「私のここまでの歩み」

私は昨年の6月に洗礼を受けました。寄り道もしましたが、ここまで神様に導いていただけたことを心から感謝しています。

私と聖書との最初の出会いは、小学生の頃、疎開させていただいた先が、クリスチャンの家だったことでした。そこではみなさんと一緒に教会に行きましたが、クリスマスなどの催しがとても楽しかったことを覚えています。また、戦争のあとは、母はクリスチャンではなかったのですが、よく宣教師の方をお招きして、お話を聞いていました。その頃、小学生だった私は、一緒に座るようにと言われたのですが、お話もよくわからず、すぐに逃げ出していたことを思い出します。

30代の頃に、一人でアメリカに渡ってきました。友人の家でしばらく居候をしていたとき、NYの友人から、電話があり、彼女の義理の妹がNYで結婚するので、その式に列席してほしいと頼まれて、急遽LAからNYへ参りました。それ以後ずっとNYで生活をしています。あるとき、NYでのルームメイトが付き合っていた男性のところに移ることになり、相手のアパートに引っ越すので、このまま、アパートを借りてほしいと頼まれたのです。そして、そこに一人で住んでいたのですが、あるとき、泥棒に入られました。テレビなど持って行かれてしまったのですが、大きな被害がなくて守られました。しかし、そのアパートからも、私の名前で借りた家でもないので、出なければいけなくなり、どうしようと思っていたときに、私は統一教会に出会いました。

その頃、私は大きな日系の会社の社長秘書をしていました。そこに、統一教会の人が訪ねてきたのです。それは、統一教会の教祖であった文鮮明氏がマジソン・スクエア・ガーデンで大会をするので、そこに日本のエグゼクティブを勧誘するためでした。私は、その訪ねてきた方と親しくなりました。そして、住むところで困っていた私を、統一教会がミッドタウンに持っていたホテルの一室に泊めてもらえることになったのです。そのホテルでは、多くの統一教会の人々が生活をしていました。その時、私は全く宗教に興味がなかったのですが、そこで生活する人々の顔が違うことに魅力を感じ始めていました。大変優しく、きよく見えました。そして、そこで歌われる歌も、若い心が燃やされるもので、また語られるお話も、若い人たちにぐぐっとくるような講義でした。そして、そこを出ようと思ってアパートを探して見つけたのですが、いざ出ようとすると、そこを出るのが怖くなったのです。

それでも、まだ入信するかどうか、迷っていて、いや、もう出ようとも決心した矢先に、「祝福」(合同結婚式)があり、声がかかったのです。しかし、私は、その「祝福」は、もっと長年統一教会員である人でなければ、資格がないと思っていました。そして、その場から立とうとしたとき、それでも、自分を導いてくれたその人の上司にはとてもお世話になっていたし、その方が、「いいから、ただ座っているだけでいいから」と言われたので、その「祝福」を受けることになりました。そして、教祖様の指名する相手と結婚したのです。

私は文先生から「祝福」を受けたときは大変うれしかったです。でも、この「祝福」がうまくいかない人も何組かいました。わたしも例外ではありませんでした。

私たち夫婦は統一教会の中で養女をもらったのですが、アーティストをしていた夫にその娘を預けて、私は仕事に出ていました。その間は良かったのです。しかし、私が仕事を辞めて、家にいるようになってから、関係が壊れていきました。夫は、社会をよくしたいと、次々と文章を書いていました。それが統一教会の教えとはかけ離れたものだったため、統一教会には受け入れられず、それが辛くて、お酒を飲むようになっていったのです。そういうこともあり、私たちは別れることになり、統一教会からも足が遠のくようになりました。

そんな私がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは、クリスチャンの友人に誘われたことでした。最初に書いたように、小さい頃の経験や母の影響等から興味があったので、声をかけてもらったときに、素直に行ってみたいと思いました。

教会に来て、牧師の話を聞き、語られる言葉の指している方向に心が向くようになりました。いろいろな問題にぶつかったときに、何かにすがりたい、導いてほしい、と思いながら、なかなか祈ることができないでいましたが、教会に集う中で、寝る前に祈るようになりました。そして、その祈りに応えて、神様が助けを与えてくださいました。あるときは、大切なものをなくしてしまったときに、「神様、どこにあるか教えてください。見つかるようにしてください」とお祈りしたところ、何度も繰り返し確認していたところにあったことに気がついたのです。その時に、私が信じるべきは、これしかない、いくら抵抗しても抵抗しきれないと感じました。そして、イエス様を救い主として信じていきたいと思いました。私のために十字架にかかり、私の罪を赦してくださるイエス様の恵みに感謝して、洗礼を受けたのです。

洗礼を受けて、私は本当に良かったと思います。それまで、「あーでもない」「こーでもない」と一人で思いわずらっていることが多かったのですが、今では、神様に祈って、神様に委ねて、平安が与えられています。これからも、神様は私の祈りを聞いてくださり、答えてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

ピリピ人への手紙4:6-7

証し

日々導いて下さる主に感謝します。

去年からのコロナ禍の影響は大きく、この証を書いている時点でも新種株オミクロンが思いがけないスピードで私たちの生活を脅かし始めています。私自身も不安な日々を過ごしていますが、この度の教会への入会には主のお導きを強く感じています。

この5年近く聖書を読む会やクロッキー、カフェなどのお手伝いをさせて頂いているにもかかわらず、会員としてご奉仕したいという気持ちにはなかなかなれませんでした。日本の母教会を離れたくない気持ちもあり、Maywoodでの教会員としての生活が思い描けなかったのです。しかし、伝道という意思をはっきりと持って活動されている教会員の皆さんのご奉仕する姿を見て、サークル活動の延長のようなかかわり方であってはならないという気持ちが日々強まってきました。そんな時、ある会員の方から「そろそろ主にある家族になろうよ」と、声をかけていただきました。そうか、教会は「主にある家族」なんだということが強く心に響き、だからこそ信じあってともに祈ることが出来るのだと改めて思わされました。悟るに遅い自分の心が決まるよう少しずつ神様は備えて下さり、5年かかりましたが、この教会でご奉仕するように導いて下さったのだと思っています。

私がイエス様と共に歩むようになったのは、おそらく幼稚園の頃通い始めた教会学校からだったと思います。田舎の丘の上にある小さな教会でした。毎日曜日色々な絵がかいてあるみ言葉カードをもらうのが楽しみで、社宅の友達と喜んで通っていました。そのカードを入れた本は宝物でした。クリスマス会の劇やイースターのゲームなども楽しい思い出ですが、イエス様は心の清い人を喜ばれるという思いが、そこを離れてからも子供心にずっと残っていました。

我が家はおそらく祖父の代からクリスチャンだったようで、祖父は節(セツ)、父は羔三(こうぞう)という名をもっています。今は聖書には使われていませんが、羔は“こひつじ”という意味で、おまけに炎をあらわす4つの点の“レンガ”がついています。中学の頃、なんと“生け贄の子羊”ではないかと妙に感心したのを覚えています。祖父たちは明石のカソリック教会に所属していました。

