<牧師室より>2021年6月「感謝しよう」

昨年の終わり頃から始まって、今年になって大統領が代わってから本格化したワクチン接種。3月ごろからは多くの人々に行き渡るようになってきて、5月には一気にその効果が出てきたのでしょうか、規制が緩和されていく中、NJ州の感染者数は1ヶ月で5分の1に。ほぼ規制も解除され、日常が戻ってくるのでは、と期待が広がっています。最新の技術でスピード承認されたことなど、心配がないわけではないですが、このワクチンの効果は本当にすごいなあと思います。

考えてみたら、私たちは子どもの頃からたくさんのワクチン接種を受けてここまできました。天然痘も、結核も、狂犬病も、はしかやインフルエンザ、ポリオ、ジフテリア、黄熱病、日本脳炎、B型肝炎、破傷風も、まだまだ色々ありますが、ワクチンがあるから守られている、というところがあります。

でも、考えてみれば、私たちの体の中で私たちを守っているのはワクチンではなくて、免疫なんですね。私たちの中に元々あった免疫力がワクチンによって呼び覚まされて、私たちを守っているのですね。真摯に研究を続けてこられた科学者の皆さんの努力に感謝すると共に、私たちのうちに免疫を与えてくださった神様にも感謝します。

「高ぶりが来れば、恥もまた来る、 へりくだる者には知恵がある。」(箴言11:2)

信仰と科学は対立的に説明されるときもあります。教会が科学者たちの研究の成果を軽んじた時代もありました。今でも科学を否定するのがクリスチャンの信仰だと思っている方々もおられます。しかし、科学は元々、神が造られたこの世界をより深く理解するために発展してきたもの。神様は科学も用いて、私たちを癒し、生かし、支えてくださるのだと思います。そのための道具です(だからこそ、科学が神にとって代わってしまってはいけないのですが・・・)。私たちはこのコロナ禍の中で、テクノロジーの助けをもらって、教会の集まりを続けてきました。公衆衛生学や疫学によって、どのように集まることができるかを教えてもらいました。そして、今、ワクチンの効果で再び自由に集まることができるのではないか、というところまで来ました。本当に多くの人々の働きに支えられています。科学者の皆さんの真摯な研究に対して、本当に謙虚な気持ちをもって、歩ませていただきたい。今、1年あまり続いた自粛生活から、ちょっと解放された気持ちになって、そんなことを思わされています。

自己顕示欲の絵描き、クロッキー教室 

23年前の個展がきっかけで渡米する事になった。その頃の国際電話の料金は高額だったし、日本のテレビ番組は朝夕に1時間づつだけの放映だった。インターネットは通じていても日本語でのコミュニケーションはなく、私が当時通っていた語学学校では「Only English」と英語での会話を推奨されていて、日常生活での日本語にとても飢えていた。ニューヨークに来て初めて見つけたアパートのすぐそばに偶然にも日米バイリンガルの教会があり、学生時代以来の日曜日に行くようになり、そして礼拝後は教会でランチを食べて帰るのが習慣になっていた。ランチはドーナッツの日もあるが時々手作りカレーの日もあり、とても嬉しかった。幼稚園の時に暗唱した「主の祈り」があったり、中学1年の時に通っていたクリスチャンスクールでの讃美歌を聞いた時は懐かしさもあり、涙が出そうになった。

私が、ニュージャージー日本語教会に来たのは新緑の美しい季節だった。ニューヨークへの無料送迎があると聞き、週末にお隣の州まで行くことが出来るという事も楽しみとなった。

ニューヨークでの生活もだいぶ落ち着いてきたと同時にこの刺激的な都会の生活をこの勢いで続ける現実の厳しさも実感できるようになった頃だった。ニュージャージーには充実した日本食スーパーがあると聞いても、一人暮らしの私にとってはマンハッタンの小さな日本食スーパーでの買い物で充分だったし、バスに乗って知らない土地に行くという事もおそろしかったので、川を渡ったニュージャージーという地域に行った事がなく4年が過ぎていた。

ニュージャージーの教会は私の中での教会とは全然違っていた。知っている讃美歌はひとつもなく、しかもギターや太鼓などの伴奏がつき、時には手拍子もでてきて愕然とした。しかも何曲も続く。今までは教会での讃美歌はオルガンかピアノでの静かな伴奏しか聞いたことがなかった。子供が多い地域だからしょうがないのかなあとも思いながら、歌詞を読みながら心を合わせようと努力していた。その頃にこの地域に住む男性と結婚をする事になり教会だけではなく私の知らない世界に飛び込む事になった。

結婚相手には中学生の娘さんがいた。どうやって会話が成り立つのかがわからず、英語で話してみると「日本語でいいよ」と短い返答がり、子供達は、お稽古事もお遊びもすべて親の送り迎えで移動している不思議な世界だった。お母さん達の会話には知らない単語が多く、パラマスパークがモールの名前でバンサンパークは公園だったり、8年生?シニア?ジュニア?サフモア?ベイビーシャワ?はじめて聞く言葉はどういう意味なんだろう。育児、セール、ダイエット、レシピ、お菓子、メイク、韓ドラ、その会話の中には私は入れなかった。スマホもないし慣れない土地での車の運転で買い物に出かけても道に迷い家に帰るのにもくたくたになった。

