「主の御名を賛美いたします。…」

主の御名を賛美いたします。

3年前の私の病気に際して戴いた教会の皆様のお祈りにあらためて心から感謝します。

2006年2月の末、私は東京の自宅から徒歩3分の所に新設された順天堂大学医学部付属病院で総合的に身体検査を受けました。今後この病院にお世話になろうと思ったからです。

その結果、大腸の上行結腸に3CMくらいのガンが発見されました。私の友人には大腸ガンを切り取って元気に暮らしている人が何人もいるので「あなたはガンです」と言われても「ああそうか、切ればいいんだ」と思っただけでした。しかし「あなたは糖尿があるし、心筋梗塞もしているので、手術にはかなりのリスクが伴います」というので「どんなリスクで確率はどれくらい?」と聞くと、「5分5分の確率で手術の最中または直後に心筋梗塞や脳梗塞を起こす恐れがあります。病院としては、もしそうなってもすぐ対応する準備はしますが」とのことです。これにはちょっと暗い気持ちになりました。

私自身は本来体が弱く60歳くらいまで生きられればいい方だと言われていたのに、もう75歳だから今死んでも十二分に元は取れている。今目標としている日本人男性の平均寿命78歳だってもう目と鼻の先だ。だから死ぬのはそれほど怖くありません。それでこのままにしていて残された寿命はどれくらいでしょうか?と聞くと「2年間は何も起きないでしょう、3年目も大丈夫かもしれない、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょう」とのこと。最後に苦しむのは困るけど、それだけ時間があるなら手術は受けまいと決めました。

その後いろんな方とお会いする機会がありましたが、みんな私も家内も元気そうで明るい顔をしていると驚かれたそうです。とてもガンの「宣告」を受けた人とは思えないと言うのです。それは私にはとても不思議に思えました。しかし私たちが平安を保てたのは私たちがクリスチャンであることにあると気付かされました。勿論、年齢的なことも大きかったと思いますが、私たちには既に天に永遠の命が用意されているのだということが無意識のうちに死を恐れない安心感を戴いていたのだと思います。

ただ私は何もしなかったわけではなく、3月初めに帰ってくる予定を5月初旬まで延ばし、かねてよりガン治療に著効があると聞き知っていた温熱療法に丸2ヶ月通いました。また、この間、気功治療も受けました。その後、6月に新谷先生の内視鏡検査と転移の有無を調べるCT検査を受けたところ、「ガンは治っていません。今なら転移はないようだからリスクはあっても取ってしまった方がいいですよ」と言われました。ここでも私は手術を拒否、そこで、新谷先生は「では10月にもう一度診ましょう。その時治っていなかったら切る他はありませんよ」と言い残して日本に行かれました。

10月に受けた再検査で私のガンが快方に向かっていないことが確かめられ、新谷先生は私に有無を言わせず、その場で手術担当医のアポイントをとり、アレヨアレヨと言う間に、11月1日の入院手術が決まってしまいました。そして手術。私は麻酔にsensitiveだから気をつけてと言っておいたにもかかわらず、2日の朝まで覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こしてしまいました。でも、私は目が覚めて神さまに感謝しました。ガンは取れた、そして、心配していたside effectは心筋梗塞でよかった。
実は私は入院の前にお祈りしたのです。「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と。弟を脳梗塞で亡くした私は、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさを身にしみてわかっていましたから。こうして2週間後、私は晴れて退院しました。

この経験を通して私は神様に守られていることを実感しました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと。第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと。第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で新谷先生が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと。第四に脳梗塞を回避できたこと。そしてもう一つ、子供たちが誰か一人付き添いに来ることを相談し、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘が飛んできて、私と家内のサポートをしてくれ、また、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと、これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。

月報2009年2月号より

「アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。…」

アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。初めての駐在でNew Yorkに来ましたが、その後、2度目はHouston、3度目は又、New Yorkでした。3度目の駐在の話が持ち上がった時は、子供たちと日本に残る積もりでした。長女は高校生、長男は中学生になっていて、日本の生活にやっと慣れて、もうアメリカには行きたくなかったこと、主人のお酒の問題があったことでした。主人は一人で行く積もりでいたところ、2つの条件が出されました。それは 「お酒を止める事」と「家族同伴」ということでした。これまでの2度の駐在で、お酒の上での問題が多々あり、上司がこの条件を出したのでした。

結婚してから、主人がずいぶんお酒飲みだということを知りました。最初のNY駐在時は多くのお酒の上での武勇伝を残し、帰国時には、「加藤はピアノバーを一軒持つほど飲んだ。」と言われ、Houston駐在の時はますますひどく、連日泥酔状態で車を運転して帰ってくるので、心配で眠れずにいても、「酔ってなんかいない。うるさく言うな。寝ていろ。」と、取り合わず、いつも喧嘩になってしまいます。子供たちは海外転勤の度にとけこむまでの苦労、ようやく慣れて楽しくなった頃に帰国、の繰り返しの中で、家庭を顧みない主人への怒りと不満がいっぱいで、どこにこの思いをぶつければよいのか分からない毎日に、子供たちに怒りをぶつけてしまうような日々でした。主人を憎むようになり、離婚を考えましたが、子供が学校を出るまで、と言い聞かせて過ごす毎日で、家庭は崩壊をたどる一方でした。そして帰国。子供たちは帰国子女の受ける様々な悩みを体験しながら、それでも3年経ってだんだん日本の生活にも馴染み始めた頃に3度目の転勤の話でした。長女は大学受験の準備も始め、秋の修学旅行を楽しみにしていて、長男は中学で得意の水泳で力を現し始めた頃でした。主人は日本に帰ってからも相変わらずの深酒で、真夜中に酔って意識をなくすほどになってタクシーの運転手に担ぎこまれるような毎日で、お酒とタクシー代に家計費も消えてしまうような経済的にも苦しい生活で、3度目の転勤には全く一緒に行く積もりはありませんでした。

その頃、テレビで「くれない族の・・」というドラマがあり、くれない族というのは、ああしてくれない、こうしてくれない、と言う主婦たちのことだと知り、私もそうだなあ、と思わされていました。分かってくれない、家族のことを考えてくれない、子供たちのことも協力もしてくれない・・と、不満ばかりで、では、私は主人のことを理解してあげようとしただろうか、何をしてあげてきただろうか、と考えるようになりました。お酒を止めるという条件を受けるのなら、家族同伴という条件も受けて、もう一度なんとかやり直すことが出来るかもしれないと思い、子供たちを説得して、1986年9月、3度目のアメリカにやってきました。

しばらくは主人はお酒を飲まずにいましたが、又、飲み始め、連日、酔っ払って朝帰りをするようになりました。子供たちも暗い表情で学校に通い、長女は日本の高校生活、友達を思って、落ち込んで頭痛や腹痛で学校を休み、泣いて過ごす日々で、どうしたらいいのか途方にくれる毎日でした。日本を発つ前にクリスチャンの友人が聖書を下さって、ピリピ書4章6節を開いて示してくれました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事々に、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろう。」とありました。神の平安とはどういうものだろうか、と思いました。子供の頃、家の裏に教会があって、礼拝にも出ていたことがあったのですが、その頃には聖書を持っていたことすら忘れているほどでした。けれど、そのすっかり忘れていた学生時分の聖書が持ってきた荷物の中にありました。又、その頃読み始めていた三浦綾子さんの本を読んでいるうちに、聖書を読みたい、知りたい、と思うようになりました。そんな時に聖書を読むという家庭集会に誘われました。当時Philadelphiaにおられた島田牧師が近くに来られたその集会の日は長女が頭痛で学校を休んでいたのですが、先生とみなさんが手をつないで祈って下さって、帰ってみると娘はさっぱりとした顔つきで本を読んでいました。祈りがきかれた?・・・と不思議な気持ちがしました。次の集会の時に、誘ってくれた友人と12月のクリスマス礼拝の時に洗礼を受けることになってしまいました。なんの準備もなく突然、洗礼ということになり、戸惑いを覚えましたが、娘も一緒に受けたい、と言います。ふと思い出しことは、Houston時代に近所の教会のサマーキャンプに娘を入れた時、帰ってきた娘は「私、イエス様を信じて神様の子供になったの」と言っていたことでした。そして1987年クリスマスに、友人と娘と一緒に洗礼を受けました。自分の中にこれ程の涙があったのか、と思うほど涙があふれて止まりませんでした。心の中の怒り、悲しみ、憎しみなどが涙で洗い流されるようでした。