母は、クリスチャンではありませんでしたが、色々な悩みがあるらしく救いを求めていました。PL教団に通っていたこともあり、私も変なお守り袋を首からつり下げさせられていました。しかし、母は東京に戻ってから父と二人で田園調布教会に通うようになり、いつしか洗礼をうけ婦人会でも積極的にご奉仕をしていました。婦人会の集まりもよく我が家で開かれ、私も一緒に牧師のお話を聞いたものでした。

毎日曜日仲良く歩いて教会に行く両親の後姿をみて、いつしか私も自然と教会に足が向くようになりました。大学4年の頃ヨルダン会という青年会に入り、修養会、文化祭など色々な行事をも通して聖書を学ばせていただきました。

ある年の12月、副牧師が洗礼希望者を募っておられました。この時、自分でも不思議ですが、私は迷うことなく手をあげクリスマスの日に洗礼をうけました。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」(ヨハネ15.16)というみ言葉が心にしめされ、洗礼を受けるということは主が私を選んでくださるということで、なんという光栄な事だろうと単純に思っていました。しかし、そこが主との交わりの出発点で、色々な試練を通して信仰について考えさせられる日々が続きました。

1982年に、夫がポストドクとしてカナダに2,3年の予定で勉強しに来たのですが、そのまま就職したため、来年で北米40年を迎えることになります。私は、しばらくカナダの日系新聞社で働いていましたが、合気道をやっていたときに腰を打ち動けなくなり、約2年はベッドで寝ていました。のちに病名が間違いだったとわかるのですが、当時はパーマネントの身体障害者として認定され5年は座る事もできず、夫が家事一切をこなしてくれていました。このときに重くのしかかってきたのが、「すべてのことに感謝しなさい」、というみ言葉です。この状況を感謝できるのか。痛みで体が硬くなり動けないまま人生が終わるのかどうかも分からず、頼れるのは主人のみという生活の中で祈っても祈っても不安が取り除かれることはありませんでした。幸い信仰を捨てようという思いには至りませんでしたが、長期にわたって癒されないことへの歯がゆさが、祈りとはなんだろうかという疑問を深めていきました。そんな私に、主は多くの信仰の友を与えて下さり、共に賛美をしたり聖書のお話をきいたり、彼女らに支えられて主を中心にした生活を送っていました。そして、いつしか自分の決断として、「この状況をも感謝していこう」、と思うことができるようになり、次に神様が何をして下さるかを期待しながら過ごすようになっていました。いつもイエス様が私とともに歩いて下さっていることにようやく気付いたのだと思います。

日本、カナダ、アメリカと生活の拠点が変わり、色々な試練がありましたが、行く先々でみ言葉から離れることなく祈りながら来れたことは本当に感謝です。今回は神様の導きにより準会員としてご奉仕できるようになり、新しい生活に希望と喜びをもって過ごさせていただけることに感謝しています。

第一テサロニケ5.16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、神があなた方に求めておられることである。」

証し

私は 1963年11月に奈良県の生駒市に生まれました。大学に入学して親元を離れて、東京で下宿生活するまで、生駒で育ちました。父は、私が小学生の頃にサラリーマンを辞めて自分で会社を興しました。所謂、脱サラで、それ以来、仕事に没頭する日々が続きます。週日は会社に寝泊まりし、土曜日の夜に帰宅、そして、月曜日の朝に出ていくという生活が、私が大学に入学するまで続きました。母は、専業主婦でしたが、父の母(祖母)の影響、そして、父が独立したこともあって、毎朝・毎夕、先祖への御祈祷と般若心経を唱えていました。父の事業の成功祈願がその目的であったと思います。

高校卒業までは、特に生活に困ることも無く、また、大きな失敗や挫折も無く過ごしてきました。大学受験には一度失敗したものの、浪人生活を経て希望の大学に入学し、予定通り4年間 で卒業、そのまま東京で就職することになりました。大学時代も、親から仕送りを貰いながらアルバイトもしていたので、特に勉学や、生活に困るということはありませんでした。将来何 となく海外で仕事がしたいと思って、四谷の英会話学校にも通い、当時海外進出が著しかった自動車会社に就職しました。当時はバブル経済の直前で、円高が急激に進んだため、特にメーカーは採用を絞っていたのですが、幸い就職活動もスムースで、すんなり就職できました。

入社後は、輸出営業に配属され、担当地域はアメリカとなりました。当時は、貿易摩擦が大きな問題となるほど、各社ともにアメリカ市場を重要視しており、仕事も充実していました。就職して4年後にお見合いをして、今の妻と結婚、そして、その3年後にロス郊外にある子会社に駐在派遣されることになりました。会社も勢いがあり、また、アメリカでの車の売れ行きも 良かったため、待遇面でも今の駐在員に比べて、かなり良く、大変恵まれていたと思います。 また、1999 年に長男がアメリカで生まれ、2001 年に帰国し、次男が日本で生まれました。帰国後のキャリアも順調でしたが、2005 年に業務命令で、再度、同じロス郊外の子会社に駐在派遣されることになりました。2005 年当時は、会社の経営が思わしくなく、アメリカの子会社を 立て直す必要があり、それを実行するために、再度派遣されたもので、1 回目の派遣とは異なって、かなり責任が重かったのですが、何とかやり遂げることが出来、その結果、昇進も得られました。2011年に任期終了となり、帰国命令が下ったのですが、子供の教育面のことを考え て、そのままアメリカに残ることを決断、ローカル社員として雇用の切り替えを会社にお願い し、上司、会社の幹部からの理解も得て、特例措置として認められることになりました。これは会社としては、初めて行う極めて例外的な対応で、かなり恵まれた待遇と言えます。

このように、昇進も順調で、待遇面でも恵まれていたこともあって、会社員生活としては、満足しうるものでした。会社の先輩からも「この会社で、お前ほどラッキーな奴はいない」とまで言われ、かなり傲慢な気持ちになっていたのではないかと思います。ただ、一方では、何もかも希望通り行くので、どこかで落とし穴があるのではないかとの気持ちも持っていました。

それが具体的な形となって表れたのが、子供の教育・学校生活の問題でした。子供が 11 年生に なった 9 月に突然、不登校になったのです。彼は、小学生の頃から、授業態度に問題があり、 何度も先生から呼ばれるなどしていたのですが、当時は、何となく気になりながらも、その内、態度も収まってくるだろうと思っていました。学校からの勧めもあって、カウンセリングを受けたりしていましたが、私自身はそれ程、真剣に問題を捉えておらず、相変わらず、大きくなっていけば、その内、問題行動も収まってくるだろうと、たかを括っていました。そして、子供の問題責任を妻のせいにし、徐々に妻との関係も悪くなっていきました。カウンセリングでは、夫婦関係を修復することが大切であると指摘されたのですが、私自身、青少年時代、父親との接触が殆ど無かったにも関わらず、特に大きな問題も起こさず、大学を出て就職し、経済的にも問題ない生活ができているのだから、夫婦関係が原因であるとも真剣に捉えていませんでした。また、子供が問題を起こす度に、学校から呼ばれるのが苦痛で、そのため、彼が問題を起こす前に転ばぬ先の杖として、私が子供の手助けを行うような始末でした。

