれば教会に通うような生活が始まりました。
今年の夏は、次男と三男が通っているプレスクールも一足早く夏休みに入り、3ヶ月の長い休みを忙しく過ごすことになりました。どういう訳か、今年は夏休みに入る前から自分の気持ちが何に対しても消極的になっていました。今までの人生の中でそんな風に思った事はなかったのですが、自分でも何故かなと思いつつ過ごしていました。小さな下の二人は何処に連れて行っても時間がかかる事ばかりで、育児に対する精神面では、自分自身もかなり一杯一杯のところでがんばっていたように思います。自分自身をどこかで発散出来る時間を持っていた訳でもなく、友達と普段のように話をする時間を持っていた訳でもなく、その上、長男の学校が夏休みに入ると最初の一ヶ月はタウンのキャンプ、次の一ヶ月はアイスホッケーのキャンプと、本当にどういう訳か自分の気がめいっていきました。そんなある日、自分自身に異変を感じました。ご飯を作ることも出来なかったどころか、気持ちが下に下に向いていき、そして、時にはいきなり精神異常者のような行動さえも取ってしまいそうになりました。何かに呪われたかのように短い距離を行ったり来たり、頭が混乱して自分がつぶれそうになったり、いきなり大声を出しそうになったりしました。私はついにおかしくなってしまったと思いました。でも、頭の中にあるほんの少しの正常な気持ちが、そんな自分の姿を子供に見られたくはないと思い、必死で自分の行動を止めました。
そんななか、まだ長男のホッケーキャンプが後3日程残っていました。主人が朝連れて行ってくれたので私はピックアップするだけだったのですが、その日アイスホッケーリンクの小さな更衣室で息子を見るといきなりパニックに陥り、その時も母親である私は必死になって自分の姿を息子に見られないようにと、かすかな自分の正常心に頼って、自分をがんばって抑えました。あとの残り2回のピックアップは到底この精神状態では無理だと思い、どうしようかと悩みに悩みました。
次の日のピックアップの1時間前頃、私はある一つのセンテンスを思い出しました。教会で錦織牧師の説教を聴いている時にあった、“もし神様がいるのなら祈ってみようと、その人達は思いました。”でした。神様の事も聖書の事もまったく知らなかった私ですが、不思議とその言葉が強烈に印象に残っていました。そこで私は、もうこれしかないと思いました。もし神様がおられるのなら祈ってみようと。私は心を静め、ひざまづき、全身全霊で祈りました。“神様、本当にあなたが居られるのなら私を助けて下さい。今の私では息子を迎えに行くことすら出来ません。どうすればいいのでしょうか?助けて下さい。御願いします。”すると、出発しなければならない時間の少し前に友人から電話があり、事情を聞くなりすぐに飛んで来てくれて、私の代わりに行ってくれました。有難い事に、次の日も行ってくれて本当に助かりました。実は、その人なら頼んでみようかなと思ってた相手からの電話だったので、少しびっくりしました。
そんなある日、体力的にも精神的にも限界を感じ、子供を友達の家に預けて主人に緊急病院に連れて行ってもらいました。何にも悲しいことがないはずなのに、涙が止まらずずっと泣いていました。悲しくて悲しくてたまりませんでした。私は、今まで自分が強い人間だと思って生きて来ていたので、とてもショックでした。強く生きてきたはずだった私が、3人の子供すらもまともに育てられない人間だったのかと。なんて弱い人間だったんだと自分であきれてしまいました。病院では精神科医と話をし、その後もフォローアップが必要との事でした。血液検査の結果は正常だったので、しばらくして家に戻されました。その時以来うつ病解消の薬を飲み続けていますが、薬は直ぐに効き始め快適でした。ただやはり最初のうちは、誰かと何時もいないと不安で不安でたまりませんでした。
主人には以前から予定していた10日間程の日本出張がすぐにひかえており、一人で子供と一緒にいるには本当に心配で、と言うよりは無理だと思いました。その時、友人から9月の東海岸合同ファミリーキャンプに誘われ、周りの人達の協力もあり、息子3人と私とで参加出来る事になりました。とても有難いことでした。何かあっても一人じゃないという安心感で、夜もよく寝れました。キャンプ1日目は、普段の疲れもあり、一人でゆっくりと部屋で休養を取りました。2日目は、岩淵まことさんの“God Bless You” を聴き感動しました。歌声もさることながら、あの歌詞が自分の心境にぴったりとはまっており、そこに加えて神様の存在が入っていました。神様の存在に興味がある私ではなかったのですが、その歌詞によって、“もしかしたら、神様と私の関係とはこのような関係なのかな?”とか、“神様はこんな風に私を祝福してくれたり、守ってくれたりするのかな?”などと少し気になり始めました。不思議と、この曲は、クリスチャンではなかった私が一生聴いていく曲だと思いました。
3日目、キャンプも終盤に入ってきました。それでも、まだまだ私の心は神様に向いていませんでした。最後に岩淵まことさんが、また“God Bless You”を歌われ、ついに心が込み上げてきて大泣きしてしまいました。歌が終わるとすぐに、特に私を支えてくれた友人2人と大きなハグを交わしました。その間、人間というのはこんなにも心の底から果てしなく力強い感謝の気持ちが湧いてくるのかと思うぐらい、今までに初めての感謝の湧き出る力に驚きました。本当に驚くぐらいのパワーで、自分には無い何かの力が加わったような感じでした。ようやく涙も止まり、すべてのものが身体から出でしまったかのような感じになり、ぼーっとしていた時に奇跡が起こりました。太い空気のつつの様な物が喉の真ん中の方からゆっくりと喉の下の方に降りてきて、もしその縦のつつのラインが全ての正常を意味するならば、私の精神面と体力面はそのラインから遥かかけ離れた所にあり、まるでその2つの面がそのつつに引き寄せられてバシッとパズルのようにはめ込まれた様な感覚を感じました。ガシャッ、ガシャッとはめ込まれた音が聞こえたようにも感じました。すると男の人の声で、“あなたは、もう守られたので安心して下さい。”と聞こえてきました。その次に、胸の辺り一帯が暖かくなってとても心地よい気持ちよさを感じました。それが終わると、頭の先から爪の先まで全身がやさしさに包まれました。そのやさしさは、人間の力では出せない心地良さであって、何かに包まれたような感じというか、身体の全てが入れ替えられていた感じというか、何ともどういう風に伝えたらいいのか、とにかくとてもやさしく身体が宙に浮いたような気持ちの良い感覚を感じました。30秒ぐらいの体験だったと思います。一体あれは何だったんだろうと不思議に思いながらキャンプから帰りました。その数日後、その体験をクリスチャン夫婦に話したところ、その話に驚かれて、“それは聖霊様の働きです。”と言われ驚きました。正直に言って、聖霊様と言われてもあまり判らなかったのですが、それからその事について一日中考える毎日を過ごしました。考えて考えたあげくに、あれは神様だったのかと疑いなく認めることが出来、そして、またあの時の事を思い出しました。思い起こせば、あの時の一瞬にて、私は神様から最大の愛を頂き、強さ、やさしさ、友情、光、勇気など、人間が生きていく上で必要なもの全てを捧げて頂いたと確信しました。どんなにすばらしい人でもこんな事は出来る訳がありません。私は今までの人生の中で、この人は尊敬できる人だとか、こんな人に憧れるとか、あまり思ったことは無かったのですが、神様の存在は別格でした。神様は人ではありませんが、人だとするならば、こんなにすばらしい人が居るなら全身全霊を賭けて着いて行こうと思いました。着いて行かないと損をすると思ったり、いや、一歩も離れたくないとも思いました。そして、こんなに弱い人間の私が神様をいつも胸に持つことで、以前よりも楽な気持ちで、神様を通す事によって自分自身が強くなれている事を実感し、それに加え、平安と豊かさをも与えられている自分に驚かされます。
