- 説教者 : 錦織学 牧師
- 聖書箇所 : ヨハネの第一の手紙3章1節-3節
投稿者: jccnj
笹川雅弘牧師の証
10月に日本で持たれた『家の教会セミナー』に錦織牧師が参加した時に、15年ぶりに笹川雅弘師と再会しました。笹川師はビジネスマンとして1993年から1997年初めまでNJで生活され、JCCNJで共に歩んだ仲間です。その後、神学校に進み、新潟福音教会の牧師として奉仕されています。今回、どのようにして牧師になるように導かれたのか、2004年時点で書かれたお証をお送り頂きました。感謝して、ここに転載させていただきます。
献身から牧師一年目にいたるまでの証し(2004年7月時点)
1984年のイースターに受洗後、最初に直接献身への召命を意識し始めたのは、その6年後に、NEC米国法人の駐在員として、テキサス州ダラスでの生活が始まってしばらくしてからの頃でした。ダラスで与えられた教会、ダラス第一バプテスト教会は、教会全体では会員一万人以上というメガ・チャーチでしたが、その一部である日本人礼拝部は、多い時でも礼拝出席者20名程度の小さな群でした。ここで神様は私に、幾つかの経験を通し、直接献身へ向けての道を備えられました。
ひとつは、日本人礼拝部の属していたバプテスト教会を中心とする、地域全体を覆う力強い教会の働きです。日本では「少数派」としてのキリスト教会が、そこではダラスという大都会の中でまぎれもなく、社会の柱、人々の誇りとして地域の隅々に浸透し、生きて働いていたのです。 この体験はその後、日本の教会はどうしたらこれに近ずけるのか、なぜいつまでも「1%」なのか、という問いと救霊の思いが強くされる源となっていきました。もうひとつは、日本人教会員の何人かの方々から、たびたび直接献身の勧めをいただくようになったことです。冗談半分ではなく、真剣に「お祈りしています」と言われると、やはり真剣にその祈りを受け取らざるを得ません。一方、ダラスでは二人目の子供が与えられ、家族を養う責任は重くなり、それを支える、会社からの手厚い福利厚生、楽しいゴルフ生活など、それはそれで、文句のつけようがありません。しかし、この頃から、「このままで本当にいいのか」という問いかけが心の奥から聞こえてくるようになりました。
このような心の葛藤を抱えたまま、3年後にはダラスからニュージャージーのオフィスへ転勤となりました。ニュージャージーでは3人目の子供が与えられ、会社での責任も重くなり、状況としては、直接献身は現実からますます遠ざかっていくように思われました。一方、「本当にこのままでいいのか」という心の痛みは、目を向けると、いつもそこにありました。その感じは、大事な手紙を受け取った後、どのような返事を書いたら良いかを迷っているうちに時が経過し、思い出すたびに落ち着かなくなる、という、あの気持ちに似ていました。
アメリカでの、計6年半の勤務を終了し、1997年1月にNEC本社へ戻ると、今度は仕事で超多忙な毎日が始まりました。これは私にとって、仕事の成功を通して主の栄光をあらわすという道が与えられている、自分に言い聞かせるには好都合でしたが、やがて大きな転機が訪れました。それはまず、過労による3週間の入院でした。静かに自分自身の生き方について考える時が与えられました。続いて、自分の信仰の姿勢が、会社文化の中で苦況に立たされることになりました。過労で入院する程身を削って達成した実績で、会社の表彰状と記念品は手に入りましたが、それは残念ながら、主の栄光をあらわすことには、つながりませんでした。直後に行われた社内での昇進試験では、営業実績や部長の推薦よりも、「人に従うよりも神に従う」という毅然とした姿勢が、結果として役員面接などでマイナス評価につながり、昇進は見送られました。「神に従うより人に従う」ということが会社で成功する為の条件であり、仕事の成功を通して主の栄光をあらわす、というビジョンが意味を持たない、という現実に直面した時、私はこの会社を離れる決心をしました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)というみ言葉が決心を迫る一方、忘れられなかったのが、アメリカで体験した、神に従う信仰と、仕事の成功が、相反しない世界でした。クリスチャン経営者によって、神に従う信仰と、仕事の実績が正当に評価され、報いられる会社。そして家族との時間も十分に確保できる会社。私は、そのような会社が日本に存在しないものだろうか、と考えて悶々としていました。そんなある日、求人雑誌をめくっていると、IT関連の新興アメリカ企業が営業マネージャーを募集していました。企業データを見ると、ベンチャー企業として10年前に起業してから急成長を遂げ、給与体系は公平な実績連動システムで、成績次第でストックオプションも与えられるという、アメリカンドリームを彷彿とさせる会社でした。日本法人経営幹部のほぼ全員を占めるアメリカ人は、私の願い通りクリスチャンで、若さと力にあふれていました。彼らとの面接の結果採用が決まり、私は、ビジネスマンとしての仕事の成功を通して主の栄光を証しするという生き方に再度挑戦することになりました。
いわゆる、日本の大企業文化の中で育ってきた私にとって、新しい職場は刺激に満ちた訓練の場となりました。アメリカ流の体系的で徹底した営業訓練とその実践は、伝道実践の知恵にもつながるところがあり、また、役職、年齢などにとらわれず、正直で風通しの良いフラットなコミュニケーションの中から生まれる活力は、日本企業のみならず日本のキリスト教会も見習うべきカルチャーでした。しかし、この会社の問題点は、四半期ごとの営業成績で社員が厳格に評価される為、短期決戦で実績を稼ぐことにほとんどのエネルギーが費やされ、購買の稟議に時間のかかる大企業を相手に、じっくりと時間をかけて信頼関係を築いていく、というゆとりが無く、結果として会社としての信頼感を失っているという点でした。私は、短期決戦の積み重ねでがむしゃらに成長する会社から、大手企業との信頼関係構築に十分時間をかけ、結果的に高度成長を長期に渡って持続できる会社へと変わる必要を幹部に訴え、結果として私自身がそのような市場、つまり、短期的には結果は得られないが、1年単位で腰を据えて取り組めば、結果として、大きく継続的な契約につながる可能性のある市場を担当することになりました。
1年以内に結果を出す、という条件のもと、私は某大手企業、及び政府機関との間で関係構築を進め、半年後には、具体的な商談とその規模、契約のタイミングなどが見え始めてきました。このプロジェクトが成功すれば、巨額の報酬と役員昇進への道も開けてくる。そんな皮算用が頭をかすめるようになった頃、私は、長い間、出せないでいた、例の、大事な返事のことを思い出しました。政府機関との信頼関係維持という意味でも、契約が成立すれば、もう会社を辞めることはできなくなる。今回の契約とともに、もう後戻りできない所へ向かって、私は走り続けることになる。このような胸騒ぎは、私が、毎日、激流のような時間の中で、すがるように聖書を読み続けていなかったならば、もしかしたら、おこらなかったのかも知れません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」というイザヤの召命への応答のことばを読んでいると、この世での自分の人生が終わる時、なぜあの時、私はイザヤのように応答できなかったのか、と後悔している自分の姿が、頭に浮かびました。それは、何ともいたたまれない、人生の敗北者のような気持ちでした。すると、神様は実に不思議な方法で、そのまま突っ走ろうとしていた私の足を、止められました。
私の採用を決め、入社後も私を理解し、支援してくれていた会社の最高責任者が、突然ヨーロッパへ異動することが決まったのは2000年3月でした。結果を出す期日まであと数ヶ月ありました。そして、トップを任された新任のアメリカ人は、私がしばらく全く実績をあげていないことに目を留め、事情を十分に確認しないまま、「最近の実績を見ると、どうも、あなたはこの会社に向かなかったのではないかと思う。」と、私が自主的に退職することを求めてきたのです。その瞬間、私は、たとえようのない平安が訪れるのを感じました。自分でも、なぜ、こんな時に、こんなにうれしいのか、不思議でした。そのせいか、私は、その場で、事情説明や、釈明をしようという気に全くならず、その場で退職に同意し、退職条件の覚え書きにすぐサインをしてしまいました。
こうして私は3月末日から4月30日の正式退社日まで、未消化分の有給休暇を消化することになりましたが、この最後の一ヶ月間は、サタンとの激しい闘いがありました。妻は、会社に対しても、私に対しても、大いに憤慨していました。今、連絡を入れて詳しく事情を話せば、まだ会社へ戻れるかも知れない。そんな思いとの格闘の中で、ダビデのあの告白が、騒ぎ立つ心の波を鎮めてくれました。詩篇16編2節、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
弱音を吐いては献身の思いから逃げ回っていた私は、同じように往生際の悪かった、モーセの召命の記事に慰めを感じます。そのモーセが召命に従ってエジプトに向かい出発した直後、モーセは、なぜか、主に殺されかけた所を、妻のチッポラに助けられました。次は私の勝手な想像です。「チッポラは、モーセが突然エジプトへ帰ってイスラエル民族を救い出す、と言い出すのを聞いて、最初は唖然とし、次第に憤慨し、毎日ぶつぶつと文句を言っていってモーセを悩ませた。モーセは、そんなチッポラを、何という足手まといだろう、この先が思いやられるわい、と思っていた。そんな矢先に、この事件が起きて、モーセとチッポラの心は、再びひとつに結ばれた。」少し強引に、このように解釈することで慰めと希望を見出そうとしたりしていました。私が会社を辞めたことを残念に思っている妻と、そんな妻に、つい、苛立ちを感じてしまう私のこころがひとつにされ「私と私の家族は、主に仕える」と喜んで告白できる日が来るのを、日々祈り求めました。
私が意を決して神学校へ通い始めても、妻は断固として反対の姿勢を崩しません。私は仕方なく、授業のある日は神学校の独身寮に身を寄せることに。思いがけない「単身赴任」生活の始まり。このときは互いに真剣に離婚を考えるほどの、史上最大の夫婦の危機でした。妻は祈る。「神様、どうか主人が神学校で挫折して、砕かれて、再び会社員に戻れますように。」一方、私も祈り返す。「主よ、どうか妻が砕かれて、主と私に従うことができますように。」こんな「砕き合い合戦」の末、勝利を収めたのは_そのどちらでもなく、二人揃って主の前に砕かれる、という結果に。妻が反対を続けていたとき私は内心、「とうとう召命に従ったモーセの最初の危機を救った妻チッポラとは正反対だな」と心で裁いていたのだが、自分自身が何年もかけて格闘してきたところを、妻もまた通っているのだ、という配慮もなくただ裁いていた自分を恥ずかしく思いました。ただ今振り返ると、あの時の反対があったからこそ、より真剣に召命の確信を求めつつ学ぶことができたのだと思います。神学校最終年次には、その妻も聴講生として神学校の授業に参加するようになっていました。解決を待ち続ける忍耐の時は長く感じられますが、その忍耐の期間を無理に縮めようと焦らず「主に立ち返って静かにする」(イザヤ30:15)ことの大切さを互いに教えられたように思います。
