<牧師室より>2026年1月号「使命に忠実に歩む」

12月の初め、クリスマスを前にして、スヌーピーと仲間たち(Peanuts)のNativity(イエスの誕生の場面を表した置物)をひっぱり出してきた時に、「あれっ、ヨセフがいない!」と大騒ぎになりました。ヨセフというのはイエスの母マリアの夫。婚約者のマリアが処女でイエスを身ごもるという出来事の中で、マリアを妻として迎え、イエスの父として、その子を育てたなかなかの男です。私の頭の中では、マリアとヨセフ、ヨセフとマリア、は一組で、二人でイエスを迎えたと思っていますから、ヨセフも当然いるものだと思っていました。
 
何度探しても、どこを探しても出てこない。「まさか・・・でも、もしや・・・」と思ってウェブで同じものを売っていないかと探してみたら、そのまさかで、最初からセットに入っていなかったのです。

製作者は「マリヤは外せない」とルーシーにそれを任せたけれども、「チャーリー・ブラウンはヨセフじゃないよな、羊飼いだろうな。じゃあ、ヨセフは誰にする?ライナスか?うーん、まあ、いいや、ヨセフは省いていいだろ」と思ったのでしょうか?ヨセフって、その程度に扱われているんだな、と軽い衝撃を受けました。しかし、考えてみるならば、私も毎年、このセットを見ているはずなのに、ヨセフがいなかったことに気付かなかったということは、わたしのヨセフへの思い入れも大したことはない、ということなのでしょう。

しかし、聖書を読むとヨセフの悩みと信仰の姿とそれを支えた神の語りかけが出てきます。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
・・・
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた。
(マタイの福音書 1章18-21, 24節)

自分の与り知らないところで、婚約者が身ごもる、という出来事、このヨセフの悩みはどれほど深かっただろうかと思います。「密かに離縁しよう」という決心も熟慮の末の決断だと思います。そして、また何よりも夢の中でのお告げにすぐに従ったところも、決断力と実行力の人だなと思います。しかし、このイエスの誕生の出来事の後、ヨセフが聖書に登場するのは1回だけ。マリアはイエスの生涯に何度も出てきますし、後代の歴史の中では「聖母」と神格化さえされるようになるのです。それに対して、ヨセフは舞台から去り、2000年後の「スヌーピーと仲間たち」のクリスマスの場面からも省かれることになるのです。

でも、この出来事を通して、私も、後代の人に、省かれても、忘れられてもいい、ただヨセフのように与えられた使命に忠実に歩ませていただきたい、と思わされました。

2026年もどうぞ、よろしくお願いします。

錦織学

出会いの中で神の愛は実を結ぶ

JCCNJに来て初めての証となります。どの様にして私が神様、イエス・キリストの救いに導かれたか、初心に帰る気持ちを込めて証ししたいと思います。

私は2004年のクリスマスに洗礼を受けました。
当時アリゾナ州ツーソンの大学に留学しており、神様を通して多くの出会いが与えられました。今振り返ると、そのすべてが神様の導きだったのだと確信しています。

留学先で日本語を勉強しているアメリカ人の友人と出会いました。
彼は長身でたくましく、革ジャンを着たワイルドなタイプで、私が思い浮かべる「ザ・アメリカン」な学生でした。でも彼は信仰によって人生を大きく変えられたクリスチャンでした。最初の私はキリスト教や「宗教」という言葉に苦手意識がありましたが、彼の人柄には惹かれるものがありました。

やがてその友人を通して日本語教会の牧師さんと出会い、教会に足を運ぶようになり、断れず(笑)バイブルスタディーにも参加するようになりました。正直最初は気が進まなかったものの、聖書を読み進めるうちに、創造主なる神の存在と、イエス・キリストの愛を少しずつ感じはじめました。

それでもなかなか信仰告白には至りませんでしたが、アメリカ人の友人、牧師さんは神様の愛について語り、私のために祈り続けてくださいました。

牧師さんがいつも語っていた言葉があります。

「人は行いではなく、信仰によって救われる。」

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
ローマ人への手紙 322

自分が何かを良い行いを行ったからではなく、「ただイエス・キリストだけを信じるだけで良い」のだということを教えていただきました。

ある日のバイブルスタディーの後、牧師さんに「神様は耕太郎君のことを心から愛しておられます。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死んでくださった耕太郎君はその愛を受け入れますか?」と尋ねられました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネの福音書 31617