確かに以前の私は、一人で踏ん張っていたどころか、豊かさなど全く持っていませんでした。神様の力はこんなにも凄いものかと、想像を遥かに超え、何もかもが驚きでなりません。神様に出会ってから、今まで心の底から感じることの出来なかった“豊か”と言う言葉が大好きになりました。
最近いつも思うことですが、普段の生活の中で“偶然”はなく、神様が居るからこそそれが起こったんだと考えると、小さな事にも神様の存在を感じ、胸が高鳴る思いの感動を与えられます。神様は目に見えるものよりも目に見えないものを信じると言う事を教えてくれました。それは決して目の前から消え去る事がなく、いつも自分の中に存在してくれるからです。私は、いつでもどんな時でも神様と一緒です。そして、そこには暗闇も無ければ不安もありません。私にはすばらしい家族がいますが、神様はわたしの全てであり、私の救い主でもあります。今日に至るまで、神様はたくさんの人達を通して私を支えて下さり、いつも愛と恵みを注いでくれています。私は、これからの人生を神様と共に過ごせる事を喜びに思い、神様に向かって私はいつも心を全開にし、お祈りを捧げ、賛美していきます。
全てを主に感謝して。
月報2011年1月号より
「主に信頼する者は祝福される」
元メンバーで今は横浜にお住まいの中上祐子姉のお母様が、今年の10月3日に天に召されました。お母様はNJに住んでおられた中上姉のご一家を訪ねて、JCCNJにおいでになったこともあります。今回、お願いして中上姉のお母様の召天に際してのお証を頂きましたので、ここに掲載させていただきます。
「主に信頼する者は祝福される」
「主に信頼する者は祝福される」 これは母が最期に残したメッセージです。
去る10月3日、母が天に召されました。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」_テモテ4:6,7
この御言葉を思い浮かべることのできるような天への凱旋でした。私が10歳のときに父が天に召されてから女手一つで育ててくれた母は、私にとって最愛の人であり頼りにしていた存在であったと今さらながら気付かされます。
母は父と結婚してまもなく岐阜県瑞浪市で開拓伝道をスタートさせました。牧師夫人として陰で支えていましたが、父が召されて後、今から13年前に母が牧師として仕えるように導かれました。2005年からは名古屋にあるホープチャーチの牧師として仕え始め、今年でちょうど5年目に入るところでした。
今年の初めに母はこの1年の主への決心として「信頼」という言葉を掲げました。「今年は何があっても主に信頼します」そのような決意でいました。
今年、主が自分に何をしてくださるのだろう、という期待をもって歩み始めた1月の半ばに突然の腹痛で病院に行きました。検査の結果、末期の大腸がんで転移もしている、即入院となりました。原発となっている大腸がんの手術がすぐに行われましたが、この手術は成功し、比較的早く退院することができました。
体力が回復してきた頃から、次はリンパに転移しているがんの進行をおさえるための抗がん剤治療が始まりました。それは同時に母の信仰の戦いの始まりでもありました。
苦しい副作用で寝たきりの状態が続くなか、母は主の前に祈り求めていました。
この治療を受けることは本当に主の御心でしょうか?
たくさん、たくさん祈ったことでしょう、今年の初めに主に決心した「信頼」という言葉を通して主からの語りかけをいただき、主と母のあいだで母は抗がん剤治療を受けない、という決心をしました。これは他の人にはなかなか理解されにくいことであったかもしれませんが、私は母自身が祈ってそのように導かれたことだとなぜか容易に受け入れる事ができ、不思議な平安がありました。主が母のその決心をサポートするようにと私の心までも準備していてくださったと信じます。
そして母はその後の抗がん剤治療をやめました。めきめきと体力も回復し、母は牧師としての働きに戻りました。メッセージを語らせていただけること、学びの準備をすること、また平日に教会に行って仕事をすること、また食事ができること、すべてにおいて喜んでいました。
余命は医師から宣告されていたようです。でも自分のいのちは主の御手のなかにあり、主が良し、とされたときには主のもとに行くし、主がまだ、と言われるならばこの地上で主のために働かせてください、というのが母の祈りでした。
母が抗がん剤の治療で苦しいときに、少しでも母の励ましになれば、と思って、今示されていることなど何でもいいから形にしてCDに残してみない?と提案したことがありました。「今はとてもそんな気になれない」、当然ながらそんな断りの返事でしたが、抗がん剤治療を止めてしばらくしたったある日「やっぱりあかしを録音してもらいたいな」、と言ってくれて4月に横浜での録音が実現しました。これが本当に末期のがん患者かと思うほど元気で顔色も良く、何より喜びと活力に満ちていて、娘ながら圧倒されるほどでしたが、心のどこかでこれが最期の録音になるかもしれない、と思いつつ臨みました。
6月には母の念願であった父の召天30周年記念礼拝をすることができ、大きな役割を終えたとホッとしていました。その会は祖父である父のことを全く知らない孫たちに、信仰者としての祖父の姿を知ってほしいという母の祈りに満ちていました。
一つ一つ身のまわりの整理をし、準備して行く母。最期はホスピスで過ごしたいと、こちらも自分で準備していたおかげで、希望通り最期のときをホスピスで過ごしました。
そのホスピスは2009年3月に開院するにあたってボランティアを募集したことがあったのですが、実は母はそのボランティアになるべく研修をしばらく受けていたことがありました。母はもし導きならばこのボランティアの働きを通して、人生の最期を迎える方に福音を少しでも語る機会が与えられれば、という願いもあって研修を受けていたのです。しかし研修を受けて行く毎に、ボランティアの身では語ることは許されない、ということがわかりその研修はやめました。そんなことがあったので、母にとってこのホスピスに入ることはとても不思議な導きであったでしょう。ボランティアの身では語ることが許されなくとも自分が病人としてこのホスピスに入った今、自分には他の病室の方やお見舞いに来てくださる方に自由に語る事が許されている、私は何と幸いなんだろう、と母は喜んでいました。