ぎこちない生活の中で気ままな独身生活が恋しくなり、月に一度はニューヨークの教会に行きたいと言い出して夫を付き合わせたりもした。自分の落ち着いた時間はどこにあるのだろうと地下のアトリエに籠る事が多くなっていた。

夫の仕事がどんなに遅くなっても娘は夕飯を食べるのを待つと言い、時には9時を過ぎても待つこともあった。そして毎日必ず夕飯の前には家族で「こうして3人で夕飯を食べれる事に感謝します。」と一緒に祈る。この祈りのおかげで少しづつ本物の家族っぽくなっていった。

母親らしい事は何もできない私が、教会の集まりに行った、奉仕をした、と娘に伝えるととても嬉しそうな顔をしてくれる。私だって皆様と交流はしたいのです。

教会にはイースター、感謝祭、愛餐会と色々な行事があり主婦の皆様はお得意の料理の持ち寄りで豪華な食事会になる。我が家は夫が料理担当なので私の出番はなくて良いのだが、家庭集会という平日の昼間にある集会にもレベルの高い手作りのご馳走とデザートがふんだんに並ぶ。もちろん持って来られない人は無くてもよいので、私は果物などを持参する事もあるのだが、だんだんと足が遠ざかっていった。

何か私にできる奉仕はないかと、牧師先生と相談して「絵のクラス」を初めてみるのはどうでしょうか?と提案してみた。牧師先生は自分は絵が苦手で子供の頃に評価された時の傷がまだあるという事だった。絵なんて面倒さくて描きたくない人が、楽しめるクラスを目指します。クロッキーとはフランス語で素描、短時間での描写ドローイングの事なのだが、抽象画あり空想画あり、色々な角度から絵を身近な楽しみとして生活に取り入れてもらいたいと思う。1時間ほどの実技の後には牧師先生による聖書のお話がある。午前中のクラスで昼に終わるのだが、昼食は基本持って来ないで下さい、私がサンドイッチを作りますと張り切って2008年の7月に「ぐるぐるっと線を描いてみましょう」と5人の生徒でクロッキー教室は始まった。その中にはちょうど学校の休みだった娘もいた。

私は「先生」というキャラクターではない。学生時代美術の教育実習の時にオートバイで中学校に行って教頭から激怒されたり、美大受験に何度も失敗した経験もある。個性が強すぎると会社をクビになった事もある。だから絵が思うように描けない気持ちはわかるし、それぞれの感性にあった絵を描く楽しさを伝えられるような気がした。そしてこの地域において育児に追われるお母さん達が気分転換になったり、転勤でアメリカ来て生活に慣れない人に交流の場所になったり、牧師先生の聖書の言葉で元気になったり、教会へ興味を持ってくれたら良いなあと理想は高くなった。自分が子供の頃転校ばかりしている時に「描く」という事で自分の気持ちと向かい合えた事や、教会に行き神様に出会い、そして素敵な人達に沢山出会えてこんなに世界が広がって楽しくなったよという経験をこの地域の皆様に伝えたいと思ったからだ。

小さい子供達と交わる機会が今までほとんどなかった私だが、クロッキー教室に子供達が来るのが楽しみになった。子供達はお母さんと一緒に絵を描くのもよし、寝ているのもよし、時には子供達がモデルになった。

赤ちゃんは首がしっかりするまでは抱っこする時に気をつけることや子供はよく熱を出すのだという事も知り、お母さんという仕事の大変さと尊さを身近に感じることができた。驚いたのはお母さんの中にはパスポートの更新の時にしかニューヨークへ行かない人もいた。こんな皆様にニューヨークの活気あるアートの世界美術館や画廊の話も伝えたいとも思った。

メンバーも変わりながら何年かが過ぎた。電車の中で知らない子供に向かって笑顔で話しかけたり、お母さんに向かって「おいくつですか?」なんて聞いている自分にびっくりした。以前の自分には想像もできない事だ。

そうは言っても週に2日はニューヨークの画廊に通い、行かない日には自宅で画廊のウェブ更新や事務仕事をして、時間を見つけて自分の制作作業をして個展や展覧会に出す絵を描く生活、主婦業はしていなくても時間に追われてイライラしてしまう事もあった。

仕事の帰りに空腹でスーパーでクラスの為のサンドイッチの食材を購入するために並んでいる時。15人前ものサンドイッチを用意しても3人しか現れなかった時、絵を学びたいと思っている人は誰もいないみたいだと感じた時、睡眠時間が欲しい時。

私は今まで作品を制作する為に色々な事を犠牲にして自分の事を中心に生きてきた。自己顕示欲のアンテナを鋭く磨き弱みを見せずに自分を肯定してきた。しかし共同生活や慣れない絵の先生業での中には壁やストレスを感じ、その感情に自己嫌悪や憤りを抱く事もあった。そんな時は真っ白なキャンバスを眺める事、そして祈る事にした。神様はそんな時こそたくさんのギフトを下さった。

