2025年2月<牧師室より>「それを、ここに持って来なさい」

「それを、ここに持って来なさい」(マタイ14章18節)

私たちの教会は、この言葉をいただいて、2025年をスタートしました。

その日、イエスの周りには、男だけで5000人、女性や子どもを入れると1万人とも1万5千人とも言われる人々が集まっていました。日が傾き始めたとき、イエスの弟子たちは「もう夕方です。この群衆を解散させて、それぞれで食物を買いに行かせてください」と進言しました。しかし、それに対するイエスの答えは信じられないものでした。イエスは言われたのです。「あなたがたの手でこの人々に食物をあげなさい」と。「そんなこと言われても・・・」と、自分たちの手の中にあるものを見て、弟子たちは「私たちには5つのパンと2匹の魚しかありません」と答えます。それに対してイエスが言われた言葉が、その言葉でした。

「それを、ここに持って来なさい」

日本の企業の競争力が落ち、また円安が進む中で、駐在や留学のために来られる方々が減っている中で、私たちの教会に集う方々も減ってきています。また、長年にわたり教会を支えて来られた皆さんも、また私自身も10年、20年前のような動きができなくなってきています。そんな現状を見るときに、「私たちにはこれしかありません」と言いたくなります。しかし、そんな私たちに対して、今日も、イエス様は同じように言われているのではないかと思ったのです。

「それを、ここに持って来なさい」

私たちの手の中にあるものは何でしょうか?「これっぽっちでは・・・」「何もできませんよ・・・」そう言わないで、神様のために用いていただくのです。

「あなたがたの手で食物をあげなさい」とイエスは弟子たちに言われたのですが、実際に起こったことを見ると、弟子たちは自分の手の中にあるものを、ただイエスのもとに持って行っただけでした。イエス様はそれを受け取って、神様に感謝して、弟子たちに渡して、人々に配らせられました。その時に人々は満腹したというのです。人々を満腹させたのは弟子たちではなく、イエスご自身でした。

「それをここに持ってきなさい」といわれたイエスは、私たちの手の中にある小さなものを喜んで用いてくださり、人々の心をいっぱいに満たしてくださるのです。イエスの招きに応えて歩んでいきたいと思います。

2025年の皆さんの歩みにも神様の祝福をお祈りしています。

「私の居場所」

私は、2024年12月24日に信仰告白し、翌年1月19日にニュージャージー日本語キリスト教会で洗礼を受けました。そこに至るまでのことを、少しお話ししたいと思います。

いつの頃だったかはもう思い出せませんが、仕事柄、欧米の方とよりよくコミュニケーションを図りたいという思いから、聖書に手を伸ばしました。岩波文庫の個人訳聖書(創世記と福音書)で、初読の私にとって親しみやすいものでした。福音書の方は、たくさんのブックマークと書き込みで、だいぶ愛着のあるものになっています。
また、敬虔なプロテスタントクリスチャンであったカール・ヒルティの著書をいくつか読みました。今思えばちょうど、私が長いメンタルダウンに苦しんでいて、すがりたいものを探していた時期と重なるように思います。

日本での数少ないクリスチャンとの出会いの中で、忘れられない方がいます。ある学会の仕事をしていた頃に、事務局長の交代によりHさんに出会いました。Hさんはバリバリ仕事をされる方でしたが、不思議なほどいつも笑顔で、思いやりがありどなたにも気さくに接していました。プロジェクトが思うように進まないと悩んでいたある日、「私クリスチャンなんですけどね」とHさんが、全て神様が整えてくださる、そんなことをお話くださったように記憶しています。私が学会を離れた後に、Hさんは学会総会に向けた準備の最中に天に召されました。ご葬儀には参列できませんでしたが、ご家族から後日いただきましたお手紙に愛が溢れていたことを覚えています。

こうした経験を経るにつれて次第に教会に興味を持つようになりましたが、日本にいた時には敷居が高く感じられて戸を叩くことはありませんでした。コロナ禍の気分転換に、近所を散歩していた際に見つけた教会がありましたが、文字通り扉の手前まで来て戸を叩かずに帰りました。