ホスピスに入ったのは9月の初め。7月頃に「4月に録音したあかしとは違うあかしになっているからまた録り直したい、9月には横浜にまた行くから」と言っていましたが、実現することはありませんでした。その代わりに病室で母のあかしを録音しました。転移したがんのために喉の詰まりがひどく水はもちろん唾も飲み込めないほどでしたが、一度語り始めたら聖霊に油注がれて言葉が溢れ出し、主に導かれるように語りだしました。今でもそのときの姿は目に焼き付いています。母のリクエスト通り告別式にお渡しする物としていつ来るのか分からない、けれど確実に近づいている最期のときのために準備していきました。
9月も終わりに近づこうとしていたある日、いつものようにホスピスにいる母に電話をかけたら、「あと一つだけあかしに付け加えて欲しいことがあるから代読してほしい」と頼まれました。その内容を聞いたとき、私は涙が溢れ出ました。なぜならば、その一言には母が最期に主からいただいた大事な大事なメッセージが詰まっていたからです。次に会いに行くときにわかるようにメモしておいてね、と涙ながら伝えましたが、その次に母に会ったのは母の意識がなくなったという知らせを受けてからでした。メモはちゃんとありました。手に力が入らなくなったような字で最期のメッセージが書かれていました。
「私は今まで高慢な自分であることに気付かなかった。ホスピスに入ってなおも、自分を用いていただきたい、イエス様の働きをもっとさせていただきたいと思っていた。でも主が私にさせたいことは、私が何もできない者であることを教えるためであった。」
このような病になってもなおホスピスでも用いていただけるのなら用いていただきたい、と願っていた母でしたが、現実は日々倦怠感のため病室から出ることさえもできなかった。痛みは緩和されても体力的に談話室に行く事もできなかった。自分が思い描いていた姿とはほど遠かったこの現実に、母はきっと落胆の思いで涙の谷を通ったことでしょう。自分のいのちが尽きるその時まで私を用いてください、そのような祈りが決して間違っているとは思いません。しかし、過酷な幼少時代を過ごした母にとっては、自分ががんばれば何でもできると今まで人一倍がんばって生きてきた、いや、そのように生きるしかなかった母に、主はこのようなところを通してでも最期の最期にどうしても伝えたい大きな大きなメッセージがあったのだとわかりました。
「私の恵みはあなたに十分だよ、何もできなくてもあなたの存在自体を愛している、それで良いのだ」
この主からの語りかけに母は本当の意味で初めて主のみつばさのもとで身を休めたことでしょう。それを現すかのように、丸2日意識がなくなって深い眠りに入っていたときの母は、痛みも全くない状態で実に安らかな顔をしていました。まるで今までの眠りを取り戻すかのように深い息で呼吸し、病室内は何とも言えぬ主の平安で満ちていました。そしてついにこの地上での最期のときには、主からのこの愛のメッセージをにぎりしめながら主の御腕に抱かれ主のもとに行ったことと思います。
決して平坦ではなかった闘病生活、信仰も毎日毎日が戦いであったことが後に母が記した日記からわかりました。それでも「私は後悔は一つもないのよ、大丈夫、主が最善をなしてくださるから」と言っていた母。何もできなくとも母のその信仰の姿こそが多くの人を励まし力づけました。そして何よりも、母が最期に主から受け取ったメッセージは、後に連なる私たちの信仰に大きな祝福と励ましを与えてくれました。たとえ思い描く姿が自分が願っていたようではなくても、なお主の語りかけに耳を傾け続けた、そのような母の主に対する信仰を少しでも受け継げたら、そのように思います。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」_テモテ4:8
私たちは皆、いつしかその時を迎えます。その時が来るまで、主に信頼し、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り、信仰を守り通すことができるように、互いに祈り合い、愛し合い、励まし合う者とされたいと願います。
堪え難い現実から逃れたいような時があったとしても「あなたの存在自体を愛している」と語ってくださる主がおられるなら、私たちはきっと走るべき道のりを勇敢に走り終えることができる。主を見上げて歩んで行きたいと思います。
全てを主に感謝して。
月報2010年12月号より
「♪『ずっと愛されてた、ずっと守られてた…」
♪『ずっと愛されてた、ずっと守られてた
倒れそうな時も 支えてくれた
目を上げて主の御声に従おう すべてを委ねて
強くあれ 雄々しくあれ 主があなたの前を進まれる
強くあれ 雄々しくあれ 主がいつも あなとともにおられるから』♪
これは10月10日に行なわれた長女の真奈の結婚式の入場でかけた曲です。アメリカ人とのアメリカの結婚式なので、まさか日本の賛美を日本語で流せるとは思ってもみなかったのですが、彼の何か日本の歌を入れたいというリクエストがあり、この曲が神様から与えられました。 この10日後に私は一人で日本に本帰国するわけですが、今、娘を送り出し、アメリカで暮らした19年間がどのような日々だったか思う時、この賛美 以外はありえないと思うほどピッタリの曲でした。プログラムを印刷する時に、冒頭の英語訳を
you have been always loved
と初め娘が訳したのですが、私はあえてalwaysではなく、
you have been loved and protected from the very beginning
に変えました。
もちろんalwaysもその通りなのですが、メfrom the very beginningモメずっと最初から、 初めから、生まれた時からモという気持ちをどうしてもこめたかったからです。
彼女は生まれた時に、いくつかの病気が見つかりました。4歳でアメリカに連れて来たのも、当時は医療が日本よりアメリカの方がはるかに進んでもっと前進的な治療があるかもしれない、という考えもあったからです。だから彼女が生まれたその瞬間から、どうぞこの子の歩む道に主がいつもともにいてくださり、どんな障害からも守り、この子の人生をあなたの祝福で満たして下さい、と祈り続けてきました。