神学校卒業後派遣された新潟福音教会は、今までキャリア豊かな人格者である牧師によって牧会されてきた、百人教会。社会人経験が17年あるとはいえ、「新卒」教師にとって、受け取ったバトンはずしりと重かったというのが正直なところでした。でも、これまでのさまざまな試練の中で、主のご計画を信じて主にのみ従い、ただ主に委ねることの大切さを心に刻み込まされてきたせいか、この1年間、そのバトンの重みに押しつぶされることから守られてきました。あれほど反対していた妻も、私よりもよっぽど元気に明るく群れに気を使っています。また、派遣されてからこの1年の間に受洗へと導かれた9名の方々のことを思うとき、胸がいっぱいになります。この魂のために、そしてこれから導かれようとしている魂のために、今までの試練があったのか、と思うと。また、自分が主の前に砕かれ、主に謙虚に従うようにされることだけが試練の目的ではなく、その究極の目的は福音による救いが人々の魂に届いていくためであったのだ、と思うと。
この一年間に新潟福音教会で受洗へと導かれた方々の上にも、例外なく、悲しみと試練がありました。けれどもそれらすべてが、イエス・キリストのうちにある新しい永遠のいのちへ移されるために用いられたこと思うとき、耐えがたい悲しみに涙するときにそれが「永遠の祝福のために与えられた天からの賜物」であるということを知ることのできる神のことば、福音の尊さを改めて噛みしめます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第一ペテロ4:12,13)
笹川雅弘プロフィール
1959年、神奈川県横浜市生まれ。1983年日本電気(株)入社、翌年に受洗。その後約6年半のアメリカ駐在を含む計17年間の会社員生活の後、伝道献身者としての召命を受け東京基督神学校へ入学。2003年3月同校卒業後、日本同盟基督教団・新潟福音教会へ派遣され、現在に至る。
月報2009年12月号より
「キリストの体」
「大恐慌以来の経済危機」のさなか、今年一月、私は金融機関からレイオフされた。希望通りの社内転職を果たし、「もう一生これでいける」とまで思ったドリームジョブ(産業調査のアナリスト)を手にしてから、僅か三ヶ月後のことだった。その社内転職から三ヶ月ほど前のこと、私が職場で担当していた顧客のファイルが紛失するという事態が発生、私は上司に、そのファイルが元々存在しなかったと証言するよう、圧力をかけられた。「そもそも存在しなかったのだから、紛失したのではない」との論理を貫きたいがための裏工作である。彼もクビが懸かっているから必死である。私は一瞬たじろいだ。だが、嘘をついてその場を凌いで神様を泣かすよりは、たとえ責任を問われたとしても、寧ろ真実を語る方が正しいと感じた。だから敢えて圧力を撥ね除け、「私はこの目で確かに見た」と主張。果たして、「紛失」は東京本部にも重大視され、私が所属する部全体が始末書を出す破目に・・・。
金融業界におけるリストラに歯止めはかからず、私は求職期間中、労働市場が丸ごと消滅してしまったかのような無力感を覚えた。面接もあるにはあったのだが、反応が悪い。以前と違って、求人側の職務要件に応募側の経歴が完全に合致しない限り、どこも採用には踏み切らない構えだ。長期戦の悪い予感。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月・・・。これといった話が無いまま、時間だけが過ぎていった。求職中は会社に行かない。勿論残業も無い。だから肉体的には仕事をしている時と比べて楽なことは確か。また、見かけ上は家族と過ごせる時間も多い。ところが実際にはそれを心底楽しめない。早いところ仕事を見つけなければ家族が路頭に迷う・・・。そんな精神的なプレッシャーは想像を遥かに上回った。それとともに夫婦喧嘩も極まってゆき、幼い子供たちへの発達心理学的な悪影響も心配された。分かっていても、お互い罪深い者同士のこと、止めるに止められない・・・。こんな「嵐」のような日々が続いた。
五月始めのある日のこと。いつものように、自宅の地下室にある、私が「会見の幕屋」と呼ぶ一角で、「神様が示される最善の土地で、最善の時に仕事を与えて下さい」、と必死に祈っている最中、聖霊から、「仕事はお前に与えるから心配はいらない」との約束と平安が与えられた。更にその瞬間、私のために祈って下さっている方々一人一人の顔が連続写真のように浮かび上がって見えた。聖霊はその時、「この人たちはキリストを構成する体」であり、「お前(=私)もその一部」なのだ、というメッセージを私に伝えた。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(第1コリント3:16)」。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい(1ペテ2:5)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:5)」。これらの御言葉が互いに混ざり合って一つのイメージとして伝わってきた。祈りのネットワークを拡張してもらい、キリストの「体の働き」を利かせた矢先の、天的啓示である。わたし的には、ダマスコへ向かう途上、自分が迫害していたクリスチャンが実はキリストの体なんだというパウロが神様から見せられた啓示に匹敵するほどの劇的なものだった。
祈りが終わり、即、妻に伝えた。彼女もすんなり受け入れた。我が家に再び平安が戻ってきた。それからの私たちの祈りは、感謝の祈りに変わり、私たちを平安で満たして下さる神様に賛美を捧げた。就職に関する不安がなくなった後、家内と二人で、再就職に関する具体的な希望をそれぞれ書き出して、それを互いに持ち寄って祈ることにした。祈祷課題は、「通勤・勤務時間が短くなること」、「向こう三年間、妻が家で子供の面倒を見られるように、私一人で家計を支えられること」、「仕事が性格と能力にあったもの」、「興味が持て、やり甲斐を感じつつも、忙殺されないこと、」等。「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる(マタイ18:19)」との御言葉に従った。
当初、職のあるところだったら何処へでも引っ越すつもりでいた。だから日本やカリフォルニアにも就職活動は及んだ。いいと思える話も無い訳ではなかったが、いずれの場合にも神様は不思議と道を閉ざされた。しかし、キリストの体に関する啓示を受けた後、当地NJ/NY地域での就職を祈って下さっていた「祈りのセル」の姉妹たちと心が一つになり、NY・NJ地域での仕事が与えられるように祈り始めた。今の仕事につながった第一面接が設定されたのは、それから間もなくのことであった。それはそれまでに持ち込まれた話とは違い、神様が一歩一歩を導いておられることが随所に感じられた。問題もあった。例えば、条件面では以前の水準を大きく下回ること。そして保険業は未知の分野であること。だから、始めのうちは、ただひたすら黙々と神様の導きに従うだけだった。けれども、面接が進み、上席者と会ってみると、その人は「この人の下で働きたい」と思えるような魅力的な人だった。結局、プロセス全体が昨今の常識では信じがたいとんとん拍子で進捗し、あれよあれよという間に採用通知を得た。レイオフから既に7ヶ月が経とうとしていた、8月初旬のことだった。
また、私の職歴の一部分が評価されたのではなく、私のキャリアパスの始めから終わりまですべてが気に入られたので、「この人でもいい」ではなくて、「この人しかいない」という種類の採用となった。条件面でも、求人広告からかなりアップグレードしてくれた。お陰で基本給だけで言えば以前の水準を上回る条件提示をもらった。平安で満ち満たして下さる神様が与えて下さった素晴らしい転職となった。この就職難の時代にあって、万軍の主は、多くの天の御使いを忙しく働かせてくれたことは想像に難くない。逆に、レイオフされなければこんないい仕事は得られなかったであろう。オファーが出た日、私たち家族4人は輪になって座り、手をつないで心を合わせ、神様の御手による大いなる御業を褒め称えた。
蓋を開けてみれば、妻と共に書き出した祈祷課題は全て叶えられていた。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる(マルコ11:24)」との御言葉が、身近な形で成就した。
休職中の「嵐」の吹きすさぶ時にも、皆さんの励ましにも支えられ、主イエスが「船長」である限り、「船」は沈没する訳はないと信じ、毎日荒波を乗り切っていた。しかし、嵐の中を航海したこの経験は、試練を通して救って下さる主イエス・キリストの恵み・憐れみだった。実は、それは主が私たちを愛してくださっているが故の祝福であった。「(私たちは)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:3-5)。」
教会内外の兄弟姉妹からの励まし、祈りのセルでの「二人または三人による」祈り、祈りのネットワーク展開、キリストの体の啓示体験、妻との祈りを通して叶えられた具体的な祈祷課題の数々・・・。この7ヶ月間で、私はキリストの体をより深く体験し、クリスチャン生活は一人だけでは成立しないことを学んだ。今後とも、キリストの体の奥義を更に深く知り、自らも「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられ(1ペテロ2:5)」たいものだと願わされる。
月報2009年11月号より
「8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに…」
8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに行った帰り道にノースカロライナ州Ashevilleの田中裕兄・亘代姉をご訪問して、楽しい一時を持たせて頂きました。田中兄姉の一人娘・陽子姉は1993年12月19日にJCCNJで洗礼を受けて、歩んでおられましたが、30歳の誕生日を迎える直前、1997年1月に突然主の御許に召されて行かれました。しかし、そのことを通してご両親は信仰に導かれ、今もBiltmore Baptist Churchで信仰生活を送っておられます。今回、そのお証をインタビュー形式でお伺いしてきました。2009
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<お二人の背景>
錦織牧師(P): 今日はこのような機会を与えてくださってありがとうございます。お二人が、初めて教会とか、イエスさまとか、聖書とかに初めて触れられたのはどのような時だったのでしょうか?
