2024年11月<牧師室より>「原点に戻って」

今年も早くも11月。もうすぐサンクスギビングがやって来ます。日本語にすると「感謝祭」。一年の神様の守りに感謝をささげる時です。

でも、皆さんの中には、苦しみばかりで、辛いことばかりで、このサンクスギビングの時に感謝なんてできないという方もおられるかもしれません。このお祝いの季節、幸せそうに見える周りの人々に比べて、自分の状況が特に悲しく見える、感謝なんかとうていできないという方もおられるかもしれません。でも、元々、アメリカの最初のサンクスギビングは元々感謝なんてできないという状況の中で祝われたものだったのです。

イギリスから自由を求めてやって来た人々。どんなに夢を見て、希望に溢れて海を渡ってきたことでしょう。しかし、彼らを待っていたのは厳しい冬の寒さでした。例年よりも厳しい冬だったようです。ここ数年の温暖化で本当に冬の寒さがゆるくなってきているなあと思いますが、今から400年も前の今のマサチューセッツ州、どれほど厳しい冬だったことでしょう。多くの人が命を落とし、出航した時の半分の人数になっていたといいます。ここで冬を越そうと思ったことや、本国を出てきたこと自体をどんなに後悔したことかと思います。そのような本当に大きな悲しみや苦しみを乗り越えて、出会いが与えられて、現地の人々の助けを借りて、最初の収穫を祝ったのが最初のサンクスギビングでした。他のホリデーもみなそうですが、現代ではサンクスギビングも商業化されすぎて、経済的に恵まれている人たちや、安定した生活をしている人々、所謂「幸せな」人々が祝うものになってきてしまっています。

この最初のサンクスギビングの意味を取り戻しましょう。痛みや悲しみの中でも、共に支え合いながら歩むことで、前進していく、そして、神に感謝し、お互いに感謝していく、そのようなサンクスギビングをお祝いできればと思います。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(ヨハネの手紙 第一 3章16~18節)

今年も1124日の礼拝を感謝祭礼拝として、この年もここまで導いてくださった神様に共に感謝をささげます。そして、礼拝後は愛餐会(持ち寄りの食事会)をします。是非皆さんお出かけください。お友だちや御家族にも声をかけておいでください。共にサンクスギビングをお祝いしましょう。

2024年9月号<牧師室より>「まず仕えることから」

早いもので、今年も2/3が過ぎました。

2024年はイザヤ書527節の「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」という聖書の言葉をいただいて、歩んできました。

この言葉から、教会が聖書の教えを伝えることの大切さを感じると共に、地域コミュニティの中で歩んでいくことの大切さを思わされます。

聖書は繰り返し、この世に出て行きなさい、周りの人々に仕えなさい、と語っています。

地域とのつながりを考えるときに2つの出来事を思い出します。一つは今年の2月号でもご紹介した、9-11直後に出席したセミナーの講師の「特別なことが起こってから『私たちには何ができますか?』と聞いても遅い。何もないときからいつもコミュニティの中に生きていないとダメだ」という言葉。もう一つは、東日本大震災の時の先輩牧師の経験です。

東北の沿岸部の教会の牧師をされていたその先輩は、幸いにも津波が教会の手前で止まり、電気も止まらなかったので、「教会は電気が通じています。携帯の充電が必要な方は、ご利用ください」と窓に貼っていたそうですが、誰も尋ねてくる人はいなかったそうです。それで、教会のメンバーの医療関係の方と一緒に避難所に行ったときに、「〇〇寺のご住職が説話をしてくださいます」とアナウンスがされ、人々が集まっているのを見たそうです。同じ「宗教関係者」なのに、自分は「私は牧師です」と避難所に入っていくことも許されずに、医療関係者の補助者としてしか入れない、この扱いの違いは何か?と思いながら、この先輩牧師は、まず、誰も見ていないところで仕えることから始めたそうです。まずは、全国から送られてくる支援物資が人手不足で倉庫に雑然と山積みになっているのを見て、「この倉庫の整理をさせてください」と申し出られました。そして、小さなことから一つ一つのことに忠実に歩んでいく中で、地域の方からも、役場の方からも信頼を得て行かれ、やがて、地域や役場の方から「相談したい」と話がくるようになったそうです。

 そのように、教会と地域コミュニティのつながりを深めていくために、昨年の10月、初めての試みとして、「アメリカで快適に暮らす為に知っておきたい情報」というテーマで、NJで高齢者支援をされている方々にお話をしていただきましたが、今年はその第2弾、9月21日にラトガーズ大学の天野先生をお招きして「認知症について私たちが知っておくべきこと」というテーマでお話をしていただきます。自分自身がそのようになるかもしれないことを覚悟して、またそのような方に接するときの心構えなど、私たちには本当に大切なテーマだと思います。是非ご参加ください。詳しくはこちらの案内をご覧ください。今、このような助けを必要としているどなたかのところに届きますように。

2024年8月号<牧師室より>「開かれる道、閉ざされる道」

日本から戻ってきて10日ほど。やっと落ち着いて、18日間の日本滞在を振り返る事ができています。

多くの方々に祈られて、派遣されて、迎えられた日本での日々、本当にエキサイティングな日々でした。5年ぶりの日本で、6年ぶりの各地訪問。久しぶりの方々との再会も長い年月を超えて、まるでずっと共に歩んでいたかのような感覚に襲われる一方で、若者たち、子どもたちの成長には驚かされます。また、初めて出会う方々も何人もおられて、それはまた特別な一時でした。

日本に着いた翌日から東北から北海道と3泊4日の巡回、まず暑い東京から離れて、NJに近い気候で過ごしたのは正解でした。その後、東京での土曜日の帰国者集会と日曜日の礼拝メッセージ。

そして、月曜日からの3日間は今回の日本訪問の中心的な目的である、出身教団の日本ホーリネス教団の小田原での夏季聖会でのご奉仕でした。今から32年前に祈って送り出してくださった皆さんに、日本に帰ることもなく、そのままアメリカにいることになった自分が受け入れられるのだろうかと緊張と不安を感じていました。しかし、そこで神さまが私の心に語ってくださったのは、自分がどう思われるかよりも、神さまが語りなさいと言われることを語ることの大切さ。平安と自由な心で大胆に聖書からのメッセージを語ることができました。

そして、そのまま、土曜日まで東海から関西方面の各地で皆さんと時間を過ごし、東京に戻ってきました。そして、2回目の日曜日、池の上教会での礼拝と午後の伝道会にも、NJの関係の方々が多く来られて、喜びの再会を果たし、ご奉仕も終えました。

ところが、翌朝判明したまさかのコロナ陽性。日本でも5類感染症に移行して、以前のような対応は必要なかったとしても、帰米までの予定はすべてキャンセルして、活動自粛生活に入ることになりました。

最後の5日間は東京近郊で集まりを持ったり、個人的にお会いしたり、訪問させていただく方がいたりと、すごく楽しみにしていたので、とても残念でした。NJから送り出してくださった皆さんに対しても、18日間の中の5日間も部屋に籠もって過ごすことになるのは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

脅かされていた日本の夏の暑さも、確かに大変でしたが、汗拭きタオルを忘れないように、ということだけ気をつければ、それほど体調に影響することもなく過ごしていたのに、また、コロナの症状もごく軽く、1日半だけ、解熱剤がないとちょっとだるい、という程度。前回感染してから2年間、全く何も気にしないで生活することができていたのに、このタイミングでとは・・・という思いでした。

でも、落ち着いて考えてみると、残念は残念ですが、この日本訪問の準備をしている中で、どうしてもお会いして共に祈りたいという方々との予定がどうしても合わなかったり、久しぶりの日本訪問で連絡がつかなかったり、そういうことの連続でした。その一方で、パズルがぴったり合うかのように隙間の時間に予定が合って、お目にかかることができる人もおられました。「開かれる道もあり、閉ざされる道もある」、このことは、私自身の人生、以前からそうだったな、と思わされます。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙 4章13~15節

静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる。
‭‭詩篇‬ ‭46‬:‭10‬ (口語訳‬)

予定どおりに行かないことがある、祈ってきて、時間もかけ、労力もかけて準備したことなのに、道が閉ざされることもある。それも神さまの御手の中にあることなのです。

今回、各地を走り回っていた自分に、神さまが「落ち着いて、静まって、祈りなさい」とブレーキをかけられたのではないか、という思いもあります。また、「自分がやらなければ・・・」という気負いも手放すようにと言われたのかもしれません。

実際、私が行けなくなった東京での集まりは、皆さんで集まって、そこに私がオンラインで顔を出す、という形になりましたが、とてもいい集まりになったようです。また、ちょうど出張で東京に行かれるNJの教会の方に同行して、お母様にお会いし、信仰告白に導かれたら、洗礼式をするという願いも持っていましたが、それは東京で牧師をしている実兄が代わってくれることになり、洗礼式をしてくれました。私だったら、その後、次に訪問するのはまた1-2年後になりますが、東京で牧師をしている兄ならば、しばしば訪問する事もできそうです。

とは言え、やはり、残念な気持ちはあります。その中で、「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ人への手紙 8章28節)という神の御業を見せていただけるようにと祈っています。

祈ってくださった皆さん、迎えてくださった皆さんに心から感謝しつつ。

2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

2024年5月<牧師室より>「宇宙ってホントにすごい」

  「おお、わお、すげえ・・・」

 自分はどうして、こんなにも表現力が貧しいのかなと思いますが、それが4月8日に皆既日食を見たときに出てきた言葉です。

 今から50年くらい前、小学生時代の誕生日パーティーで友達にもらった「宇宙のひみつ」という学習漫画にハマりました。何度も何度も読み返しました。その中に「日本で皆既日食が見られるのは2035年・・・その頃は僕たちはおじいちゃん・おばあちゃんだね・・・」というくだりがあり、「そうか、楽しみだな」と思っていました。しかし、その後アメリカに引っ越して、なんと、想定よりも18年も早く、2017年8月にサウスカロライナで初めての皆既日食を見ることができました。見事に真っ黒になって周りにコロナが広がっている太陽。必死になって写真を撮っていました。

 それから6年半。ずっと「次も見るぞ!」と思っていた皆既日食、前回の片道12時間に比べて、今度は4時間くらい運転すれば着く、ということで、絶対行くぞ!と楽しみにしていました。

 2週間くらい前から4月8日の天気予報を注目していたのですが、毎日コロコロ変わる予報。「ダメかなあ」「いや、行けるかも」「まあ、3日前まで分からないだろうなあ」と気分もアップダウン。でも、2-3日前には「大丈夫そう」ということで、ニューヨーク州のPlattsburghか、湖を挟んで対岸のバーモント州のBurlingtonに照準を合わせて準備をしていました。

 でも、当日になって、ちょうど日食の始まる2時頃から雲が広がってくるという予報。不安の中で何とか見えてほしいな、と思って朝7時に家を出ました。計算では11時半頃には着くはずが、途中混んでいて着いたのは1時半頃。何とか間に合いましたが、空は予報どおり薄曇り。「ダメかも・・・」と心配しましたが、薄雲も本当に極薄の薄雲で、3分間の天体ショー、存分に楽しむことができました。今回は、前回の反省で、写真を撮ることになりすぎないで、天を見上げて、自分の目で日食を見て、自分の肌で空気を感じることができました。

さっきまで直接見ることができなかった太陽が黒くなり、周りに明るくコロナが広がっています。

空全体が薄暗くなり、夕暮れのよう。そして、3分の後半、その黒い太陽の右下の方から赤い炎が漏れてきているようでした。

そして、だんだん右下の方が明るくなってきて、キラッとダイヤモンドリングが現れて、すぐにまた明るい太陽に。

ああ、こうやって書きながらも、あの感じ、あの空気は言葉ではうまく表せないなあと思います。

ちょっと引いて考えてみると、太陽の大きさは月の400倍。その太陽がほぼぴったり月に隠されるというのは、地球からの距離が太陽は月の400倍だから。

太陽を直径40センチのビーチボールの大きさにすると・・・

地球:直径約4ミリのご飯粒くらい。
月:直径1ミリのゴマ粒くらい。
地球と月の距離:約10センチ。

ですから、4ミリのご飯粒の周りに10センチ離れて1ミリのゴマ粒が回っている、それが地球と月の関係。そして、40センチの太陽が地球からどれくらい離れているかというと、2メートルとか、5メートルとかではなく、なんと40メートル。

→今回の日食:目の前10センチのところにある1ミリのゴマ粒が、40メートル離れた40センチのビーチボールをぴったり隠した、ということ・・・すごいと思いませんか!

 でもこの太陽とか地球とかは宇宙の中ではホンの片隅の星。この宇宙を造られた神様が、この小さな地球に生きている、ホンの小さな存在である私たちに目を留めてくださっている、日食も経験できるようにして、神さまの素晴らしさを教えようとしておられる。これはなんとすごいことではないでしょうか。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

詩篇 19篇1節

日本の皆既日食11年後です。是非、皆さん楽しみにしていてください。その他にも2年後のスペイン、3年後のエジプト、4年後のオーストラリアと、いろんなチャンスがあります。是非ご検討ください。

2024年4月<牧師室より>「信じられない者への招き」

ハッピーイースター!

いつまでも肌寒い日が続いていますが、今年もイースターがやってきました。

このイースター、イエス・キリストが十字架につけられて、葬られたあと、3日目によみがえられたことをお祝いするお祭りです。今年も3月31日にはイースター礼拝と、礼拝後には愛餐会(ポットラックでのお食事会)を、また、4月6日には子どもたちのためのJOYJOYイースターを持ちます。是非お出かけください。

復活したイエスにお会いした、という人々がいる中で、イエスの十二弟子の中にもそれが信じられなかった人がいました。それはトマスという人です。イースターの日の夕方、イエスが弟子たちのところに現れて、本当にご自分がよみがえったのだと伝えた時、たまたま、トマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが喜びにあふれて「トマス、イエス様はよみがえったんだよ!」と言っているのを見て、彼はどんなに寂しい思いになっただろうかと思います。「どうして、私がいるときではなく、私がいないときにイエスは来られたのだろう」と思ったことでしょう。勢い余ってか、トマスは「私はイエスが十字架で手に釘を打たれたその傷跡に指を入れ、脇腹の槍の跡に手を差し入れてみないと、決して信じない」とまで言うのです。

それから1週間後、トマスがいるところに、イエス様が現れて、トマスが言っていたとおりのことを告げます。「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私の脇腹に入れてごらんなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

そこで、トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えるのですが、この場面、多くの画家たちによって描かれています。その代表的なものが、16世紀末から17世紀初めにイタリアで活動していたカラヴァッジオの絵です。

このトマスがイエスの脇腹に指を突っ込んでいる絵を初めて見たときには、本当にびっくりしました。私の想像では、トマスはイエスの言葉に、ただひれ伏すしかなかったのでは・・・と思っていたからです。「じゃあ、いいですか、指入れますよ」みたいな事をするだろうかと。今でもそのように思っています。

しかし、カラヴァッジオの絵をよく見てみると、トマスの手はイエスの手にしっかりと握られています。トマスの手を脇腹にぐっと引っ張っているのは他ならないイエス自身の手なのです。これは聖書に書かれていることではなく、あくまでもこの画家の解釈なのですが、イエスの脇腹の傷跡にトマスの指が入っているのは、彼の好奇心や「触らないと信じないぞ」という頑固さではなく、イエスの招きであり、イエスが「ほら触ってごらんよ」と手を引っ張ってくれたからなのです。

イエスは今も私たちを招いておられます。信じられないならば、調べてごらん。さあ、あなたの手を伸ばして調べてごらんと招いておられます。その上で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられるのです。

今年のイースター、一人でも多くの皆さんが、復活のイエスにお会いすることができますように。

2024年3月<牧師室より>「3月は嵐の季節」

3月になりました。

今年も我が家の庭で一番最初に咲くクロッカスの芽が出てきました。朝晩は氷点下に下がっても、昼間はすっかり春の日差し。今月10日にはサマータイムが始まり、19日のthe first day of spring(日本では20日の春分の日)を過ぎると、昼間の時間の方が長くなりますね。いよいよ春がやってくるな、と楽しみになります。

