僕がキリスト教という‘言葉’に初めて出会ったのは、まだ日本に住んでいる頃でした。日本の小学生ならこう習うかもしれません。“フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた。”と。その頃の僕は、キリスト教が一体どういう宗教なのか全然わかりませんでしたが、一つだけは自分の中ではっきりしていました。当時小学3年生の僕は、キリスト教によい印象を持つことができなかったのです。何故なら教科書には、キリスト教徒は迫害され処刑された、というようなことしかのってないからです。“何故キリスト教徒はそんなことをされたのか。そうだ、きっと怪しいことをしていたに違いない。”と勝手に思い込んでしまいました。このことはそのうち忘れてしまい、僕が小学校4年生の時に、アメリカのニュージャージーに引っ越しました。このことが、後に僕の人生を大きく変えることを知っていたのは、神様だけでした。

初めて教会のイベントに参加したのは、確か2000年の野外礼拝でした。僕の目的はただ一つ、友達と遊ぶことだけでした。この後、教会にも家族で行き始めるのですが、僕は礼拝に出たかったわけではなかったのです。ただ友達に会えるから行っていたのです。まだ神様を信じているわけでもありませんし、聖書も自分から読もうとしませんでした。教会に行き続けたら、教会学校で学んで、礼拝にも少しだけ出るようにはなりました。これも、友達がそうしたいるからでした。けれども、今思うと神様はその友達を僕に遣わせてくれたのじゃないのかと感じます。彼らのおかげで教会に行き続けることができたのですから。

しかし、この後の2001年にイギリスに引っ越すことになってそこに住み始めたときに、はっきりとした変化が僕にみることができたのです。イギリスのミルトンキーンズという町にはその頃日本人の教会がありませんでした。しばらく教会にいけない日々が続きました。以前の僕なら、このようなことは気にもかけなかったはずです。けれどもそこには、教会を求めている僕がいました。アメリカを離れるときにもらった漫画聖書を毎日のように読みました。そのうち牧師先生が来ることを信じながら。そして2002年の冬に来てくれました。小島美子先生がミルトンキーンズに来てくれたのです。それからは毎週のように礼拝に出席し、教会でもらった聖書を読みました。2003年になると、家族で学びを始めました。純粋に、神様のことをもっと知りたかったのです。

学びを始めてから2ヶ月ほどたってから、小島先生に洗礼のことについて聞かれました。その頃僕は、クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人だけ、そして何よりも、善い生活を行ってる人だけだと思っていました。僕の考えを先生に伝えると、僕の予想していた答えと違う答えが返ってきました。先生は、そんなことないんだよ、神様はありのままの私たちを受け入れてくださるんだよ、洗礼はゴールじゃなくてスタートラインなんだよ、と教えてくれました。この瞬間、僕は洗礼を受ける決心をしました。洗礼を受けたのは、2003年の4月20日のことです。

洗礼を受けてから11ヶ月ほど経った3月からアメリカに来るまでの間に、今まで以上に神様を感じることができる出来事が沢山ありました。3月半ば、僕は内臓にちょっとした異常があるということで入院していました。その2週間後には日本に引っ越すことが決まっていたので、家族で焦っていました。そんなときに、タイの教会の近藤先生が、知り合いに東京の大学病院の教授をしている人がいるから連絡してみるといってきてくれたのです。順天堂大学病院の稲葉先生はすぐにOKしてくれました。また、日本についたらすぐに入院できるように手配してくれました。彼もクリスチャンでした。最初入院中は食べることも許されず、検査の毎日でした。そんなときに近藤先生がほとんど毎日のように来てくださっては聖書の話をしてくださったことには本当に感謝です。知り合いのクリスチャンの方々も励ましに来てくれたり、日本に帰ってからもしばらく会ってない友達が来てくれたり、錦織先生のお父様や後藤兄*のお姉様との出会いなどがありました。ここまで連続的な出会い方や励ましがあるでしょうか。確実に、神様が働いてるに違いありませんでした。また、アメリカに留学するための交渉がなかなか進まない、もしうまくいっても学生ビザが1年しか出ないというときも、神様は僕にもっと好条件の学校を用意してくれました。その学校の手続きが、信じられないほどにスムーズに行ったのです。父がアメリカに出張中に学校を訪問することができ、入学のためには通常面接が必要なところ、偶然そのとき学校の幹部の方と話すことができたので、面接はいらないといってくれたのです。これは偶然でしょうか。そうではないと思います。

このことで沢山の人が祈っていてくれたと聞きました。本当に感謝です。その祈りに神様が答えてくださったのだと信じます。“わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。” (ヨハネによる福音書15章5節)

この言葉を身を持って感じました。神様やイェス様につながっているクリスチャンだからこそ祈りが届き、働いてくださるのだと実感しました。これからの歩みの中でも、多くの人とつながって、神にあって生きていけたらと思います。証しする機会を与えてくださった主に感謝。

注(*) 教会では、皆キリストにあって神の子であるという意味で、互いのことを    『兄弟』『姉妹』と呼ぶことがあります。

月報2005年1月号より