「振り返って」

今年の8月で受洗してから3年がたちました。けれども今まで一度もあかしをしていませんでした。次々と受洗された方のあかしを読んでは、わたしはまだしていないとうしろめたい気持ちでいっぱいでした。

なぜ、今までほとんど信仰を持たなかった私が洗礼を受けようと思ったのか。主人の仕事のことでいろいろあって、不安と不満が入り混じり、泣いたり、怒ったり不安定な気持ちの毎日でした。
そんな時、Tenaflyの教会で三浦光世さんのお話を聞く機会が与えられ、元綾子さんの秘書であった方の讃美歌を聞いて涙が止まりませんでした。そんな心に響く歌を聞いて泣いたのは、私だけではなかったでしょうが、私は自分で私の心は病んでいると思い込んだのでした。
それからしばらくして、イースターに今度はMaywoodの教会に招かれ、その後、ほとんど毎週、教会へ足を運ぶようになりました。
教会ではいつも涙が出てきました。その涙が私の心を洗ってくれていたのかもしれません。少しずつ気分が落ち着いてきて、私は心の病から救われた感謝の気持ちとして、洗礼を受けようと決心したのです。

錦織先生に私の気持ちを話し、何週間か洗礼を受ける準備をして頂きました。そのとき、少し今までのことを話しているうちに、全くキリスト教に結びつくものはないと思っていたのが、そうでなかったことを発見しました。

母が近所に住んでおられたクリスチャンの方のお葬式に参列し、白いカーネーションを一本ずつ献花してとてもシンプルでいい式だったと話してくれたこと。
(その方は杉山さんといいましたが、いつもニコニコされていたのを思い出しました。)

中学の時、英語塾に通っていた道にインマヌエル教会と立看板が示されていて、何のことかな、といつも気になっていたこと。
(正直に言いますと「インヌマエル」か「インヌマニエル」とうろ覚えで、先生から「インマヌエル」と訂正して頂きました。)

北海道稚内市で、友だちのレストラン“おつな”に三浦綾子さんが三、四人で来られて、一言、二言、話しかけられたこと、首に大きな十字架をかけられていたこと。
(その時はキリスト教の事のはずもなく、召し上がられたお料理の事でですが・・・)

等々です。

そして、マタイによる福音書第一章を読んだ時、インマヌエルという文字を見つけて、それが“神はわれらと共にいます”という意味であることを知りました。

あかしを少しずつ書き始めていた頃、9月28日の礼拝で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)を聞き、なぜか私に今一番足りないものはこれだ、と心に響きました。初めて聞いたわけではない、何度も聞いてきた言葉のはずですが、そのときには特別に心に届いたのでした。「御言葉が与えられる」というのはこういうことなのか、と思わされました。

働いても働いても楽にならない生活。主人のこと、子供たちのこと、日本にいる母たちのこと、心配で不安なことは、まだまだありますが、これから信仰生活を送る一生の課題としてこの言葉が与えられたと確信しました。どうぞこの言葉に一歩でも半歩でも近づけますよう、導き、見守ってくださいますようにお願い申し上げます。

月報2008年11月号より

「私は3人きょうだいの長女で…」

私は3人きょうだいの長女で、両親や祖父母に大事にされて育ちました。小学校5年生の時、父親の兄に会いました。東京の音大を出た伯父はクリスチャンで、九州のミッションスクールに転任になるのでお別れにと、父が私たちを連れて会いに行きました。「それでは元気で、さようなら。」と別れたことを覚えていますが、その後一度も会ったことはありません。その伯父の勧めで父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせ、自分も聖書を読むようになったようです。その頃よく訪ねてきたエホバの証人の人たちと議論をしていましたが、自分が教会に行くことはありませんでした。私と妹は2年ほど教会に通いましたが、中学生になると足が遠のき、いつか行かなくなりました。でもその教会での思い出はいつも懐かしく、時々こっそり前を通ったりしていました。
結婚してコロラドに住んでいたとき、夫の同僚から、自分の行っている教会のクワイヤーが伴奏者を募集しているのでやってみたら、と勧められて、オーディションを受けたのですが、「私はクリスチャンではありません、家は仏教です。」と言いました。後日採用の知らせがあった時も、「クリスチャンではないけど良いのですか?」とたずねたところ、「良いです。」と言われて、「へえ~」と思いました。お金をいただいて、週一度の練習と礼拝に出ているうちに、子供の頃通った教会で聞いたお話を思い出して、「ああ、そうだそうだ。こんなこと聞いた。」と懐かしく思いながら、毎週の礼拝を楽しみにしていました。皆に温かく接してもらい、女性の祈りのグループや教会のいろいろな行事に出席するうち、私もこの教会の一員になりたいと思うようになりました。居心地がとてもよかったのです。私に子供が与えられるようにと祈ってくれた友達のことも忘れられません。9年間子供がなかったのに与えられ、皆にお祝いしてもらいました。教会での幼児洗礼式を見て、自分の子にも洗礼を受けさせたいと思い、牧師先生に相談したら、「あなたも一緒に洗礼をうけたら?」と言われました。夫に言うと、「いいよ。」とあっさり承諾してくれたので、驚きました。でも、少し不安があったので、「私に従いたいと願うなら家族を捨てて云々・・・とあるけれど、私には捨てられません。」と牧師先生に言うと、癒されてイエスについていきたいと言った男に、家族のところに帰るように、とイエスが言われた、ということを話してくださいました。そして、私を通して家族が救われる、と言われたのです。とにかくその時はまだ聖書の学びもしておらず断片的な知識しかなかったので、「救い」の意味も良く分からず、友人が「I am so happy! You will be saved!!」と言ったのを聞いて、「Saved? Yeahノ,I think soノ」と答えたのを思い出します。
夫の仕事で日本に戻る日が近づいていたので、ろくに受洗前の学びもせずに洗礼式となりました。教会のたくさんの人に祝福されて、夫もその日は教会に来てくれて、喜びの中で洗礼を受けましたが、次の週には、「クリスチャンが1%しかいないという日本に直子を送り出します。直子のために皆で祈りましょう。」と言ってみんなに送られて日本に戻りました。
アメリカから移り住んだ山形には親戚知人が誰もいなくて、6ヶ月の子供を抱え、心細い思いをしていました。その頃モルモン教の人たちがいつも自転車で街を走り家々を訪問しており、うちにも若いアメリカ人や日本人が伝道に来ました。彼らと話しているうちに「やっぱり教会に行かなくちゃ。」と思ったのです。私が導かれたのはウェスレアンホーリネス山形南部教会、ちょうど同じような年代の子供を持つ人たちが何人かいて居心地が良く、娘とふたりで13年間お世話になりました。そこで受洗後の学びをし、勉強会や祈祷会などを通してイエス・キリストのことが少しずつ分かるようになりました。あまり熱心に学んだわけでもなく、ゆっくり少しずつ、時には抵抗も感じたり疑問を持ったり、ほかの事を優先したくなったり、本当にのろのろとした歩みではありますが、背中を押されたり手を引かれたりしながらここまで来ました。
山形での13年間は、子どもを通しての恵みと自分の音楽の仕事での恵みがたくさんありました。自宅でピアノを教えるほか、娘の通ったキリスト教の幼稚園のお母さんコーラスの指導や伴奏、教会での奏楽の奉仕と特別伝道集会でのコンサート、そのほかいろいろなところで音楽を通しての奉仕をさせていただけたのがとても祝福でした。もうひとつ私が10年間続けた活動がありますが、いくつもの国の紛争や内戦を生き抜いている人たちを映像と音楽で紹介するというNGOグループのコンサートでした。初めは山形近辺、東北地方、そして関東に足を伸ばし、もっと遠くの地域まで活動範囲を広げていきました。学校やPTA、公民館や県の国際交流課などの企画で呼ばれ、いろいろなところでコンサートをしました。とても良い内容でやりがいのあることのように思え、楽しくてやっていたのですが、その活動がだんだん忙しくなり、遠くまで出かけて泊まりになったり帰りが夜中になったり、仕事が日曜日にまで入るようになって、礼拝に出るのが難しいときもありました。礼拝に出ても後奏を弾き終えるとすぐ飛びだして行ったり、奏楽が義務のように感じられてきました。毎日忙しく活躍してすごいね、とひとに言われてそれが嬉しい反面、忙しさで気持ちががさがさしていました。そんな時、牧師先生に、「日曜日は礼拝に出る、仕事は入れない、ということにしたらいいですよ。はっきりそう決めたらかえってうまくいきますよ。」と言われました。いつの間にか高慢になって、神様より自己満足のための活動を優先しようとしていた自分の心を示されて、「そうか。そうしてみよう。」と思い、「日曜日は教会に行くので仕事は入れられません。」と言うことができました。するとすんなりとそれは認められて、何も心配することはなかったようにうまくいきました。ところが今度は別の、人間関係の難しい問題が出てきました。良い目的でやっているはずなのに、世の中何が正しいのか何が普通なのか、私がおかしいのか、と信じられなくなってしまうことがいくつかあり、神経の磨り減る思いをするようになりました。それでも続けていたのは、ステージに立つ楽しさと、自分がここまで作り上げてきたのに、という執着でした。もういよいよ耐えられないと思うようになった頃、NGO団体の内部の問題が表面化してごたごたが起こり、何人かがやめ、私もやめる決心ができました。いくら良いことのように見えても、人間の思いによるものでは限界があると思い知らされた出来事です。それからはピアノ教室も心を込めて教える余裕ができ、幼稚園のお母さんコーラスで賛美歌を教えるのが本当に楽しく、教会の奏楽も感謝してできるようになり、さらに牧師先生たちの宣教グループの事務の仕事までいただいて、精神的にも経済的にも恵まれました。クリスチャンになるにもドンと背中を押されるようにして洗礼を受けてスタートを切ったようなものだし、自分の信仰にも自信のない私が教会にずっとつながっていられたのは奏楽の奉仕と教会学校に行きたがった娘のおかげですが、それによっていただいた祝福は計り知れません。そして牧師先生方や教会の人たちによる祈りに支えられてきたことを思い、本当に感謝です。
ニュージャージーに来て一年間、教会を離れて心が弱ってくる思いを経験しましたが、この時期があったからこそ、今の教会に集えることの喜びが大きいのかもしれません。今も辛いことや祈りの課題はいろいろあるし、これからもあるでしょうが、神様が最善をなしてくださると信じ、「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ。」という御言葉を信じ、神様が私にどんなご計画をお持ちか楽しみにしています。教会につながり、聖書を学んで、恵みとエネルギーをいただきつつ、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」との希望を持って、祈りつつ歩んでいきたいと思います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7) 心強い御言葉に感謝です。

月報2008年10月号より

「恐れを恵みに変える一歩」

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12:9

私がキリストを受け入れ、クリスチャンとして生まれ変わるよう導かれたのは、私の家族の弱さのためでした。私の両親は、年若くして結婚し、またともに家族の愛というものをあまり知らずに育ってきたこともあり、心のすれ違いの多い夫婦でした。私自身も実家にいる頃は、これが普通だと信じてきた面がありますが、その頃は言葉にならない、心の渇きを感じていたのでした。

実家を出てから大学進学、ニューヨークで就職と次々と自分のしたいことや行きたいところで頭がいっぱいで、自分が何に渇いているのか、どこに向かっているのか、全くわからないまま進んで来た感があります。「まず地図を見て行き先を決めるべきなのに、それをせずに、自転車から車へ、車から飛行機へと進むスピードばかりを気にしている」という例えを聞いたことがありますが、まさにその通りで、人が聞いたらニューヨークで大手企業に勤めていると言えば、サクセス・ストーリーのように聞こえなくも無いですが、何の「サクセス」なのか、自分で自分に説明がつかないのです。お金のため?優越感?日本からの逃避?責任回避?

