「覚え続けるために」

ニュージャージー日本語キリスト教会の皆さん、震災以来の継続的なご支援に心より感謝申し上げます。未曾有の危機に直面し、戸惑い、疲労しながら必死で堪えてきた松田牧師とオアシスチャペルにとって、錦織先生およびニュージャージーの皆さんとの出会いは、何より大きな助けとなりました。9.11と3.11。違いがたくさんありますが、似ているところもたくさんあります。ニュージャージー日本語キリスト教会とオアシスチャペルは、大きな被害を受けた地域のただ中に置かれた教会として、同じような痛みや困難、悩みや葛藤を分かち合える『友』とされたのだと思います。松田牧師が錦織先生と出会った頃に語っていたことばが、私の胸に印象深く刻まれています。
「被災した今の自分の状況、大変さをぜんぶ分かってくれたように感じた。そのような人にはじめて出会った。とても有り難かった。」
現在の東北の状況を知り得る範囲でお分かちしたいと思います。
震災当時47万人にのぼった避難者の数は、2014年1月現在、約27万4千人となりました。仮設住宅にいまだに約10万人の方々が生活されています。災害公営住宅の着工・完成が遅れています。ある地域では3年、別の地域では4、5年かかるとも言われています。津波により生じた瓦礫が、いまだに片付いていない地域もあります。宮城、岩手では2014年の春、福島では2015年の春が政府発表による完全撤去の目処となっています(復興庁www.reconstruction.go.jp 「復興の現状と取り組み」参照)。
震災から3年。大きな支援団体が働きをどんどん縮小して撤退していきました。メディアに取り上げられる頻度は下がり、被災地を訪れる人々の数も減りました。震災前からの課題である「過疎」に拍車がかかっている沿岸地域もたくさんあります。「忘れられてしまうのでは・・・」という新たな不安が被災地を覆っています。
様々な領域における「ギャップ」が広がっています。被災地と被災地「外」のギャップ。沿岸部と内陸部のギャップ。復興が進んでいる地域とそうでない地域のギャップ。活動が活発な仮設住宅と、そうでない仮設住宅のギャップ。在宅の被災者の方々と家を失った方々のギャップ。復興プロセスの中でも様々なギャップが生じ、広がっているように思います。
また、あれほどの大災害でしたから、被災した方々は心に深く、大きな傷を負いました。生活も一変しました。経済や環境、状況に余裕があるときには感じなかったようなストレスや悪感情に苛まれている方々がたくさんおられます。上述の「ギャップ」も苦しみを大きくします。人間関係の破壊が起こりがちです。これから先、5年、10年を生きていくための希望や力をどこから見いだせばよいのか? 心すこやかに生きていくこと自体が、大変なチャレンジです。
ニーズ、課題が多様化しています。物資に困っているところもあれば、心のケアを必要としている人々もいます。経済立て直しの知恵が必要とされているところ、コミュニケーションや人間関係に助けが必要なところ、教育の課題、住宅の課題、原発エネルギーの課題、復興遅延ストレスの広がり・・・。
小さな私たちに出来ることは限られていますが、神様が私たちにどのような実を実らせたいと考えておられるか、注意深く求めながら歩ませていただきたいと考えています。
復興への歩みは10年単位、まだまだ先の長い道のりとなります。これから先、特に遠方にいらっしゃる皆様には「東北を覚え続けていただくこと」が大きな助けになると考えています。『覚え続ける』取り組みです。大きなインパクトをもたらした東日本大震災ですが、情報過多の時代に『覚え続ける』ことは至難のわざで、気を抜くとあっという間に風化してしまうのではないかと感じます。風化防止のために5年、10年といった長いスパンで『覚え続ける』ことが大切なのですが、たくさんの方々に息の長い関わり方を模索していただくために『資源ベースの支援』をお勧めしています。
震災発生当時はニーズがシンプルでした(生き延びるための水や食料、衣服や毛布、避難する場所、医療環境など)。緊急支援の期間であり、自衛隊や救援団体、医師や技術者などの専門技術を持った方々が活躍しました。被災地、被災者からのニーズを中心とした要請とそれを受けた支援活動がマッチした期間です。世界中からたくさんの感謝なご支援をいただきました。このような支援を『ニーズベースの支援』と呼びたいと思います。すばらしい助け方です。しかし、こうした支援状況はやがて終息していきます。支援したいと考えている人たちが山ほどおり「どのような支援をするか」がより重要だった時期は過ぎ、「どのような支援でもいいから、継続すること」の価値が高まっていきます。これからは、たとえ専門技術を持っていなくても、あきらめずに関わりを継続しようとする人々が求められます(教会がより力を発揮できる時がやって来たと感じています)。
さて、そのような「継続すること」に主眼を置いた支援を行うために、『資源ベースの支援』がとても有効です。支援する側の人々が元々持っているものや強みを活かした支援です。どこかから手に入れてきたり、新しく勉強したりしなくても出来る支援です。
一例を挙げますと、音楽が盛んでトップクラスの実力を誇るクワイアを擁するアメリカのある教会は、震災を受けて、そのクワイアを10年間、日本に派遣し続けることを決めたそうです。外国からの歌の支援は、震災発生当初はあまり大きな効果を期待出来なかったかもしれません。しかし音楽を用いたこの支援は現在も継続されていますし、今後も続いていきます。この息の長い支援の価値は、これからどんどん高まっていくはずです。彼らならではの資源を活かしたすばらしい支援です。
神様がニュージャージー日本語キリスト教会にお与えになった資源には、どのようなものがあるでしょうか? 冒頭に錦織先生と松田牧師の出会いについて記させていただきましたが、9.11を巡る貴重な経験や痛みは、多くの人々を助けるために備えられた皆様ならではの貴重な資源のひとつなのではないかと思います。
あの震災から3年が経ちました。皆さんが経験された9.11からの3年後はどのような日々を送っておられたのでしょうか? ちょうど10年前(2004年頃)、皆さんは何を感じ、どのような生活をしておられたのでしょうか? どのようなことから慰め、励ましを受けておられたのでしょうか? 時が経つにつれて、心や体、霊的な領域にどのような変化が起こってくるものなのでしょうか?
大変な危機的状況に置かれ、しかし立ち上がり、立ち続けてきた皆さんのご経験や証しに、私たちは大きな関心を持っています。成功も失敗も、恵みも痛みも分かち合ってくださるならば、大きな助けになると感じています。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ 6:9-10)
今後とも、信仰の家族としてのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。神様が結び合わせてくださった皆さんとの関係を感謝いたします。皆さんの存在は、私たちの励ましであり、希望です。心からの感謝を込めて・・・。

