私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17

 

神さまからのチャレンジ

 2023年の11月で、フルタイムで働くようになって丸4年が経過しました。子育てが終盤に差し掛かり、子どもたちがそれぞれに巣立とうとする中、私にこの地でできる仕事を与えてください、新たに資格を取ったりする必要のない仕事を与えてください、と祈った結果与えられた仕事でした。専念していた20年の子育て期間を経ての社会復帰は、私なりにそこそこチャレンジングでした。子育ての大半が終わったとは言え、3人の子どものうちの2番目と3番目は高校生でまだ送り迎えが必要でしたし、大学進学準備もありました。ある日を境に共働きになったからといって、仕事漬けで走り続けている夫との家事分担は難しく、家や子どもたちのことがうまく回らないことや、自分の時間が取れないことにストレスを感じながらのスタートでした。

 一方、就職した先は、植物工場で日本のおいしいいちごを生産することを目指す農業ベンチャーでした。植物工場とは、屋内で植物の生育環境を人工的にコントロールし、計画的に作物を生産することのできる未来型の農業形態です。私はもともとアウトドアが好きで野山を駆け回っていたタイプだったのですが、ポイズンアイビーを繰り返しその度に重症化していたため家庭菜園さえドクターストップがかかっていました。そんな私にとって、害虫も雑草も排除された植物工場で再び植物に触れることができる仕事は、楽しくて仕方がありませんでした。いちご摘み、葉掻き、糖度測定、パック詰めなどの農作業に加え、ホースやパイプを切って灌水設備を設置したり、コンテナの上にのぼって電気ケーブルを通したりというベンチャーならではの実際の工場づくりも皆でやりました。当時、葉物野菜の植物工場はすでに存在していましたが、受粉の必要ないちごのような果菜類の植物工場は不可能だと言われていたのです。それは、植物工場のような閉鎖空間では、ハチが野生の感覚を失ってしまいうまく働いてくれなくなるという、主に受粉の問題があったからです。それをたった10数名のメンバーで、世界初を目指して夜遅くまで試行錯誤を繰り返す職場は、やる気とパッションに溢れていて、自分がしばらく忘れていた懐かしい感覚が蘇ってくるようで、一緒に働くことでたくさんのエネルギーをもらうことができました。

 そんな私が入社後に立てた目標は「3年でいちご博士になる!」でした。家庭と仕事の両立で苦しんでいた私の、3年は辞めないぞという決意表明でもありました。教育専攻で、小学校教師になり、子育て中も近所の子どもたちの日本語学習のサポートに関わっていた教育畑出身の私にとって、植物工場は何もかもが新鮮で、もともと旺盛な好奇心に火がつき、明けても暮れてもいちごの謎を突き詰める毎日が始まりました。まず、いちごをより知るために植物生理学から始め、夜な夜な借りてきた文献やネット資料を読みあさる一方、植物工場の電気がつく(=植物にとっての朝)6時には農場に入り植物の健康状態を観察する早朝5時起き生活です。実地と勉強会の並走は学びが多く、知れば知るほどまた疑問が生まれます。次に肥料配合や植物の根の栄養吸収を向上させるための有機化学。そしてその次は環境制御のために、例えば人工光の白、赤、青など異なる波長の組み合わせを試すために物理が必要になり、更にそれらのデータを収集して解析するためのデータサイエンス。と、どんどん広がり、終わりがない世界にのめり込んでいって、気がついたら4年が過ぎていたという感じです。残念ながらまだいちご博士にはなれていないと思います・・・奥が深いのです。