そんな疑問に蓋をして生きていた2006年に、会社の知人が日米合同教会でキリスト教のベーシック講座が毎週水曜日あるから来てみないかと勧めてくれました。それは「アルファコース」というノンクリスチャン向けに作られたプログラムで、教会とは何か、聖書とは何か、祈りの大切さやイエスの救いなどのトピックを毎回ビデオで見てから、スモールグループに分かれて感じたことを話し合うということが行われていました。知れば知るほど、すごい、これは私にはできそうに無い、と思う反面、もっと知りたいという気持ちが沸き出て、昔の青汁のコマーシャルの「まずい~!もう一杯!」状態でした。

そんな中、両親の問題がどんどん深刻化していきました。このままだと大変なことになってしまう、何とかしなければ、という焦りと苦しみばかりが膨らんでいきました。クリスチャンのカウンセラーに両親のことを相談したり、インターネットで「離婚弁護士」のことを調べたり、ニュースで事件があればうちの両親じゃないかと確かめたり、本当に苦しくて悲しい時期でした。しかし、自分の力ではどうにもならず、なんとなくキリストの教えの中に答えがあることを漠然と感じていたのも事実です。

ある時、アルファコースで知り合った人から錦織先生のゼロの会やニューヨーク面談日のことを教えてもらいました。実はNJ日本語キリスト教会へは2000年に一度サンクスギビングか何かの時にお邪魔したことがあり、その時に錦織先生ご夫婦にとても良くして頂いた事があったため、初対面でなかったことから、またまた気軽に足を運ぶようになりました。先生は子供やユース向けの説教に長けていることから、 堅苦しい話の苦手な私には新鮮で、子供のような心で楽しめたのです。一番印象深かったのが、クリスマスの劇に参加した知恵遅れの子供の話で、涙がこぼれそうなほどの暖かさを感じたのでした。

その後、2007年の寒いある日、先生との面談の後、いつものように祈って頂いた時、涙が止まらなくなってしまいました。そしてその日、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることを告白したのでした。その時から神との対話が始まりました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」とピリピ人への手紙4:6にありますが、実際、何も思い煩わずに信仰の道を歩める人は、恵まれた人だと思います。私の場合、この1年近く、どこの教会でいつ洗礼を受けるか、悩む日々となりました。

その年の暮れにクリスチャンの友人に勧められて、JCFN(ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ・ネットワーク)の修養会「Equipper Conference」(EC)に参加することになりました。これは全米から若い日本人クリスチャンがLAに集まる修養会なのですが、彼らのエネルギーと純粋な信仰を目の当たりにして、私も「恐れ」を「恵み」に変える一歩を踏み出すよう強く示されたのです。それは、洗礼にむけて具体的に動き始めなさいということと、家族に伝道しなさい、ということでした。

LAを出発して、1月2日に東京に到着、3日に祖父を見舞った後、夜の便で北海道に飛びました。この時はECでかなりequipされていたので、これまでの帰国時とはかなり様子が違いました。特にECで購入した「日本の宗教行事にどう対応するか」という本から知恵を得ていたので、クリスチャンとして何をして良く、何をしてはいけないか、それがなぜなのかを理解していたので、家族の前ではっきりと自分の立場をあかしすることができたのが、今考えても本当に恵みでした。仏教や神道と対立するのではなく、聖書に反することは皆にきちんと説明して行わないようにし(聖書に反しない事柄に関しては受け入れる)、そのことをも証しや伝道として用いることができるクリスチャンの形を目指すべきであることを示されました。以下は実際にあった私と母のやりとりです。

母「お土産を仏壇に置いて、仏さんを拝みなさい」
私「・・・・・・・」
母「どうしたの?早く拝みなさい」
私「・・・・・・・」
隣の部屋にいた妹が様子を察して「お姉ちゃんまさかクリスチャンになったの?」
母「クリスチャンになったとしても、家族は家族なんだから、仏さんを拝みなさい」
私「お母さんが代わりに拝んで・・・・」
母「・・・・・わかった。でも本当の宗教ってのは他のどんな宗教でも受け入れるものだと思うけどね、仏教みたいに」
私「・・・・・」

私が実家をでてから十数年も続けてきた習慣をはっきりと断ち切るのには、かなり勇気が入りました。正直、父と母に怒鳴られることを覚悟していましたが、そのときは意外とすんなり受け止めてくれました。父も隣の部屋にいて全て聞いていたはずなのに、何も言いませんでした。しかしこのやりとりは母の心にしっかりと刻まれたようです。

その後、母と父との現状について、母と二人きりで話す機会があったときに、母の苦しい立場を聞いてあげていたのですが、今しかないと思い、「お母さん、これからいつも私がしているように祈るから、お母さんは何もしなくていいけど私の祈りに 心を合わせるようにしてて」というと、分かったと言うので、神様に対して父と母のことを声に出して祈りました。

「神様、父はまだ自分の罪に気づいていません、あなたの愛を知りません。どうか私を使って父が、神様あなたの望む人間本来の生き方を求めるように、示してください。神様、母が父の過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も赦すことができるように助けてください。そして母が背負っている傷をあなたが癒してください・・・・・」祈り終わって母を見ると、涙ぐんでいました。「ありがとうね・・・・」

その後、ECで知り合った同郷の女性に教えてもらった私一人で教会に行き、牧師先生と話しをしました。アメリカ生活の長い先生なので、とても話しやすく、また純粋な信仰をもっておられる先生でした。母のことを話すと、「教会の婦人会が行っている家庭集会があるから、タイミングが良い時にお母さんにも来てもらったらどうだろう」という話しになりました。

その家庭集会のことを実家に戻ってから母に話すと興味を示し 「教会がメールしてくるって?電話してくるって?」と聞いてくるのです。数ヶ月前に電話口で洗礼だけは絶対にやめてくれと言った母がここまで砕かれたことは、正直びっくりしました。私が出発する日の朝、母が私に「この間のように、お父さんの前でも祈ってくれない?」 「いいよ」 この時は信じられない思いでした。

朝食の前に、両親と一緒に祈りの時間を持ったのですが、父は初めてのことでとまどったようです。そのときの父の一言は「日本にいるときは日本式でやれ」でした。

その後、米国に戻ってから、教会を変え、洗礼を意識するようになりました。またニュージャージーの新しい教会に通うようになった直後に、錦織先生が日本伝道の旅に出発すること、先生のスケジュールが許す限りは日本にいる家族への伝道もお願いできることを知りました。

私「先生!北海道まで母のためだけに、伝道に行くのは難しいですよね?」
先生「うーん、ちょっとまだわかんないなー。祈ってみようね」
私「はい、もし無理だったら、電話だけでもしてもらえませんか?」
先生「電話なら、いつでも喜んでするよ!」

その数日後、先生に青森で面接することになり、函館までその足で行けることを知らされた時は、神様が実際におられ、私達家族の救いへの道を開いてくださっていることを、目の当たりにしたのです。

母と先生が2月4日に面接した時に、先生はヨハネの4章を用いて、神の水を飲む者は誰でも心に泉を持つようになり、決して渇くことがなくなることを母にわかりやすいように、話してくださいました。母は、その話にたいそう興味を持ち、また心に何かを感じたようでした。そして手紙をくれていた地元の教会のメンバーに自分から電話をかけ、婦人会の家庭集会に進んで足を運ぶようになったのです。
そこで母は、クリスチャンの生き方、聖書の持つ知恵やパワー、本当の愛、自分の罪と父の罪、自分が幼い頃から飢えていたこと、様々なことに目が開かれ、スポンジが水を吸収するどころじゃない、
紙おむつが抜群の吸収力で横からもらしませんとテレビで宣伝しているけど、例えるとあんな感じで、学んだこと、感じたこと、一つも漏らさず一字一句覚えていったのです。私など比べ物にならない真剣さと真摯さでした。

「婦人会の家庭集会」と字で書くとぼやーっとした印象しかありませんが、これも神様が母に用意してくれたものでした。母が導かれたグループは、40代から70代くらいの主婦の集まりで、恵まれていたことに彼女らは本当に成熟したクリスチャンたちでした。傷ついている母を心から受け止め、愛で包み、また聖書の言葉を一口一口母の口にスプーンで食べさせるように、伝えてくれたのです。

さらに、私達が今でも驚いているのが、グループの名前が「泉」だったことです。母が錦織先生の話で最も深い印象を受けた「心の泉」という言葉がその会の名前だったことに、グループのメンバーも母も偶然を超えた「導き」を感じたようです。

今、私は母と、過去の傷や父のこと、家族のあり方などを聖書や神様の視点で話すことができることに深い恵みと癒しを感じています。無数の心の傷を受け、自分たちの弱さに打ちのめされていた私達母娘は、この弱さゆえに一段と深い絆で結ばれることができました。今、日本人の家族の多くは、弱さの中でもがき苦しんでいるように見えます。これは、神様の救いが広がる前段階なのかもしれません。私も同じような苦しみを味わっている方に一人でも多く、神様の救いの業を伝えたいとの思いが与えられています。

月報2008年9月号より

「アメリカの生活で変わった人生」

アメリカにやってきてついに約4年の月日が流れた。アメリカのインパクトに押しつぶされそうになった初めてのJFKが目に浮かぶ。あれは、もう4年も前にさかのぼる。あのときから本当に僕は変えられた。教会が好きになり、イエス様の十字架を信じて洗礼を受けた。それもとても重要な出来事だったが、洗礼を受けたあとに発見することがとても多かった。そして、高校生になってから発見することが多かったように感じる。僕は、さまざまな場面で、神様のすごさを経験した。

そしてそれぞれの場面で、目が開かれた感じがした。それは気持ちのいいものだった。これから僕の目が開かれた代表的な場面を証したいと思う。

1)「祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」             ペテロの第一の手紙3章9節

僕は、慶応NYの寮で生活していた。そこはNY州の郊外である。そのようなところに住んでいる僕がどのようにして毎週NJに来ていたのだろうか。答えは簡単明白。錦織牧師や教会の他の方々が、僕が行ける週末には慶応NYの寮まで迎えに来てくださったのである。所要時間はおよそ片道40分。ガソリン代が高騰している中で、家族が帰国してからほぼ毎週送り迎えしてくださったのだ。何気なく送迎していただいていることもあったが、改めて考えてみると労力がとても必要だったのだ。どう感謝していいかわからない。なぜ、こんなにも僕を愛してくれるんだ。と何度も思わされた。あるとき、こんなに良くしてもらうと、もうどれだけ返しても返しても返しきれない。と打ち明けたことがあった。するとこんな答えが返ってきた。「ほら、私たちも同じように人にいろいろとやってもらったの。だから、大輔君もほかの人にその感謝を返してね。わたしたちじゃなくていいんだから。」目が開かれた瞬間だった。そうか。ほかの人に返すのか。すると、頭の中で神様、イエス様の姿が浮かんできた。僕は罪人。そう。この罪がイエス様を十字架にかけた。それなのに、神様は僕の罪を赦してくださり、今でも僕を愛してくださっている。無条件の愛。僕は、この愛のお返しを神様、イエス様にすることなんて、人生を100回やっても返せない。しかし、この言葉から僕は気付かされた。神様、イエス様に返すだけではなく、ほかの人にその愛を少しずつ返せばいいんだ。分かち合えばいいんだ。と。その瞬間、僕も神様の愛や、教会の皆さんの愛を彼らにだけではなく、別の人に少しずつ分けることができればいいなと思うようになった。そして、そのようなことが聖書の中に記されているはずだと思い、母親の協力の下、ペテロ第一の手紙3章9節を発見したのだ。
将来、「僕も同じようにいろいろとやってもらったことがあったから、君も同じように別の人にその感謝を受け継いでね。」と言いたい。私たちの使命の一つは、祝福をすべての人に受け継ぐことだったのである。

