私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。

私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。そして、いつもそのことについて考えていました。例えば、「この世のものはどのように造られたのか」とか、「人生ってなんだろうとか」。自分の五感について考えることも好きでした。そして、人間の体の一つ一つの部分がどのように働いているのかを考えて、感動していました。ある時、車の中で、窓の外を見ながら、「神様はどうして私を造られたんだろう?」「どうやって、私を造られたんだろう?」「生きていること以上に人生にはなにか意味があるんだろうか?」そんなことを考えていました。今、考えてみても、そんな小さい時に、深いことを考えていたんだなあ、と驚きます。でも、私がそんなにたくさん疑問を持っていたからこそ、私は幼い時に、この世界がどのように造られたかとか、天国と地獄のこととか、聖書から答えをもらって、信仰を見出すことができたんだなあと思います。私は9歳の時に洗礼を受けました。そして、私の信仰がどれほど強かったかと思い出します。神様についてもっと知りたいと思っていました。そして、もっと神様と共に歩みたいと思っていました。それによって、この世について、もっと多くのことを知り、もっと納得できると思ったのです。

でも、中学生になった時に、世の中を知っていく中で、それがどれほど壊れて、どんなにひどいものかを見ることによって、混乱してきました。この時点では、私の疑問は「どうして、神様はこんなにひどいことが起こることを許されているんだろうか?神様は良い方だと思っていたのに。」ということでした。私は神様との関係を持っていませんでした。ただ、心の中のちょっとだけの信仰が、私に神様は良いお方だと教えていました。私は神様が本当にいてくださることを知っていました。そして、神様は良いお方だと知っていました。ただ、その理由は何も知りませんでした。ただ、私は全て知っているということだけで信じていたのです。

高校生になって、私はキリストとの関係を「従ったら報われる」という考えで受け取るようになっていきました。良い人間になって、神を喜ばせようと思ったのです。もしも、私が悪いことをしたり、罪を犯したりしてしまったら、神は私の人生にどんなことを与えるだろうか、と恐れ、自分が良い人間ならば、神が私を愛して私が欲しいものをくださると思って、自分を律するようになったのです。ですから、私が大学進学について、願っていたような結果が出なかった時は「神様、私への報いはどこにあるんですか?」「私は勉強も一生懸命やったし、他のことだって頑張りました。どうして、あなたは私が夢見ていたものを与えてくれないのですか?」また、たくさんの友達が引っ越して行ってしまった時にも、私は神様を憎みました。「神さま、あなたは私に素敵な友達を与えてくれました。でもそれは一瞬だけ。すぐに取り上げてしまうんですね!私は何か悪いことをしましたか?」物事が私の考えたように進まないことで、私は神様にイライラするようになっていきました。私の祈りは自分勝手な、反抗的なものになっていきました。自分が欲しいものが与えられない時には、どれだけ自分は惨めかと神を非難するものになっていきました。この世の中には意味はないと思うようになり、もう聖書も納得できるものではなくなってしまいました。このひどく混乱した世界を憎みました。この世界がこうなった理由を答えてくれていたはずの聖書は、もう何も答えを与えてくれないと思いました。生活はうまく行っていました。でも、私の信仰はもうほとんどないも等しいものになってしまっていました。神様から離れて、神様と共に歩む人生には意味がないように思っていました。

そして、大学に進みました。そこで「YoungLife」という働きを知りました。しかし、それに関わろうとは思っていませんでした。「私神を知っている。もう私が知っていることについて教えてくれるプログラムなんて私には必要ない」と。しかし、神は私の心を動かしてくださって、私を「YoungLife」のキャンプに導いてくださいました。そのキャンプで、メッセンジャーが4歳の娘との関係を話してくれました。彼は、誕生日のサプライズで娘をディズニーのアイスショーに連れて行ったそうです。綺麗な洋服を着せて、何時間も運転をして、ばか高いポップコーンを買って・・・。ショーを見ている時に、彼は娘の耳元でささやきました。「パパの気持ちわかる?・・・パパはお前を愛しているよ!」と。そうしたら、娘がささやき返しました。「私の気持ちもわかる?・・・もっとポップコーンちょうだい!」