 1人で植物と向き合っている時、いろんなことを考えます。例えばいちごの実は、1つの房にいくつものつぼみができ、順番に花が咲き、先に咲いたものから順にいちごの実になっていくのですが、1番最初の実が一番大きく、2番目3番目の実は1番目の大きさを上回ることはありません。家庭菜園を経験されたことのある方はきっとご存知でしょうが、1番目2番目3番目の実を大きくするために、4番目5番目6番の実や花やつぼみを取り除きその栄養を最初の方の実に行くようにする摘果(てきか)を行います。またいちごの実は、最初緑で硬かったものが白へ、そして赤へと色づき、柔らかくなっていきます。赤くなり始めると実の成長自体は止まり、今度は糖度を充実させることへと切り替わるのです。つまり色が変わり始めると実がそれ以上大きくはならないという判断ができるので、この段階で規定サイズ以下のものは摘果します。この作業はいちごを出荷するためには必要ですが、3人の子どもをもつ母親の私にとっては非常に酷なもので、いつも複雑な思いになります。子どもたちの顔が順番に浮かんできて、いちごであっても出現順で見切りをつけるなんてあり得ない、4番目5番目6番目のこのいちごたちだってこんなに美しく咲いているのに、もしかしたら大きくなってくれるかも知れないのに・・・と摘果をしながら何度思ったか知れません。けれども、もう実ができていても、花が咲いていても、つぼみが膨らんできていても、摘果しなければなりません。時には小さなつぼみがたくさんついている房ごと取り除くこともあります。いつもため息が出ますし心が痛みます。ふと新約聖書のマタイ7章にある「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」という聖書箇所が思い起こされ、神さまの厳しい裁きのことを考えたりもします。そして、それぞれ違う道を歩み始めた子どもたちのことを思っては差がついてきたように感じられ、3人とも神さまに喜んで受け入れてもらえるだろうかという思いで不安になるのです。けれども、『今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。』(マタイ6章30節)や『あなたは私の目には高価で尊い』(イザヤ書43章4節)のみことばを思い出すと、脳裏に浮かんだ子どもたちの顔が笑顔になっていきます。子どもたちのそれは、差ではなく違いであって、神様から与えられた個性であることをうなずくことができ、それぞれをそのままの姿で喜んでくださる神さまを思い、安心します。と、次の瞬間「良い実を結ぶとは?あなたは?」ということが突きつけられてくるのです。神さまからのチャレンジです。「私は大丈夫かな。良い実を結んでいないから炉に投げ込まれてしまうんじゃないかな。」と自問自答して胸が詰まりそうになります。すると決まって、♪ Jesus, I need you. Every moment, I need you ♪ という賛美の歌詞が心の中に流れてくるのです。私はすぐに「その通りです。今この瞬間、神様、あなたが必要です!」と心の中で叫びます。さまざまな思いがよぎっては不安になる自分。懸命に努力しても追いつけない高みがある現実に心がうなだれてしまう自分。けれども”Jesus, I nee you!”「この瞬間も、神さま、あなたが必要です」と叫ぶ時、心に平安が与えられます。立ち上がる力が与えられます。私が叫ぶ時、神さまはそこにいてくださいます。摘果は今でもあまり好きなタスクではありませんが、その作業を通して、どの瞬間も私には神さまが必要であることを毎回確認することができるのは感謝なことです。きっと私がそのことを忘れてしまいやすい者であることを神さまはよくご存知だからなのだと思います。自分の力では良い実を結ぶことはできず、ただただ神さまにしっかりとつながっていることが大切だということを再確認する幸いなときとなっています。Jesus I Need You – Hillsong Worship (2015 New Worship Song with Lyrics)
 
 4年前は20人弱だった会社も、現在は200名となり、急成長急拡大しています。喜ばしいことですが、ただそれゆえの難しさも感じています。「多様性」という壁です。スタートアップ当初の社内は日本人が主流で英語でなくてもOKでしたが、いつの間にか英語が公用語、書類やミーティング、プレゼンも英語となり、メンバーのバックグラウンドの違いからくるカルチャーギャップも多くなってきました。日本人の常識や普通が、そうではない場面に出くわして、うーんと思わずうなってしまうことがあります。働き方もさまざまです。メンバーの集中力、休憩の頻度、仕上がりの丁寧さなどを確認する必要がある時、この人たちは皆同じ給料でいいの?と思ってしまいます。そんな時思い出すのは、聖書の中には早く来た者も遅く来た者も同じ賃金を受け取るたとえが出てきて、すべての者に豊かに与えたいと願っておられる神の愛が語られています。そのたとえ話を思い出して、私自身が他の人と比べるのではなく、自分に託されたことに集中するようにと、「小さなことに忠実でありなさい」と語られました。ようやく、多様性を知ること、認めることはできるようになってきたかなあとは思うのですが、その多様性を尊重し、相手の個性と自分の個性を合わせて2ではなく3にするために上手にコラボしていくことが次の課題と感じています。これも神さまからの大きなチャレンジです。『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(第1ペテロ4章10節)