2)「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:5-6
僕は、バスケットを部活としていた。うまくはなかったが、チームのメンバーとして多面的に貢献したと自負している。そして、自分がバスケをやっていたことに満足している。それは神様が導いてくれたからである。僕は、バスケのことでたくさん悩んだ。まず日程だ。土曜日、日曜日、関係なく練習は組まれていく。日曜日は僕にとって教会に行く日となっている。しかし、無情にも当然のように日曜日にも練習が組まれ、何度か教会を欠席した。僕は教会にいけないことを恐れた。なぜなら、教会に行かない日曜日はとても楽だったからだ。バスケの練習を2時間したとしても、一日は24時間。したがって22時間は自由なのだ。しかし、教会に行くためにはやはり一日仕事。したがって自由時間は就寝時間を除けば6、7時間程度になる。教会に行かないと楽だったのだ。このまま、自分は教会に行かなくなってしまうのではないかと思った。しかし、休息できているはずなのに疲れがたまっていく。精神的に疲れていくのだ。僕の通っていた慶応NYには「クリスチャン」が多くない。自称クリスチャンはいるが毎週教会に行くのは僕だけだったであろう。そんな中で生活していると教会では聞くはずもない言葉、会話が当然のようにされたりする。そのような環境だったためだろうか。僕は、教会にいけないのこんなにも大変なのかと気付かされた。つまり、教会がどれほど自分の心の支えになっていたことがわかったのだ。
次に、教会の友達の大きな支えだ。祈祷課題を言うとみんなが一つになって自分のために祈ってくれる。これほどの喜びはなかった。
バスケを通してこの御言葉が与えられた。箴言3章5、6節である。僕らは神様に信頼すればいいのだ。教会を休まなければいけない。こんな恐ろしいことはない。などと自分の知識で考えなくていいのだ。(確かに恐ろしいのだが)主に祈って、任せるのだ。すると神様は道をまっすぐにされる。僕にも、教会の大切さ、祈ってくれる仲間のすばらしさを再確認する機会として神様はバスケを与えてくれた。そして、それと同時にバスケをする楽しさも教えてくれたのだ。自分たちがなにを思っても神様の計画にはかなわないのだ。だから、これからも、信頼して歩んでいこうと心に決めた。

3)「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることはない。」                  ヘブル人への手紙13章8節

今まで、どれだけの環境がここに来た当時と今で変わったのだろうか。それは計り知れない。まず、学校が変わった。高校入学するということで、中学の友達と別れることになった。住む場所が変わった。家に住んでいたが寮生活となった。そのおかげで今まで得ることのできなかった自立することを覚えた。そして、一日中友達といることのすばらしさを学んだ。さらには、アメリカにいた家族は、日本に異動した。たった3年で衣食住すべてが変わったといっても過言ではない。すごい変化であると実感している。
しかし、たった一つ変わっていないことがある。それがイエス様なのだ。心の中に、神様、イエス様を迎えてからは、彼らが今で心の中にとどまっていて生きる原動力になっている。そう。洗礼を受けた当時から変わっていないことである。もちろん信仰がそのままであるのではない。信仰は少しずつではあるが成長している。神様だけは、これから生涯生きていく中で常に同じ道を歩んでくれると約束してくださる唯一の方だ。だから、環境が変化しようと、窮地に追い込まれようと、神様は常に一緒だ。この安心感は格別だ。だから安心して次の「異国・日本」というステップにも堂々と進める。イエス様の十字架。それは、勝利の印である。どんな苦難があったとしても、イエス様は復活されたように僕らも最後は乗り越えられる。それをこの御言葉から信じた。
ある人が分かち合ってくれたことだ。「教会があってよかった。」たった、それだけの言葉だったが、僕の人生に教会があったことがどれだけ助けになったことか。「教会があってよかった。」と絶叫したい気持ちでいっぱいなのだ。
だからこそ、これから僕に与えられている使命は明確だ。御言葉を用いて伝道すること。僕は、このアメリカの地で目の開かれる経験をたくさんしてきた。時には、自分の考えとぶつかり大変な思いもするが、すべてを捨て、神様に任せようと決めたとき、御言葉は与えられるのだ。そして、次のステップに行くのである。その経験をできるだけ多くの人にしてほしい。
人に神様を信じたいと思ってもらうには神様の力が必要だ。御言葉という神様の言葉に心を打たれる必要がある。だから、その覚醒のお手伝いができれば「祝福を受け継ぐ」ことになると信じている。だからこそ、僕は頑張る。いや、頑張れる。今こそキリストの愛に応えるときなのだ。

月報2008年7月号より

「わたしの出エジプト」

1970年2月、40年住み慣れた日本を去り一路ニューヨークに飛び立ったわたし、以来早39年目、人生の半分をニューヨークで過ごすことになるとは夢にも思わぬ事でした。
人生は、人の思い、計画の及ぶところではなく、神の計画と導きによって展開されることは、死から命に移された私が今日在ることからも明らかです。
一人の事業家の招きでニューヨーク行きが決まり、当時でもなかなか取れぬE2ビザが与えられ、一年後には家族揃って新しい地での生活が始まりました。

ニューヨークの生活を始めた頃は、この地が人生に結実を与えられる神の約束のカナンの地であることには気がついていませんでした。司祭であった叔父から幼児洗礼を受けていた私がジャスティン春山牧師により信仰生活に導かれ堅信礼を受け、妻も二人の娘たちも夫々自らイエス・キリストとの出会いによってクリスチャンとしての歩みを始まることが出来る喜びに満たされる者になりました。日本にいた時、私自身がそうしなければならないとの魂への迫りを受けながら主に立ち返ることが出来なかったにも拘わらず、主の深い憐れみと御愛がニューヨークの地で家族全員に救いを与えてくださいました。
信仰は人間の努力によって勝ち取るものではなく、聖霊の助けと、罪の告白と主の十字架の赦しによって救いを受けなければ与えられないことを知り、キリストに委ねる人生に望みを抱く者へと変えられました。
イスラエルが囚われの地、エジプトから逃れることが出来たのはモーセの働きによりますが、神が、神自身の民、イスラエルを憐れみ、愛された御心と御働きが、出エジプトのスペクタクルの背後にあったことは言うまでもありません。人生の困難にある時、万事休す状況にある時も神はわたしたち一人一人に出エジプトを経験させ救って下さるお方であることをわたしたち家族も経験させて戴きました。
2000年の夏、主の限りない御愛に答えるために私に示された主の幻は「あなたのイサクを捧げなさい」でした。私のように罪深い者を赦され、愛される主に仕えるには、自分自身をイサクとして神に捧げる道しかなかったのです。
祈りつつ悔い改め、錦織牧師に献身の思いを打ち明けました。
小論文を提出し、入学を許可され、働きながらJTJ神学校の神学部牧師志願科の学びを通信で始めました。
当時はDVDはなく、どさっと送られて来る山積みのビデオテープで教室の学習を見ながらの学びでしたので忍耐と、教室と隔離されている孤独感の戦いを経験しましたが、御霊の助けと家族の励ましとを感謝しつつ学び続けることが出来ました。
通常、通信講座は3年から5年かかると言われていますが、神は私を早急に用いようとされるそのご計画によってか、一年九ヶ月で全講座のクレジット修得を許されました。
卒業式の時、中野雄一郎学長から「最短の卒業だね」と言われた時には喜びと共に、神は生きて働かれるとの確信が与えられ、心から感謝しました。
妻と娘たちは私の学びのためにあらゆる犠牲を払って2年間サポートしてくれたことが何よりの助けでした。
然し厳しい訓練をわたしに課せられる神は、前立腺ガンをもって私にチャレンジを与えられました。毎朝午前4時から7時まで学習し、8時にはマウントサイナイ病院で放射線治療とガンの発育を抑えるホルモン(ヴィアドール)治療を受け、それから仕事に向かう強行軍でしたが、不思議になんの副作用もなく25日連続の治療を完了することが出来ました。
それは主の憐れみと、主の癒しの御業以外の何ものでもないことを覚え、深く感謝しました。
わたしに与えられた主の使命は主キリストを証しすることで、そのためにバイブルクラスの指導を毎週礼拝の前に守ることでした。罪の淵をさまよっていたわたしの霊の目を開かせ新しい命に導いてくださった春山先生が命をかけて(先生はわたしたちが堅信礼と洗礼を授けられて僅か一ヶ月後に内臓のガンで天に召されました)十字架に掛かられたあの犠牲の死がなければ、わたしの献身、家族の救いはあり得ませんでした。
わたしの献身を一番喜んでくれたのは言うまでもなく信仰をもって支えてくれた家族でした。
又、わがことのように喜び支えてくれたのは千葉市川キリスト教会の小野寺牧師(わたしの信仰の兄貴分)で学びのためにたくさんの参考図書、注解書を送ってくれました。
至らないわたしを赦し、今日まで共に聖書を学び、分かち合いをして下さった兄姉に心から感謝しています。
特に、わたしを助け、善きアドバイザーとしてバイブルクラスを支えてくださった呉(オー)兄に感謝します。
長いようで短かくもあった20年のJCCNJでの信仰生活も思いがけない、否、これも神のご計画と信じていますが6月15日をもって終えることになりました。
新たな地に新たな使命をもって遣わされる神の御心を受け、喜んで従って参ります。
20年にわたり、信仰を育ててくださった主の教会の更なる成長を心から祈り、キリストにある友としての交わりに入れてくださった会員の皆様に主の豊かな祝福と励ましがありますよう祈ります。
御心を十字架のビジョンとして受け入れ、信仰をもって、聖書を日々の糧として歩んで行きましょう。
感謝。
ヘブル人への手紙11章8-9節「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。」

月報2008年6月号より

「悲しみの淵より」

昨年12月に、突然、丈夫で元気だった母が脳梗塞で亡くなった。
日本時間で深夜、救急車で運ばれたと父からの電話を受け、私はその頃体調を崩して寝込んでいたのだが、翌日慌てて飛行機に飛び乗った。教会でもすぐに連絡網で祈りの緊急課題がまわされたが、雪で飛行機は欠航、母は亡くなってしまった。
「神様、今、なぜ母なのですか?」最近は父の方が具合が悪く手術や入退院を繰り返し、その世話を母がしていたからだ。アメリカに来て17年、次女も9月には大学に入るので、ようやくこれから両親と共に過ごせる時間がもっと出来ると、そんな話を楽しく母と電話で話したのは1週間ほど前だろうか。空港から葬儀場の霊安室に直行して、眠っているとしか思えない母と会った。「ごめんね、でも今までありがとう」と泣きながら頬ずりをしたその頬は冷たく、レモンの匂いがした。消臭剤だ。しかし母のいない家に戻り玄関を開けたとたん、いつもの母の匂いがした。「神様、こんなことは耐えられません」どうやってこの試練を乗り越えたらよいのか、まったくわからなかった。ショックと悲しみと後悔でもはや信仰さえ失ってしまうかもしれない、と思うほどだった。
翌日から待っていたのは、どこに何があるかわからない家の中の探し物から始まり、身も心も傷心し切った父を励ましながら、家の片付け、遺品の整理、山ほどある事務手続き等、日本の事情もよくわからない、自分も具合が悪い中、まるで戦場だった。自分の身に起きた事が信じられなかった。ただ、祈られていることだけが感謝で、それだけが支えであり、共に悲しんでくれる人たちの存在がありがたかった。親を亡くすことは誰でも通る道だが、愛する人を“突然”失うことがこんなにも辛く大変なことだと初めて知った。これは体験した事がある人でないとわからない苦しみだ。自分はこのまま鬱になってしまうかもしれないと思った。