いつもであれば、「いえ、もう少し考えます」とか、「いや、まだ大丈夫です」とか言っていたはずですが、

そのとき私は、「愛されているなら、それをわざわざそれ拒む理由もない」と感じ、素直に「はい」と答えることができました。それが私の信仰告白、そして信仰によって救われた瞬間でした。

“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」”
ローマ人への手紙 10章9~11節

その後すぐ、心がスーッと軽くなり、「自分は神様に愛されている」という平安に満たされました。信じるという行為は思っていたよりもずっと単純で、そして深いものでした。その時、神の聖霊の力が働いていたということは後から知ることになりました。

“ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”
コリント人への手紙 第一 12章3節

クリスチャンになってからも帰国後に教会から離れた時期や、霊的弱さを感じる時期もありましたが、でもイエス様は私を引き戻してくださりました。イエス様を信じることで、私は少しずつイエス・キリストに似た者へと変えられていることを感じています。

私は「君は愛されるために生まれた」という賛美の歌が好きです。その曲の中にある「永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ」という歌詞が今の私の思いをよく表しています。神様の愛を知ることができたのは、すべて神様が用意してくださった出会いがあったからです。

信じたからといってすぐに何かが劇的に変わったわけではありません。けれど「愛されている」という確かな安心感の中で歩むことで、少しずつ私が変えられてきたのだと思います。

あの時、神様の愛を受け入れ、信仰の一歩を踏み出せたことを心から感謝しています。

これからも信仰と愛をもって教会の兄弟姉妹、そして神様共に歩み、神様の愛を伝える出会いの一端を私も担えればと思っています。

<牧師室より>2025年12月「世界で初めのクリスマス」

 12月なりました。ホリデーシーズンに入り、街はクリスマス一色になっています。日本を含めて世界各地で祝われているクリスマス。12月号の月報が届く頃には、ロックフェラーセンターでの大きなクリスマスツリーの前に多くの人々が集まっていると思います。でも、世界で初めのクリスマスはそのような華やかなものではありませんでした。

 今から2000年前、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、まさに世界がBCとADに分かれるその出来事がおこったその夜、最初にそのニュースを聞いたのは町の外で野宿をしていた羊飼いたちでした。

彼らに天使がこのように告げました。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカの福音書2章10~12節)

 救い主の「しるし」・・・それは「目印」であった以上に「象徴」でした。この救い主はどのような意味での救い主か、それは「飼い葉桶に寝かされているような救い主」なのだというメッセージなのです。

 「飼い葉桶」とは家畜がエサを食べるところです。赤ん坊を寝かせるようなところではありません。イエスの母マリヤとその夫ヨセフは客間に滞在することもできず、生まれたばかりの赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かせなければならなかったのです。その飼い葉桶こそが、この救い主がどんな方かを象徴するしるしとなったのです。

 この時期、世の中が華やかになればなるほど、取り残された気持ちになる方がおられるといいます。イエスはそのような方々にこそ届く、救い主として来てくださったのです。そして、私たち一人ひとりの心の中の一番深いところ、一番人に見せられないところに届いてくださる救い主として来てくださったのです。

 今年のクリスマス、そのような本当のクリスマスの意味がひとりでも多くの方々に届きますように。

<集会紹介>「クリスマスイブ・キャンドルライトサービス」(2025年12月号)

 元々、いつだったか分からなかったイエスの誕生日。12月25日に祝うようになったのは、冬至を過ぎて、これから日が長くなっていくことと、暗闇を照らす光としてこの世に来てくださったイエスの誕生が重なるからだと言われています。

「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ書9章2節)

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 クリスマスの前の夜は、このことを私たちが視覚的に経験することができるようにと、キャンドルライトサービスを持っています。

 最初は礼拝堂をできるだけ暗くします。「暗闇」を表すためです。そこにキャンドルの小さな光が入ってきたときに一瞬に暗闇は逃げ去ります。まさに「闇は光に打ち勝たなかった」と書かれているとおりです。その小さな灯火を受け取った人は、その光を隣の人に回していき、光が会堂いっぱいにあふれます。そして、そのキャンドルライトの下で、クリスマスの出来事を記した聖書の箇所を読み、讃美歌を歌います。この日のために備えてきた聖歌隊が讃美歌を歌い、年によっては他の楽器での賛美も入ります。そして、聖書からのメッセージに耳を傾けるのです。

 全体で1時間余りのプログラム。立派なオーケストラも、ドラマチックな演出をする照明もありませんが、2000年前のベツレヘムの馬小屋での世界で最初のクリスマスを思わせてくれる特別な一時です。

今年(2025年)は、12月24日午後5時からです。是非お出かけください。