アメリカに来てから、英語での医療の説明や治療は不安だらけでしたが、ただ神様を信頼して進むだけでした。8歳頃から毎日自宅でする注射が始まり、旅行に行く時も常にアイスバックに注射の薬(液体)を入れて移動しなければなりませんでした。注射は順調に進んでいましたが、12歳の頃今度は体重が20パウンドも減ってしまい、また別の病気が発見され、2人で検査のために色々な病院を転々とし、なぜ、どうしていつもこの子だけが。。。。と思う毎日でした。今まで丸々と太っていた子がベッドの上で紙切れのようになって寝ている体に手を置き祈り、隣の部屋から壁に手をあてて祈りました。でも中学の修学旅行のボストン、ワシントンは2度とも行く事ができず、朝みんなが出発する時間に「頑張れば行けたかもしれないけど、もう間に合わない。。」と言って泣いている娘の横で、神様どうしてですか?あんなに祈ったのに。。と私も一緒に泣きました。
しかしそんな中でもがき苦しんでいても最後にはいつも必ず良いドクターに出会うことができ、道が開かれて行きました。そうは言っても親元を離れて大学に進学する時は、自宅に近いマンハッタンにするように勧めました。主人の会社も、彼女の何人かの専門医のいる病院も全部マンハッタンにあったので、何かあったらすぐに対処できると思ったからです。しかし、神様が用意されたのは、メサイアというペンシルバニアにあるクリスチャンの大学でした。そんなに遠い所、誰も知っている人がいない所に送り出すなんてとんでもない、遠すぎる!と思ったのですが、一度見学に行った時、学校長の「この大学に来たら、信仰は成長します」という言葉だけがものすごく印象に残り、その時から、なぜか「遠い」という気持ちがなくなり、「主がそこにおられるなら大丈夫」という気持ちになっていきました。
そして、驚くべき事に大学での4年間は完璧に健康は守られました。それは何事もなく過ぎた、というわけではなく、色々なびっくりするような危険な出来事やハプニングが沢山ありましたが、その度に、教会の皆さんがいつも自分のことのように一緒に祈ってくださいました。そしてこの賛美の通り、神様はずっと守っていてくださった、彼女だけでなく、彼女のそばで倒れそうな私のこともいつも支えてくれていたことを思わずにいられません。
あの子が生まれた時、先の見えない不安の闇の中にいたのに、神様が用意しておられた未来は、私の想像を遥かに越えたものだったのです。神様は祈ったその時に、すぐに何でも私の願い通り、思い通りにしてくれる魔法使いではなく、神様には神様の癒しの時があり、回復の時があり、信仰生活というのは、その主の御業が現れる時まで忍耐と信仰を持って待ち続けることだったのです。『あなたは主の栄光を見る、と言ったではないか』(ヨハネ11章40節)、『すべての事に時がある』(伝道の書3章1節)
ああ、神様、そうだったのですね、昔、娘と一緒に祈り戦って来た苦しい日々が、本当にそれは主の栄光を見るためのメ荒野の時モであり、神様がこの地で私にしてくださったすべてのこと、苦しいこと、悲しい事、辛い事も、それらすべては神様にもっと近づくためだった、神様がどういうお方であるかをその神様のご性質と真実さを身をもって思い知るためだったのですね。
振り返ると全てがあっという間の出来事のようです。結婚式が終わって娘と別れホテルに戻った時「ああ、23年間ってこんなに短かかったのか!」と思い、本当に子供は神様から、ひとときの間、預かったにすぎないものなのだ、としみじみ思いました。
実は私は彼女が大学に通い始めた時から新しい祈りをし始めました。それは、彼女に将来、クリスチャンの伴侶を与えて下さい、という祈りでした。そしてその祈りの通り、主は彼女にクリスチャンの伴侶を与えて下さいました。しかし結婚する事を本人達が決めたのは今から3年も前でしたから、それは全く私の予定より早すぎたので、「神様、祈りましたが、早すぎます!」と叫んだほどでした。 でも、その後、私の母が亡くなり父が一人暮らしとなり、主人が日本に転勤(そして今は香港へ)となったため、私も日本に帰らなければならなくなったので、その事を主はすべて予めご存知でこのタイミングで結婚に導かれたのだと思います。
しかし実際は私にとって、娘の結婚と本帰国が同時というのは、それまでも体調が悪い日々が続いていたので、果たして乗り切ることができるか、身も心もストレスと疲労の限界でした。真奈が新婚旅行に出かけ、礼奈がサウスカロライナに、主人が香港に、義父母が日本に戻った後、結婚式の疲れや余韻に浸る間もなく、一人で朝から晩までただひたすら引っ越しの荷造りをしていた時、今までNJで過ごした思い出がよみがえり涙がぼろぼろこぼれて仕方ありませんでした。それはこの地を離れるのが寂しいというのもあったのですが、それより神様がこの地で与えて下さった個人的なひとつひとつの出会い。。。そのお一人お一人のお顔が思い出され、一緒に祈り一緒に泣き一緒に笑った時間と、神様が子供たちを守りここまで導いてくださった事、そうやって過ごした宝石のような日々を思い起こすと感動で胸がいっぱいになり涙があふれてくるのでした。
そしてまた、NJの教会の礼拝の時間は、私にとってまさに羊が羊飼いなるイエス様のそばで緑の牧場に憩っているような平安に満たされる時間であり、またある時は激しい悔い改めをもって何度も主のものとへ立ち帰ることができた、そんな時間でありました。
そして、本当に賛美の力を知ったのもこの教会の礼拝からでした。賛美を捧げる時、慰めと励ましが与えられ、また十字架の恵みにただただ感謝が溢れ、いつも礼拝の賛美の時には涙が頬を流れるのでした。賛美は祈りであり、みことばの約束をもっとこの胸に刻む事ができ、もっと神様に近づく事ができた、そんな体験をさせて頂きました。
これから父の世話のために日本、そして主人のいる香港へも行かねばなりません。4人で始めたアメリカ生活は、今、それぞれが別々の場所で新たなスタートへと移り変わってゆきました。家族が一緒にいた頃はああだこうだと喧嘩したり衝突したり沢山のバトル?もありましたが、家族がばらばらになってしまった今、私も主人も、ひとり大学生として残る次女の礼奈も(特に帰る巣がなくなくなってしまったので)家族のそれぞれの存在のありがたさを思うようになりました。私自身も 日本に来て果たして本当にこの道で良かったのか、「本当はやはりアメリカに残るべきだった、ずっといたかったのに」とつぶやくかもしれません。でもこれが主の示された道なら、私は神様がそこで私に見せたいものが、教えたい事が、新しい出会いが、きっとあるに違いないと信じて、私の前を進まれる主の後をついて行きたいと思います。そして弱い所に完全に現れる神様の御業。。それは弱かった真奈を通して神様がしてくださったように、私のこの肉体的、精神的な弱さも主が支えて下さり、また離れている家族の上に主の守りが常にあり、更に主の恵みを体験していけることを願っています。
最後に、
♪「God Bless you、 神の御守りが いつでもあなたの上に 注がれますように
あなたの心と体と すべての営みが 守られ支えられ
喜び溢れるように 私は祈ります。
God Bless you, God bless you,。。。。」♪
今、この賛美をみなさんに贈り、そして特に次女の礼奈のために母の祈りとして祈り続けていきたいと思います。本当に今までありがとうございました!またお会いましょう!!