しかし、神様はおられないと思えるような場所でも神様は働いておられた。きっかけは送られてきた2冊の本だった。一冊は『素晴らしい悲しみ』送ってくれた彼女も数年前NJの教会にいた頃に突然の転落事故でお母様を亡くし、私と同じ経験をされていた。ここにはあらゆる種類の喪失の悲しみから癒されるまでのステップが書かれてあり、喪失体験後に 陥るひとつひとつの症状が、どれも私に当てはまる事ばかりで、‘自分はおかしくなってしまったわけではない、これでいいんだ’と思えたことは救いだった。しばらくして教会の別の友人から『慰めの泉』が届いた。これは、特に家族を失って深い悲しみの中にある人へのショートメッセージが日ごとに書かれてあり、毎日少しずつ読んだ。そのうちに、天国がどのような所か、神様はどのようなお方かに、だんだん目が向くようになり、この地上の悲しみから神様、イエス様がおられる天を見上げる事が出来るようになり、そして母は今どんな所にいるのかが見えてくるようになった。確かにこの地上では母の死は喪失なのだが、天国では新しい仲間をひとり迎え入れた喜びとなる。地から天に視線を移すこと、自分が合わせるべき焦点はどこかがはっきりとわかった。

実は母が亡くなる少し前にどういうわけか、電話でこんな会話をした。「お母さん、もしどこかで倒れちゃうような事があったら、“イエス様、信じます”って言ってね」と言うと、クリスチャンでない母は「あら、難しいわ。ちゃんと言えるかしら」と言うので、私は「大丈夫だよ、今からちゃんと練習しておいてね」と言ったのだ。その話を父から母危篤の連絡を受けた時、沖縄の妹に電話で伝えた。彼女が病院に着いた時、母は酸素ボンベをつけたまま意識不明の状態だったが、私の話を思い出し「お姉ちゃんが言ってた事、今からでもいいからねー」と言うと母の目から涙が流れたそうだ。母は、きっとイエス様信じます、と言ったに違いない。イエス様は信じたその瞬間に、天国の切符を下さるお方だ。
また、母の遺品を整理していた時、毎月の月報の束を見つけた。ちょうど12月号の証が長女の真奈がニカラグアに行った時のものだった。「お母さんがそれを読んで、真奈も大人になったのねえ。と言っていたぞ」と父が言った。日本に届いたのは母が倒れる直前のはずだ。母がこの世で最後に見た月報は孫の書いた証だった、最後の最後まで確かに福音は届いていたのだ。
母に何もしてあげられなかったという後悔と罪悪感にずいぶん苦しんだ。しかし最近になって、一番しておかなければならなかったこと、それは神様の事を伝える事だったのではないか、と気がついた。もっと共に時間を過ごせれば楽しい思い出ができたし、病気になって看病する事ができれば良かっただろう、しかし、とどのつまり永遠の命の事を伝えなかったら、この世の幸せもそれまでなのだ。イエス様の事を伝え、これさ
え握って天国に入ってもらえたら、後は御国で再開した時に何でもできることなのだ。

そうして、2ヵ月半日本に滞在してNJに帰ってきた。母が死んで全ては変わってしまったかのように思われた。確かに状況や計画は変わってしまった。しかし変わらなかったもの、それは神様はおられたという事実だ。人間の目にそうは見えなくても神様の時は確実だ。神様は一番良い時に一番良い場所に母を連れて行ってくれたはずだし、この地上においても最悪な状況が続く中、必要な助け手をいくつも備えてくれた。神様はいないと思える時でも、振り返ればそこに初めから共にいてくれたのだ。母が死んだ時「もう伝道できない」と思ったが、気がつくと今、苦しみの中にある人と一緒に祈れるようになっていた。『わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。だから立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。』ルカによる福音書22章32節。今回多くの人の祈りに支えられたが、イエス様ご自身も私の信仰がなくならないように祈ってくれていたのだ。そして、あの深い深い悲しみの淵からここまで引き上げてくださった神様の力、これこそがまさにイエス様を死からよみがえらせた神様の力なのだとわかった。

まだ母のことを思い出すと泣けてくるし、残された父の事も心配だ。試練はまだこれからかもしれないし、いくつもの喪失体験が待っているだろう。しかし起こった出来事に焦点を合わせていく限りこの世は「なぜ。どうして?」の連続だ。でも出来事にではなく、神様に焦点を合わせていけば、今はわからなくてもいつか、神様がすべての事を神様の目的を持ってされていると思える時が来ると思う。聖書の中で信じられないような試練に会った人たちがどうやって歩んできたか。それはどんな最悪の状況の中でもただひたすら神様を信じ、神様に忠実に歩んでいる、今その姿に心が惹きつけられる。私もそのように歩めたらと。
『人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その教えに歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い道に導き入れようをしておられるからである。』申命記8章5~7節。

月報2008年5月号より

「わが主イエス 我を愛す」

私がキリストを受け入れたのは25歳の時、カリフォルニアで学生だったときでした。しかしその信仰の種は私がまだ5、6歳くらいの子供の時に当時通っていたプロテスタントの幼稚園での礼拝とその日曜学校で、蒔かれていたと思います。たくさんの聖句を習って暗唱したり、いろいろな賛美歌を歌った記憶はありますが、細かい出来事はほとんど忘れました。ただ、大人になっても覚えていたことが三つ。
キ 先生たちの平安と愛に満ちた様子。 こんな人たちは他ではあったことがない。
キ 聖句ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キ 賛美歌461番の「主我を愛す」(文語の歌なので、意味は全く理解していなかったが音ですべての言葉を覚えていた。)
このあと、私の人生の表面から、キリストはしばらく姿を消し、学校と塾とクラブに忙しい普通の小中高校時代を過ごします。
その後、大学進学でプロテスタント系の女子大にいく事になりました。その大学にした理由はいろいろありますが、キリスト教を学べるというのもひとつの大きな魅力で、かなり期待感をもっていました。しかし、学内にあるチャペルでの礼拝とキリスト教学の授業で、おおきくつまづいてしまいました。礼拝では、信仰のある学生が祈ったり証をしたのですが、「私はまた失敗してしまいました。本当に私はだめな人間です。」という趣旨の言葉だけが心に残りました。 今思えば、それは、真実な悔い改めの言葉だったのでしょうが、その当時は、そのような暗い悔い改める姿勢など、私の生活のほかの場所では目にしたことのないことでそれにショックを受けて嫌悪してしまったのかもしれません。また、キリスト教学の教授が女性の牧師だったのですが、その牧師先生は、派手な服装で授業態度も悪い数人の学生を嫌って、
「あなたたちは終わりの日に裁かれる」と、とても厳しい言葉で戒めました。それで、クリスチャンというのは、自分の救いのために清く正しく生きて、いい行いをしないといけないと、思ってしまいました。今思えば、礼拝でも、授業でも、福音が語られていなかったはずはないのですが、 聞くには聞くが悟らない、の言葉どおりで、こころの目が閉じていました。
大学卒業後、異文化間コミュニケーションを勉強したくてカリフォルニアの大学に留学しました。留学した大学院の先生たちは、女性が多く、かなりラディカルなフェミニズムの先生が数人いました。そういう先生の講義では、伝統的なクリスチャン思想がどのようにアメリカの父系社会を作り女性を抑圧してきたか、というようなディスカッションが繰り返されました。私も影響を受け、フェミニズム思想に基づいたレポートを書いてすごくいい成績をもらう、という日々でした。まるで、ダマスカスロードでイエスに出会う前のパウロのようで、キリスト教を迫害するようなことを信じてレポートに書いていたと思います。神様を冒涜するようなことをたくさん書いたなあ、と思います。でも、どこか、心の奥底で、本当にこれが真理なのかなあと、暗いものを感じていたのも事実でした。また、勉強している内容が暗いのみならず、学科内の教授間、学生間の人間関係も激しい競争意識から殺伐としていました。このようにしてこの世的な、今にして思えば、暗闇の力に取り囲まれていたような学生生活でした。人間の開放、女性の開放についてレポートに書きながら、自分は何かに抑圧されていました。ここに神様は何人かのクリスチャンを送ってくださいました。
まず、同じキャンパスで、メシアニックジュウ(ユダヤ人のクリスチャン)の女の子に伝道されました。はじめはうっとうしく感じていましたが、ディベート好きの性格と自分が批判しているものをまず知らなくては、との思いから、彼女との対話を続けました。また、この対話によって、逆に彼女をこの抑圧的な宗教から解放してあげようという気持ちもありました。対話の内容よりもその熱心さ、辛抱強さと寛容に感心したものです。また、住んでいた寮でクリスチャンの友達ができました。話を聞くと、驚くような暗い過去をもっているのに、まったく元気がよく、その過去から解放されている感じがしました。また、彼らの信じているものは厳しいのですが、それにもかかわらず、抑圧感はまったく感じられなく、とても自由で明るいという印象で、日本の大学で受けたクリスチャンの暗いイメージと重ならないので疑問でした。さらに、日本人のクリスチャンの友人ができました。彼もとても複雑な家庭環境を抱えているにもかかわらず、なにかに守られているかのようで、私の理解を超えた平安のある人だということに、つよい印象を受けました。彼はクリスチャンだというので、キャンパスで伝道してくれた女の子との間に言葉の壁を感じていた頃でもあり、あ、丁度いい。この人にいろいろ聞こう、という感じで、いろいろ質問したり意見を述べたりしていました。すると、「君はグレイス(神の恩寵)ってしっている?」と聞かれました。神の恩寵。救いというのは、よい行いによってあたえられるのではない。無償で、恩寵によって与えられるものなんだ、というのです。そのときはじめて、清く正しく生きないと救われないという日本の大学時代からの思い込みは大きな誤解だったかもしれないと気づきました。
根本的なことがわかってないことに気づいた私は、とても疑い深いというか、 人にこれはこうなんだから信じなさいといわれるのが嫌いで、じゃあ、自分で読んでみようかと思って、NIV(英語訳の一つ)を購入して読み始めました。というのは大学のころから使っていた口語訳聖書には、キリスト教学のトラウマがあったからです。NIVは平易な言葉で書いてあり、英語の言語的性質もあるのかもしれませんが、理屈っぽくて、いちいち納得しないと前に進めない私にはぴったりで、まるではじめて読む書物のようで面白くて読むのを止められないという感じでした。そのころ、Long Beach にあるGrace Bretheren Churchの礼拝にたまに出ていたのですが、牧師先生が説教の中でローマ人への手紙のシリーズを始められました。そんなある日、ローマ人への手紙を読みながら、ああ、これは、この罪びとは私のことだ、という思いが心を占めました。そのころ大学院の殺伐とした人間関係の中で、自分の中になんと多くの悪意とうそがあることかを日々感じていたので、そのとき、価なしに与えられる救いを本当にありがたい、と思い、これが真理だ、という気分になって、イエスを受け入れたいと思いました。それで、牧師先生に信仰告白をして、一緒に祈ってもらいました。このときから、自分では、信仰を得たと思っていた。しかし、当時の感覚としては、こんな私を許してくれるイエス様って、なんていい人!という感じで、ギフトをいただいてただ喜んでいる、という感じで、自分を低めて、イエス様を主と呼ぶことにかなり抵抗がありました。日本語ではイエス様と様がつきますが、英語ではジーザスと呼び捨てなので、対等な感覚で信仰告白をしてしまったように思います。また、この理屈っぽい性格なのでいちいち 聖書の一見「矛盾」と思える箇所を気にして、これは本当の真理ではないのか、と疑って、間違ったものを信じてしまったのかと不安になっていました。
しばらくそのようなよたよたとした信仰者だったのですが、ある日、ロサンジェルスの高速道路で、車を運転していて、いきなり、子供のころに覚えた唯一の賛美歌が20年ぶりにこころに浮びました。それが、前述の賛美歌461番なのですが、「あ、そういえば、こんな歌あったな」と思って、くちずさんで思い出そうとしました。そして最後のところの「わが主イエスわが主イエス、わが主イエス、われを愛す」を歌ったとき、はっとしました。そのときはじめてイエス様は、私の主で、私はその主に従うべき存在なんだ、しかも、そのわたしの主は、 不平の多い疑い深いわたしでさえもこんなにも愛してくださっている、そして、本当にイエス様は生きていらっしゃる、と感じました。復活されたイエスさまにあったときのトマスの「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)という言葉がありますが、まさにそのような思いでした。自分の低さ卑しさ、主の尊さ、そして その卑しい者のために命を捨てる愛、そしてその主が今、愛によって私に語りかけてくださっている、というさまざまな思いで、もう運転を続けることができなくなって、高速道路の路肩に車を止め、子供のように素直な気持ちでぽろぽろと涙を流して泣きました。そして、ああ、主は実に20年間も、子供のころ心のうちに蒔かれた種を守って下さり、この私が主のもとに帰ってくるのを待ちつづけてくださっていたのだな、と思うと、本当にひれ伏したい思いでした。それは、とても不思議な感覚でした。ひれ伏しながらも、高められているというか、自分はしもべでありながら開放された、という感じでした。また、迷子になった小さな子供が不安と恐怖でいっぱいのときにやさしい親の顔を見つけたような安堵の気持ちでした。
このとき、本当の意味で私は救いを得たのではないかと思います。この後、私はかわりました。それまでの私は頭で理解し、納得していただけだったのですが、それがイエス様を心から主と呼ぶことができるようになりました。また、み言葉を読む中で理解できないことや、納得できないことがあっても、み言葉が真実であることは揺らぎない事実で、人生の歩みの中で、イエス様に従って歩んでいれば、主がその答えをひとつひとつ与えてくれるだろうという思いに変わりました。
ローマ 8章14-15節
すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