洗礼を受けた後は、全てが輝いて見え、嬉しくて仕方がなく、神様が下さる平安というのが分かりました。でも主人はと言えば、相変わらずの深酒で、やめたいと思ってもやめられないでいるみじめな姿に心が痛みました。断食して祈ろう、と思い始め、4月のある早朝から、「神様、主人を捕らえているお酒から解放して下さい。哀れんでください。」と外を歩きながら涙で祈りました。祈り始めて3日目くらいでしょうか。朝帰りの主人が、お酒を止められない、と絶望している時に、島田牧師と会う機会が与えられました。話の後で、先生の後をついて信仰告白の祈りをしたそうです。その日からお酒を口にしなくなりました。飲まなくなったのではなく、飲めなくなったのです。お酒から解放されたのです。本当に不思議なことでした。そして、私達から半年後の6月に洗礼を受けました。その後、日に3箱も吸っていたタバコからも解放されて、神様の圧倒的な御業には、主人も全面降伏という感じで、それからの主人の変わりようは驚くばかりでした。これまでの苦しみは神様に出会うためであったと分かりました。全てが感謝に変わりました。
「苦しみにあったことは、私にとって良いことです。これによって私はあなたの掟を学ぶことが出来ました。」   詩篇119篇71節

信仰を持ったら全ての苦しみがなくなるのではない。でもどんな状況の中でも主がともにいてくださり、全てを益としてくださる、ということは本当に素晴らしいことです。
1989年に乳がんの診断を受け、手術をすることになりました。手術がまじかに迫っていた8月9日の朝、眠りの中で声を聞きました。「そればかりではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終わることがない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからである。」飛び起きました。すぐに聖書を開いてみて、ロマ書5章3~5節の御言葉を見つけました。神様の御声を聞いたのです。もう病気も手術も怖くなくなりました。手術後、病院の中で私ほど喜びに満たされていた患者はなかったと思います。点滴のポールを持って病院の廊下を歩きながら賛美があふれました。神様がともにいて下さる喜びでいっぱいでした。
それからも色んなことがありましたし、これからも試練が来ることでしょうがどんな時も神様に信頼することを学んでいます。神様は早すぎることなく、遅すぎることなく、最善の時に最善を成して下さることを知りました。信仰を持ったばかりの時には、20年も経てばもっともっと信仰も成長して、と思っていたのに、相変わらず弱く欠けだらけの足りない者です。それでも、神様の約束は変わることなく、一方的な愛を注いで下さっていることに感謝でいっぱいになります。

「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない。」とあなたをあわれまれる主は言われる。(イザヤ書54章10節)
この主に信頼して、生涯、従って行きたい、と願っています。

月報2009年1月号より

「パズル」

アメリカに来て1年半、この教会に来るようになって約半年が経ちました。
生まれてからすぐに日本へ行き、それからずっと同じところに住んでいて、1度も「転勤」を経験したことのなかった私にとって、この引越しはすごく大きな出来事でした。

引越しが決まったのは2006年の秋頃、中学1年のときでした。父の仕事の都合上、いつかは必ずアメリカに引っ越すときが来る、というのは分かっていましたが、実際にそういうこととなると、そう簡単なことではありませんでした。
まずは転校したくないということ。しかも中学受験をしてやっとの思いで入った学校。ちょうど学校にも慣れ、楽しくてしょうがないという時に転校なんて、正直ありえないと思いました。しかし現実は現実。引越しの準備は着々と進んで行き、とうとう引越しはやってきました。初めて転校をし、たくさんの人との別れを経験しました。
また、新しい生活への不安とは反対に、同じクラスだった帰国子女の友達が英語をぺらぺらしゃべっているのを見て、「アメリカに行けばすぐに英語なんてしゃべれるようになる」単純にそう思って羨ましがり、わくわくしながらニューヨークの空港に着きました。

しかし、待ち受けていたのは、想像以上の苦労でした。
新しい学校、新しい友達、新しい環境、カルチャーショック。しかも英語がしゃべれないので、言いたいことも思うように言えず、かなり疲れていました。学校に行っても、日本人が何人かはいるもののなんとなく落ち着かず、毎日のように、日本に帰りたいと思っていました。改めて今までの友達の存在の大きさを感じました。
そして一番大きかったのは、教会がないことでした。
私が洗礼を受けたのは2001年クリスマス、小学校2年生のときでした。母がクリスチャンなので、小さいときから母に連れられて教会に行っていて、教会に行くのが当たり前のような感じでした。たくさんの人たちに囲まれ、神様の愛にあふれた生活でした。
引っ越して最初の頃は、母と一緒に近所のアメリカ人の教会にも行きましたが、なんとなく居心地が悪くて、それも何度か行っただけで行かなくなってしまいました。
それから約一年、教会に行かない日が続きました。まぁ日曜日に教会に行かないんだったら、友達とも遊べるしそれでもいいかなぁ、とか思っていました。
しかし、教会に行かない生活は今までと違っているような感じがしました。自分の中で教会の存在が大きかったことに改めて気づきました。
とは言っても、教会がない。アメリカ人の教会しかないかなぁ・・・。と思っていたとき、母がちょうどインターネットでこの教会を見つけてきて、行ってみることになりました。
初めて行ったときは緊張していましたが、行ったら中高生の人たちが迎えてくれて、すごく嬉しかったです。それから毎週通うようになりました。中高生の集会もあり、教会に来るのがすごく楽しく思えました。

そしてこの前の夏、一人で日本へ一時帰国したときのことです。ずっと帰りたいと思っていた日本。すごく楽しかったけど、1つ感じたことがありました。それは、時間は進んでいるということでした。前の学校に行ったとき、みんなすごく成長していて、自分は全く成長してないかのように思えました。また、教会にも新しい人、知らない人が増えていて、あ、やっぱりものなんだと思いました。一年以上も経っているのだから変わっていてあたりまえなのに、なんとなく寂さと焦りを感じました。
そんなとき、教会のこどもの祈り会でこの御言葉を聞きました。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。  創世記12:1、2

寂しさと焦りは消え、ふと、神様は何か意味があって私をアメリカに行かせたんだ、沈んでばっかいないで、今おかれている場所で頑張らなきゃいけないんだと思えるようになりました。

8月、アメリカに戻ってくると、Joy Joy Campとファミリーキャンプがありました。いつも以上に神様のことに触れることが増え、すごく祝福されたときでした。
また、キャンプを通して中高科のみんなとも仲良くなれました。学校にも友達はたくさんいるけど、やっぱり教会の友達っていいなぁと思いました。何でも安心して話せるし、何よりも、神様っていう共通点がある。すごく大事な存在です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10:13

すべては神様の計画であって、無駄になるようなことはひとつもない。もしここに引っ越してこなかったら、あのときこの教会を知ることがなかったら、すべてのことが今と全く違ったかもしれない。この、パズルのような道を神様はすべてまっすぐにして待っていてくださる。試練があっても絶対に乗り越えることができる。そして、今ここにいるのも神様の計画の内。
すべてを備えてくださり、導いて下さる神様に感謝します。

月報2008年12月号より

「振り返って」

今年の8月で受洗してから3年がたちました。けれども今まで一度もあかしをしていませんでした。次々と受洗された方のあかしを読んでは、わたしはまだしていないとうしろめたい気持ちでいっぱいでした。

なぜ、今までほとんど信仰を持たなかった私が洗礼を受けようと思ったのか。主人の仕事のことでいろいろあって、不安と不満が入り混じり、泣いたり、怒ったり不安定な気持ちの毎日でした。
そんな時、Tenaflyの教会で三浦光世さんのお話を聞く機会が与えられ、元綾子さんの秘書であった方の讃美歌を聞いて涙が止まりませんでした。そんな心に響く歌を聞いて泣いたのは、私だけではなかったでしょうが、私は自分で私の心は病んでいると思い込んだのでした。
それからしばらくして、イースターに今度はMaywoodの教会に招かれ、その後、ほとんど毎週、教会へ足を運ぶようになりました。
教会ではいつも涙が出てきました。その涙が私の心を洗ってくれていたのかもしれません。少しずつ気分が落ち着いてきて、私は心の病から救われた感謝の気持ちとして、洗礼を受けようと決心したのです。

錦織先生に私の気持ちを話し、何週間か洗礼を受ける準備をして頂きました。そのとき、少し今までのことを話しているうちに、全くキリスト教に結びつくものはないと思っていたのが、そうでなかったことを発見しました。

母が近所に住んでおられたクリスチャンの方のお葬式に参列し、白いカーネーションを一本ずつ献花してとてもシンプルでいい式だったと話してくれたこと。
(その方は杉山さんといいましたが、いつもニコニコされていたのを思い出しました。)

中学の時、英語塾に通っていた道にインマヌエル教会と立看板が示されていて、何のことかな、といつも気になっていたこと。
(正直に言いますと「インヌマエル」か「インヌマニエル」とうろ覚えで、先生から「インマヌエル」と訂正して頂きました。)