田中兄(Mr): 実は私は母を通して知りました。母が聖書を持っているのを知ったのは大学に行くときでした。父は早く亡くなっているのですが、その後、母は島根でカトリックの神父さんの身の回りのことを手伝っていたんですね。その時に母が聖書を持っているのを知りました。しかし、私はそれに触れたこともありませんでしたし、読んだこともありませんでした。でも、もっと早く、3歳か4歳くらいの頃ですが、「主よ、御許に近づかん」という讃美歌をいつも歌っていたことを憶えています。
P: 奥様のほうは?
田中姉(Mrs.): 私は仏教の家庭に育って、まったく聖書とか、キリストとかに触れるチャンスはありませんでした。彼岸ごと、法事ごとにお墓参りするのが習慣でした。別に仏教を勉強していた訳ではありませんが、それを習慣的にするのが当然の家庭でした。
Mr.: 私のほうは家の宗教としては神道でした。もともとは禅宗であったようですが、神道になりました。ご多分に漏れず、家には神様と仏様の両方がいました。母はクリスチャンの背景から来たのですから、複雑な思いだったと思います。伝統の中に嫁いできたのですから、それに従わないということはできなかったのです。その後、聖書を自分で手に入れたのは、大学の時に、文学の一環として、手に入れたのですが、それはそれっきりでした。信仰の書物として読んだことはありませんでした。嫌悪感とか、そのようなものは一切ありませんでしたが、ただ、関心がなかったんですね。
<生前の陽子姉の姿から>
P: そのご夫妻にとって、イエス様のことを知るためにはやはりお嬢さんの陽子さんの存在が大きかったわけですよね。
Mr. & Mrs.: はい、それがなかったら、今でも迷っていたでしょうし、イエス様のことを知ることもなかったのでは、と思います。
Mrs.: もちろん、陽子はNCに来るたびに聖書を持ってきていましたし、教会に行っていることは知っていましたけれども、それについて、娘は自分からは一言も言いませんし、キリスト教というのはわたしたちの人生とは何の関わりもないことだと思っていたのです。
P: では、陽子ちゃんが洗礼を受けるとか受けたとか、そのような話を聞いたことはなかったんでしょうか?
Mr. & Mrs.: 聞いてませんでした。(笑)
Mr.: ある時、私はニュージャージーの陽子のいたところに行った時に、聖書があることに気がついたのです。そのことには一言も触れなかったのですが、友だちの里香ちゃんが、教会に行っているというんですね。そして、ルームメートになってくれるというのですが、でも、自分が行っているとは一言も言わないわけです。その時に思ったのは、ルームメートになる人が、教会に行くような人だったら安心だなあ、と思ったことです。おまえは何するんだ?といったら何もしていないというのです。で、「土日何しているんだ?」と聞いたら、「教会で遊んでいる」と言うんですね。
Mrs.: そして、里香ちゃんの結婚式が陽子が亡くなる1年前、96年にありまして、私も招待されまして、その時、結婚式の翌日の日曜礼拝に娘が「お母さん、どうしても一緒 に行こう」と言い、強引に連れて行かれました。私はあのユニークな娘のお母さんと思われるのがいやだなあ、なんて思いながら~。教会では聖書をめくるのをてきぱき手伝ってくれたりしましたが、なかなか馴染めなかったことを覚えています。礼拝後皆さんに温かく迎えられ陽子の働きなど聞かされました。それよりも皆さんがすごくいいお顔をしていらっしゃると感じた事、何か違うように思わされました。思えばその時こそイエスさまにつながる出発点だったかもしれません。
Mr.: ある時NYから車で一日でNCに来たことがありました。明くる日、見ましたら、聖書があるんですね。あれ、教会に行っているって言っていたけど、本当に行っているのかな、と思いましたが、ただ、まだ野球したり、遊びに行ったりしていると思っていましたから、聖書に触れている、ということはわかりましたが、娘が教会に行くと言うようなことは想像していませんから、読んでるって、そんな読む資格があるのかよ、と言った覚えがあるのです。
Mrs.: NY生まれの娘が難しい漢字が読めるとは思っていませんので、どうして聖書が読めるのか、と思ったら、全部カナがふってある、って言うんですね。その時、聖書を初めて見ました。ああ、全部カナが振ってあるんだなあって。(笑)
Mr.: 飾りで持っているのかなあ、と思いましたが、また、ひょっと見ましたら、印がついているんです。ああ、読んでいるんだ、と思いました。だけど、自分からは全然、一言も言わなかったです。
Mrs.: でも、一つだけ抵抗したことがありました。毎年、お正月に交通安全のお守りのお札を日本から取り寄せて陽子にも送っていたのですが、ある時、NJに行ったら、それが放ってあるんですよね。「どうしてそんなことをするんだ」と思いました。未だ私は神様のことを知りませんでしたから、ケンカではないですが凄く怒ったんです。その時は彼女は何も言わなかったのですが、後で、だんだん神様のことがわかるようになって、ちゃんとどうして説明してくれなかったのか、と思いましたねえ。説明されても、その時は反発したと思いますが。
Mr.: 私は娘が何か変わったな、と思ったのは、それまで私がいろいろと頼みごとをすると陽子は一番にしてくれていたんですが、ある頃から、やってくれていないんですよね。「何でやっていないんだ」って聞くと、「忙しいから」と答える。「教会で忙しいんだ」って言う。それで、変わってきたかなあ、と思いました。年と共に変わってきたのかなあ、人間が成長するんじゃなくて、生意気になってきたなあ、と思った、その程度でした。
初めて、本当の意味で陽子がどのように変わったのかを知ったのは、陽子の死の時でした。その時に初めて知ったのです。
Mrs.: もっとクリスチャンのかおりを出してくれていたらよかったんですがね。(笑)
Mr.: でも、もし、あのときに本人がわたしたちに言ってきた場合、果たしてそのように率直に受け入れて、動くことができたかというと、わかりません。あれだけ大きな、彼女の死ということが起こって、初めて動いた、動かされたということの中に神を感じますね。
<陽子姉の召天>
P: そうですか、その陽子ちゃんが亡くなられたのは突然だったんですよね。
Mr.: そうです。土曜日の朝に僕が電話したんです。そうしたら、風邪声だったんで、「大丈夫か」って言ったら、「大丈夫、ちょっと休めば直るから」と言うんです。「ママ呼ぼうか」と言ったら「いい」って言うもんですから、「後から電話するからね」と切ったんです。
Mrs.: そして、私は後から電話したんですが、その時は苦しかったみたいで「後から電話するから・・・」と言って切れたんです。そして、翌日、電話したら、皆さんが集っていて、ギルさんが話してくれたんです。
Mr.: 妻の電話に出ている声が止ったので、「これは何かあったな」と心の中に思いました。
Mrs.: 前の子供の時もそうだったのですけれども、体調に問題はあったんです。やはり薬がずっと必要な体で、一応日常生活には問題はないんですけれども、大病とか熱が出たときは特別なケアをしなければいけなかったのです。普段の薬も忙しい、とか言って飲んでいなかったり、すぐにドクターに連絡しなかったりで、手遅れになってしまったんじゃないかなと思います。それも神様の御手の中にあったんだと思いますが。
Mr.: 忙しかったことは忙しかったようですね。机の上に薬も出ていて、飲まなければいけないと思っていたようです。
Mrs.: 定期的にもちろんお医者さんには行っていたことは確かだったのですが。
Mr.: 今から思うと、行くべき地に召されたんだと思います。30年の短い間でしたけれども。
Mrs.: またそれと共に長かったとも思います。遺伝的な問題があって、前は助けてもらえなかったのですが、アメリカでいいお医者さんに巡り会えて、治療ができて、30年生かされたと思うと、感謝ですね。
<教会に導かれる>
Mrs.: しかし、娘が亡くなった時に、皆さんから励まされたのが、「天国で会えるんだよ」ということだったのです。教会に初めて行った後、その頃から聖書に対する興味というか、あったようにも思ったんですが、やはり、本当に読み始めたのは陽子が亡くなった後です。陽子の聖書を読んでいました。でも、教会には行っていませんでした。ある日、会社のクリスチャンの人に「教会に行きたいんだけれども・・・」と言ったときに、今の教会を紹介して頂きました。それからもう、12年通っています。主人共々もう10年ほど、奉仕もさせていただいています。
Mr.: 本当にタイミングよく、と言いますか、たまたま僕の部下に紹介してもらったんですね。カトリックだけはわかりましたが、メソジストもバプテストもわからない自分が教会に行くとは思っていなかったんですが、とにかく行ったところが今の教会なのです。初めて行った時には、びっくりしました。音楽はやかましいし、人は親切なんだけど、教会に対するイメージと違って・・・。
Mrs.: 太鼓やボンゴやギターやタンバリン 、でもプロ級の方のAmazing Graceよかったです。
Mr.: いやあ、耳が痛くなるほどで、ショックでしたね。
Mrs.: でも、今でも教会はそうですが、好きですね。教会は好き嫌いじゃないんですが・・・。でも、オルガンだけの教会よりも賛美している気持ちになります。英語がわからないからかもしれません。
Mr.: 私の場合は、その時の説教が心に残っているのですが、その基本はどこにあるかというと、NJの教会での1年目のメモリアルサービスと、その前の葬儀の時に与えられた言葉が残っていましたね。後から、ヨハネの14章の言葉だとわかるわけですが、「私はあなた方のために場所を準備して帰ってくる」という言葉でした。その時は単純にそれを受け取りました。普通だったら、そんな夢物語みたいなこと・・・と思っていたと思います。しかし、子供の死に直面して、どこに行ったのか、ということを自信を持って語っておられる、皆さんが本気で信じている、どうしてそうなんだ?という思いがありましたね。
