「私が最初に教会というものに…」

私が最初に教会というものに足を踏み入れたのは小学校の2年生くらいの頃だった。動機はかなり単純で、友達が「お菓子がもらえるところだよ。」と誘ってくれたからである。その頃から食べ物には弱かったらしい。どのくらい教会の日曜学校に通ったのだろうか、神様を信じる、信じないの意識が出る前に、日本人特有の無信仰に近い仏教の家族達の反対でなんとなく行かないようになってしまった。しかし、若い脳みその記憶力とはすごいもので、あの頃覚えたお祈りの文句は忘れることなく、意味もわからずそのときから今まで毎日祈っている(さすがに今は意味くらいわかる)。

その後、教会との縁などさっぱりなくなってしまった私が、2度目に教会に通うことになったのは1997年にサウスキャロライナに住むことになったときである。ここでの動機も全く不純で、当時の彼氏が宗教の研究に興味を持ち、教会に行っていたため(彼もクリスチャンではない)一緒についていっていた、というものだった。神様の話を聞くより、彼の隣に座る方がずっと大事というとんでもない奴だった。しかし、土地柄か、人々のあまりの熱心さに私はかえって冷め切ってしまい、「私は一生クリスチャンになることなどないから、そんなに勧めても無駄だよ。」と心の中で思っていたもんである。

そしてサウスキャロライナを離れニューヨークへ。これでもう教会とはおさらばと思った矢先、どうしてか私のまわりにはクリスチャンが多く、それもなぜか私は彼らの標的になってしまうらしい。ここでも、クリスチャンの友人たちの熱心な教えに拒絶反応を示し、ますます「キリスト教ってカルト?」という今考えると大変失礼極まりない印象を持ってしまった。

その後1年のアメリカ生活を終え、日本へ帰国。夢中で過ごしたアメリカでの生活から、日本の落ち着いた生活に戻ったが、ここで私の心には今まで感じたこともない虚無感というか、なんともいえない不安や孤独が訪れたのだった。私は自分で言うのもなんだが、普通の家庭で愛されて育ち、成績も優秀、行動力もあり、それまでの人生で挫折と呼べるようなものは経験せず、有名大学を卒業し、難なく希望した国家公務員にも合格した。その上、職に就いて1年目で勝手に出した奨学金に合格し、特例として一年仕事を離れさせてもらった。帰国後も多少のやっかみがあるかと思えば、いい人ばかりに恵まれ、希望のセクションに配属され、仕事に行くのが楽しくてしょうがない毎日をおくっていた。お金も職もまわりからの愛情もすべて手に入れた、他人から見たら幸せこの上ない人間だったろう。でも、そんな私の心の中はどうやっても埋められない不満足感、いくら幸せをもらってももっと欲しくてしょうがないという説明できない悲しみが渦まいていた。

そんなとき、仲の良いのおばさんが家庭集会を開いているというので、ちょっとだけのぞいてみることにした。数人で聖書を読んでいると、今まで心に足りなかった何かがちょっとだけ埋まったような気がした。数回参加しているうちに、「ふーん、聖書っていいこと言うじゃん。」という気持ちが出てきた。

そして、日本に帰って2年後、またアメリカに戻ることになった。アメリカに来る直前、小学校のころ通った教会の先生に、なんとなーく挨拶する気になり、20年ぶりくらいに教会のドアをノックしたのである。「やっぱり神様は奇跡を起こしてくださる方だ!」先生は喜んでくれたばかりか、なんと私が小学生のころ教会に来なくなってからそのときまで、私がいつか教会に戻ってくることを祈りつづけていたということだった。そのときの私の感動といったら。「こんな私をここまで思ってくれるなんて、クリスチャンとその人たちの信じる神様ってただ者じゃあないかも・・・」

そうやって神様へ気持ちが傾きかけたまま、なつかしいニューヨークへ戻り、それならもうちょっと聖書を勉強してみようとしばらく近所で行われていたバイブルスタディーに参加していた。しかし、そのリーダーがテキサスへ引っ越すということで、そのバイブルスタディーは終了になり、聖書に触れる機会がなくなろうとしていたころ、錦織先生から直接連絡をいただいたのである。実家の方の教会の先生が錦織先生の神学校時代の大先輩だったという縁である。そしてこの教会でやっぱり神様についていきたいという気持ちが強くなり、昨年の12月に受洗させていただいたわけである。私の受洗は、今までなんとか私を神様の道に、と試みて失敗に終ったクリスチャンの友人たちやサウスキャロライナの先生方には寝耳に水だったらしく、「奇跡だ」の声が方々から聞こえた。でもそんなに奇跡、奇跡って私はそれほど露骨に拒絶反応を示していたのだろうか?

そんなわけで、20年も前から始まり、たくさんの人の縁に恵まれてクリスチャンとなった長い道のりにはとっても感慨深いものがある。疑問、疑問を乗り越えてクリスチャンになったのだが、いまだに疑問だらけで、時折その疑問が大爆発し、とても数ヶ月前涙を流して受洗した人とは思えない暴言を吐いて、錦織先生始め、まわりのクリスチャンフレンドに迷惑をかけている。そんな私でも神様は愛してくださるのだから本当にありがたい。これからも、少しでも神様に近くなれるように、神様を心から信頼していけるようにお守りください。

月報2001年3月号より

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