北海道稚内市で、友だちのレストラン“おつな”に三浦綾子さんが三、四人で来られて、一言、二言、話しかけられたこと、首に大きな十字架をかけられていたこと。
(その時はキリスト教の事のはずもなく、召し上がられたお料理の事でですが・・・)

等々です。

そして、マタイによる福音書第一章を読んだ時、インマヌエルという文字を見つけて、それが“神はわれらと共にいます”という意味であることを知りました。

あかしを少しずつ書き始めていた頃、9月28日の礼拝で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)を聞き、なぜか私に今一番足りないものはこれだ、と心に響きました。初めて聞いたわけではない、何度も聞いてきた言葉のはずですが、そのときには特別に心に届いたのでした。「御言葉が与えられる」というのはこういうことなのか、と思わされました。

働いても働いても楽にならない生活。主人のこと、子供たちのこと、日本にいる母たちのこと、心配で不安なことは、まだまだありますが、これから信仰生活を送る一生の課題としてこの言葉が与えられたと確信しました。どうぞこの言葉に一歩でも半歩でも近づけますよう、導き、見守ってくださいますようにお願い申し上げます。

月報2008年11月号より

「私は3人きょうだいの長女で…」

私は3人きょうだいの長女で、両親や祖父母に大事にされて育ちました。小学校5年生の時、父親の兄に会いました。東京の音大を出た伯父はクリスチャンで、九州のミッションスクールに転任になるのでお別れにと、父が私たちを連れて会いに行きました。「それでは元気で、さようなら。」と別れたことを覚えていますが、その後一度も会ったことはありません。その伯父の勧めで父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせ、自分も聖書を読むようになったようです。その頃よく訪ねてきたエホバの証人の人たちと議論をしていましたが、自分が教会に行くことはありませんでした。私と妹は2年ほど教会に通いましたが、中学生になると足が遠のき、いつか行かなくなりました。でもその教会での思い出はいつも懐かしく、時々こっそり前を通ったりしていました。
結婚してコロラドに住んでいたとき、夫の同僚から、自分の行っている教会のクワイヤーが伴奏者を募集しているのでやってみたら、と勧められて、オーディションを受けたのですが、「私はクリスチャンではありません、家は仏教です。」と言いました。後日採用の知らせがあった時も、「クリスチャンではないけど良いのですか?」とたずねたところ、「良いです。」と言われて、「へえ~」と思いました。お金をいただいて、週一度の練習と礼拝に出ているうちに、子供の頃通った教会で聞いたお話を思い出して、「ああ、そうだそうだ。こんなこと聞いた。」と懐かしく思いながら、毎週の礼拝を楽しみにしていました。皆に温かく接してもらい、女性の祈りのグループや教会のいろいろな行事に出席するうち、私もこの教会の一員になりたいと思うようになりました。居心地がとてもよかったのです。私に子供が与えられるようにと祈ってくれた友達のことも忘れられません。9年間子供がなかったのに与えられ、皆にお祝いしてもらいました。教会での幼児洗礼式を見て、自分の子にも洗礼を受けさせたいと思い、牧師先生に相談したら、「あなたも一緒に洗礼をうけたら?」と言われました。夫に言うと、「いいよ。」とあっさり承諾してくれたので、驚きました。でも、少し不安があったので、「私に従いたいと願うなら家族を捨てて云々・・・とあるけれど、私には捨てられません。」と牧師先生に言うと、癒されてイエスについていきたいと言った男に、家族のところに帰るように、とイエスが言われた、ということを話してくださいました。そして、私を通して家族が救われる、と言われたのです。とにかくその時はまだ聖書の学びもしておらず断片的な知識しかなかったので、「救い」の意味も良く分からず、友人が「I am so happy! You will be saved!!」と言ったのを聞いて、「Saved? Yeahノ,I think soノ」と答えたのを思い出します。
夫の仕事で日本に戻る日が近づいていたので、ろくに受洗前の学びもせずに洗礼式となりました。教会のたくさんの人に祝福されて、夫もその日は教会に来てくれて、喜びの中で洗礼を受けましたが、次の週には、「クリスチャンが1%しかいないという日本に直子を送り出します。直子のために皆で祈りましょう。」と言ってみんなに送られて日本に戻りました。
アメリカから移り住んだ山形には親戚知人が誰もいなくて、6ヶ月の子供を抱え、心細い思いをしていました。その頃モルモン教の人たちがいつも自転車で街を走り家々を訪問しており、うちにも若いアメリカ人や日本人が伝道に来ました。彼らと話しているうちに「やっぱり教会に行かなくちゃ。」と思ったのです。私が導かれたのはウェスレアンホーリネス山形南部教会、ちょうど同じような年代の子供を持つ人たちが何人かいて居心地が良く、娘とふたりで13年間お世話になりました。そこで受洗後の学びをし、勉強会や祈祷会などを通してイエス・キリストのことが少しずつ分かるようになりました。あまり熱心に学んだわけでもなく、ゆっくり少しずつ、時には抵抗も感じたり疑問を持ったり、ほかの事を優先したくなったり、本当にのろのろとした歩みではありますが、背中を押されたり手を引かれたりしながらここまで来ました。
山形での13年間は、子どもを通しての恵みと自分の音楽の仕事での恵みがたくさんありました。自宅でピアノを教えるほか、娘の通ったキリスト教の幼稚園のお母さんコーラスの指導や伴奏、教会での奏楽の奉仕と特別伝道集会でのコンサート、そのほかいろいろなところで音楽を通しての奉仕をさせていただけたのがとても祝福でした。もうひとつ私が10年間続けた活動がありますが、いくつもの国の紛争や内戦を生き抜いている人たちを映像と音楽で紹介するというNGOグループのコンサートでした。初めは山形近辺、東北地方、そして関東に足を伸ばし、もっと遠くの地域まで活動範囲を広げていきました。学校やPTA、公民館や県の国際交流課などの企画で呼ばれ、いろいろなところでコンサートをしました。とても良い内容でやりがいのあることのように思え、楽しくてやっていたのですが、その活動がだんだん忙しくなり、遠くまで出かけて泊まりになったり帰りが夜中になったり、仕事が日曜日にまで入るようになって、礼拝に出るのが難しいときもありました。礼拝に出ても後奏を弾き終えるとすぐ飛びだして行ったり、奏楽が義務のように感じられてきました。毎日忙しく活躍してすごいね、とひとに言われてそれが嬉しい反面、忙しさで気持ちががさがさしていました。そんな時、牧師先生に、「日曜日は礼拝に出る、仕事は入れない、ということにしたらいいですよ。はっきりそう決めたらかえってうまくいきますよ。」と言われました。いつの間にか高慢になって、神様より自己満足のための活動を優先しようとしていた自分の心を示されて、「そうか。そうしてみよう。」と思い、「日曜日は教会に行くので仕事は入れられません。」と言うことができました。するとすんなりとそれは認められて、何も心配することはなかったようにうまくいきました。ところが今度は別の、人間関係の難しい問題が出てきました。良い目的でやっているはずなのに、世の中何が正しいのか何が普通なのか、私がおかしいのか、と信じられなくなってしまうことがいくつかあり、神経の磨り減る思いをするようになりました。それでも続けていたのは、ステージに立つ楽しさと、自分がここまで作り上げてきたのに、という執着でした。もういよいよ耐えられないと思うようになった頃、NGO団体の内部の問題が表面化してごたごたが起こり、何人かがやめ、私もやめる決心ができました。いくら良いことのように見えても、人間の思いによるものでは限界があると思い知らされた出来事です。それからはピアノ教室も心を込めて教える余裕ができ、幼稚園のお母さんコーラスで賛美歌を教えるのが本当に楽しく、教会の奏楽も感謝してできるようになり、さらに牧師先生たちの宣教グループの事務の仕事までいただいて、精神的にも経済的にも恵まれました。クリスチャンになるにもドンと背中を押されるようにして洗礼を受けてスタートを切ったようなものだし、自分の信仰にも自信のない私が教会にずっとつながっていられたのは奏楽の奉仕と教会学校に行きたがった娘のおかげですが、それによっていただいた祝福は計り知れません。そして牧師先生方や教会の人たちによる祈りに支えられてきたことを思い、本当に感謝です。
ニュージャージーに来て一年間、教会を離れて心が弱ってくる思いを経験しましたが、この時期があったからこそ、今の教会に集えることの喜びが大きいのかもしれません。今も辛いことや祈りの課題はいろいろあるし、これからもあるでしょうが、神様が最善をなしてくださると信じ、「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ。」という御言葉を信じ、神様が私にどんなご計画をお持ちか楽しみにしています。教会につながり、聖書を学んで、恵みとエネルギーをいただきつつ、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」との希望を持って、祈りつつ歩んでいきたいと思います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7) 心強い御言葉に感謝です。

月報2008年10月号より

「恐れを恵みに変える一歩」

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12:9

私がキリストを受け入れ、クリスチャンとして生まれ変わるよう導かれたのは、私の家族の弱さのためでした。私の両親は、年若くして結婚し、またともに家族の愛というものをあまり知らずに育ってきたこともあり、心のすれ違いの多い夫婦でした。私自身も実家にいる頃は、これが普通だと信じてきた面がありますが、その頃は言葉にならない、心の渇きを感じていたのでした。

実家を出てから大学進学、ニューヨークで就職と次々と自分のしたいことや行きたいところで頭がいっぱいで、自分が何に渇いているのか、どこに向かっているのか、全くわからないまま進んで来た感があります。「まず地図を見て行き先を決めるべきなのに、それをせずに、自転車から車へ、車から飛行機へと進むスピードばかりを気にしている」という例えを聞いたことがありますが、まさにその通りで、人が聞いたらニューヨークで大手企業に勤めていると言えば、サクセス・ストーリーのように聞こえなくも無いですが、何の「サクセス」なのか、自分で自分に説明がつかないのです。お金のため?優越感?日本からの逃避?責任回避?