月報2010年11月号より
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
(マタイ27章46節、マルコ15章34節)
これは十字上の断末魔の苦しみの中で主イエスキリストが唱えられた言葉です。この言葉の解釈について一般的には詩篇22編の引用とされ、詩篇22編の内容が、神の応答が聞こえないという苦痛を歌った前半から神が祈りを聞いて下さったという確信と感謝の賛美に満ちた後半へと変わって行くように、死の絶望の中にあっても復活の希望がその先にあることをキリストが示されたのだと多くの解説書などで説明されているのは皆さんご存知の通りのことだと思います。私も今まで、神から見捨てられた主イエスの苦しみにがどのようなものであったのかについて深く考えたことはなく、むしろ、そのような神から見放されたと言う絶望や手に釘を打たれた肉体的苦しみの中にあってさえ、詩篇の御言葉を諳んじ、聞いているものに死の絶望がやがて希望へと繋がってゆくのだというメッセージを送られた主イエスの偉大さと、また、そこまで深く私たちを愛して下さっていたのだということに感動し、「やはり主イエスは凄い方だ!受肉の苦しみや神からの孤立という絶望的状況さえ超越して愛を貫かれる力を持たれていたのだ。」と単純に感心しておりました。
昨年の7月から今年の7月までほぼ丸1年間に亘り人生初めての失業を経験しました。1年と言う期間は当初予想していたよりもはるかに長い期間となってしまいましたが、この先どうなるのだろうという不安な思いがあった反面、今まで仕事をしていた為に持てなかった時間を持つことが出来て、普段なら出来ない経験ができたと言うことも事実であり、必ずしも辛いばかりの日々を過ごした訳ではありませんでした。健康面でも守られ(毎日良く寝ているから風邪をひく訳がありません)、経済的にも失業保険や健康保険の付保期間が通常の倍以上に延びたり、家内のESLのAidの仕事が与えられたりと不思議と支えられました。子供の学校が休校となった平日に釣りに行ったり、毎朝子供を学校に送って行った後、家内と二人でデボーションの時を持ったりと、仕事をしていたら持てなかったであろう時間を持つことができたのは少し立ち止まって考えなさいという神様のはからいだったのかもしれません。
しかし、勿論、仕事が無い状態が続けば、この先どうなるのだろうという不安にかられたことがなかった訳ではありません。あれが一番辛かったなぁと思える出来事は失業から9ヶ月経ったころに訪れました。失業するまで約15年間に亘りマンハッタンに通勤していた私はこの失業を契機に家からもっと通い易いニュージャージーの何処かに仕事が見つかって、今までよりもっと多くの時間を教会の集まりに出たり、家族と一緒に過ごす時間に充てることが出来たらと思い、失業して以来、ずっと、御心であるなら、ニュージャージーで車で30分くらいで通える場所に仕事を与えて下さいと祈っていました。そして、この祈りを主が聞いてくださったかのように、ニュージャージーでの就職口の話が舞い込んで来ました。場所は家から車で約35分、ニューヨークとは反対の方向へ向かうので交通渋滞の心配はまずありません、仕事の内容は自分の職務経験にも合っており、また、給与も今までと同じかそれ以上というレベルでした。唯一、自分の経験で当てはまらなかったのは、「CPAの資格があればなお良し」ということであったので、もし、落とされるとしたらこの点かな、でも、CPA受験の準備を進めている話をすれば、この点はクリアできるのではないかとも考えていました。私はこの話が複数の人材紹介会社から持ち込まれ、更には以前、仕事で付き合いのあった監査法人に勤務しておられた方からも紹介があったので、もしかしたら本当にこれは主が与えてくださったチャンスなのかもしれないと思え、そして、御心ならこの仕事を私に与えて下さいと祈っていました。そして、一番最初に声をかけてくれた人材紹介会社を介してレジュメを提出して先方からの返事を待ちました。ところが、一週間以上経っても良い返事は聞かれず、それから2、3日して人材会社から、「今回は面接にまで行きつけませんでした。先方は、もっと同業分野での経験がある方にしたいと仰っています。」と告げられました。実は私にもこの同業分野での経験はあり、そのこともレジュメには書いていましたので、この「お断り」の理由が良く理解できませんでした。正直、これだけ複数の人材紹介会社から私のところに話が真先に持ち込まれたことからも、また、過去の経験からも日本語ができて自分と同じ程度の職務経験のある人間はそう何十人もいる訳は無く、少なくと面接くらいはしてくれるのではないかと思っていたので予想外の門前払いであったことによる落胆の度合いは大きなものでした。それも、CPAが無いからと言う明確な理由であれば納得できましたが、そうでない何か良く分からない理由だったので、これだけ、自分の経歴にぴったり合うと思えたポジションだったのに、面接にすら漕ぎ着けないなんて自分のような人材はもう必要とされていないのではないか、今の時代にもう自分の職務経験やら資格やらは価値が無いのではないだろうかと思えました。一方で、私の周りにいた知り合いや教会に集っておられる方で失業されていた方も、その頃にはなんとか仕事を見つけて再就職をしていたので、自分だけが取り残された思いがして、出てくる祈りは「神様、どうしてですか」という言葉だけでした。
そのような悶々とした日々の中で迎えたある聖日のメッセージは冒頭で述べた主イエスによる十字架上での祈りについてでした。「絶望から希望へと変わって行く詩篇の御言葉を通して、十字架上で磔にされ死んでゆくという絶望的な状況がやがて復活の希望へと変ってゆくというメッセージをイエスは送られたのだ。」と言う解釈はそれはそれで筋の通った素晴らしい解釈であるとしながら、でも、敢えてそこに今日のメッセージではチャレンジしてみたいと、その日、牧師が仰ったように記憶しています。「確かに、あの十字架の語るメッセージは希望へのメッセージである。しかし、イエスキリストはあの時、本当に苦しかったのではないだろうか?そして、それは肉体的な痛みもさることながら、神の子でありながら神から引き離され、何一つ罪を犯していないのにも拘らず、おぞましい犯罪人の処刑の道具である十字架にかけられ、あざけられて死んでゆく、そのような神からさえも見捨てられるという孤独な屈辱的な経験の中でイエスは本当に苦しくて苦しくて仕方がなかったのではないのか。そして、その苦しみは私たちの罪のためであり、私たちを救うためであったのだ。それほどの犠牲を払ってまで主が救おうとして下さったことを思う時、私たちは感謝せずにはいられないのではないか。」確か、メッセージの概要はこのようであったと思います。