この話は、まさにここ10年間の私と神様との関係を表していました。神は何度も私の人生で神様からの祝福をもって「私はあなたを愛しているよ」と語ってくだいました。私が祈ったのは、物事が願ったように行かなかった時だけでした。神様は、人生の中のいろんな出来事を通して、自然界を通して、人々を通して、そして、特に聖書を通して、私に何千回も「私はあなたを愛しているよ」と言ってこられたのに、私はそれを無視してきたのでした。私は神の愛の力も深さもわかっていなかったので、聖書のことを理解できないでいたのでした。その夜、集会の後、私は外に出て、夜空の星の下、祈りました。人生で初めて、ひざまずいて神に泣いて祈りました。久しぶりに心からの祈りを神にささげました。その夜、神は私の耳にささやかれました。「私はあなたを愛しているよ・・・あなたは、この世と共に歩むか、私と共に歩むか、選ぶことができるよ」と。

神と共に歩むのを選ぶことは、私が自分が願ったものとは違った生き方をすることです。しかし、神様のために生きることの方がいいことはわかっています。それは、この世を救ってくださった方に仕えることなのですから。そして、神様の愛を知って、それを他の人々に分かち合っていくことよりも大きな喜びはありません。人はみんな、誰かが自分を愛してくれている、ということを聞きたいものです。そして、私たちは壊れてしまったこの世界の中のものの中に愛を探しています。この世界はイエスを知らないが故に、壊れてしまっているのです。イエスが私を愛してくださっているが故に、私はイエスを愛しています。そして、イエスが私を愛してくださった愛で、この愛を伝えていきたいのです。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(第一ヨハネ4:19)

人々にとって、自分や他人が「宗教」に従うことや、戒めを守ることが大切です。私もそうでした。しかし、イエスは人々をさばくよりも愛してくださったのです。そして、人の心を知っておられるのは神だけです。ですから、私もイエスが人々を愛したよう愛するのです。聖書は規則や戒めについて書いている本ではなくて、愛についての本であり、本当の愛から生まれたものについての本なのです。

私は神に従って戒めを守っていれば、神は私に報いてくださるのだと勝手に思っていました。しかし、今は、神は良いお方だから、神の栄光のために生きたいと思っています。そして、神抜きでは私には何もありません。今、私は人生を神様にささげて、人生の全てを通して神を見ています。神様は私を変えてくださったように、人々を変えてくださいます。神様は、神様が良いお方であることを表す機会を私に与えてくださっています。与え続けてくださっています。神様の全能の力は語り尽くせません。私の信仰はまだまだ小さいです。しかし、神様が私の人生や周りの人々の人生にどんなことをしてくださるのか、楽しみです。ここまでの人生の中で、世界にはどんな意味があるのか、それを求めてきました。そして、今、自信を持っていうことができます。あなたが神に人生を明け渡す時に、その意味が見えてくるということを。

ガラテヤ2:20
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

「私はクリスチャンです。」

私が一日で一番好きな時間は、夜寝る前の数分間です。体を横たえ、枕に頭を沈めて目を閉じると、ふわっと疲れが取れていきます。すると、頭の中をいつも同じ歌がめぐります。「今日も一日、主から受けし多くの恵み・・・たたえても讃えても、たたえ尽くせない♪」。

感謝できることを数えて一日を終えるのは、心安らぐひとときです。良いことがあったから感謝する。願い事がかなったら感謝する。ではなくて、感謝できることは日々たくさんあります。眠る場所がある。朝から無事に過ごせた。家族がいる。小さいことから大きいことまで、探せば溢れるほど出てきます。毎日、同じことでもいい。それだって、取り去られてみると、どれ程、ありがたいことだったかと思うものです。

私にとって一番感謝すべきことは、クリスチャンとして歩ませていただいていることです。信仰がなければ、独りよがりな生き方をしていたでしょう。信仰がなければ、迷ってばかりで心休まらず、何かを選んだとしても後から悔いる人生を送っていたことでしょう。世の中の不条理をなげき、不平不満をいつも抱いていたかもしれません。

私がクリスチャンになったのは、アメリカに来て5年目の冬のことです。かれこれ25年以上も前になります。それまでは、宗教とは全く無縁の生活。仏壇も神棚もない家に生まれ育ち、興味も持たないまま成長しました。そんな私に何が起こったか。今、思い返すと本当に不思議です。

当時、私は学生でした。冬休みに一時帰国する日本人の知人がいて、その人のアパートに寝泊まりして猫を世話することになりました。寒い冬。休みで退屈な毎日。アパートにこもりきりになって、部屋にある日本語の本を読み漁りました。文学専攻だった知人は数多くの本を持っていて、日本の書籍は値段が高くで買えなかった私は、この時とばかり片っ端から読んでいきました。