その後、長い間希望していた海外赴任が叶い、2023年3月末からNJで単身生活を始めました。生活立ち上げが落ち着いた6月、自然と教会を探(検索)し始め、ニュージャージー日本語教会を探しあてました。日本人コミュニティが恋しかったこともあってか、今回はドキドキしつつも教会の扉を開けることができました。
タイミングを同じくしてマンハッタンで男声合唱を始めました。後日、錦織先生も参加されている合唱団ということを知ることになります。手帳を読み返すと、6/16(金)に合唱練習を、6/18(日)に教会を訪ねていて、錦織先生とは教会で初めてお会いしました。今思えば、また尻込みするかもしれない私のために、神様は二重の道を整えてくだっさていたのだと思います。

初めて経験する教会での礼拝は、その様式に戸惑いを感じましたが、聖書に学んで讃美歌を歌うことに楽しみを感じて、また、お茶時間には「ここには日本がある」という安心を感じることができました。教会の皆さんにはとても優しく接していただき、時には食事にお誘いいただいて家族の温かさを感じたりしていました。

少し時間が経ち、赴任初年の冬に仕事に忙殺され、年が明けて訪れた出張先にて恐らくストレスによって声が出なくなった時には、自然とイエス様にすがっている自分に気づきました。聖書の言葉がなかったら、そのままホテルで悶々と過ごすだけだったでしょう。ただ結局、そのまま体調悪化の波に飲まれ、自責の念に駆られ(海外赴任までしてやるべき事ができない)、人と触れ合うことに負担を感じてしまい、半年ほどの間、教会から足が遠ざかってしまいました。

そんな中、合唱仲間と昨年の夏に訪れたメイン州への旅行は、とてもリラックスできた思い出深いものになりました。旅行からの帰り道は、私の単身生活をよくケアしてくださっているYさんと2人のドライブでした。その道中にYさんから、信仰はパーソナルなものであって、教会は自分と神様との関係を見つめる場所だよね、と気付かされ、何か引っかかっていたものが取り除かれた気がしました。
マルティン・ルターの著した論文「キリスト者の自由」にある二命題(キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない/キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する)を理解できるようになったことも、この気づきをサポートしてくれました。
この旅行をきっかけに体調がだいぶ回復し、人と関わることに安心を覚え始めたことも手伝って、また教会に通うようになりました。変わらず温かく迎えてくださった兄弟姉妹に、ただただ感謝です。

今考えると、何か義しい行いをしなくてはいけないという思いにずっと縛られていたのだと、思い知らされています。そういえばこれまで生きてきた中で、自分の考えを人に押し付けることが多かったように思います。信仰を持って自由に、そして愛を以って奉仕する、そうした信仰生活を送りたいと今では願っています。

ルカの福音書2:7
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

錦織先生との学びの中で、またクリスマスを迎えるアドベントの中で、この聖句に目を開かれました。居場所がないと感じている者にとっての大きな慰めーーー私も長い間、自分の居場所を求めていた気がします。自分の努力でどうにかなる、どうにかしなければならないと頑張っていたあの頃、無理が祟ってうつ病を患い、聖書に手を伸ばした時、初めての単身赴任にて気持ちが安らぐ場所を求めていた時期。

学びの途中で、個人的に心の奥底にしまっておいた罪を神様に告白しました。この罪がこれまでの私を形作り、私の人生となって現れ、またイエス様と出会う道であったのだと思います。私の代わりにイエス様が十字架にかかってくださったことを、今では覚えて感謝しています。

伝導者の書3:15
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない

言い過ぎかもしれませんが、私の心には後悔というものがなくなりました。これから何が起こるか知る由もありませんが、全てにおいて神様を信頼して歩んでいこうと思います。まずは3月の本帰国に向けて、神様のお心に適う仕方で全てを整えてくださることをお祈りしたいと思います。兄弟姉妹と歩んでいく中で目が開かれ、より強められますように。残り短いNJ生活で、良い働きを持って奉仕できる事が与えられますように。日本でも居場所が与えられますように。

<牧師室より>2025年1月号「何を大切にするのか」

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

12月の最後の日曜日の夜、カーター元大統領が100歳で亡くなられたとのニュースが入ってきました。

彼が大統領であった時代、私は日本で中学高校時代を過ごしていたので、政治のこと、アメリカのことなど何も分かっていませんでしたが、とにかく、敬虔な信仰の姿勢、また温厚な人柄、そして、キャンプデービッドでのイスラエルとエジプトの歴史的な和解に代表される、平和を求める姿にはとても魅力を感じたのを覚えています。後になって、アメリカの政治のことなども少しは分かってきて、彼が再選されなかったことにも、「まあ、しょうがなかったのかな」と思うようになってきていました。