月報2014年3~4月号より

「19年かかってわかった神様の恵み」

私は18歳の時、初めて日本に行った。
香港の高校を卒業して、イギリスやアメリカに留学した同級生たちをよそに、人と同じになりたくない、という思いと、テレビで青春ドラマなどを見て憧れていた日本に行きたいという漠然とした思いだけで、ひとり東京へ行った。
東京に住んでみると、言葉はほとんどしゃべれないし、狭いアパートで、夢見ていたことと現実は違った。当時は留学生ビザを取るにも身元保証人を見つけるかブローカーを通すしかなかったので、「自分は自力で何とかするのだ」という思いで、正規な留学生ビザも取らずに語学学校へ入った。そして毎日ひたすら日本語を勉強した。
日本の大学に入るには身元保証人の近辺に住むという条件だったので、おじの知り合いが愛知県におり身元保証人になってくれたが、留学生ビザのない私を受験させてくれたのは岐阜大学だった。なぜあの時岐阜大学が受験させてくれたのか今でもよくわからないが、事情を知った受験係の事務の人が手紙をくれて、「普通の試験を受けてみないか」と言ってくれたので、一般の日本人高校生と同じように日本語で試験を受けて工学部に合格した。すぐに友達が出来、先生たちにも良くしてもらい、留学生としてロータリークラブから生活費に相当する額の奨学金をもらい、充実した大学生活を送ることが出来た。いつもいつも一生懸命前向きに勉強し、家庭教師のアルバイトもして、トップで卒業。自分の道を切り開いていった。ドイツにも憧れ、大学でドイツ人の先生に一生懸命ドイツ語を習い、ドイツ留学をも計画した。
大学院に進む時は、日本政府とドイツ政府から奨学金オファーがあり、ますます自分の努力と運の強さに自信を持った。尊敬する教授のいた東北大学を選び、日本国文部省の国費奨学金もたくさんもらえたので、博士課程の途中で結婚して、新しく出来たばかりの留学生会館に住んだ。昼も夜も研究に没頭し、研究成果が何度も全国版の新聞に取り上げられたので、ますます自分のがんばりに自信を持ち、「運命は自分の力で開ける」、と思った。
博士課程を終えるころ、スタンフォード大学やNASAから博士研究員のオファーがあった中でNASAでの研究を選び、日本から見れば憧れの研究所ですばらしいスタートだと、意気揚々とアメリカに渡った。メリーランドのNASA Goddard Space Flight Centerでの研究生活をはじめとし、フロリダの大学、コロラドの国立海洋大気局を渡り歩いて研究実績を積んだ。
コロラドで妻が教会に行くようになり、結婚9年目にして娘が与えられた。
このころ、アメリカでの研究生活は8年目となっていたが、職場の人たちを見ながら、「アメリカで生まれ育ったわけでなく学校教育を受けたわけでもない、アジア人の自分がこの国でどれだけやっていけるのだろう」、と疑問や違和感、不安を感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、東北大学の教授がコロラドまで来て、「新しく産官学連携事業として研究所を作るので来てほしいと」言ってくださったので、「これはアメリカでつけた実力を発揮して活躍する機会だ」と、故郷に錦を飾るような気持ちで日本に戻った。研究分野も今までの宇宙と大気の光イメージング計測から生体光計測に広がった。