クロッキークラスの参加者が素敵な作品を描きワクワクする時、絵を描くのが怖くなくなったと言われた時、抽象画が少し解ってきたと言われた時、お昼に提供していたサンドイッチが美味しいと褒められた時、手作りケーキの美味しさに感動した時、皆様と一緒に大笑いした時。神様は色々な個性的で素敵な人を送ってくださる。

昨年からクラスはオンラインになり、慣れない準備に時間がかかる事になった。久しぶりでワー大変だ!と思ったが、今まで以上の喜びも感じた。近くに住んでいても一度も来なかった人が来始めたり、ニュージャージーを離れた人が画面に現れたり、日本からの参加者もあったり、13年という経験も強みになった。オンラインでの一方通行を緩和させる為に1人づつ個人的にも声をかけたりしはじめた。何か好きな絵がありますか?なんで絵が嫌い?身体動かしてる?夕飯何作った?そんな会話は今ではとても楽しい。そして私の描く絵もカラフルになってきた。

 

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

 

82歳で救われた母と神様のご計画

2017年のイースターに82歳で洗礼を受けた私の母は、戦時中に子ども時代を送り、教師になり、結婚してからも3人の子供を育てながら、退職するまでずっと、元気で頑張りよく働きました。”神様が本当なら世の中に病気や戦争や不幸なことはないわ“とよく言っていました。

私たちがニュージャージーに住み始めたころには退職しており、父も亡くなっていたので、一人で何度も来てくれました。私と娘はクリスチャンでJCCNJに通っていたので、日曜日には私たちと一緒に教会に来て、教会の皆さんとも仲良くなり、こちらに来るたび教会に行くのを楽しみにしていました。

あるとき自転車で出かけた母は、教会の前を通りがかり、教会の扉が開いていて中に牧師先生が立っていらしたので、中に入ってお話をした。これが母が自分で教会に行き始めたきっかけです。NJの教会がとても楽しくて、自分も教会に行きたくなったそうです。毎週自転車でまじめに通い、教会であったことなどよく電話で話してくれました。

そのうち自転車で通うのが難しくなってきたので、もっと近くにある教会に行くようになりました。そこは、母が子供のころに近所の子供たちと行ったことがある教会でした。昔はアメリカ人の牧師さんがいて、子供たちが行くとお菓子をもらえたそうです。その教会に昔の同級生夫妻が他県から転入して来たりして、再会を喜んでいました。

そんな中、80歳の夏に突然片目が見えなくなり手術を受けました。81歳の秋には、年の近い叔母を病気で亡くしショックを受け、自分も転倒で骨折、手術、入院と辛いことが続きました。牧師先生や教会の方たちが祈り励ましお見舞いしてくださいました。それまで、教会に行くけれど洗礼は受けないと言っていた母でしたが、クリスチャンの同級生夫妻にも勧められて、洗礼を受けることを決めました。洗礼を受けてからも、病気や手術、ケガなどいくどもありましたが、そのつど皆さんに祈られて守られてきました。昨秋介護施設に入りましたが、その少し前まで、母は毎週教会に通っていました。自力で教会に通えなくなってからは近所の教会員の方が車に乗せてくださいました。

86歳になった母は、つい最近も誤嚥性肺炎で病院に運ばれましたが、回復して退院しました。今はコロナ禍で介護施設も面会ができませんが、母がこうして守られているのも、神様が母をご計画の中に入れてくださっているからだと思います。

もう50年以上前のことですが、東京でクリスチャンとなっていた父方の伯父から、九州のミッションスクールに赴任するので、東京から九州に引っ越す途中で私たちと会いたい、と連絡があり、家族5人で名古屋まで会いに行ったことがあります。

伯父の勧めで、父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせました。小学校時代の1年半あまりの教会の思い出が、20年以上たって私を洗礼に導いてくれました。その9年後に娘、19年後に夫、そして23年後に私の母が、クリスチャンになりました。神様のなさることは私の考えや時間を超えて実現するのだと知りました。

伯父には一度会ったきりです。自分のまいた種がこうしていくつもの実を結んだことを知らないまま、伯父ももう天に召されているかもしれないと思いますが、私のイエス様との出会いの出発点は伯父です。

私の周りには、妹弟をはじめまだイエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちに神様がどんなご計画を持っていらっしゃるか、私にはわかりませんが、一人でも多くの人がイエス様に出会い、重荷を下ろして平安をいただき、神の家族になるように、私も種をまいていきたいと思います。

 

“私は、あなた方のために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”(エレミヤ書29:11)

“神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙8:28)

<牧師室より>2021年5月号「教会って何?」

みなさん、「教会」といえば、どんなことを思い浮かべますか?