「ああ、そうだったのか!」と、この時、私は一瞬何かがはっきりと判った気がしました。「神様、どうしてですか?」という搾り出すような嘆きにも似た祈りしか出てこない、神に見捨てられたと思えるような経験を通して、主はあのイエスの十字架上での本当の苦しみを、すなわち、神に見捨てられると言う苦しみがどんなに絶望的であったかを知らせたかったのではないのか。私の「神に見捨てられた」と思えるような経験は、自身の父である神から見放され、罪も無いのに磔にされると言う十字架上でイエスが通られた経験から見れば、比べるべくも無い小さなものに過ぎなかったと思います。しかし、放蕩息子のようだった者を赦し、そしてそのような者のために十字架にかかって下さったイエスの愛の深さに感謝し、自分こそが主を十字架にかけたのだと悔い改めたことは今までに何度もあっても、十字架上でのイエスの本当の(単に肉体の苦しみに留まらない)苦しみについて考えたことが無かった私は、何か目を開かれたような思いがしました。
勿論、この経験があったからと言って状況が劇的に変わった訳ではありませんでした。それから、あと数ヶ月間は失業状態が続いた訳ですが、それでも、これ以降、私の中には神様にちゃんと取り扱って頂いているという何か安心感めいたものがありました。それは、あの圧倒的な絶望感や孤独を受肉した人として経験された主は、この小さき者の味わう絶望的な経験や痛みもちゃんと知っていて下さり、その先には必ず希望を用意していて下さるという安心感でした。
このような私たちの絶望感や孤独も判ってくださる神が、今日も共に歩んでくださることを覚えて感謝したいと思います。
月報2010年10月号より
「私は6歳の時に、神様を信じました。…」
私は6歳の時に、神様を信じました。The BRAVE(教会学校)でイエス様の十字架のお話を聞いて、神様の子供になりたくなりました。その時に母に話しました。
日曜日に教会から家に帰る車の中で、「ママ、咲は罪がある。・・・」
私の心に罪があった時に私の母とお祈りをして、イエス様を救い主と、信じました。
そのとき開いたみ言葉はヨハネの福音書1章12節です。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をおあたえになった。」
イエス様が私の罪の代わりに十字架にかかってくれたので、私はイエス様に、「ごめんなさい。ありがとう。」とお祈りしました。
自分の聖書がほしかったので、日本のグランマーに電話をして、送ってもらいました。聖書の一番前に、「イエス様から目を離さないでいなさい。」(ヘブル12章2節)と、サインといっしょに書いてありました。
洗礼は、ずっと受けたかったのですが、大勢の前では勇気がありませんでした。
でも、今年のCAMP JESUSで洗礼を受けることを決心して、お祈りをしてもらいました。
7月から洗礼の準備の学びをしました。
そして、8月15日に洗礼を受けました。
緊張しましたが、うれしかったです。
教会のみんなからカードをいただいてうれしかったです。
アーメン。
月報2010年9月号より
「私はクリスチャンホームで育ちました。…」
私はクリスチャンホームで育ちました。毎週日曜日に教会に行って、教会学校で神様のお話を聞いていました。だけど、イエス様のことを本当に信じていたかは、わかりませんでした。昨年のひがきゃん(中高生のキャンプ)に参加して、栗栖先生のメッセージを聞いた時、自分の罪とイエス様の十字架の意味を知り、涙が出て、感動しました。その後、「私の罪のために、十字架にかかって、その罪を赦してくださってありがとうございます。」と、お祈りしました。昨年の9月ごろに、洗礼を受けるか、考えていました。今年の5月ごろに、洗礼を受けようと、決心しました。
第一ヨハネ1章9節のみことば、『If we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us our sins and purify us from all unrighteousness.』を救いの約束のみことばと信じて、イエス様と一緒に歩んでいこうと思いました。
そして、8月15日に洗礼を受けました。礼拝でたくさんの人がいたので、皆さんの前に出るのと、お祈りの時が緊張しました。でも、お祈りができて、洗礼式の後、たくさんの人が喜んでくれました。教会の皆さんから頂いたカードで、とても励まされて、嬉しかったです。
「洗礼を受けてどう?」と聞かれると、悩んでもやもやしていたのが、すっきりしたような、内側から 喜びがあふれているような気もします。
私のために、たくさんの人がお祈りしてくれていたことも、うれしいです。「天国行きの切符をもらったね。」と、励ましのことばもいただいて、励まされました。これからもお祈りしつづけてください。
月報2010年9月号より
「この度、ニュージャージー日本語キリスト教会に…」
この度、ニュージャージー日本語キリスト教会に転入会しました。NJに1年前に引越して来た際、通える教会があるなら行ってみよう、と思い、インターネットで調べたら、家から遠くない所に日本人教会があることを知りました。洗礼を受けて9年、母教会のある日本を離れて8年経って、今この教会に出会えたのは、神様が導いて下さったのだと確信しています。メンバーとして受け入れられたこと、奉仕できること、嬉しく思います。私がどうやってキリストと出会い、今日まで至ったかを証しさせて頂きます。
私は、18歳で故郷の石川県から上京し、東京女子大学へ入学しました。プロテスタント系のキリスト教大学で、そこでキリスト教と再会しました。実は幼い頃、教会付属の幼稚園に通い、神様や聖書のお話には触れていましたが、ほとんど忘れていました。キャンパスでは、キリスト教や文化に触れられるクラスや行事が多くありましたが、関心がありませんでした。それどころか、当時日本の大学生は、大学の授業は出ずに、バイトやインターンで社会勉強をするのが主流で、私も、あまり重要じゃないと思っていた聖書のクラスを丸2年間サボって、バイトに明け暮れていました。ところが、大学2年も終わる頃、キャンパスの掲示板であるポスターを見て価値観が変わりました。
「NGOスタディーツアー バングラデシュに寺子屋を贈ろう」と書かれポスターでした。国際ボランティアのようなものだろう、と思い、興味があったので参加することにしました。そのツアーの準備会で、主催者のアジア基督教教育基金(ACEFエイセフ)の事務局長がおっしゃったことで、私はただのボランティア活動ではないことを知りました。「私たちの目的は、【援助】や【与える】ことでなく、共に祈り、働くことによって、初等教育の普及に【協力】することです」。
協力するために祈るとはどういう意味か、よくわからないまま出発しました。バングラ滞在中、色んなことが初めてで新鮮でしたが、「共に祈る」のも初めての経験でした。毎日共に祈る時間があり、意外と心地よいものでした。目を閉じて、時には手をつないで、祈りたい人から順番に祈る。どれも感謝に溢れていて、また謙虚でした。今日1日無事に過ごせるよう、現地の人達との交わりがスムーズにできるよう、今日の働きに皆が感謝を持って取り組めるよう、というように、祈りって具体的だな、と思いました。また、祈りとは、神様にお願いばかりするものではなく、全てに感謝を示すこと、また全ての心配やわざわいを神に委ねることだ、とも知りました。振り返ると、電気も電話もなく、文化の全く異なったアジアの田舎で真に学ぶことは、祈りなしではできなかったと思います。