妻は、2014 年に洗礼を受け、毎週礼拝に通っていましたが、私は特に興味もなく、かといって、反対するわけでもなく、妻が教会に通うのを眺めていました。私が通っていた高校が日本聖公会に所属する学校であったこともあって、特にクリスチャンや教会に対するネガティブな印象もなく、とは言っても、ポジティブな気持ちもありませんでした。ところが、子供の問題が大きくなってから、教会の牧師先生を始め、教会の信者の方々から色々なアドバイスを妻が得るようになり、しかも、それが通り一遍のものではなく、信者の方々の経験などにも基づく、我々夫婦に寄り添ったアドバイスばかりでした。特に、当地での日本人社会はせまく、他人の問題が噂話になるようなことを見聞きしてきた私にとって、身内の問題はあまり話したくないと思ってきたのですが、教会の方々との触れ合いが深まるにつれ、自分のプライドは捨てても、本当に助けて貰いたいという気持ちが高まってきたのです。

毎週通いだした礼拝での聖書朗読、牧師先生のメッセージに触れ、これまでの私の奢った態度、姿勢、気持ちが徐々に砕かれていくのがわかりました。マタイによる福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っているひとは、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」との一節に私は素直にすがりたいという気持ちで一杯となりました。

子供の不登校の問題が発生して以来、教会の礼拝に通うことが私の心の救いになったことに加え、夫婦で話す機会が増えました。これまでの私の奢った考え方を悔い改め、妻との関係ももう一度構築し直し、そして一致協力して子育てをやり直すことにしました。妻とはよく話し合った結果、長男を取り巻く環境や、彼の心身の状態を鑑み、彼を日本に帰国させ日本の学校でもう一度やり直す機会を与えることにしました。また、私の両親、妻の両親の健康状態も考え、2017年の夏に、我々家族も一度日本に帰国し、新たな生活環境の下で、家族、そして両親、みんなで助け合いながら生活することにし、仕事については、父親の事業をサポートすることにしました。そして、2017年5月14日に、アーバイン日本語教会の杉村牧師に導かれて、信仰告白を行い、帰国直前の同年7月19日に受洗しました。

日本に帰国後は、家内の実家近くの千里摂理教会(日本改革派教会)の客員会員となり、新たに日本での信仰生活を始めました。また、子供も実家近くの高校(インターナショナルスクール)に無事転校することが出来、新たに日本での学校生活を始めることが出来ました。子供は、まだ救われていないのですが、両親がクリスチャンになった影響もあってだろうと思うのですが、自ら、実家近くの別の教会(箕面国際教会、大阪大学に通う留学生や、外国人教授たちが中心となった教会)に時々通いだし、青年部の活動なども行うようになりました。そこで出会った教会員の方々にもアドバイスを貰いながら、何とか高校を卒業することが出来ました。主が働いてくださったものと感謝しています。

子供が苦労して高校を終えた後、生まれ育った米国でもう一度、学生生活を送りたいと望み、 親としては不安がありながらも、自立する必要性も認識し、再び、米国に送り出しました。それが、丁度2年前のことです。

我々夫婦は、もう二度と米国で生活することは無いと思い、家内は永住権を放棄しました。私は、子供の学費のことも考慮し、永住権をキープ、2 度再入国許可書を取得していました。2 度目の再入国許可書は今年の3月末が期限でしたが、渡米して手続きするのも面倒で、かつ、長期間休暇も無理なので、3月末で切れれば、その時点で永住権を放棄する予定でした。

ところが、昨年の9月にヘッドハンターから突然コンタクトがあり、ある会社が米国現地子会社の代表者を求めているが興味が無いかとの話が舞い込んできたのです。条件としては、来年3月末までに渡米し(再入国許可が失効する直前)、転職することでした。父親が90歳と高齢で、取引先、従業員含め、誰もが私が家業を正式に継ぐと思っていたので、その話に興味がありながらも相当悩みました。

ただ、子供たちが米国で生活し、日本に戻る意志が無いことを知っていたので、家族が一緒に 近くで生活出来ることを最優先に考えれば、この転職機会は、またとないベストの選択であることは確かです。しかし、そのためには、私が渡米する前に家業を処分することが必須で(父親の年齢を鑑み)、それが実行できる自信はなく、全てを主に委ねることにしたのです。10月にその転職話を取り敢えず受諾することにし、11月から急遽会社の売却を進めることになりました。そうしたところ、ある会社が私の条件、即ち、「3月までに売却手続きを全て完了させること」を承諾し、積極的に、かつ、友好的に売却手続きを進めることが出来たのです。通常、会社の売却には最低でも半年以上、こじれると1年程度は覚悟しなければならないのですが、無事、今年の2月(条件の3 月よりも一か月も早く)に売却が完了し、余裕を持って3月に渡米することが可能となりました。周りの誰もが、こんなにスムースに売却が進むのはあり得ないと言っていましたが、主に全てを委ねた結果の主のご計画によるものだと信じています。しかも、赴任地が、日本人があまり生活していない中西部ではなく(私の前職の自動車業界では、中西部地区に関連企業が多い)ニュージャージーで、この日本語教会に招かれたことも主のご計画の一つであることに間違いありません。

これから先の人生の歩みがどのようなものになるかは、全く想像がつきません。実に昨年の今頃は、子供たちのいる米国で再度生活するなど考えも及びませんでした。幸いにも子供のお陰で、家内と私は、救いを得て永遠の命を授かることが出来ました。これからも全てを主に委ね、主のご計画の下、信仰人生を歩んでいきたいと願っています。最後に私の好きな聖書の御言葉を記して、終わりにしたいと思います。

エレミヤ書29章11節

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

終わり

「コロナ禍の中でも」

2020年1月に海外での新型コロナウイルス感染症のニュースを知り、買い物に行くにも緊張の日々が始まりました。それは、私自身、喘息の既往があることや過去(2009年)のH1N1ウイルス(豚インフルエンザ)感染症の流行時にクリニックで仕事をしていた時の状況を思い出したからです。実際に街中で風邪の症状の人は多く見受けられましたが、アメリカでの新型コロナ感染者は2020年1月30日のニュースではまだ数人・・・と。でも、『世界を往来する多くの人々が住むニューヨークの側で感染者がいないはずはない!』と思いました。そして、当時、ワクチンや治療薬はもちろん、気軽な検査の手段もない状況下、私どもの教会は、感染症の予防を優先して、州政府などの規制が始まる前の2月の終わりから、礼拝以外の集会は中止にして、礼拝だけはYouTubeでビデオ配信をするようになりました。その後間もなく、近所や知人からの情報でも新型コロナ感染により悲しい知らせを耳にするようになったのです。ニューヨーク州、ニュージャージ州の感染者の数、重症者、死亡者の数が急激に増え、どうか、教会の方々が守られますようにと、皆で必死に祈りました。

そのような中、ニュージャージー日本語教会では、3月半ば頃からZoomにより集会や祈祷会も持てるようになりました。慣れるまで、中心になってご奉仕される方々はご苦労も多かったと思います。コロナ前は考えられなかったことです。Zoom祈祷会では安否確認と情報交換、聖書の学び、祈り会がとても励ましの時となってきました。悲しいニュースが多い中、Zoomでお会いすると、ホッとしました。普段教会に集まれるのはニューヨークとニュージャージー北部在住の方々ですが、Zoomでは遠方へ移られた方々とも画面上で顔を合わせて交わることができます。

インターネットを用いての礼拝も、YouTube、Facebook Live、Zoomなどを用いてささげてきましたが遠方からも数多くの方々が、参加し、私たちを励ましてくださいました。