大聖堂、トンガリ屋根の上に十字架がついている、きれいなステンドグラス・・・などを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?しかし、実は、それは「教会堂」であって、「教会」ではありません。聖書で「教会」というと、「人々の集まり」のことを指しているのです。美しい教会堂、それはすばらしいものです。しかし、そこにどんな人々が集まり、どんなことがなされているのか、の方がずっと大切なのです。

イエスは、弟子のペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白をしたときに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われました。ここで、イエスが「わたしの教会」と言われたのは、建物のことではなく、人々の集まりのことでした。そして、「教会堂」は教会の人々が集まり、また地域に対して働きを進めて行くために用いられていくものです。

わたしたちの「教会」が創立してから33年が経ちましたが、そのスタートの頃からずっと「教会堂」を求めてきました。わたしたちの地域で新しく教会堂を建てる場合には、クリアしなければならない規制が多くて、「土地を買って、そこに教会堂を建てて・・・」というプロセスは本当に困難です。そこで、すでに教会堂として使われている建物を購入することを目指して、積立をしながら、候補物件を探しています。先月、一つの教会堂候補物件が売りに出されました。わたし自身がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになってから26年半になりますが、今までの経験の中で、一番わたしたちにふさわしいと思われるような建物でした。ですから、その建物を買うことができればと思いました。あまり時間がありませんでしたが、共に祈りました。購入のためのオファーも入れました。しかし、残念ながら、わたしたちはこの教会堂を手に入れることはできませんでしたが、そのプロセスの中でずっと思わされていたことがありました。「教会堂」も大切だけれども、「教会」がもっと大切だ、ということです。もしも、この教会堂がわたしたちに与えられたとしても、「教会」が「教会」として更に整えられなければ、神様は喜ばれない、神様の栄光は現されない、そう思わされてきました。ですから、「神様、教会堂を与えて下さい。そして、そのプロセスの中で、教会を教会として整え、守り導いて下さい」と祈らないではいられませんでした。

今回の候補物件は、他の教会が買うことになりました。それはそれで、神様の働きのために用いられるのですから、わたしたちにとっては喜ぶべきことです。そして、またわたしたちは、神様が教会堂取得のために道を開いてくださることを祈りつつ、「教会」が更に整えられ、成長していくようにと願っています。一歩一歩の歩みの中で、神様が素晴らしいことをしてくださいますように。みなさんも、どうか覚えてお祈り下さい。

「生かされている意味」

2011年3月11日に発生したあの東日本大震災から10年という年月が流れました。津波や原発事故など、かつてない被害をもたらし、その痛みは10年を経ようとする今も、多くの被災者やご遺族らの生活や心に残っていることと思います。日本から離れて暮らす私も、毎年3月11日が近づくにつれ、様々なことを思い巡らしながら、心がざわざわするような気持ちで過ごしていました。10年前のあの日、実際にあの場所にいて震災を体験してはいませんが、ふるさとを、そして多くの友人や知人を仙台に持つ者として、痛みと悲しみを心の片隅にしまいながら歩んで来たように思います。特に今年は世間で言われている「区切りの年」でもあるからでしょうか、自分の心に深く迫ってくるものがありました。【震災当時の話は2011年5月号の月報(http://jccofnj.org/「今が救いの時」/)に書かせて頂きましたので、もし宜しければご一読下さい。】

東日本大震災を思う時に、いつも頭に浮かぶのが、自分が子どもの頃に体験した宮城県沖地震(1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4、震度5の地震)のことです。もう40年以上前の出来事なので、細かいことは忘れているとは思うのですが、それでも私の中で今でも鮮明に覚えている光景であり、おそらく初めて私が「神様は本当に生きておられる!」と感じた経験でした。

6月の初夏、まだ外は明るく、いつもなら近所の友達と外で遊んでいる時間帯でしたが、その日に限ってなぜか家の中で一人で過ごしていました。夕方5時を少しを回った頃、小さな揺れ(震度2)を感じ、急いで家のベランダの扉を開けました。仙台は地震の多い地域なので、それが習慣になっていたのだと思います。外を見ても何事もない様子でしたので、そのまま扉の側に寄り添いながら、当時流行っていた消しゴムで遊び続けました。それから8分後、地響きのような「ゴーーー」と言う音が床の下から聞こえてきたかと思うと、カタカタと電気の傘が音を立てて左右に大きく揺れ動き、瞬く間に家の中がぐわんぐわんと揺れ出しました。それはまるで船の中にいるかのよう(子どもの頃によく乗った青函連絡船が悪天候の中、大波を受けて大きく揺れる感覚)でした。そして、「あっ!」と思った瞬間には(スローモーションがかかったような長い時間にも感じられたのですが)目の前にあったタンスと直ぐ後ろにあった本棚が倒れ、私の上に覆い被さってきたのです。「下敷きになる!」と心の中で叫び、目を思いっきりつぶりました。おそらく揺れがおさまってからだと思うのですが、恐る恐る目を開けた私の前に見えたのは、タンスから出たいくつもの引き出しでした。そして、頭にも体にも物が当たっておらず、何の痛みがないことにも気がつきました。先に倒れたタンスの中から飛び出した引き出しがタンスを支え、その後に私の背後にあった本棚がタンスの上に倒れてきたのです。私は倒れたタンスと本棚の下にぽっかりとできた不思議な三角形の空間にうずくまっていました。まるで誰かが大きな腕を広げて私をすっぽりと包んで守ってくれたかのようでした。それから静かに体をねじりながら、開いていたベランダの扉から外に出ることができました。怪我と言えば、壁に掛かっていた鏡が割れて落ちてきた時に足を切ったくらいで、近所に住む友達のお母さんが直ぐに手当をしてくれました。近所の人達とも安否の確認をし合ったのですが、私が抜け出した三角地帯を何人もの人が見にやって来て、目を丸くして驚いていたことを思い出します。後から自分で見てもゾッとするような光景でした。「もしあの時に前震がなければ、ベランダの扉を開けることはなかっただろうし、扉に近い所に移動することもなかった。あの場所に移動していなければ、別の本棚が自分の目の前に倒れてきて下敷きになっていたかもしれないし、テレビや水槽が飛んできて大怪我をしていたかもしれない。扉が開かず、家の中に閉じ込められたままになっていたかもしれない。。。」などと様々な思いが次から次へと走馬灯のように私の脳裏を駆け巡って行きました。そして「すべて神様が導いて守ってくれたんだ。」と思いました。