Mrs.: 私が決心したのは、1周年のメモリアルサービスをした時なんですが、いま考えると、どうして1年以上も時間がかかったのかと思うくらいです。でも、その時はまだこだわっていました。親戚とか、友だちとか、その人達に対して、言わなければ言わないで済むのかもしれないのですが、それが気になってのばしのばしになっていました。主人は半年前にこちらで洗礼を受けたのです。こちらの教会でメッセージを聞いて、前に出たんです。でも、私は英語はわからないし、、まだその時は主人は、おまえも来い、とも、行こうとも言わなかったし。未だ先だ先だと思い込んで、1年経って、中野雄一郎先生が背中を押してくださって、一晩で決心しました。「いつまでも廊下で教室を眺めていても進級しないよ」と先生に言われて、飛び込んだのです。もちろん、それまで、聖書は読んでいましたから、すぐに決心出来たのですが。だから、皆さんがおっしゃるように感動して涙が流れて、とか、そういう経験はできなかったのですが、でも、やがてイエスさまの前に立たせて頂けるときには感動で涙があふれるだろうことを思い浮かべます。
Mr.: 私の方は全然妻とは違いまして、おっちょこちょいと言いますか・・・。
Mrs.: だから、主人が洗礼を受けてから、少しは変わってくれるかなあ、と思っていたのですが・・・。(笑)もう、亭主関白は変わらないし・・・。教会に行くと、みんなご主人達は奥さんのドアを開けてあげるのを見たりしているんですよ。椅子を引いてくれるとかね。ああ、クリスチャンってああいう風になるんだって。(笑)
Mr.: 私の場合は、教会に行き始めて、2ヶ月くらい経ったころですか。教会のメンバーの方が訪問して来られたんです。最初は断ったんです。教会のReach Outというプログラムで、最初に教会に行ったときに、住所と名前を書いたのですが、クッキーか何かを持って来られておいて行かれたと思います。その時は事前の連絡もなく、準備もできていなかったので、お断りしたのですが、それからまたしばらくしたら、また訪問があったのですが、今度は牧師が夫婦で来られました。それでお話をしたのです。わたしたちのことをお話ししましたら、「とにかく、飛び込みなさい、信じなさい、後はそれからでいい」ということを言われたんです。私も「こんなところでくよくよしているくらいなら、まず信じることだ」と思ったのです。そして、その時に信じるお祈りをしたのです。その瞬間に思ったことは、私は伝統も周りの人々もすべて失うんだということでした。そう思うと周りが真っ暗のように思えました。しかし、「信じます」と思ったときに、真っ暗な中に白い光のようなものが見えたように思いました。あとはまっしぐら、かどうかはわかりませんが、とにかくやっております。それが65歳くらいの時ですから、若い方々と違って、人生の大半をすごしているわけですから、それはもう一回生まれ変わるつもりになるのは大変なことです。
<信仰者としての歩み>
P: そして信じてから学ばれる、ということだったんですね。こういうことだったのかと。
Mr.: そうですね。悩んだこともありました。知れば知るほど重くなることもありました。クリスチャンになったら、もうわかっているものだと思っていろいろ話しかけてこられるわけですね。私はこれからいろいろ学びたいと思ってクリスチャンになったわけなんですが、周りはみんなわかっていることを前提に話してこられるんです。子供の頃から教会に来ている人々がたくさんいるアメリカの教会で、みんなの前で、「この田中さんは仏教、神道の世界から、すべてをなげうってクリスチャンになった」と非常にユニークな存在として、貴重な存在として紹介されて、期待を持ってみんな話しかけてくるんです。それは重荷でした。(笑)自分はどうかって自分ではある程度わかっている訳ですからね。そして、相談する人が近くにはいなかったですから・・・。
P: クリスチャンとして歩んでいる中で、神様がこういうことを通して支えてくださった、ということはありますか?
Mr.: 私の場合はこういう病気(小脳変性症)を持っていますから、いつ主に召されてもおかしくないので、この人生の中で生かされている中で、神の助けがなかったら、今ここにいないと思います。毎日毎日が生かされているなあ、という思いです。どのようにこの恵みにお応えしたらいいのか、わからないのが今の自分自身です。感謝しているのは、日常の小さなことから、アメリカに来たことも感謝だし、またこうしてノースカロライナに来たことも恵みでしたね。子供が亡くなったことも、子供は天国に行けたし、私も行くのだ、という大きな希望がありますね。ここは教会も近いし、教会を通して神を信じる人たちが、集って一つの場に生き、そこに私が置かれているのも大きな恵みだし、私生活に帰って、この神を信じる人たちのケアセンターにおられることも、この中で生きることを与えられていることも、「与えられている」と信じる僕を造っていてくださることも、妻と共に歩めることも、・・・私はクリスチャンになっても、ホントに余り変わっていないのですが・・・(笑)、彼女と共に歩めるのも、大きな恵みだと思います。こうやって先生達と仲良くなれるのも、誰かが作ったんじゃないですからね。
Mrs.: 私はイエスさまが共にいてくださるということだけで十分ですね。病気の時でも喜びの時でも恵みを数えることができるのですからね。恐れないでいいことですね。これからいろいろなことが起こるでしょうが、イエスさまが共にいてくださる、ということが何ものにも換えられないことです。こういうところ(Deerfield Retirement Community)ですから、お休みの度に家族の方が来られますが、いいなあ、と思ったりすることもあるのですが、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみたい、とそのような願いが与えられたことが幸せだと思います。
Mr.: 市民権を取ってアメリカ人になるなんてことは、クリスチャンになる前には考えられませんでした。日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人だと思っていました。でも、クリスチャンになって、そんなことは全く問題ではないんだということがスムーズに受け入れられるようになりました。もちろん、日本は愛していますが、もっと広い意味で、神の国に生きるんだ、ピリピ3章20節にあるように、わたしたちの国籍は天にある、わたしたちの市民権は天にあるんだと思わされています。
Mrs.: この世ではわたしたちは旅人なんですよね。市民権は天にあるんですね。そんな気持ちを抱けるのは幸せですよね。私は4歳前に母親を亡くしたり、娘の死を経験したり、それらが試練だと思っていましたが、エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」の言葉が励ましになり、支えになりました。戦争で家が焼けて、集団疎開をして、つらい思いをしたこともありました。父が再婚した母がとてもよい人で、守られたり、いい経験もあるのですが、どうして私はこんななのかなあと思ったこともあります。絵に描いたような幸せな人がいるのに・・・。それも神様のご計画のうちに置かれていたんだと思うとやはり希望が持てます。そして今、最近英語で覚えた聖歌、Turn Your Eyes Upon Jesusを愛唱しています。
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今回、このようにゆっくりお話をさせて頂くときが与えられて、信仰者としての田中兄姉の姿に励まされて帰ってきました。そして、陽子姉が天に召されたこと、それは本当にヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」その御言葉通りのことだったんだと思わされます。遠く離れて信仰を守っておられる兄姉のために続けてお祈りください。
月報2009年10月号より
「私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで…」
私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで、日本の秋田県からの移住者の両親の元に生まれました。そのころ、オークランドの日系住民達の社会生活は、プロテスタント教会か、仏教のお寺か、を中心に営まれていました。他の多くの団体がそうであったように、移住者達に提供されていたのは、宗教的なものであるよりも、ソーシャルな、また文化的な活動でした。ですから、そこでは特別に深い個人的なコミットメントを要求されるわけでもなく、自分が何の宗教を信じているか、ということについて、とても受け身的な意識しか持っていなかったと思います。そして、私自身、そのような大人の姿勢を見ていて、宗教的アイデンティティーについては、同じように受け身的な意識を持っていました。
第二次世界大戦の時に、日本人と日系アメリカ人が西海岸から強制収容されたときにも(私たちは、1942年から1945年まで、ユタ州中部に強制収容されました)、この宗教的な受け身の姿勢は続いて、何ら変わることはありませんでした。実際のところ、私は、強制収容所でも教会に行った記憶がありません。そして、1945年、私たちはニューヨークに引っ越してきました。
私の子ども時代、少年時代を通して、宗教一般について、余り真剣に捕らえてはいませんでしたし、もちろん、聖書を読んだこともありませんでした。聖書を読むようにと言われたこともありませんでしたし、私の両親も、普段は聖書を読んでいませんでした。そればかりか、私はすべての宗教というものに対して、軽蔑の念を抱くようになってきていました。この軽蔑の念は、1947年から1951年にかけて、City Collegeで学ぶようになって、更に強くなっていきました。大学時代、私は無神論を当然のように信じている左翼の政治サークルで活動するようになったのです。
私が最初に真に宗教的な経験を持つようになったのはFordham Universityで、イエズス会の司祭と共に哲学を学び始めてからでした。彼は、宗教的な純粋さと、哲学的な緻密さを併せ持っているように見えました。この司祭は私のヘーゲルについての博士論文のメンターであると共に、私のスピリチュアルな指導者でした。ですから、私にとってのカトリックの教えは宗教的であると同時に哲学的なものでありました。今日に至るまで、私は知的な関心と、霊的な関心とを分けて考えることはできません。これは、Fordham Universityでのローマ・カトリックと、イエズス会の哲学との両方にポジティブな出会い方をしたおかげだと思っています。
