「神様の時」

父の体調がおもわしくないと母からの電話があったのは、昨年12月の20日くらいだったと思います。その前から食欲がかなり落ちていたという事でした。その後いくつかの検査を行ったようですが、はっきりとした原因がわからず、その間にも通院して点滴を受けていました。最終的に細胞を取って検査をし、母からその結果を聞いたのは1月21日(木) の夜でした。母はまず「驚かないでね。」と落ち着いた声で言い、病名が胃癌であったと報告してくれました。既に癌の末期であり、手術も抗癌剤治療も受けられない状態でした。父は即入院をし、自分の病気のことも知っていました。いずれは親の死に直面するであろう、と漠然とは思っていたものの、こんなに突然そのような日がやってくるとは夢にも思っていませんでした。その知らせを聞き、大きな衝撃はありましたが、心の中には不思議と平安がありました。もちろん、全てを支配しておられ、不可能なことを可能にする事ができるお方に、「父の病を癒して下さい。父の癒しを通して神様の栄光をあらわして下さい。」という祈りもささげましたが、それ以上に、「このことが神様のご計画であるならば、神様の御心が行われますように。私自身が神様に全てをお委ねすることができますように。」と祈っていました。

子供達のことや仕事のことがあった為、最初は2月の半ばに日本へ戻る計画を立てましたが、23日(土)の朝に再び母と話した時には「それでは遅いかもしれない。すぐにでも帰らなければ後悔するかもしれない。」という思いが押し迫ってきました。また、主人にも「後のことはどうにでもなる。他の事は心配しなくてもいいから。」と励まされ、二週間の予定で帰国する決心をしました。そして、24日(日)の朝、一
人で日本へ向かいました。飛行機のチケットを直ぐに取ることができた事も、半日で出発の準備ができた事も、仕事の引継ぎができた事も神様の導きを感じました。飛行機の中では、「私の心の中の思いをちゃんと父に伝えることができるように。」と祈り続けました。そして「できることならば、もう一度2人の孫達に会えるように、それまで父の命を守って下さい。」とも祈りました。それは、「どうしてもっと頻繁に日本へ帰って、孫達に会わせてあげなかったのだろう?」という、どうしようもない後悔の思いが湧き上がってきたからです。

25日(月)、成田から仙台へ直行し、自宅近くにある父の入院する病院に着いたのは夜の7時頃でした。それから父が天に召されるまでの約5日間を共に過ごすことができたのは、神様が私達へくださったプレゼントだったと思います。それは、日本を離れていた約22年間のブランクを取り戻すかのようでした。

父はアメリカを訪れたことが2回あります。1回目は私の結婚式の時で、2回目は約2年半前の我が家の引越しの時に一人で手伝いに来てくれました。もともと整理整頓が得意で几帳面、手先が器用な父でしたので、荷物を丁寧に箱に詰めてくれたり、掃除をしてくれたり、また引越し後は箱から荷物を出して片付けてくれたりと、大助かりでした。その他にも、時間の空いた隙に庭の雑草をきれいにむしってくれたり、土を掘り起して花の種をまいてくれたり、庭に石を敷いてくれたりと、2週間の滞在中ずっと働き通しでした。せっかく来てくれたのだから、せめて1日か2日どこかへ遊びに行こうと提案しても、「今回は引越しの手伝いに来たんだから時間がもったいない。また今度ゆっくり遊びに来るから。」と言って、結局その2週間の滞在は、最初から最後まで引越し三昧でした。日本へ帰ってからも、庭や一緒に買った植物が気になったようで、しょっちゅう電話で、「ちゃんと雑草取ってる?水をやってる?」と聞かれました。父が種をまいてくれた花は、季節になると、きれいに咲いています。そして、これからも咲き続けることでしょう。