地震発生後は電話が通じるはずもなく、両親と連絡を取ることはできませんでした。停電によって交通機関も乱れ、激しい交通渋滞が発生したため、両親が家に辿り着いたのはかなり遅い時間になってからだったと思います。殆どの家具が倒れ、あらゆる物が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった真っ暗な家の中で、ろうそくの小さな火の元で両親から聞いたのは「神様が守って下さった。」という言葉でした。地震が起きた時、父は会社の倉庫に行っていたそうです。倉庫には何百個という重い機材が入った大きな箱が積み上げられていました。その箱の山が地震の揺れによって崩れ、倉庫の真ん中に立っていた父を目掛けるように四方八方から飛んできたのですが、父が立っていた所だけぽっかりと穴が空いたようになって、上から落ちてきたいくつもの箱が父の足の10センチ四方手前でピタッと止まったと言うのです。その同じ時刻に、仕事帰りの母は仙台駅近くのデパートに寄っていました。前震があった後にデパートから出ようとして正面玄関を通った時に大きな揺れがあり、高い天井から落ちてきた大きなガラスが割れる音を背中に聞きながら外に逃げ出すことができたそうです。あと1秒遅くあの場所を通っていれば、大量のガラスの破片を頭に浴びていたかもしれません。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇5~8節(聖書)

人生において、誰もが「ただの偶然」とは思えないような出来事を経験することがあるかもしれません。私はあの日、自分自身の体験を通して、また両親が体験した話を聞いて「これは単なる偶然ではない。神様は本当に生きておられ、私達のことを心に留められ、導いて下さる方である。」ことを確信しました。そして、神様が私を守り生かされたことの意味、自分が生きていることの意味を考えるようになりました。

10年前の震災では本当にたくさんの方が命を落とされました。おそらく多くの方がそう思われたように「神様がいるのなら、どうしてあのようなことを許されたのだろう?」と私自身も幾度となく自問しました。私には100%の答えが与えられている訳ではありませんが、今わかることは、神様は人間が悲しむことを望んでおられないということ、私達の痛みをご存知であり(神様ご自身も愛する我が子を十字架の死に至らせるために、深い痛みと苦しみを経験されたのですから)その痛みを癒し慰めて下さるお方だということです。たとえ今、苦しみや試練の中を通っているとしても、神様はその重荷を共に背負って歩んで下さるお方です。そして、私達一人一人のために素晴らしい計画を持っておられ、すべてを最善へと導かれると約束して下さっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節(聖書)

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」コリント人への手紙 第二1章4節(聖書)

私達が人生の歩みの中で様々な苦難に直面するのは、私達がかつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じように、苦難の中にいる人々を慰めるためなのかもしれません。その慰めの中心には、主イエス·キリストがおられます。イエス様はあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。私も主から慰めを受けた者として、周りの方々の心に寄り添い、慰め励ます者とさせて頂きたいと願っています。また、神様に助けられ生かされた者として、神様が自分に与えて下さった使命を全うするために歩み出して行きたいと思います。

<牧師室より>2021年4月号「この国で共に歩むこと」

ハッピー・イースター!

厳しかった冬、地面を覆っていた雪が融けて、色とりどりの花が目を楽しませてくれる季節になりました。春の訪れを告げるイースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。イエスは、私達にとって、最大の敵で、究極の敵であり、最後の敵である死を打ち破ってよみがえられました。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。」(第1コリント15:55)

しかし、私達の敵はそれだけではないですね。もしかしたらこちらの敵は更に巧妙かもしれません。それは、このイースターのお祝いに水を差すように、アメリカ広がっているアジア系の人々に対する嫌がらせやヘイトクライムです。私自身は人生の半分をアメリカで過ごしていますが、実際にそのような偏見で嫌な目にあったことはありませんし(忘れてしまった可能性はありますが・・・)、反対に多くの人々に助けられ、支えられて、ここまで来たことを感じています。しかし、それは単に私が恵まれていたというのもあるでしょうし、また、生活のほぼ全部の時間を日系コミュニティーの中で(私達の教会は決して人種や国籍で区分けをしているのではなく、「日本語」というコミュニケーションの手段で集まっていますが、実際にはアジア系のみなさんがほとんどです)過ごしているがゆえに、わからないのだと思います。実際、子どもたちに聞くと、少なからず、アジア系であるがゆえの差別や偏見を受けることもあるようです。この敵は、私達を分断させ、互いの間に不信感を植え付け、共に歩んでいたお互いが対立するように仕向けるのです。