はじめ仙台郊外に出来ると思っていた研究所が山形市内にできることになり少しがっかりしたが、蔵王と月山の間に広がる自然豊かな山形市に、「こんなところで子育てできるなんて幸せ」と妻は喜んだ。田んぼや畑、果樹園、美しい山河、人情豊かな山形の人たちに囲まれて、娘は伸び伸びと育った。妻は山形南部教会に娘と一緒に毎週礼拝に通っていたが、私は気の向いた時についていって、お客さんとして、みんなに親切にしてもらうのがうれしかった。普段は忙しいこともあり、神経がもたないので、子どもの世話も家のことも何もしなかった。特に、娘と接する時間を大切にしなかったことは、今でも悪かったと思っている。
アメリカ帰りで皆に期待されていると思っていたが、国のプロジェクトはなかなか自分の思うようにいかないことが多く、数年ごとに切り替わりそのたびに状況が変わったり、日本経済も悪くなったりして、困難もたくさんあったし、日本流のやり方や職場の状況に不満や怒りもあった。思い通りに行かない不満やイライラを妻にぶつけたり、教会に行っても「つまらない」と思うようになり行かなくなった時期もあったが、教会の人たちや牧師先生はいつも変わらず親切だった。でも、それは「自分がいい人だから相手も良くしてくれるのだ」と考えていた。「あなたは罪びと」などといわれるのはいやで、自分が退職して現場から離れるまで、神様と距離をおきたいと考えていた。
このような研究にかかわる政策と体制に限界を感じ、共同研究していた会社に、「今の研究をアメリカで進めようじゃないか」と持ちかけたところ、会社も賛同して採用してくれたので、東京本社のメンバーとともに、2007年春、ニュージャージーに赴き、会社の研究所を立ち上げた。 山形を去る前に、山形新聞が特集を組んで3日連載で、私の13年間に亘る山形での研究と大学指導の歩みを「産官学連携の実例」として紹介した。それをもって、自分が山形でやったことの意義が明確になり、自分の足跡を残したことに気持ちの整理がつき、心残りなくアメリカに旅立てると思った。
ニュージャージーでは優秀な部下に恵まれ会社の信頼を得て、世界最高機能の眼科診断イメージング装置の開発に成功したことで、日本の国際競争力を高めることに貢献したと喜びを感じている。
いつもいつも自分は試練と闘っていると思ってきたが、その後ろにどれほど多くの人たちの助けがあったか、今わかる。コロラドで妻と娘を温かく受け入れてくれたFirst United Methodist Churchの人たち、山形を出発するその日の朝までお世話になった山形南部教会の人たち、ホテルの玄関まで見送りに来てくれた友人と隣人たち、仕事先の長野で高速道路のインターチェンジまで見送りに来てくれた教会員のことは忘れない。妻と娘を送り迎えするうちに温かく仲間に入れてくださったニュージャージー日本語教会の皆さん。2013年の元旦礼拝でついに洗礼を受けるに至ったのも、背中を押してくれた人たちのおかげであるし、私をたくさんの人が祝福してくださったことは本当に感謝である。「私がいい人だから」「私が何か良いことをしたから」でなく、ただただ私のために祈り助けてくださったたくさんの人たち、その人たちを通して働いてくださった神様の恵みがようやくわかった気がする。私を今まで祈り支えてくれた妻にも感謝している。
今まで数々の試練があったが、それと同じだけの恵みがあったのだと今は思える。試練はその時は苦しいが、時がたてば記憶の中の一部として遠ざかっていく。しかし恵みは遠ざかることないばかりか、記憶の中の一番近くに残って常に自分に喜びと勇気を与えてくれる。今まで知らずに沢山の神様の恵みを受けてきた私、今まで人に与えることを考えもしなかった私であるが、このみ言葉に出会って、このようになりたいと思うようになった。