そのアメリカ滞在中のある日、父と私が2人きりになる時間がありました。父は、いきなり私の前に正座をし、「本当に申し訳ない事をした。どんなにか傷つけてしまった事か。どうか赦してほしい。」と頭を下げて謝ってきました。それは父が、まだ幼い私と母の前から当然姿を消し、ある女性と行方不明になったことについてでした。そして父は「本当にバカな父親だったよなぁ。」と、何度も何度も繰り返し言っていました。あまりにも突然の事で、私は何と反応していいのかわからず、「まだ小さかったし、よく覚えてないよ。」と誤魔化してしまいました。父は「そんなことないでしょ。」と言いましたが、その時の私は、父と向き合う事から逃げてしまったのです。

そのことが昨年の10月頃、教会のある学びの中で示されました。知らず知らずのうちに父に対して何となく冷めた思いを持っている自分、心の底から父を赦していない自分、幼い頃に受けた傷がまだ癒されていない自分。人を赦すことをしなければ、本当に癒されることはできないのではないかと思いました。そして、このまま父を赦すことをしないならば、また赦していると伝える前に父が召されるようなことがあれば、どんなに後悔しても後悔しきれないだろうと思いました。そのことを同じグループの数人に分かち合い、祈ってもらいました。ですから、父の病気を知った時には、「こんなに直ぐに、こういった形で私の祈りが聞かれるなんて。神様は本当に不思議なことをされるお方だなぁ。」と思いました。でも、このようなことがなければ、人間はきちんと向き合うことなんて出来ないのかもしれません。しかし、その時にふと、「もしかしたら、あの時には既に父の体に異変が起きていて、神様が私にあのような思いを与えてくださったのでは?」とも思いました。

私が病院に着いた月曜日、父は個室に移されていました。母から電話で聞いてはいましたが、すっかり痩せ細り、体に何本もの管を付け、酸素吸入マスクをしている父の姿を目にした時には、「こんなにも悪いのか、、、」と、一瞬動揺してしまったのではないかと思います。私を見た父は驚いた顔をし、泣いていました。お見舞いに来て下さっていた方々も居られたのですが、すぐに父と2人きりになる時間が与えられました。いつどうなるかわからない様子の父を前にして、「あの事を今すぐにでも言わなければ。」という思いにかられ、勇気を出して話を切り出しましたが、その途端、父は涙を流して頷きました。言葉を選びながら話しているうちに、「自分も罪人の一人にすぎないのに、メ赦すモなど、なんて傲慢なのか?本当に人を赦すことができるのは、神様・イエス様以外の誰でもないのに。」という思いが沸いてきて、途中から何をどう言っていいのかわからなくなりました。しかし父は、私の言いたいことを理解してくれたようで、何度も頷いて聞いてくれました。そして、私が「あの事があったから、イエス様に出会うことができたんでしょ?ママにも感謝しなくちゃね。」と言うと、また大きく頷きました。

その後担当の先生から今までの経過と現在の状況を詳しく伺い、父がいつ危険な状態になってもおかしくないということも聞いたので、早速その晩から病室に泊まって父に付き添うことにしました。病院の先生方、特に看護師さん達は皆さん親切で優しく、誠意を込めてお世話して下さり、本当に感謝の気持ちで一杯でした。父も事ある毎に、看護師さんに「ありがとう。」と言い、また何度も何度も「感謝だなぁ。」と口にしていました。「信仰のすばらしさと難しさを味わっています。この時にも主に感謝。出会いのすべてに感謝。瓶いっぱいの感謝捧げます。妻に感謝。」入院中、父が自分で書いた最後の言葉です。聖書にある『わたしの恵みはあなたに対して十分である。』(第二コリント12章9節)という言葉も何度となく繰り返していました。

