「キリストの体」

「大恐慌以来の経済危機」のさなか、今年一月、私は金融機関からレイオフされた。希望通りの社内転職を果たし、「もう一生これでいける」とまで思ったドリームジョブ(産業調査のアナリスト)を手にしてから、僅か三ヶ月後のことだった。その社内転職から三ヶ月ほど前のこと、私が職場で担当していた顧客のファイルが紛失するという事態が発生、私は上司に、そのファイルが元々存在しなかったと証言するよう、圧力をかけられた。「そもそも存在しなかったのだから、紛失したのではない」との論理を貫きたいがための裏工作である。彼もクビが懸かっているから必死である。私は一瞬たじろいだ。だが、嘘をついてその場を凌いで神様を泣かすよりは、たとえ責任を問われたとしても、寧ろ真実を語る方が正しいと感じた。だから敢えて圧力を撥ね除け、「私はこの目で確かに見た」と主張。果たして、「紛失」は東京本部にも重大視され、私が所属する部全体が始末書を出す破目に・・・。

金融業界におけるリストラに歯止めはかからず、私は求職期間中、労働市場が丸ごと消滅してしまったかのような無力感を覚えた。面接もあるにはあったのだが、反応が悪い。以前と違って、求人側の職務要件に応募側の経歴が完全に合致しない限り、どこも採用には踏み切らない構えだ。長期戦の悪い予感。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月・・・。これといった話が無いまま、時間だけが過ぎていった。求職中は会社に行かない。勿論残業も無い。だから肉体的には仕事をしている時と比べて楽なことは確か。また、見かけ上は家族と過ごせる時間も多い。ところが実際にはそれを心底楽しめない。早いところ仕事を見つけなければ家族が路頭に迷う・・・。そんな精神的なプレッシャーは想像を遥かに上回った。それとともに夫婦喧嘩も極まってゆき、幼い子供たちへの発達心理学的な悪影響も心配された。分かっていても、お互い罪深い者同士のこと、止めるに止められない・・・。こんな「嵐」のような日々が続いた。

五月始めのある日のこと。いつものように、自宅の地下室にある、私が「会見の幕屋」と呼ぶ一角で、「神様が示される最善の土地で、最善の時に仕事を与えて下さい」、と必死に祈っている最中、聖霊から、「仕事はお前に与えるから心配はいらない」との約束と平安が与えられた。更にその瞬間、私のために祈って下さっている方々一人一人の顔が連続写真のように浮かび上がって見えた。聖霊はその時、「この人たちはキリストを構成する体」であり、「お前(=私)もその一部」なのだ、というメッセージを私に伝えた。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(第1コリント3:16)」。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい(1ペテ2:5)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:5)」。これらの御言葉が互いに混ざり合って一つのイメージとして伝わってきた。祈りのネットワークを拡張してもらい、キリストの「体の働き」を利かせた矢先の、天的啓示である。わたし的には、ダマスコへ向かう途上、自分が迫害していたクリスチャンが実はキリストの体なんだというパウロが神様から見せられた啓示に匹敵するほどの劇的なものだった。

祈りが終わり、即、妻に伝えた。彼女もすんなり受け入れた。我が家に再び平安が戻ってきた。それからの私たちの祈りは、感謝の祈りに変わり、私たちを平安で満たして下さる神様に賛美を捧げた。就職に関する不安がなくなった後、家内と二人で、再就職に関する具体的な希望をそれぞれ書き出して、それを互いに持ち寄って祈ることにした。祈祷課題は、「通勤・勤務時間が短くなること」、「向こう三年間、妻が家で子供の面倒を見られるように、私一人で家計を支えられること」、「仕事が性格と能力にあったもの」、「興味が持て、やり甲斐を感じつつも、忙殺されないこと、」等。「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる(マタイ18:19)」との御言葉に従った。

当初、職のあるところだったら何処へでも引っ越すつもりでいた。だから日本やカリフォルニアにも就職活動は及んだ。いいと思える話も無い訳ではなかったが、いずれの場合にも神様は不思議と道を閉ざされた。しかし、キリストの体に関する啓示を受けた後、当地NJ/NY地域での就職を祈って下さっていた「祈りのセル」の姉妹たちと心が一つになり、NY・NJ地域での仕事が与えられるように祈り始めた。今の仕事につながった第一面接が設定されたのは、それから間もなくのことであった。それはそれまでに持ち込まれた話とは違い、神様が一歩一歩を導いておられることが随所に感じられた。問題もあった。例えば、条件面では以前の水準を大きく下回ること。そして保険業は未知の分野であること。だから、始めのうちは、ただひたすら黙々と神様の導きに従うだけだった。けれども、面接が進み、上席者と会ってみると、その人は「この人の下で働きたい」と思えるような魅力的な人だった。結局、プロセス全体が昨今の常識では信じがたいとんとん拍子で進捗し、あれよあれよという間に採用通知を得た。レイオフから既に7ヶ月が経とうとしていた、8月初旬のことだった。

また、私の職歴の一部分が評価されたのではなく、私のキャリアパスの始めから終わりまですべてが気に入られたので、「この人でもいい」ではなくて、「この人しかいない」という種類の採用となった。条件面でも、求人広告からかなりアップグレードしてくれた。お陰で基本給だけで言えば以前の水準を上回る条件提示をもらった。平安で満ち満たして下さる神様が与えて下さった素晴らしい転職となった。この就職難の時代にあって、万軍の主は、多くの天の御使いを忙しく働かせてくれたことは想像に難くない。逆に、レイオフされなければこんないい仕事は得られなかったであろう。オファーが出た日、私たち家族4人は輪になって座り、手をつないで心を合わせ、神様の御手による大いなる御業を褒め称えた。

蓋を開けてみれば、妻と共に書き出した祈祷課題は全て叶えられていた。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる(マルコ11:24)」との御言葉が、身近な形で成就した。

休職中の「嵐」の吹きすさぶ時にも、皆さんの励ましにも支えられ、主イエスが「船長」である限り、「船」は沈没する訳はないと信じ、毎日荒波を乗り切っていた。しかし、嵐の中を航海したこの経験は、試練を通して救って下さる主イエス・キリストの恵み・憐れみだった。実は、それは主が私たちを愛してくださっているが故の祝福であった。「(私たちは)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:3-5)。」

教会内外の兄弟姉妹からの励まし、祈りのセルでの「二人または三人による」祈り、祈りのネットワーク展開、キリストの体の啓示体験、妻との祈りを通して叶えられた具体的な祈祷課題の数々・・・。この7ヶ月間で、私はキリストの体をより深く体験し、クリスチャン生活は一人だけでは成立しないことを学んだ。今後とも、キリストの体の奥義を更に深く知り、自らも「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられ(1ペテロ2:5)」たいものだと願わされる。

月報2009年11月号より

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