私は33歳の時に、イエズス会の司祭によってローマ・カトリックの洗礼を受けました。私は1962年にFordham UniversityからPh D.を受けて、Manhattan CollegeというChristian Brothersが経営するローマ・カトリックの大学で教えるようになりました。それからずっと47年間、Manhattan Collegeで教鞭を執っています。
しかし、2、3年のうちに、私はローマ・カトリック教会に失望するようになりました。それは、彼らが告白するキリスト教の理想と、無神経かつ物質主義的な実践との間の大きなギャップを目の当たりにしたからです。私はマルクス、ニーチェ、フロイド、サルトル、カミユなどについて学び、コースを教えるようになっていきました。
私が、妻あやえと出会ったのは、そんな時でした。彼女はNew York Universityで英語を学んでいました。私はそのころ、ポスドク向けの奨学金を受けてColumbia Universityで中国語と日本語を学んでいました。実は、彼女と私の父とがマンハッタンの日米合同教会で会ったのが始まりだったのです。彼女は日本でプロテスタントの洗礼を受けていました。彼女が私のプロポーズを受けてくれたときに、私はイエズス会の司祭に結婚式の司式をしてくれるようにと頼みました。しかし、私の教区の司祭は、ローマ・カトリック教会では、そのようなカトリック以外の人との結婚の時には、カトリックの儀式で結婚式を挙げて、子どもはカトリック信徒として育てなければいけない、と要求しました。私たちはそのような誓約書にはサインはできませんでした。そして、結婚式自体はカトリック教会でいたしましたが、娘はプロテスタントの教会で洗礼を受けました。
結婚してからは、私の父と妻と、娘とが日米合同教会に行き、私は家に残っていました。
1988年の夏に、ニュージャージーで始まったばかりの教会の初めてのファミリー修養会(リトリート)が持たれました。その時、妻は、自分では会場までどうやって行ったらいいかわからないから、車を運転していってほしいと頼んできました。まだ宗教というものについて反感を持っていた私は余り気が進みませんでした。彼女は集会には出席しなくていい、外をぶらぶらしていればいいから、とまで言います。そして、最終的には私は抵抗する思いを乗り越えて、修養会に出席したのです。驚いたことに、私がそこで会った人々、当時の正木牧師を始め、後藤さん、梅本さん、中條さん、催さんといったニュージャージー日本語キリスト教会の創立メンバーの皆さんは、親しく私に語りかけてくださり、またその信仰的に純粋な姿は私に深い印象を与えてくれました。韓国人であった催さんご夫妻は特に、私を歓迎してくださいました。その暖かさが私の抗う気持ちを溶かし、私はMaywoodにある教会に続けて集うようになっていきました。翌年には私はこの教会のメンバーになり、その後、教会が二つに分かれる危機の時には役員にもなったのです。
私の場合はサウロがダマスコへの道で経験したような劇的な出会いがあったわけではありません。それよりも、ゆっくりと、目立たないで、教会生活が浸透していくような歩みがあったのだと思います。キリストの愛を直接感じるよりも、教会のメンバーの生活を見ている中で神の臨在を感じるようになっていったのです。実際のところ、これが多くの人がキリストを知るようになるようになる道であり、最も効果のある伝道の方法であると、私は信じています。
私の人生で一番大きな危機は1997年の春にやってきました。私は67歳でしたが、中程度に進んだ前立腺ガンの診断を受けたのです。私は、同じような経験をした方々と話をして、手術を受けることにしました。そして、1997年6月に、radical prostatectomyという施術を受けました。その時には、教会の皆さんにお祈りをして頂きました。実際のところ、無理矢理、そのようにさせられたのです。礼拝の後に、人々が私の周りに集り祈ってくださいました。
手術の日、錦織牧師(そのころは牧師は空席で、錦織師は教育主事でした)は、私と共に祈るために、lower ManhattanにあるNYUのメディカルセンターに来られました。しかし、その時には私はもう手術の準備のために会うことはできませんでした。その日の午後、手術の後私がリカバリールームにいると、まだ麻酔が覚めない中で、イエス・キリストにお会いしたように思いました。しかし、それはもう一度病院まで来られた錦織牧師だったのです。今日まで、私はこれは幻覚ではなかったと確信しています。私は神様に、錦織牧師に、そして、私のために祈ってくださったすべての方々に深く感謝しています。私の回復は、ちょっとガスがたまった痛みがあった以外は、すべて順調でした。術後の傷の痛みも、合併症も何もありませんでした。5年以内に再発しなければいいというところ、手術から12年も経っていますから、私は統計的には完治した、ということになります。
78年間の人生、そして、クリスチャンとして、ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーとしての21年間、また2-3年のローマ・カトリックとしての日々、そして、宗教に対して無関心だったり、反感を持っていたりした数え切れない年月を通して、私の人生のすべては働いて最高に導かれたのだと確信しています。これこそが、「神の導き(摂理)」ということの本質的な意味だと思います。
マルクスやニーチェ、フロイドのような無神論者についての私の研究は、彼らの洞察力や、自由で制限のない、批判的な思索の価値を認めることによって深められていきました。同じようにローマ・カトリック教会とのつながりは、哲学を大切にすることと、組織の権威の必要性と危険性の両方とを教えてくれました。
最後に、クリスチャンの生活は、普通の限界の中に留めておくことはできず、マザー・テレサが、どうしてあなたは、カルカッタの路上で死んでいく人々、貧困にあえぐ人々を助けるために人生をささげたのか、と問われたときに、「彼らの中にキリストの顔を見るからです」と答えたように、限界を超えていくのだとわかってきました。
最後に証を終えるにあたって、私の好きな聖句を挙げます。
「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」ローマ14:7
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 ローマ8:31、35、38-39
月報2009年9月号より
「主は私を造りかえてくださいました。…」
主は私を造りかえてくださいました。私にとって大きな「奇跡」を与えてくださいました。この「奇跡」は、聖書の中にも書かれているような、主がたびたび人々の間で行っておられたもの、また今のこの世の中でも起こりうる「奇跡」といわれているものとは違って、ある日ある時突然、というものではありませんが、私の場合はそれはそれは長い時間が必要でしたが、これも私にとっては「奇跡」と言えるものです。
私が洗礼を受けるまでの歩みを振り返るときに、「母」の存在が節目節目で大きな役割を果たしていたように思います。
日本で生活していた頃、私は教会との関わりは皆無でした。教会の建物の中に入ったことはありましたが、一度も礼拝に出席することはありませんでした。もちろん、聖書を読んでみたいとも思ったこともありません。でも、そんな中で、私の母は、クリスチャンではありませんでしたが、教会、讃美歌、聖書を良いものとして捕らえていたように思います。
このような私でしたが、この地、アメリカでは、違った者へと導かれていきました。ある時、クリスチャンであった私の知人から、教会の礼拝前の音楽サービスでバイオリンを弾いて一緒にお手伝いをしてもらえないかとの申し出がありました。バイオリンは、そもそも私の意志で習い始めた楽器ではなく、母の思い入れの強い楽器でした。そして、私はその申し出を引き受けました。そこで一年くらいはお手伝いをしていました。その期間はお義理で礼拝に出席していましたが、全く十字架の意味は理解していませんでした。
しかし、このような私でしたが、牧師さんのお説教なさっている姿に惹かれるものはありました。英語の苦手な私は、ジレンマを感じながらでも、何をお話ししているのかをしっかり知りたいという思いに駆られていきました。
そんなある日、別のクリスチャンの友人から、日本語で聞ける礼拝に来られませんか、というお誘いを受けました。お説教の中身に興味がありましたそのころの私は、すぐにお誘いを受け入れました。そこはピーター島田という牧師がしている礼拝でした。初めて出席した礼拝の終わりに、先生はおっしゃいました。「来週は、私が日本への伝道のために行く前の最後の週です。洗礼を望んでいらっしゃる方は是非申し出てください。」それを伺いながら、私にとってはまるで関係ない別世界のことと思っていました。
ところが、その週、不思議なことが起りました。日本から涙声で姉から電話をもらいました。母は、寝込むことこそしていませんでしたが、以前から、決して体の丈夫な方ではありませんでした。しかし、その時、病院に運び込まれて、診察したあとの医師の話で、あと半年持つか持たないかという弱った状況だとのことでした。それを聞いて、私は姉と共に電話口でただただ泣くばかりでした。
電話を切ったあと、私はこれまでにしたことのなかった祈りを、手を合わせて主に向かって真剣にささげました。涙を流した必死な思いの祈りでした。これが私の生まれて初めての主に向けた祈りでした。その時、頭をよぎる思いがありました。「私の思いを母に伝える架け橋になってくださるのは神様しかいない、私は洗礼を受けよう」。その時の私は、あきれるほど無知な者でした。洗礼の意味もわからず、聖書の中身も全く知りません。十字架の意味、人間の罪、悔い改めなども何も知りませんでした。もちろん、信仰告白もできません私でした。しかし、そのような私をピーター先生は快く引き受け、洗礼へと導いてくださいました。
