先月の半ば、私が所属している合唱団のメンバーが1人ご帰国になるということで、送別会が持たれました。その席上、帰国される方がこのように挨拶をされました。「この合唱団は本当に楽しい。でも、楽しいだけだったら自分は続かなかったと思う。自分は、ある時、皆さんと一緒に歌いながら鳥肌が立つ経験をした。その経験があったからこそ、今まで自分はこの合唱団でやって来れたのだと思う」と。その話を伺いながら、本当にそうだな、と共感しながら、私たちのニュージャージーの教会はどうかな、と思わされていました。
楽しいだけではない、ここに入った方が鳥肌が立つような経験をしていただいているかな、鳥肌じゃなくてもいい、心が震われるような経験をしていただいているだろうか、神さまに心に触れていただく経験をしていただいているだろうか。語られるメッセージも、単に聖書の教えに忠実にとか、神学的に正しいとか、理路整然としているとか、面白いとか、分かりやすいとか、ではない、ホンモノがここにあるだろうかと。
それから1週間後の修養会、プログラムの最後の振り返りの時に、最初に立ち上がられた方が、「今、私の魂が喜んでいる」と声を震わせながらお話されているのを見ながら、こういうことなんだな、と思われていました。私自身、講師の先生方ご夫妻の姿に、その言葉の一つ一つに、真実な神さまとの関係の中から生まれるものを感じていました。
以前、こんな話を聞いたことがあります。ある牧師さんが日曜日の礼拝が終わった後、メモを受け取った、誰からか分からない、でもそこに「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」とのヨハネの福音書12章21節の言葉が書かれていたそうです。その牧師さんはそれを読んで、まず腹が立った。「『イエスにお目にかかりたい』・・・つまり、私のメッセージで、イエス様に会えないというのか?」と。でも、その牧師さんは心の中で本当だと思った。自分は正しいことを話しているし、分かりやすく、面白く、話している、「良かったですよ」と言ってくださる方もいる。でも、集う方々にイエス様にお会いする経験をしていただけているだろうか?
その牧師さんは、次の日曜日まで必死に祈りました。神さまに訴え、叫び、嘆き、そして、神さまからの答えをいただいて、礼拝のメッセージを語りました。礼拝の後、またメモが残されていました。そこには「弟子たちは主を見て喜んだ」というヨハネの福音書20章20節の言葉が書かれていたそうです。
ただ楽しいだけではない、ただ正しいだけではない、そこに入った方が、鳥肌が立つような、心が震われるような、神さまに触れていただくような経験をする、そんな教会となりますようにと祈ります。そのために私自身、神さまとの更に豊かな関係へと導かれますように。