月報2008年4月号より

「計り知れない神の愛」

礼拝の後、何人かの姉妹が集まって癒しの祈りをしておられる姿を見て、普通教会ではどこでも見られる光景ではありますが、ただ自分には、聖書の中に出てくるタラントの御言葉(マタイ25章14~29節)がいつも思い浮ぶのです。以前集っていた教会では癒しの祈りを教わっていました。このタラントの喩えと共に、せっかく学んだから用いなさいとよく実際に祈りの中で用いていました。

御子によって、私たちに語られている御言葉は大人から子供まで非常に解り易く語られています。しかしその御言葉一つ一つに神の愛が秘めされている事を、見逃すわけにはいかないと思います。この喩えの中にも一タラントを預かった者は、主人(神様)は、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だから怖くなり地の中に隠しておきましたと答えています。しかし神様はその様な方でしょうか。決してその様な方では在りません。なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節) タラントすなわち英語でタレントであり、賜物、才能、能力と言う意味で、この教会でもよく用いられています。我々はすでに救われた者であり(「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ書10章10節)、その私達を神は一人一人にタレントを与えて下さっています。この賜物を一タラント受け取った者と同じ行動をしないで、神の愛に報いていくのが我々クリスチャンの義務と思います。だから癒しの祈りをしておられる中に入って一緒に祈ろうではありませんか。また伝道に、教会の奉仕のためにそれぞれの授かった賜物をフルに使いこなし、神のみこころを成して行く時、我々は「神は大いなることを行って測り知れず、そのくすしいみわざは数えきれない。」(ヨブ記9章10節)神の栄光を体験し、更に信仰を増し加えて行けるのです。

自分はかって、思いを超えた神の愛に触れた事が有りました。それは2003年の秋、クイーンズに有る教会から離れ、マンハッタンの小さなチャペルで礼拝を守っている教団を新聞の広告で見つけ、当時インターネットで教会を紹介していたのは、非常に希でしたが、その教団はインターネットを用いていた為に幾らか理解を持って礼拝に参加する事が出来ました。それと自分にとって、非常に強い魅力が一つ有りました。それはこの教団が毎年一年に一回イスラエル派遣と言う旅行を企画している事でした。一年後、自分もこの派遣の募集をし、出発まで丁度一ヶ月前のある日、クイーンズの教会に集っている姉妹から、H姉が心臓の大手術をした為、これで終わりかもしれないので見舞いに来て欲しいとの要請でした。その三日後、行くか行かまいか心の定まらない心境で礼拝を前に、エルムハーストにあるH姉の緊急病棟を訪れました。何と見てビックリした事に、手術して数日後な為、臓器が十分に機能していないのか、顔から体全身が真っ赤で、しかも風船を膨らませた様に膨れ上っているのではないですか。何とか姉妹を元の元気な姿に返して下さいという一心で姉妹に手を当てて主に祈りました。そして次の週も、どうしても気になっていましたので、同じように礼拝前に、姉妹を見舞いに行きました。何とまた驚いた事に、その日の姉妹は臓器が機能を回復した為か、体全体の膨れも元の状態に治り、肌も正常に治っていました。ただ意識が戻ればと、深い深い眠りの中を漂っている植物状態ではあるものの、一命は避けれたと言う思いを感じ主に感謝しました。そして次の週も、植物状態の姉妹を見舞い、後は意識が回復するのみと主に祈り、もう見舞う事もないでしょうと決めていました。

ところが次の週の日曜日、イスラエルへ出発を前日にして、それは自分自身にとって大変な夢によって目覚めました。その夢とは『自分の前に髪の長く白い着物を着た方が、自分とは反対方向に向いて左腕か何かを枕にして床のうえで横になって寝て居られるのです。誰かと思い、その側を回ってその方の顔を見ると、眠っておられるのではなくハッキリと目が合った』 その所で驚きと興奮の中に目が覚めたのでした。正にその目は、あの御言葉がピッタシの「わたしが道あり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14章6節 の中にある真理そのものを現していた真実なる目イエス様でした。もうその後は大変、その興奮は覚めることを知らず、予てからH姉の見舞いに行きたいと頼まれていたB姉を伴って病院にバーンと飛ばし姉妹の病室に着いて見ると、何と更に驚きや姉妹は眼を開いて我々を確りと意識しているのではないのですか。 一昨日前、久しぶりにB姉妹から電話を頂き、H姉から手紙が届き非常に元気でおられるとの事でした。H姉は手術当時、以前から糖尿病を患っておられました。その合併症が原因で心臓につながる血管が破裂したという説明で連絡を受けたのですが、それだけではなく、足を片方付け根から切断する大手術でした。その後リハビリ施設に移られたと言うので、再びB姉妹と訪問した時には、車椅子での生活ではあるものの、以前よりも元気な姿で回復され、今は日本で生活を送っておられます。

「真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエスキリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちと共に有ります。」ヨハネの手紙第二-3節

月報2008年3月号より

「神様にあって強くなる」

あなたは何に頼って生きていますか?神様ですか?自分ですか?親ですか?友人ですか?名声ですか?社会的地位ですか?頼っているものが崩れたらと不安になりませんか?

私は母に愛されて愛されて育ちました。親の愛、と言っても様々と思いますが、私は右にも左にもこんな愛をみたことがない、それ程にたくさんの愛を注いでもらったと思います。とても幸せでした。私も母が大好きでした。

小学校低学年の時に、私をかわいがってくれた祖母が死に、高学年になって祖父が死にました。私を愛してくれた人は死んでいく、一人になるのが怖い、そんな気持ちが私の心に起こり、無性に不安になりました。いつかはお父さんも、お母さんも死ぬの?、そしたらどうして生きていけばいいの?、私も死ぬの?、死ぬのに何故生きるの?、そんなことを子供の頃から考えていました。死後はどうなるの?、と問う私の疑問に答えてくれる人はいませんでした。

私の父も母も病気持ちでした。特に父は、入院、手術を繰り返していましたし、子供ながら、父の死後を心配し、準備する母の気持ちを感じ取っては、父はいずれか死んでしまう人、と漠然と思うようになっていました。私の心の中には、父は死ぬ人=母は死なない人、という方程式ができていました。母に、「お母さんはいつか死んでしまうの?」と聞くと、よく優しく、「直子が結婚するまでは死なない、死ねない」と言っていました。それを聞いては、早く結婚してはいけないなぁとよく思っていたものです。私の方程式も母の思いも完成されませんでした。父は今も元気に生かされていて、そして、母は私が13歳のとき、亡き人となりました。

母の死は、衝撃的でした。私は、母とは仲が良く、喧嘩をしたことも、また母に我が儘を言った覚えもないのですが、一度だけ母を困らせた記憶があります。それは、母の死ぬ前夜のことでした。あの日に限って私はいらいらしていて、急に体調を崩して横になっている母の前で、次の日の家庭科の授業の宿題を終わらせるために必要なアイロンの場所を教えてくれないと困る、と泣きました。今考えたら、その時は、きっともう母には何も聞こえてなかったのではと思います。それでも私が何かを言っているので、母はだるそうに目を開けて、私を見て、そしてまた目をつむりました。それが最期、次の朝、死んでいました。母がこの世で見た最期のものが、母が愛し愛した私のそんな醜い姿だったと思うと、私は辛くなりました。こうして私は自分の中に宿る罪を知りました。母の死後は、父に言いたいことを言わないように、喧嘩をしないように努めましたし、甘えない子供へと変わっていきました。私が結婚するまで死なないと母は何度も約束してくれましたが、人の言う事や約束は頼れない、一人でも生きていける力を身につけていかなければ、そう思うようになり、高校から単身で留学することを決めました。

私の罪は、イギリスに場所を変えても、私に再び迫ってきました。私は母に愛され、また私も誰よりも母を愛していると思っていましたが、日が経つにつれ、母のいない生活に慣れ、また母のことをを忘れるようになりました。今ではどんな風に母と会話していたのか、母がどのような仕草をしていたか、どんな表情をしていたか、どんな声だったのか、ほとんど思い出せません。顔だって写真がなければはっきりと思い出せなくなっていたかもしれません。母ほど私を愛してくれる人はもうこの世にはいない、その母を自分は裏切っているような気がしました。

18歳のとき、私は人間関係で苦しみ、自分の心に宿った醜い思いが、私が罪人であることを認めざるを得なくしました。そしてそんな中、教会に行けばいいのかもしれない、何とかなるかもしれない、何故かわからないけれどそんな切羽詰った思いが与えられました。日本に一時帰国した折に、親友が通っていた教会へ行きました。そして、その日のうちに、神様に触れられて、神様を信じました。ああ、この神様だ、この神様が唯一の神様、私の罪を赦してくださる、そして私を失望させない、そうわかりました。人は私を失望させるかもしれない、でも私を永遠に失望させることのない神様が存在する。「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」(ヘブル13:5) 私は喜びに溢れ、私の人生は、がらっと変わりました。それ以来、神様を信じて歩んでいます。常に神様に喜ばれる信仰者でいられているとはとても思いませんが、神様を否んだことはありません。

2003年9月、神様の本当に不思議な導きによりニューヨークの地に足を踏み入れました。ニューヨークに来て、気付かされたのは、如何にそれまで私は、たくさんの友人に恵まれ、人に、仲間に頼って生きてきたかということです。ニューヨーク、アメリカにはあまり馴染みが無く、来た当初は、知り合い、頼れる人はいませんでした。仕事も私にとって全く新しいフィールドでした。私は、孤独、そして不安でした。恐れもありました。でも、当時の私には、他に行くところがなかったのです。私には、神様が私をここに導いたという信仰がありましたので、それだけに頼りました。時に、神様の意図が私たちにはわかりません。でも信仰というのは、私たちが理解できることを信じることではなくて、わかってもわからなくても信じることだと思っていますので、神様が与えてくださった仕事に、教会に、環境に、できる限り誠実でいよう、目の前のことを精一杯やろう、そう歩んできました。

