「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。」

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノ カシコイモノ ゴクラクトトモニ ゴザル。」

何だ思われるかもしれませんが、れっきとした「御言葉」です。ただし、口語訳でも新共同訳でもなく、江戸時代の抄訳による、ヨハネによる福音書の有名な冒頭部分です。

イエスの先在性は「賢いもの」でいいとしても、神を「極楽」としていますが、私たちの先祖は、まるで仏教や神道の延長のようにキリスト教もとらえていたようです。そこには、現世利益をもたらす宗教としての期待が感じられますし、日本的な多神信仰の中にキリスト教も組み込まれて信仰されていたのでしょう。

私は幼少からこのような日本的な風習に親しみつつも、「神様」という漠然とした存在は常に恐ろしいものでした。極楽どころではなかったことは確かです。

二十歳過ぎ位まで、私は劣等感や罪悪感の塊でした。自己嫌悪を振りまいて同情を買うようですが、とにかく少年時代は、自分の容貌の醜さや垢抜けない言動を常に気にしていた毎日だった印象が第一です。いじめも受けましたし、それで登校拒否もやったり、逆に開き直って無理やり面白い人間になって笑わせようとしたり。よくある、典型的な屈折気味な人間です。

ヴァージニアの大学で大量殺人をやったあの学生は、自己顕示欲を持ちつつ内向的で傷つきやすいという自己矛盾を他人の責任に帰しましたが、私は大抵の場合「自分が悪いんだ」とか「神様の罰なんだ」と自分の犯した罪に関連を見出す傾向がありました。受洗前の「神様」は、仏教でもキリスト教でも何でも良かったわけです。早くに死んだ祖母の時もありました。いずれにせよ、何か良くないことが起こると、強引に自分の過去にやった悪いことと結び付けて、このせいなんだと信じ込む癖があったのです。ですから、「神様」とは罰を与える怖い存在というのが原点で、大人になってからも引き継いでいます。

そんな仏教とキリスト教を混ぜたような宗教観を持ち合わせていた私ですが、中学はプロテスタント系の学校に入り、毎朝礼拝をして、聖書も少し学びました。実を言うと、志望校に入れずに滑り止めで入った学校ですが、それが今考えると良かったのです。しっかり導かれていました。

そして、その時に原罪というものを知り衝撃を受けましたし、ふと何気なく読んだ「ヨブ記」に何故か特に共鳴するものがありました。聖書の授業は道徳のような内容で、教理はあまり教えられませんでしたから、訳が分からずに読んでいるのですが、神を畏れるヨブがいわれ無き苦難を受け、その原因は最後まで示されず、しかし、終わりに神と出会うことで唐突に解決されてしまいます。

最後の部分「神と出会い唐突に解決」は十数年後まで待たなくてはならないわけですが、私は当時、「もしかしたらこの人が俺を罰しているのか」と感じて恐かったことがありました。恐ろしくつまらなかった別の普通の高校を卒業してアメリカに来たわけですが、私のこの宗教的な感覚とキリスト教との接点は、ずっと心の中に潜んでいました。

さて、ここからが実際に洗礼につながるお話になります。

私は、アメリカに来たのはワシントンDCで政治を学ぶためでしたが、2年生の頃から音楽もやりはじめました。小さい頃は家庭環境から音楽にどっぷり漬かっていたのですが、中学高校は勉強優先の方針でやや音楽から離れていました。しかし、音楽の勉強をやり始めると、それが面白くて仕方ありませんでした。

勉強が分かって、成績が良いからというわけでなく、周りが褒めてくれるから、受け入れてくれるからです。自分の存在が初めて有意義に感じるようになって、本当に嬉しかったのです。それから、歌を作ってライブをしたり、自分の自作の歌でCDアルバムを録音して販売したり、夢中になってやりました。少しずつ劣等感や自信の無さも和らいでいって、彼女もでき、女性とも親しく接せられるようになりました。「異性デビュー」が遅いと調子に乗るものです。

DCでの大学時代は辛いこともありましたが、ピアノや歌に夢中で概して幸せでした。しかし、音楽家になることを決心して、飛躍のために卒業後ニューヨークへ移ってからが苦難の連続となりました。飛躍どころか、度重なるの自信喪失との闘いが待っていたわけです。