 また、会社が大きくなるにつれ、全員で力を合わせてなんでもやっていたベンチャーから脱皮し、企業として成長していく時期に差し掛かっています。社内に部門が増え、業務が分化され、特定のスキルのある人が外部から雇用され、専門性が問われるようになってきました。その流れで私の所属や仕事内容も変わり、不満や不安を感じることが多くなってきている今日この頃です。この分野では全くのド素人であり、まだ自分が目指すいちご博士には届けていないと自覚しているのに、任された仕事内容に対する不満、任されないことに対する不満、一緒にプロジェクトをするメンバーへの不満などが積もってきています。最初はあんなに植物をさわれることへの喜びでいっぱいだったのに、いつの間にか、不平不満が溢れて止まらなかった出エジプトの民(旧約聖書)と同じように自分もなってしまっていることに気づき、このみことばによって立ち止まらされています。そう、詩篇103篇『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』です。けれども、私が仕事に没頭している間にも、神さまは働き続けてくださっており、たくさんの良いことをしてくださっていました。コロナ禍でも、農業はエッセンシャルワークということで私は毎日出勤していて、リモート授業となっていた子どもたち3人(2人の大学生と1人の高校生)が週2回ずつ6日間の夕食を作ってくれる日々が1年ちょっと続きました。そのおかげで私は早朝からファームに入っていちごの観察をすることができ、一般業務の前に勉強の時間を確保できました。子どもたちは毎回5人分の食事を準備するのに最初は悪戦苦闘していましたが、次第にレシピの材料が揃っていなくても冷蔵庫にあるもので準備できるほど腕が上がっていきました。今は3人とも自宅を離れましたが、十分自炊できるようになってくれたので、ある意味安心して見ていられます。またコロナ禍の閉鎖的な日々も、子どもたちが作ってくれた夕食を囲みながら、その日私の会社であったことをシェアしみんながそれに突っ込んだりダメ出ししたり質問したりと、たくさん話をするのが日課となりました。新しく知ったいちごの植物のあれこれや、ハチの受粉の難しさ、垂直農法のシステムや競合他社との攻防、起業あるあるやシンガポールの大学インターン制度、同僚の20代男子にもっと効率を考えて動くように怒鳴られて凹んだことや、まるでTVドラマのような大人同士の激しい本気のディスカッションがあったことなどです。たわいもないことでしたが、このような分野に長男は興味を持ったようで、私の会社で夏のインターンシップをし、そのまま就職することになりました。小学1年生の頃からFarmerになりたいと彼が言っていたこと、けれどもそれをどのようにサポートしていいかわからなかったことなどをその時思い出しました。娘は、私の研究開発部門での実験の話に影響を受けてか、大学入学直後から生物系の研究に目覚め、それを突き進めるためにこれから研究の道に進もうとしています。立ち上げ初期のメンバーとCEO宅で一緒に食事をする機会が何度かあった次男は、アメリカ育ちですが噂に聞いていた日本的な体育会系のノリというベンチャーの雰囲気を肌で感じ、色々と学ぶこと思うところがあったようです。夫も数年経った今では、自分で洗濯機を回したり洗い終わった食洗機の食器を棚に戻したりと、共働き夫婦らしく家が回るように無言で動いてくれています。私が社会とつながり奮闘していることもまた、家族それぞれに安心を与えているのかもしれません。この4年の間、目に見えること見えないこと、たくさんのことを主がしてくださってきており、これからもしてくださる、働き続けてくださることを確信しています。最近この賛美の歌詞が心を離れません。♪ You are Waymaker, Miracle worker, Promise keeper, Light in the darkness・・・Even when I don’t see it, You’re working. Even when I don’t feel it, You’re working. You never stop, You never stop working ♪ 4年前は、この歳になって、この地で、自分がいちご研究に携わることになるとは、ほんの1ミリも想像していませんでした。けれども、私がこうして植物工場に導かれたことが、このあともきっと何かにつながっていくのだろうと思うと、そのタネあかしが楽しみでなりません。今いるところでどうあることが神さまに喜ばれることなのか、これも神さまからのチャレンジです。まどろむことがない(詩篇121篇3節)神さまが、これからしてくださることに大いに期待し歩んでいきたいと思います。そして日々喜びが口から出る者でありたいと願っています。Leeland – Way Maker (Lyrics)