このような時に、私達はどうすればいいのかと思います。他のマイノリティーの人々と連携をして声を上げることも必要かもしれません。差別や偏見の実態を明らかにして、問題の本質が何かを社会に問いかけることも必要でしょう。しかし、それと共に、聖書が語っていることを私達の現実に当てはめて実践していくことが大切だと思います。

「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 」「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:18&21)

偏見や悪意に対して、愛をもって答えていく、そこに私達は招かれています。問題から目をそらしてしまうのではなく、問題に目をつむって我慢してしまうのでもなく、問題のない世界に逃げ込んでしまうのでもなく、そして、また、ただ単に被害を声高に叫ぶことに終始するのでもなく、神の愛を頂いて、出ていって神の愛を伝えていくその使命に立たせていただこうではありませんか。

コロナで夫が重症化して受けた愛

 その日は突然やって来ました。2020年の年末も夫は建築の仕事に追われていました。

 夫の仕事場で2人体調が悪く休む様になり、年始早々に夫も咳が始まり、その後会った友人も具合が悪くなりました。そして私も熱が2日続き、次々に体調が悪くなるのを見て、これはコロナかもと思い1月4日の月曜日に私はコロナの検査を受けに行きました。行くのもしんどくて大変でしたが、Paramus BCC内のドライブスルーでやってる駐車場で、寒いのに年始から外でマスクと手袋をして、あちこちに立ってるスタッフ達を見て、何とも言えない感謝で感動しました。中にはご年配の方も働いておられました。リスクを追いながらー5℃の中、優しくテキパキと対応して下さり、Bergen County 在住者には無料で検査して下さいます。大家族には助かりました。帰って結果を家で待っていましたが、このしんどさはきっとコロナだと確信していました。身体中が悲鳴をあげる程痛かったのです。3時間後に電話がかかって来ました。予想通り陽性でした。

 家族6人をそれぞれの部屋で隔離させました。そして症状前に会っていた友人や義理姉夫婦に伝えてPCR検査に行ってもらいました。それがコロナの不安なところで、心配ばかりして精神的にも辛い日々でした。結果、次男と長女が陰性だったので、その日からグローブをし家族の食事を各ドア前に運んでくれ、薬を買いに行き、家事の全てをしてくれました。衛生上プラスチックフォークと紙皿を買って来てくれて一人でベッドの上で食べる食事。キッチンに行けばウィルスをまいてしまうので部屋にこもる2週間でした。家族に会えず最初はスープしか喉に通らず味覚と嗅覚を失い味気なく、まるで刑務所にでもいる様な気持ちになり涙が出て来ました。

 その週は毎日誰かのコロナ結果が出て、長男、末っ子、義理姉、友人2人も陽性結果でした。ものすごい感染力です。家族の中で同じ陽性でも咳が酷かったり、それぞれ症状が違い寝る時間も違ったので、主人、子供達4人共に各寝室から出ず、オンライン授業に切り替えてコロナ中も授業を受けていました。9歳の末っ子はママを1日に何十回、ハグもいっぱいしたい子なので良く一人で色々出来たなと思っていたのですが、彼自身もコロナが怖いというのをニュースで聞いていたので近づきませんでした。

 そんな中、主人がERに行きたいと言いました。咳が酷く40℃以上(105°F)の熱が3日続き、ドクターとのZoomで処方の薬を頂いていましたが、全く効きませんでした。救急車は高額なので長男と私でハッケンサック病院に連れて行き、付き添いはコロナで入れないので外で別れをしました。もう咳がひっきりなしに止まらない中、家族を頼むと言った夫の言葉にお互い涙ぐんでしまいました。待合室は真っ白でビニールが一面にかかり誰も入れず異様な雰囲気の写真が送られて来ました。コロナウィルスが目に見えたらいいのに、一人で心細いだろうな、と思いながら家に着くと他の子供達も心配して寝ずに待っていました。『とってもいい病院だから大丈夫だよ。もう寝よう。神様が守ってくれるよ』と言い聞かせて私も今夜は寝れそうだと思っていました。この1週間、自分も完治してない所に、主人を夜中2時間おきに様子を伺ったり薬の時間だったり、コロナにかかった友人達のことを思うと全く寝れてなかったのです。倦怠感もあり、動くのもやっとで自分も寝たきりでした。

 ベッドに入った所に主人から連絡があり『レントゲン撮った結果、返されることになった。迎えに来て欲しい』と。またすぐ車で迎えに行き、家でのコロナとの闘いとなりました。多くの入院患者がいて、かなり重症でないと入院させてもらえないのです。

 子供達が学校やスポーツに行ってなかったので、順番に知れ渡り、近所の人や教会の人が多くのメッセージ、励まし、手作りの大ご馳走、お花、果物、レストランのギフトカード等届けて下さり、祈って下さり、愛を沢山受けて辛い時期を助けて頂きました。必要以上のものを満たして下さり、誰も偏見の目で見ることはなく、それどころか、これほど多くの方に祈ってもらったのは初めてで、夫も自分自身も祈ることしか出来ないので神様と近い関係にいられて全てをお任せしていました。そしてその中で最も神様が働いて下さったのは、夫は10人兄弟でアイルランドに育ち22歳からアメリカに住んでるので長い間、疎遠になっていた兄姉や小さい頃遊んでた友人が連絡してくれました。きっかけを作って下さったのです。