4年半が経った今になってニューヨークに神様が置いてくださった意図が分かってきた気がしています。2008年年初より、錦織先生に薦められた「日々のみことば」を読んでいますが、1月3日の箇所で、御使いはマリアにイエス様の受胎を告知します。「どうして」と問うマリアに、御使いはこう言われました。「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1:35) この言葉が私を深く捉えました。私は本当に神様に全身覆われていると感じました。気が付いてみると、私はもはや孤独でも、不安でもありません。恐れもありません。まさに神様が常に私を覆って下さっているのです。私は以前の自分とは別人の如く、強くされていました。私は今、とてもハッピーです。悩みが無いわけではありません。すべての事柄がうまくいっているわけでもありません。でも神様が私を愛し、ご計画を持って、私を導き、強め、造り変えてくださっている、それで充分なのです。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)

私たちは大丈夫です。何があっても大丈夫です。神様の覆いがあるのです。神様の愛のゆえに感謝します。そして、神様の御名がもっともっとほめたたえられることを心から願い求めます。

月報2008年2月号より

「私は2歳半の頃から…」

私は2歳半の頃からお母さんとお姉さんと一緒に教会に行っています。なので、日曜日に教会に行くというのは当たり前のことでした。小さい頃は、日曜日には特にすることもないし、礼拝の間はいつも他の子供達と一緒にジムで遊んでいたので、教会に行くことをだんだん好きになってきました。子供達は、私より2 – 4歳ぐらい年上でしたが、その当時、気にしないで、遊んでいるうちに、友達になりました。
10歳頃から、私はちゃんと礼拝に出席することになりました。でもそれは先生のメッセージを聞きたいから礼拝に出たのではありませんでした。私が普段一緒に遊んでいる友達が礼拝に出ていて、私一人でジムで遊ぶのが嫌だったので、みんなと付いていきました。その理由で私はメッセージを聞き始めましたが、先生が言っていることは全然分かりませんでした。だが、11-12歳になると、だんだん分かってきて、先生の話を聞くのが楽しみになりました。そして、その時から私は神様を信じました。

その次の2-3年間、教会の友達がみんな中高科に入って、仲間の中で、私一人がまだ上級科に残っていて、まるで置いてきぼりにされたみたいでした。一年ぐらいたって、私もやっと中高生になって、「やった!」と思いました。でも、その後、中高生のメンバーが一人一人、洗礼を受けていきました。そして、やがて、年上の中高生はみんな受洗をして、次に洗礼を受けるはずの人が私になりました!そのことからすごいプレッシャーを感じて、その上に、ときどき教会の人から「菜美はいつ洗礼を受けるの?」と聞かれる時もありました。私も正直「いつ洗礼を受けるのかな」とか、「13年間も教会に行っているのに、なんでまだ洗礼を受けてないのかな?」とかいろいろ考えていて、いつもそのことで神様にお祈りしていました。
今年の8月に私は毎年行っている中高生のB.I.G.キャンプに行きました。そこで、中高生の先生とone-on-one sessionで話した時に、先生が「神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。信じているなら、洗礼を受けた方がいいよ」と言ってくれて、気付きました。私はいつも神様を信じていました。でも、信じるだけだと物足りなくて、もっと聖書を読んで、お祈りしたら、神の子供になれるとずっと思っていました。でも、中高生キャンプで学んだ通り、「 神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。」本当に単純でobviousなことかもしれないけど、その一言で、私は洗礼を受けたいと思いました。
中高生キャンプが終わって、何週間後に、聖書を読んでいると、不思議にヨハネ1:12を開いて、こう書いてありました:「しかし、この方はご自分を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」私にぴったりの聖書箇所でした。神様は私の祈りに答えてくれました。
そういうことで、神様を信じて、洗礼を受けて、そして、神様から光をいただきました。そして、私はその光で、人生を生きたいと思います。私が好きな聖書箇所、エペソ5:8にかいてあります:「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」これからは、光の子として、私が信じている神様といっしょに生きたいと思います。そして、もらった光を持って、2008年、新しい一年に私は飛び込んでいきます。

月報2008年1月号より

「ニカラグアの声となって」

半年前の5月、私は Messiah College の生徒達14人と、宣教のためにニカラグアの国に2週間行く機会が与えられました。Food for the Hungryの代表の人たちと一緒に協力し、色々な教会のプログラムや学校の授業を手伝い、建物の修理をしたり、そして地元の人の家を回ってニカラグアの人々のために祈りました。私達は出発する数ヶ月前から毎週会議をし、様々な計画をたてていましたが、旅の詳しい内容は全然分かっていませんでした。ただ祈り、神様がどのように私達を導いて遣わしてくださるかを待つだけでした。
最初からチームのリーダーに メマナ、スペイン語の通訳、頼むね。”と言われていたので、飛行場に付く前からものすごく緊張していました。でも出会えた地元の人々は、
ものすごく心の暖かい人たちばかりで、一生懸命私と話してくれました。初めの1-2日はオリエンテーションで、首都であるマナグアを観光し、歴史を学びました。
そして、2時間ほど離れたチナンデーガと言うスラム街に移動しました。その町の小さな教会の牧師さんと会って、子供たちのプログラムを手伝いました。
辺りの小学校は午前中しか授業がないため、その後はよく教会に来て皆で遊んで、短い礼拝に参加していました。ちょうど母の日の時期だったので、一緒に母のためのクラフトを作り、スペイン語で讃美の時間をリードしました。その後、辺りに住んでいる元ヤクザのメンバー達と一緒にサッカーも遊ぶ機会もありました。
でも私にとって、チナンデーガで一番印象に残ったのは、2グループに分かれて人々の家を回って祈りの時をもてたことでした。町を見歩いてみると、“こんなのでどうやって暮らしていけるの?”と思うぐらいボロボロで、台風に襲われたかの様な家ばかりでした。それなのに訪ねていくと、人々は皆“どうぞどうぞ、早く上がって! 私達の家にようこそ!わざわざ来てくれてありがとう!”と言い、喜んで家を案内してくれました。そして、“何か一緒に祈ってあげられる事はありますか?”と聞くと、出会ってから10分もたっていないのに、皆 私達に心を開いてくれて、色々な個人的な悩みを話してくれました。教会に通えない理由、家族内での問題、体の癒し。。。色々な祈りの課題が出ました。
なかでも一人の女性が次のように言ったひと言は一生忘れられません。
“長い間、私がどんなに辛い思いをしているのか、誰かに分かって欲しかったけど、話をこうして真剣に聞いてくれる人は、今まで誰もいなかったわ。本当にこんな私のことを思ってくれてありがとう・・・“
私たちが出来るのは話を聞いて一緒に祈ってあげることだけでしたが、チナンデーガの人たちにとっては、それだけでも励ましになったことが私には驚きでした。
もう一つの私達の大きなプロジェクトは、ボアコと言う山のど真ん中にある小さな村の辺りの幼稚園と小学校で歯の手入れの授業、そして讃美と聖書の時間をを手伝う事でした。マナグアとチナンデーガとは違い、ボアコの人々は、小さな馬小屋のような家に住み、床は全部土、トイレは外に掘った穴だけ、水も全部何キロも離れた井戸から毎日運ぶ、と言うような生活をしていました。そして学校ではほとんどの子供達は歯ブラシや歯磨き粉を見たこともなく、ちゃんとした歯磨きの仕方も知りませんでした。一度も歯医者に行ったこともなく、かなり歯が痛んでいた子もいました。
そのような状態だったので、私達は先生方と協力し、歯磨きのポスターや、子供たちが分かるように劇も作りました。外国人を見るのが初めてだった子供たちは大喜びで、私たちがアメリカからプレゼントとして持ってきた、歯ブラシと歯磨き粉のセットも笑顔で受け取ってくれました。そしてその後は子供たちと讃美をし、“よきサマリヤ人”の劇を発表しました。ものすごくシンプルで、たいした劇ではありませんでしたが、子供たちは目を真ん丸くしながら真剣に見てくれました。子供たちが大好きだった一曲の歌詞の一部を紹介したいと思います:
“Eres todopoderoso, eres grande y majestuoso. Eres fuerte, invincible, y no hay nadie como tu”
(あなたはは全能の神、威厳のある素晴らしい方。あなたの様に強くて
征服できないお方はいない)。
この旅に行って一番驚いたのは、あんなに貧しく暮らしているニカラグアの人たちが、どんなに私達を厚くもてなしてくれたか、と言うことでした。牧師の家、教会、そしてホストファミリーの家に泊まりましたが、皆私達のために素晴らしいごちそうを作ってくれたり、洗濯をしてくれたり、本当に家族の一員として受け入れてくれました。そして私たちが何か少しでもしてあげたら(例えば家の掃除や料理の手伝いをしたら)その十倍のものを私達に与えてくれました。それから、出会えた人たち一人一人と個人的に話をして、どういう重荷を抱えているのかを少しでも理解できた事が感謝でした。私のあまり上手でもないスペイン語を本当に辛抱強く理解しようとしてくれ、私を信頼し、悩みや祈って欲しい心配事を涙を流しながら語ってくれました。
今振り返って “なんであんなに貧しくて苦労一杯の生活をしている人たちが、毎日笑顔で私達を出迎えられたのだろう?どうして出会ったばかりの私達に色々な話をしたがり、やさしくしてくれたのだろう?”と思うと、それは人間関係を通して神様の愛に満たされていたからだと思います。アメリカでよく見る物質主義な考え方とは違って、ニカラグアの人たちにとって信頼できるのは、お互いの励ましと神様の支えでした。今の時代では自分がどんな家に住んでいて、どんな車を持っていて、どんなにお金を持っているかが一番のプライドと言う人が多いかもしませんけれど、そのような物がないニカラグア人は人との出会いと交わり、そして信仰を第一にしていました。
あと、もう一つ感じたことは、もしかしたら、大学生14人がニカラグアに行けるために集めたお金を大きな小切手にして、色々な団体にドネーションとして送った方が、簡単で役に立ったかもしれませんが、実際に現地に行って人々と出会って、顔を見ながら話をしたり、心から話に耳を傾けたりする交わりに、どれほど価値があるかと言う事が分かりました。
ボアコで出会った牧師さんが私たちが帰る直前にこう言いました:
“You are the voice of Nicaragua nowモ.  私たちが見て経験した事をアメリカに持って帰り、ニカラグア人の物語を伝えてほしい・・・ニカラグアの声となって・・・”
それが牧師さんの願いでした。
本当にこのような経験が出来た事を神様に感謝します。また、私がこの旅に行けるようにサポートしてくださった教会の皆さんに心から感謝しています。

“主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。モ  -詩篇18:2

月報2007年12月号より

「待ちつづけてくださった神様」

私がどのようにイエス・キリストを救い主として受け入れたか、書きたいと思います。

私の家はクリスチャンホームで、物心ついた時は、すでに神様の存在を信じていました。小学校時代は近所の子に聖書の話をしたり、教会へ誘い、連れて行ったり、積極的でした。特に「みことばカード」をもらうのがうれしくて、もらったカードを大切にし、暗唱していました。
しかし、中学校くらいから、友達の誘いを受けることも増え、映画や他校の学校祭、試験の前の勉強等があると、教会を休みたい、と思う気持ちも出てきました。母に聞くと、「日曜日は神様に礼拝をささげる日。神様には余った時間をささげるのではなく、第一にしなければならないんだよ」と許されませんでした。「お父さんやお母さんは自分で選んでクリスチャンになったからいいけど、私はキリスト教を選んだわけじゃないのに・・・」とふくれながら教会へ行ったこともありました。

