牧師室より 2019年9月号 「ゲームやテレビに負けてたまるか!」

♫ わくわく・・・どきどき・・・うきうき・・・どきどき・・・
お金じゃ買えないものってあるよね〜♫

今年も8月の初めのJOY JOY キャンプでは子どもたちの元気な声が教会のジムにあふれました。今年のテーマは「わくわくタウン2」。教会のジムに突然現れた不思議な町で「〜のためにどうすればいいか?」という使命を受けて、買い物をする、という設定です。18年前の「わくわくタウン」が楽しかった、という声を当時の子どもたちから聞いて、いつかもう一度JOY JOY キャンプのテーマにしたいと考えてきて、今年ついにそれが実現!今年も「買い物の時間」は大盛り上がりでした。私は個人的には「探検」とかをテーマにしたほうがいいんじゃないかなあと思うのですが、何で子どもたちは、そんなに買い物が楽しいのでしょうかね。一説には「いつも、お父さんやお母さんが買い物をしているのを見てるけど、お金とかさわれないし、『自分ももっと自由に買い物したい!』と思っているんじゃないかな?」ということですが、さて、どうなんでしょうか?

今から50年くらい前、私が子どもだった頃は、教会はたくさん子どもであふれていました。クラスの中でも必ず何人か、友達が教会に来ていたものです。そして、みんなで聖書を覚えたり、休まないで来たりすることを競ったものです。でも、いつ頃からか、教会に来るのは、ほとんどが、「親が来ているから」という子どもたちになりました。他の子たちには教会は「関係のないところ」になったのです。「テレビとかゲームとか、他の楽しいことがあるから・・・」と言われたりするのですが、もしそうだったとしたら、それは他の楽しいことに負けている教会の問題でしょう・・・ということで、とにかく楽しいプログラム、そして、でも、楽しいだけでは終わらない中身のあるプログラム、をと考えてきました。子どもも大人も、楽しいことって、大切ですよね。でも、楽しいだけじゃ物足りなくなる。だから、これからも、本当に楽しい、本当に心に届く働きを続けていきたいと思います。

今年も思ったのですが、もしかしたら、今年のJOY JOY キャンプに来た子どもたち、会うのがこの時だけかもしれない、もしかしたら、来年は都合が悪くなったり、日本に帰国したり、他の地に引っ越したりして、もうJOY JOY キャンプには来られないかもしれない、そう思うと、何としてでも、「十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったイエス様」「そこまでして、私たちを愛してくださる神様」のことを話さなければ、と思うのです。そのことをなんとか伝えたい、子どもたちの心に残るものとして受け止めてもらいたい、そのように思うのです。これから、いろんな楽しいこともある、でも、それに負けないくらいの、辛いことや悲しいこと、やるせないこと、悔しいこと、全てを投げ出したくなること、そんなことを経験するだろう子どもたちに、「神様は、君のことを本当に大切に思っているんだよ」ということをわかってほしい、わかって、何かあった時に、また「教会に行ってみようかな」と思ってほしい、そのように思って準備してきました。

「わくわくタウンで買い物する」という毎日だったのですが、でも、本当に大切なものはお金では買えない。目にも見えない、そして、その大切なものを神様はくださるんだよ、と子どもたちにお話ししました。伝わったかなあ、どうかなあ、と思います。なんとか、子どもたちの心の中で、その聖書の言葉の種が、芽を出し、実を結ぶ時が来ますように。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4:18

秋からも、教会の働きはそのことを伝えていく、また表していく、生きていくことが中心になっていきます。一人でも多くの方に、この神様の愛が届きますように。

2019 年8月11日 『買えるものと買えないもの』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: コリント人への第二の手紙4章18節

 

  • 「買えるもの」と「買えないもの」どんなのがある?
  • 「わくわくタウン」では、買い物をした。子どもたちは買い物が好き。
  • でも、本当に伝えたかったのは「お金じゃ買えないものがある」ってこと。

 

  • 「見えるもの」と「見えないもの」もほぼ、「買えるもの」と「買えないもの」に同じ

 