洗礼式はそれはそれは一生忘れられないほど、私にとって感激的なものでした。一生分の涙を出したようにも思われました。その場で「神は愛なり」というお言葉も頂きました。感謝の念が体中に満ちました。それから間もなくして、不思議なことが起りました。母の状態が徐々に良くなり、回復に向かいました。そして退院できるまでになり、私のいるアメリカに来ることもできるようになりました。そして、おまけとして頂いた余生を2年くらい過ごすことができました。
このように洗礼に導かれたのでしたが、しかし、ここからがクリスチャン生活の厳しさを味わう時期でもありました。十字架の重み、御言葉に従う難しさ、祈ることの難しさ、主を仰ぐことの難しさ等が、次々に起ってくる私の人生の中での悩みが、まるで試験の中の難問への答えを生み出す時の苦しみのように耐えられないものでもありました。このような闘いの中でも、決して離れることのできない神の存在を、時には不思議に思ったりしていました。私が神を無視しようと思えば思うほど、私を離そうとしない神の愛を感じながら、まるでお米から良いお酒ができるように、主は長い長い時間をかけてゆっくりゆっくり発酵させて、私のくびきを負うために必要なものを、備え整えてくださいました。少しずつ霊の目が開かれていくような気もしていきました。成長へと導いて訓練してくださる目に見えない神の存在をまざまざと見せつけられたようでもありました。
そして、このような中で、牧師の口を通して語られる説教、聖書勉強、兄弟姉妹(※)との語らいの中で、十字架の意味、罪の赦し、恵み、御言葉のありがたさ、祈ることの大切さ、いつも感謝を忘れないでいることの大切さ、などの教えが深く深く心にしみこんでいくうちに、少しずつ少しずつ造りかえられていく自分があるという思いにかられました。今から思えば、すべての悩みが、私が造りかえられる貴重な機会であったと思います。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」 ヘブル12章11節
と同時に、私の心の中には、未だ曇りガラスのようにすっきりしていない思いもありました。あのような洗礼の受け方以外に私が洗礼を受ける機会はなかったのだろうか、何もわからないまま洗礼を受けて良かったのだろうか、という思いが、私を苦しめました。長い間、兄弟姉妹(※)の洗礼時の信仰告白を伺う度に、それが、信仰告白をしていない私を劣等感へと追いやるのでした。
そんな私に与えられたのがこの聖書の言葉です。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」
伝道の書3章1節
私はこの御言葉によって慰められ、私に合った時に私は洗礼を受けたのだという確信を持つことができました。
しかし、主はいろいろな出来事を通して、もっともっと私を強く訓練してくださいました。決して私の思いが主から離れなければ、主は私の道を備えてくださると。
私は元々マイナス思考の強い人間でした。それがプラス思考へと造りかえられていくのが自分でも強く感じます。もちろん、今の自分の姿が100パーセントプラス思考だというのではありませんが、御言葉の強いメッセージから与えられる慰め、励まし、戒め、愛を通じて、私は自分自身の殻を砕き、こだわりから解放されてプラス思考へと変えられていきました。まだまだその途上ですが、冒頭に書きましたように、このことが私に起った「奇跡」です。
私は、私の祈りが主に聞かれるという時は、私の信仰が主の御心にかなうものであれば、いつでもそのようになる、という思いに立たされています。私の信仰は「ウサギとカメ」の話の中のカメでありたいと常日頃思っています。到達点までの道のりを焦らずに大いに楽しんで、悩んで、独りよがりにならず、常に主にお伺いして、いつでも人に対して、喜んで差し上げる愛を与えられる人間でありたいと願っています。
まだまだ信仰に対して未熟者ですが、主にあって自分がいるんだという思いに感謝します。
※教会ではキリストにあってわたしたちは家族なのだという思いで互いのことを「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります。
月報2009年8月号より
「小さい頃の私はとても怖がりで、…」
小さい頃の私はとても怖がりで、寝ている間に地震・雷・火事が起こらないよう、また泥棒も入らないようにと、“かみさま”(この頃はまだ聖書の示す唯一の神様のことを知らなかったのですが)にお願いをして、どこで覚えたのかわかりませんが、地震の分10回、雷の分10回、火事の分10回、泥棒の分10回、と数えながら胸の前で十字を切ってから眠りについていました。小学校4年生の時、同じクラスの友達に誘われて教会学校に通い始め、そこで教えられた神様を何の疑いもなく信じるようになり、夜寝る前のお祈りも自分で考え出した方法から、教会学校で教えられた神様へのお祈りに自然に変わっていきました。教会学校では、聖書の言葉とイラストが入った小さなカードをご褒美としてもらうのを楽しみに、毎週欠かさず暗唱聖句をしていましたが、その聖書の言葉の意味はほとんど理解していなかったと思います。それでも自分を愛し守ってくださる神様がいらっしゃるということだけは確かに信じていました。
その神様が私を罪の刑罰から救うためにイエス様を身代わりとして十字架につけられたことを心から信じたのは、中学生のために持たれた夏休みのバイブルキャンプに参加した中学2年生の時でした。自分が罪人であることを聖書を通して示され、その罪の刑罰から救うために、私の身代わりとなって十字架で苦しみを受けられたイエス様を自分の救い主として受け入れました。
幼い頃から心の中に蒔かれた信仰の種は、それからしばらくは純粋に神様の望まれるように生きたいという思いを与えられ、何の障害もなく育てられて行きましたが、次第にいくつかの問題にぶつかっていくようになりました。野球が大好きだった私は、高校で野球部のマネージャーとしてはりきっていましたが、春から秋まではほとんど毎週日曜日に試合があり、礼拝に出席できない日が多くなっていきました。礼拝をしばらく休むと教会に行きづらくなり、試合のない日でも礼拝に行かない時がありました。教会の高校生会の先生から礼拝に出席するようにと電話がかかってきますし、何よりも神様が私に望んでおられることはわかっているのですが、言われれば言われる程、それをうっとうしく思うようになり、不遜にも「私のことはもう放っておいてください。愛してくださらなくて結構です。」と思うようにまでなりました。それでも教会の先生や友達からの連絡は続き、心の中で色々な葛藤を覚えながら聖書を読んでいたある日、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)という御言葉を読んだ時に、神様の愛にギブアップせざるを得ませんでした。なぜか心が素直になり、神様が賜物(プレゼント)としてくださるものを黙って受け取ろうと思いました。
その後、できる限り教会に行くようになり、しばらくして洗礼を受ける決心を促されました。当時一緒に暮らしていた祖母がとても熱心な仏教徒でしたし、日常の生活の中で多くのことが当たり前のように仏教のしきたりで行われていた7人家族の中で、高校生の私がただ一人のクリスチャンとしていくつかの問題にぶつかることは容易に予想できましたし、とてもそのことを戦い抜く勇気がありませんでした。祈りつつも、「自信がありません。」と告げると、教会の先生は「クリスチャンとして完全になったから洗礼を受けるのではなく、イエス様を自分の救い主として信じ、神様から助けをいただきながら、神様とともに歩んでいく決心を表すことが洗礼を受けるということなのです。本当に神様に頼って生きるなら必要な助けは与えられます。」と教えてくださり、洗礼を受ける決心をしました。
洗礼を受けるまでも、また受けた後でさえも、捨てきれない自我やプライド、その裏返しのコンプレックスに苦しんだ時期が多くありましたが、ありのままの私を「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)と言ってくださる神様の愛により、また、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。」(第2コリント12章9節)の御言葉により、小さく弱い自分を受け入れることができるように変えられました。また自分の思い通りに事が進まないと気がすまなかったのですが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主のみ告げ。-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8~9節)と言われる神様に全てを委ねることができるようになり、平安が与えられるようになりました。
こどもの頃、教会学校でよく歌っていた賛美歌の中に「やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは何たる恵みでしょう。」という歌詞があります。小学生の時に教会学校に通い始めた頃から主の手に引かれてここまで導かれてきたことを心から感謝します。今までもこれからも変わらず愛し導いてくださる神様を信じて、平安の中に歩み続けたいと願っています。
月報2009年7月号より
「私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、…」