今回、カーター氏の訃報を受けて、オバマ元大統領が投稿した文章を読みました。その中で、彼はこのように書いています。“He believed some things were more important than reelection – things like integrity, respect, and compassion.”(「彼は再選よりも大切なものがあると信じていた。誠実さ、尊敬、思いやりといったものだ。」DeepL訳)これを読んだ時に、本当にそうだな、と思いました。もちろん、ここにはオバマ氏の、再選にこだわった歴代大統領たち(と言うか、特に一人の人)に対する皮肉も込められているのでしょうが、カーター氏の生き方は、私たちが何を大切にしていくのかについて問うているように思います。

新しい年を迎えて、私たちはもう一度そのことを確認すべきでしょう。わたしたちは自分の人生で何を大切にしていくのか?本当に大切にすべきなのは何なのか?教会としても私たちが大切にしていくべきものは何か、問われていると思います。新しい年、本当に大切にすべきことを大切にして歩んでいきましょう。

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

コリント人への手紙 第一 13章13節

<集会案内>「教会の、それって何?」(2025年1月)

2024年の12月から始まった新しいプログラムです。

これは、教会のメンバーに知っておいてほしいことをお伝えするために始めたプログラムです。でも、それと共に、教会のメンバーだけではなく、教会に来はじめた方や、教会に行ってみようかな、でも・・・と躊躇している皆さんが持たれるであろう、教会ってどういうところなのか、教会が大切にしていることは何なのか、という疑問に答えることができれば、と思っています。

第1回目の12月1日は、「教会の、『礼拝』って何?」というテーマでした。まず、皆さんに「礼拝で大切にしていることは何?」と伺ったときに出てきたのがこちら。いやあ、とても活発にいろんなことが出てきて、うれしかったです。そして、皆さんが礼拝を大切にしている思いもビンビン伝わってきました。で、この日、お伝えしたかったのは、「こうやって、日曜日に集まって共にささげる礼拝、と共に、日々、私たちが生きていく中で、神様にささげていく『礼拝』の生活が大切なんですよ」ということでした。その延長上に日曜日の礼拝があるんですね。

毎月1回、第一日曜日の礼拝後に30分、ジムで持ちます。2025年1月は「教会の、『礼拝』って何?」の「そもそも礼拝は・・・」ってところから、次のステップで、「日曜日に集まって礼拝をささげる意味」って感じで話をしようと思っています。お楽しみに!

「起承転結 ― 神様のものさし」

2025年が、始まります。今年還暦を迎える私にとっては新しい章のスタートです。

0〜29歳 :“娘” -まだイエス様との出会いもなく、自由奔放に毎日を楽しんでいた私は、父と言われて頭に浮かぶのは、血縁の父。

30〜59歳:“妻”“母” -新しい家族ができ、救いへと導かれましたが、父と言われて浮かぶのは、日々二人の娘と健闘していたその父親である夫。

60〜(神様のとき歳):“私” -父といえば、天のお父様です。
天のお父様には、これまで多くのことを教えていただきました。そのお方は万能であり全てが可能で、どんなものにも変え難い平安を与えてくださること、そして誰よりも私を愛してくださっているということを、これまでの歩みの中で繰り返して実感しております。

これからの日々は、この天のお父様の大きな御手の中で、肩の力を抜きリラックスして父の示される道を歩んでいけるようにと祈っていきます。

1番の敵は、自分の常識を正しいと錯覚してしまうことです。たとえ、自分にとってはマイナスに思えることがあったとしても全てを益とされる方は、決して私を暗闇に置き去りにすることはなさらず、祝福というゴールを備えてくださっていました。神様の常識のもとでは、自らの思いはなんの効力もないことを自覚しています。日々、天のお父様のみ顔を求め、み声を聞き逃すことのないように、御言葉をうちに積み重ねて、力強く全身全霊を持って歩んでいきたいと祈っています。

主に望みをおく人は新たな力を得、 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
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2023年9月、自分が洗礼を受けた母教会の日本語礼拝が30周年記念を迎え、その時自らの信仰生活を振り返りました。その証をこれからシェアさせていただきます。