  • 聖書が語る一番大切な「買えないもの」「見えないもの」はなに?
    ・・・神の愛
  • 神は私たちを神と共に歩むべきものとして造られた。
  • しかし、人間は神に背を向けて、自分だけで生きられると考えた。
  • 神から離れた人間の世界に入ってきたのが「死」
    肉体の死
    霊的な死
  • そこから私たちを救うためにイエスが送られた。
  • イエスの十字架は私たちの罪のため。罪の身代わり。

 

  • この神の愛は無料、フリー、プレゼント、ギフト。
    私たちはそれを感謝して受け取るだけ。
    第一ヨハネ4:10

 

  • しかし、それと共に、そのために大きな犠牲が払われていることを忘れてはいけない。
    第一ヨハネ3:16

 

<テイクアウトQuestion>

1)    「買えるもの」と「買えないもの」どんなものがあると思いますか?

2)    神の愛はどのように表されているでしょうか?

3)    神の愛を受け取るために必要なのは何だと思いますか?

4)    神の愛は無料で受け取れるけれども、そのために大きな犠牲が払われているのだということは、私たちにどんな生き方を求めているでしょうか?

 

牧師室より 2019年8月号 「ほんとうに大切なもの」

「今度の土曜日、こちらの公園の南口で、うちの息子がお話をするから、ぜひ、来てくださいよ」

それは、20年以上お会いしていなかった友人の誘いでした。私がサバティカル休暇期間中、5月に日本に3週間ほど帰ることを人づてに聞いた彼は、日本に着いたばかりの私に声をかけてくれました。それは、東京の大きな公園のホームレスの人たちのための集まり。社会的にはある程度認められる地位にある彼が、毎週土曜日の朝、そんなに一生懸命ホームレスの方々のためにご奉仕しているのはどうしてなんだろう、という気持ちと、その息子さん、小さい時からちょっと天才肌だったなあ、どんな青年になっているのかなあ、という気持ちとで、幸い、時差ぼけで朝早く目が覚めたこともあり、出かけてみました。

最初に賛美歌を歌って、お話があって、そこまでは想像通りだったのですが、そのあと「さあ、食べ物や援助物資を配って解散かな」と思ったら、なんと、そこから15人くらいずつのグループに分かれて、今聞いた聖書の話の感想や、自分がどうしてここにいるのか、という話を始めたのです。それが、みなさんなんだか、生き生きと話をされるのです。「興味はあるんだけれども、まだ信じられないんだよねえ」という方が、一生懸命質問をしたり、すでにこの働きを通してクリスチャンになった方が、「僕も本当に惨めだったけど、イエス様に出会って、変わったんだよねえ」と自分の体験を話されたり、みなさんが心を開いて、本音で話をされているのです。「ああ、なんだかいいなあ」と思いました。モノや肩書きを失って、プライドも奪われた人々(「いや、自分はプライドがあったから、ホームレスだったんだなあ」と今は援助を受けて、家も仕事も得た人が言っておられて、それはそれで、また考えさせられましたが・・・)が、一人の人間として、神様を求めて、互いに向き合って、話をしている、住むところや仕事を見つけた人たちも、やはり、同じところに立って、話している。いや、この世では立派な肩書きを持っているような人も、そんなことはどうでもいいこと、として、一人の人として、向き合っている。それは美しくもエキサイティングなひと時でした。

それがあまりに魅力的な集まりだったので、私もそれから毎週土曜日の朝、その公園に通いました。

私たちはいつの間にかいろいろなものを身にまとって、身につけて、持ち物を増やして、でも、それによって失ってしまっていることもあるんじゃないかなあ、と思います。そういうものを一度全部おろして、一人の人間として互いに向き合ったり、神の前に出たりすることができればいいのに、と思います。

今年のJOYJOYキャンプのテーマは「わくわくタウン2」。お金じゃ買えないものあるんだよ、神様は、それをみんなにくださるんだよ、ということを子どもたちに伝えることができたら、と、また日々の教会の歩みの中で、そのことが自然と伝わっていくような働きができればいいなと思っています。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4章18節

第二の放蕩息子

アメリカ、フロリダの地であなたは愚かで汚れきっている私を一番近くで見ていたのにもかかわらず、私をこれでもかと愛し、優しく包んでくださいました。あなたの愛をこの世界、そして日本に伝えるために私のからだを用いてください。

自分がどれほど愚かで無知であったかを思い知らされたのです。ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。しかし、それでもあなたは私を愛し、私の右手をしっかりつかんでくださっています。 詩篇73:22~23(リビングバイブル)