「受けるよりは与える方が、さいわいである。」
使徒行伝20:35
感謝します。

月報2014年1~2月号より

「信仰生活40年」

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・・・・・、神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」  伝道の書3章1節‐11節

1973年に洗礼を授かりましたので今年は受洗40年の年になりました。この40年間一度も受洗を悔やむことなく、私を選んでクリスチャンの一人に加えて下さった主に感謝の日々を過ごせています事を何よりうれしく感じています。そして40年の歩みの中でいろいろの事が有りましたが、冒頭の聖句に記されています「神のなさることは皆その時にかなって美しい。」ことを実感する事が出来た40年であり、それだけでなく生まれた時からの70年がすべて主の御計画の中で歩ませて頂けていると確信しています。

高校生時代から英語が大嫌いでしたので、アメリカに来る事など思っていませんでした私に、留学の思いを持たせて下さったのも深遠なる主の御計画であったと今更ながらに思わされます。アメリカに来ることが無ければ教会に足を運ぶことも無かったか、または導かれるのにもっと時間が掛かったことでしょう。その後、いろいろな理由で好むと好まないにかかわらず住む地域を変えねばなりませんでしたが、その一つ一つを主が導いてくださったことを思い知らされています。

2年間のカリフォルニアに於ける大学院での学びとその後2年間の米国企業での研修を終えて帰国しましたが、その当時は終身雇用の時代でしたので、一度就職した企業を退社してアメリカに私費留学した者の再就職は容易ではありませんでした。今でこそ当たり前に知られていますMBAという学位も知っている人は皆無で求職の役には立ちませんでした。しかしこの就職浪人期間も主の御計画の一つであったと今は確信しています。
もちろん家族の温かい理解があってこその浪人生活でしたが、帰国しました私に主が御用意下さった教会での経験がどれほどその後の信仰生活の助けになったか分かりません。その教会も本当に不思議な出会いでした。帰国して直ぐに会った妻の叔父が「先週ロータリークラブの会合で牧師がとても素晴らしい話をして下さった。アメリカでクリスチャンになったのであればそこの教会へ行くと良いと思うよ。」と言ってくれました。牧師のお名前を聞きますとカリフォルニア時代に親しくさせて頂いた牧師の弟さんでしたので、主の導きと感謝して先ずはその教会の礼拝に出席させて頂き日本での教会生活が始まりました。共に30歳代半ばで1歳年上のアメリカ帰りの牧師はとても尊敬でき気も合いましたので、仕事が無くて時間が有った私はかばん持ち兼運転手のような立場で牧師の伝道旅行に度々帯同させて頂きました。

その折に見せて頂けた牧師の主にお仕えになる姿勢は何よりも私の信仰成長の糧となりました。行かれる地方でユニークな企画で用いられている教会や、成長している教会をきちんと調べておられて、空いている時間を使われて訪問されそこから学ばれます。教会がどのような場所に立地しているのかを知るために まず教会の近辺を車で回って環境をご覧になってから訪問されます。教会にはアポイント無しで訪問しますので牧師が居られれば短時間で整理されたポイントを質問され、地方の教会ではお留守でも鍵がかかっていない会堂もあって、失礼して中に入らせて頂き、会堂の中を見せて頂く事もありました。その一つでは当時では珍しい喫茶店風のカウンターでコーヒーが飲めるようになっている会堂を見つけてとても感心されて、新会堂の参考になさっていました。また札幌郊外では教会とは別に繁華街で普通の喫茶店を開いて伝道されているニュージャージー州からの宣教師を訪問して、喫茶店伝道のご苦労や喜びをお聞きしながら一晩実際の様子を見せて頂きました。どのようにお客様にアプローチしてどのタイミングで福音を語るのかは、宣教師がアメリカ人である事がとても利していたことは事実ですが、なるほどと感心できる刺激的な経験であった事を今でも思い出します。牧師はその後東京新宿での喫茶店伝道にこの時に感じられ学ばれた事を活かされておられました。さらにこの牧師は教会を運営するには一般のビジネスでの会社経営に通じるものがあると考えておられ、私も良く読んでいない「プレジデント」「日経ビジネス」などを購読しておられて、移動中の車の中や二人だけの食事の時にはそこからの話題や質問が多くありました。組織として運営し成功するには会社も教会も共通点が多いと気付かれて、特にコミュニケーションや人事査定に大変興味を持っておられました。MBAという学位だけは持っていました私にとりましても、牧師との会話は理論を実際に活かすための良き議論と学びの場となりました。