 喜びもつかの間、更に事態は悪くなる一方でした。ERに行って戻って来た3日後の午後、呼吸困難になり、毎日測っていた酸素数値が82になり、救急車を呼びその時はあっという間に連れられ、お別れも出来ないまま入院になりました。もうコロナ症状発症から10日経っていました。今まで家族全員が風邪を引いてても元気な夫。疾患もなくタバコも私が長男を妊娠した23年前に辞めていました。身体資本の建築業で55歳。そんな夫が重症化するとは誰もが予想しておらず、ナースにもそれがコロナの怖い所だと言われました。入院次の日に抗体のある輸血をするとドクターから電話があり、驚きました。そこまで悪いのか?日本語で検索してもそんな新しい治療はされておらず、日本の従姉妹のナースに聞いてもやってないと言われ、また不安になる中、主人から輸血直前に連絡があり、ナースが『マッチングするのが難しい中、こんな大きなバッグが与えられて貴方は本当にラッキー』と言われたと聞いて、まさに多くの方の祈りが届いて神様が与えて下さったと思わされました。

 日本ではコロナになってから針を刺すのに抵抗があり、献血者が少ないとニュースを目にしました。それもそうです。コロナになった方が献血してくださった方がいたとは凄い事ですよね。友人のお父さんで抗体輸血plasma infusion受けた方が抗体輸血3日後には凄い成果が出て元気になって1週間後に退院したそうです。それを聞いて安心して期待していましたが、裏腹に、どんどんその後状態は悪くなり、2日目にはトイレに行ったら酸素数値が下がり、座るのも危険な状態で常にうつ伏せでいなければなりませんでした。酸素マスクは常に付けたままで周りには他の患者が咳やうめき声が聞こえ、ナースは走り回っています。コロナ病棟にいること事態怖かっただろうと思います。そしてこの日に主人は目を閉じたら明日は起きられるか分からないと思ったそうです。死はそこまで来ていました。3日目には丸一日連絡が途絶え、夜やっとメッセージが届いたと思ったら一言 “ tough day” ドクターからもこの日は連絡がありませんでした。

 私は寝ることが出来ず、明け方から物凄い恐怖に襲われました。夫や私の家族には心配かけるので言えず、錦織牧師先生に全ての状態を伝える事が出来て一緒に祈って下さったのが大きな支えでした。この朝ドクターと話すことが出来たものの、後2日この状態が続けばライフサポートが必要になる。人工呼吸器です。肺の全体にコロナがいるとの事でした。夫を失うかもしれない恐れ、不安、心配で胸が痛く、締め付けられ、余りにも早い展開に心がついて行けずうろたえるばかりでした。この日1月12日は結婚24周年記念日でした。うつしてしまった友人の誕生日でもありました。彼女は自分が感染したことで、小さな子どもたちも家からオンライン授業を受けなければならず大変そうでした。そして、もう一人のかかった友人も赤ちゃんがいて授乳と食事作りとで心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。色々な想いがよぎり、辛く苦しい日になりました。そんな中、主人の姉も救急車で運ばれました。結局検査して5時間後にまた返されて夜中に迎えに行きました。もうこれ以上辛いことがないだろうと思うと次の日には更なる事が起こり、自分ではどうしようも出来ないので私のストレスはマックス。精神的に参っていました。助けられたのは『祈ってるよ』というテキストメッセージがアメリカだけではなく日本、アイルランド、イタリアから届いたことでした。神様に家族で祈る日々が続きました。そして祈りは天に届き、夫の命を救って下さいました。体がコロナに勝ち始めたのです!輸血もきき始めた様です。入院12日間後、ナースの拍手と共に車椅子で退院する事が出来ました。ナースの優しさ、素晴らしさは入院中も聞いていたので感謝で胸がいっぱいでした。

Welcome back サインが書かれた家族の待つ家に帰ってきました。7kg痩せて声も小さく弱々しくI am a survivor  と夫は涙しながら病院での事をゆっくり話してくれました。子供4人達もハグしてお父さんの居なかった間どうだったかの話をしました。娘は大泣きしていました。今までの緊張の糸が切れた様でした。驚く事にコロナ発症から8週間、肺のダメージを受けたので未だ完治はしておらず抗生物質を飲んで居ますが、ゆっくりと回復しています。他のかかったメンバーは皆、治りました。コロナの中も家族を強めて下さり、友人らの愛を教えて下さり健康の大切さを分からせて下さり感謝します。私達はコロナに負けない。明日はどうなるか分からない今日を大切にし、コロナの中、千羽鶴を折ってくれた友人夫婦の様に愛を行動で表わせる人になりたいです。

 

『恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから、わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。』(イザヤ41:10)

 

毎晩子供と一緒に手を合わせ世界中のみんなの心身の健康をお祈りしています。

 

<牧師室より>2021年3月号「進み寄って、並んで行きなさい」

3月11日は東日本大震災からちょうど10年の日です。3月7日にはわたしたちの日曜日の礼拝を東日本大震災のメモリアル礼拝としてささげます。この日を覚えて、大切な方、大切なものをなくされた方々、今も痛みの中に歩んでおられる方々のために慰めをお祈りします。