去年の6月から今年の1月まで、アメリカのフロリダにあるディズニーワールドで約6ヶ月間のインターンシップに参加していました。これは、当時大学3年生の世界一流のホテルマンを目指していた私にとって素晴らしい機会であると同時に、親元を離れられる最高の機会でもありました。親が嫌いであった訳ではありません。むしろ大好きです。問題だったのは、私の信仰が神様を信じる信仰ではなく、神様を熱心に信じる親に対する信仰だったということです。クリスチャンファミリーに生まれ、物心つく前から教会にいました。洗礼は10才の時に受けて、高校生活が終わるくらいまでは特につまずくこともありませんでした。しかし、大学に入ると、徐々に自分の中でたくさん疑問が湧いてきました。「なぜ私は毎週日曜日に教会にいるのか」「この世界にはたくさん神様がいるのに、なぜ私はこの神様を信じているのか」――このような問いが自分の中にたくさん湧いてくる時に、立ち返る信仰という土台が私はしっかりしていなかったため、すぐに崩れてしまいました。この時は、教会に行かないと親に言ったら親を悲しませると思っていたので、しかたなく行っていました。そして、教会に行ったら熱心なクリスチャン両親を持つ息子として自分なりに良いクリスチャンのフリをすることをいつも考えており、偽りの自分で教会にいるのが嫌でしょうがなかったです。このタイミングで親元を離れて行く6ヶ月のインターンシップは、自分の中で大きな意味がありました。それは、自分自身の神様に対する信仰を自分で見つけられるかもしれないという期待の意味でした。

大きな期待を胸にアメリカに行きましたが、そんな甘くありませんでした。池田恵賜先生に勧められた日本人教会はタクシーで往復8000円かかり、日々を過ごすお金を稼ぐのにやっとの私は、教会にそれほどのお金を払って行く価値が見出せませんでした。そして持っていった聖書は一度も開かず、祈りもしなくなりました。週三回くらいのペースで同僚と夜のダウンタウンに行き、二日酔いになるまで遊んでいました。どんどん神様から離れていきます。かつて自分がアメリカに来る前に抱いていた期待を楽しさと酔いで忘れようとしていました。

帰国1ヶ月半ぐらい前になり、私は二つのことをずっと考えていました。一つ目は、日本に帰ったら親と違う教会に行こうということです。なぜなら、また偽りの自分でいなければいけないと思ったからです。二つ目は、こんな汚れきっている自分は教会に戻る場所すらないということです。自分のしていることが愚かで、もう神様に合わす顔がないと逃げていました。

そんなある日、「恵賜先生とマーティ宣教師がアメリカのフロリダにスポーツミニストリーの会議で来ているので、もし都合が合うなら会いなさい」と母からメールがありました。私は、この時正直「恵賜先生は帰国したらいつでも会えるし、マーティ宣教師って誰やねん!」と思っていました。しかし、ここでの出会いが私と神様の関係を大きく変えました。最初に恵賜先生と少し話し、そのあと初めて会うマーティ宣教師に、忙しい会議と会議の間の時間をとって頂きました。会話を始めるとすぐに、マーティは「君のスピリットはすごい!」と私に言い、マーティがすごく興奮していたのを覚えています。私は、彼がなぜこんなに興奮しているのか、そしてスピリットがなんのことを指しているのかもわからない状態でした。しかし、私が覚えているのは、こんなに明るくて楽しそうな人をディズニーでも日本でも今まで見たことがないということです。次のミーティングが始まるとのことでお別れすると思いきや、次のミーティングにぜひ参加してほしいと、参加費も払っていない私に対して言ってくださいました。そして飛び入りで参加したミーティングでは、オーストラリアのサーフィンミニストリーを代表する方がオーストラリアでのミニストリーの現状やこれからの課題を共有してくださいました。ずっと教会や神様から離れていた私としては、久しぶりに聞く神様の話でした。とても新鮮で神様のことをサーフィンで伝えたいという熱心な思いが、私には輝いているように見えました。そのミーティングに参加している皆が眩しかったです。