与えられた役割(任務)を真摯にとらえその立場を有効に活かし、共に労する人々と喜びを共にしながら組織をいかに活性化させて主に喜んで頂くかという事を絶えず考えておられ、その使命のために「万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)主に熱き祈りを日々ささげておられる牧師のお姿に身近に接する事で、聖霊様は新しい職に就く前の私にクリスチャン社会人としての仕事に対する心構えを植え付けて下さいました。
人の目から観ますと就職浪人と言う不遇の一年数か月でしたが、主は私のその後の社会人生活と信仰生活に必要な時として聖霊様を通してこの機会を与えて下さった、まさに無駄のない有意義な期間でした。その教会での信徒生活は短い期間でしたが、マーケティングの重要さ、相手の立場になって考えてみる心遣いや、自分からなんでも率先して経験すると言った組織の中での人間関係、熱き祈り等々、社会人生活の中でも大変役に立つ多くの事を理論では無く実際にこの目で見て体験でき、会社ではなく教会生活でそれを身につけさせて下さった主の御愛に心から感謝しています。

40年間の信仰生活を通して沢山の恵みのお証がありますが、その一つを書かせて頂きました。会社人間から引退してこのニュージャージー州に越してきましたのも主の導きであると信じています。これからも主の福音を伝えていく大宣教命令を示されているクリスチャンの一人として、どのような経験を聖霊様がさせて下さるのか大きな期待を持って胸をわくわくさせています。その折々では決して楽な事ではないと感じましても、主が
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それはキリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたは幸いである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(ペテロ第一の手紙4章12-14節)
と約束して下さっていますので、続けて主にお委ねし、お従いする信仰生活を送っていきたいと祈り願っています。

月報2013年11~12月号より

「主とともに歩む 」

この教会に転入会が許され1ヶ月が経とうとしています。ここに至るまでたくさんの方がお祈りにお覚えてくださってましたこと、また家族一同親しくお交わりの輪の中に加えて頂いておりますことを心より感謝申し上げます。何年も前からこの教会や皆様といろいろな関わりを持たせて頂いてますが、どのようにして私が信仰を持ったかお話しする機会がありませんでしたので、そのことをお証しさせて頂きます。

私の両親はクリスチャンで、生後1歳半の長男を日本脳炎で天に送るという試練を通し、家族献身に導かれました。両親の学びの期間、兄と私はインマヌエル綜合伝道団の神学校(聖宣神学院)の家族寮で幼少期を過ごし、その後両親の転任に伴って高松、京都伏見、新潟の地で、両親が奉仕する教会で育ちました。

高松にいたときのことです。私は2歳半、弟が生まれて5人家族になっていました。両親は、間近に迫った春の特別伝道集会の準備に追われていました。当時は、特別集会の準備と言えば、たくさんの立て看板を作って街中の電柱に立てて回ったり、チラシを何千枚も印刷して近隣に個別配布したり・・・。もちろん、チラシやポスターを作るにもガリ版やシルクスクリーンでの手作業という時代でしたから、その直前の忙しさは相当なものでした。そんな矢先、私は、外に出た兄を追って玄関を飛び出し、走って来た乗用車にはねられてしまったのです。車が急停車するブレーキ音を聞き、びっくりして教会から飛び出して来た両親は、血まみれになってゴムまりのように転がっている私を見つけ、大急ぎで病院に運びました。まだ幼くて体がやわらかかったからでしょうか、幸い命は取り留めました。が、左足大腿部を複雑・粉砕骨折しているということで、何度かに分けての手術が必要となりました。説明を受けた両親は、手術を受けたとしても完治は無理かもしれない、将来足を引きずって歩くことになるかもしれないと言われたそうです。両親は祈り、そして私に手術を受けさせる決心をしました。