18歳の時、私は進学のため、札幌で一人暮らしをすることになりました。我が家はけっこう厳しい家庭だったので、私は不安よりも期待と解放感でいっぱいでした。
でも、日中は私の行っていた教会の開いていた救世軍の保育園で、見習いとして働き、夜は学校で3年間学び、保母と幼稚園教諭の資格を取るという生活で、午後9時に授業が終わって、ピアノの練習、バドミントンのサークル、そしてお風呂屋さんへ10時半頃駆け込み、本当に枕に頭が着くともう眠っているという毎日でした。それでも日曜日は、毎日顔をあわせる園長が教会でメッセージなので、もちろん休むことなく、毎週教会に行っていました。(これは一人暮らしの条件として両親との約束でもあったのです)
しかし、私の気持ちは、神様は信じているけれど、イエス様の十字架は遠い昔の物語のようであり、自分と繋がっている実感がありませんでした。

そんな21歳のある特別集会の夜、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたことが語られていました。いつもは「またその話か・・・」という気持ちでいるのですが、その時は、心の中で「神様、あなたがわたしを求めておられるのは、わかっています。でも勇気がありません。K先生を遣わしてくださったら、私は前へ踏み出します。」と祈ってみました。
すると、離れた所にいたK先生が、私の隣に来ていて「私と一緒にお祈りしませんか?」と声をかけてくださいました。
「神様は私の祈りを聞いてくださっている!!」と心が打たれ、素直な心でK先生から話を聞きました。そして、私の罪のためにイエス様が十字架で死なれたこと、私の罪が赦されたということを信じることができました。
その時、与えられたのは、ヨハネによる福音書15章4-5節の
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。もし、人がわたしにつながっており、わたしが、その人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」との御言葉でした。

神様はなんと気が長いお方でしょう。21年もわたしがしっかり神様に向き合うのを待っていてくださったのです。
それまで神様は私にとって、いつも見られている、厳しい、息苦しい存在でした。でも、それからは、赦された、愛されている喜びでいっぱいになりました。

神様が私を新しくしてくださったのです。

今、私は教会学校の教師の一人に加えて頂いています。子供たちに聖書が語られ、御言葉を暗唱しているのを見ながら、今、まかれているこの種が、いつ、この子たちの人生で花を開くのかと思うと、希望でいっぱい、うれしくなります。

テモテへの第2の手紙3:15
「幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」

神様は生きておられ、豊かに私たち一人一人に働きかけ、日々、つくり変えてくださることに感謝しつつ、神様と共に歩んでいきたいと思います。

月報2007年11月号より

「B.I.G.キャンプ 2007 GOD is soooo BIG! – 神様は無限大!」

8月3日(金)から5日(日)まで二泊三日、Shiloh Bible CampにてB.I.G.(*注1)キャンプがもたれました。今年は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師を講師としてお招きし、”Think BIG! Live BIG! GOD is BIG!”をテーマに、ダビデの生涯を中心にみことばのときを持ちました。
JoyJoyキャンプ終了後の金曜日、午後6時半過ぎに教会を出発。途中、ナビゲーションシステム(?)の故障(??)に見舞われ道を何度か間違えつつも、無事にキャンプ場に到着、現地集合組だった栗栖牧師及び津波古姉(プリンストン日本語教会)と合流しました。

早速第1回目の集会を持ち、自己紹介の後、ダビデが王として選ばれる過程(サムエル記上 16章6-13節)に学びました。
「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」 (7節)
人が目で見ているものと、神さまのVISIONとは必ずしもいつも同じではない。そして、God is BIG!、なのだから、神さまが最高のVISIONを持って導いておられるのだから、逃げないで、一歩一歩を歩んでいこうと、みことばから励まされました。私たちはGreen Orange (*注2)です。

参加していた中高生のうち、JoyJoyキャンプスタッフをしていたメンバーは、さすがに疲れていて早く寝るだろうとの予想は見事にはずれ、賛美をし、語りあい、あるいはゲームをともにしつつ、1日目の夜は更けていきました。

翌土曜日、朝7時から祈りのときを持ちました。年齢別に三つのスモールグループに分かれ、ローマ5章6-11節からみことばを分かち合い、またともに祈るときとなりました。

朝食後、第2回目の集会、ゴリアテに立ち向かうダビデ(サムエル記上 17章)の姿から、「神さまはBIGな方だから、どんな敵にも勝つ」ことを学びました。
周囲や味方の声に束縛されて、逃げてしまうのではなく、勇気を持って、神さまを知って、歩んでいく。いつでも、どこにいても、「みことば」と「祈ること」とを握りしめて、歩んでいく。
「神がわたしたちの味方」(ローマ 8章31節)であり、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ 8章37節 -新改訳では「圧倒的な勝利者」)、そして、これはただの「理想論」ではなくて、神さまの祝福の約束のみことばなのだから、必ずその通りになるのだと、熱く語られました。

午後はレクリエーション。クイズタイムの後、外に出て「逆かくれんぼ」(?-詳しくは最寄のキャンプ参加者まで)を楽しみました。隠れてもいい範囲の外に出て隠れる者、毎回必ず見つけ出すエキスパート、最後にひとりだけ取り残されてもあわてない者など、各々の個性が、よく見えました。
その後はフリータイム、キャンパーとスタッフが一対一でゆっくり語りあうときを持つなど、恵まれたときとなりました。

賛美のときを持った後、夕食、第3回目の集会をもち、サムエル記下 12章・13章及び詩篇51篇 から、「罪」と「イエス・キリストの十字架と復活」に思いをはせました。
他の誰かが、自分の罪のために死んでくれたのだとしたら、自分は、生きているのなら、生かされているのなら、生きていく。ある北朝鮮のクリスチャンの話をうかがいました。また、栗栖牧師が証をしてくださいました。こころ打たれ、また、確かに神さまの栄光を見ました。

集会後、キャンプファイヤー。今までの罪、忘れたいこと、自分が縛られていることなどを、各自が紙に書き、燃える炎の中に投げ入れ、ひとり一人が、神さまの前にこころを注ぎだすときとなりました。(マシュマロも、とってもおいしかったです。)

翌主日のご奉仕がある栗栖牧師と津波古姉はキャンプファイアー後、帰宅の途につかれ、2日目の夜、さぞ疲れがたまっていたであろうはずのキャンパーは(そしてスタッフも)、しばしのときを惜しむかのように語りあうときをもちました。

最終日、祈り会の後、朝食。土曜の夜の集会に引き続き、錦織牧師が合流され、第4回目の集会がもたれました。参加者ひとり一人が証を語り、ともに賛美し、また祈りのときをもちました。
その後、ヨハネ15章1節-7節から、錦織牧師を通して語られました。イエスにつながっていること、イエスがひとり一人を綺麗にすること、用いられるために選ばれたこと、「行って実をむす」ぶこと(16節)。
最後に来年のキャンプには、少なくとも今年の倍以上の参加者があることを祈りつつ、集会を終えました。

集会後、例年お楽しみの男子グループ対女子グループの掃除対決。部屋及びシャワー・トイレの掃除の出来具合を競います。今年は、公正な審査の結果、男子グループが勝利!連勝中です。(女子グループ、来年はがんばれ!)

それぞれがそれぞれの思いを大切に抱えて、二泊三日を過ごしたShiloh Bible Campを出発、教会へ直行し、主日礼拝をもってB.I.G.キャンプは終了しました。
みなさまの尊いお祈りに感謝します。
プリンストンから駆けつけてくださった栗栖牧師、津波古姉、その他、さまざまのところで祈りとご奉仕をもって支えてくださったお一人お一人に、スタッフ一同感謝しています。
5日(日)の昼食を用意してくださったみなさま、ありがとうございました。(毎週食べたいぐらいにおいしかったです。)
そして、キャンプに参加してくれたひとり一人にも、感謝しています。

栗栖牧師がキャンプ後1週間ほどして参加者宛てにメールをくださいました。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
ヘブル 13章8節

主に在ってひとつ

*注1:B.I.G. :中高生クラスは呼称を変えました。これからは正式名称B.I.G.です。よろしくお願いします。B.I.G.とは、モBelieve in God and Make it Big,モ、メBelieve in God and Make it Grow,モ、メBelieve in God and Be Big,モと、いろいろな説がありますが、ともかく、モBelieve in Godモ - 神様を信じる輪を大きく広げていこうという思いが込められています。

*注2:「KOの証人」さんのコメント(以下)ご覧ください。

キャンパーからの声を紹介します。

-「はじ」さんから
『3日間という短い期間の中高生キャンプに参加した時、その初日のうちからいらいらしていた。
この夏の間そのキャンプとその週の間に行われた Joy Joy Camp 以外は、サッカーと遊び(息抜き?)と勉強とで毎日がただただ過ぎていた。この夏に大きく期待を抱いていた僕にとっては正直信仰の面でとても物足りない気がしていた。その自分の期待に応えられる程の成長をしていなかった事に恐らく苛立っていたんだろう。自分のゴール、自分が作ったハードルを越えることの出来ない事について苛立ちを感じ、その感情を抱きながら参加した中高生キャンプでした。
しかしその僕の心を神様はそのままにはされなかった。

何かキャンプなどのイベントがあると「ボワ」っと燃えるという悪い習慣がいつの間にか身についてしまったのか、「毎日の生活の中で神様との時間を持つ」という事をしていてもいい加減だったり、「何か一つ足りない」と言う思いを常に持っていた日々が続いていた。しかし、神様はその僕の心と姿勢を問いかけ、何かのイベントの時だけ燃やされるのではなく、毎日のありふれた生活の中での神様との交わりの時が、聖霊に満たされた時が必要なのだと思わされました。』

-「あっこ」さんから
『最後の夜私は天の川を見ました。
初めて見た天の川、真っ暗な空を宝石箱に変え、本当に空に輝く道がありました。
その天の川を見ながら本当に神はなんて大きいんだろうと感じました。
このキャンプで神の愛、みんなの愛を本当に感じました。
栗栖先生の証を聞いて、何でこの人はこんなに自分の汚かった過去をこんなガキ12人にも言えるんだろうと思いました。本当に自分たちは愛されてるんだ、栗栖先生にも、みんなにも、神様にも愛されてる。
私はこんなに幸せでいいのだろうか???なんて思いました。

キャンプで神の偉大さ、素晴らしさ、大きな愛を学びました。
自分は愛されてる、この大きな神様が自分を見ていてくれる、本当に心の奥底から喜びがあふれる体験を私はこのキャンプでしました。
キャンプで学んだこと、感じたこと、大学でも忘れずにがんばります。
ありがとうございました。』

-「KOの証人」さんから
『 – ダビデと自分 –
�@ダビデは仲間(兄弟や周囲の人)から『お前はだめだ』とか『勝てるわけない』といわれても頑張った。
�A僕は、心の自分から『お前じゃ無理だ』とか『負ければいい』といわれる。→頑張れる

�@ゴリアテからすごい侮辱を受ける。→でも頑張った。
�A僕らの壁・敵からダメージを受ける。→頑張れる。

�@神様からのプレゼントは勝利
�A神様からのプレゼントは勝利

神様がダビデにビジョンを与えてくれたように僕達にもビジョンを与えてくれる。
神様がダビデに勝利を与えてくれたように僕達にも勝利を与えてくれる。

頑張るとは?
→神様の計画に沿って生きると決心し、神様を信頼すること。

神様の望んでおられること?
→今僕が考えているのは神様の愛している人々に仕えることで神様に喜んでもらうこと。
このキャンプを通してさまざまなことを聞くことが出来た。仕えて生きることも大切だ。