メモリアル礼拝に備えて当事者の方々、支援活動をされている方々からのメッセージが届き始めていますが、それに触れる時に、次の聖書の言葉が心に響いてきました。

 

「進み寄って、・・・並んで行きなさい」(使徒行伝8:29)

 

自分たちも被害を受け、多くのものを失った人々や教会が、この聖書の言葉の通りの行動をして、地域の人々のところに進み寄って、歩調を合わせて、並んで歩んでおられます。津波や原発事故で建物を失い、新しく建てられた教会堂に、地域の人々をお招きしている教会、また、出ていって復興住宅の集会所で人々と触れ合う集まりをもっておられる教会、地域のリーダーと手を携えて人々に仕えている教会、今の新型コロナウィルス感染拡大によって働きが制限されている中でもなんとかして、地域に仕える働きをされている皆さんの姿に、心揺すぶられる思いがします。わたしたちもそこに歩調を合わせて、並んで歩んでいくようにと招かれていることを感じています。

 

「10年間、このメモリアル礼拝を続けていこう」と語ってきました。今年で区切りをつけて、わたしたちの教会の東日本大震災のメモリアル礼拝はこれが最後になりますが、これからも、続けて祈っていきましょう。続けて心を向けていきましょう。

 

3月7日、メモリアル礼拝は午前10時から、Zoomを使ってオンラインでささげます。ぜひ、皆さんご参列ください。Zoomのアクセスのリンク等、ご希望の方は、pastor.jccofnj@gmail.comまでお問い合わせください。共に祈りをささげましょう。

神さまからのプレゼント〜父との祈り〜

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。

私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。

しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。

父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。

あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。

また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。

そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。

―――――

両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。

旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。

しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。

そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。

私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。

旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。

―それが父の最後の誕生日となりました。

5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。

私はひと月強、実家に滞在しました。

初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。

頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。

ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。

その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。

両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。

もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。

父は、“はい”と答えました。

“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。

父は、始めはただ、聞いていました。

少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。

普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。

また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。

その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。

私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。

私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。

私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。

聖霊様のご臨在を実感しました。

何を祈ったのか、全く覚えていません。

ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。

延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。

私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。

これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。

―――――――――

一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。

母は、本当に突然だったと言っていました。

母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。

父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。

どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。

詩篇236

命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

アーメン

2021年2月 <牧師室より> 「心を合わせて共に祈る」

皆さんは「祈り」に対してどんな印象を持っておられますか?就職活動での「お祈りメール」のように、あいさつ程度で実体のないものという感じでしょうか?または、「困ったときの神頼み」のような、ろくに自分の努力もしないで、祈るなんて神にすがっている哀れな人々のすることだと思われるでしょうか?

しかし、祈りは、わたしたちの届かないところにも届く神の御手を動かす力あるものなのです。

わたしたちの教会は「彼らはみな、・・・共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒行伝1:14)という聖書の言葉を頂いて、新しい年をスタートしました。わたしたちは「共に祈ること」「心を合わせて祈ること」そして、「ひたすら祈ること」を神さまからのチャレンジとしていただいたのです。

そんな新しい年をスタートしてまもなく、わたしたちはその「共に心を合わせて、ひたすら祈る」ということを、実際に、具体的に経験することになりました。教会に集う方のご家族が新型コロナ感染で入院されたのです。持病もなく健康な50代の男性です。でも、息苦しさを覚え、血中酸素濃度も下がって、入院したくてもなかなか入院させてもらえないこのアメリカの国で、入院となりました。なかなか病状が回復しない、いや、悪化していく中で、ほんとうにわたしたちは、共に祈ること、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることに導かれていきました。感染拡大防止のために昨年12月から再度完全にオンライン化した教会、でも、この共に祈る、ということは生き続けていました。そして、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることを、このことを通して経験させていただいたのです。聖書の言葉を分析して、学ぶこと以上に、実際の祈りの課題を頂いて、そのことについて心を合わせることがどれほどわたしたちを祈りに導くことかと思わされました。幸いなことに、その方は、その後回復し、無事退院されて、自宅療養中ですが、まだまだ完全な癒しのために、続けて祈っていくことの必要を感じます。そして、このような状況が続く中で、お互いの健康が守られ、また、心が支えられていくようにと祈らないではいられません。

祈る時に、もう一つ大きな事があります。それは、わたしたち自身が変えられていくことです。祈りは単なるお願いではありません。神さまと一緒に過ごす一時です。神さまとの会話です。心にあることを何でも神に訴え、答えを待ち望むのです。何でも相談するのです。その時に、わたしたち自身も変えられていきます。自分のなすべきことが示されます。声をかけるべき方のことが浮かんできます。

「神様助けてください」との一言の祈りが人生を変えた、という方も知っています。みなさんもぜひ、試しにでもいいですから、一言祈ってみてください。神さまは、あなたに答え、あなたの歩みを導いてくださいます。また教会では共に祈り合う時も持っています。ぜひ、ご連絡ください。自分では祈れないけれども祈ってほしい、という課題がある方もご連絡ください。(教会は祈祷料とかはいただきません、ご心配なく・・・)神さまが祈りに応えて素晴らしいことをしてくださいますように。