手術の前の日、私は、牧師である父から病床で個人伝道を受けました。マルコによる福音書10章に出てくる目の見えないバルテマイのお話を通して、イエスさまは「助けてください」「癒してください」と求めるとき、それに応えてくださるお方であることを知りました。そして、交通事故で本当は死んでいたかもしれないこと、きわどいところで命を守ってくださったこと、神さまが私を愛してくださっていること、あの時事故で死んでいたら地獄に行っていたこと、地獄に行かなくてもいいようにイエス様が私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、イエス様の十字架を信じる者には永遠の命が与えられること・・・。この時、それまで教会学校や聖書えほんで語られていたお話と、自分のこととが重なり、私も神さまの子どもになりたい、天国に行ける子どもにしてほしいと思い、罪を悔い改めて祈ってもらい、『しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1章12節)のみことばをいただいて、神さまの子どもになりました。

翌日受ける手術も、怖くなくなりました。もし万が一死んでしまうようなことがあっても、天国に行けるという確信が与えられたからです。大腿部と言えども、全身麻酔ですし、小さな子どもの複雑・粉砕骨折の手術は大変でした。細かく砕けて肉に突き刺さった一つ一つの骨を集め、パズルのように元の形に組み上げていく作業は、手術に付き添った父の目にも、息を呑むような瞬間の連続だったそうです。1回目の手術が無事終わり、筋肉の回復と骨の成長を待って、骨を固定するために取り付けたボルトを外す2回目,3回目の手術が行われました。手術、リハビリ、数ヶ月の入院生活、その一つ一つを神さまは守り、いつも一緒にいてくださいました。体を回復させてくださった神さまは、私の小さな信仰も育んでくださり、さんびか大好き、聖書のお話大好き、教会大好き、教会のお手伝い大好きな子どもにしてくださいました。そして救われた日から2年7ヶ月後、1973年のクリスマス,当時教区長であった川口始牧師に洗礼を授けて頂きました(『少年H』にも登場する先生です)。運動しなければならない時期に歩けなかった私の足は、すっかり筋肉が衰え、退院後も数年に渡り体操教室に通って筋力強化に努めなければなりませんでしたが、ドクターの言葉通りにはならず、小学校に上がる頃には、奇跡的にもみんなと同じように歩いたり走ったり出来るまで回復したのです。(実は頭部も強打していてその影響の方がもっと深刻な問題だった、と二十歳になって初めて知らされた時には驚きましたが・・・。)

クリスチャンとなった私は、その後いつもハッピーで笑顔でいられたかというと、そうではありません。仏教文化の根強い京都で小中学校時代を過ごした時には、「おまえんち、アーメン、ソーメン、冷(ひや)そーめん!」とからかわれ、社会科でキリスト教禁止令を学習すると「教会の子やから、やっぱし踏めへんのか?踏んでみろやー。」と落書きの踏み絵を突きつけられ、礼拝出席の為に日曜日のクラブ活動を休むと届ければ大罪を犯したかのように先輩たちに非難され、学校に行きたくない、クリスチャンであることを隠したい,牧師の家庭になんて生まれて来たくなかったと思い、悩みました。新潟で過ごした高校時代は、公立高校の授業料を期日内に納入できないような経済的な戦いの中にあり、志望大学に合格できなかったものの、家計への負担を考えると自宅浪人したいとも言い出せず、東京に出て働きながら学びました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第1コリント10章13節)

困難に出会う時、いつもこのみことばを思い起こし戦ってきましたが、脱出の道がどこにあるのか分からないことも多々ありました。けれども、若い時からクリスチャンとされた者の幸いは、祈って進んでいく中で必ず神さまが導いてくださる、そしてそれはいつも最善でしかない、ということを理屈ではなく体験的に知っていることではないかと思います。今振り返ると、若い時に通らされた数々の試練のゆえに私の信仰は堅くされたと思いますし、就職、渡米、結婚、子育てと導かれた現在も、日々多くの問題を抱えていますが、「神さまが一緒だから大丈夫!」と思えるのです。

今も30センチほどの手術の傷が私の足には残っています。その傷を取ることを両親は薦めてくれたのですが、私はそうしませんでした。その傷を見るたびに私は、事故のこと,神さまの子どもとされた恵み、イエスさまの手足の釘の痕を思います。キリストの打ち傷によって癒されたことを感謝しつつ。

月報2013年9~10月号より