シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。  ルカ 22:31-32

「シモン、シモン。」は、「り」を入れると、「しもりん、しもりん。」で、やはりこのみことばは、今もなお、自分に語られているように思います。
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

離婚という経験は、誰でもできるものではなくて、確かにそこには傷みが伴ないます。苦しかったし、辛かったし、何度も何度もひとりで涙を流しました。何が辛かったのか、どうしてそうなったのか、それを説明することは今でも上手にできません。
それでも、今、こうして確かに生かされています。それは、自分の力によって生きているのではなくて、ただ、神さまの力によって生かされているだけです。そして、神さまは、消極的な気持ちで、いやいやながら生かしてくださるのではなくて、愛と情熱をもって、生きなさいと語ってくださり、共に歩んでくださる方です。神さまは、間違えることも、失敗することもなく、いつでもどのような時でも、その祝福の約束のみことばのままに、最善をなしてくださる方です。だから、なにもかもすべて、安心して、神さまにゆだねていい。

昨年、聖書を開くことも、お祈りすることもできない時間がありました。「神はいるか」と問われれば、「いる」と答えることができても、「自分は祝福されていない」、そう思う時がありました。あるいは、礼拝に集うことができない時もたくさんありました。「ハレルヤ」と元気に讃美する人々の中に、自分はとてもじゃないけれどいられないと感じました。苦しい、辛い時間の中で、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていて、何をどうしていいのかわからずに、暗闇の中に道を失っていました。
その時間の中で、何人かの友達とメールのやり取りをしていましたが、今になって見返してみると、自分が綴った言葉に、胸が痛くなります。なんと声をかければいいのか?と、その言葉を受け取った相手も心を痛めたのではないだろうかと思わされます。けれども、誰も彼 (女)も、必要な言葉を与えてくれて、そのことは本当に感謝で、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
そのようなやり取りの中で、なぜか僕はいつも、聖書のみことばに戻っていました。聖書のみことばはこう語っている、神さまの約束はこう言っている、などなど。そして、ある時、ふと気付かされたことは、みことばからは逃れられないということでした。自分の状況が、辛くて苦しいものであっても、あるいは、自分の力で何をどうすることもできなくても、神さまの祝福の約束のみことばはいつもそこにあって、それにがっちりと捕まえられていて、逃れることができないのです。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
詩篇 139:9-10

逃げようとしても、逃げられないんだということに気付いて、逃げることを止めることができたのだと思います。神さまの祝福の約束のみことばは、決して変わることがなく、いつもそこにあります。自分が信じるとか信じないとか、そういったことの前に、みことばは確かにそこに存在するのだということに気付かされました。

そして、その後、もう一つ。気付かされたことは、自分の弱さでした。
自分の力で何とかすれば状況を打開できる、そのような思いにどこかで捕われていたのは事実で、でも、ある時、自分の弱さを目の当たりにさせられました。
何とかできると思ってみても、実のところ、自分自身は精神的にいっぱいいっぱいな状況にあって、まだ頑張れると口にしてみたところで、もう頑張れない。自分はそんなに強くない。というよりもむしろ、自分は弱い。自分の力では何をすることもできない。
そのことに、気付かされました。そして、その自分の弱さに、どうしようもなく涙がこぼれてきました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 (ルカ22:33)とまで言ったシモンさんは、その後、 3回イエスさまを知らないと口にします。自分で言ったその約束を守ることもできずに、自分自身の弱さに気付かされて、激しく泣くシモンさんの姿に、僕自身の姿を見るような思いがしました。けれども、イエスさまは、そのすべてのことを知っていて、だから、前もって、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と語ってくださり、また、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語ってくださいました。このことは、僕にとっては、本当に慰めであり、また大きな励ましでした。
神さまとの約束を守ることもできなくて、自分の力では何もできないほど弱くて、でも、既にイエスさまが祈ってくださったのだから、安心して、自分の弱さを認めて、それに泣いていいんだと思いました。
そのような僕自身の弱さや罪をゆるすために、イエスさまの十字架と復活があり、イエスさまを十字架に付けたのは、確かにこの僕の弱さと罪なのだと思いました。

そして、今、生かされています。
昨年の苦しい/辛い時間の中で、どこかで、信仰を失うことや、教会を離れることや、あるいは崩れ落ちてしまうことがあり得たのかもしれません。けれども、そうはなっていなくて、今、こうして、礼拝に集うことも、讃美をすることも、お祈りすることも、奉仕をすることもゆるされています。だから、そのようなことの一つひとつは、自分の力によるものではなくて、ただ、生かしてくださる神さまの力のゆえです。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
イザヤ 41:9-10

そう約束してくださる神さまに、安心して、自分自身を空っぽにして、なにもかもすべて、ゆだねていい。間違えることも、失敗することもない神さまが、時にかなって、その最善をなしてくださる。

時々、それでも、せっかく神さまが生かしてくださっているのだから、もっと(自分の力で)頑張らなければというような思いに囚われます。そして、何もできていない自分の姿に、 “焦り”のようなものを感じたりもします。けれども、先日のファミリーキャンプにおいて、神さまが再び語りかけてくださいました。

恐れないで、ただ信じていなさい。
マルコ 5:36

だから、あんしん。

月報2006年10月号より