私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、毎日慌ただしい生活を何年も過ごしていました。そんなある日(2008年8月)突然の母からの電話でした。その頃私は、すべてがうまく順調に行っているかのような生活(もちろん、悩み・問題は山ほどありましたが。)でしたので、父の事は、穏やかな海に突然襲う災害の様でした。私は娘たちを主人と義母に頼んで、すぐに帰国しました。ICU(集中治療室)に寝ている父は、幾つもの管が頭や体を通り、顔や体中は膨れ上がり、すっかり変わり果てていました。そしてその父の膨れ上がった手をしっかりと握りしめ、このまま父を失ってしまうのではないかという不安と恐れでいっぱいの母や兄妹と父に、この様な状況ではありましたが、会うことができたことを、忘れていたはずの神様に少しだけ心を向け、感謝しました。今まで長い間、神様を無視し、周りにあるこの世のものに満足し、自分の物事がうまく行かない時、ちょっと苦しいなぁと思う時、自分が必要な時だけの神様でした。アメリカに帰って、短かった2週間の滞在を振り返って、この様な悲しい状況ではありましたが、約5年ぶりに父や家族に会えたこと、そして家族をはじめ、周りの皆が人生の中で何かしら問題を抱え、心を痛め、悩み苦しみ、その解決が見つからず、他人には関係ないことだと一人で我慢して苦しんでいること、自分がその場に接した時に、自分の力ではどうしようもなく、何もできないものであること、そして、道行く人々の生活は慌ただしく、外面的な必要は満たされても、自分中心の自分勝手な悲しい生き方だなぁと思いました。まさにその姿は、私自身の姿なのでした。
「 顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」箴言27章19節
そして、病院に入れ替わり立ち代わり来る多くの人たちを見て、一人ひとりが何らかの理由を持ってこの病院に訪れていること、患者さんやその家族たちの信頼に懸命に働くお医者さんや看護師さん達、その背後で働かれている多くの人達、温かく見守る患者の家族達や見舞い客の人達、また中には、見舞いの来ない一人ぼっちの寂しそうな患者さんたちを見て、そこに来る一人ひとりが弱い人達(患者さんや病の人を持った家族に人達)の立場に親身に寄り添って人を思いやり、支え、慰め、励まし合う愛がそこに一番にあったこと、そしてその愛は、私が背を向けて無視していた神の愛なのでした。
「 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」 ヨハネの手紙第1 3章17~18節
「 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」 ヨハネの手紙第1 3章23節
自分がいかに自分中心の身勝手な生活をしていたか、今まで周りを見る余裕もないほどに、自分は・・、自分が・・、自分の・・、自分に・・、の毎日だっただろうか。そして私はもう大丈夫なんだと高慢になり、人を見下げ、人を思いやることなど米粒一つほどもない情けない者でありました。
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」 ルカの福音書23章34節
と言われたイエス様が、十字架の上で、私の罪のために身代わりとなって死なれ、その流されたあがないの血によって、信じ、救われた恵みに感謝しました。
1994年4月には、恵みによって受洗に与り、神様があふれんばかりの恵みを与えてくださり、内側からの本当の喜びに満ち溢れていました。しかし、数え切れない恵みもいつの日か自分だけのもの、そしていつの日か神様の存在さえ忘れていました。その神様をどんなにか長く悲しませていただろうかと心の目が開かれ、その愛に埋もれ、立つことすらできず、子供の様に泣きじゃくり(迷子の子がやっとお母さんに会えて抱かれて安心して泣いているかの様に)悔い改めました。顔を上げると窓一面にどこまでも広がる青い空が眩しい位輝いていて、吸い込まれるように見上げていると、月報の表紙にあったあの御言葉が心いっぱいに広がるのでした。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 詩篇46篇10節 (2008年御言葉)
わたしはここにいる。お前がいかに小さく弱いものであり、無力であるかを知れ、と、それは大変深く、大変重く、大変力強い語りの様な響きの様なささやきの声でありました。神様の目から見る私は、本当に小さな者であり、完全に弱く、無力である自分であることを認めずにはおられず、教え、知らされました。
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」 伝道者の書 3章14節
どんな時にも決して変わらない愛で、こんな私をも愛し続けてくださっていた神様。また、あわれみ深い神様はすでにこの愛の教会をも備えてくださっていたこと、その背後にはイエス様が粘り強い忍耐を持ってこんな私のためにとりなしていてくださっていたこと、そして教会の愛する先生、愛する多くの兄弟姉妹達がずっと祈り、支え続けていてくださったことに心より感謝致します。
「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」 ヨハネの福音書 10章3~4節
毎週礼拝で先生を通して正しく、大胆に御言葉が語られ、その命の御言葉をいただき、いつも私の助けとなり、力となり、生きているのではなく、生かされていることに感謝致します。
「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」 ヨハネの福音書 6章33節
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」 ヨハネの福音書6章35節
自分一人でクリスチャンであること、教会を離れてクリスチャンであることはとても難しいことであり、神の家族の一員として常に主が共にいてくださっているこの愛の教会で、
お互いに温かさと光を分かち合い、また、こんな私を覚えていてくださり、祈っていただいて、今は色々な事情でお休みしている愛する兄弟姉妹の皆様方を覚え、お祈りさせていただき、共に分かち合い、共に神様を礼拝することができます様に。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 コリント人への第1の手紙 12章27節
これからもイエス様の十字架の愛を覚え、これからも共にイエス様のことを少しでも多くの人々に伝え、神様が私たちのためにしてくださったすべてのことを人々に分かち合うことができますように、共に神様の御心に生きて従う小さな器として用いていただき、仕える者とさせていただきたいと日々、そのようなものに新しく変えられ、主に喜ばれる正しい歩みができます様に続けてお祈りください。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」 ローマ人への手紙 10章14節
月報2009年6月号より
「先月号の月報に掲載された…」
先月号の月報に掲載された住田美香姉(※)のお証しを私が最初に聞いたのは、3月のレント集会の場所でした。お証を伺いながら、「ずいぶん昔、私にも似たようなことがあったなぁ。」と、様々なことを思い巡らしていました。神様は美香姉の証しを通して、私に忘れかけていたことを思い出させ、神様がどのように私の人生に介入して下さったかを改めて確認させて下さったのです。
美香姉と同じような経験をしたと言いますのは、私にもどうしても入りたい高校があったということです。その学校でなければ駄目だと思っていました。とても仲の良かった友人も同じ高校を志望しており、入りたい部活も同じだったことから、高校生になった時の自分達の姿を想像しては将来のことについて二人でいつも語り合っていました。学校の先生からも塾の先生からも「絶対に大丈夫」という太鼓判をもらっており、自分でもそう信じていました。しかし、試験当日は、どの教科のテストを受けていても手応えがあまりないのです。「あれ?どうして?こんなハズじゃないのに、、、」と思うような問題が少しずつありました。自信のある教科でもそうでした。「え?もしかしたら、私、駄目かもしれない?!」というような思いが何度も頭の中をよぎり、焦りを感じながら問題を解いていたことを今でも鮮明に覚えています。試験が終わり、合格発表の日までの間、私は真剣に祈りました。「神様、絶対にあの学校でなければいけないんです。今まで私は一生懸命がんばってきました。どうぞ、この努力に報いて下さい。合格して神様の栄光をあらわして下さい。」と、何とも自分勝手な都合の良い祈りだったでしょうか。祈りながら、「やはり不合格なのでは?」という思いが湧いてきて、それを打ち消すかのように、ガチガチになりながら何度も何度も同じ祈りを繰り返していたように思えます。それは、とても苦しい祈りでした。しかし、ある瞬間から「やるべきことはやりましたから、あとは神様にお任せします。どのような結果が出たとしても、それが神様の御心だと思えるようにして下さい。」という祈りに変えられ、それからは一気に気持ちが楽になったのです。そして合格発表の日、私は親友と共にその高校へ向かいました。私の中には相変わらず、「もしかしたら駄目かもしれない。」という思いはありましたが、心は平安でした。その思いは見事に的中し、合格掲示板には私の受験番号は見つかりませんでした。しかし、それがわかった瞬間、不思議なように解放感と爽快感が与えられ、「あの(滑り止めで受けていた)高校へ行くのだ。」という前向きな思いに早々と切り替わっていました。そのように思えるように、神様が私の心を守って下さったことを感謝しました。一緒にいた親友は合格していたのですが、「同じ学校に行けない。」と言って泣き出し、私が友人を慰めるという始末でした。親に報告の電話をかけた時も、落ち着いていたように思います。その日の夜、中学の担任の先生から電話をいただきましたが、試験の結果に先生もショックを受けているようでした。その時の15歳の私なりに感じたことは、「人間が言う“絶対”というものは無いのだ。自分の力、人間の力というのは、いかに小さく当てにならないものなのか。神様に委ねることは難しいけれど、委ねた時に神様は平安を与え道を開いて下さる。」ということでした。私が入学した高校は、ミッションスクールの女子校で、のんびりとした校風でした。友人にも先輩にも恵まれ、やりたかった部活動にも熱中し、充実した高校生活を送ることができたのは、やはり神様が私をそこへ導いて下さったのだと思わされます。