「嘆きを踊りに変えてくださる主」

ある日、ハモリに負けずに歌い切る!というテレビ番組に、笑いながら共感している自分がいました。
そして身近な録画を見て「あれ?これ私の声?自信を持って歌っていたつもりなのに少し外れてる・・」と自分の歌声に気づき、恥ずかしくなることもあるのですが、「それでもめげずに歌おう!」と、今は心に決めています。

 以前、母が私の出産について語ってくれたことがありました。それは父の母の思いに反して、母の大きな決断によって4番目の子としての出産が私だったことでした。そして、キリスト教や聖書とは無関係だった田舎の家庭に育った私が、イエス様の救いに与るなんて、まさに大きな憐れみでしかありませんでした。運動部に夢中だった中学生の時、姉と一緒に初めて教会に行き、いただいた新約聖書を一人で読み始めました。自分の力で隣人を愛する努力に限界を感じて罪が示され、高校生の時に「神様の愛は罪を赦す十字架に示された!」と知り、クリスチャンになりました。しかし、私が教会に通うことに父は反対で、ある時は茶碗を投げることがありました。そんな時でも罪から救われた喜びと神の愛に感動し、学校や教会の帰り道には「主にすがる我に、悩みはなし、十字架のみもとに、荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~♪」(聖歌498)と歌い、賛美に励まされたり、信仰の友の祈りにも支えられてきました。キャンプに参加したり、聖書を読んで祈る中で、神様と交わることが喜びとなりました。母を通して受けた肉体の命と愛に加え、神様からの霊的な命と愛をいただくことによって、生きる喜びを感じ取っていたように思いました。

 やがて看護の道を歩む中、人が生まれる時には、母も周囲も全力で臨み「命の誕生」「命への畏敬」ともいえるものに感動しました。しかしある時は、厳粛な「人の臨終」にも直面し、本人、家族、医療スタッフが必死になっても限界「人間には立ち入れない世界」があるのを感じる時がありました。遺族の大きな喪失感で悲しむ姿を知り、一人の人の命がどんなにかけがえのない大きなものか・・、神様に問いかけ、深く悩み祈ったものでした。「肉体は滅びても、魂を救うお方がいらっしゃる。」そのことを見出し、それから救いや天国の希望、神様の大きな愛を伝えたいと願うようになり、数年の祈りの後に「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)のみことばに立ち、聖書学院に導かれました。

 牧会生活の中では共に祈り合い、また恵みを分かち合う中で、主に導かれる方がおられたり、また、離れて弱っていた方が信仰に立ち返った時、一緒に泣いて一緒に笑って、神様が私たちと共にいてくださると感じる時、そして反対していた家族にも神様が’働いてくださった時、それは本当に私の大きな喜びでした。

 しかし、これまでの歩みの中で、ある時には神様は私を訓練してくださいました。髪を振り乱し必死の日々、「睡眠時間を削って、こんなに一生懸命頑張っているのに・・」と、自負や思い違いをしていた時、急に試練の中に落とされます。八方塞がりの中で自分の弱さ、まるでボロ雑巾のような惨めさ、ある時には人を赦しきれない罪深さを示され、悔い改めさせられ、主のみ前にへりくだることを教えられるのでした。それでもイエス様の十字架の愛に戻る時、わたしの心に賛美が湧き上がります。
「恐れは変わりて、祈りとなり。嘆きは変わりて、歌となりぬ。
歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~」(聖歌 498)

あるセミナーの中で、教えられたことです。
「皆さんは祈る時、自分に必要なことを一方的に提示して話していることはありませんか?神様の愛をいただくために、自分を空っぽにして、心の窓を開いて、自分の内側に神の愛の眼差しを求めましょう!」
「想定外の中でも神は働いてくださるのです。言葉も出なくなる時、うめくしかない時、それでも神の前に立つなら、祈りとなるのですから、自らを明け渡す祈りをしましょう。私たちは聖霊が働かれる条件を整えましょう!」と勧められました。
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちをとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)