まず、ピアニストとしては食べていけないのを悟りました。大事な時期に訓練をしていませんから仕方ありませんが、「井の中の蛙大海を知らず」だったわけです。情けない話ですが、ジュリアードでピアノの生徒の余りの多さに怖気づいて、あわてて希望者の少ないのを探して面接を受けたのが、指揮と作曲のクラスで、最終的に指揮に落ち着いたというのが、私が指揮を始めた直接のきっかけです。

しばらくして、マネス音楽院の指揮科に入り、音楽家としての大学レベルの基礎を3年間固めることに費やしました。経験を積むために合唱指導を始めたのも同じ時期です。人はよく「夢を持て」「個性が大切だ」と力説しますが、真剣に自分の夢と個性と向き合う辛さも知らねばなりません。指揮では何十人ものオーケストラ団員(それは友人やライバル、そして、先輩音楽家の集まりです)の前で恥をかきながら勉強します。その度に自分の気持ちを処理するのに必死でした。人前で弱みを見せるのは指揮者ではあまり褒められたことではありませんし、特にアメリカでは自信をアピールするのが大切です。また、日系合唱団の指導では、自分の目指す音楽を妨げる日本的なしがらみに時として悩みました。

今も大して変わらないのですが、思い起こすと、私生活に関しての私はお恥ずかしい限りでした。自分のドロドロした感情やストレスを紛らわせるために、彼女や少数の親友に甘えて依存していました。普段の人前での私しか知らない人が、音楽指導する私を見て大きな違いにビックリすることがありますが、とても近い人といる時は音楽指導に近く、自分を思いっきり出して際限がないくらいです。

とくに彼女に対して我がままに甘えていました。ごく短い期間に終わった時もあります。「結婚」と言われて怖気づいて一方的に別れたこともありました。プライベートを人に噂されるのが恐くて、あまり外にもデートに連れていってあげたりしませんでしたし、自分のスケジュールが第一でした。そして、上記のように自分の気持ちが一杯一杯のとき、過度の快楽で忘れさせていました。

指揮者として身を立てようと思わなくても、このような状態はいずれ矛盾が噴き出してきます。それが2006年、つまり去年でした。

発端は、春に、大学の次のステップ、大学院指揮科の入学試験にことごとく失敗したことからです。私は失敗を恐れますし劣等感が嫌なので、物事は慎重に進めていく性格です。ですから、失敗らしい失敗は経験したことがありませんでした。しかも、指揮としても大勢の友達の前で幼稚なミスをやったり、ある学校の試験では教授に酷くけなされたりもして、ショックどころではなく、ノイローゼにかかりました。

気付くと線路とプラットホームのギリギリの場所で電車を待っていたり、夜は体中汗だくで起きているのか寝ているのか分からない状態でじっと何か呟いていました。その時に本当に好きな女性がいたのですが、一度だけ電話がかかってこなかっただけですぐさま絶交の手紙を送りました。音楽はもう諦めて就職しなければという強迫観念じみたもので突飛な行動に走ったりもしました。

一旦、通院や周りの温かい愛情で元気を取り戻したのですが、自分の内面から変革した訳ではなく対症療法でしたから、秋から再び下降していきました。春ほどの危険な状態にはなりませんでしたが、それだけに自分についてネガティブに考えることが多くなりました。

私が自分の存在証明や辛いことを乗り越える時に、他人依存だったことが身をもって分かりました。両親にもただお金をもらっているだけで、何の恩返しが出来たか。「神様の罰」「自分が悪い」と考えて自分を責め続けても、根本的な解決にはならない時が多いですし、主体的な行動を起こさずに近い人に甘えて誤魔化すのですから、実は形を変えた勝手な自己愛だといえます。俺はなんて人間だろうと、嘆きました。けれど、どうすれば良いか分からず、ただ悩んで時間が過ぎていました。

そんなとき、ついに、合唱団でお世話になっていた大清水兄の深い深い慈愛によって、ヨブ記の最終部分「神に出会い唐突に解決する」という不合理を、身をもって体験するきっかけが与えられました。感謝祭の礼拝と愛餐会のお誘いを受けたのです。中学時代からのこともありましたし、何か嬉しい予感じみたものがありました。

そして、感謝祭の日、ニュージャージー日本語教会に足を運んだのです。

月報2007年7月号より

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