今思うと私の家族は人への思いやりという意味では決して豊かに与えることのできる家庭ではなかったように思います。やさしいけど無口な父を、気の強い母は頼りないと言い、私が高校生の頃に叔父の家からわが家に移ってきた祖母は、以前、自営ですが会社を経営していたこともあり、わが家の中心に居る人でした。

私は早く自立したかった思いもあり、学校を卒業するとすぐに仕事に就き、家から離れました。しかし、一人からの出発は苦労の連続です。私は次第に「最後に頼れるのは自分しかいない」と思うようになりました。イギリスへ留学、そして日本に帰ってきても再び東京で仕事に就き、前のように時々実家に帰るものの、家族とは離れて暮していました。

ちょうど大学の勉強を始めた頃から、ある人の勧めで教会へ行くようになりました。最初はやはり半信半疑、全く聖書の意味が不明でした。しかし大学で知り合う人達、そして私に教会を勧めてくれた人、教会の方々の不思議な導きで、私は次第に神様のことを考えるようになっていきました。

ある日いつものように西洋史のレポートの文献として選んだマルティン・ルターの宗教改革までを追った、ルターの伝記のような本の中でルターの「神の恩ちょうのみ」と言う言葉に出会いました。その意味自体わからないのにその時なぜか心にひっかかり、数日その言葉の意味を考えていました。しかし、ある日ふとその意味がわかったのです。と同時に今までずっと心の迷いの中にあった、神様の愛とは何か、がわかったのです。それは私にとって衝撃的な出来事でした。そして以前よりも熱心に聖書のみことばに耳を傾けていた時、神様は私にこの聖書のみことばを語ってくれました。

「わたしを強くして下さるかたによって、何ごとでもすることができる。」

(ピリピ 4章13節)

強がってきた今までの私に、神様は弱くてもいいことをずっと教えてくれていた、そしてそれが神様の恩ちょうから、無償の愛からであることに気付いたのです。神様を初めて信じ、受け入れた瞬間でした。教会を勧めてくれた人にそのことを話すと涙を流して喜んでくれました。そして数ヵ月後に洗礼を受け、私は今までの自分勝手さを悔い改めたのです。

あれから数年後、昨年の夏から今年にかけて、大きな困難にぶつかりました。暗く果てしなく長いトンネルを一人きりで歩いているような辛い時期でした。しかしそんな時、West Covina Japanese Christian Church牧師、そして義父である大川道雄先生がこの言葉をもって沈んでいた私を励まして下さいました。

「神は愛する者に試練を与える、それは愛する者が試練を通してでなければ訓練されることがないからです。」

愛する者ー私は神様に愛されている、そう思った瞬間喜びが、力が溢れました。その時、神様に全てを委ねることを学びました。そして数カ月後、神様は私達夫婦を再会させて下さいました。

今振り返るとその貴重な時間も、実は頑固な私の家族に、家族とは何か、そしてこれまであまり話せなかった神様や教会、教会の兄弟姉妹のことなどを語り会えた良い機会だったのだと、全ては神様の不思議な導きだったのだと思えるのです。

新しい命を得たこと、素晴らしい教会と多くの兄弟姉妹、そして夫とともに祈ることのできる日々を与えられたことに、またそれまでの不思議な神様の導きに感謝しつつ、これからも主の愛を、福音を語るものとして主の道を歩ませていただこうと思っています。

月報2002年1月号より