さて、大学受験ですが、先にも言ったように、私の入学した高校はのんびりとした校風で、“受験戦争”などというような雰囲気を殆ど感じさせない学校でした。そんな中で過ごした私は、自分の実力を知っていましたし、でも妥協はしたくないという思いもありましたので、初めから現役での合格は狙っておらず、高校卒業後は予備校へ行くつもりにしていました。今はどうかわかりませんが、あの頃は「予備校に行くのは当たり前」みたいな風潮があったのです。予備校生活は本当に楽しく充実したものでした。各地の高校から集まった今まで会ったことのないような様々なタイプの人達、2浪または3浪している先輩達は経験豊かでとても大人に見えました。あっという間にたくさんの友人ができ、多くのことを語り合い、とても良い刺激を受けました。講師の先生方の講義も興味深く、学ぶことは山ほどありました。信仰の面でも、本当の救いの喜びがわかり、クリスチャンの友人が与えられ、燃やされました。たくさんの友人を教会に誘いましたし、水曜日の夜の祈祷会も欠かすことがありませんでした。ところが、私の心の中には大きな問題があったのです。それは、自尊心・プライドの高さ、価値観の貧しさです。確かに学びたいこと、入りたい学部はありました。しかし、私にとって、大学で何を勉強するかよりも、有名大学へ行くことの方が大切だったように思われます。有名大学に入れないのならば行く意味がない、東京の有名大学だけしか受験したくないと思っていました。結果を言いますと、私は予備校生活を2年間送り、東京の有名大学だけを受験し、そして見事に全敗しました。あれだけ受けたのですから、一つくらい受かっても良さそうなものですが、どの大学からも合格通知は届きませんでした。「大丈夫だろう」と思っていた大学にも受かることができませんでした。そうして、アメリカの大学に進むことになったのです。アメリカへは中学2年生の夏休みにホームステイで来たことがあり、「いつかまたアメリカへ行きたい。大学を休学してアメリカの大学に留学するか、大学を卒業してからアメリカで勉強してみたい。」などと、漠然には考えていましたが、その時の私はどうしても東京へ行きたい、日本にいたいという思いがありましたので、すぐに日本を離れるということは全く考えられませんでした。しかし、神様は私のプライドをガタガタに崩し、私に恥をかかせ、そして日本では行く場所がないというところに追い込むという方法をとって、私をアメリカに送りました。そのようなことがなければ、日本を離れる決心は到底つかなかったでしょう。
あの挫折を経験してから早いもので21年が経ちましたが、いま思えることは、もしもあの時日本の大学に行っていたならば、たとえクリスチャンであったとしても、自分の価値観はどのようなものになっていただろうか?どのような人生を送っていただろうか?ということです。私は最近まで自分の学歴にコンプレックスを持ち、日本の受験に失敗した結果アメリカの大学へ入ったことを人に話すことをしませんでした。けれど、今は違います。確かにあの時、神様が働かれ、このアメリカに導いて下さった。神様は私の人生に計画を持っておられる、ということを確信できるようになったからです。私をアメリカに送り出して下さった神様は、私をこの地へ導き、更にはこの教会へも導き、そして仕事も家族も生活の基盤も与えて下さいました。これから先、神様が私を、また私の家族をどのように導かれるのかわかりませんが、今までもそうであったように、この聖書の御言葉を心に留めて神様に委ねて行きたいと思います。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)
まだまだ自尊心が強く、足りない者ではありますが、最近経験したこと、職場における出来事、与えられた聖書箇所、勉強会での学び、礼拝のメッセージなどを通して、いかに自分が傲慢であるということ、砕かれなければならない存在であるということを改めて示されています。神の子であられるイエス様が、弱く小さな赤ん坊の姿をとって貧しい馬小屋でお生まれになられたように、自分を低くし仕える者とさせて頂きたいと心から願い祈らされています。
※教会では、互いにキリストにあって兄弟姉妹という意味で、男性なら~兄、女性なら~姉という呼び方をするときがあります。
月報2009年5月号より
「3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生の…」
3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生のメッセージの中で語られた「私達はいつ神様に頼ることができるのだろうか」という言葉が心に残りました。その後の中高科のクラスでの分かち合いの時にも、「神様に信頼することの難しさ」を感じました。
私は小さい頃から母と妹とこの教会に通っているので、私にとって神様とイエス様の存在は「なんとなく」当たり前と言うか、いつも存在している、神様のいない世界は考えられないくらいです。でもそれだからと言って、神様に頼るということは簡単ではありません。やはり小さな頃は感情的にだけ神様を信じていて、知識的に信じていないところがあったと思います。ファミリーキャンプの中高科の集会の時にある先生から、「感情だけで信じていると、何かの時にそれが崩れてしまう。頭でも神様を信じていないと、どこかでこけてしまう」という話を聞きました。強い信仰を持つためには、知識も持っていないといけない。それは何故かと言うと、私達の感情はいつも変化しているし、感情は何にでも変わってしまうから、感情ではなくて知識を土台にしないと、本当に神様に信頼することができないということです。
私なりの考え方はこんな感じです。私達は皆「重力」を信じています。今ここでボールを持ってテーブルの上に放すとそのボールは落ちてしまうから、それを見て「ああ、重力は本当にあるんだな」と信じている。けれど、何故そうなるのかは学校で重力について勉強しないとわからないし、物理を勉強して地球と太陽の関係を学んで重力の法則を理解することができて、それで初めて確信をもって「このボールは落ちるんだな」と信じることができるのです。
でもそれとは違って、知識的に神様を信じるということは、やはり難しいことだと思います。学校では理科の時間に「進化論」のような非聖書的なことも習っているし、友達と宗教について話をすると異なった考えの人もいて、自分の中でもどこかで説明できていないところがあるとフラストレーションを感じていました。ファミリーキャンプの先生から、「旧約聖書の中には、キリストの誕生から復活までとても多くの預言が書かれているけれど、それを一つ一つ読んでみるとどれも本当にキリストにあてはまっている」と言われました。確かにすべての預言は無視することのできないほどの多くの証拠となっていることに気づいて、それによって私はキリストを確信することができたんだなと思います。私をこのように導いてくれたキャンプの先生にとても感謝しています。
神様に頼るということは本当に難しいことだと思います。錦織先生もメッセージで何度も話してくださいますが、トラブルや思い煩いだけではなくすべてを神様にお捧げしなければだめだし、自分の夢や希望、計画もすべて捨てて神様に頼るということは、私にとって難しくてとても怖いことに思えたからです。
私はあと3ヶ月で高校を卒業します。振り返るとこの4年間は私にとってとても楽しい4年間でした。多くの友達に出会えたし、いろいろなクラスでたくさん勉強することができたし、いい経験もたくさんしました。しかし、実は私は8年生の時、今通っている高校には絶対進学したくないと思っていました。Bergen Academyという学校がとても気に入っていて、それ以外の学校には行きたくありませんでした。入学試験があって私は筆記試験は合格しましたが、その後の面接と楽器演奏のオーディションで落ちてしまいました。学校の先生や友達からも「美香なら入れるよ」と言われたりしていたこともあって、不合格となった時はとてもショックで、「神様、どうして?なんで?」としか思えませんでした。そして不本意ながら、町の公立高校へ進学することになりました。
今になって振り返ってみると、Bergen Academyに進学していたらそれなりに高校生活を楽しんでいたと思うけれど、Pascack Hills(通っている高校)で経験できたようなことを得ることはなかったのではないかと思います。Pascack Hillsは公立高校だからいろいろな人達がいます。いい人もいれば、ドラッグをやっているような生徒もいます。様々な違った考えを持った人達にたくさん出会えたことがPascack Hillsでのすばらしい経験のひとつです。4年間すばらしい先生の指導の下でコンサートバンドのメンバーとして演奏することができ、また今年はマーチングバンドの指揮者になったり、リンカーンセンターのユースコンサートでの演奏と大好きな音楽でもすばらしい経験ができました。8年生の頃の私にはこんなすばらしい4年間が待っているなどとは当然予想することはできなかったし、たとえできていたとしても、自分が思い描いていたのと違う学校に進学するということに納得できていなかったと思います。今になって考えると、あの時の私は神様のことを聞いていなかったし、神様を信頼することができていなかったと思います。自分で自分の将来を決めようとしていたのだと思います。
去年の夏、6週間の数学キャンプに参加しましたが、その2週目の時、「私はそんなに数学できてなかったんだ。数学ってこんなに難しかったのか」と心細くなった私は、友達が与えてくれた御言葉にすごく励まされました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3章11節)
今、私はどの大学に進学するかという大きな選択をしなくてはなりません。「あそこに行ったらこういうことをしよう」と計画を立てるのが好きな私には、神様にゆだねるということはとても難しいことに思えます。たくさんある夢や計画をすべて神様にゆだねるのはやっぱり怖いです。しかし、8年生の時、私は自分の望んでいたのとは違った道に進むことになったけれど、それは神様が私に与えてくれた道であって、その道を進んだことによってとてもすばらしいことがたくさんあったし、後になってみるとそれは美しいということがわかります。そして、その経験によって現在のこういう自分が在るのだと思います。今、私はそのことを神様に感謝しています。この経験があるので、進学する大学を決める時も8年生の時のように「絶対この大学」とは考えずに、神様にゆだねて、神の導きを信じて進んでいきたいと思っています。
月報2009年4月号より