そんな疑問に蓋をして生きていた2006年に、会社の知人が日米合同教会でキリスト教のベーシック講座が毎週水曜日あるから来てみないかと勧めてくれました。それは「アルファコース」というノンクリスチャン向けに作られたプログラムで、教会とは何か、聖書とは何か、祈りの大切さやイエスの救いなどのトピックを毎回ビデオで見てから、スモールグループに分かれて感じたことを話し合うということが行われていました。知れば知るほど、すごい、これは私にはできそうに無い、と思う反面、もっと知りたいという気持ちが沸き出て、昔の青汁のコマーシャルの「まずい~!もう一杯!」状態でした。

そんな中、両親の問題がどんどん深刻化していきました。このままだと大変なことになってしまう、何とかしなければ、という焦りと苦しみばかりが膨らんでいきました。クリスチャンのカウンセラーに両親のことを相談したり、インターネットで「離婚弁護士」のことを調べたり、ニュースで事件があればうちの両親じゃないかと確かめたり、本当に苦しくて悲しい時期でした。しかし、自分の力ではどうにもならず、なんとなくキリストの教えの中に答えがあることを漠然と感じていたのも事実です。

ある時、アルファコースで知り合った人から錦織先生のゼロの会やニューヨーク面談日のことを教えてもらいました。実はNJ日本語キリスト教会へは2000年に一度サンクスギビングか何かの時にお邪魔したことがあり、その時に錦織先生ご夫婦にとても良くして頂いた事があったため、初対面でなかったことから、またまた気軽に足を運ぶようになりました。先生は子供やユース向けの説教に長けていることから、 堅苦しい話の苦手な私には新鮮で、子供のような心で楽しめたのです。一番印象深かったのが、クリスマスの劇に参加した知恵遅れの子供の話で、涙がこぼれそうなほどの暖かさを感じたのでした。

その後、2007年の寒いある日、先生との面談の後、いつものように祈って頂いた時、涙が止まらなくなってしまいました。そしてその日、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることを告白したのでした。その時から神との対話が始まりました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」とピリピ人への手紙4:6にありますが、実際、何も思い煩わずに信仰の道を歩める人は、恵まれた人だと思います。私の場合、この1年近く、どこの教会でいつ洗礼を受けるか、悩む日々となりました。

その年の暮れにクリスチャンの友人に勧められて、JCFN(ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ・ネットワーク)の修養会「Equipper Conference」(EC)に参加することになりました。これは全米から若い日本人クリスチャンがLAに集まる修養会なのですが、彼らのエネルギーと純粋な信仰を目の当たりにして、私も「恐れ」を「恵み」に変える一歩を踏み出すよう強く示されたのです。それは、洗礼にむけて具体的に動き始めなさいということと、家族に伝道しなさい、ということでした。

LAを出発して、1月2日に東京に到着、3日に祖父を見舞った後、夜の便で北海道に飛びました。この時はECでかなりequipされていたので、これまでの帰国時とはかなり様子が違いました。特にECで購入した「日本の宗教行事にどう対応するか」という本から知恵を得ていたので、クリスチャンとして何をして良く、何をしてはいけないか、それがなぜなのかを理解していたので、家族の前ではっきりと自分の立場をあかしすることができたのが、今考えても本当に恵みでした。仏教や神道と対立するのではなく、聖書に反することは皆にきちんと説明して行わないようにし(聖書に反しない事柄に関しては受け入れる)、そのことをも証しや伝道として用いることができるクリスチャンの形を目指すべきであることを示されました。以下は実際にあった私と母のやりとりです。

母「お土産を仏壇に置いて、仏さんを拝みなさい」
私「・・・・・・・」
母「どうしたの?早く拝みなさい」
私「・・・・・・・」
隣の部屋にいた妹が様子を察して「お姉ちゃんまさかクリスチャンになったの?」
母「クリスチャンになったとしても、家族は家族なんだから、仏さんを拝みなさい」
私「お母さんが代わりに拝んで・・・・」
母「・・・・・わかった。でも本当の宗教ってのは他のどんな宗教でも受け入れるものだと思うけどね、仏教みたいに」
私「・・・・・」

私が実家をでてから十数年も続けてきた習慣をはっきりと断ち切るのには、かなり勇気が入りました。正直、父と母に怒鳴られることを覚悟していましたが、そのときは意外とすんなり受け止めてくれました。父も隣の部屋にいて全て聞いていたはずなのに、何も言いませんでした。しかしこのやりとりは母の心にしっかりと刻まれたようです。

その後、母と父との現状について、母と二人きりで話す機会があったときに、母の苦しい立場を聞いてあげていたのですが、今しかないと思い、「お母さん、これからいつも私がしているように祈るから、お母さんは何もしなくていいけど私の祈りに 心を合わせるようにしてて」というと、分かったと言うので、神様に対して父と母のことを声に出して祈りました。

「神様、父はまだ自分の罪に気づいていません、あなたの愛を知りません。どうか私を使って父が、神様あなたの望む人間本来の生き方を求めるように、示してください。神様、母が父の過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も赦すことができるように助けてください。そして母が背負っている傷をあなたが癒してください・・・・・」祈り終わって母を見ると、涙ぐんでいました。「ありがとうね・・・・」

その後、ECで知り合った同郷の女性に教えてもらった私一人で教会に行き、牧師先生と話しをしました。アメリカ生活の長い先生なので、とても話しやすく、また純粋な信仰をもっておられる先生でした。母のことを話すと、「教会の婦人会が行っている家庭集会があるから、タイミングが良い時にお母さんにも来てもらったらどうだろう」という話しになりました。

その家庭集会のことを実家に戻ってから母に話すと興味を示し 「教会がメールしてくるって?電話してくるって?」と聞いてくるのです。数ヶ月前に電話口で洗礼だけは絶対にやめてくれと言った母がここまで砕かれたことは、正直びっくりしました。私が出発する日の朝、母が私に「この間のように、お父さんの前でも祈ってくれない?」 「いいよ」 この時は信じられない思いでした。

朝食の前に、両親と一緒に祈りの時間を持ったのですが、父は初めてのことでとまどったようです。そのときの父の一言は「日本にいるときは日本式でやれ」でした。

その後、米国に戻ってから、教会を変え、洗礼を意識するようになりました。またニュージャージーの新しい教会に通うようになった直後に、錦織先生が日本伝道の旅に出発すること、先生のスケジュールが許す限りは日本にいる家族への伝道もお願いできることを知りました。

私「先生!北海道まで母のためだけに、伝道に行くのは難しいですよね?」
先生「うーん、ちょっとまだわかんないなー。祈ってみようね」
私「はい、もし無理だったら、電話だけでもしてもらえませんか?」
先生「電話なら、いつでも喜んでするよ!」

その数日後、先生に青森で面接することになり、函館までその足で行けることを知らされた時は、神様が実際におられ、私達家族の救いへの道を開いてくださっていることを、目の当たりにしたのです。

母と先生が2月4日に面接した時に、先生はヨハネの4章を用いて、神の水を飲む者は誰でも心に泉を持つようになり、決して渇くことがなくなることを母にわかりやすいように、話してくださいました。母は、その話にたいそう興味を持ち、また心に何かを感じたようでした。そして手紙をくれていた地元の教会のメンバーに自分から電話をかけ、婦人会の家庭集会に進んで足を運ぶようになったのです。
そこで母は、クリスチャンの生き方、聖書の持つ知恵やパワー、本当の愛、自分の罪と父の罪、自分が幼い頃から飢えていたこと、様々なことに目が開かれ、スポンジが水を吸収するどころじゃない、
紙おむつが抜群の吸収力で横からもらしませんとテレビで宣伝しているけど、例えるとあんな感じで、学んだこと、感じたこと、一つも漏らさず一字一句覚えていったのです。私など比べ物にならない真剣さと真摯さでした。