このニュージャージーで、出会い、教会の交わり、奥様会など、一緒に大笑いしてのおしゃべり、聖書の学びや涙のお祈り、本当に励まされ、信仰の友として、私にとって大きな存在の方がおられました。そのご家族がご帰国されたことは、本当に寂しいものでした。ああ、もうここには居られない・とお住まいだったお家の側を通っても実感し寂しかったです。そんな時、なんとその方がZoomでの祈祷会に参加してくださいました。時差のため日本とアメリカは夜昼逆転ですが、参加してくださることによって、また顔を合わせて祈れるのです。また一緒に大笑いしたり、一緒に心を合わせて祈れるのです。ああ、信仰の友はどうしてるかな?またZoom祈祷会で会えるかな?私の考えを超えて神様は不思議なようにZoom祈祷会の喜びを与えてくださいました。正直なところ、夜の祈祷会で、Zoomの画面上でウトウトしてしまい、「のりこさーん起きてますかー?」と声をかけられ恥ずかしいこともあるのですが、それでも笑顔で見守ってくださる方々と一緒の時間が嬉しいのです。

今はワクチンが進み、教会堂を貸してくださっている現地の教会が滅菌フィルターを入れてくださったことによって、マスクをしながらですが、礼拝や集会が対面で持てるようになりました。主を中心とした交わりの喜びを再確認しています。

マスクを外して共に賛美したり、皆さんと愛餐会で交われる日が早くきますように、心から願います。

また、毎週の礼拝メッセージはYouTube で見ることができます。

しかし、木曜日の祈祷会に限ってはZoomです。

どうぞこの祈りの輪の中にいらしてみてください。

「ふたりまたは三人が私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」                           (マタイ18章20節)

信仰及び受洗そして今回の転入会にあたっての証

努力するものは報われると信じて疑わず、子供時代から猪突猛進してきましたが、30歳直前のあるとき努力ではどうにもならないことが世の中に存在する、という初めての挫折経験をしました。それをきっかけに心身共に苦しい日々を送るようになりました。失敗やそれにまつわる全てを自分の中で消化できず許すこともできず、ただ後ろ向きな考えに満たされながら鹿児島に住む家族、心を許していた数少ない友人達に支えられながら過ごしていました。

その中の一人である、遠く離れたミラノで救われて、当時日本に一時帰国しクリスチャンとして過ごしていた高校時代からの友人が、時を間もなくして私と同様の困難にぶつかったのです。諸事情により、実家住まいであった鹿児島、そして彼女の家族から離れて、横浜で一人暮らしをしていた私の家にて、短期間だけ滞在することとなりました。

短い同居期間、彼女は私のように苦しみもがき同じ場所でじたばたせず「このことを受け入れて神様に委ねて行こうと思う」と話しながら、私から見ると明らかな失敗と思える状況を受け入れており、そのことについて話す際には感極まったり涙を流すこともなく、夜は聖書を開きながら静かに過ごしていて、私の目にはゆっくりと前進していく姿を見ることになりました。

なぜ同じことをこんなに違うように受け止められるのだろうかと、彼女の姿を通して探究心が芽生えながら、メールなどでやりとりする中にて、マタイによる福音書 7:3 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか』 という御言葉があり、被害者意識で自己憐憫ばかりの重い気持ちでいたのに、ハッと目が覚める思いがしました。そして同時に視線が変わったことで心の重苦しいものが減ったように感じました。

もっと聖書のこと、神様のこと、愛とは何か知りたいと思うようになりました。

その友人を通じて帰省時に鹿児島市の丘の上にある単立鹿児島シティチャーチ(勝郁也主任牧師)の日曜礼拝へ足を踏み入れました。

エレミヤ29:11-12『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。』

礼拝の中で神様は生きておられる、この方についていけばこの先大丈夫な気がする、と思うようになり横浜に戻ってから少しずつ聖書の言葉に触れるようになりました。

聖霊の働きかけと導きが備えられ、イエス様の十字架によって新しく生まれ変わりたいと思うようになり、2008年12月4日、故芳賀正牧師先生(東京フリーメソジスト小金井教会元牧師、当時イタリア・ミラノ賛美教会協力牧師)のもとイエス様を心にお迎えし共に歩んでいく決意をしました。

その後仕事のため住んでいた横浜市にあるアッセンブリー教団港南シオンキリスト教会にて受洗の道が備えられ2009年8月23日野川悦子牧師先生より洗礼を授けて頂きました。

野川先生には年の離れた姉のように信仰生活・教会生活を手取り足取りご指導いただき仕事でも絶好調、信仰・教会生活も大いに充実した生活を送っていましたが、時は流れ、夏休みにひとり旅で訪れていたNYの地にて夫と出会い結婚することになりました。

別居婚を続けていましたが主が奇跡を与えてくださり子を授かりました。祈りつつ歩む中で日本での仕事を辞め息子と3人で暮らすように道が一つずつ備えられていきました。

渡米後、夫と同じ教会に転入会することを話す機会があり主から授かった息子に信仰を継承してことが夫婦のミッションであることで一致し、親子クラスをきっかけとして通うようになったニュージャージー日本語キリスト教会へ、今回転入会を希望致しました。この新しい地にて気持ち新たに信仰の土台を固く築いてまいりたいと思います。

「証し」

どのようにクリスチャンになったか

わたしは、1996年の1月11日にカリフォルニアのサンロレンゾで小嶺家の長男として生まれました。クリスチャンホームで育ち、サンロレンゾに住んでいる間は家族でSan Lorenzo Japanese Christian Churchに通っていました。物心がついたころには、教会学校に参加していて、両親や教会の先生と聖書を読み始めていました。夏休みになると、日本に遊びに行く機会もあり、祖母の家の近くの金沢中央教会にも訪れていました。

2006年の12月に父の転勤でカリフォルニアからバージニアへ引っ越し、地元のアメリカンチャーチに通い始めました。そこでも教会学校やバケーションバイブルスクールに参加し、2009年の10月に自分の意志で洗礼を受ける決断をしました。自分が罪深い人間であり、イエス様の救いが必要だと気付き、人生を捧げ一生をかけて神様の後をついて生きようと思いました。その後、高校の卒業と同時に教会の青年会に加わり、ユースプログラムや主日礼拝のオーディオ、ビデオ系のご奉仕もするようになりました。

どのようにJCCNJのメンバーになったか

去年の年末にToyota Motor North AmericaのNew York Region Officeに就職が決まり、他の二人の新入社員と連絡を取り、三人でルームシェアをする事になりました。オフィスの先輩方にニューヨークやニュージャージーの賃貸物件事情のアドバイスを聞き、ジャージーシティーやホーボーケンを勧められ、ジャージーシティーのアパートを借りる選択をしました。その後、ネットで「Japanese Churches in New Jersey」を検索し、ジャージーシティー近辺の教会の情報を集めたうえでJCCNJに行ってみたい!と思いました。