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 私がイエス様と出会えるための道案内をしてくださった母教会が、神様の愛の中で素晴らしいお働きをして30周年を迎えられたことを感謝、お祝いし、自らのこれまでの歩みを振り返ります。

 2001年、夫は20代から勤めた金融業でのリタイヤを決心して、私たちは日本からサンフランシスコ郊外に引っ越しました。長女は幼稚園入園、現地校に馴染めず、毎朝学校に着くと泣き出し、困難でのスタートとなりました。その中で、私は車で15分の所にあったJapanese Christian Church of Walnuts Creekにつながっていくことになります。教会での集会、行事などに子供達と共に参加し、翌年クリスマスに私は受洗へと導かれました。その頃の私は神様に夢中で、毎日は教会生活が中心でした。

 長女が中学校に入る準備をしていた2007年5月、6年間安定した仕事に恵まれなかった夫に、NYの証券会社から香港支社・東京支社での仕事が与えられました。夫は香港で1年間勤務、私は、強い信仰を持っていると勘違いしながら東京に帰りました。子供達もインターナショナルスクールに戻り、日曜日は共に教会に通い、長女は2008年、自らの意志で受洗、2009年、2歳年下の次女も自らの強い意志を果たして、受洗をいたしました。

 2009年リーマンショック。しばらくして、夫はレイオフされました。会社から支給されていた家を数ヶ月後に出て、家族で私の実家に移り住み、子供達は翌1年、日本で学校に通い続けました。長女が高校入学の2010年、私はニュージャージー州に住む義理の母に、子供達を現地の学校に通わせるために、母娘3人で住まわせてもらえることをお願いしました。夫は続けて私の実家に残り、1年間、NYの別の証券会社の東京支店で、出来高制という契約の仕事をしました。

 私が思う“試練“は、ここから加速して行きます。私が一生懸命頑張って願う思いは何もかないませんでした。たくさん笑う以前の私はそこにはなく、明日が見えずに日々を過ごしていました。しかしなぜだかその頃、初めて聖書通読をしました。私にとって、別の物語であった旧約と新約が、通読によって一つの大きな世界へと変わり、聖書の理解が別のものになりました。夫の母教会にも毎週、歩いて通いました。今も、時々このカソリック教会で礼拝をします。神様に守られていたことを、聖霊様が私に伝えるが如く、礼拝のたびに涙が溢れ出て、当時の信仰生活を思い出します。

 また、夫の実家から車で15分の距離に、母教会の藤岡先生夫妻がWalnuts Creekに行かれる前にいらしたJapanese Christian Church of New Jerseyがあり、私は神様にあってこの教会に導かれ、その時から、多くの敬愛する兄弟姉妹に恵まれ、宝物を得たような日々を過ごせています。

 2016年、私は98歳の方の運転する車で生死に関わる交通事故に遭いました。裁判所で、この方の体調を見た時に、神様が私を事故の相手に選ばれたのだと思いました。そののち2019年末まで、私は事故によって必要となった手術を、何度も繰り返すことになったのですが、今その頃を振り返ると、事故以前の私ではない私がそこにいて、神様が私と共におられたと痛感しています。

神様の憐れみにあって、私と夫は11年前に会社をスタートし、年月もかかりましたが、神様がこのビジネスを通して私たち家族に、日用の糧と必要を与えてくださっています。時々困難も訪れますが、神様の知恵を求めて祈る時に、主はそれに応えて下さり祝福をいただいています。

21年間の信仰生活の中、神様から様々な経験をさせていただきましたが、その歩み故に教えていただけたことは、この世の人知で測ることのできない平和があることです。 

マタイによる福音書10章34−39節

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。  

 自分中心の私の物差しで測って来た過去は、自分が望むもの以外を受け入れることが出来ずに、その全てを試練と思い、平安はありませんでした。それは人と付き合っていく中でも起こる事があり、それぞれの物差しは異なるわけですから、争いが生じたり、そこから平安が生まれるのは偶然です。

“神様の物差し”は、愛によって作られ、義によってはかられる、唯一正しいものです。

  まずは自分の物差しを捨て、神様の物差しが持てるように祈り、自分の家族や隣人を、建前や偽り、愛するフリをするのではなく、真に愛せるように、御言葉が持つ奇跡の力で自らの思いから解放されることを願っています。 