でも、油断は大敵です。1993年の3月、もう30年以上前になりますが、アトランタの大学で勉強していた時、春休みにフロリダのオーランドに行きました。アトランタを出る時にはレンギョウの黄色い花が満開でした。半袖短パンで2-3日楽しく過ごして、アトランタに戻ろうと思って高速に乗ったら、あちらこちら木々がなぎ倒されています。途中でガソリンを入れようと思ったら、軒並み停電でガソリンを入れられません。そして、フロリダとは思えない寒さ。フロリダ州を抜けてジョージア州に入る頃には雪が降り出しました。アトランタに電話をしたら、吹雪でとてもじゃないけど帰れないと。あとで分かったのは、その時、アメリカの南東部から東海岸を、後にstorm of the centuryと呼ばれるようになる嵐が襲っていたのでした。ニュージャージーも大雪だったようです。

実は3月は嵐の季節なのです。アメリカには “March comes in like a lion and goes out like a lamb” (3月はライオンのようにやってきて、羊のように去って行く)という言葉があります。この時期は冷たい冬の空気と暖かい夏の空気がせめぎ合って、特に前半は、しばしばとんでもない嵐になることがあります。

聖書の中にも嵐の場面が出てきます。それはもっと小さい規模のものですが、イエスの活動していたガリラヤ湖で、何度か、イエスと弟子たちは嵐に遭っています。湖で嵐に遭った弟子たちはどんなに不安だったことでしょうか。しかし、イエスはその嵐の中でも平安を保っておられて、「しっかりしなさい、わたしである、恐れることはない」(マタイの福音書14章27節)と言われ、嵐を鎮めておられるのです。

私たちの人生にも嵐がやってきます。イエスに従う道も万事順調、順風満帆ではないのです。でも、その時にも、イエスは私たちに「恐れるな。私がいるから」と語ってくださり、平安を与えてくださいます。皆さんの中にも今、嵐の中を通っておられる方もおられることでしょう。イエスはその嵐の中にも共に行ってくださいます。「主よ、助けてください」と祈ってみてください。神さまはあなたを支えてくださいます。

<牧師室より>2024年2月号「コミュニティに生きる使命」

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
イザヤ書 52章7節

私たちの教会は、この聖書の言葉をいただいて、2024年をスタートしました。
この言葉は、教会が、神さまからの平和と解放、救いのメッセージを託されて、出て行く使命を頂いていることを示しています。

それは、言葉によって聖書に表された神の愛、神の救いを伝えるということはもちろんですが、それだけではなく、私たちの行動によって、神の愛を表していくということも大切なことだと思わされています。

9-11の同時多発テロの直後、社会全体が大きな痛みを通る中で教会は何ができるだろうかと、いくつかのセミナーに参加している中で、「何かがあってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」との講師の言葉は衝撃でした。今頃になってこんなセミナーに来ているようではダメだと言われているような、でも、これからの生き方が問われるのだとチャレンジをいただいたような思いになりました。

それから22年、ずっと私たちの教会が、そして、私自身が、コミュニティの中で生きるとはどういうことなんだろう、何ができるんだろう?と問い続けています。今年は特別にそのことを考え、受け止め、実践していく年となる様にと願っています。

 今月は14日のAsh Wednesdayから教会はレントの期間に入ります。教会の歴史を通して、この期間はイエスの十字架での苦しみを覚えて、聖書を味わい、悔い改め、人々に仕える時として重んじられてきました。

 私たちの教会でも、2月16日から3月29日のGood Fridayまで、毎週金曜日の午後7時半から9時まで、教会に集まって、レント集会を持ちます。今年は「受難週からのメッセージ」。受難週とは、イエスが十字架にかかった最後の一週間です。その一週間に起こったいくつかの出来事から、神さまが私たちに託されたメッセージについて学んでいきます。教会に集うのが難しい方のためにオンラインでの参加もできるようにします。是非、ふるってご参加ください。オンラインでのアクセスを希望される方は錦織牧師(pastor.jccofnj@gmail.com)までお問い合わせください。

<牧師室より>2024年1月号「神の恵みによって」

明けましておめでとうございます。

 私たちの教会は1988年元旦にスタートしました。2024年の1月1日に36周年を迎えます。最初はいつまで続くかと思った、と伺っていますが、ここまで守られてきたのは、ただ神さまの恵みであり、憐れみによるものであったと思わされます。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」
(コリント人への手紙 第一 15章10節)

 私が初めてこの教会に足を踏み入れたのは1994年の秋でした。その2年前に日本での牧師の働きを中断してやってきたアメリカ。最初のサンディエゴも、次のアトランタも、知り合いを頼って生活を立ち上げました。しかし、誰も知り合いがいないニュージャージーの大学院に進むことになり、まだEmailとかウェブページとか、あまり普及していない頃でしたから、「キリスト教年鑑」という名前の、日本の教会と世界各地の日本語教会の連絡先が載っている分厚い本を開いて、「神学生としてご奉仕する場はないでしょうか?」とNY周辺の教会に手当たり次第手紙を書きました。その中で、ただ一つ、お返事をくださったのが、ニュージャージー日本語キリスト教会だったのです。「何も約束はできないけれども、とにかく一度来てごらんなさい」と。そのお返事に励まされて、9月の初め、この教会に一歩足を踏み入れました。

 それから、間もなく30年。牧師としてご奉仕をさせていただくようになって、27年。本当に素晴らしい喜びもたくさん経験しましたが、痛みや悲しみ、戸惑うことも何度もありました。そして、私が来る前には、もっと大きな危機があったと伺っています。それでも、ここまで守られてきました。誰かが頑張ったとか、あの人がいたからとか、そういうことを超えて、本当に神さまの憐れみによるものだと思わされます。

 この世界の経済と文化の中心地であるニューヨーク周辺には、これからも日本語での教会の働きが必要でしょう。日本語で人々を支え、励まし、神さまの恵みを伝える教会が必要だろうと思います。そのために、これからも、願わくは、ニュージャージー日本語キリスト教会が用いられてほしいと思います。これからも困難が襲ってきたり、逆風の中を歩んだりするときがあると思います。それでも、ここまで守ってくださった神さまが、これからも一歩一歩導いてくださることを信じています。

2024年の元旦は午前11時から元旦・創立記念礼拝をいたします。また礼拝後にはお餅を準備しています。是非お出かけください。新しい年、神の前に出て祈りをもってスタートしましょう。

<牧師室より>2023年12月号「暗闇が深いところにこそ」

メリークリスマス!

 12月になりました。クリスマスまでいよいよ3週間を切りました。街がイルミネーションで華やぎ、お祝いムードに染まるこの季節ですが、世界に目を向けると、痛みを感じないではいられません。ウクライナはロシアの侵攻から2回目のクリスマスを迎えようとしています。そして、ハマスとイスラエルの間の停戦も一週間で終わり、また本格的な戦闘が再開しています。現地からのニュースに接すると本当に心が引き裂かれるような思いになります。私たちがもしもこの痛みを完全に失って、自分たちだけが良ければそれで良い、と思ってしまってはいけないのだろうと思います。

 クリスマスはイエスの誕生を祝う日。しかし、実際にイエスが生まれたのは12月ではないだろうと言われています。12月ではイエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた、という聖書の記述と合わないというのです。では、なぜ、12月にクリスマスを祝うようになったのかというと、緯度が高く冬の日中の時間が短いヨーロッパで、これから日が長くなっていく、太陽が帰ってくることを祝っていた冬至の祭りに、暗闇を照らす光として来られたイエスの誕生を合わせて祝うようになったのだろうと言われています。

 聖書の中に、イエスの誕生について語っているこのような言葉があります。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 イエスは暗闇を照らす光だと、暗闇に勝利する光だと、またすべての人を照らす光だというのです。この暗闇は「一人一人の個人の心の暗闇」だとしばしば言われます。私もそう思います。イエスは私の心の暗闇も照らし、私の心も造り変えてくださいました。しかし、それだけに限定されないのではと思います。この暗闇を照らす光、すべての人を照らす光は、今、暗闇のような状況にある人々のところに届き、その暗闇を照らす光なのだと信じます。そして、私たち自身も心を照らされて、光とされて、出て行くのです。世界の反対側のことも忘れてはなりませんが、身近なところにも暗闇の中に置かれている人々もいるでしょう。そこにも私たちは光を届ける使命があるのです。

「起きよ。輝け。まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。」(イザヤ書60章1節)

 今年のクリスマス。私たちの心がイエスによって照らされて、私たちも光とされて、光を世にもたらす存在とされますように。

<牧師室より>2023年11月号「痛みの中でのサンクスギビング」

 11月になりました。

 アメリカで11月と言えばサンクスギビング。この国では各地から郷里に帰ってきて、家族で過ごす方々が多いようです。私たちの教会でも2019年以来4年ぶりになるサンクスギビングの愛餐会(食事会)をします。また、この機会に以前こちらにおられた方々で戻って来るという方々もおられて、賑やかになりそうです。楽しみにしています。

 しかし、ひとたび世界に目を向けてみると、ロシアによるウクライナへの侵攻は続いていて、戦争の中で2回目の冬を迎えようとしています。そして、10月にはハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、またそれに対してハマス殲滅を目指すイスラエルの反撃が続いていて、多くの人々が苦しんでいます。こんな状況の中で、私たちはサンクスギビングを心から楽しめない思いにもなります。

 しかし、実際のところ、アメリカでの最初のサンクスギビングも、万事順調、順風満帆の人生を歩んできた人たちによってではなく、多くの苦しみを経験してきた人々によって祝われたのです。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々はイギリスで迫害を受け、困難の中に歩んでいました。そんな彼らが自由を求めて船出した大西洋を渡る航海と、ようやく到着した新大陸での例年にない厳しい冬の寒さによって、乗り込んだ人の半分は命を落としたといいます。希望の船出が悲惨な結果になって、彼らはどんなに大きな痛みを経験したでしょうか?その痛みの中にいた彼らが、現地の人々の助けによって得た初めての収穫。そこで祝われたのがアメリカでの最初のサンクスギビングだと言われます。

 ですから、私たちは今も世界各地で、そして、もっと身近なところでも、痛みの中にある方々のことを心に留めながら、与えられている神様からの恵みに感謝して、サンクスギビングをお祝いするのです。この時期、多くの団体が困難の中にある方々のための働きへの協力を呼びかけています。私たちもこのような働きに心を向けて、出来ること、なすべきことを求めていこうではありませんか。

 今年のサンクスギビングが、多くの人々にとって、感謝と慰め、癒しに満ちたものとなりますように。

<牧師室より>2023年10月号「この国で共に生きる」

私がこの教会の牧師としてご奉仕を始めたときには、ご高齢の方々はそれほど多くはありませんでした。しかし、26年経って、ご高齢の方々のサポートの機会が増えてくる中で、自分が今まで知らなかったことがこれほどあったのか、と思い知らされています。そして、それらの情報は、教会の皆さんにためにも、私自身のためにも、もっと早く知るべきだった、ということばかりです。もし、この国で生まれ育っていれば、当たり前のように知っていて、互いに話題にしたり、共有したりしていたことかもしれません。しかし、日本からやってきた私たちにとっては「そうだったのか!」「へえ、そうなんだ?」ということがどれだけあるかと思わされます。

 その経験から、今回、10月21日の土曜日の午後、私自身が教会の方々のサポートのために、いろいろな方々に助けていただく中で、大きな力となってくださっている「ライフデザインサポート」の方々にセミナーをしていただきます。この国で歩んで行く中で、特にシニア世代や、そこにさしかかろうとしている皆さんにとってはもちろん、どの世代にとっても必要な情報をお話していただきます。詳しくはこちらの案内をご参照ください。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 しかし、改めて考えてみれば、たまたま、今まで私たちの教会にシニア世代の方々がそれほど多くなかっただけで、教会の周りには、どれほどたくさんのサポートや情報を必要としている方々がおられるだろうかと思います。

 イエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)と言われました。

 これを機会に、もっともっと、私たちが多くのことを学び、生活のあらゆる側面において、この地域の日本語を使う方々と共に歩んでいくことができるようにと願っています。

<牧師室より>2023年9月号「空の鳥を見てごらん」

8月の最後の日曜日は「ピクニック礼拝」。多くの皆さんが参加されて、楽しい時を持ちました。礼拝後のサンドイッチのランチや、その後のレクリエーションも良かったのですが、私自身はそれと共に、緑豊かな公園での礼拝の中で、イエスの言葉に従って「野の花に目を留める」ことを実践してみて、新しく目が開かれる思いがしました。

礼拝のメッセージの中で「では、皆さん、自由に歩き回って、野の花をじっくり見る時を持ちましょう」とアナウンスして、10分ほどそれぞれで野の花を見る時をもっていただきました。正直なところ、当日の朝、会場の公園に来てみて、かなりしっかりと刈り込みがなされていて、元々あまり花の多くない8月の下旬、「花なんて咲いてないじゃん」と言われるんじゃないかと思いました。でも、注意して見てみると、普段は目に留まらないような小さな花がいろいろ咲いているのですね。そして、その一つ一つ、花びらの形、その数、おしべが出ているかどうか、など、それぞれに個性があって、いくら時間があっても足りないくらいでした。ちょうど今、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の主人公が這いつくばって、草花に見入っているのが、こんな感じなんだろうかと分かるような気がしました。

イエスは「野の花を見てごらん」と言われた後に、「その一つ一つの野の花よりも、神はあなたの事を何倍も大切に思い、心にかけておられるんだよ」と言われるのです。

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

マタイの福音書 6章30節

これからいい季節になります。散歩をしたり、空を見上げたりするときに、自然の中に込められた神さまのメッセージに耳を傾けてみませんか?

<牧師室より>2023年8月号「宝物を探しに行こう」

 今年もJOY JOY キャンプがやってきます。
 今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう」です。5日間、20人の子どもたちと、毎日宝物を探しに探検に行きます。

 我が家の「宝物」と言えば、「松井秀喜選手のバット」です。

 もう20年も前ですが、ヤンキースの試合を見に行った時、松井秀喜選手が空振りしたバットが手から滑って観客席にいた私達のところに飛んできました(その時の様子はこちら)。「これはさすがに返さないといけないだろう」と思って係の人に渡したのですが、その時、球場全体で大ブーイング!「何だ?何か自分はブーイングされることしたか?」と思っていたら、周りの人が「あの係の人にブーイングしているんだよ!あれはおまえのものだ!もらってこい!」と口々に言ってくれて、係の人を追いかけて、無事いただいて帰ることができました。それから、野球を見に行く度に、良くもこの大きな球場の中で、自分のところに飛んできたな、と思います。特別な神さまからのプレゼントだったと思います。

 でも、当時良く思ったものですが、もしも強盗に銃を突きつけられて、「おまえの家の宝物を持って行くぞ!」と松井のバットを奪われたら、間違いなく「どうぞ!」と言うだろうなあ、でも、もう一つの我が家の宝物であるその頃小さかった自分の子どもたちに同じことが起こったら、絶対に命をかけて、「自分はいいから・・・」と自分の身を差し出しても、子どもたちを守るろうとするだろうな、と。実際、本当に大切な「宝物」は決して「モノ」ではないんですよね。

 今回のキャンプで子どもたちに是非見つけて欲しい2つの宝物があります。それは、一つは「神様の愛」、そして、もう一つは、「自分自身」です。聖書の中に、天国(=神さまの愛に満たされた人生と死の向こう側にも続く命)という宝物を見つけたら、喜びにあふれて、全財産を売り払ってそれを自分ものにするだろう、というイエスの言葉があります。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書 13章44節)

 私達がこの宝物を自分のものにするために、すべてを投げ出してもちっとも惜しくないだろう、というのです。それくらい価値があるのだよ、というのです。でも、この言葉にはもう一つの意味があります。それは、立場をひっくり返すと見えてくることです。宝を探しているのはイエスであり、宝物は他でもない、私達だというのです。イエス自身が、「私達」という宝物のためには、すべてを投げ出しても惜しくない、と言ってくださったのです。実際、イエスは十字架にかかって、私たちの代わりに罪を負ってくださいました。そこまで私達は愛されているのです。

 今年のJOY JOY キャンプも、子どもたちの安全が守られて、子どもたちが、神さまが自分たちの事を宝物としてくださっていること、そして、愛されている喜びを知ることができるようにお祈りください。