4月中旬には引っ越しの荷ほどきも終え、JCCNJに訪れてみました。その頃は、ジムでのin-person礼拝が再開して二週間目と伺い、教会のみなさんに会えてとても感激しまた。礼拝後は錦織先生をはじめ、かおるちゃんや咲ちゃん、萌子ちゃんや小林兄弟に暖かくウェルカムされ、安心と嬉しさでいっぱいだった事をよく覚えています。それからはJCCNJに続けて通いたいと思い、ご奉仕もしたいと考えていました。数週間前に錦織先生と教会員についてお話も聞かせていただき、教会員のセミナーに参加してからは正式にJCCNJのメンバーになり、教会のみなさんと信仰を深め、JCCNJを通して神様のために仕えたいと決めました。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイの福音書5章16節

「重荷」

我が家の姓を名乗る者は現在この世に11人しかおりませんが、歴史をたどると美濃の斎藤龍興の家臣に行きつくそうです。今現在も岐阜県本巣市真正町に「小柿」と言う名の集落があり、その南に居を構えたので「みなみこがき」との姓を授かったとのことです。安土桃山時代に斎藤家から姓を授かった証跡として家紋は今でも「下り藤」を使用しています。
この名字は江戸時代の間に訛ってしまって戸籍上では「みながき」と読むものの、漢字の「小」は残ったままとなりました。
江戸時代は医者の家系だったらしく、曽祖父の祖父は解体新書を翻訳した杉田玄白と同じ時代に生き、刑死人を解剖したデッサンを絵巻物に残して今現在も「解剖存真図」として原本が慶應義塾大学の図書館に保管されています。
曽祖父も元々は医者でありましたが、今を遡ること西暦1847年に洗礼を受け、その後に牧師となりました。それ以来途切れることなくクリスチャンホームが受け継がれてまいりました。
新島襄が現在の同志社大学を創立した当時になりますが、曽祖父も「教立学院・きょうりゅうがくいん」という名の学校を創立しました。残念ながら当時の会計にお金を持ち逃げされたとかで、大変な苦労があったとのことです。敬虔なクリスチャンの祖母は、この話になると『あの学校があれば今頃は・・・』とか『あの会計はろくな死に方をしていない』と言うものですから、私の心の中では食事の前に必ず祈りを捧げる祖母の姿とのギャップには驚いたものです。

クリスチャンホームに生まれると言う事は、私の父にとってみると『本人の意思とは関係なく幼児洗礼を受けさせられ、時機が来たら信仰告白させられる』と定義されるものだったらしく、息子たちには決して洗礼を受けさせようとはしませんでした。

私の母はもともと曹洞宗の檀家の家庭に生まれましたが、中学から大学までミッション系の学校に進み、自ら進んで信仰の道に入りました。所属する武蔵野教会(東京都豊島区目白)では最近まで長老職を務め、信仰を全うすると言う事は相応の覚悟が必要であるとの考えを持ち、これまた息子たちに洗礼を受けさせることに関してハードルを設けていたように思います。

ここまで書かせて頂くと、何故、題名が「重荷」なのかうっすらとお判りいただけますでしょうか。

まず、私がクリスチャンを初めて意識したのは親族が教会員である武蔵野教会そのものです。私自身にとっては「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」でしたが、子供心には礼拝の1時間は長くつらいイメージを持っておりました。
いつの日でしたか、熊野義孝牧師の説教を録音されていた方がいて、その方が何かの拍子に録音機を床に落としてしまい、教会堂の中を大音響で怪しげな音楽が再生されてしまったことがありました。弟と二人で教会の席上、笑いをこらえるのに一苦労、母もその耐える姿を見て必死に笑いをこらえる…50年近く昔の話で、今でも母との思い出話に出て来ますが、私の教会に対する印象は「笑ってはいけない重い場所」でした。

改めてクリスチャンを意識したのは42年前の高校1年生の時です。
1年生時から第二外国語を学ぶ高校に進学し、私はドイツ語を選択しました。その高校は3年間クラス替えなし、かつ担任の先生も同じという学校でした。担任の先生はドイツ哲学の大学教授で高校ではドイツ語を受け持たれておりました。授業はその日の学習範囲のドイツ語和訳で始まります。担任の先生は和訳者をランダムに指名するのですが、偶然にも私が指名された時の和訳箇所が「主の祈り」のドイツ語でした。
予習の段階で迷うことなく「主の祈り」を丸暗記していましたので、突然に指名されても淀みなく訳すことが出来ました。訳し終えた途端に担任の先生から『ミナガキ君はクリスチャンか?』と聞かれ『家族はそうですが自分は違います』と答えたはずでした。しかし高校の3年間ずっと、担任の先生は(ドイツ哲学専攻ということもあり)ホームルームなどでなにかにつけ『ミナガキ君はクリスチャンとしてどう思う?』と聞かれました。今思えば、担任の先生が「主の祈り」を指名したのも、疑いもなくイエス様のお導きなのですが、当時の自分にとっては「重荷」を背負った始まりでした。

次に意識したのは31年前の結婚式の時です。
当時の結婚式は仲人を職場の上司にお願いする形式が主流でした。然し両親の希望もあり、披露宴の前に結婚式場に誂えられた簡易なチャペルにて、武蔵野教会の椿憲一郎牧師の前で誓いを立てました。何人かの友人は著名で立派な教会堂で式を挙げる者もおり、ホテルの一室で牧師先生に式をお願いしてしまったのは如何なものかと、思い続けてきました。これまた今思えば、信仰の心があれば場所はどこでも良いと気づきましたが、こんなことも「重荷」だったのかもしれません。

父方の伯父・伯母たちも皆クリスチャンでしたが、その配偶者は必ずしもそうではありませんでした。その血のつながっていない伯父の一人に、戦前の旧制中学でエースピッチャーとして甲子園でベスト4、準決勝で大連商業に敗れたという逸話を持つ伯父が居ました。その後、マスコミの世界では知られた存在となりましたが、今から20年前、亡くなる寸前に「病床洗礼」を受けたという話に驚きました。そんな方法もあるのか!と。
ところが、「自分は病床洗礼でいいや」との考えが強化されてしまったのが、2018年8月に参加した武蔵野教会の有志「オリーブの会」が主催する修養会に参加してからでした。本来であれば修養会を経験すると信仰への思いは強くなるのでしょうが、私の場合は逆方向に作用した様です。この修養会は例年、水上温泉にある日本バイブルホームにて2泊3日の日程で行われます。当初は、大学の夏休みでロンドンから一時帰国する私の長女の為に私の母が案内書を持って来たのですが、何故か私だけが参加することになりました。
修養会では小グループに分かれて「マタイによる福音書」を読み合せました。何のタイミングだったかは、はっきりと覚えていないのですが、『伯父が亡くなる前に病床洗礼を受けたのだが、もったいないと思う』と発言したところ、同じ小グループの中で企業人として先輩の方から『いやいや、今読んだばかりのマタイによる福音書の第20章のぶどう園の労働者の話にもあるように、最後に来た者にもイエス様は最初に来たものと等しく愛してくださる』とお聞きし、却って「病床洗礼」に安堵する、今思えば「重荷」をそっと地面に置いた未熟な自分が居ました。