「婦人会の家庭集会」と字で書くとぼやーっとした印象しかありませんが、これも神様が母に用意してくれたものでした。母が導かれたグループは、40代から70代くらいの主婦の集まりで、恵まれていたことに彼女らは本当に成熟したクリスチャンたちでした。傷ついている母を心から受け止め、愛で包み、また聖書の言葉を一口一口母の口にスプーンで食べさせるように、伝えてくれたのです。

さらに、私達が今でも驚いているのが、グループの名前が「泉」だったことです。母が錦織先生の話で最も深い印象を受けた「心の泉」という言葉がその会の名前だったことに、グループのメンバーも母も偶然を超えた「導き」を感じたようです。

今、私は母と、過去の傷や父のこと、家族のあり方などを聖書や神様の視点で話すことができることに深い恵みと癒しを感じています。無数の心の傷を受け、自分たちの弱さに打ちのめされていた私達母娘は、この弱さゆえに一段と深い絆で結ばれることができました。今、日本人の家族の多くは、弱さの中でもがき苦しんでいるように見えます。これは、神様の救いが広がる前段階なのかもしれません。私も同じような苦しみを味わっている方に一人でも多く、神様の救いの業を伝えたいとの思いが与えられています。

月報2008年9月号より

「アメリカの生活で変わった人生」

アメリカにやってきてついに約4年の月日が流れた。アメリカのインパクトに押しつぶされそうになった初めてのJFKが目に浮かぶ。あれは、もう4年も前にさかのぼる。あのときから本当に僕は変えられた。教会が好きになり、イエス様の十字架を信じて洗礼を受けた。それもとても重要な出来事だったが、洗礼を受けたあとに発見することがとても多かった。そして、高校生になってから発見することが多かったように感じる。僕は、さまざまな場面で、神様のすごさを経験した。

そしてそれぞれの場面で、目が開かれた感じがした。それは気持ちのいいものだった。これから僕の目が開かれた代表的な場面を証したいと思う。

1)「祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」             ペテロの第一の手紙3章9節

僕は、慶応NYの寮で生活していた。そこはNY州の郊外である。そのようなところに住んでいる僕がどのようにして毎週NJに来ていたのだろうか。答えは簡単明白。錦織牧師や教会の他の方々が、僕が行ける週末には慶応NYの寮まで迎えに来てくださったのである。所要時間はおよそ片道40分。ガソリン代が高騰している中で、家族が帰国してからほぼ毎週送り迎えしてくださったのだ。何気なく送迎していただいていることもあったが、改めて考えてみると労力がとても必要だったのだ。どう感謝していいかわからない。なぜ、こんなにも僕を愛してくれるんだ。と何度も思わされた。あるとき、こんなに良くしてもらうと、もうどれだけ返しても返しても返しきれない。と打ち明けたことがあった。するとこんな答えが返ってきた。「ほら、私たちも同じように人にいろいろとやってもらったの。だから、大輔君もほかの人にその感謝を返してね。わたしたちじゃなくていいんだから。」目が開かれた瞬間だった。そうか。ほかの人に返すのか。すると、頭の中で神様、イエス様の姿が浮かんできた。僕は罪人。そう。この罪がイエス様を十字架にかけた。それなのに、神様は僕の罪を赦してくださり、今でも僕を愛してくださっている。無条件の愛。僕は、この愛のお返しを神様、イエス様にすることなんて、人生を100回やっても返せない。しかし、この言葉から僕は気付かされた。神様、イエス様に返すだけではなく、ほかの人にその愛を少しずつ返せばいいんだ。分かち合えばいいんだ。と。その瞬間、僕も神様の愛や、教会の皆さんの愛を彼らにだけではなく、別の人に少しずつ分けることができればいいなと思うようになった。そして、そのようなことが聖書の中に記されているはずだと思い、母親の協力の下、ペテロ第一の手紙3章9節を発見したのだ。
将来、「僕も同じようにいろいろとやってもらったことがあったから、君も同じように別の人にその感謝を受け継いでね。」と言いたい。私たちの使命の一つは、祝福をすべての人に受け継ぐことだったのである。

2)「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:5-6
僕は、バスケットを部活としていた。うまくはなかったが、チームのメンバーとして多面的に貢献したと自負している。そして、自分がバスケをやっていたことに満足している。それは神様が導いてくれたからである。僕は、バスケのことでたくさん悩んだ。まず日程だ。土曜日、日曜日、関係なく練習は組まれていく。日曜日は僕にとって教会に行く日となっている。しかし、無情にも当然のように日曜日にも練習が組まれ、何度か教会を欠席した。僕は教会にいけないことを恐れた。なぜなら、教会に行かない日曜日はとても楽だったからだ。バスケの練習を2時間したとしても、一日は24時間。したがって22時間は自由なのだ。しかし、教会に行くためにはやはり一日仕事。したがって自由時間は就寝時間を除けば6、7時間程度になる。教会に行かないと楽だったのだ。このまま、自分は教会に行かなくなってしまうのではないかと思った。しかし、休息できているはずなのに疲れがたまっていく。精神的に疲れていくのだ。僕の通っていた慶応NYには「クリスチャン」が多くない。自称クリスチャンはいるが毎週教会に行くのは僕だけだったであろう。そんな中で生活していると教会では聞くはずもない言葉、会話が当然のようにされたりする。そのような環境だったためだろうか。僕は、教会にいけないのこんなにも大変なのかと気付かされた。つまり、教会がどれほど自分の心の支えになっていたことがわかったのだ。
次に、教会の友達の大きな支えだ。祈祷課題を言うとみんなが一つになって自分のために祈ってくれる。これほどの喜びはなかった。
バスケを通してこの御言葉が与えられた。箴言3章5、6節である。僕らは神様に信頼すればいいのだ。教会を休まなければいけない。こんな恐ろしいことはない。などと自分の知識で考えなくていいのだ。(確かに恐ろしいのだが)主に祈って、任せるのだ。すると神様は道をまっすぐにされる。僕にも、教会の大切さ、祈ってくれる仲間のすばらしさを再確認する機会として神様はバスケを与えてくれた。そして、それと同時にバスケをする楽しさも教えてくれたのだ。自分たちがなにを思っても神様の計画にはかなわないのだ。だから、これからも、信頼して歩んでいこうと心に決めた。

3)「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることはない。」                  ヘブル人への手紙13章8節

今まで、どれだけの環境がここに来た当時と今で変わったのだろうか。それは計り知れない。まず、学校が変わった。高校入学するということで、中学の友達と別れることになった。住む場所が変わった。家に住んでいたが寮生活となった。そのおかげで今まで得ることのできなかった自立することを覚えた。そして、一日中友達といることのすばらしさを学んだ。さらには、アメリカにいた家族は、日本に異動した。たった3年で衣食住すべてが変わったといっても過言ではない。すごい変化であると実感している。
しかし、たった一つ変わっていないことがある。それがイエス様なのだ。心の中に、神様、イエス様を迎えてからは、彼らが今で心の中にとどまっていて生きる原動力になっている。そう。洗礼を受けた当時から変わっていないことである。もちろん信仰がそのままであるのではない。信仰は少しずつではあるが成長している。神様だけは、これから生涯生きていく中で常に同じ道を歩んでくれると約束してくださる唯一の方だ。だから、環境が変化しようと、窮地に追い込まれようと、神様は常に一緒だ。この安心感は格別だ。だから安心して次の「異国・日本」というステップにも堂々と進める。イエス様の十字架。それは、勝利の印である。どんな苦難があったとしても、イエス様は復活されたように僕らも最後は乗り越えられる。それをこの御言葉から信じた。
ある人が分かち合ってくれたことだ。「教会があってよかった。」たった、それだけの言葉だったが、僕の人生に教会があったことがどれだけ助けになったことか。「教会があってよかった。」と絶叫したい気持ちでいっぱいなのだ。
だからこそ、これから僕に与えられている使命は明確だ。御言葉を用いて伝道すること。僕は、このアメリカの地で目の開かれる経験をたくさんしてきた。時には、自分の考えとぶつかり大変な思いもするが、すべてを捨て、神様に任せようと決めたとき、御言葉は与えられるのだ。そして、次のステップに行くのである。その経験をできるだけ多くの人にしてほしい。
人に神様を信じたいと思ってもらうには神様の力が必要だ。御言葉という神様の言葉に心を打たれる必要がある。だから、その覚醒のお手伝いができれば「祝福を受け継ぐ」ことになると信じている。だからこそ、僕は頑張る。いや、頑張れる。今こそキリストの愛に応えるときなのだ。