<牧師室より>2023年7月号「自由とされたのだから」

「ああ、またやられた!」18年前の初夏。庭に日本の野菜を作ろうと一生懸命になっていた頃、本当に毎年、グランドホッグとの戦いに苦戦していました。ネットを張ったり、動物の嫌う匂いのスプレーを蒔いたりいろいろ試しましたが、敗戦続き。これはもう捕らえるしかない、とワナを買ってきて、捨てるクズ野菜を餌に、庭に仕掛けました。そうしたら、かかるわ、かかるわ、家族で住んでいたのでしょうか、次々とグランドホッグがかかります。後でネットで調べてみたら、この地域では許されていないようですが、そんなことも知らず、山に連れて行っては、放すことを繰り返していました。

 グランドホッグは昼行性。朝にワナをかけて、夜は変な動物がかからないように閉じておくのですが、ずぼらな性格の私は、ついつい閉じるのを忘れてしまい、ある朝はオポッサムがかかっていました。あまり可愛くない動物なのですが、ワナを開けたら、一目散に逃げていきました。

「あ、また変なのがかかっている!」7月5日の朝、前の晩にワナを閉じるのを忘れてしまっていて、何か動物がかかっていることに気づきました。あたり一面砂ぼこり。かなり暴れていたようです。今度は何がかかったのかな、と近づいてみて、「わっ」と血の気が引きました。ワナにかかっていたのはなんとスカンクだったのです。「どうしよう・・・」と思いました。自分の愚かさを悔いました。逃がすためには近づかなければいけない、近づいたらスプレーをかけられる。まともに食らったら、何日も匂いが消えない・・・。

その後の顛末を詳しく書いているととても長くなってしまうので、詳しく知りたい方は、以前毎日書いていたこちらのブログの記事を。

結論を言うと、最後は覚悟を決めて、すべて捨てていい服で身を固めて、頭には目のところだけ穴を開けた紙袋をかぶって、スカンクのスプレー攻撃を全身に浴びながら、近づいていって、ワナを手で開けて、スカンクを逃がしたのですが、ワナの扉を開いても、スカンクはおびえて、奥の方から動かないんですね。それで最後はワナの一番奥のスカンクがいるところをバンと一発蹴ったら、慌ててワナからでて、逃げていきました。

そのワナの奥でおびえていたスカンクの姿を思い出すと、私達も同じように狭いところでビクビクしていることはないか、と思わされます。神さまは私達のところに来て、私達を解放しようとしてくださっているのに、私達はその神さまの思いに気がつかないで、おびえて、逃げて、閉じこもっていることはないだろうかと。聖書のメッセージは解放のメッセージです。神様が与えてくださる自由を受け取って感謝して歩んでいきましょう。

「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節

<牧師室より>2023年6月号「人を迎える喜び」

5月は3年ぶりに牧師館での集会を再開しました。初めて来られた方や、久しぶりの方々も加えて、聖書をじっくり味わいながら、とても楽しい集まりとなりました。いいですね。本当にいろんな事が次々と平常に戻りつつあります。

 昭和の日本の牧師の家庭に生まれ育った私にとっては、教会の2階だったり、教会の隣だったりした自分の家に教会の皆さんにおいでいただくのは、ごくあたりまえのことでした。日曜日の朝はいつもよりも早く起きて、簡単に朝食を済ませて、家の片付け。弟の部屋一つと、風呂場の脱衣所だけは「荷物置き場」にとっておいて、他の部屋の片付かない荷物を全部そこに押し込んで、自分の部屋も「教会学校」の部屋として使っていただいていました。同じような経験をした牧師の子ども仲間の中には「自分の部屋に入られるのがすごく嫌だった」という子たちもいましたが、私はそういうことを感じたことはありませんでした。逆に来てもらっていることが、うれしかったことを思い出します。

 今でも、同じです。多分、自分のスペースに来てくれるのは、自分のことを信頼してくれているから、自分のことを受け入れてくれているから、と感じるからなのかな、と思います。それがコロナ禍で互いに距離を取るようになり(「6フィートのソーシャルディスタンス」!この言葉にも懐かしささえ感じます)、お互いの家に招き合ったりすることがとても難しくなりました。そして、それが単なる物理的な距離ではなくて、いつの間にか、心理的な距離、お互いの心の距離にもなってしまっていたのでは、と思います。

 互いの心の距離、急に詰めようと思っても難しいですよね。少しずつ、信頼関係を築いていくのだと思います。これからですね。

 神様もそうです。私たちをご自分の家に招いて、ずっと一緒にいて欲しいと思っておられるのです。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネの福音書 14章2~3節)

 この言葉は最後の晩餐の時にイエスが弟子たちに言われた言葉です。神様は私たちを喜んで、その家に迎えてくださいます。私たちが、神様を信頼して、神様のところに行くことを喜んでくださるのです。これは究極的にはこの地上の歩みを終えて神様のところにいく「天国」のことを語っています。でも、この地上の歩みの中でも、私たちを喜んで迎え、共に歩もうとされているのです。

 今月も牧師館での集まりが続きます。また、他にご家庭を開放してくださる方もおられます。これらの集まりを通して、更に神様の愛が多くの人々に届きますように。

<牧師室より>2023年5月号「神の時を待つ」

 昨年のクリスマス直前、12月22日の午後に携帯電話にテキストメッセージが届きました。「・・・旅行の帰り道にある出来事に遭遇し、その時神様がいらっしゃるという事を実感しました・・・」

 4月の最後の日曜日、今年初めての洗礼式を持ちました。今回の月報にも証しを書いてくださっていますが、クリスチャンの男性と結婚されて数十年、それからずっと教会に集って来られた方です。その方のために、御家族はずっと祈っておられたそうです。教会でもお祈りしてきました。その祈りが聞かれるまでは、時間がかかりましたし、もう、ずっとこのままなのかな、とも思いました。一緒に聖書の基礎の学びもしました。イエスの十字架の話も何度もしてきました。それでも、なかなか聖書の言葉が入っていかない、そんなもどかしさも感じていました。しかし、この時に、神様は特別な方法で、その方の心に触れてくださったのです。

 その前の週、4月4週目の日曜日は一人の方がカリフォルニアに引っ越されると言うことで最後に一言挨拶をお願いしました。その中で、NJで経験した一つ一つの出来事の中で、心に与えられた聖書の言葉を分かち合ってくださいました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

 私たちには分からないことがあります。すべてを見極めることはできません。でも、神様の時があって、神様の時に美しいことをしてくださるというのです。

 私たちはしばしば、思い通りに行かないことに出会います。自分の願った道が開かれなくてがっかりすることもあります。「どうして?」と思うことにも出会います。でも、神様はすべてを美しく導いてくださり、神の時に御業をなしてくださるのです。その神の時を待ち望み、神様を信頼して歩んで行こうではありませんか。

2023年4月号<牧師室より>「新しい力に満たされて」

Happy Easter!

今年も春の訪れを告げるイースターがやってきます。今年は4月9日。近所の公園でも桜の木が花を咲かせ始めました。まだまだこれからという感じですが、ちょうどイースターの頃には花盛りとなりそうです。

 

 冬の間、葉を落としていた木々が一斉に芽吹き花を咲かせるこの時に、イースターをお祝いするのは、イエスの復活の力が私たちにも注がれるのだということを教えてくれます。死んでいたかのように見える自然界も冬が過ぎ去るのを待っていました。そして、その内側にあった命が春の訪れと共に外にあふれてくるのです。それと同じように、十字架にかけられて墓の中に葬られたイエスは、死と墓を打ち破ってよみがえり、今も、私たちのうちにその復活の力を満たしてくださるのです。

 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

ローマ人への手紙 8章11節

  私も自分の力のなさ、弱さに落ち込むこともあります。がっかりすることもあります。エネルギッシュに生きている他の人を見ると、そのように生きられない自分に焦りを感じることもあります。そんな時、この復活の力が今も私のうちに注がれていることを思い出すのです。そして、祈るのです。「神様、あなたの力を、イエスをよみがえらせたあなたの力を、私のうちに満たしてください」と。祈りの力はすごいです。祈りの中で心が燃やされていき、本当に力が湧いてくるのです。

 その力を一人でも多くの方々に知っていただきたいです。

 今年のイースター礼拝は4月9日の午後1時半からです。そして、礼拝後には4年ぶりになる愛餐会(持ち寄りのお食事会)をいたします。是非お出かけください。皆さんで共にイースターをお祝いしましょう。心からお待ちしています!

2023年3月号<牧師室より>「聞くのに早く、語るのに遅く」

最近、家族に「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、ある集まりで皆さんのお話を聞きながら、「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。

 それで、アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、それでもボーダーライン。神様からいただいた大切な聴力。これはちゃんとお医者さんに行って調べないといけないな・・・と思っているところです。

 聖書の中にこのような言葉があります。

「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

ヤコブの手紙 1章19節

 語るためには聞かないといけないです。私たちは、相手の言うことを一言聞いて、すぐに反論したり、アドバイスをしたりすることがどれほど多いことでしょうか。自分が聞いてもらう立場だと、ちゃんと聞いてもらっていない時はすぐに分かります。「この人、全然話を聞いてくれていないな」と。でも反対に自分が聞く側に回ると、自分ではなかなか気がつきません。勝手に相手の言いたいことが分かったような気になって、コメントをしたくなるものです。一生懸命聞いて、理解しようとして、その心の叫びに耳を傾けて、そして、初めて口を開く。そのような姿勢がどれほど必要かと思います。

 それと共に、この言葉は、まず聞くことによって内側が豊かにされて、初めて語ることができる、という真理も表していると思います。ですから、私たちはもっともっとinputに目を向けなければいけません。何を聞くかによって、私たちの口から出る言葉は変わってきます。Negativeな言葉を聞いていると、negativeなものがあふれてきます。Positiveな言葉を浴びていると、positiveなものがあふれてくるのです。ですから、神の言葉である聖書のメッセージを聞くことが、本当に大切です。神の愛の言葉を聞くことが本当に大切です。それによって、私たちの内側が満たされて、そこからあふれるものによって語っていくことができるのです。

 心の聴力、ちょっと目を向けてみませんか。

2023年2月号<牧師室より>「春を待ち望んで」

2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。

この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。

代表的な言葉を挙げると、

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節

ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。

あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。

<牧師室より>2023年1月号「光に照らされて輝く」

明けましておめでとうございます!
本年もどうぞよろしくお願いします。

2022年はガラテヤ人への手紙5章13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」という言葉を頂いて、歩んできました。

多くの困難や閉ざされた道などもありましたが、そのような中でも、皆さんのお祈りに支えられて、神様が与えてくださる平安と喜びの中に歩むことができました。心から感謝します。

教会としてもっともっと地域社会とつながりをもって外向きの働きができればと思っておりましたが、大きな進展はありませんでした。そんな中でも、弱さや痛みを抱えたお互いのために祈り合い、支え合う中で、聖書の言葉通り、与えられた自由を仕えるために用いておられる方々の姿に励まされています。

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105篇4節

2023年のために祈っている時に与えられた聖書の言葉です。

たとえ、私たちが今までよりも積極的に社会の中に出ていくことができたとしても、もしも、私たちの顔が死んでいたならば、もしも、私たちが単なる義務感で、しょうがなくやっている、というのが見え見えだったら、それに何の意味があるのでしょうか?社会に出て行くときに、人々に仕えていくときに、私たち自身の心の状態がどんな状態であるかが問われてくるのです。

聖書の中に出てくるモーセという人は、神と語り合ったがゆえに顔が輝いていたと書かれています。私たちも、神の輝きに照らされて、そして、私たち自身が輝きにあふれて歩んでいく時こと、それが私たちが出て行くときに必要なことだと思わされています。

新しい年も、続けて私たちがこの地域社会の中で、特に日本語を使う方々の社会の中で果たしていく役割が何であるかを求めていこうと思います。更に一歩外に出て、人々に仕えていく教会となることができるように、まず、私たちの顔が神様の光に照らされて輝くものとなりますように!

2022年12月号<牧師室より>「クリスマスの平和」

2022年も早くも12月になり、街はクリスマスの装いになりました。今年のクリスマス、皆さんはどのような思いで迎えようとしておられるでしょうか?

今年はロシアがウクライナに侵攻するというニュースがあり、今も戦いが続いています。例年以上に平和を祈るクリスマスを迎えられる方も多いのではないでしょうか。

実は、「平和」はクリスマスの大切なメッセージの一つです。聖書の中にこのような言葉があります。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ書 9章6~7節

これは、イザヤという預言者が救い主の誕生を預言した言葉です。その救い主は「平和の君」と呼ばれる、そして、その救い主による平和が限りなく続く、と約束されているのです。

そして、それから700年後、最初のクリスマス、イエスが生まれた夜に、天使たちはこのように歌いました。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

ルカの福音書 2章14節

アメリカで道を走っている時に時々目にする「Peace On Earth」という言葉はここから来ているのですね。

イエスは平和をもたらすために来られました。そして、神は今も私たちの平和を願い、私たちに平和を与えようとしておられるのです。この時に「平和」が何を意味しているのかにちょっと注意しないといけません。日本語・英語を含めてほとんどの言葉で、「平和」は「穏やかなこと」「争いのないこと」「波風が立っていないこと」を意味しています。戦争と戦争との間の争いがない期間のことを「平和」と呼んだ人々もいました。しかし、旧約聖書が書かれ、また新約聖書でもその背景となっているヘブル語では、「平和」は「シャローム」といって、命と自由にあふれた状態を指すと言われています。ただ、争いがない、強い者の横暴さの中で、みんなが我慢して成立しているような平和ではなく、本当に一人一人が喜びに満ち、感謝にあふれて歩むような平和を指しているのです。神は、クリスマスにお生まれになったイエスを通して私たちに与えようとしている平和はこれです。私たちの内側を喜びと命、自由と力に満たし、それによって、私たちが周りの人々との間に平和を作り出していくことができるようにしてくださるのです。

今年のクリスマス、私たちが世界の平和を祈ると共に、神様の力を頂いて、まずは自分の周りの人々との間に「波風が立たない」状態を超えた本当の平和を作り出していくことができますように。

2022年11月号<牧師室より>「小さき者と共に」

  先月、私たちの教会でずっと信仰の歩みを共にしてきた方が、神様のもとに召されて行かれました。92歳とご高齢ではあられましたが、もうしばらく共に歩む時間が与えられていると思っていたので、突然のことに本当に寂しさを感じています。ご遺族のために心から神様の慰めをお祈りしています。

 聖書の中に、このような言葉があります。

「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」(ヘブル人への手紙 11章4節)

 この「彼」というのは、聖書に出てくるアベルという人のことを指しているのですが、これは、私たちの信仰の先輩たちのことに当てはめて受け止めることのできる言葉です。

 天に召されたその方は、本当に多くの働きを担ってくださいました。オルガンやピアノでの奏楽、聖歌隊のメンバーとしての奉仕、そして、英語が第一言語の方でしたので、通訳や英語でのバイブルスタディーも担当してくださいました。本当に穏やかな、謙虚な方でした。大学の哲学の教授でしたから(それもニーチェの専門家)、多くの学びをしてこられたでしょうが、本当に幼子のように神の前に歩んでおられました。教会の人々を愛し、笑顔で迎えられる方でした。その彼が、時々厳しい表情をすることがありました。それは、社会的に弱い人、軽んじられている人が、不当な差別を受けたというニュースに接したときでした。ご自身も戦時中には日系人として強制的にキャンプに収容されたときもありましたが、その事についてはあまり触れることなく、それよりも、現代の社会の中での不当な差別に怒り、社会の断絶を嘆いておられました。彼が天に召されてから2週間が経ち、彼が遺してくれた信仰の遺産、「その信仰によって今もなお語っている」のは、このことではないだろうかと思わされています。

 イエスも言われています。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)

 まず、私たち自身が神様に愛されたその愛に満たされて、この社会の中で、今も弱い立場に置かれている方々のことを覚えて、声を上げ、行動を起こしていこう、そのように思わされています。

2022年10月号<牧師室より>「あなたの若い日に」

 時折雨の降る肌寒い日でした。神奈川県の三浦半島油壺海岸でブルブル震えながら洗礼を受けました。今から46年前の10月24日のことです。初めて自分の口で信仰を告白したのは小学校2年生の時でしたから、この時には「中学生になったのだから、もう十分大人だ、何を信じるかだって自分で決められる」と思っていました。

 でも今思うと、この時は本当にまだまだ子どもの信仰だったと思います。自分の心の醜さに自己嫌悪に陥ったことも、「本当は神なんていないんじゃないか?」と疑ってみたことも、「あなたはどうして信じているの?」と友だちに聞かれても説明できなかったことも、「自分は親から言われて信じているだけで、自分の信仰なんてないんじゃないか?」と思って葛藤したことも、洗礼の後の出来事です。本当の意味で信仰が確立したのは何年も後でした。

 それでも、自分が子どもの頃から聖書に親しみ、信仰の歩みを続けることができたことは本当に良かったなあと思います。

 聖書の中に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12章1節)という言葉があります。

 時々、「人生好きなことをして、いよいよ、というときに『神様ゴメンナサイ』とお祈りをして赦してもらったらいいのでは」という話を聞くことがあります。聖書の中にも人生最後の瞬間に信仰に導かれた人の話が出てきますし、お年を召してから信仰に導かれる方々もおられます。それは確かに素晴らしいことです。でも、若いときに信仰を持ち、その生涯、いつも聖書の言葉に支えられ、神様に支えられて、心にあふれるものを持ちながら歩むことができるのは何という幸せかと思います。

 教会で語られる「天国」もこの世の生涯を終えたあとに行くところ、という印象を持たれる方も多いかと思いますが、決してそれだけではありません。「あの世」だけではなく、「この世」でも「天国」の歩みをすることができるのです。この世の困難や闘いの中でも、いつも神様に支えられて、心が守られ、満たされて、歩んでいくことができるのです。信仰を持つのを先送りして、「この世の天国」を十分に味わうことができないのはとってももったいないことだと思います。

 一人でも多くの皆さんにとって、この地上での歩みが喜びにあふれたものとなりますように!