父と過ごした最後の夜、父はかなり呼吸が苦しく、何度も何度も看護師さんを呼んで痰を吸引してもらったり、体の位置を直してもらったりしました。しかし私は時間を惜しむように、その合間をみて、子供の時にどこへ行ったとか何をしたとかなど、思い出せる限り父に話しました。私が「覚えてる?」と聞くと、首を大きく振って「うんうん」と頷いたり、「そんなことまで覚えてるの?」とでも言うように、目を大きく見開いたりもしていました。また、「一番好きな聖書の箇所は?」と聞くと、「イザヤ53章」と答え、「好きな賛美は?」の質問には、「たくさんありすぎてわからないから、後で教える。」と答えました。私は、父が一番好きだと言ったイザヤ53章をはじめ、両親が通う教会のジェンキンズ先生が教えて下さった聖書の箇所を次々と読みました。また、以前から聞いてみたかった事のいくつかを質問してみました。母は私が3歳の頃から教会へ行くようになりましたが、父が初めて教会へ行ったのは私が10歳の時でした。その間、父が教会へ行くことは一度もなかったのですが、私は父が母の留守の隙にこっそりと聖書を読んでいたのを何度か見たことがありました。「教会に行く前から、聖書の中に真実があると思っていたの?イエス様が救い主だと信じていたの?」と聞くと、大きく頷き、息をすることもままならない、やっと絞り出した声で、「ママには知られたくなかったから。本当にバカだった、くだらない見栄を張って。」と言って涙を流していました。また、まだ私が幼い頃、家には祖母の位牌(いはい)があったのですが、ある日それがなくなっていたのです。その頃はまだ教会に行っていなかった父ですが、川で焼いたという話を最近になって母から聞いていました。その理由を父に訊ねると、「ただの木だと思ったの。そこには魂がないって。」と言いました。そして、「アメリカに行くことを許してくれて、ありがとね。自分のやりたいと思うことをさせてあげたいと思ったの?それとも、心配だけど、神様にお任せすれば、必ず守ってくださる、と思ったの?」と聞くと、「後の方。」とだけ答えました。

召される日の朝は、「お風呂に入りたい。」と言い、病室に来る先生や看護師さん達が困るほど何度も訴えていました。ある看護師さんからは、「岡崎さん、我慢強くて何にも言ってくれないんだから。もっとワガママ言って下さいよ。」と言われていたくらいでしたので、強い口調で何度も何度も懇願する父の姿に、私も看護師さん達も驚くほどでした。父が召されてから、私は中学生の時に父から言われた言葉を思い出していました。「日曜日は神様の御前に出る聖別された日だから、ちゃんとお風呂に入って体をきれいにして礼拝に行くんだよ。」今になってみれば、あの日、父は天国に行く、神様に会う準備をしたかったのかもしれません。

1月30日(土)の午前11時半頃だったと思いますが、父は突然両手を高く上げ、「主よ、超自然的に、、、」と、繰り返し言っていました。おそらく、「超自然的に神様の元に引き上げて下さい。」と言いたかったのでしょう。病室には母と私の親友も一緒でしたが、私達は父の腕を両方から支え、まるでそれは聖書の出エジプト記に書かれてあるように、アロンとフルがモーセの腕を支え続けた時の光景を思い起こすかのようでした。その父の姿は、本当に神様と話しているようでした。そして、私達は祈り、賛美を続けました。しばらくすると、父が待っていたジェンキンズ先生が到着し、更に祈りはささげられ、聖書が読み続けられました。12時半をしばらく過ぎた頃、いよいよ最期の時がやって来ました。もう自分の力では起き上がることのできなかった父でしたので、ジェスチャーで体を起こして欲しいと訴え、そのようにしてあげると、正気に戻ったようにカッと目を見開いて自ら酸素吸入マスクを外し、指や他の部分に付けていたセンサーも次々と取り、腕に付いていた点滴の管までもむしり取ろうとしました。それまでも音や違和感が嫌だと言い、何度も外そうとしたことはありましたが、その時とは違って、まるで「もうこんなものは必要ない。私はこれから主の御許に行くのだから。」とでも言っているかのようでした。そこに居た者は皆圧倒され、誰もそれを止めることなどできない気迫を感じました。そして、最後の力を振り絞るかのように、それはまるで意を決して天国へ向かって行くかのように、自分の体を更に前へ乗り出したかと思うと、次の瞬間にはガクっと首を垂らして動かなくなったのです。その時まだ心臓は動いていましたが、「あ、行ってしまった。もうここには魂はない。」というような不思議な感覚に包まれていました。先生方、看護師さんも病室に駆けつけ、他にもお見舞いに来て下さった方々
に囲まれる中、聖書の詩篇23篇が朗読され、祈りと賛美で父を送り出しました。まさしく、メ天国への凱旋モという言葉がピッタリで、それは見事な旅立ちでした。