2018年10月、現在勤務する会社からの命を受けてニュージャージーに赴任しました。通算して19年以上に亘ってシンガポールに2回、ロサンゼルスと上海に駐在しましたが、母からは必ず『現地で通う教会を探しなさい』と言われ続けておりました。過去の駐在員生活では業務多忙に加え、偶々会社の同僚に誘われた教会では、信者さんたちがずっと不思議な踊りを踊り続けている、等なかなか思い描く教会に通うチャンスを見出せませんでした。
ニュージャージー日本語キリスト教会を知るきっかけになりましたのは、銀行勤務時代の先輩と錦織学牧師とがFacebookで繋がっていたからに過ぎませんでした。2019年のクリスマス礼拝には、正直申し上げて習慣的に礼拝に参加させて頂きました。そして世界がパンデミックに陥り、Zoom礼拝という流れになるのですが、実はその直前にもう一つの「重荷」が私の目の前に現れたのです。
2020年2月2日の主日礼拝に参加、月初めなので聖餐式が持たれた時の記憶です。未成年が葡萄酒を飲んではならないもの、と子供の頃は勝手に心の整理を付けていましたが、洗礼を受けていなければ聖餐式に参加できない、と言う事実がこの礼拝時には改めて「重荷」として心に残ったのです。自分は「病床洗礼」の日までこのままでよいのだろうか、と。

Zoom礼拝は「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」という私の固定観念を崩すには十分でした。とりわけ錦織学牧師の子供のための説教、まるで天から楽器が降ってくるかのような力強いお声が毎回楽しみでなりませんでした。ここで登場人物が何の野菜だったかはすっかりと失念しましたが、『自分が本当に洗礼を受けても良いのか?』というシーンがあり、バイブルおばさんの温かい回答に心が開かれるような気持ちになりました。これを契機にして「病床洗礼」ではなく「今でしょ!洗礼」に変わったのです。イエス様が私の「重荷」を共に背負ってくれると確信したのです。

洗礼を受けた後の心境ですが、以前から、欧米人や中華系の方がたと仕事をしていく中でキリスト教或いは聖書という共通の価値観を理解して付き合っていきたいと考えてました。そのために聖書の勉強の機会を探していましたが、英和辞典をAから暗記するのと同様、旧約聖書を最初から読んで挫折したことがあります。洗礼を受けた現在も引き続き課題ですので、錦織学牧師のご指導の下で勉強をして参りたいと考えております。そしてなによりも、これまでクリスチャンホームとして147年の歴史を次世代にもきちんとバトンタッチできるよう、信仰生活を大事にして参りたいと思います。

最後になってしまいましたが、錦織学牧師に9回にも及ぶZoomでの学びの場を設けて頂きましたこと、感謝いたします。そのなかで文章を読んだだけで心に光が差した思いがした聖句を書き記します。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
For God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whosoever believeth in Him should not perish, but have everlasting life. (John 3:16)

自己顕示欲の絵描き、クロッキー教室 

23年前の個展がきっかけで渡米する事になった。その頃の国際電話の料金は高額だったし、日本のテレビ番組は朝夕に1時間づつだけの放映だった。インターネットは通じていても日本語でのコミュニケーションはなく、私が当時通っていた語学学校では「Only English」と英語での会話を推奨されていて、日常生活での日本語にとても飢えていた。ニューヨークに来て初めて見つけたアパートのすぐそばに偶然にも日米バイリンガルの教会があり、学生時代以来の日曜日に行くようになり、そして礼拝後は教会でランチを食べて帰るのが習慣になっていた。ランチはドーナッツの日もあるが時々手作りカレーの日もあり、とても嬉しかった。幼稚園の時に暗唱した「主の祈り」があったり、中学1年の時に通っていたクリスチャンスクールでの讃美歌を聞いた時は懐かしさもあり、涙が出そうになった。

私が、ニュージャージー日本語教会に来たのは新緑の美しい季節だった。ニューヨークへの無料送迎があると聞き、週末にお隣の州まで行くことが出来るという事も楽しみとなった。

ニューヨークでの生活もだいぶ落ち着いてきたと同時にこの刺激的な都会の生活をこの勢いで続ける現実の厳しさも実感できるようになった頃だった。ニュージャージーには充実した日本食スーパーがあると聞いても、一人暮らしの私にとってはマンハッタンの小さな日本食スーパーでの買い物で充分だったし、バスに乗って知らない土地に行くという事もおそろしかったので、川を渡ったニュージャージーという地域に行った事がなく4年が過ぎていた。

ニュージャージーの教会は私の中での教会とは全然違っていた。知っている讃美歌はひとつもなく、しかもギターや太鼓などの伴奏がつき、時には手拍子もでてきて愕然とした。しかも何曲も続く。今までは教会での讃美歌はオルガンかピアノでの静かな伴奏しか聞いたことがなかった。子供が多い地域だからしょうがないのかなあとも思いながら、歌詞を読みながら心を合わせようと努力していた。その頃にこの地域に住む男性と結婚をする事になり教会だけではなく私の知らない世界に飛び込む事になった。

結婚相手には中学生の娘さんがいた。どうやって会話が成り立つのかがわからず、英語で話してみると「日本語でいいよ」と短い返答がり、子供達は、お稽古事もお遊びもすべて親の送り迎えで移動している不思議な世界だった。お母さん達の会話には知らない単語が多く、パラマスパークがモールの名前でバンサンパークは公園だったり、8年生?シニア?ジュニア?サフモア?ベイビーシャワ?はじめて聞く言葉はどういう意味なんだろう。育児、セール、ダイエット、レシピ、お菓子、メイク、韓ドラ、その会話の中には私は入れなかった。スマホもないし慣れない土地での車の運転で買い物に出かけても道に迷い家に帰るのにもくたくたになった。

ぎこちない生活の中で気ままな独身生活が恋しくなり、月に一度はニューヨークの教会に行きたいと言い出して夫を付き合わせたりもした。自分の落ち着いた時間はどこにあるのだろうと地下のアトリエに籠る事が多くなっていた。

夫の仕事がどんなに遅くなっても娘は夕飯を食べるのを待つと言い、時には9時を過ぎても待つこともあった。そして毎日必ず夕飯の前には家族で「こうして3人で夕飯を食べれる事に感謝します。」と一緒に祈る。この祈りのおかげで少しづつ本物の家族っぽくなっていった。

母親らしい事は何もできない私が、教会の集まりに行った、奉仕をした、と娘に伝えるととても嬉しそうな顔をしてくれる。私だって皆様と交流はしたいのです。

教会にはイースター、感謝祭、愛餐会と色々な行事があり主婦の皆様はお得意の料理の持ち寄りで豪華な食事会になる。我が家は夫が料理担当なので私の出番はなくて良いのだが、家庭集会という平日の昼間にある集会にもレベルの高い手作りのご馳走とデザートがふんだんに並ぶ。もちろん持って来られない人は無くてもよいので、私は果物などを持参する事もあるのだが、だんだんと足が遠ざかっていった。

何か私にできる奉仕はないかと、牧師先生と相談して「絵のクラス」を初めてみるのはどうでしょうか?と提案してみた。牧師先生は自分は絵が苦手で子供の頃に評価された時の傷がまだあるという事だった。絵なんて面倒さくて描きたくない人が、楽しめるクラスを目指します。クロッキーとはフランス語で素描、短時間での描写ドローイングの事なのだが、抽象画あり空想画あり、色々な角度から絵を身近な楽しみとして生活に取り入れてもらいたいと思う。1時間ほどの実技の後には牧師先生による聖書のお話がある。午前中のクラスで昼に終わるのだが、昼食は基本持って来ないで下さい、私がサンドイッチを作りますと張り切って2008年の7月に「ぐるぐるっと線を描いてみましょう」と5人の生徒でクロッキー教室は始まった。その中にはちょうど学校の休みだった娘もいた。