    いつの日か平和の器になれることを信じて、これからも御心を知るために祈り、恵みを数えながら歩んで行きます。 

2024年12月号<牧師室より>「どう受け継ぐかクリスマス」

もう20年近く前でしょうか、Operation Santaというプログラムに参加したことがあります。サンタクロースの住所にプレゼントのリクエストを送った子どもたち(その多くは貧しい家の子たちだということですが)の手紙をボランティアの人たちが読んで、プレゼントを買ってその子に送ってあげる、というプログラムです。今はオンラインで受け付けているようですが、その頃はNY市の中央郵便局に置いてある手紙の山から、気になった手紙を持ち帰ってプレゼントを選ぶようになっていました。

クリスマスに、お金がなくてプレゼントをもらうこともない子どもたちのために何かできないか、と思って参加してみたのですが、その手紙に出てくるリクエストは、ゲーム機だったり、高価なおもちゃだったり、自分が自分の子どもたちにも到底買ってあげることのできないものばかりだったのです。その手紙を書いた子どもたちの気持ちは分からなくもないですが、ここまで商業主義がクリスマスに広がっているのかと、複雑な気持ちになりました。

私たちのために、この世を照らす光としてきてくださったイエス様のことを、私たちはどのように伝えていけばいいのでしょうか?特に、これからの時代を担っていく子どもたちに、私たちは何を受け継いでいけばいいのでしょうか?

イエス様は、私たちのためにこの世に来られ、私たちを赦すために、私たちを罪から救うために十字架にかかられました。私たちのためにいのちまで与えてくださったのです。そして、このように言われました。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒の働き20:35)。神様は、私たちにこのイエス様というプレゼントを与えてくださったのです。このクリスマスの時、私たち自身が、どれほどの愛をもらっているのか、それを思いめぐらして、周りの人々に何を与えることができるのか、それを考える時、実行する時なんだということを、子どもたちに伝えていくことができればと思います。

メリークリスマス!

<集会紹介>「修養会」(2024年12月)

「修養会」は、いつもとはちょっと違う場所で、たっぷり時間を使って、聖書の言葉に触れ、共に語り合い、祈り合う集まりです。普通は2泊3日などの泊まりがけで出かけて、寝食を共にする中で、互いの思いもゆっくり分かち合う時を持ちます。

 英語では「retreat」という言葉が使われていて、「戦いの前線から一時退いて、英気を養い、態勢を立て直す」という意味が込められています。忙しい日常から離れて、疲れを癒し、大切にすべきことを確認して、新しく出て行く集まりなのです。

 私たちの教会では創立当初から毎年「修養会」を持ってきました。外部から講師をお迎えすることが多いのですが、講師が祈って準備してこられる聖書からのメッセージによって、多くの方々が新しい発見をし、心を探られ、また新しく信仰を持って立ち上がってきました。教会の集まりに初めて来られた方々の中にも、ここでの経験をきっかけにして、信仰に導かれた、信仰の決心をした、という方々もおられます。

 コロナ禍で2020年から中止されてきた修養会を、今年、1泊2日という限られた時間でしたが、5年ぶりに持つことができました。場所は私たちの生活圏からそれほど遠くないLiberty Corner。今回の講師は、南カリフォルニアのオレンジ郡サンタアナにあるウィンタースバーグ長老教会の牧師、清水まお先生でした。まお先生は牧師としての働きを始める前に私たちの教会で短期のインターンをされていたので、その頃から教会に来られている方々にとっては、とても親しみのある先生です。明るく楽しいパーソナリティーから語られる聖書の言葉は、自然と柔らかくなった心に染みこんできます。そして、個人的にお話をする時間が与えられた方々は自然と心を開いて、思いを打ち明け、祈っていただくこともできました。

 夜の集会の後に持たれた小グループでの語り合いの時も、普段話せないような話が自然と出てきます。1泊2日ではちょっと詰まりすぎていたかな、というプログラムでもありましたが、とても充実した修養会となりました。

 これから、また毎年修養会を持つことができるようになることを期待しています。この修養会を通して、一人一人が神様に心触れていただいて、教会として一つになって進んでいくことができますように。