父が召された後に行われた前夜式も告別式も素晴らしく、神様の臨在を強く感じ、主の御名を崇めました。そこでは福音と希望が語られ、一人の信仰者の真実の証しが語られました。クリスチャンではない親戚は、キリスト教の葬儀に初めて参列し、多?の戸惑いを覚えたようではありますが、「クリスチャンは死への考え方が全然違うんね。死が終わりではなくて、その先に希望があるんだね。」と口々に語っていました。神様は、一人の人間の死をも用いて、多くの者の心に触れて下さいました。それは、父の一番の願いだったのではないでしょうか。『私にとっては、生きることもキリスト、死ぬこともまた益です。』(ピリピ1章21節)
今回の一連の出来事が、全て神様のご計画の中で導かれていた事を、いま改めて実感しています。2週間という限られた滞在の中で、父と時間を過ごすことができた事、父が召される瞬間に立ち会う事ができた事。もし病室に父を残したまま、こちらに戻って来る事になっていたとしたら、どんなにか心残りで辛かった事でしょうか。そして、前夜式と告別式に参列できた事。そのことによって、天国の希望と喜びという強い確信が与えられ平安が増し加わった事、懐かしい方々にお会いできた事。その他にも様々な事を通して、神様の絶妙なタイミングに何度も驚かされました。特に感謝したい事は、神様に全て委ねる事ができた(それも神様の助けなしではできなかった事ですが)時から(私が委ねる前から神様のご計画があったとは思いますが)、心に平安が与えられ、全てが備えられ、神様の御心が行われる、不思議なように事がスムーズに運ばれて行くのを目の当たりに見せて頂いたことです。その中で一つの例を挙げますと、ちょうど一時帰国中の錦織先生が、2月1日の夜に仙台に立ち寄り、父のお見舞いに来て下さる予定を立てておられました。父が召されたのが1月30日でしたので、生きている父にはお会いして頂く事はできませんでしたが、先生が他の方々と会われる予定を全く変更する必要もなく、父の前夜式に間に合うように仙台に到着され、式に参列して頂けたのは、神様のご計画とお導き以外の何ものでもないと感じています。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝道者の書3章11節)

最後まで感謝にあふれ、謙虚で、優しく、しかし心の中は熱く燃え、強い信仰に立っていた父。一人の信仰者として心から尊敬しています。今回大勢の方が病室を訪ねて下さり、また色々な方のお話を伺がって、いかに皆さんが父の容態を心配し、愛して下さっていたのかを知る事ができました。このように離れて生活し、二人の孫達とも数回しか会ったことがない中で、父のことをメ仙台のお父さん、おじいちゃんモと呼んで慕って下さる方々が回りに与えられていた事は、私にとって大きな慰めでした。また、何十年ぶりに会った親戚から、父の幼?の頃の思い出話を聞いたり、私が知らなかった父の意外な面を発見し、父の事を今までにないほど身近に感じるようになりました。そして、愛おしく思うようにもなりました。今はしばしのお別れで寂しく思いますが、やがていつの日か天国で再会できる事を楽しみにしています。そのような希望と平安が与えられている事に感謝します。

今年の初めに、私が与えられた聖句は、『見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。』(イザヤ書43章19節)でした。この聖句に目が留まった時、「神様は何をなさろうとしているんだろう?」と思いましたが、また同時に、いつも私が支えれている聖句『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。??主の御告げ。?? それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ書29章11節)を持って語りかけて下さいました。父の事を通して、「このことだったのか。」と神様の御心がはっきりと示され、またその素晴らしい御業を見せて頂きました。これからも主の御業を見せ続けて頂きたいと願っています。

最後になりましたが、父の事を、また私達家族の事を覚えて祈り支えて下さった皆様、メールやお電話等で励まして下さった皆様、また私が不在の間、こちらに残る家族のために毎日お食事を届けてサポートして下さった皆様、本当に有難うございました。心より感謝を申し上げます。

月報2010年3月号より

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