私は「先生」というキャラクターではない。学生時代美術の教育実習の時にオートバイで中学校に行って教頭から激怒されたり、美大受験に何度も失敗した経験もある。個性が強すぎると会社をクビになった事もある。だから絵が思うように描けない気持ちはわかるし、それぞれの感性にあった絵を描く楽しさを伝えられるような気がした。そしてこの地域において育児に追われるお母さん達が気分転換になったり、転勤でアメリカ来て生活に慣れない人に交流の場所になったり、牧師先生の聖書の言葉で元気になったり、教会へ興味を持ってくれたら良いなあと理想は高くなった。自分が子供の頃転校ばかりしている時に「描く」という事で自分の気持ちと向かい合えた事や、教会に行き神様に出会い、そして素敵な人達に沢山出会えてこんなに世界が広がって楽しくなったよという経験をこの地域の皆様に伝えたいと思ったからだ。

小さい子供達と交わる機会が今までほとんどなかった私だが、クロッキー教室に子供達が来るのが楽しみになった。子供達はお母さんと一緒に絵を描くのもよし、寝ているのもよし、時には子供達がモデルになった。

赤ちゃんは首がしっかりするまでは抱っこする時に気をつけることや子供はよく熱を出すのだという事も知り、お母さんという仕事の大変さと尊さを身近に感じることができた。驚いたのはお母さんの中にはパスポートの更新の時にしかニューヨークへ行かない人もいた。こんな皆様にニューヨークの活気あるアートの世界美術館や画廊の話も伝えたいとも思った。

メンバーも変わりながら何年かが過ぎた。電車の中で知らない子供に向かって笑顔で話しかけたり、お母さんに向かって「おいくつですか?」なんて聞いている自分にびっくりした。以前の自分には想像もできない事だ。

そうは言っても週に2日はニューヨークの画廊に通い、行かない日には自宅で画廊のウェブ更新や事務仕事をして、時間を見つけて自分の制作作業をして個展や展覧会に出す絵を描く生活、主婦業はしていなくても時間に追われてイライラしてしまう事もあった。

仕事の帰りに空腹でスーパーでクラスの為のサンドイッチの食材を購入するために並んでいる時。15人前ものサンドイッチを用意しても3人しか現れなかった時、絵を学びたいと思っている人は誰もいないみたいだと感じた時、睡眠時間が欲しい時。

私は今まで作品を制作する為に色々な事を犠牲にして自分の事を中心に生きてきた。自己顕示欲のアンテナを鋭く磨き弱みを見せずに自分を肯定してきた。しかし共同生活や慣れない絵の先生業での中には壁やストレスを感じ、その感情に自己嫌悪や憤りを抱く事もあった。そんな時は真っ白なキャンバスを眺める事、そして祈る事にした。神様はそんな時こそたくさんのギフトを下さった。

クロッキークラスの参加者が素敵な作品を描きワクワクする時、絵を描くのが怖くなくなったと言われた時、抽象画が少し解ってきたと言われた時、お昼に提供していたサンドイッチが美味しいと褒められた時、手作りケーキの美味しさに感動した時、皆様と一緒に大笑いした時。神様は色々な個性的で素敵な人を送ってくださる。

昨年からクラスはオンラインになり、慣れない準備に時間がかかる事になった。久しぶりでワー大変だ!と思ったが、今まで以上の喜びも感じた。近くに住んでいても一度も来なかった人が来始めたり、ニュージャージーを離れた人が画面に現れたり、日本からの参加者もあったり、13年という経験も強みになった。オンラインでの一方通行を緩和させる為に1人づつ個人的にも声をかけたりしはじめた。何か好きな絵がありますか?なんで絵が嫌い?身体動かしてる?夕飯何作った?そんな会話は今ではとても楽しい。そして私の描く絵もカラフルになってきた。

 

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

 

82歳で救われた母と神様のご計画

2017年のイースターに82歳で洗礼を受けた私の母は、戦時中に子ども時代を送り、教師になり、結婚してからも3人の子供を育てながら、退職するまでずっと、元気で頑張りよく働きました。”神様が本当なら世の中に病気や戦争や不幸なことはないわ“とよく言っていました。

私たちがニュージャージーに住み始めたころには退職しており、父も亡くなっていたので、一人で何度も来てくれました。私と娘はクリスチャンでJCCNJに通っていたので、日曜日には私たちと一緒に教会に来て、教会の皆さんとも仲良くなり、こちらに来るたび教会に行くのを楽しみにしていました。

あるとき自転車で出かけた母は、教会の前を通りがかり、教会の扉が開いていて中に牧師先生が立っていらしたので、中に入ってお話をした。これが母が自分で教会に行き始めたきっかけです。NJの教会がとても楽しくて、自分も教会に行きたくなったそうです。毎週自転車でまじめに通い、教会であったことなどよく電話で話してくれました。

そのうち自転車で通うのが難しくなってきたので、もっと近くにある教会に行くようになりました。そこは、母が子供のころに近所の子供たちと行ったことがある教会でした。昔はアメリカ人の牧師さんがいて、子供たちが行くとお菓子をもらえたそうです。その教会に昔の同級生夫妻が他県から転入して来たりして、再会を喜んでいました。

そんな中、80歳の夏に突然片目が見えなくなり手術を受けました。81歳の秋には、年の近い叔母を病気で亡くしショックを受け、自分も転倒で骨折、手術、入院と辛いことが続きました。牧師先生や教会の方たちが祈り励ましお見舞いしてくださいました。それまで、教会に行くけれど洗礼は受けないと言っていた母でしたが、クリスチャンの同級生夫妻にも勧められて、洗礼を受けることを決めました。洗礼を受けてからも、病気や手術、ケガなどいくどもありましたが、そのつど皆さんに祈られて守られてきました。昨秋介護施設に入りましたが、その少し前まで、母は毎週教会に通っていました。自力で教会に通えなくなってからは近所の教会員の方が車に乗せてくださいました。

86歳になった母は、つい最近も誤嚥性肺炎で病院に運ばれましたが、回復して退院しました。今はコロナ禍で介護施設も面会ができませんが、母がこうして守られているのも、神様が母をご計画の中に入れてくださっているからだと思います。

もう50年以上前のことですが、東京でクリスチャンとなっていた父方の伯父から、九州のミッションスクールに赴任するので、東京から九州に引っ越す途中で私たちと会いたい、と連絡があり、家族5人で名古屋まで会いに行ったことがあります。

伯父の勧めで、父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせました。小学校時代の1年半あまりの教会の思い出が、20年以上たって私を洗礼に導いてくれました。その9年後に娘、19年後に夫、そして23年後に私の母が、クリスチャンになりました。神様のなさることは私の考えや時間を超えて実現するのだと知りました。

伯父には一度会ったきりです。自分のまいた種がこうしていくつもの実を結んだことを知らないまま、伯父ももう天に召されているかもしれないと思いますが、私のイエス様との出会いの出発点は伯父です。