「日本に帰国後に感じたこと」

 2024年3月、私達家族は8年間のアメリカ生活を終えて、日本に本帰国しました。当初5年くらいかなと予想していた夫のアメリカでの仕事は、1年ずつ延長していき、気がつけば結婚生活の約半分はアメリカで過ごすことになりました。渡米当時、まだ幼かった長男と次男は、それぞれ高校生と小学校高学年に、そこに2年前に生まれた三男も加わり、家族5人で久しぶりの日本生活のスタートです。

 日本での拠点は以前住んでいた家から程近く、子供達との思い出も沢山ある慣れ親しんだ地域です。ここでなら、土地勘や学校の情報もあるし、子供達も自分も安心して過ごすことができるだろう。そう思って帰国しました。変わらない景色に、アメリカでの生活は夢だったのかしら?と思うことも。しかし、それも束の間、時間が経つにつれ、少しずつ、街や人々、そして日本全体の雰囲気の変化を肌で感じるようになりました。

 平日、以前は親子連れで賑わっていたショッピングモールは、今はシニア世代の方たちの方が多くいらっしゃっています。また、上の子達とよく通っていた公園や児童館に三男と一緒に行くと、1歳以上の未就園児はごく少数。聞けば、今は待機児童問題も解決し、1歳になると保育園に預けて職場復帰する方が多いそう。少子高齢化や人手不足が深刻なせいか、テレビでは転職や短時間バイトなどのCMがとても多く流れています。

 これらは決して悪い変化という訳ではありません。保育園に預けやすくなったり、色々な働き方ができることは、とても良いことです。ただ、私にはそのように変化していく8年間の過程がすっぽり抜けてしまっています。そのため、まるで自分が浦島太郎になって取り残されているような、なんとも不安な気持ちになるのです。アメリカでは、とにかく子供のことが最優先、学校や習い事への送迎と日本の勉強のサポートに追われる日々でした。そんな生活に、うっすら終わりが見えてきたころに与えられた第三子、また0からの子育てです。今の日本では、子供がいてもいなくても、老いも若きも、みんなが経済活動をするのが良いという風潮を強く感じます。そんな中、三男を預けて働くこともできるけれど、まだもう少し一緒にいたいと、子供と手を繋いで公園や児童館に来ている私は、8年前から時が止まっているよう。自分は、社会の変化についていけない価値のない人間なのではないかと、気持ちが落ち込むことが増えていきました。

 そんな時、私の手を握り、ぐっと引き上げて下さるのが、神様のみ言葉です。

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

                ピリピ4:6-7

 8年間のアメリカ生活では、大きな事故も病気もなく、それどころか、第三子という素晴らしいギフトまで与えられて、家族5人で無事に本帰国できました。日本の家族の健康も守られました。上の子供達は、アメリカでの楽しい思い出を胸に、毎日元気に日本の学校へ通っています。心配だった夫の仕事と大学院の両立も、今のところ問題なさそうです。三男との公園や児童館通いを通じて、少しずつ、地域に知り合いが増えてきました。8年経っても私達を覚えてくれていて、帰国を喜んでくれる友人もいます。祈りを通じて、どれだけ多くのものを神様が与えて下さったかを示され、感謝と平安で心が満たされるのを感じます。と同時に、世の中の風潮はうつろいやすく、神様から離れ、そこに自分の価値を求めると、とたんに足元が暗く不安定に思えてくるということにも気付かされました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。

           テサロニケ信徒への手紙一5:16-18

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

               詩篇119.105

アメリカでの生活で得た何より素晴らしいものは、神様との出会いです。私がこれから進むべき道は、世の中の風潮によってではなく、祈りを通じた神様との対話の中で見つけていきたいと思います。

最後になりましたが、神様が与えてくださる愛と恵み、そして沢山の素晴らしい出会い、いつも私達家族に思いを寄せて下さるニュージャージー日本語教会の兄弟姉妹、すべてに感謝しつつ、これを私の証とさせて頂きたいと思います。

「受洗まで」(神様の招き)

日本の家にはよくある風景だと思いますが、私の実家には仏壇と神棚が和室に並んでいました。朝晩お水や炊いたご飯を供えることが子供の頃からのお手伝いの一つでした。運動会や試験の折には、母から「のんのんした?」
「仏さまにお願いした?」の声掛けがあり、仏壇の前で手を合わせるということが習慣になっていました。その様な家庭でしたが、幼稚園年長の頃、クリスチャンではない母が何故か私を教会の日曜学校へ連れて行きました。自身が中高をミッション系の学校で過ごした影響でしょうか、今度母にゆっくり聞いてみたいと思っています。