2022年9月号<牧師室より>「最後の生命線」

この一週間は牧師館のベッドルームにこもって過ごしています。はい、私も、とうとう新型コロナウィルスに感染してしまいました。症状は最初の2日間だけ、それも本当に軽く済みました。しかし、アメリカのCDCの基準では、今でも5日間の自己隔離+5日間はマスク着用、ハイリスクの方々には近づかない、ということで、もうしばらくは自宅勤務、9/4の礼拝はビデオでのメッセージになります。

 この自己隔離期間中、ずっと同じ部屋の中でじっとしている中で、メールや電話でのやりとり、Zoomでの祈り会など、この部屋の外の方々とのつながりが、どれほど励ましになり、力になったかと思います。

 ちょうど、9/4の礼拝で読む聖書箇所はイエスを信じる人々が、投獄されている中で神に祈り賛美をささげていた、というところです。今から2000年前、ネットや電話はもちろん、読むものだって個人で持つことができなかった時代、彼らは外とのつながりを持つことはできませんでした。しかし、そんなときにも切れない生命線がありました。それは神とのつながりだったのです。

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」(使徒の働き16章25節)

 彼らは投獄され、自由を奪われ、外との関係を断絶される中で、神に祈り、神から力をいただいて、賛美をしていたのです。そして、その賛美を他の囚人たちは静かに聞いていました。そして、そのことが、このあとの他の囚人たちや獄吏の行動を変えていくのです。

 今回、物理的には皆さんにお会いするのを控えていても、テクノロジーを通してつながっていることができています。それには本当に感謝しています。しかし、それが故に、彼らが経験したような神との親しさを私は経験できていないではないかと思います。

 新学期を迎えようとする中で「さあ、これから秋の活動再開だ!」と気負っていた私には必要な時だったのかもしれません。その必要がないときにも、敢えて時間を作って、一人になって、ネットや電話もすべて切って、静まって神を求めるときが大切なのではないか、そんなことを思わされています。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」詩篇46:10(口語訳)

2022年8月号<牧師室より>「ホンモノの平和を求めて」

 8月8日から12日までJOYJOYキャンプが持たれます。今年は「3年ぶりに日本に一時帰国してきます・・・」という方々が多く、いつもに比べてかなり参加者が少ないのですが、それでも、参加する子どもたちと楽しい時を過ごすことができれば、と思っています。

 今年のテーマは「ピースレンジャーズ」。

 ウクライナへのロシアの侵攻など不安定な世界情勢の中で、子どもたちにも不安が襲ってきている今の時代。でも、それは決して、遠くの国の話ではなくて、自分の身の回りにも小さないざこざが起こっている。そんなときに、どんな状況の中でも、子どもたち自身が心の平和を与えられて、周りに平和を作り出すようになってほしいなあ、という思いをこめてこのテーマに決めました。

 イエスの言葉にこのようなものがあります。

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34)

 これを読むと「えー、どういうこと?」と思います。イエスは他のところでは、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9)とも言われているのですから。

 では、これはどういう意味なのでしょうか?それは、「表面的な、見せかけの平和を壊して、本当の平和を作り出すのだ」ということです。事なかれ主義の平和、波風が立たない平和、とりあえず戦いが起こっていない平和、そのような表面上の平和ではなく、本当に中身のある、喜びがあふれる平和を目指していくのだ、ということです。9-11の日、その朝まで世界は平和だと思っていました。でも、それはただ、アメリカの軍事力や経済力によって、世界の人々が黙っていることによって保たれている平和に過ぎないことを私たちは見せつけられました。

 簡単な道ではない、でも、この不安の時代の中にあって、まず、私たちは内側に神様からの平和をいただいて、その平和をもって、平和のメッセージを周りの人に語っていく、自分の周りに平和を作り出していく、家庭から、職場から、友人関係から平和を築いていく、そんな働きが始まるきっかけとなったら、と願っています。どうぞ、お祈りください。

2022年7月号<牧師室より>「どんな時代にも変わらないもの」

7月になりました。2022年も半分が過ぎ、後半に入ります。

 振り返ってみると、この半年、多くの出来事の中で心乱されることが多かったと思います。なかなか終わらないコロナ感染。ロシアのウクライナ侵攻。アメリカ各地で続く銃の乱射事件と、それにもかかわらず一向に進まない銃規制。そして、6月の終わりには、人工中絶についての連邦最高裁の判断が49年ぶりに覆りました。本当に心が騒ぐ出来事が続いています。

 私たちの教会は、今年は「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)という聖書の言葉を与えられて歩んできました。私たちはどうしても、後半の「愛をもって互いに仕え合いなさい」という言葉に目が行きます。ですから、なおさら、このような社会に対して、分断が進み、対立する価値観が衝突する時代の中で何をしたらいいのか?何を発信したらいいのか?と思わされます。このような社会の中で、「互いに仕え合う」とはどういうことなのでしょうか?

 そのために、私たちはこの聖書の言葉の前半に注目すべきです。それは「自由を得る」ということです。まず私たちが自由になることです。この聖書の言葉が書かれた時代は、「宗教的戒律」が人々を不自由にしていました。「〜しなければいけない」「〜をしてはならない」というような、戒律が人々を縛っていました。イエスは、そこから人々を解放し、神の愛に満たされる歩みを人々に与えたのでした。私たちは何に縛られているでしょうか?世のしがらみや、価値観、人々の期待や、「こうでなければならない」という先入観、そのようなものでしょうか。子どもの頃の経験でしょうか?その時にかけられた言葉でしょうか。それらに縛られている私たちをイエスは解放してくださるのです。そして、私たちを義務感ではなく、喜びと感謝に満たして、人々に仕える者へと変えてくださるのです。

 ですから、まず私たちは「〜しなければならない」というところから解放していただくことが大切です。人々にどんなことを期待されているのか、それを気にして、それに応えることもやめましょう。そして、私たちを無条件で愛し、受け入れてくださる神の愛に目を留めましょう。その神の愛への感謝に満たされて、今、私たちの周りで痛みや苦しみの中にいる方々に仕える働きをさせていただこうではありませんか。時代は変わっても、課題は変わっても、芯になる部分は変わりません。神様の愛に押し出されて、周りの人々を愛する、そのような歩みをさせていただこうではありませんか。

2022年6月号<牧師室より>「平和を作り出す人」

 5月の後半は、立て続けに銃乱射事件がアメリカ各地で起こりました。ニューヨーク州のバッファローでは、グロサリーストアで多くの買い物客が人種差別主義者の犠牲になりました。カリフォルニア州のオレンジ郡では、台湾系の教会に高齢のお母さんを迎えに行った息子さんが、政治的な信条を持った人の凶弾に倒れました。そして、テキサス西部の町では、21人もの無力な小学生と先生たちが、怒りに支配された若者の犠牲になりました。犠牲になった方々のこと、ご遺族のこと、巻き込まれたすべての方々のことを思うと、胸が張り裂けそうになります。

 銃規制が必要なことは確かですが、なかなかそれが進まないことに、無力さを感じさせられています。そして、私は何ができるだろうかと思わされています。教会はこのような社会の中でどんな使命を与えられているのか。ただ、自分たちの建物の守りを固めて、それでいいのか、ということを思わされています。(先月の月報でも、同じようなことを書いていましたね。)

 2月に始まったロシアのウクライナ侵攻の中でも、神の守りを祈ること、苦しんでいる方々のためにできることをすること、その他に、何ができるだろうかと思わされます。大きな国の政治的な力の前に何もできない無力さを感じさせられます。

 そのような中で、やはり、私たちに託されているのは、私たちお互いの間に、そして、身近なところにいる方々との関係の中に、平和ももたらすことなのだと思わされます。大きなことを言う前に、まず私たちの心の中に、神様からの平安を与えていただいて、そのいただいた平安をもって、周りの人々のところに出て行くことです。神はいつも、個人の内側を造り変え、それによって、周りの人々との関係を造り変え、社会に対してインパクトを持つ者として用いてくださるのです。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」

ヨハネによる福音書14章27節

 社会の分断が進むこの時代、冷静な対論ができずに、相手を非難し、「はい、論破!」と勝手に決めつけて、自分の考えだけが正しいと思う風潮が広がっているこの時代に、私たちはまた、本当に単純に、一歩一歩自分の周りから小さな平和を少しずつ作っていこうではありませんか。

2022年5月号<牧師室より>「出て行く使命」

多くの方々の目に留まる月報にこのことを書くのはためらっていたのですが、半年経って、ずいぶん落ち着いてきたので、書きますが、昨年の9月に牧師館に空き巣に入られました。

 金曜日の夜の集会のために教会に行っていて、帰ってきたら、玄関のドアが少し開いています。「あれ、ちゃんと閉めたはずだったけれども・・・」と思いつつ、中に入ったら、キッチンのキャビネットがすべて全開。「こんなに開けっぱなしにしたっけ・・・、もしや・・・」と思って、ベッドルームに行ったら、引き出しの者が全部引っ張り出されていました。慌てて9-1-1に連絡、「まだ中にいると大変だからすぐ外に出て!」と言われて、外で待っていたら、程なく警察が来て、中を調べてくれて、「もう誰もいない、大丈夫そうだ」と中に一人ずつ入れてもらって、なくなっているものを調べて、すべてが終わったのが夜中の2時頃でした。

 幸いほとんど実害がなかったのですが、勝手に自分たちの生活空間に土足で入られて、部屋を荒らされたことのなんとも言えない嫌な感じはしばらく消えませんでした。

しかし、そのような中で、その日の集会のために与えられていた聖書の箇所、「正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(詩篇112:7-8)の言葉がどれほど大きな支えになったか分かりません。

 その後、教会の皆さんがご心配くださって、牧師館にセキュリティーシステムを入れていただいたのですが、その頃から一つの思いが心に与えられました。

「果たして、これで終わりでいいのだろうか?自分たちの生活空間を守ることは大切だけれども、自分たちの周りの守りを固めて、壁を作って、それで終わりでいいのだろうか?」と。

 自分たちも空き巣に入られても、金目のものは何も出てこないようなレベルだけれども、少なくとも、安心して眠れて、日々の必要が満たされている。その一方で、空き巣をして生活をしているような人々もこの周りにはいるのだ、そんな中で、自分たちだけ守りを固めて、それで終わりでいいのだろうか?と。

 教会はこの世に出て行く使命を与えられています。4月15日まで毎週持たれたレント集会でも、私たちはこの世に仕える使命をいただいていることを再確認しました。この空き巣事件を通しても、神様が私たちに「この世に出て行きなさい」と導いておられることを感じています。どうか、神様が私たちに与えてくださっている使命を果たすことができるようにお祈りください。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」ヨハネによる福音書15章16節

2022年4月号<牧師室より>「復活の力にあふれて」

 4月になりました。もうすぐ、春の訪れを告げるイースターがやってきます。イースターはイエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことをお祝いする日。ちょうど、すべての木々が枯れ、すべてのものが凍りついた冬を越えて、自然界に命があふれるこの春に、イエスの復活をお祝いするイースターがやってくるのは、とても意味深いことだと思います。

 今から2000年前、イエスが十字架につけられた時に、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げていってしまいました。「どこまでもついて行きます」「たとえ、命を捨てることになっても、あなたをおいて逃げたりしません」と言っていた弟子たちでした。しかし、実際にイエスが捕らえられると、彼らは、蜘蛛の子を散らすように、逃げていきました。また、その後も、人々を恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたと、聖書は語っています。

 しかし、彼らが復活のイエスに出会った時に、彼らは変えられました。人々を恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちは、復活のイエスに出会ってからは、出て行って、命の危険をも恐れずに、イエスの復活を語っていくようになったのです。それだけではなく、迫害や困難の中でも人々を受け入れ、愛し、仕えていきました。そして、彼らの人生に触れられた人々はまた変えられていきました。そして、その信仰は、次の世代、また次の世代と受け継がれ、そして、300年の年月をかけて、なんの権力も軍事力もなかった教会が、強大な権力を誇ったローマ帝国をひっくり返してしまったのです。

 今、私たちは、戦争が起こり、軍事力や経済力の強さがものを言うかのような時代の中に生きています。しかし、それは2000年前も同じでした。ローマ帝国の軍事力の前では教会は無力のように見えました。しかし、教会がその使命に生きていった時に、世界が変わっていきました。その同じ復活の力が、今日も信じる時に、私たちに与えられます。私たちも、自分の力は弱くても、イエスの復活の力を内側にいただいて、この世界にインパクトを与えるような生き方をさせていただくことができるのです。

 今年のイースター、お一人一人のうちにこのイエスの復活の力が満たされて、新しい歩みをスタートすることができますように。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」第一コリント15章55節

<牧師室より>2022年3月号「恐れないで愛しなさい」

 ニューヨーク・ニュージャージー地区は12月に急に広がったコロナ感染も落ち着いてきて、やっと教会の働きも対面で再開できる、というところまで来ました。今、さあ、これからまた再出発だ、という思いでいます。

 そのような中でのロシアのウクライナ侵攻のニュースには、本当に心が痛みます。今も、祖国の危機の中にいる方々、身の危険を感じながら歩んでおられる方々のために祈ります。そして、世界は、これから私たちはどこに向かっていくのだろう、という不安に襲われています。

 そのような状況の中で、私たちはしばしば「世の終わりがやってくる」「世界最終戦争だ」というような声を耳にします。

 確かに、聖書は私たち一人一人の人生に終わりの日があるように、この世界にも終わりの日が来るのだ、と語っています。そして、その前兆として、疫病が起こることや戦争や戦争の噂が起こることを預言しています。そのことを心に留めておくこと、忘れないでいることは本当に大切なことだと思います。しかし、それと共に、聖書が「そういうことが起こっても、慌ててはいけない」「そのような状況の中で、人々の愛が冷めることがあっても、あなたがたは、神を信頼して、愛に生きなさい」と語っていることにもっと注目すべきなのです。

 元々、このロシアのウクライナ侵攻も、ロシア側の「恐れ」から始まったことです。ウクライナがNATOに加入するならば、ロシアにとって脅威となるのだ、という恐れです。そのような恐れに支配された人々は、周りの人々を恐れで支配するようになります。そして、恐れない人々に対して、もっと強い圧力をかけていきます。私たちはその恐れの連鎖を断ち切ることが必要なのです。

 聖書は語ります。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」(第一ヨハネ4:18)

 私たちはこのような世界の中でどのように愛を表すことができるでしょうか?どのように愛に生きることができるでしょうか?