私の心のうめきをご存知で共にとりなしてくださる方がいる。そう思うと私の内側に、不思議なほどに平安と、勇気が与えられるようでした。
私の歩みのためには、主ご自身が、そして世界中に広がった兄弟姉妹がとりなしの祈りで支えてくださるのだから。そのように大きな愛に導かれるのを感じるのでした。

「苦しみや悲しみや嘆きを踊りに変えてくださる優しいお方、主により頼みます!」と祈るのでした。

「あなたは私のために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。
これは私の魂があなたをほめたたえて、口をつむぐことのないためです。
わが神、主よ、私はとこしえにあなたに感謝します。」(詩篇30:11、12)

私をここまで導いてくださった主に、心からの祈りと賛美をささげて歩んで行きたいと願っています。

「主のみ約束に、変わりはなし、み許に行くまで、ささえたまわん。ハレルヤ~ハレルヤ~♪」
(聖歌498)

証し

私は牧師家庭で生まれ育ち、家でも教会でも神様のことを聞くのが当たり前な環境でした。いつの間にか「ごく自然にイエス様を信じていた」というのが正直なところで、何か劇的な変化や感動的な体験を通して救われた、と言えるものがありません。クリスチャンとして「感動的で霊的な経験がなければならない」と思ったことはありませんが、人前で語るような証は自分には無いと感じたり、信仰が揺らいでしまう事はありました。

そんな私の歩みの中で、神様という存在を幼い時から知らされ、自由に信じることのできる環境に置かれていることの恵みや、教会やキャンプの奉仕をする機会が与えられてきたことに感謝をするようになりました。神様が私を遣わして用いてくださり、周りの人々に触れておられることを間近に感じることによって、自分自身の信仰が強められていくのを感じてきました。

中でも一人の方との印象的な出会いを通して、神様は私の信仰を強めてくださり、与えられた賜物を認識するきっかけを与えてくださいました。その方は私が高校生の頃、プリンストンの教会に初めて来られた未信者の方でした。彼女は近くの音楽大学大学院で声楽を勉強するために日本から留学していた方でした。当時の私は、音楽や賛美の奉仕に熱心に携わっていたものの、自分には特に賜物や秀でている部分はないと思っていたので、内側では葛藤も感じていました。また、その方の声楽家としての経歴を知ったことで、彼女の前で賛美をする事に恐れを感じてしまいました。緊張と恐れの中で何とか賛美を捧げることができ、その日の礼拝が終わりました。彼女はそれから約一年間、毎週教会の礼拝に来られました。日本への帰国が近づいたある日、その方から言葉を頂きました。「真歩ちゃんの賛美があの時の私には必要だったし、本当に心が開いていくのを感じました。」あの日、私は葛藤と緊張と恐れの中で賛美していたのですが、その礼拝や賛美がきっかけとなって彼女は神様を真剣に求め始め、帰国直前にイエス様を救い主として信じました。そして牧師である私の父と一緒に祈りを捧げられたそうです。

神様が導いてくださった出会い、彼女の魂への働き、そして彼女からの言葉を通して初めて、神様が私をも用いてくださったのだと感じました。その後も 私の周りで人々が神様への信仰を持ち、救われていく姿を間近で見聞きする中で、私自身も恵まれ、信仰が強められ、この道を歩むことに更なる確信が与えられていることを感謝しています。

証し

私は96歳になります。日々、主に生かされ、日々、主に守られて恵みを受けております。そんな私でも、寄る年波で、病による痛みや苦しみがあります。そのような時は正直に「神様、痛いです。苦しいです。」と申し上げて、主に在る慰めをいただいております。

 私はかつて高ぶる者でした。主人との結婚生活において日々、口争いが絶えず、相手を傷つけ、私も傷ついてまいりました。

 クリスチャンとなってある日、教会の牧師先生に家庭のことを話したところ、ひどく叱責を受けました。私に同情してくれるどころか責め立てられるなど、思いもよらないことでした。しかし、神様の恵みは低いところに流れます。「謙遜になりなさい」という神様からのメッセージだと受け止めて、家庭においてへりくだることを心掛けました。