小学校1年生の時、父の転勤で関西へ引っ越しました。社宅の目の前に教会があり、母はまた私を日曜学校へ連れて行きました。この時の記憶は、クリスマスの生誕劇で一言もセリフの無い羊の役をしたことと、毎週配られる聖句の絵カードを集めるのが楽しかったことです。2年生になると、母の興味が日曜学校からガールスカウトに変わり、私の日曜日はガールスカウトの活動にシフトしました。

再び神様に少し近づいたのは中学の時です。毎日の礼拝や週一回の聖書の授業があるミッション系の学校に入学しました。クラブ紹介でその美しい音色に一目ぼれした私はハンドベル部に入りました。その顧問の先生が宗教主任の先生でした。厳しい方でしたがお話が大変上手で、時々行うハンドベルの演奏や美しいメロデイの賛美歌を歌うことに加え、先生のお話は礼拝の楽しみの一つでした。ある時クラスメイトのお父様が亡くなり、何人かでご葬儀に出席するということがありました。クリスチャンでいらしたので私にとって初めての教会のお葬式でした。故人の好きだった讃美歌を歌い、皆で白い花を献花するというお式は、不謹慎ですが少しあこがれたのを覚えています。

中学2年生の時に父の転勤があり、英国国教会系の学校に編入しました。チャプレンのお話にあまり魅力を感じず、聖歌集に馴染めず、年齢もあったのでしょうか、心が神様から離れてしまいました。

結婚した夫の両親はクリスチャンでしたので、結婚式は両親の教会の牧師先生に会場まで来ていただいてして頂きました。夫の家は食事の前に皆でお祈りすることもなく、ノンクリスチャンの私にとってごく普通で居心地の良いものでした。私たち家族が東京にいる時は、イースターやクリスマスの折に時々教会に誘ってもらいましたが、20数年中、礼拝に出掛けたのは10回に満たないかもしれません。

2019年に夫がニュージャージーに駐在になりました。FBの知り合いを通じて知ったニュージャージー日本語教会に夫が行くといった時、日曜日に特に用事もなく、なんとなく一緒に通うようになりました。聖餐式に初めて同席した折、教会に来ている人はクリスチャンとそうでない人がいることを深く意識するようになりました。私にとって教会に行くということは、学生時代の延長で、賛美歌を歌い、お話を聞き、ひっそり個人的なお祈りをするということで、それで満足でした。その先にある神様を心から信じ洗礼を受けてクリスチャンになるということは、何か特別な天啓のようなものがあったり、神様を求めずにはいられない体験をしたりということが必須であると感じていました。
ですから、2021年突然夫から、受洗しようと思うと聞いたときは本当に驚いたのを覚えています。

教会は仲良しグループの集いではないことは理解しています。ですが、教会の雰囲気は先生を始め集う方々によるもので、それはとても大事なものだと思います。ニュージャージー日本語教会に通い、お茶の時間や教会以外の場所で皆様に本当に暖かく親切にして頂いたと感じています。

日本に本帰国することが決まった頃、何も特別な天啓も体験もありませんでしたが、洗礼を受けるということを少し考えるようになりました。その思いを感じていただいたのでしょうか、1月に先生から「帰国も近いし、もしよかったら聖書の勉強をしてから帰りませんか。」とお誘いを受けました。勉強も後半に差し掛かった頃、受洗についてお話頂きましたが、まだ迷っていた私は、神様をすごく求めるような体験も何もないのに洗礼を受けてもいいのかどうか等、色々なことを尋ねました。イエス様が私の罪を背負ってくださった、そのことを信じられることが一番大切なことです、と先生は何度も話してくださいました。錦織先生と親切にしてくださった皆様のいるニュージャージ―教会で受洗したいと決心しました。

東京に戻って半年、夫の両親の教会へ通っていますが、ニュージャージー教会のことを時々思い出します。先日古い友人と会う機会があり、ひょんなことから彼女が12月に洗礼を受けることを聞きました。私はとても嬉しくなり、自分の時に皆様に心から喜んで頂いた理由がわかったような気がしました。12月彼女の教会へ行き、「おめでとう。」を言う約束をして別れました。

幼い時から神様が何度も招いてくださったことに本当に感謝します。

「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5:8)