 今年も3月2日のAsh Wednesdayから、4月17日のイースターまで、教会はイエスの十字架の苦しみに心を向けるレントの期間に入ります。今年も、私たちの教会では毎週金曜日の夜に「レント集会」を持ちます。今年は「レントの再発見」というテーマで、このような状況の中でレントの期間をどのように過ごすのかを共に考えていきます。ウクライナのために祈る時も持ちます。是非ご参加ください。詳しくはこちらの案内から。

<牧師室より>2022年2月号「解放されたのだから・・・」

2022年がスタートしました。

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」ガラテヤ5:13

 今年はこの聖書の言葉が私たちの教会に与えられています。

 私自身、イエスと出会って、本当に自由にされたなあ、と思います。

 私は、教会で育ちました。でも、本当の意味でイエスに出会っていなかったのだと思います。その頃は、「もっといい子でなければいけない」「クリスチャンらしく生きなければいけない」というプレッシャーを自分にかけて、がんじがらめになっていました。

 しかし、ある時、私は、自分がそのようなプレッシャーの中でも、そのように生きられない、外側はクリスチャンっぽく生きることができても、内側は醜い思いでいっぱいだということに気がついてしまったのです。

 ですから、私は2つの意味で縛られていたのでしょう。一つは「自分はクリスチャンなんだから、こう生きなければいけない」という義務感であり、また「思ったような生き方ができない」という自分の無力さでした。

 しかし、そんな自分の姿にがっかりする中で、私はイエスに出会いました。そんな生き方しかできない、私のために、イエスが罪を背負って十字架にかかってくださった、ということが、わかったのです。私が立派だから、私が「神様に喜ばれる生き方」をしているから、神様は私を愛してくださったのではなく、内側は醜いものでいっぱいなのに、外側だけは飾っているという偽善的な生き方しかできない私をも愛してくださったのだと、わかったのです。

 その時に、私は本当に自由になりました。解放されました。どう思われるか、ということよりも、この愛にどう応えていこうか?ということが心を占めるようになりました。

 聖書は、そんな自由が与えられたのならば、「その自由を隣人を愛するために使いなさい」と語っています。2022年、この御言葉をいただいて、まず、その自由を確実に自分のものにする、何かに縛られる生き方ではなく、神様に愛されている喜びに押し出されて生きる歩みをさせていただきたいと思います。そして、その自由を、自分勝手な生き方をするためではなく、周りの人々を愛するこのために用いていきたいと思います。

 その時にまた、「愛するってどういうこと?」ということが問われていきます。その問題にもじっくり取りかかっていこうと思います。愛すること、仕えること、お互いに対して、またこの地域に住んでおられる方々に対して、どんなことをすることなのだろうか、求めながら、問いかけながら、実践していこうと思います。神様がこの1年を豊かに祝福してくださいますように!

牧師室より2022年1月号「足下を照らす光をもって」

明けましておめでとうございます。

2022年もどうぞよろしくお願い致します。

12月の下旬、いよいよクリスマス、というときになって、オミクロン株の出現により、新型コロナウイルスの感染が爆発的に広がり、私たちの教会は24日のクリスマスイブのキャンドルライトサービスから、再再度、教会のすべての集まりをオンラインに移行しました。とても残念なことでしたが、お互いや、教会に新しく集う方々、一人一人の家族や友人、またこの地域全体の安全を最優先しての決断でした。

この2年間、何度も同じようなことを書いてきたような気もしますが、「あ、出口が見えてきたかな」というときに、「ああまだ先なのか・・・」ということが繰り返すと、ダメージがボディーブローのように効いてきますね。

そんな私たちのために、聖書はこのように語っています。

「あなた(神)のみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105

トンネルの中で、出口が見えることはうれしいことです。しかし、たとえ、このトンネルがいつまでも続くものであったとしても、もしも、足下を照らす光があるならば、恐れないで、一歩一歩歩み続けることができます。聖書は、「神の言葉こそ、神からの語りかけこそ、私たちを守り、導き、暗闇の中でも、希望を持って歩ませてくれる光なのだ」と語るのです。

2021年は、私にとって、本当にこれはそうだなあ、と思わされる1年でした。自分は本当に神の言葉によって、聖書の言葉によって支えられて、生かされているのだ、ということを感じさせられました。困難の中で、悔しいこと、悲しいこと、不安になるようなことの中でも、「恐れるな」と語り、「私はあなたを大切に思っているから」「私が共にいるから」と語ってくださる神の言葉が慰めであり、力でした。

2022年、また、私たちは聖書の言葉を信頼して歩み始めます。毎朝聖書の言葉を少しずつ読んで、それを味わう「日々のみことば」をEメール配信しています。あなたも、毎朝、聖書の言葉を読んでスタートしませんか?ご希望の方はこちらからご登録ください。このトンネルがどこまで続くとも、また、トンネルを抜けた先でも、聖書の言葉は、あなたの人生を照らす光となることでしょう。

牧師室より2021年12月号「神はどこにおられるのだろう」

サンクスギビングを過ぎて、いよいよホリデーシーズンだ、というところに水を差すように、新型コロナウイルスの「オミクロン株」出現のニュースが出てきてしまいました。7月の独立記念日のころ、ワクチンの広がりでずいぶん状況が落ち着いて、ああ、もう大丈夫なんだ、と思ったところに出てきたデルタ株、それが落ち着いてきた頃に出てきた、今回の変異株・・・。まだ詳しいことはわかっていませんが、出口が見えてきたかな、と期待したところに出てくる悪いニュースには、「またか・・・」とがっかりしますし、それは私たちへの心へのボディーブローのように効いてきます。

私たちは困難の中で、しばしば「神はどこにおられるのだろう・・・」と思います。「神がおられるならば、どうしてこんなことが起こるのだろうか?」と。

聖書はイエスが2000年前、ユダヤのベツレヘムで生まれたときに、「飼い葉桶の中に寝かされていた」と語っています。以下はルカによる福音書に出てくる天使の言葉です。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(2章11-12節)

「飼い葉桶の中に寝かされている赤ん坊」・・・それが救い主のしるしだったと聖書は語っているのです。「しるし」というのは「目印」という意味よりも、「象徴」という意味です。この救い主はどういう救い主かというと、低いところに降りてくる方であり、誰にも注目されないようなところに目を留め、共に歩んでくださる方なのだというのです。私たちは、多くの場合、「救い主」は力があって、カリスマ性があって、多くの人に注目されるそういう存在だと思っています。しかし、クリスマスに神から送られた救い主は「飼い葉桶」をトレードマークにするような、「こんなところに・・・」というところに来てくださる方だというのです。

今もそうです。神はすべてを超越したところで、超然と人間の苦しみを見ておられる方ではありません。神は、私たちが「神はどこにおられるのだろうか?」と悩み苦しむ現実の中に、来てくださいます。今も、がっかりして、落ち込んで、悩んで、苦しんでいる私たちの現実の中に共にいてくださるのです。今、あなたが苦しみの中におられるならば、神はあなたのそばにいてくださいます。一番近くにいてくださる方です。このクリスマスの時、まだまだ先が見えませんが、この困難の中で、私たちと共に歩んでくださる神に、イエスに目を留めてみませんか。

<牧師室より>2021年11月号「すべてのことについて感謝しよう!」

 今年も早くも11月になりました。11月25日はサンクスギビングデーです。

去年の11月号の月報を読み返してみたら、ちょうどその頃、新型コロナ感染の第2派が始まったところ。まだワクチンも承認される前で、寒くなっていく時に感染拡大が心配されていたときでした。そして、もう一つ、11月の初めには大統領選挙があって、結果によっては暴動が起こるのではないかと心配されていました。(新型コロナ感染は恐れていた通りになり、また大統領選挙の結果を受けての混乱は翌年1月の連邦議会議事堂への襲撃事件へとつながっていきました。)本当に大きな不安の中で、サンクスギビングを迎えたのだなあ、と思い出していました。

コロナ禍での2回目のサンクスギビング、そして、12月のクリスマス。ワクチン接種の広がりで、1年前のような大きな不安の中にいるわけではありませんが、まだまだ気を抜けない状況です。これから寒くなっていく中で、何よりも、いつものように、多くの皆さんと楽しい時間を一緒に過ごせないのは残念です。しかし、元々サンクスギビングは、アメリカ大陸に渡ってきた人々が寒く厳しい冬を乗り越えて、翌年の収穫を祝ったことが始まりですし、クリスマスは、暗闇を照らす光としてこの世に来られたイエスの誕生を祝う時。困難や問題の中でこそ、その意味を深く知ることができるのではないでしょうか。

聖書は「感謝」について、このように語っています。

「すべてのことについて感謝しなさい。」第一テサロニケ5章18節

「すべてのことについて」です。私たちは「心から感謝したいこと」については、「あ、いつも感謝しなきゃいけないな」と反省することは必要だと思いますが、感謝すること自体は、それほど難しくはありません。しかし、「普通感謝できないこと」「とてもじゃないけれども感謝できないこと」について、感謝することはとても難しいことです。しかし、聖書は、それらについても、そんな状況の中でも、「感謝しなさい」と命じているのです。それは自分の力ではできないことですが、神様はそれをする力を与えてくださるのです。

今年のサンクスギビング、教会では、昨年に続いて今年も、例年のような愛餐会(食事会)はできませんが、でも、心から、神様に感謝をささげる「感謝祭礼拝」をささげます。11月21日(日)午後1時半から。是非、お出かけください。そして、困難の中でも、感謝をささげる時に与えられる祝福を経験させていただきましょう。

<牧師室より>2021年10月号「踏み出すときに開かれる道」

先月の月報で、NYでの礼拝をスタートすることをお知らせしました。「沖へこぎ出しなさい」との聖書からのメッセージを受け取って、踏み出す思いを書かせていただきました。そして、9月12日、ついにその日がやってきて、第1回のNYマンハッタンでの礼拝がスタートしました。初めての場所で、わからないことや、あれ、こんなはずじゃなかった,などということもあるだろう、当日になってバタバタすることあるだろうと思い、何度も確認し、緊張して会場に向かいました。早く着いたのですが、駐車スペースを探してぐるぐる回りました。結局有料駐車場に車を止めて、会場に歩きました。一緒に祈りつつ、準備を進めてきた皆さんと現地で合流し、会場に入りました。予想通り、バタバタ準備をしましたが、いざ、始まってみると、本当に自然で、いつものNJの教会でささげている礼拝と全く変わらないように思いました。期待していた以上の方々がおいでになり,心から感謝して共に神様に礼拝をささげました。

聖書の中に、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民がヨルダン川を渡る場面が出てきます。時は麦の収穫の時期、ヨルダン川は上流の山々の雪解け水で水量が増えていました。そのような時に民はこのヨルダン川を渡って向こう側に行くようにと、神から導きをいただいていたのです。せめて川の水量が少ないときにしてくれたら、どんなに楽だったろうか、と思ったことでしょう。しかし、神はこのタイミングで「進みなさい」と民のリーダーに語りました。その語りかけに彼らは従ったのです。そして、このように書かれています。

「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、-ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、- 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられた」(ヨシュア記3:15-16)

民の先頭を歩く人々の足が水に着くと同時に、その川の水は枯れ、乾いた地になりました。そして、民はそこを通っていくことができたのです。

私たちの歩んでいく道にも、しばしば、先がはっきりと見えないのに、完全に準備ができているわけではないのに,踏み出していくことを求められるときがあります。そんなとき、踏み出したときに見えてくる道があるのです。踏み出したときに開かれる道があるのです。ですから、勇気を出して踏み出していくことが大切なのです。

NYマンハッタンでの礼拝、10月はまた第2週、10日の日曜日午前10時15分からです。教会の礼拝はいつでもそうですが、クリスチャンであるなしに関わらず、皆さん大歓迎です。是非お出かけください。詳しくはこちらのチラシをご覧になってください。神様がこれからも道を開き続けてくださいますように。

<牧師室より>2021年9月号「沖へこぎ出しなさい」

ずっと祈ってきましたが、9月12日から、まずは毎月1回からですが、第2日曜日の午前中に、NYでの礼拝をスタートします。NY市の郊外に位置する私たちの教会には、ずっと、NY市から来られる方々が多くおられました。また、車の便が必要な方々のことを覚えて、送迎の車も出してきました。それでも、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

それが、2020年からの牧師としての任期を更新するかどうか、祈っている中で、この任期の中でNYでの礼拝をスタートすることができないだろうかという思いが強くされていきました。元々、2020年の9月スタートを目指していたのですが、コロナで多くのことが制限される中で、この計画も延期になりましたが、この延期を通して、2021年の初めからは、このために心に重荷が与えられた方々と共に語り合い、祈り合い、備えることができました。そして、今年の6月2日のNYでの礼拝のための祈り会のために準備をしている中で、

「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」ルカ5:4

の聖書の言葉が心に響いてきました。この言葉は、夜通し働いて、でも、何も獲れずに、がっかりし、疲れ果てて、網を片付けていた漁師のペテロに向かってイエスが言われた言葉でした。ペテロはいろいろ言いたいことはあったでしょう。理由をつけて、イエスの言葉から逃げることもできたでしょう。しかし、最終的にはこのイエスの言葉に従った時に、網が破れそうになるくらいの多くの魚が捕れたというのです。この言葉を心に与えられたときに、私自身は、これをNYでの礼拝をスタートするための、神様からの語りかけと受け取りました。従うときに、祝福が与えられる招きであると思わされたのです。

どうか、皆さん祈ってください。この働きを通して、神様を知る方々が起こされますように。イエスに出会い、イエスに心を触れていただいて、新しくされる方々が起こされますように。また是非、お知り合いをご紹介ください。一人でも多くの方々に届くことができますように。案内はこちらから。

「期待通りに行かなくても」

先月の月報では「オンラインからin-personへ」と題して、「オンラインだからできることもあるけれども、やはり私たちはin-personを大切にしていこう」と訴えました。ワクチン接種の広がりによって、6月末には人口900万人のNJ州の日々のコロナ感染者数が100人台まで落ち、あちらこちらの病院でコロナ病棟が必要がなくなり、閉鎖されていきました。多くの規制が撤廃され、社会の中には平常の生活への回帰に向けての期待が高まっていました。それが、この1ヶ月で、一日の感染者数が何倍にもなり、病院に入院する方々も増えてきています。変異株の広がりによって、ワクチンを打っても、重症化は避けられても、感染をとどめるのは難しいということも起こってきているようです。ちょっと雲行きが怪しくなってきたなあ、と思います。

実は先月号の月報を準備していたときにも、全くこのようなことが想像できなかったわけではありません。ですから、「こんなことを書いて大丈夫かな。あまりにも楽天的すぎはしないだろうか?」とも考えました。しかし、私たちがこの後どういうことが起こってくるかわからない、だから、「ちょっと早すぎた」と撤回することがあるかもしれない、でも、私たちはその場その場で、最善の選択をしていく、そのことの大切さを思わされています。

聖書の中にこのような言葉があります。

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)

私たちはいろいろ計画するけれども、結局は神のみ思いが実現していくのです。だから、「どうせ考えたってダメだよ」ではなく、計画が変わるかもしれないということを心に留めて、人間としての限界を受け止めて、謙虚になって、神様を信頼して、その場その場での真摯な決断をしていくのです。最善の計画を立てていくのです。そこにこだわるのではなく、オープンな心を待ちながら、最善の選択をしていくのです。

多くの方々がワクチンを打っている現状で、これ以上あまり大きな広がりは起こらないことを期待しています。今までの研究の通り、感染者が重症化しないことを祈ります。しかし、決して自分の願っているデータや研究だけを選んで信じるのではなく、謙遜な思いで、与えられた状況の中で、最善の選択をしていこうと思います。神様がこれからの歩みも守り導いてくださいますように。

<牧師室より>2021年7月号「オンラインからin-personへ」

「おお、久しぶり・・・っていうか、いつも、画面越しで会っていたのですけどね・・・なんだか、やっぱり違いますね」そんな会話をどれだけしたことでしょうか?