ミーティングが終わると、マーティは「私は今、フェスティバルを通して神様を伝える働きをしていて、日本全国を回っている。君に通訳をしてもらいたいから、早く戻ってきなさい」と言ってくれました。なぜか涙が止まりませんでした。もう帰る場所すらないと思っていたのに、神様はこんな私でさえも、とりこぼすことなく帰る場所を用意してくれました。すべてを知っている神様は、汚れていてもう自分ではどうしようもできない私に手を差し伸べてくださいました。マーティは泣いている理由も聞かずにただ自分を抱きしめ、「神様はあなたを愛しているよ」と言ってくれました。神様の愛は偉大です。私は神様の深い愛によって変えられました。今は、神様によってホテルマンへの夢が完全に取り去られ、献身する道に導かれています。神様がどのような計画を私に持っているか、まだしっかりわかりませんが、主に期待して歩んでいきます。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39(新改訳第三版)

2019年3月28日本郷台キリスト教会木曜祈祷会での証し:ご本人と教会の許可をいただき転載

2019年7月28日 『聖書の力』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: テモテへの第二の手紙3章14節〜4章5節

 

• 神はいろいろなものを通して、私たちに語っている。
• 例えば自然界。宇宙は、神の大きさを示し、私たちの小ささを教えてくれる。
科学者たちは、その科学を通して、神の大きさを示す。詩篇8:3−4
• 聖書を通して、神は一番語ってくださる。

1) 御言葉は私たちを救いへと導く
• 神は聖なる方+神は私たちを愛しておられる。
• 人は神のかたちに造られた。神と共に歩むために。
しかし、人は神に背を向けて、神なしの歩みをするようになった。・・・罪
• その罪の赦しのために、再度神と共に歩む道を開くためにイエスが十字架で罪の代価を払われた。→信じる者が救われる。

2) 御言葉は私たちを成長させてくださる
• 信じて完成ではなく、成長させていただく。
• 励ましの言葉もたくさんある。
しかし、ここでは、「教え、戒め、矯正し、訓練する」ものとしての聖書
• 聖書が私たちを料理する。・・・いのちがあるから。
• ヘブル4:12

3) 私たちは御言葉の力を信頼する
• 「あくまでも寛容の心で」・・・忍耐の限りを尽くして・・・「あきらめない」
• 時がよくても悪くても・・・聞いてくれても、くれなくても。
• 聖書の言葉には命があるから。タネは芽を出すから。
• 使徒行伝20:32

<テイクアウトQuestion>
1) あなたは、どこで一番神を感じるでしょうか?
2) 聖書が私たちに必要なのはどうしてだと思いますか?
3) 聖書によって、自分が大きく変えられたこと、整えられたこと、どんなことがあるでしょうか?分かち合ってみましょう。

2019年7月21日 『夫婦の愛・神の愛』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: エペソ人への手紙5章22節〜33節

 

 

  • 聖書は結婚を重んじ、結婚を祝福している。
  • 聖書は夫婦のことについて、多くのことを教えている。
  • 聖書は夫婦の問題を簡単にやり過ごさないで、真剣に取り扱っている。

 

1)    妻への教え

  • 「主に仕える(従う)ように夫に仕え(従い)なさい」
  • 「仕える」「従う」という動詞は出てこない。・・・21節の「仕え合う」から。
  • この時代、妻は夫の所有物のように考えられていた・・・聖書は革命的
  • 自由に仕えていく。神様を信頼して、従っていく。

 

2)    夫への教え

  • 「キリストが教会を愛して、自分を与えられたような愛で妻を愛する」
  • 結婚してわかること・・・自分には愛がないなあということ。
    自分に都合のいいところを愛している。・・・全てをありのまま愛しているのではなない。

 

3)    夫婦を支える神の愛

  • 「相手が変われば、私ももっと愛せるのに」と、相手のせいにする
    ・・・これが問題。あなたからスタートする。
  • キリストが教会を愛した愛。教会に集う人々が立派だからではない。

罪人を愛されたイエス。

  • 力がないから力を与えるのが神。それを信頼するのが信仰
    エペソ1:19, ヘブル11:1

 

<テイクアウトQuestion>

1)    自分には愛がないと感じる時がありますか?それはどんな時でしょう?

2)    愛するために必要なのはなんでしょうか?

3)    神様が男性と女性を(また一人一人を)違った存在として、造られたのにはどんな意味があるのでしょうか?