 しかし、そう易々と変化は起こりません。私の中で何かが変わり始めていたとしても、主人には伝わらず、相変わらずの結婚生活が続きました。そんなある日、こともあろうか、主人は突然、「家を出ていく」と言い出しました。

 すでに成人していた娘は驚きあきれ、弁護士を立てて離婚するよう勧めてきましたが、私の心の中に聞こえてきたのは「とどまりなさい」という声。「なぜ?なにを?どうやって?」と問い続けつつ、まだ夜が明けきらない暗がりの中で、聖書を開きました。意図せずに開いた聖書の箇所はヨハネの福音書15章4節。そこには、はっきりと「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・・。」と書いてありました。びっくりしました。と同時に、私の心の中に聞こえてきた声が神様からの声だったと確信できました。ならば、従おうと心に決めました。

 それからの道のりも、決して平坦だったとは言えません。離婚は思いとどまりましたが、その後、主人は大病をして治療に時間とお金がかかりました。「とどまりなさい」との御言葉を握りしめて、看病と介護にあたった日々でした。医療保険に入っていなかったため、医療費は莫大な額になり、私が長年積み立ててきた預金は底をつきました。さすがの主人も「すまない」と謝ってくれましたが、その時に私の口から出た言葉は「そんなことはいいから」でした。

 神様が主人の心に触れて下さいました。「そんな言葉を言わしめる神様はどんな方なのだろう。僕も黎子の信じる神様を知りたい。」主人は神様を求めて歩みだし、やがて信仰を得るに至りました。

 今、私は最高に幸せです。身体が衰え、酸素吸入器の手放せない毎日ですが、イエス様がいつもそばにいて下さいます。神様が語りかけてくださいます。大病が癒され、信じる者とされた主人が、かいがいしく私の身の回りの世話をしてくれています。

 ヨハネの15章4節は、こう続きます。「・・・枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」そして次の5節では、「・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。・・・」人生の最期を迎えつつある今、神様が聖書で約束してくださっている多くの実を、私は見せていただいているのです。

 これから実りそうなものも、まだまだあります。神様の素晴らしさを、外へ出て行って伝えることはできなくなりましたが、家の中でたくさんの祈りをささげています。友人がクリスチャンとなってくれますように、祖国日本に福音が広まりますように、ウクライナで苦しむ人々のもとに平和が訪れますように・・・私の祈りのリストは長く、果てしなく、どれだけ時間があっても足りません。だから神様は、私をまだ生かしてくださっているのでしょうか。

 神様はすばらしい方です。神様の御言葉を信じ、とどまる者に、恵みを与えてくださいます。このすばらしい方のことを、一人でも多くの皆さんに知っていただきたいです。信じていただきたいです。

 すべての栄光を主にお返し致します。

Testimony

I feel that my life has been led by God.

However, it took me a long time to believe in God as my Lord, but through an event that took place in 2022, I was able to believe in and accept God. I am truly grateful for that.

I married my Christian husband from Taiwan in 1972 in the United States. My husband’s mother and four sisters were all Christians. So I started attending a Taiwanese church in Queens every week, as my husband’s relatives gathered at church. However, my husband never once told me to become a Christian myself. I think that was a good thing for me. If he had told me that, I would have run away.

If I had not believed it myself, I would not have wanted to be baptized.

God has invited me many times through many events. In 1984, an American woman took the trouble to order a Japanese Bible and gave it to me as a gift.

Then, in 1989, when the pastor of the Japanese church in Maywood was still Rev. Masaki, my husband was working in real estate at that time, and I met a Japanese Christian at that time, and he and his wife invited me to come to the New Jersey Japanese Christian Church for the first time, and then I started listening to Bible stories in Japanese.

Then, in 1992, my mother-in-law, who had been really good to me, passed away, and I made a promise to her at that time that I would be baptized someday.

But for the life of me, I couldn’t really feel God.