新型コロナウイルス感染の状況が落ち着いて、いろいろな規制が緩和されている中で、6月は教会の礼拝以外のいろんな集まりも、少しずつオンラインからin-personに変更されてきました。「Ridgewood聖書を読む会」「Friday Nightオアシス」、そして、子どもたちのための「JOYJOYキッズクラブ・チャレンジクラブ」はin-personでの集まりをスタートしました。また、昨年オンラインで新しくスタートした「親子クラス」もピクニックを教会で持つことができました。教会の礼拝もZoomでつないで、オンラインでも参加できるようにしていますが、それでも、少しずつ、教会堂に集まる方々が増えています。そこで本当に感じることは、「やっぱり会うと、違うね」ということです。

いろいろなご事情で、どうしても集まれない方々、また、遠く離れていて、近くに日本語教会や、通える教会がない方々にとって、このオンラインでの働きは、本当に大きな助けになっていることと思います。コロナ感染が広がって、必要に迫られて、スタートしたオンラインでの働きですが、私たちの思いを超えて、大きな可能性を持っていると思います。今、教会でもたれている集まりの中にも、このままオンラインで集まっていくことがいいのではないだろうか、というものもいくつかあります。

それでもなお、やはり、物理的に集まる中で伝わることがたくさんあります。対面で会うことによってできる会話もあります。可能な限り、時間と労力を費やして、物理的に集まって礼拝をささげ、励まし合い、祈り合っていくことによって生まれる関係があります。それはやはり神様が、私たちにこの物理的な体を与えてくださったからでしょう。

「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 ・・・わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。」詩篇139:13-16

教会は心を大切にする、という側面があります。聖書の中にも「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉があります。しかし、私たちはこの体を離れて、この地上で生きていくことはできません。この体は神様が与えてくださった大切なものなのです。だから、礼拝をささげるときも、互いに思いを伝えるときも、体全体を用いて、思いを表していくのです。

このまま感染状況が落ち着いて、日常を取り戻す日が一日も早く来るようにと祈っています。もっともっと自由に、何の心配もなく、神様が与えてくださったものすべてをもって礼拝し、励まし合い、祈り合うことができますように。

<牧師室より>2021年6月「感謝しよう」

昨年の終わり頃から始まって、今年になって大統領が代わってから本格化したワクチン接種。3月ごろからは多くの人々に行き渡るようになってきて、5月には一気にその効果が出てきたのでしょうか、規制が緩和されていく中、NJ州の感染者数は1ヶ月で5分の1に。ほぼ規制も解除され、日常が戻ってくるのでは、と期待が広がっています。最新の技術でスピード承認されたことなど、心配がないわけではないですが、このワクチンの効果は本当にすごいなあと思います。

考えてみたら、私たちは子どもの頃からたくさんのワクチン接種を受けてここまできました。天然痘も、結核も、狂犬病も、はしかやインフルエンザ、ポリオ、ジフテリア、黄熱病、日本脳炎、B型肝炎、破傷風も、まだまだ色々ありますが、ワクチンがあるから守られている、というところがあります。

でも、考えてみれば、私たちの体の中で私たちを守っているのはワクチンではなくて、免疫なんですね。私たちの中に元々あった免疫力がワクチンによって呼び覚まされて、私たちを守っているのですね。真摯に研究を続けてこられた科学者の皆さんの努力に感謝すると共に、私たちのうちに免疫を与えてくださった神様にも感謝します。

「高ぶりが来れば、恥もまた来る、 へりくだる者には知恵がある。」(箴言11:2)

信仰と科学は対立的に説明されるときもあります。教会が科学者たちの研究の成果を軽んじた時代もありました。今でも科学を否定するのがクリスチャンの信仰だと思っている方々もおられます。しかし、科学は元々、神が造られたこの世界をより深く理解するために発展してきたもの。神様は科学も用いて、私たちを癒し、生かし、支えてくださるのだと思います。そのための道具です(だからこそ、科学が神にとって代わってしまってはいけないのですが・・・)。私たちはこのコロナ禍の中で、テクノロジーの助けをもらって、教会の集まりを続けてきました。公衆衛生学や疫学によって、どのように集まることができるかを教えてもらいました。そして、今、ワクチンの効果で再び自由に集まることができるのではないか、というところまで来ました。本当に多くの人々の働きに支えられています。科学者の皆さんの真摯な研究に対して、本当に謙虚な気持ちをもって、歩ませていただきたい。今、1年あまり続いた自粛生活から、ちょっと解放された気持ちになって、そんなことを思わされています。

<牧師室より>2021年5月号「教会って何?」

みなさん、「教会」といえば、どんなことを思い浮かべますか?

大聖堂、トンガリ屋根の上に十字架がついている、きれいなステンドグラス・・・などを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?しかし、実は、それは「教会堂」であって、「教会」ではありません。聖書で「教会」というと、「人々の集まり」のことを指しているのです。美しい教会堂、それはすばらしいものです。しかし、そこにどんな人々が集まり、どんなことがなされているのか、の方がずっと大切なのです。

イエスは、弟子のペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白をしたときに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われました。ここで、イエスが「わたしの教会」と言われたのは、建物のことではなく、人々の集まりのことでした。そして、「教会堂」は教会の人々が集まり、また地域に対して働きを進めて行くために用いられていくものです。

わたしたちの「教会」が創立してから33年が経ちましたが、そのスタートの頃からずっと「教会堂」を求めてきました。わたしたちの地域で新しく教会堂を建てる場合には、クリアしなければならない規制が多くて、「土地を買って、そこに教会堂を建てて・・・」というプロセスは本当に困難です。そこで、すでに教会堂として使われている建物を購入することを目指して、積立をしながら、候補物件を探しています。先月、一つの教会堂候補物件が売りに出されました。わたし自身がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになってから26年半になりますが、今までの経験の中で、一番わたしたちにふさわしいと思われるような建物でした。ですから、その建物を買うことができればと思いました。あまり時間がありませんでしたが、共に祈りました。購入のためのオファーも入れました。しかし、残念ながら、わたしたちはこの教会堂を手に入れることはできませんでしたが、そのプロセスの中でずっと思わされていたことがありました。「教会堂」も大切だけれども、「教会」がもっと大切だ、ということです。もしも、この教会堂がわたしたちに与えられたとしても、「教会」が「教会」として更に整えられなければ、神様は喜ばれない、神様の栄光は現されない、そう思わされてきました。ですから、「神様、教会堂を与えて下さい。そして、そのプロセスの中で、教会を教会として整え、守り導いて下さい」と祈らないではいられませんでした。

今回の候補物件は、他の教会が買うことになりました。それはそれで、神様の働きのために用いられるのですから、わたしたちにとっては喜ぶべきことです。そして、またわたしたちは、神様が教会堂取得のために道を開いてくださることを祈りつつ、「教会」が更に整えられ、成長していくようにと願っています。一歩一歩の歩みの中で、神様が素晴らしいことをしてくださいますように。みなさんも、どうか覚えてお祈り下さい。

<牧師室より>2021年4月号「この国で共に歩むこと」

ハッピー・イースター!

厳しかった冬、地面を覆っていた雪が融けて、色とりどりの花が目を楽しませてくれる季節になりました。春の訪れを告げるイースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。イエスは、私達にとって、最大の敵で、究極の敵であり、最後の敵である死を打ち破ってよみがえられました。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。」(第1コリント15:55)

しかし、私達の敵はそれだけではないですね。もしかしたらこちらの敵は更に巧妙かもしれません。それは、このイースターのお祝いに水を差すように、アメリカ広がっているアジア系の人々に対する嫌がらせやヘイトクライムです。私自身は人生の半分をアメリカで過ごしていますが、実際にそのような偏見で嫌な目にあったことはありませんし(忘れてしまった可能性はありますが・・・)、反対に多くの人々に助けられ、支えられて、ここまで来たことを感じています。しかし、それは単に私が恵まれていたというのもあるでしょうし、また、生活のほぼ全部の時間を日系コミュニティーの中で(私達の教会は決して人種や国籍で区分けをしているのではなく、「日本語」というコミュニケーションの手段で集まっていますが、実際にはアジア系のみなさんがほとんどです)過ごしているがゆえに、わからないのだと思います。実際、子どもたちに聞くと、少なからず、アジア系であるがゆえの差別や偏見を受けることもあるようです。この敵は、私達を分断させ、互いの間に不信感を植え付け、共に歩んでいたお互いが対立するように仕向けるのです。

このような時に、私達はどうすればいいのかと思います。他のマイノリティーの人々と連携をして声を上げることも必要かもしれません。差別や偏見の実態を明らかにして、問題の本質が何かを社会に問いかけることも必要でしょう。しかし、それと共に、聖書が語っていることを私達の現実に当てはめて実践していくことが大切だと思います。

「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 」「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:18&21)

偏見や悪意に対して、愛をもって答えていく、そこに私達は招かれています。問題から目をそらしてしまうのではなく、問題に目をつむって我慢してしまうのでもなく、問題のない世界に逃げ込んでしまうのでもなく、そして、また、ただ単に被害を声高に叫ぶことに終始するのでもなく、神の愛を頂いて、出ていって神の愛を伝えていくその使命に立たせていただこうではありませんか。

<牧師室より>2021年3月号「進み寄って、並んで行きなさい」

3月11日は東日本大震災からちょうど10年の日です。3月7日にはわたしたちの日曜日の礼拝を東日本大震災のメモリアル礼拝としてささげます。この日を覚えて、大切な方、大切なものをなくされた方々、今も痛みの中に歩んでおられる方々のために慰めをお祈りします。

メモリアル礼拝に備えて当事者の方々、支援活動をされている方々からのメッセージが届き始めていますが、それに触れる時に、次の聖書の言葉が心に響いてきました。

 

「進み寄って、・・・並んで行きなさい」(使徒行伝8:29)

 

自分たちも被害を受け、多くのものを失った人々や教会が、この聖書の言葉の通りの行動をして、地域の人々のところに進み寄って、歩調を合わせて、並んで歩んでおられます。津波や原発事故で建物を失い、新しく建てられた教会堂に、地域の人々をお招きしている教会、また、出ていって復興住宅の集会所で人々と触れ合う集まりをもっておられる教会、地域のリーダーと手を携えて人々に仕えている教会、今の新型コロナウィルス感染拡大によって働きが制限されている中でもなんとかして、地域に仕える働きをされている皆さんの姿に、心揺すぶられる思いがします。わたしたちもそこに歩調を合わせて、並んで歩んでいくようにと招かれていることを感じています。

 

「10年間、このメモリアル礼拝を続けていこう」と語ってきました。今年で区切りをつけて、わたしたちの教会の東日本大震災のメモリアル礼拝はこれが最後になりますが、これからも、続けて祈っていきましょう。続けて心を向けていきましょう。

 

3月7日、メモリアル礼拝は午前10時から、Zoomを使ってオンラインでささげます。ぜひ、皆さんご参列ください。Zoomのアクセスのリンク等、ご希望の方は、pastor.jccofnj@gmail.comまでお問い合わせください。共に祈りをささげましょう。

2021年2月 <牧師室より> 「心を合わせて共に祈る」

皆さんは「祈り」に対してどんな印象を持っておられますか?就職活動での「お祈りメール」のように、あいさつ程度で実体のないものという感じでしょうか?または、「困ったときの神頼み」のような、ろくに自分の努力もしないで、祈るなんて神にすがっている哀れな人々のすることだと思われるでしょうか?

しかし、祈りは、わたしたちの届かないところにも届く神の御手を動かす力あるものなのです。

わたしたちの教会は「彼らはみな、・・・共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒行伝1:14)という聖書の言葉を頂いて、新しい年をスタートしました。わたしたちは「共に祈ること」「心を合わせて祈ること」そして、「ひたすら祈ること」を神さまからのチャレンジとしていただいたのです。

そんな新しい年をスタートしてまもなく、わたしたちはその「共に心を合わせて、ひたすら祈る」ということを、実際に、具体的に経験することになりました。教会に集う方のご家族が新型コロナ感染で入院されたのです。持病もなく健康な50代の男性です。でも、息苦しさを覚え、血中酸素濃度も下がって、入院したくてもなかなか入院させてもらえないこのアメリカの国で、入院となりました。なかなか病状が回復しない、いや、悪化していく中で、ほんとうにわたしたちは、共に祈ること、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることに導かれていきました。感染拡大防止のために昨年12月から再度完全にオンライン化した教会、でも、この共に祈る、ということは生き続けていました。そして、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることを、このことを通して経験させていただいたのです。聖書の言葉を分析して、学ぶこと以上に、実際の祈りの課題を頂いて、そのことについて心を合わせることがどれほどわたしたちを祈りに導くことかと思わされました。幸いなことに、その方は、その後回復し、無事退院されて、自宅療養中ですが、まだまだ完全な癒しのために、続けて祈っていくことの必要を感じます。そして、このような状況が続く中で、お互いの健康が守られ、また、心が支えられていくようにと祈らないではいられません。

祈る時に、もう一つ大きな事があります。それは、わたしたち自身が変えられていくことです。祈りは単なるお願いではありません。神さまと一緒に過ごす一時です。神さまとの会話です。心にあることを何でも神に訴え、答えを待ち望むのです。何でも相談するのです。その時に、わたしたち自身も変えられていきます。自分のなすべきことが示されます。声をかけるべき方のことが浮かんできます。

「神様助けてください」との一言の祈りが人生を変えた、という方も知っています。みなさんもぜひ、試しにでもいいですから、一言祈ってみてください。神さまは、あなたに答え、あなたの歩みを導いてくださいます。また教会では共に祈り合う時も持っています。ぜひ、ご連絡ください。自分では祈れないけれども祈ってほしい、という課題がある方もご連絡ください。(教会は祈祷料とかはいただきません、ご心配なく・・・)神さまが祈りに応えて素晴らしいことをしてくださいますように。

2021年1月 <牧師室より> 「共にささげる礼拝をめざして」

あけましておめでとうございます。2021年もどうぞよろしくおねがいします。

クリスマスを過ぎて、少しずつ日が長くなっていること、気が付かれましたか?私の住んでいるNJでは、夜が明ける時間はほぼ変わらないのですが、日が沈む時間が一番早い時に比べると10分くらい遅くなっています。冬の寒さはこれからが本番ですが、昼間の時間はどんどん長くなっていきます。確実に春はやってくるのです。パンデミックの中で新しい年を迎えることになりましたが、必ず良い方向に向かっていくのだと希望を持っていきましょう。そして、困難の中でも、わたしたちと共に歩んでくださる神を信頼していきましょう。

わたしたちの教会の礼拝は、11月の末からまたオンラインに戻りました。しかし、昨年の春は録画のYouTube配信のみでしたが、今回はZoomで共に礼拝をささげ、そして、メッセージの部分だけを録画でYouTube配信しています。

ここに、わたしたちは「なんとかして『共に』礼拝をささげたい」という思いを込めています。教会は「建物」ではなく、「人の集まり」であり、そして、礼拝は日々の歩みの中で、「個人で」ささげるものであると共に、日曜日に「集まって、共に」ささげるものだからです。YouTube配信だけだと、その向こう側で礼拝をささげている一人ひとりのことを想像して、感じることはでき、フィードバックをいただくことによって、共に礼拝をささげている事がわかるとしても、やはり、一人ひとりで礼拝をささげている感じが否めません。もちろん、それが意味がないというわけではないのですが、Zoomのような会議システムを使うと、「人の集まりとしての教会」をより感じることができるのです。

ただ、それが苦手な方もおられるでしょう。テクニカルな問題で難しさを感じておられる方々もおられるでしょう。「ビデオ会議システム」として作られているので、音質が犠牲になっているところはあります。言葉を交わそうとするとちょっとしたタイミングの悪さに難しさを感じる場面もあります。

そして、何よりも「匿名でいられることの方が助かる」という場合もあります。私もそのように感じる場面もあります。匿名で覗きに来る、という思いで教会に来られる方々を、わたしたちはいつも歓迎します。そのためにも、YouTube配信も続けていきます。また、聖書の中には、誰にも気付かれないように、後ろからイエスに触った人の話も出てきます。そして、その後ろから触った人にも、イエスから力が流れ出て、病が癒やされたことが記されています。(そして、その後、その人はイエスの前に出て、人々の前でどんな事が起こったのか、話すことができるようになりましたが・・・)ですから、どんな思いで神に近づく人も、神は喜んで迎えてくださるのです。

今年、いつまでこのような生活が続くのか、と思います。しかし、どんな状況の中でも、心からの礼拝を神にささげることができますように。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」詩篇50:15

2020年12月<牧師室より>「暗闇に輝く光」

今年もクリスマスの時期がやってきました。クリスマスはイエスの誕生をお祝いする日。しかし、実際イエスが生まれたのは12月ではないだろう、というのが通説です。クリスマスの夜、野原で羊の群れの番をしていた羊飼いのところに、天使が「今日、ベツレヘムで救い主がお生まれになった」とお告げをしたと聖書は記していますが、12月は寒すぎて、羊飼いが野宿をすることはないだろうというのです。そこで、聖書に書かれていることをヒントに、いろいろな計算をする人がいて、5月頃なのでは?とか、10月頃だろう?とか、言われます。ですから、実際は「わからない」というのが一番正しい答えなのでしょう。

では、どうして、この時期にクリスマスを祝うようになったのでしょうか?それはキリスト教が緯度の高いヨーロッパに広がっていったときに、夜の一番長い冬至を過ぎて、太陽が帰ってくる、冬至の祭りに、この世に光として来られたイエスの誕生を重ね合わせて祝うようになったのだろうということです。

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」イザヤ書9章2節

今年はクリスマスのキャンドルライトサービスも、教会で集まることはやめて、オンラインで集まり、共にクリスマスを祝う事になりました。このCovid-19の感染が広がり始めたときにはここまでとは考えられませんでした。今も、多くの方々がリモートで働き、リモートで学校の勉強をしています。仕事を失った方、これからどうなるのだろうかという不安の中におられる方々もおられます。以前私達の教会に集っておられた方の中にも、感染しおなくなりになった方もおられます。本当に大変な時を過ごしています。しかし、だからこそ、暗闇を照らす光として、この世に来てくださった、イエスの誕生の意味を深く味わうことのできるときなのだと思わされます。

有効なワクチンの実用化も見えてきて、出口が近づいてきている期待も高まってきていますが、決して、「これを通り抜けたら、明るい未来が待っている」ではなく、「この困難の只中で、落ち込みがちな私達の心に光を照らしてくださる」イエスに照らしていただきましょう。今年のクリスマス、他のものをすべて削ぎ落として残る、大切なメッセージを受け取るときとさせていただこうではありませんか?