私の周りには、妹弟をはじめまだイエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちに神様がどんなご計画を持っていらっしゃるか、私にはわかりませんが、一人でも多くの人がイエス様に出会い、重荷を下ろして平安をいただき、神の家族になるように、私も種をまいていきたいと思います。

 

“私は、あなた方のために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”(エレミヤ書29:11)

“神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙8:28)

「生かされている意味」

2011年3月11日に発生したあの東日本大震災から10年という年月が流れました。津波や原発事故など、かつてない被害をもたらし、その痛みは10年を経ようとする今も、多くの被災者やご遺族らの生活や心に残っていることと思います。日本から離れて暮らす私も、毎年3月11日が近づくにつれ、様々なことを思い巡らしながら、心がざわざわするような気持ちで過ごしていました。10年前のあの日、実際にあの場所にいて震災を体験してはいませんが、ふるさとを、そして多くの友人や知人を仙台に持つ者として、痛みと悲しみを心の片隅にしまいながら歩んで来たように思います。特に今年は世間で言われている「区切りの年」でもあるからでしょうか、自分の心に深く迫ってくるものがありました。【震災当時の話は2011年5月号の月報(http://jccofnj.org/「今が救いの時」/)に書かせて頂きましたので、もし宜しければご一読下さい。】

東日本大震災を思う時に、いつも頭に浮かぶのが、自分が子どもの頃に体験した宮城県沖地震(1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4、震度5の地震)のことです。もう40年以上前の出来事なので、細かいことは忘れているとは思うのですが、それでも私の中で今でも鮮明に覚えている光景であり、おそらく初めて私が「神様は本当に生きておられる!」と感じた経験でした。

6月の初夏、まだ外は明るく、いつもなら近所の友達と外で遊んでいる時間帯でしたが、その日に限ってなぜか家の中で一人で過ごしていました。夕方5時を少しを回った頃、小さな揺れ(震度2)を感じ、急いで家のベランダの扉を開けました。仙台は地震の多い地域なので、それが習慣になっていたのだと思います。外を見ても何事もない様子でしたので、そのまま扉の側に寄り添いながら、当時流行っていた消しゴムで遊び続けました。それから8分後、地響きのような「ゴーーー」と言う音が床の下から聞こえてきたかと思うと、カタカタと電気の傘が音を立てて左右に大きく揺れ動き、瞬く間に家の中がぐわんぐわんと揺れ出しました。それはまるで船の中にいるかのよう(子どもの頃によく乗った青函連絡船が悪天候の中、大波を受けて大きく揺れる感覚)でした。そして、「あっ!」と思った瞬間には(スローモーションがかかったような長い時間にも感じられたのですが)目の前にあったタンスと直ぐ後ろにあった本棚が倒れ、私の上に覆い被さってきたのです。「下敷きになる!」と心の中で叫び、目を思いっきりつぶりました。おそらく揺れがおさまってからだと思うのですが、恐る恐る目を開けた私の前に見えたのは、タンスから出たいくつもの引き出しでした。そして、頭にも体にも物が当たっておらず、何の痛みがないことにも気がつきました。先に倒れたタンスの中から飛び出した引き出しがタンスを支え、その後に私の背後にあった本棚がタンスの上に倒れてきたのです。私は倒れたタンスと本棚の下にぽっかりとできた不思議な三角形の空間にうずくまっていました。まるで誰かが大きな腕を広げて私をすっぽりと包んで守ってくれたかのようでした。それから静かに体をねじりながら、開いていたベランダの扉から外に出ることができました。怪我と言えば、壁に掛かっていた鏡が割れて落ちてきた時に足を切ったくらいで、近所に住む友達のお母さんが直ぐに手当をしてくれました。近所の人達とも安否の確認をし合ったのですが、私が抜け出した三角地帯を何人もの人が見にやって来て、目を丸くして驚いていたことを思い出します。後から自分で見てもゾッとするような光景でした。「もしあの時に前震がなければ、ベランダの扉を開けることはなかっただろうし、扉に近い所に移動することもなかった。あの場所に移動していなければ、別の本棚が自分の目の前に倒れてきて下敷きになっていたかもしれないし、テレビや水槽が飛んできて大怪我をしていたかもしれない。扉が開かず、家の中に閉じ込められたままになっていたかもしれない。。。」などと様々な思いが次から次へと走馬灯のように私の脳裏を駆け巡って行きました。そして「すべて神様が導いて守ってくれたんだ。」と思いました。

地震発生後は電話が通じるはずもなく、両親と連絡を取ることはできませんでした。停電によって交通機関も乱れ、激しい交通渋滞が発生したため、両親が家に辿り着いたのはかなり遅い時間になってからだったと思います。殆どの家具が倒れ、あらゆる物が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった真っ暗な家の中で、ろうそくの小さな火の元で両親から聞いたのは「神様が守って下さった。」という言葉でした。地震が起きた時、父は会社の倉庫に行っていたそうです。倉庫には何百個という重い機材が入った大きな箱が積み上げられていました。その箱の山が地震の揺れによって崩れ、倉庫の真ん中に立っていた父を目掛けるように四方八方から飛んできたのですが、父が立っていた所だけぽっかりと穴が空いたようになって、上から落ちてきたいくつもの箱が父の足の10センチ四方手前でピタッと止まったと言うのです。その同じ時刻に、仕事帰りの母は仙台駅近くのデパートに寄っていました。前震があった後にデパートから出ようとして正面玄関を通った時に大きな揺れがあり、高い天井から落ちてきた大きなガラスが割れる音を背中に聞きながら外に逃げ出すことができたそうです。あと1秒遅くあの場所を通っていれば、大量のガラスの破片を頭に浴びていたかもしれません。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇5~8節(聖書)

人生において、誰もが「ただの偶然」とは思えないような出来事を経験することがあるかもしれません。私はあの日、自分自身の体験を通して、また両親が体験した話を聞いて「これは単なる偶然ではない。神様は本当に生きておられ、私達のことを心に留められ、導いて下さる方である。」ことを確信しました。そして、神様が私を守り生かされたことの意味、自分が生きていることの意味を考えるようになりました。

10年前の震災では本当にたくさんの方が命を落とされました。おそらく多くの方がそう思われたように「神様がいるのなら、どうしてあのようなことを許されたのだろう?」と私自身も幾度となく自問しました。私には100%の答えが与えられている訳ではありませんが、今わかることは、神様は人間が悲しむことを望んでおられないということ、私達の痛みをご存知であり(神様ご自身も愛する我が子を十字架の死に至らせるために、深い痛みと苦しみを経験されたのですから)その痛みを癒し慰めて下さるお方だということです。たとえ今、苦しみや試練の中を通っているとしても、神様はその重荷を共に背負って歩んで下さるお方です。そして、私達一人一人のために素晴らしい計画を持っておられ、すべてを最善へと導かれると約束して下さっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節(聖書)

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」コリント人への手紙 第二1章4節(聖書)

私達が人生の歩みの中で様々な苦難に直面するのは、私達がかつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じように、苦難の中にいる人々を慰めるためなのかもしれません。その慰めの中心には、主イエス·キリストがおられます。イエス様はあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。私も主から慰めを受けた者として、周りの方々の心に寄り添い、慰め励ます者とさせて頂きたいと願っています。また、神様に助けられ生かされた者として、神様が自分に与えて下さった使命を全うするために歩み出して行きたいと思います。