その中でひときわ心に残った本が一冊ありました。女流作家、三浦綾子さんが西村久蔵という人の生涯を描いた本でした。北海道に暮らし、十代のころクリスチャンとなり、のちに洋菓子店を創業した主人公は、事業に失敗したり裏切りにあっても、人を憎まず神を恨まず、人と神を信じ続けたのです。しかし私を圧倒したのは、愛娘を亡くしてもなお、神様への信仰を捨てないでいる姿でした。事業は失敗しても建て直せる。金銭は失っても取り戻せる。でも、いったん死んでしまった人間は生き返らない。戻ってこない。もう会えない。それなのに、どうして、この人はまだ神様を恨まずにいられるのだろう。神様に背を向けずにいられるのだろう。何が、この人を支えているのだろう。その日から、私の神様探しが始まりました。

ほどなく、近くの神学校に通う日本人留学生と知り合いになり、聖書の学びがスタートしました。他州から月に一度きてくださる日本人の牧師先生の聖書メッセージを聞きに出かけることもありました。読めば読むほど難解な聖書。湧き上がる疑問の数々。とくに、聖書に出てくる数多の奇跡はキリスト教を私から遠ざけました。死んだ人が生き返るなんてあり得ない。十字架にかかって墓に葬られ、3日後に蘇ったとされるイエス・キリストは架空の人物としか思えない。非科学的で非常識な考えと決めつけ、到底受け入れることはできませんでした。

もうひとつ、私がひっかかっていたのはクリスチャンの捧げる祈りでした。なにかあると「祈りましょう」、事あるごとに「祈っています」。聞くたびに、心の中がもやもやっとしました。「棚からぼた餅」ではないけれど、苦労しないで好運を得ようと願っているような、他人にたよって物事を成そうとする「他力本願」のような、虫のいい態度に見えました。

それがある日、聖書に出てくる何百歳まで生きたという人々の年齢を「あり得る」と思えた瞬間から、「聖書に書いてあることは全て真実」と信じられるようになりました。オセロゲームで黒いコマを一つひっくり返すと、パタパタパタ、、、とあっという間に白いコマが広がっていくように、小さな“真実”を認めた瞬間、私の聖書観は一転しました。イエス・キリストは実在した。聖いお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかかられた。人はみな生まれながら罪がある。キリストの死によって人間は神様との関係を回復できた。キリストは復活して今も生きておられる。そのお方を信じると永遠のいのちを受け、クリスチャンとして歩みだせる。

あれから四半世紀。人生の半分以上をクリスチャンとして歩むうちに、祈りは呼吸となり、祈りはわたしの命綱となりました。祈りは決して、神様に「おんぶに抱っこ」する行為ではありません。私は祈りを、例えて言うなら「人事を尽くして天命を待つ」ことだと考えます。人にはそれぞれ与えられた仕事があります。一人ひとり違い、その時々で変わります。小さいころは遊ぶのも仕事、学校に上がれば勉強が大切、就職したら責任をもって仕事に打ち込む。結婚したら女性は妻になり、出産すれば母親となる。どの段階においても、すべきこと、大切なことがあります。神様が授けてくださっている自分のお役目をきちんと果たした上で、あとはお任せする。全幅の信頼を寄せてお預けするのが祈りの真髄だと思っています。

私の好きな詩に「ニーバーの祈り」があります。

「神よ、変えられないものを静かに受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変えていく勇気を、
そして、この2つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」

祈ったあとは安心して先行きを静観できるのです。静観どころか、神様のしてくださることを想ってワクワクします。神様は最高・最良のものを最善の時に下さると知っているからです。

先日、市民権を取るための手続きを始めました。順調にいけば来年6月にはアメリカ市民になれるそうです。迷うことも気負うこともなく、すうっと始めた手続き。神様が用意してくださっている道なら次々と扉が開かれていくし、そうでなければ不思議と閉じられる。一歩踏み出すのは自分の仕事だけれど、あとは神様にお任せ。ひとたびお任せすると、あとはどっしり腰を据えていられます。むしろ、「この時期に市民権を取ることになったのは、どうしてだろう。」「この先に神様がなにを用意してくださっているのだろう。」先のことを楽しみにしながら次の段階を待っています。

