「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)
子どもの頃から、教会は好きでしたが、そこは「自由」なところ、という印象はありませんでした。「ちゃんとしていないといけない」「終わったら遊べるから、それまではガマン」という感じだったと思います。ですから、初めてこのイエスの言葉に出会った時、とても新鮮だったことを覚えています。「そうか、イエスはわたしに自由を与えてくださろうとしているんだ!ああ、自分もこの自由が欲しい!」そう思ったことでした。
この自由を感じることができたのは、イエスの十字架の意味を深く知った時でした。いつも教会の建物に掲げられている十字架、キリスト教のシンボルのように使われている十字架、それが、私の罪のための身代わりだったことは子どもの頃から聞いていました。そして、それを信じてはいました。しかし、ある時、一つの出来事を通して、自分の罪深さを見せつけられ、打ちのめされていた時に、そんなわたしをも愛して、イエスは命を投げ出した、そのことの重みを感じました。それまでは、心のどこかで「自分は一生懸命やっているから、神に愛されるのは当然だ」という思いがあったのでしょう。でも、そうではない、自分がどうしようもない奴なんだ、とわかった時に、初めてこの十字架に表された神の愛がどれほど大きいのかを感じました。その時から、その神の愛への感謝、これによって、私は生かされています。それは「なんでも好きなことをしていい」という自由ではなくて、「この喜びをどのように表していこうか」「この与えられた愛にどのように応えていこうか」と内側から溢れる思いによって生きていく自由なのです。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と言われました。この「わたしのくびきは負いやすい」というのは、「あなたにぴったりフィットする」という意味です。私たち一人ひとりを造ってくださった神は、私たち一人ひとりにぴったりフィットする使命を準備してくださっています。そこに生きることです。
この一年、私たちの教会はこのことを強調して歩んでいきます。お一人でも多くの方々が、この神様が与えてくださる自由、内側から溢れてくるいのちの力を経験することができますように。