月報2008年7月号より

「わたしの出エジプト」

1970年2月、40年住み慣れた日本を去り一路ニューヨークに飛び立ったわたし、以来早39年目、人生の半分をニューヨークで過ごすことになるとは夢にも思わぬ事でした。
人生は、人の思い、計画の及ぶところではなく、神の計画と導きによって展開されることは、死から命に移された私が今日在ることからも明らかです。
一人の事業家の招きでニューヨーク行きが決まり、当時でもなかなか取れぬE2ビザが与えられ、一年後には家族揃って新しい地での生活が始まりました。

ニューヨークの生活を始めた頃は、この地が人生に結実を与えられる神の約束のカナンの地であることには気がついていませんでした。司祭であった叔父から幼児洗礼を受けていた私がジャスティン春山牧師により信仰生活に導かれ堅信礼を受け、妻も二人の娘たちも夫々自らイエス・キリストとの出会いによってクリスチャンとしての歩みを始まることが出来る喜びに満たされる者になりました。日本にいた時、私自身がそうしなければならないとの魂への迫りを受けながら主に立ち返ることが出来なかったにも拘わらず、主の深い憐れみと御愛がニューヨークの地で家族全員に救いを与えてくださいました。
信仰は人間の努力によって勝ち取るものではなく、聖霊の助けと、罪の告白と主の十字架の赦しによって救いを受けなければ与えられないことを知り、キリストに委ねる人生に望みを抱く者へと変えられました。
イスラエルが囚われの地、エジプトから逃れることが出来たのはモーセの働きによりますが、神が、神自身の民、イスラエルを憐れみ、愛された御心と御働きが、出エジプトのスペクタクルの背後にあったことは言うまでもありません。人生の困難にある時、万事休す状況にある時も神はわたしたち一人一人に出エジプトを経験させ救って下さるお方であることをわたしたち家族も経験させて戴きました。
2000年の夏、主の限りない御愛に答えるために私に示された主の幻は「あなたのイサクを捧げなさい」でした。私のように罪深い者を赦され、愛される主に仕えるには、自分自身をイサクとして神に捧げる道しかなかったのです。
祈りつつ悔い改め、錦織牧師に献身の思いを打ち明けました。
小論文を提出し、入学を許可され、働きながらJTJ神学校の神学部牧師志願科の学びを通信で始めました。
当時はDVDはなく、どさっと送られて来る山積みのビデオテープで教室の学習を見ながらの学びでしたので忍耐と、教室と隔離されている孤独感の戦いを経験しましたが、御霊の助けと家族の励ましとを感謝しつつ学び続けることが出来ました。
通常、通信講座は3年から5年かかると言われていますが、神は私を早急に用いようとされるそのご計画によってか、一年九ヶ月で全講座のクレジット修得を許されました。
卒業式の時、中野雄一郎学長から「最短の卒業だね」と言われた時には喜びと共に、神は生きて働かれるとの確信が与えられ、心から感謝しました。
妻と娘たちは私の学びのためにあらゆる犠牲を払って2年間サポートしてくれたことが何よりの助けでした。
然し厳しい訓練をわたしに課せられる神は、前立腺ガンをもって私にチャレンジを与えられました。毎朝午前4時から7時まで学習し、8時にはマウントサイナイ病院で放射線治療とガンの発育を抑えるホルモン(ヴィアドール)治療を受け、それから仕事に向かう強行軍でしたが、不思議になんの副作用もなく25日連続の治療を完了することが出来ました。
それは主の憐れみと、主の癒しの御業以外の何ものでもないことを覚え、深く感謝しました。
わたしに与えられた主の使命は主キリストを証しすることで、そのためにバイブルクラスの指導を毎週礼拝の前に守ることでした。罪の淵をさまよっていたわたしの霊の目を開かせ新しい命に導いてくださった春山先生が命をかけて(先生はわたしたちが堅信礼と洗礼を授けられて僅か一ヶ月後に内臓のガンで天に召されました)十字架に掛かられたあの犠牲の死がなければ、わたしの献身、家族の救いはあり得ませんでした。
わたしの献身を一番喜んでくれたのは言うまでもなく信仰をもって支えてくれた家族でした。
又、わがことのように喜び支えてくれたのは千葉市川キリスト教会の小野寺牧師(わたしの信仰の兄貴分)で学びのためにたくさんの参考図書、注解書を送ってくれました。
至らないわたしを赦し、今日まで共に聖書を学び、分かち合いをして下さった兄姉に心から感謝しています。
特に、わたしを助け、善きアドバイザーとしてバイブルクラスを支えてくださった呉(オー)兄に感謝します。
長いようで短かくもあった20年のJCCNJでの信仰生活も思いがけない、否、これも神のご計画と信じていますが6月15日をもって終えることになりました。
新たな地に新たな使命をもって遣わされる神の御心を受け、喜んで従って参ります。
20年にわたり、信仰を育ててくださった主の教会の更なる成長を心から祈り、キリストにある友としての交わりに入れてくださった会員の皆様に主の豊かな祝福と励ましがありますよう祈ります。
御心を十字架のビジョンとして受け入れ、信仰をもって、聖書を日々の糧として歩んで行きましょう。
感謝。
ヘブル人への手紙11章8-9節「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。」

月報2008年6月号より

「悲しみの淵より」

昨年12月に、突然、丈夫で元気だった母が脳梗塞で亡くなった。
日本時間で深夜、救急車で運ばれたと父からの電話を受け、私はその頃体調を崩して寝込んでいたのだが、翌日慌てて飛行機に飛び乗った。教会でもすぐに連絡網で祈りの緊急課題がまわされたが、雪で飛行機は欠航、母は亡くなってしまった。
「神様、今、なぜ母なのですか?」最近は父の方が具合が悪く手術や入退院を繰り返し、その世話を母がしていたからだ。アメリカに来て17年、次女も9月には大学に入るので、ようやくこれから両親と共に過ごせる時間がもっと出来ると、そんな話を楽しく母と電話で話したのは1週間ほど前だろうか。空港から葬儀場の霊安室に直行して、眠っているとしか思えない母と会った。「ごめんね、でも今までありがとう」と泣きながら頬ずりをしたその頬は冷たく、レモンの匂いがした。消臭剤だ。しかし母のいない家に戻り玄関を開けたとたん、いつもの母の匂いがした。「神様、こんなことは耐えられません」どうやってこの試練を乗り越えたらよいのか、まったくわからなかった。ショックと悲しみと後悔でもはや信仰さえ失ってしまうかもしれない、と思うほどだった。
翌日から待っていたのは、どこに何があるかわからない家の中の探し物から始まり、身も心も傷心し切った父を励ましながら、家の片付け、遺品の整理、山ほどある事務手続き等、日本の事情もよくわからない、自分も具合が悪い中、まるで戦場だった。自分の身に起きた事が信じられなかった。ただ、祈られていることだけが感謝で、それだけが支えであり、共に悲しんでくれる人たちの存在がありがたかった。親を亡くすことは誰でも通る道だが、愛する人を“突然”失うことがこんなにも辛く大変なことだと初めて知った。これは体験した事がある人でないとわからない苦しみだ。自分はこのまま鬱になってしまうかもしれないと思った。

しかし、神様はおられないと思えるような場所でも神様は働いておられた。きっかけは送られてきた2冊の本だった。一冊は『素晴らしい悲しみ』送ってくれた彼女も数年前NJの教会にいた頃に突然の転落事故でお母様を亡くし、私と同じ経験をされていた。ここにはあらゆる種類の喪失の悲しみから癒されるまでのステップが書かれてあり、喪失体験後に 陥るひとつひとつの症状が、どれも私に当てはまる事ばかりで、‘自分はおかしくなってしまったわけではない、これでいいんだ’と思えたことは救いだった。しばらくして教会の別の友人から『慰めの泉』が届いた。これは、特に家族を失って深い悲しみの中にある人へのショートメッセージが日ごとに書かれてあり、毎日少しずつ読んだ。そのうちに、天国がどのような所か、神様はどのようなお方かに、だんだん目が向くようになり、この地上の悲しみから神様、イエス様がおられる天を見上げる事が出来るようになり、そして母は今どんな所にいるのかが見えてくるようになった。確かにこの地上では母の死は喪失なのだが、天国では新しい仲間をひとり迎え入れた喜びとなる。地から天に視線を移すこと、自分が合わせるべき焦点はどこかがはっきりとわかった。

