「新しい喜び」

1982年の夏、私が乗った伊豆大島へ向かう船の中は、海へ遊びに行く若者達であふれるばかりでした。なんて大きな空、なんて青くきれいな海、時々海面を魚が飛び跳ねる。船の中は賑やかでも、神様が造られたこの自然界のすばらしさ中に、生かされている自分を見つめるときでした。

この時の伊豆大島でのバイブルキャンプに,私は神様から何とか解決をいただきたい1つの課題をもっていました。それは1年以上抱えた心の中の葛藤でもありました。私が参加した学生キャンプには、東日本各地、カリフォルニアから、100人ほどの学生達が集まりました。3泊4日のキャンプは楽しいレクリエーション、きれいな海での海水浴、バーベキュー、バンドの演奏や賛美、聖書からのメッセージと、盛りだくさんのプログラムでした。キャンプ場は明るい話声や歌声が賑やかで、次々に神様の恵みを証して立ち上がっていく人の話を聞くと、自分だけが取り残されて行く思いでした。そんな中、ある方が「一緒にお祈りしよう。」と、声をかけてくださいました。短い祈りの時でしたがとても慰められる思いでした。

その時の私が1年以上抱えていた心の中の問題は、友人の事故死のことでした。当時、手紙のやりとりをする中、私が友人を傷つけてしまったため、生活が荒れ、事故のきっかけになってしまったのではないか・・・と長い間の心の痛みでした。交通事故はテレビでも報道され、その友人のご両親は即死したのは自分の子とは決して認めらないほど、ひどい状態でした。そのニュースを聞いた私はただ泣き叫ぶだけでした。既に教会に通っていた私は、友人を傷つけてしまったこと、キリストの愛を伝えられなかったことに、罪悪感を覚えたり、自分を責めることも度々ありました。この事において解決をいただかなければ、私はもう生きていても喜びが得られないと、解決がないならこのまま海に落ちてしまいたいとまで悩み苦しんで参加したキャンプでした。しかし、最後の晩、この時ばかりは神様に切なる願いをもって祈りました。「私の心のすべてをご存知な神様、既に過去の事であっても、私にはこの事においてはっきりとした解決が必要なのです。・・・」と、すがる思いでした。しばらくの祈りの中で、ヨハネ第1の手紙1章7節「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」の聖書のみ言葉が心にとまり、イエスキリストの十字架がわたしの心をとらえました。「十字架のもとに泉わきて、いかなる罪もきよめつくす・・・」賛美の中にイエス様の十字架がどんな罪からも私を救い、赦し、きよめてくださると、語られたようでした。そればかりではなく、もう生きていても価値がないのではないかと思っていた私に、神様は“あなたにしかできないことがたくさんある。”と、教えて下さいました。驚きでした。こんな小さな者でも、他の誰でもない、私にしかできないことがたくさんあるとは。そんなこと考えもしませんでした。目が開かれる思いでした。「そのことのために私をきよめて用いてください。」と、祈らされました。

この十字架の愛と赦しの体験は、私を心の底から変えてくださいました。どんな些細な事でも人のためになれる事が私の喜びと変えられる体験でもありました。なぜなら、こんなちっぽけな私が神様から愛され、生かされているのですから。既にクリスチャン生活3年目の出来事でしたが、私の第2の転機とも言えるほど、大島への船の行きと帰りでは全く違った積極的な生き方へと変えられた経験でした。神様はー歩ー歩の歩みを支え、確かな聖書のみ言葉をもって導いてくださいます。これからもイエス様の十字架の愛の深さを更に教えていただきたいと願います。


月報2003年1月号より

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