そして神様の計画をかみしめながら(味わいながら)※グリーンオレンジであることを認め生きていくことが大切だとわかった。
※注:まだ熟したみかんではないが、熟した美味しいみかんになるために通る道であるということ。』

-「りょうすけ」さんから
・ Donユt worry about the future: God already has a vision for us
・ Donユt look at the past to see regrets, but to see blessings
・ Our weapons: Godユs word/prayer/faith: defeat our Goliath
→ Made more than conquerors
・ Break our pride

・ Live so that a testimony explaining the love of Christ remains / is made
← Greatest offering to God
・ Stay tied to the tree
・ Felt I need to recharge
– God is NOT most present at retreats and camps
– God is most present EVERYDAY
– When I need to メrechargeモ: I can look to him anytime
・ Bible Verse: 「ところがイエスは、『なんということでしょう!それでも神を信じているのですか?そんなにこわがったりして。』」マタイ8:26
・ He replied, メYou of little faith, why are you so afraid?モモ Matthew 8:26 (LivingアニメBibleより)

<おまけ>
スタッフたちから、ひと言二言。

『キャンプ中、同じ御言葉を何度も与えられました。「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」 ローマ人への手紙8:37』

『燃えるようなあつ~いキャンプというよりは、じっくりじわ~とみ言葉を温めるあったか~いキャンプでした。
私のために犠牲になった方がおられるなら、私はその方のために生きなければいけない!
そんなキャンプで感じた思いは、今でもしっとりと、しかし強く感じています。
参加した中高生一人一人にもそれぞれ、心に温かな思いを持ち、キャンプを去ったようです。
神さまは本当にBIGなのです。
そして、このニュージャージーの中高生のB.I.G.は何て祝福された愛された集まりなんだろうと改めて思わされました。
神さま、一人一人を、そしてこの集まりを祝福し続けてください。』

『栗栖先生に、「なんで受洗したの?」と問われて、「そこに手が差し伸べられているのなら、その手を握り返したい。そう思いました。」と、素直に(?)答えた自分のことばが、何度もなんども自分の中を、あれからぐるぐる回っています。この、僕の右の手を、イエスさまが、今までも、今も、これからも、いつも、握っていてくださる。僕に、握り返す力がないときにも、イエスさまは、しっかりと握っていてくださる。自分の右の手を見て、開いたり閉じたりするたびに、そこにイエスさまの手の温かさを感じます(イザヤ 42:6-7)。 B.I.G.キャンプに、このメンバーとともに、この時に集えたこと、神さまに、ひとり一人に、感謝しています.。 ありがとう。 これからもよろしく。です。 主に在ってひとつ。』

『本当に私自身が楽しみました。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ 29:11』

月報2007年9月号より

「教会に入って特に印象に残ったものは…」

教会に入って特に印象に残ったものは、人々の、特に子供達の(歓迎の?)笑顔でした。皆さんのお優しい歓待にも感銘を受けました。そして、礼拝が始まってからの十数年ぶりのオルガンの賛美歌の音色。聖句、説教、、、とにかく、涙を隠すのに必死でした。涙の理由はその時は分かりませんでした。「心が癒されているのかな」ぐらいです。

けれども、その日以来、私に芽生えたものがありました。欽定訳の聖書は持っていたので久しぶりに読み進め、やはり難しいので途中で日本語のものを買い求め、日曜日のレッスンを何とか調整して礼拝に参加出来るように試み始めたのです。

そして、決心、というか我慢が出来なくなった感じですが、何回か礼拝に参加して後、1月のある礼拝が終了してからフラフラと錦織牧師のもとへ近づいて言いました。「あのー、2月28日が誕生日なんですけれども、その時に洗礼を受けさせてもらえたらと思いまして、、、」

その時も気持ちが一杯一杯で、どのように洗礼というものをお願いしたらよいのか分からず、皆が生まれ変わるものなんだと言っているし誕生日が近かったので、とりあえず思いつくまま言ってしまったのです。思い起こすと半笑いのシーンで、当然ながら先生は「こいつはミーハーなんじゃないか」と心の中で思われたのかもしれません、返す刀、「いやあ、洗礼って言うのはね、、」と始められ、最後に「いくら望んでも(洗礼を)してあげられないんです」と仰られました。

先生は、ただクリスチャンが最低限信じなければならないことを説明されただけなのですが、最後の言葉でショックというか焦ってしまい、私の次の句を継げずにいると、先生はそれを察したのか「とりあえず話でも」と礼拝堂の中へ招いて下さいました。

そこで前述のような出来事や自分の状況を、上手く説明できませんでしたが、先生にお伝えして、自分が生まれ変わりたいことを訴えました。途中から涙涙で情けなかったのですが、先生はご理解くださり、その場で「最も純粋な福音」であるローマ人への手紙を奉読した後に、自分の言葉で信仰告白を致しました。イエスに執り成しの恵みを信じ祈ることを誓ったのです。

そして、先生のNY面談日に信徒としての基本的な勉強をさせて頂いた後、私の誕生日ではないものの、嬉しい偶然にも尊敬するルターの誕生日にあたる2月18日に受洗させて頂いたのです。コンサートで良い演奏が出来た時のように、その時の事はほとんど覚えていません。

私には何が起こったのでしょうか?

既に書いたとおり、うつ状態の私でした。元来が積極的に外へ出ることのない性格ですから、仕事と学校以外は荒れ放題の部屋に篭っていたわけです。何事もバランスですから、礼拝に初めて参加した時分の私の心は、いわば太陽の光を極端に浴びないモヤシか深海魚の形のように歪になっていたわけです。

今では断言することが出来ます。あの時、私の歪な心は「癒されていた」という次元ではありませんでした。実に、主が心にお触れになられたのです。イエスの磔刑による贖罪を良く知らなかった時でさえ、私の事をご存知だったのでしょう、また丸い形に戻してあげようとなさったのです。それを体験した私には分かります。あのような単純極まりないことが、このように感嘆調で書くのがバカらしくなるくらいのことが、神との出会いであり、奇跡の御印であるということが!そうでないと説明が出来ないのです。まったく理屈じゃないのですから。

もちろん、ヨブの時のように嵐の中に主の声が木霊したわけでも、あの有名な神の弁論を開始されたわけでもありません。しかし、それが何でしょうか?奇跡は目に見えなければならず、神は見えて聞こえなければならず、誰にでも分かるものでなければならないのでしょうか?同じく、私達は神に触れられるためにはなるべく辛い経験をしなければならないのでしょうか?善行を、はたまた悪行を積まねばならないのでしょうか?

神の臨在の個人的な証言という証の本来の目的に加え、私は、自身と関わりの深いヨブ記と自らの体験を通して、これらの疑問はすべて否ではないかということも提起したいのです。

前半部分の掲載後、「驚いた」「すごい」という感想があったことに少し違和感があります。私は、私小説を書いたわけでも、スキャンダラスに体験告白もしたつもりは全くありません。誇張も虚構もありません。努めて客観的に書いてきました。そして、私の人生経験もごく普通だと思うのです。恋愛し、失敗し、悩み、調子に乗り、好きな事にのめりこみ、、、程度の差はあれど、私が経験してきた事は誰もが一度は通り、または通らなければならないものではないでしょうか。

ヨブは、私なぞとは違い非の打ち所のない義人でしたが、想像を絶する苦しみを受けます。勧善懲悪、因果応報的な教訓でもってヨブを慰め悔い改めさせようとする友人達(青年エリフが私にとり未だ謎ですが)も登場し、深遠な神義論が展開されます。しかし、身に覚えの無いヨブは遂に神への疑問を呈します。

人生の不条理から生ずる神への疑念、そして神の「沈黙」。遠藤周作が描かずとも、クリスチャンであれば誰もがぶつかる難問だと思います。幸運なことに、ヨブの場合には「沈黙」が続きに続いたところで主の声が聞こえます。しかし、それはヨブの問いや関心を全く無視したものです。それにもかかわらず、突然ヨブは悔い改めて救われるわけです。普通の人が見ると、答えの無いドラマです。「不合理」なのです。

私の場合、「神(日本的な概念での、またはヨブの友人達のような捉え方での)」を畏れてはいましたが、無論ヨブ程ではないでしょうし、まず彼よりも罪人であることは確かです。同時に、少なくとも私自身が思うに普通の人生を送ってきました。しかし、沈黙の主は確実に私の心に触れてくださいました。そう、ヨブ記が、救いや苦しみは善悪の量とは無関係であると私達に教えるように。そこに言葉の理による「答え」などありません。主の臨在に圧倒されるのみです。

今の私は、昔のように因果応報的に考えることは少なくなり、また、神へ現世利益を願うことはまずありません。けれども、受洗以来、何気ないことに主の祝福を感じています。例えば、今日は天気だ、とか。

受洗からまだ日も浅いですが、愚かな私は既に何度か御心を問うような真似をしました。もちろん、その度に主は沈黙しますが、一度でも突然救われる「不合理」を体験した身には、全く構わないのです。それよりも、単純素朴な事にでも主の祝福を感じられること、共に居てくださるのが分かる歓びが、何百倍もの心強さなのですから。「不合理」は些細なレベルでも起こっているのですし、来るときには再び衝撃的に訪れるのでしょうから。

ゲーテはヨブ記を下敷きに畢生の大作「ファウスト」を書きました。冒頭で、悪魔メフィストフェレスと神が賭けをする設定はそのままです。もちろん、ヨブにあたる人はファウスト博士です。「人間は努力する限り迷うものである」として、神は寛大にもファウストを闇に引き入れることを悪魔に許し賭けが開始されます。

その最終場面、悪魔の所存で悪行も善行も重ねた挙句に今は盲目になったファウストが、死霊が自分の墓を掘っている音を、人々が未来の為に努力している工事の音だと思い込んで、最高の至福の瞬間を味わい(「この瞬間よ、止まれ!お前はいかにも美しい。」)絶息します。悪魔との契約で彼の魂は闇に捕われるはずのところですが、天使たちが唐突にも悪魔より横取りして天に上げるのです。この件は、ヨブの物語と同じく、いつも人生と神との関係について投げかけます。

この稿の目的である神の臨在の証を真に行なおうとすれば、恐らくこの紙面や文字を以ってでは不可能で、それは私自身のこれからの人生によってなされねばならない事です。その人生も、ヨブやファウストが暗示するように、悪魔的なものに突き動かされ邪魔されながら、墓を掘る音か工事の音かも分からず盲目の暗闇を歩いていくようなものなのだと予想します。

罪人であり義人でもあるファウストの魂が天上へ昇った後に歌われる天使達の合唱、―「絶えず努力して励む者を、我らは救うことができる」

残念ながら、これは聖書の言葉ではないですし、イエスの贖罪により救われるという原点からも外れている言葉のように見えます。しかし、愛するイエスの仲介よる神の救いの道が善悪の量に関係なく開かれていることを体験した今、これ以上イエスに私の為の血を流させないように努力し、悪魔の陥穽が待ち受けている実生活を懸命に、けれど今からは笑顔で生きていきたい私には重要な含蓄です。

神とこれからの自分の人生との関係を見つめるとき、聖と俗を象徴するようなヨブとファウストという二人の姿は、私の中で絶えず重なり合い、指針となるだろうと考えます。そして、いつの日か、聖霊の助けとイエスの執り成しにより、私の魂も神に許されて救われることを心から希うのです。(終わり)

訂正:前回の最後、私が始めて礼拝に参加したのは感謝祭の日と書いていますが、感謝祭の週の愛餐会があった日の礼拝です。お詫びします。

月報2007年8月号より