実は母が亡くなる少し前にどういうわけか、電話でこんな会話をした。「お母さん、もしどこかで倒れちゃうような事があったら、“イエス様、信じます”って言ってね」と言うと、クリスチャンでない母は「あら、難しいわ。ちゃんと言えるかしら」と言うので、私は「大丈夫だよ、今からちゃんと練習しておいてね」と言ったのだ。その話を父から母危篤の連絡を受けた時、沖縄の妹に電話で伝えた。彼女が病院に着いた時、母は酸素ボンベをつけたまま意識不明の状態だったが、私の話を思い出し「お姉ちゃんが言ってた事、今からでもいいからねー」と言うと母の目から涙が流れたそうだ。母は、きっとイエス様信じます、と言ったに違いない。イエス様は信じたその瞬間に、天国の切符を下さるお方だ。
また、母の遺品を整理していた時、毎月の月報の束を見つけた。ちょうど12月号の証が長女の真奈がニカラグアに行った時のものだった。「お母さんがそれを読んで、真奈も大人になったのねえ。と言っていたぞ」と父が言った。日本に届いたのは母が倒れる直前のはずだ。母がこの世で最後に見た月報は孫の書いた証だった、最後の最後まで確かに福音は届いていたのだ。
母に何もしてあげられなかったという後悔と罪悪感にずいぶん苦しんだ。しかし最近になって、一番しておかなければならなかったこと、それは神様の事を伝える事だったのではないか、と気がついた。もっと共に時間を過ごせれば楽しい思い出ができたし、病気になって看病する事ができれば良かっただろう、しかし、とどのつまり永遠の命の事を伝えなかったら、この世の幸せもそれまでなのだ。イエス様の事を伝え、これさ
え握って天国に入ってもらえたら、後は御国で再開した時に何でもできることなのだ。

そうして、2ヵ月半日本に滞在してNJに帰ってきた。母が死んで全ては変わってしまったかのように思われた。確かに状況や計画は変わってしまった。しかし変わらなかったもの、それは神様はおられたという事実だ。人間の目にそうは見えなくても神様の時は確実だ。神様は一番良い時に一番良い場所に母を連れて行ってくれたはずだし、この地上においても最悪な状況が続く中、必要な助け手をいくつも備えてくれた。神様はいないと思える時でも、振り返ればそこに初めから共にいてくれたのだ。母が死んだ時「もう伝道できない」と思ったが、気がつくと今、苦しみの中にある人と一緒に祈れるようになっていた。『わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。だから立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。』ルカによる福音書22章32節。今回多くの人の祈りに支えられたが、イエス様ご自身も私の信仰がなくならないように祈ってくれていたのだ。そして、あの深い深い悲しみの淵からここまで引き上げてくださった神様の力、これこそがまさにイエス様を死からよみがえらせた神様の力なのだとわかった。

まだ母のことを思い出すと泣けてくるし、残された父の事も心配だ。試練はまだこれからかもしれないし、いくつもの喪失体験が待っているだろう。しかし起こった出来事に焦点を合わせていく限りこの世は「なぜ。どうして?」の連続だ。でも出来事にではなく、神様に焦点を合わせていけば、今はわからなくてもいつか、神様がすべての事を神様の目的を持ってされていると思える時が来ると思う。聖書の中で信じられないような試練に会った人たちがどうやって歩んできたか。それはどんな最悪の状況の中でもただひたすら神様を信じ、神様に忠実に歩んでいる、今その姿に心が惹きつけられる。私もそのように歩めたらと。
『人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その教えに歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い道に導き入れようをしておられるからである。』申命記8章5~7節。

月報2008年5月号より

「わが主イエス 我を愛す」

私がキリストを受け入れたのは25歳の時、カリフォルニアで学生だったときでした。しかしその信仰の種は私がまだ5、6歳くらいの子供の時に当時通っていたプロテスタントの幼稚園での礼拝とその日曜学校で、蒔かれていたと思います。たくさんの聖句を習って暗唱したり、いろいろな賛美歌を歌った記憶はありますが、細かい出来事はほとんど忘れました。ただ、大人になっても覚えていたことが三つ。
キ 先生たちの平安と愛に満ちた様子。 こんな人たちは他ではあったことがない。
キ 聖句ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キ 賛美歌461番の「主我を愛す」(文語の歌なので、意味は全く理解していなかったが音ですべての言葉を覚えていた。)
このあと、私の人生の表面から、キリストはしばらく姿を消し、学校と塾とクラブに忙しい普通の小中高校時代を過ごします。
その後、大学進学でプロテスタント系の女子大にいく事になりました。その大学にした理由はいろいろありますが、キリスト教を学べるというのもひとつの大きな魅力で、かなり期待感をもっていました。しかし、学内にあるチャペルでの礼拝とキリスト教学の授業で、おおきくつまづいてしまいました。礼拝では、信仰のある学生が祈ったり証をしたのですが、「私はまた失敗してしまいました。本当に私はだめな人間です。」という趣旨の言葉だけが心に残りました。 今思えば、それは、真実な悔い改めの言葉だったのでしょうが、その当時は、そのような暗い悔い改める姿勢など、私の生活のほかの場所では目にしたことのないことでそれにショックを受けて嫌悪してしまったのかもしれません。また、キリスト教学の教授が女性の牧師だったのですが、その牧師先生は、派手な服装で授業態度も悪い数人の学生を嫌って、
「あなたたちは終わりの日に裁かれる」と、とても厳しい言葉で戒めました。それで、クリスチャンというのは、自分の救いのために清く正しく生きて、いい行いをしないといけないと、思ってしまいました。今思えば、礼拝でも、授業でも、福音が語られていなかったはずはないのですが、 聞くには聞くが悟らない、の言葉どおりで、こころの目が閉じていました。
大学卒業後、異文化間コミュニケーションを勉強したくてカリフォルニアの大学に留学しました。留学した大学院の先生たちは、女性が多く、かなりラディカルなフェミニズムの先生が数人いました。そういう先生の講義では、伝統的なクリスチャン思想がどのようにアメリカの父系社会を作り女性を抑圧してきたか、というようなディスカッションが繰り返されました。私も影響を受け、フェミニズム思想に基づいたレポートを書いてすごくいい成績をもらう、という日々でした。まるで、ダマスカスロードでイエスに出会う前のパウロのようで、キリスト教を迫害するようなことを信じてレポートに書いていたと思います。神様を冒涜するようなことをたくさん書いたなあ、と思います。でも、どこか、心の奥底で、本当にこれが真理なのかなあと、暗いものを感じていたのも事実でした。また、勉強している内容が暗いのみならず、学科内の教授間、学生間の人間関係も激しい競争意識から殺伐としていました。このようにしてこの世的な、今にして思えば、暗闇の力に取り囲まれていたような学生生活でした。人間の開放、女性の開放についてレポートに書きながら、自分は何かに抑圧されていました。ここに神様は何人かのクリスチャンを送ってくださいました。
まず、同じキャンパスで、メシアニックジュウ(ユダヤ人のクリスチャン)の女の子に伝道されました。はじめはうっとうしく感じていましたが、ディベート好きの性格と自分が批判しているものをまず知らなくては、との思いから、彼女との対話を続けました。また、この対話によって、逆に彼女をこの抑圧的な宗教から解放してあげようという気持ちもありました。対話の内容よりもその熱心さ、辛抱強さと寛容に感心したものです。また、住んでいた寮でクリスチャンの友達ができました。話を聞くと、驚くような暗い過去をもっているのに、まったく元気がよく、その過去から解放されている感じがしました。また、彼らの信じているものは厳しいのですが、それにもかかわらず、抑圧感はまったく感じられなく、とても自由で明るいという印象で、日本の大学で受けたクリスチャンの暗いイメージと重ならないので疑問でした。さらに、日本人のクリスチャンの友人ができました。彼もとても複雑な家庭環境を抱えているにもかかわらず、なにかに守られているかのようで、私の理解を超えた平安のある人だということに、つよい印象を受けました。彼はクリスチャンだというので、キャンパスで伝道してくれた女の子との間に言葉の壁を感じていた頃でもあり、あ、丁度いい。この人にいろいろ聞こう、という感じで、いろいろ質問したり意見を述べたりしていました。すると、「君はグレイス(神の恩寵)ってしっている?」と聞かれました。神の恩寵。救いというのは、よい行いによってあたえられるのではない。無償で、恩寵によって与えられるものなんだ、というのです。そのときはじめて、清く正しく生きないと救われないという日本の大学時代からの思い込みは大きな誤解だったかもしれないと気づきました。
根本的なことがわかってないことに気づいた私は、とても疑い深いというか、 人にこれはこうなんだから信じなさいといわれるのが嫌いで、じゃあ、自分で読んでみようかと思って、NIV(英語訳の一つ)を購入して読み始めました。というのは大学のころから使っていた口語訳聖書には、キリスト教学のトラウマがあったからです。NIVは平易な言葉で書いてあり、英語の言語的性質もあるのかもしれませんが、理屈っぽくて、いちいち納得しないと前に進めない私にはぴったりで、まるではじめて読む書物のようで面白くて読むのを止められないという感じでした。そのころ、Long Beach にあるGrace Bretheren Churchの礼拝にたまに出ていたのですが、牧師先生が説教の中でローマ人への手紙のシリーズを始められました。そんなある日、ローマ人への手紙を読みながら、ああ、これは、この罪びとは私のことだ、という思いが心を占めました。そのころ大学院の殺伐とした人間関係の中で、自分の中になんと多くの悪意とうそがあることかを日々感じていたので、そのとき、価なしに与えられる救いを本当にありがたい、と思い、これが真理だ、という気分になって、イエスを受け入れたいと思いました。それで、牧師先生に信仰告白をして、一緒に祈ってもらいました。このときから、自分では、信仰を得たと思っていた。しかし、当時の感覚としては、こんな私を許してくれるイエス様って、なんていい人!という感じで、ギフトをいただいてただ喜んでいる、という感じで、自分を低めて、イエス様を主と呼ぶことにかなり抵抗がありました。日本語ではイエス様と様がつきますが、英語ではジーザスと呼び捨てなので、対等な感覚で信仰告白をしてしまったように思います。また、この理屈っぽい性格なのでいちいち 聖書の一見「矛盾」と思える箇所を気にして、これは本当の真理ではないのか、と疑って、間違ったものを信じてしまったのかと不安になっていました。
しばらくそのようなよたよたとした信仰者だったのですが、ある日、ロサンジェルスの高速道路で、車を運転していて、いきなり、子供のころに覚えた唯一の賛美歌が20年ぶりにこころに浮びました。それが、前述の賛美歌461番なのですが、「あ、そういえば、こんな歌あったな」と思って、くちずさんで思い出そうとしました。そして最後のところの「わが主イエスわが主イエス、わが主イエス、われを愛す」を歌ったとき、はっとしました。そのときはじめてイエス様は、私の主で、私はその主に従うべき存在なんだ、しかも、そのわたしの主は、 不平の多い疑い深いわたしでさえもこんなにも愛してくださっている、そして、本当にイエス様は生きていらっしゃる、と感じました。復活されたイエスさまにあったときのトマスの「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)という言葉がありますが、まさにそのような思いでした。自分の低さ卑しさ、主の尊さ、そして その卑しい者のために命を捨てる愛、そしてその主が今、愛によって私に語りかけてくださっている、というさまざまな思いで、もう運転を続けることができなくなって、高速道路の路肩に車を止め、子供のように素直な気持ちでぽろぽろと涙を流して泣きました。そして、ああ、主は実に20年間も、子供のころ心のうちに蒔かれた種を守って下さり、この私が主のもとに帰ってくるのを待ちつづけてくださっていたのだな、と思うと、本当にひれ伏したい思いでした。それは、とても不思議な感覚でした。ひれ伏しながらも、高められているというか、自分はしもべでありながら開放された、という感じでした。また、迷子になった小さな子供が不安と恐怖でいっぱいのときにやさしい親の顔を見つけたような安堵の気持ちでした。
このとき、本当の意味で私は救いを得たのではないかと思います。この後、私はかわりました。それまでの私は頭で理解し、納得していただけだったのですが、それがイエス様を心から主と呼ぶことができるようになりました。また、み言葉を読む中で理解できないことや、納得できないことがあっても、み言葉が真実であることは揺らぎない事実で、人生の歩みの中で、イエス様に従って歩んでいれば、主がその答えをひとつひとつ与えてくれるだろうという思いに変わりました。
ローマ 8章14-15節
すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