ツアーの後もエイセフの活動に積極的に参加し、また大学にあるキリスト教センターの常連になり、そこで初めてクリスチャンの大学生たちと出会いました。その頃、信仰を持つってどういうことだろう、と考え始めました。聖書を開いても難しそうで、イエスが私たちの罪のために死なれた、ということもピンときませんでした。それでは納得がいくまで調べようと思い、聖書や他の宗教についても分からないところを聞いて調査しました。そこで、旧約聖書と新約聖書の違い、ユダヤ教とイスラム教も聖書と繋がっていること、聖書に記されている預言が実際に起こったこと、など、驚くこと発見がたくさんありました。そして、もっと知るために日曜日の礼拝にも行ってみようと思いました。不思議と自然にそう導かれました。
バングラデシュと出会って9ヶ月経った1998年12月、私は、エイセフの友人が通っている国際基督教大学教会を、初めて訪れました。その日は、たまたまアドヴェント第1日曜日で、礼拝後、青年会の学生とリーダーのポール副牧師らに、夕方からキャロリングがあるからどう?と誘われ、キャンパス内を一緒に歌いました。この教会は大学内にあるので学生が多く、青年会にはキリスト教に興味のあるノンクリスチャンの学生も何人かいました。クリスチャンとノンクリスチャンが分かち合う話はとても刺激的で、ここで私の抱える疑問を解決できるかな、と期待し通い始めました。この頃、青年会の仲間を通して、初めて哲学の書物に出会い、様々な思想を知るのにとても役立ちました。
大学卒業後、1年間カナダに留学し、そこで見つけた小さな日本人教会に通いました。マタイにある、「求めなさい。そうすれば与えられる」を心に留めて、あなたが真理ならば私にも教えてください、と祈り続けました。そして、日本に帰国する直前、青年会の友人が私にこういったのです。「神様はいつでもようこの心の門を叩いておられるよ。でも、その門を開けるかどうかを決めるのはようこなんだよ」その時、ふっとこれまで問い続けてきた疑問や疑いがあまり気にならなくなりました。
イエス様、あなたを受け入れます、それだけでいいのだ、と分かりました。カナダでの教会最後の日曜日、私は特別賛美で、Change My Heart, O Godを賛美しました。You are the potter, I am the clay, so mold me and make me, this is what I prayと歌いながら祈りました。そして、その春の2001年ペンテコステの日に、国際基督教大学教会で、洗礼を受けました。
その1年後からは、仕事と勉学のためにアメリカで暮らし始め、移動も多かったので、教会探しをしませんでした。徐々に神様から遠く離れていきました。大学院を卒業した2006年の秋、念願の教員免許が取れて、公立高校で働き始めて1週間後、妊娠していることが分かりました。信仰を持っているならば、神様からの授かり物と喜ぶはずなのに、私は違いました。大変な過ちを犯してしまった、と思いました。その時、未婚で、結婚する予定もなかったからです。母教会に祈ってもらいましたが、私は素直に祈れませんでした。私達2人は大人げない態度で、産むか産まないか、結婚するかしないか、いや、結婚は絶対にしたくない、と言い争う日々が続きました。一度にいろんな決断をしなければならなかった、プライドも邪魔し、お互いに譲れないことがたくさんありました。
そして家族に状況を伝えたとき、どんなに叱られるだろうと思いました。ところが誰も叱りませんでした。それどころか、私の両親はノンクリスチャンで、彼の方はクリスチャンでしたが、皆私たちを喜んで受け入れてくれました。数ヶ月後、私は現在の夫と結婚しました。決して喜びに満たされたものではありませんでしたが、息子の真(まこと)が産まれる頃までには、私たち家族が出会えてよかった、思えるようになりました。人生最大の苦難でしたが、神様は、この失敗を、何と幸いに変えてくださった、信仰の小さかった私、これからはすべてを神に委ねよう、と悔い改めました。
その数年後、次は夫が突然失業しました。この時も家族、友人、教会が毎日祈ってくれ、どんどん転職への道が開かれ、このNJにたどり着きました。私は、妊娠・結婚・失業を経験して、私たちが自分で解決しようにもできない問題は無数にあるけれど、神様にその全ての重荷を委ねてよいこと、しかも最善の道を用意してくださる、というのはすばらしいめぐみだ、と心からそう思い、それは感謝のほかありません。
終わりに、私の信仰生活はこのように弱いものでしたが、これからは、知識だけでなく、主に信頼し、御言葉を実行できる者として、歩んでいきたいと願っています。
アーメン。
月報2010年8月号より
松岡広和牧師のメッセージ
今回は6月13日の礼拝でメッセージをしてくださった元僧侶の牧師・松岡広和先生が、どのようにご自分がクリスチャンになったか、お話しくださった内容を、許可をいただき、ここに掲載いたします。先生は仏教についてとても深い知識をお持ちですが、その話をする時よりも、この「証し」をされる時の方が何倍も輝いた顔でお話をされるのが印象深く残っています。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」 コリント第2の手紙 5章17節
私は以前、僧侶でした。2歳上の兄がすでにお寺を継いでいましたので、私はお寺を継ぐ必要はなかったのですが、自分は何のために生きているのか、真理とは何かを知りたいと思い、自ら望んで僧侶の道に入りました。仏教系大学に入学し、仏教を学びました。多くの厳しい修業も試みました。しかし仏教について学べば学ぶほど、いろいろな疑問や矛盾を感じ、かえって迷うようになりました。
さらに大学院に進んで仏教を研究していましたが、その大学院に韓国から留学しに来ていた僧侶と親しくなったことがきっかけで、私は、韓国語、そして韓国という国に興味を持つようになり、韓国語教室に通い、2ヶ月に一回くらいのペースで韓国を旅行するほどになりました。私の通っていた大学が、韓国のソウルにある仏教系の大学と姉妹関係を結んでいて、交換留学生の制度がありましたので、指導教授の薦めもあって、1989年、私も交換留学生として、韓国のソウルに留学することになりました。通常、留学生生活というと、経済的に苦しいものかと思いますが、当時の私はすでに僧侶として働いていたので結構貯金があり、また円が高かったので、経済的にはかなり余裕がありました。そしてそれまでは実家で親と暮らしていましたが、初めての一人暮らしと言うことで、自由を感じました。さらにそれまで韓国に住みたいと思っていたので、夢がかなったという思いがありました。この世の喜びをすべて手にしたかのような感じでした。しかし、しばらくして体験したことは、いくらお金があっても、いくら自由があっても、いくら夢がかなっても、そういうことで人間は幸せにはなれない、ということでした。特に不愉快なことがあったわけではないのですが、自分はなぜ生きているのかという疑問が解決されていなかったので、日本にいても、韓国へ行っても、心の空しさは同じだということに気が付き始めました。
