神様に初めて出会い、イエス様を救い主と受け入れてから9年が経ちます。以前から、教会や信仰書などを通じて、初心に戻るという表現をよく耳にしましたが、今になってようやくその意味がわかりつつある気がしています。

13歳に母親が急死したとき、私は自分が罪人と知りました。それは、母親に対して生前に犯した自分の罪を見つめるきっかけとなり、いくら悔やんでもどうすることもできない思いをしたのと、私の中で静かに少しずつ消えていった母への思いからです。それでも何とか自分の罪を誤魔化しつつ5年が過ぎた18歳のとき、私は人間関係で初めて苦しみ、自分が罪人であることを認めざるを得なくなりました。教会へ行かなければ、そんな切羽詰った思いを与えられて、友達の教会を訪ねました。教会の方々が新来者の私のために、私の心に聖霊が入ってくださって神様を知ることが出来るようにと祈ってくださる中で、私は私の心に聖霊が入ってきたのをはっきりと感じました。その瞬間、特別な予備知識がなくても、私には神様の存在を知ることが出来ました。本で学んだことでも、人から説明されてわかったのでもありません。私は論理的に物事を捉える傾向があり、頑固な頭の持ち主ですから、自分で納得できなければ信じることなどできなかったはずでした。その私にふさわしく、私が頭で考えて悩んだりする必要はもう何もないというほど明確に神様ご自身が私の前に現れてくださったと思います。神様が生きたまことの神様であること、愛に溢れた方であること、私の罪をも赦してくださった神様であること。そしてイエス様のこと、聖霊のことまでも。その後、教会に集い続け、聖書をよく読みましたが、それはあの瞬間に解き明かされた神様の謎を再確認するようなものでした。それはまるで使徒たちが五旬節の日に聖霊に満たされて、他の言葉で話し始めたかのよう(使徒2:4)、何とも不思議な経験でした。触れられた私は涙に溢れ、どのようにも表現することが出来ない安堵感に包まれました。ハレルヤ!神様の救いとは何とも不思議で何とも素晴らしいものです。

それから私は熱心に神様を追い求めました。求める中で、幾度も壁にぶつかりました。神様を信じているのになぜと思うこともありました。神様が御心を示してくださったと信じて歩んだ道が閉ざされたこともありました。もちろん神様を知った恵みがあまりにも大きいので、何があっても導きと最終的には受け入れることができ、今もかろうじて神様を信じられていますが、正直、神様を信じる前よりも、神様に出会ってからのほうが、苦しんできたような気がします。神様を信じているからこそ期待も膨れ上がっているのでしょう。この世でキリスト者として生きていくのは戦いです。それほどに信仰を妨げようとするものは多く大きく、それほどに罪の性質が私たちにははびこっているからです。信仰の戦いの中で試されたとき、神様を知りたい、神様の御心を知りたい、と激しく求めた時期がありましたが、そのとき私が出会ったのは伝道者の書。ソロモンに深く共感しました。「空の空、空の空、いっさいは空である。…… 私は心を尽くし、知恵を用いて、天が下に行われるすべての事を尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(伝道者の書1:2、13-14)」そんな時の私の信仰は求める気持ちは強くても、いくら一生懸命に聖書を読んでいても、決して前向きと言えるものではありませんでした。信仰書に出てくる長老の如く、何も恐れない平安に包まれた笑顔が溢れ出るような信仰や、天国ばかりに憧れを抱いて、今日を生きる姿勢には欠けていました。でも私は一体何をしようとしていたのでしょう。「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない(伝道者の書3:11)」のです。私は自分の頭であらゆることを理解しようとしていました。聖霊の助けがなければ、自分の頭では神様を知りえることができなかったではないですか!クリスチャンとして歩み始めて私はいつの間にか、霊的な範囲を超えて、自分であらゆることを知ろうとしていたのです。神様のこと、イエス様のこと、神様がなされるあらゆることというのは、霊的な助けなしにわかることはできないものでしょう。そしてそれはすぐにわかることばかりでもないでしょう。私たちが信じている神様は偉大な神様なのですから。

信仰にはきっと私がまだ知らない幾つかの局面がこの先もあるのでしょう。そんな局面を幾つか経験して、奥義のようなものを掴んでいくものかもしれません。でも今の私は、信仰とは、何年信じてきたから、どれだけ知識を増したからではなくて、何年信じても、どれだけ知恵や知識を増しても、そんな中で如何に初心に戻り、謙遜になれるか、ということかもしれないと思い始めています。神様に、「私は罪人です、今すぐにでもどうか救ってください」といった、初めて神様を知ったときのような切羽詰った祈りを、今の私は捧げられていないからです。主人の食卓から落ちるパンくずでもいいのでいただきたい(マタイ15:27)、そんな必死な思いをいつの間にか忘れ、神様の偉大な愛に安易にそして軽々しく甘えすぎている自分に気づかされているからです。

初心に戻る。それは本当に永遠に信頼することが出来る。永遠に私を裏切らない。永遠に私を愛してくださる。そんなお方に初めて出会ったとき、自我からも世的な思いからもすべて解放されたあの瞬間です。あの聖霊に満たされた瞬間。喜びと安堵感に溢れ涙が止まらなかった瞬間。私たちが信じている神様がどんなに素晴らしいお方か、私は本当に覚えているでしょうか。13歳で人は私を去っていくと悟った私に、「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。(ヘブル13:5)」そう言って下さった神様を知った喜びはどんなに大きかったでしょう。私は今一度初心に戻り、神様に出会った喜びに溢れたいと願っています。

月報2004年8月号より