12月は毎週Zoomで集まって礼拝をささげていきます。また、子どもたちのためのJOYJOYクリスマスも、24日のクリスマスイブのキャンドルライトサービスも、オンラインでの集まりになります。ぜひ、ご参加ください(参加方法についてはこちらからお問い合わせください)。今年のクリスマス。このようなときだからこそ、本当に意味の深い、本当のクリスマスを迎えようではありませんか。

2020年11月牧師室より「嵐の中で」

夏の間、新型コロナの感染が収まっていたヨーロッパでまた感染が拡大して、ロックダウンに追い込まれた国々のニュースが流れてきています。ここアメリカの北東部も、10月の後半になって急に感染者の数が増えてきています。これから、恐れられていた第2波が来るのでは、という心配が募ってきています。そして、11月3日のアメリカの大統領選挙。この状況の中で、手続きが混乱するのでは?どちらの結果になったとしても、結果を受け入れられない人々が暴動を起こさなければいいけれども・・・などという思いが湧いてきます。

そんな時に、一つの聖書の情景が浮かんできました。ガリラヤ湖を渡ろうとしていた弟子たちに、突然の嵐の中で、嵐が襲ってきます。イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、「しっかりするのだ、私である、恐れることはない」と言われます。それを聞いてホッとした弟子たち、そのリーダーであったペテロが、「イエス様、あなたでしたか、でしたら、私に命じて、あなたのところに歩いて行かせてください」と願い出るのです。イエスは「おいでなさい」とペテロを招かれます。ペテロは小舟を出て、湖の上に踏み出すのです。一歩、二歩と歩み始めたペテロ、しかし、途中まで行って、ペテロは風を見て恐ろしくなった、といいます。嵐の中で、波風に気を取られて、恐ろしくなってしまったというのです。その時に、彼はズブズブと沈んでいってしまいます。そこで、イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロの引き上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた、という箇所です。ペテロはイエスのことを見つめていたときには水の上を歩けたけれども、風を見た時に、波を見た時に、嵐を見た時に、ズブズブと沈んでいってしまったのです。

ここには象徴的な意味があります。私達の人生でも嵐に遭う時に、イエスに目を留めていれば、イエスをまっすぐに見つめていれば、溺れることはありません。恐れる必要はないのです。恐れてしまうのは、嵐の方に注目してしまうからです。

これから、アメリカや世界に襲ってくる嵐、その中でも、私達は目を向けるべきところにしっかり目を向けていきましょう。決して周りの状況を無視するのではないのですが、でも、それに心を奪われてしまうのではなく、それに捕らわれてしまうのではなく、その嵐の中でも、たしかに共にいてくださるイエス・キリストに目を向けて歩んでいくのです。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

ヘブル人への手紙 12章2節

2020年10月牧師室より「与えられているものを用いて」

今年の3月に、新型コロナウィルスの感染が広がって、「集まらない」「会わない」ことが、相手を尊重することであり、愛することである、という普通とは真逆な事が起こりました。いつもは時間を取り分けて集まること、時間と労力をかけて会いに行くこと、会って話をすることが、お互いを大切にすることでした。私自身、「大切なことは会って話をしなければ・・・」といつも思っていました。しかし、「誰が感染しているかわからない」「自分が感染していることを前提にして、周りの人々を感染させないように行動しよう」という状況の中で、「会う」ことは相手を危険に晒すことであり、「集まる」ことは、社会に対する無責任な行動となってしまいました。今は、少し状況が落ち着いて、礼拝だけは集まっていますが、そこでも、互いに距離を取り合い、握手はハグはなし、讃美歌も声を抑えて、曲を減らして歌っています。やはり、それが互いを尊重し、愛することだからです。たとえ、それが「なんだか物足りない」「さびしい」と思っても、そのようなお互いの気持を遥かに超えて、互いの安全を守ることが大切なことだと思うからです。それは決して、ある人々が言うような、見えないウィルスに対する「恐れ」による逃げではなく、「愛」による積極的な行動です。それが責任をもってこの地に生きる教会の使命なのです。

そのような状況の中で、インターネットやコンピューターの発達がどれほど助けになっているかと思います。

私がJCCNJの牧師となったのは、やっとeメールが普及し始めた頃でした。教会がホームページを作って、教会の存在を知ってもらうということが始まったのもその頃です。「ダイヤルアップ」でインターネットに繋ぎ、文字で情報を発信し、また集めていました。しかし、それから23年が経ち、今は教会の礼拝の様子をビデオで発信することができるようになりました。また、Zoomなどの会議ツールで互いの顔を見、互いの声を聞きながら、あたかも、同じところにいるかのように語り合い、祈り合う事ができるようになっています。これが今から23年前に起こっていたら、私たちはどうしていただろうかと思います。

最近の礼拝メッセージの中で繰り返し語られていることは、「私たちに与えられているものは、神様が私たちに任されたもの。私たちはそれを神様の望まれるように用いることが大切」ということです。お金や、時間、才能などを、神様が私たちに託されたものとして、互いのために、神様のために用いていくのです。今、私たちはそこに「テクノロジー」も加える事ができるのではないでしょうか。神様から任され、託されたものとして、このインターネットやコンピューターの発達も、思いっきり、色んな方法で用いさせていただこうではありませんか。そして、「お金」があくまでも神様が託された道具でありながら、しかし、私たちがそれに支配され、コントロールされてしまう危険もあるのと同じように、このテクノロジーも、私たちがそれに支配され、振り回される危険があることをわきまえながら、しかし、恐れないで大胆に、このテクノロジーを用いさせていただこうではありませんか。

「福音のために、わたしはどんな事でもする。」コリント第一の手紙9章23節

2020年9月牧師室より「困難の中での賛美」

「こんなに長くなるなんて・・・」。わたしたちは何度この言葉を口にしてきたことでしょう? 3月にCovid-19感染拡大の影響を受けて、生活に影響が出始めてから、ちょうど半年が経とうとしています。

NY・NJ地区が少しずつ落ち着いてくる中で、私たちの教会では7月からは感染予防対策をとって、いつもとは違った形で、ザイオン教会のジムに集まって礼拝をささげていますが、その中で、まず私の心に引っかかったのは賛美歌のことでした。

私は子どもの頃から、教会で大きな声で歌を歌ってきました。賛美歌を思い切り歌うのは、私にとっての礼拝の本当に大切な部分だったのです。神様に捧げる賛美ではありますが、賛美をささげている中で、心が整えられ、神様に語られて涙したことが何度あるでしょうか?しかし、感染対策を取るためにはマスクをして、控えめに歌って、また歌う曲数も歌詞も減らして、最低限にしなければなりません。場所によっては歌うことを完全に禁止されたり、自粛したりしているところもあると聞きます。そんな中で、私たちは集まることの意味があるのだろうかとさえ思いました。礼拝が完全にオンラインだったときは、私たちの家のリビングルームで何曲も賛美歌を大きな声で歌っていましたから・・・。

そんなことを思っていた時に心に浮かんだのは、ナチス・ドイツの強制収容所の中で信仰を守った人々の礼拝のことでした。彼らは秘密に持ち込んだ聖書を開いて、看守に気付かれないように小さな声で賛美歌を歌って、神に礼拝をささげました。そして、その礼拝のあるところには、人々の間のギスギスした空気が薄れ、ちょうど暗闇に灯火が輝くように、影響が周りに広がっていったといいます。大きな声で歌いたくても歌えない、命の危険もある、そんな状況の中でささげた賛美、その声がどんなに小さかったとしても、神様はそれをどれほど喜ばれたことでしょうか?

彼らのおかれた状況と、私たちの今の状況は全くレベルが違います。私たちには自由が与えられ、いろいろな制約はありますが、それはお互いを守るための制約です。彼らが経験したような厳しい状況と比べることはできません。しかし、その賛美を喜ばれた神様が、私たちがお互いを守るために、いろんな制約の中で集まって礼拝を捧げようとする中で、大きな声を控えて賛美をささげることを、喜ばれないことがあろうか、小さな声であったとても、私たちの心からの賛美を喜ばれないことがあろうかと思わされたのです。

「さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。」詩篇95:1-2

毎週、神様に心から捧げる礼拝の中で、賛美歌は以前よりも、もっと深い意味を持つようになりました。一つ一つの歌詞をもっと味わいつつ、心からの賛美として神にささげるようになりました。困難の中で、神は私たちをより本質を重んじるように、本質に立ち返るようにと招いておられるのだなあ、と思わされます。今月も心からの賛美を神様にささげながら歩むことができますように。

2020年8月牧師室より「内側からあふれるもの」

この8月に、私のニュージャージー日本語キリスト教会の牧師としての新しい3年の任期が始まります。もうこれが9回目の任期の更新ですが、何度更新しても、決して慣れることはありません。毎回、新しい気持ちでスタートします。毎回、あの30代の前半でこの教会の牧師になったときの思いに引き戻されます。今回、このような状況の中ですが、それでも、いや、それだからなおさら、新しい気持ちで、これからの3年間、神様がどんなことを準備しておられるのか、楽しみにしています!

一番強く思わされているのは、この3年間、どんな状況の中にあっても、いつも内側から溢れるもので奉仕させていただきたいということです。

イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

聖書の中には、形だけ繕って、外側だけ整えて、それなりの生き方をしているように見せている人々もいました。イエスはそのような人々を、「偽善者よ!」と叱りつけて、内側からあふれるものによって生きるようにと、人々を招かれたのです。そして、その内側を私が満たそう、と言っておられるのです。渇かない水、心の中の泉を与えると言われるのです。

私自身、外側を繕って生きていたこともありました。外側ばかり、他人の目にどう映るかばかりを気にして、自分を守ってきました。そして、それでいいと思ってきました。しかし、ある時、「偽善者よ!」とのイエスの言葉が自分に向けられているのだということに気がついて、イエスの与える 生ける水をいただく経験をしました。私達の内側に泉があれば、それは強いですね。困難の中でも、状況に振り回されないで、強く生きていくことができます。

このような時代、その内側からの力、内側から溢れるものが、どれほど必要かと思わされます。それをイエスは「あなたに与えよう」と言われるのです。この力を頂いて、この満たしを頂いて、これからの3年間を歩ませていただきたいと思います。どうぞ、よろしくおねがいします。そして、日々、私に神様からの力が満たされますように、どうぞお祈りください。

2020年7月牧師室より「新しい時代を共に歩む」

私たちの教会では、7月5日から、いつもお借りしているザイオン・ルーテル教会のジムに集まっての礼拝を始めます。これは、3月にすべての集まりがオンラインに移行してからずっと待ち望んできたことです。しかし、まだまだ、NJ州全体で何百人レベルで新しい感染者が見つかっている段階なので、両手を上げて喜んでスタートできることではありません。換気に気をつけて、social distanceを十分にとって、細心の注意を払っての再スタートになります。

そして、今回準備している中で、気をつけていきたいと思ったことは、ひとりひとりの感覚が違うということです。すぐにでも喜んで集まって礼拝をささげたい、という方もおられれば、しばらく様子を見て判断する、またもう完全にリスクがなくなるまでは集まることはできない、という方まで、いろいろな方々がおられます。そして、それは決して「信仰」の話ではなく、それぞれの置かれた状況の違いであり、健康状態の違いであり、また感性の違いでもあるのです。その違うお互いを受け入れるのが教会です。

実際に教会堂に集まる礼拝が始まったときに、そこに集う方々と、「集えない」「集わない」方々が互いに互いを尊重し、受け入れ合い、励まし合って行くことがどれほど大切かと思います。そこに教会の真価が問われてくると思います。全員が同じ考えで同じ方向を向いているのではなく、それぞれ違うのだけれども、互いを受け入れ、互いを認め合って、神のもとにへりくだって共に歩んでいくのです。

「キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」(ローマ15:7)

先月ここに書かせていただいたように、私たちは元に戻るのではありません。新しい地に踏み出すのです。新しい時代に新しく「共に生きる」ということが問われています。互いの違いを受け入れ、尊重し、互いにとって何が一番プラスになるのかを考え、そこにエネルギーを使っていきましょう。神様が私たちの新しい出発を守り、支え、また新しい気づきを与えてくださいますように。

2020年6月号牧師室より「新しい出発」

3月の初めに教会での集まりをオンラインに移行する時にも、4月の初め、イースターを迎えようとしているときも、こんなに長く、外出制限が続くとは思っていませんでした。また5月の初め、感染拡大もピークを過ぎている状況で、この5月のどこかでまた集まることができるのではないだろうか、という期待も少しは持っていました。しかし、6月になろうとしているこの時、少しずつ規制が緩んでいる中でも、教会堂に集まって共に礼拝をささげる見通しはまだ立っていませんし、また、もしも集まることができても、多くの制限の中で、どんな形で礼拝をささげるのだろうかと思います。

残念ながら、アメリカの大統領はそのような視点は持っていないようですが、多くの指導者たちは、「私たちはもとの生活に戻るのではない、戻ろうと思っても戻ることはできない。私たちは新しい出発をするのだ。」と人々に訴えています。そうだろうと思います。そして、同じことは教会にも言えるでしょう。ただ、回復するのではない、神様は私たちを新しい出発に導いておられるのだと。聖書のなかにはこのような言葉があります。

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:18-19

この言葉はバビロンに捕囚の民として連れて行かれたイスラエルの民に対して、解放の約束、回復の約束を語られた神の言葉です。バビロンから解放されて祖国に帰っていく、けれども、それは単なる回復ではなく、神が新しいことをなさるのだ、だから、今までの考えに捕らわれていてはならない、神はあなたが想像していなかったような素晴らしいことをなさるのだ、という預言だったのです。

19年前の9-11の時のことを思い出します。あの日から、ガラッと空気が変わってしまったアメリカの社会、早く元の平和な日々が帰ってこないだろうかと思っていた時に出たセミナーで「私たちは9-11前の時代にはもう戻れません。そのことを受け入れることが、第一歩です」と言われて、はっとして、それから前に踏み出すことができました。

私たちもコロナ前の社会にはもう戻れません。それは受け入れがたいことかもしれませんが、それを受け入れた時にこそ見えてくるものがあります。受け入れた時にこそ、前に進み出すことができるのです。そして、神様は私たちに「新しいことをなす」と言われています。より良いもの、より素晴らしい祝福を準備しておられます。私たちが経験したことがないようなもの、私達の思いを超えたものを準備しておられます。それを待ち望みながら、楽しみにしながら歩んで行こうではありませんか?