その年の暮れのことでした。ソウルで知り合った同じ日本人留学生から、友だちが通う教会のクリスマス会に一緒に行こうと誘われました。僧侶だった自分は、教会とは初めから関係がないと決めつけてはいましたが、韓国に来た一つの経験として、教会に行ってみてもいいのではないかと思い、ある小さな教会に顔を出してみました。
ところがそれがきっかけで、日曜日の礼拝や食事会に足を運び、さらにその教会の聖書の勉強会に通うことになったのです。もちろん、神様を信じようとしたのではなく、韓国語の勉強にもなるし、聖書を宗教的教養としても知ることができて、一石二鳥だと考えたのです。聖書の勉強会は、青年会の会長をされている方との一対一での学びで、創世記を読み始めました。知識を身につけるためにと思って始めたものですが、第1回目から、聖書のことばが私の胸に響いてきました。
「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」 (創世記 1章31節)
神様はひどく喜ばれるほどに全てのものを完璧に造られた、ということが私の胸に響き、仏教とはずいぶん違うな、と思いました。ご存知のとおり、仏教では、全てのものは移ろい行くものであると教えられています。生じては壊れ、生まれては死に、「諸行無常」という見方をしていますが、聖書では「初めから全てのものはすばらしい」と言っていて、この時私は、もしかしたら私が今まで求めていた真理というのはこの聖書の中にあるのではないかと思い始めました。その後1週間に1度の聖書の勉強を続けていましたが、毎回聖書のことばが胸に響き、もしかしたら神様はいるのかも知れない、いるのであれば信じてみたい、という気持ちに変えられていきました。
聖書の学びも3ヶ月ほどすると、聖書の中心的なメッセージがわかってきました。それは、自分は神様の前で「罪人」であり、その罪のために、イエス・キリストが十字架にかかられた、ということです。だから、悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、救われるというのです。
しかし、このようなメッセージは、知識として頭の中では理解できていながら、いくら考えても、自分が罪人であることがわかりませんでした。ですから、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかられたと何度も聞いても、どうしても納得できませんでした。自分が罪人であることがわからなければ悔い改めることはできない、悔い改めることができなければ救われない、と思い、自分は信じられない、救われない、聖書の勉強もやめようと思うようになりました。
そんな中で、学んだことの感想文を青年会の礼拝の中で読む順番が回ってきました。悔い改めについての学びの感想文でした。追い詰められて、全然実感はないけれど、もし自分が悔い改めたとしたら何と言うかをとにかく言葉にして書いてみました。「神様、私は罪人です。どうぞお赦しください。」と書きました。すると、不思議なことに実感がないながらも次の言葉も浮かんできました。「私はあなたに造られておきながら、あなたを無視してきました。どうぞ赦してください。」さらに続きます。「赦されるような私ではありませんが、どうぞ赦してください。」「私はあなたの顔につばを吐きかけたものです。」そのような調子でとうとう悔い改めの言葉が1枚の紙を埋めてしまいました。その原稿を教会に持って行き、とにかく読み上げて、自分の順番を終わらせようと思いました。青年会の礼拝でこの原稿を読み始めました。学んだ内容の要約を読み終わり、悔い改めの言葉「神様、私は罪人です。どうぞお赦しください。」を読み始めたところ、突然、涙があふれてきて、私は泣き始めてしまいました。自分でもビックリしました。そして、大きな声で泣きながら続けて悔い改めの言葉を最後まで7読みました。
その瞬間、私の内面がすべて変えられました。神様はいらっしゃるという信仰と、聖書は神様のみことばであるという強い確信が与えられました。それからは救われた喜びに満ちあふれた毎日が続きました。神様がいらっしゃると言う確信は、自分の頭で考えて達した結論ではありませんでした。イエス様を信じて悔い改めた瞬間に、その確信は私の心に満ちていました。たとえ全世界の人が神様などいないと言ったとしても、自分一人になったとしても、それでも神様はいらっしゃると言うことができる程の強い確信でした。それと同時に、自分は死んだら天国に行くことができる、その天国も作り話ではなく実在するもので、間違いなくその天国に行くことができる、という確信も与えられました。この確信により、人間が必ず遭遇しなければならない死に対して恐怖はなくなりました。むしろ喜びに変わりました。死んだら、言葉で表現できないほどすばらしい天国が私を待っている、と思うとうれしくなりました。
この喜びが抑えきれず、周りの人に伝えずにはいられませんでした。学校の友達、先生と会う人毎に、「私は救われました。うれしいんです。神様はいらっしゃるんです。」と言いました。周りの人には、表情も変わったと言われました。それまで部屋にいる間はいつも韓国の歌謡曲を聞いていましたが、そのような音楽にも興味がなくなり、部屋で聴く音楽も讃美歌に変わりました。
こうして私がクリスチャンになった時、やはり多くの反対・迫害がありました。しかし、まわりからどんなに反対されても、どんなことを言われても、本当の真理を知ったという確信はびくともしませんでした。聖書の中にも迫害に関する記事・みことばがいくつかあります。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ 3章12節) そのようなみことばを読むたびに、自分が反対・迫害に遭っているのは、聖書のみことばどおりに生きている証拠だという確信がさらに与えられ、反対・迫害があるたびに喜びがあふれるようになりました。これは人間の力ではなく、聖霊の働きだと思います。反対・迫害に負けまいとしてがんばったのではなく、負けることができないという体験をしました。
そして、仏教大学も中退して、僧侶としての道も捨てました。留学を終えて、1991年春に日本に帰ってからも、神様は何もかも捨てた私を、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ 6章33節)のみことばどおり、日本での就職、教会、住居、結婚、母との関係の和解と、すべての面で守り導いてくださいました。
その後しばらくサラリーマン生活を続けていましたが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4章19節)という聖書のことばが心に響き、神様が私を呼んでいらっしゃると思い、神学校で学ぶことになり、神様は私を牧師の道へと導いてくださいました。
神様はすべての人が救われ、天国に行けるようになることを願っておられるのです。ですから私のように、僧侶として最もイエス・キリストから離れている人間ですらも救ってくださったのです。僧侶を辞めてから救われたのはなく、そのままの姿で神様は私を救ってくださったように、多くの方が、そのままの姿でイエス様の前に進み出て救いの恵みに与れるよう願います。
アーメン。
月報2010年7月号より