市民権がとれたら、自分が何者であるかを表す言葉がひとつ増えます。アメリカ国籍を取得した日本人。日本は二重国籍を認めていないそうなので、私の日本国籍は事実上なくなります。そういえば、市民権の申請用紙に名前変更の欄がありました。おもに、結婚や離婚で苗字が変わる人のため欄だと思うのですが、一瞬どきっとしました。かつてアメリカに移民してきたユダヤ人の方々が、その出自を隠すために名前や苗字をアメリカ風に変えたと聞いたことがあります。ここで名前を変更したら、なんだか自分がまったく別人になるように感じられました。その時、私には決して取り去られることのないアイデンティティがあると強く意識しました。それは「私はクリスチャンです。」ということ。それは、私が今もこれから先も、一番大切にしたいアイデンティティです。

牧師室より2019年11月「どこに焦点をあてて生きるか?」

「自分も!」と共感してくださる皆さんがたくさんいることを信じて書くのですが、私はよく物を探します。出かけ間際には、お出かけ3点セット(財布、携帯、鍵)をしょっちゅう探して、歩き回っているので、家族には呆れられています。どうしようかとずっと悩んでいたのですが、何ヶ月か前に、この問題を解決しようと、携帯から呼び出せるタグを鍵と財布につけました。反対に携帯が見つからない時には、何とタグの方から携帯を呼び出せる「スグレモノ」です。これで、合計何時間もの時間が節約できています。でも、なぜか、何度も探したところや、自分の立っている目の前でタグが鳴ったりするんですね。不思議なものです。

でも、見えているのに見ていない、ということでしょうか?目には入っているのに、焦点が合っていないということでしょうか?人間はそのようにできているのだと思います。考えてみると耳もそうですよね。目の前の人の声よりも、遠くで自分の噂をされている声の方がよく聞こえるものです。どこに焦点を合わせるかによって、見えるもの、聞こえるものが変わってきます。

私たちの心もそうです。どこに焦点を合わせるかで、感じることが変わってきますし、心の状態も変わってきます。聖書はこのように語っています。

「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ人への手紙 4章8節

私も「もう11月になるなあ、サンクスギビングがやってくるけれど、何を感謝しようかなあ」と感謝すべきことに目を向けた時に、「あ、そういえば、あんなことがあった」「こんなことがあった」といろんなことを思い出してきました。残念なことに、それは自然にはなかなかできないことです。つい、納得いかないことや、困ったこと、がっかりすることや、心配なことに心が向いて、それに心が支配されてしまうものです。そんな時には、上の聖書の言葉の直前にこんな言葉があります。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙 4章6~7節

ひととき静まって、心の焦点を合わせ直しませんか?愛すべきこと、感謝すべきこと、喜ぶべきこと、そこに焦点をあてて、感謝しつつ、歩んでいきましょう。

<牧師室より>2019年10月「あなたは何者?」

「わたしは〜である」というのをできるだけたくさん、最低でも10個以上は書いてください、と言われたら、皆さんはどんなことを思いつきますか?「私は牧師である」「私は夫である」「私は父親である」「私は日本人である」「私は錦織学である」「私はクリスチャンである」・・・自分で書いてみると、自分が自分のことを何者だと思っているか、自分が無意識のうちに何を大切にしているのかが、わかってきます。まず「肩書き」や「勤務している会社名」が思いつく人、「母親」「父親」と、「親」が最初に出てくる人、「夫」「妻」が出てくる人(ちなみに、お母さん方で「母親」より先に「妻」が出てくる人はなかなかおられません・・・)、「日本人」「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「関西人」と国籍や民族、出身地が出てくる人、「男」「女」とジェンダーを思いつく人、それぞれ、自分が何を大切に思っているか、それが現れてくるのです。私もまず「私は牧師である」と最初に出てくる、ということは、いつの間にか、「職種」「肩書き」が自分のアイデンティティーの中で、大切なものになっているんですね。皆さんはどうでしょうか?

でも、よく考えてみると、職種や肩書きは、自分という人間の一番大切なものではないですよね。たとえそれを失ったとしても、私は私でなくなってしまうわけではない、だから、もっと自分の存在深くに関わっている「私はこれだ」というものがあるのではないか、そのように思うようになりました。

私自身の存在深くに関わっている、大切な「私は〜である」は、なんだろうか?これがなくなったら、自分が自分ではなくなってしまう、そういうものはなんだろうか?そう考えた時に、「私は神様に愛されている者である」と言うことができるなあ、と思います。他の全てを失ったとしても、これだけは変わらない、自分自身と分けることなど決してできない、自分の一番深いところにあるアイデンティティーです。そして、これがあるから生きていける、そのように思わされます。

そして、これは、すべての人々に与えられているものなのだと語ります。

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ヨハネ3:16

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ5:8

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」第一ヨハネ3:16

あなたもまた、神様に愛されている方です。