月報2008年4月号より

「計り知れない神の愛」

礼拝の後、何人かの姉妹が集まって癒しの祈りをしておられる姿を見て、普通教会ではどこでも見られる光景ではありますが、ただ自分には、聖書の中に出てくるタラントの御言葉(マタイ25章14~29節)がいつも思い浮ぶのです。以前集っていた教会では癒しの祈りを教わっていました。このタラントの喩えと共に、せっかく学んだから用いなさいとよく実際に祈りの中で用いていました。

御子によって、私たちに語られている御言葉は大人から子供まで非常に解り易く語られています。しかしその御言葉一つ一つに神の愛が秘めされている事を、見逃すわけにはいかないと思います。この喩えの中にも一タラントを預かった者は、主人(神様)は、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だから怖くなり地の中に隠しておきましたと答えています。しかし神様はその様な方でしょうか。決してその様な方では在りません。なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節) タラントすなわち英語でタレントであり、賜物、才能、能力と言う意味で、この教会でもよく用いられています。我々はすでに救われた者であり(「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ書10章10節)、その私達を神は一人一人にタレントを与えて下さっています。この賜物を一タラント受け取った者と同じ行動をしないで、神の愛に報いていくのが我々クリスチャンの義務と思います。だから癒しの祈りをしておられる中に入って一緒に祈ろうではありませんか。また伝道に、教会の奉仕のためにそれぞれの授かった賜物をフルに使いこなし、神のみこころを成して行く時、我々は「神は大いなることを行って測り知れず、そのくすしいみわざは数えきれない。」(ヨブ記9章10節)神の栄光を体験し、更に信仰を増し加えて行けるのです。

自分はかって、思いを超えた神の愛に触れた事が有りました。それは2003年の秋、クイーンズに有る教会から離れ、マンハッタンの小さなチャペルで礼拝を守っている教団を新聞の広告で見つけ、当時インターネットで教会を紹介していたのは、非常に希でしたが、その教団はインターネットを用いていた為に幾らか理解を持って礼拝に参加する事が出来ました。それと自分にとって、非常に強い魅力が一つ有りました。それはこの教団が毎年一年に一回イスラエル派遣と言う旅行を企画している事でした。一年後、自分もこの派遣の募集をし、出発まで丁度一ヶ月前のある日、クイーンズの教会に集っている姉妹から、H姉が心臓の大手術をした為、これで終わりかもしれないので見舞いに来て欲しいとの要請でした。その三日後、行くか行かまいか心の定まらない心境で礼拝を前に、エルムハーストにあるH姉の緊急病棟を訪れました。何と見てビックリした事に、手術して数日後な為、臓器が十分に機能していないのか、顔から体全身が真っ赤で、しかも風船を膨らませた様に膨れ上っているのではないですか。何とか姉妹を元の元気な姿に返して下さいという一心で姉妹に手を当てて主に祈りました。そして次の週も、どうしても気になっていましたので、同じように礼拝前に、姉妹を見舞いに行きました。何とまた驚いた事に、その日の姉妹は臓器が機能を回復した為か、体全体の膨れも元の状態に治り、肌も正常に治っていました。ただ意識が戻ればと、深い深い眠りの中を漂っている植物状態ではあるものの、一命は避けれたと言う思いを感じ主に感謝しました。そして次の週も、植物状態の姉妹を見舞い、後は意識が回復するのみと主に祈り、もう見舞う事もないでしょうと決めていました。

ところが次の週の日曜日、イスラエルへ出発を前日にして、それは自分自身にとって大変な夢によって目覚めました。その夢とは『自分の前に髪の長く白い着物を着た方が、自分とは反対方向に向いて左腕か何かを枕にして床のうえで横になって寝て居られるのです。誰かと思い、その側を回ってその方の顔を見ると、眠っておられるのではなくハッキリと目が合った』 その所で驚きと興奮の中に目が覚めたのでした。正にその目は、あの御言葉がピッタシの「わたしが道あり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14章6節 の中にある真理そのものを現していた真実なる目イエス様でした。もうその後は大変、その興奮は覚めることを知らず、予てからH姉の見舞いに行きたいと頼まれていたB姉を伴って病院にバーンと飛ばし姉妹の病室に着いて見ると、何と更に驚きや姉妹は眼を開いて我々を確りと意識しているのではないのですか。 一昨日前、久しぶりにB姉妹から電話を頂き、H姉から手紙が届き非常に元気でおられるとの事でした。H姉は手術当時、以前から糖尿病を患っておられました。その合併症が原因で心臓につながる血管が破裂したという説明で連絡を受けたのですが、それだけではなく、足を片方付け根から切断する大手術でした。その後リハビリ施設に移られたと言うので、再びB姉妹と訪問した時には、車椅子での生活ではあるものの、以前よりも元気な姿で回復され、今は日本で生活を送っておられます。

「真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエスキリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちと共に有ります。」ヨハネの手紙第二-3節

月報2008年3月号より