Then one thing happened in December 2022. I was on a trip at that time. But on the way back, I had a real problem at the airport. A woman saw my situation and approached me. She told me that she was a doctor and that she had to help me as soon as she saw my situation. Then, after hearing my story, the woman reached out to me with her time and what she had at her convenience. At that moment, I felt God’s hand in giving me that person’s presence. The person’s name was Nancy. When I heard her name, I remembered that my friend who gave me a Japanese Bible as a gift 38 years ago was also named Nancy. With a strange feeling, I came home and was relieved when I received a video from a Japanese friend. It was a video called “Love Letter from Heavenly Father” made by a Christian, and it was edited in such a way that words and stories from the Bible were spoken directly to me from God. It ended with the message, “I am waiting for your return.” As I watched the video over and over again, I realized that God was now calling me through each of these things. And I wanted to believe in Him.

Four months later. In the study of preparation for baptism, I have learned again about God’s love, my sins, and Jesus who went to the cross to forgive them, and I want to follow him as my Lord.

「証し」

私の歩みは神様に導かれてきたことを感じます。

しかし、なかなか、その神様を主として信じることができなくて、時間がかかりましたが、2022年に起こった一つの出来事を通して、私は神を信じ、受け入れることができました。その事に心から感謝します。

私はアメリカで、1972年に台湾系のクリスチャンの夫と結婚しました。夫の母も、4人の妹たちもみんなクリスチャンでした。それで私も、教会で夫の親戚が集合するという流れで、毎週Queensにある台湾系の教会に通うようになりました。しかし、当の夫は自分に対して、一度も自分がクリスチャンになるように、と言うことはありませんでした。それが自分にとっては良かったことだと思います。もしも、そう言われていたら、私は逃げ出していたと思います。

自分から信じることができなければ、無理をして洗礼を受けることはできなかったのです。

そんな私を、神様は幾つもの出来事を通して、何度も招いてこられました。1984年には一人のアメリカ人の女性が、わざわざ日本語の聖書を取り寄せて、私にプレゼントをしてくださいました。

そして、1989年だったでしょうか、まだこのMaywoodの日本語教会の牧師が正木先生だったときです。その頃夫が不動産の仕事をしていて、その時に一人の日本人クリスチャンに会って、そのご夫妻のお誘いで初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来て、それから日本語で聖書の話を聞くようになりました。

そして、1992年には、本当に良くしてくれた義母が亡くなりましたが、その時に「私はいつか洗礼を受けるから」と義母に約束をしていました。

でも、どうしても、神様を実感できなかったのです。

そして、2022年12月に一つの出来事が起こりました。その時、私は旅行に出ていました。しかしその帰り道、空港で本当に困ったことが起こりました。その私の様子を見て、一人の女性が声をかけてくれました。その人は自分は医者であり、あなたの様子を見てすぐに助けなければ・・・と思った、と私の状況を聞いてくれました。そして、私の話を聞いて、その女性は自分の時間や持っているものを都合して、私に手を差し伸べてくれたのです。その時、その人の存在が与えられたことに神様の御手を感じました。その人の名前はNancyさんといいました。その名前を聞いたときに、38年前に日本語聖書をプレゼントしてくれた友人もNancyという名前であったことを思い出しました。不思議な思いを持ちながら、家に帰ってきて、ホッとしたときに、日本の友人からビデオが送られてきました。それはあるクリスチャンが作った「天のお父様からのラブレター」という名前のビデオでしたが、聖書の言葉やストーリーが神様から自分に直接語りかけられてくるように編集されたビデオでした。その最後は「私はあなたが帰ってくるのを待っている」というメッセージで締めくくられていました。そのビデオを何度も繰り返し見ながら、今、これらの一つ一つのことを通して神様が私を招いている、と分かりました。そして、私はこの方を信じたい、と思いました。

それから4ヶ月。洗礼の準備の学びの中で、神様の愛、私の罪、そして、それを赦すために十字架にかかってくださったイエス様のことをもう一度学び、この方を主として従って行きたいと思っています。

「証し」

3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。

途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。

小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。

毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。

15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。

その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。

1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。

今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。

幸いに手術で全ての癌は取り去られました。

2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。

連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。

64歳の「放蕩息子」です。

ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。

讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。

あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。