2020年5月号牧師室より「見えないものが見えるように」

4月はNY/NJ地域にとって、この新型コロナウィルスとの戦いの中で、とても厳しい、大きな痛みの中を通る1ヶ月でした。今、新しく感染する方や、病院で治療を受けておられる方の数はピークを過ぎたと言われていますが、それでも、まだまだ多くの人々が生死の境で闘っておられますし、何万人もの方々が命を落としました。今も医療現場で最前線に立って尽力しておられる方々のために、私たちの生活を支えるために働いている方々のために、また行政を始め各分野のリーダーの働きのためにも、祈らされます。

教会では、3月の初めから、礼拝の他、すべての集まりを、物理的に教会の建物やお互いの家に集まって守ることができなくなって、2ヶ月が経とうとしています。2ヶ月前、このような状況になった時、集まること、面と向かって話をしたり、祈り合ったりすることがとても大切な働きである教会はこれからどうなっていくのか、と不安を覚えないではいられませんでした。

しかし、日曜日の礼拝はすぐにビデオでの配信になり、ウィークデーの集まりも、3月の半ばくらいから少しずつオンラインで集まることができるようになってきました。コンピューターやスマートフォンで互いの顔を見て、話ができる集まりが増えていきました。4月には、子どもたちのためのJOY JOY イースターもオンラインで持つことができました。

そんな集まりが週1回から、週2回、3回、4回と増えていく中で、一つの文章に出会いました。うろ覚えなのですが、「やっとみなさんにとっても当たり前になりましたか」というような題だったと思います。「私たちはずっと、このようにやってきました。リモートで勉強をして、リモートで仕事をして・・・でも、それはこの社会では本当に特別なことで、ほんの少ししかリソースがありませんでした。・・・」体が不自由だったり、病気だったり、外に出るのが不安だったりして、学校や職場に行けない人々の言葉でした。

「バリアフリー」ということが、叫ばれるようになってから、しばらく経っていますが、わたしたちは、「集まることができない」ということが自分の身に起こるまで、そのようなことが必要な人々のことがわかっていませんでした。

今回、オンラインでの集まりが始まった時に、ご高齢の方々で、ご自分でセッティングできないという方々もおられました。その事に気がついてから、「もっと前の段階、ご訪問ができなくなる前にセッティングをして差し上げていたらよかったのに」と思いました。

ある教会では、この混乱が始まる前から、ご高齢だったり、病気だったりして、どうしても礼拝に集えない方々のために、オンラインで礼拝をささげることができるようにと、すでに、配慮が始まっていたそうです。その教会は、外出制限の命令が出たときにも、すぐに対応することができたそうです。

今、また教会堂に集まって礼拝をささげることができる日が来ることを願っています。今月中にその日が来るのか、それとも来月なのか、と待ち遠しく思います。しかし、それが実現した時に、もう一度、私たちの届かないところにおられる方々にどのように届いていくのか、愛と知恵と勇気が必要であろうと思います。今回見えるようになったものを、見失ってしまうことがありませんように。「コロナ後」の世界がどんな世界であったとしても、私たちが見るべきものをしっかりと見ていくことができますように。

「何事でも人からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ7:12)

2020年4月号<牧師室より>「復活の力をいただいて」

新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大で、3月の初めから教会の集まりもみんなオンラインやビデオになりました。その後、必要な買い物以外は外に出るな、仕事も勉強も家から、と家の中に缶詰になって、しばらく経ちます。みなさん、守られていますか? 4月もこの状況が続きそうです。今、医療現場で最前線に立って尽力しておられる方々のために、また行政をはじめ各分野のリーダーの働きのためにも、祈っていきましょう。

しかし、街では、木々が芽吹いて、花が咲いて春の訪れを告げています。4月12日にはイエスの復活をお祝いするイースターを迎えます。今年はいつものような教会でのJOY JOYイースターも、イースターの礼拝と持ち寄りの食事会もできませんが、それでも、イースターはイエスの復活をお祝いする大切な日なのです。

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」ルカ24:5

これはイースターの朝、イエスのからだに油を塗ろうと思って墓に来た人々に天使が告げた言葉です。イースターのメッセージは、「主イエスは生きておられる」ということです。イエスは今も生きておられます。私たちと共にいてくださいます。困難の中でも、闘いの中でも、私たちと共にいてくださるのです。

私たちはこのような状態がいつまで続くのか、と思います。早く平常に戻って欲しい、いつ戻るのだろうか?と思いながら過ごしています。5月か、6月か、夏までには・・・と思います。そうしたら、あれもできる、これもできる、もうしばらくの辛抱だ、そのように願います。しかし、この今も生きておられる主イエスを信じる時に、私たちは困難の只中で、闘いの只中で、しかし、それに縛られず、それに支配されず、上を向いて、今与えられ使命に生きながら、希望と勇気をもって歩んでいくことができるのです。

神を信じたら、自分の会社は潰れないとか、他の人が感染しても自分までは来ないとか、症状も重症化しないですぐに収まるとか、そういうことではありません。同じように苦難の中を通ります。同じように困難の中で途方に暮れます。しかし、その中でも、私たちと共にいてくださるイエスの力を頂いて、イエスを復活させた神の力をいただいて、歩んでいくことができるのです。

「 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」(2コリント4:8-10)

今年のイースター、私たちすべての者達にとって、特別なイースターとなりますように!

2020年3月牧師室より「力の源はどこ?」

記憶にないほどの暖冬だった今年の冬。ほとんど雪が積もることもありませんでしたね。このまま春になるのかなあ、と思うと、嬉しいような、物足りないような、複雑な気持ちになりますね。しかし、今、世界の脅威になっている新型コロナウィルスの感染拡大は、この暖冬の影響で少しはましなのかもしれないと思わされています。少なくとも、気持ちがふさぎ込みそうになるこのニュースの中で、暖かさの中での春の日差しは私たちにとって大きな励ましです。

教会は2月26日のAsh Wednesdayから4月12日のイースターまで、イエスの十字架での苦しみに目を注ぎ、自らの歩みを省みて過ごすレント(Lent)の時を過ごしています。ニュージャージー日本語キリスト教会では、毎年、レントの期間中「レント集会」という名前で、学び会を持ってきました。
今年のテーマは「苦難の中でのイエスの祈り」で準備してきました。イエスは、いつも父なる神に祈り、そこで力を受けて、歩んでいました。それが力の源でした。特に、十字架への道、苦しみの道を歩んでいくときには、どれほど、それが大切であっただろうかと思います。いや、それがなかったら、どうにも耐えられなかったのではないだろうかと思います。

「祈り」というと「困ったときの神頼み」のように、「大変な時に、自分で何もしないで神に頼る」「なんだか無責任」という印象を持たれる方がおられるかもしれません。しかし、それは違います。祈りは、神様と共に過ごす時間、神様から力をもらう時です。祈りによって、神様から力を頂いて、私たちは勇気をもって、問題に取り組んでいくことができるのです。神様の導きをいただいて、前進していくことができるのです。少なくともイエスはそうでした。そして、イエスは、私たちを、同じように神様から力を頂いて歩んでいくための祈りに招いておられます。この世界を襲っている困難の中で、私たちは「困った時の神頼み」のためにではなく、神様から力を頂いて立ち上がるために、祈ろうではありませんか。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:6-7)

今年のレント集会は、残念ながら、この新型コロナウィルスの感染拡大の懸念から中止になりました。しかし、もともと学んでいく予定だったことを、このページに1週間に1回アップしていきます。ぜひ、ご訪問ください。共に聖書に聞き、共に祈っていきましょう。
http://njotenki.blogspot.com

牧師室より2020年2月号「わたしたちに任されたもの」

今年の1月は本当に暖かな1月でした。大した雪も降らず、朝の気温が氷点下になった日も半分以下。一番寒い朝でも20度Fくらい。先日届いた電気ガスの請求書を見ると、去年の1月に比べると平均で5度Fも高かったようで、電気やガスの使用量も20-25%少なく済んだようです。本当に助かりますが、地球温暖化が叫ばれる今、喜んでばかりもいられないところです。

地球温暖化について、世の中には、未だに「Fakeだ!」と叫んでおられる方もおられるようです。個人としては問題をないのですが、一国のリーダーとなるとそれは本当に困ったものです。もちろん、1月のアメリカ北東部が暖かい冬だったから、「温暖化だ!」と大騒ぎするのも同様に愚かな話ですが、寒い冬、暖かい冬、暑い夏、涼しい夏を繰り返しながら、たしかに地球全体では気温が上がっているようです。

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」(創世記1:28)

天地創造の物語の中で、神が人にこのように言われたことが記されています。わたしたちは、この「地を従わせる」ということを、「自分の思い通りにする」と理解してしまいました。そして、この地にあるものを自由に使って、何をしてもいい、と思ってきたのです。自分の便利さ、自分の安全、自分の豊かさを求めて、世界の反対側の人々のこと、次の世代のことは何も考えないで歩んできたのです。

しかし、聖書はわたしたちに与えられているものはすべて、神に「管理を任された」ものなのだ、と語ります。お金や財産はもちろんのこと、時間(これはまたとても大切)、そして、才能、出会う人々との関係、そして、この世界のすべてのもの。一つとして、「わたしのものだ」と勝手にできるものはなくて、管理を任されたものとして、感謝して、神様の喜ばれるように用いるのです。わたしたちには自分のことだけではなく、世界に目を向けて、次の世代にこの世界の管理を手渡していく責任があるのです。

さあ、わたしたちは、今、この時代を任された者として何ができるでしょうか?一人ひとりのできることは本当に小さなことでしょう。しかし、神様があなたに任せておられることがあるはずです。一歩を踏み出そうではありませんか。

2020年1月牧師室より「クリスマスは終わらない」

「クリスマスは終わらない」

新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

最後に年末年始を日本で過ごしたのは、もう28年前になりますが、その頃の日本では12月25日には街のクリスマスツリーが一斉に門松に変わったものです。クリスマスが終わると慌てて新年の準備をしていたように記憶しています。今でもそうでしょうか?アメリカにある日本語教会の私たちも、門松は飾りませんが、でも、やはりクリスマスが終わると、慌てて新年の準備をするのは同じかな、と思います。そして、一年を振り返って、新年は新しい気持ちでスタートをします。

しかし、最近思わされるのは、もうちょっとクリスマスの意味を考える時があってもいいのではないか、ということです。こちらの歌で12 Days of Christmasという歌がありますが、それはクリスマスまでの12日間ではなく、クリスマスからの12日間です。1月6日までの12日間です。ですから、今月号でも、もう一回だけクリスマスの話を書きますね。

先月号では(読んでおられない方、忘れてしまった方は、ぜひこちらからご覧ください)、イエスが暗闇を照らす光としてきてくださったことを書きました。キャンドルライトサービスの時もお話ししたように、暗い中、ろうそくを灯すのは、その雰囲気を味わうためではなく、暗闇の中にこられた光であるイエスのことを表すためなのです。

その時に、一人一人がろうそくを持って、火を隣の人から受け取って、また隣の人に回すようにしていただきましたが、それは、イエスの光を私たちが受け取って、また隣の人に受け渡していく、その使命をいただいていることを表しています。イエスは言われました。

「あなたがたは、世の光である。」マタイ5:14

イエスが光としてこの世に来てくださっただけではなく、私たちがその光を受けて、そのともしびを受け取って、今度は周りの人々に手渡していくのです。広げていくのです。あのイブのキャンドルライトサービスの時、一つ一つのともしびの光は小さくても、皆さんに受け渡していったときに、会場全体が明るくなったように、私たちの持っている光は小さくても、それを周りの人々に受け渡していく時に、この世を明るく照らすことができるのです。そういう意味では、クリスマスの日に起こったことは、クリスマスが終わったら、おしまいではなく、続いていくのです。クリスマスは終わらないのです。

教会ではいつでも皆さんを歓迎します。イブだけではなく、新年も、そして、特別な日だけではなく、いつでも、皆さんを歓迎します。ぜひこのともしびのリレーに加わってください!

牧師室より2019年11月「どこに焦点をあてて生きるか?」

「自分も!」と共感してくださる皆さんがたくさんいることを信じて書くのですが、私はよく物を探します。出かけ間際には、お出かけ3点セット(財布、携帯、鍵)をしょっちゅう探して、歩き回っているので、家族には呆れられています。どうしようかとずっと悩んでいたのですが、何ヶ月か前に、この問題を解決しようと、携帯から呼び出せるタグを鍵と財布につけました。反対に携帯が見つからない時には、何とタグの方から携帯を呼び出せる「スグレモノ」です。これで、合計何時間もの時間が節約できています。でも、なぜか、何度も探したところや、自分の立っている目の前でタグが鳴ったりするんですね。不思議なものです。

でも、見えているのに見ていない、ということでしょうか?目には入っているのに、焦点が合っていないということでしょうか?人間はそのようにできているのだと思います。考えてみると耳もそうですよね。目の前の人の声よりも、遠くで自分の噂をされている声の方がよく聞こえるものです。どこに焦点を合わせるかによって、見えるもの、聞こえるものが変わってきます。

私たちの心もそうです。どこに焦点を合わせるかで、感じることが変わってきますし、心の状態も変わってきます。聖書はこのように語っています。

「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ人への手紙 4章8節

私も「もう11月になるなあ、サンクスギビングがやってくるけれど、何を感謝しようかなあ」と感謝すべきことに目を向けた時に、「あ、そういえば、あんなことがあった」「こんなことがあった」といろんなことを思い出してきました。残念なことに、それは自然にはなかなかできないことです。つい、納得いかないことや、困ったこと、がっかりすることや、心配なことに心が向いて、それに心が支配されてしまうものです。そんな時には、上の聖書の言葉の直前にこんな言葉があります。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙 4章6~7節

ひととき静まって、心の焦点を合わせ直しませんか?愛すべきこと、感謝すべきこと、喜ぶべきこと、そこに焦点をあてて、感謝しつつ、歩んでいきましょう。

<牧師室より>2019年10月「あなたは何者?」

「わたしは〜である」というのをできるだけたくさん、最低でも10個以上は書いてください、と言われたら、皆さんはどんなことを思いつきますか?「私は牧師である」「私は夫である」「私は父親である」「私は日本人である」「私は錦織学である」「私はクリスチャンである」・・・自分で書いてみると、自分が自分のことを何者だと思っているか、自分が無意識のうちに何を大切にしているのかが、わかってきます。まず「肩書き」や「勤務している会社名」が思いつく人、「母親」「父親」と、「親」が最初に出てくる人、「夫」「妻」が出てくる人(ちなみに、お母さん方で「母親」より先に「妻」が出てくる人はなかなかおられません・・・)、「日本人」「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「関西人」と国籍や民族、出身地が出てくる人、「男」「女」とジェンダーを思いつく人、それぞれ、自分が何を大切に思っているか、それが現れてくるのです。私もまず「私は牧師である」と最初に出てくる、ということは、いつの間にか、「職種」「肩書き」が自分のアイデンティティーの中で、大切なものになっているんですね。皆さんはどうでしょうか?

でも、よく考えてみると、職種や肩書きは、自分という人間の一番大切なものではないですよね。たとえそれを失ったとしても、私は私でなくなってしまうわけではない、だから、もっと自分の存在深くに関わっている「私はこれだ」というものがあるのではないか、そのように思うようになりました。

私自身の存在深くに関わっている、大切な「私は〜である」は、なんだろうか?これがなくなったら、自分が自分ではなくなってしまう、そういうものはなんだろうか?そう考えた時に、「私は神様に愛されている者である」と言うことができるなあ、と思います。他の全てを失ったとしても、これだけは変わらない、自分自身と分けることなど決してできない、自分の一番深いところにあるアイデンティティーです。そして、これがあるから生きていける、そのように思わされます。

そして、これは、すべての人々に与えられているものなのだと語ります。

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ヨハネ3:16

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ5:8

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」第一ヨハネ3:16

あなたもまた、神様に愛されている方です。