「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?…」

「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?なぜもっと早く教えてくれなかったの!?」
これが翌日の彼女の挨拶の言葉でした。アーサー先生が洗礼式でドアのノッブは内側にしかないのです。イエスさまはドアの外側でたたいているが開けられないのですと言ってたことを思い出し、「本当ですね!!」と洗礼の感激と感謝を体一杯にあらわしながらの挨拶に一瞬反省しながら、「おめでとうEsther!!」(Estherは彼女のアーサー先生よりいただいた洗礼名です)「いい名前だね!!洗礼を受けられて良かったね!!」と私も挨拶をかわしました。

1年程前に私達の職場に入社した彼女に、職場では立場上(経理・財務のManagerで、総務人事も守備範囲にはいる程の小さな職場なので)あまりイエスさまの話しをしにくい環境が昨年の夏頃までつづいていましたが秋ごろから、昼休みなどに私の「証」をする機会があり、それを切っ掛けにして「塩狩峠」のビデオを貸したり、信仰の書や、キリスト者の伝記などを貸したりして、だんだんとそのすばらしさを語りはじめていました。そして教会へおさそいしたら、ご夫婦で1度礼拝に出席してくださいました。ご主人はクリスチャンで、彼女に何時かは同じ信仰を持って欲しいと祈っていたとのことですが、あまり強く話してはいなかった様です。それっきりで教会も殆ど行かない生活が続いておりました。

今年に入ってから、VIPの徹夜の祈り会でも、彼女の救いの為、職場の同僚や先輩の救いの為に名前を上げて祈り始めました。そしてRBC Ministryの「デイリーブレッド」の日本語版を彼女に、そして英語版をご主人へと3月1日からのものを手渡すことが出来、また春に日本へ一時帰国した時に単行本サイズの新約聖書を買い求めて来て彼女へプレゼントをすることが出来ました。そしてその聖書を手渡し乍ら、3月19日と20日のアーサー先生の集会に参加してみないかとさそっていました。そしてアーサー先生は型破りな「不良牧師」であることを紹介しながら、なんとすばらしいTimingでアーサー先生が来られるのかと思いました。

ところが彼女は前日の3月19日には風邪で1日休暇をとり体調が最悪の状態で20日を迎えました。朝から体調が悪く、午後にはDoctorのアポイントが取れたら行くという状態で夕方の集会に出れるかどうかは午後の体調で決めると言っていました。午後になりDoctorのアポイントが取れないが、午前よりは多少体調が良くなって来た様子で「集会に出たら絶対体調が良くなるよ、アーサー先生の話を聞き祈ってもらったら!!」と5時少し前に声を掛けると「行ってみる」ということになりマンハッタンへ向かいました。少し早く会社を出て途中でラーメンでも食べて行こうということになりました。彼女は久しぶりのラーメン屋でご機嫌で食欲も回復し、大分体調も回復してきているようでした。

アーサー先生のMessageの間、一言ももらさぬ様に聞いていた彼女に、終わってから、「どうだった?良かった?」と聞くと「すっごく良かった!!」という返事に、だめ元で私が『洗礼受ける?』と聞くと『うん。いいの?』と答えたので、アーサー先生に相談したところ、即座にOKということになりました。聖霊充満の非常に厳かな、感激的な洗礼式となりました。
『赤ちゃんは、ミルクを必要としますね。私達のミルクは聖書の御言葉です。祈ってから毎日聖書を読んでください』とアーサー先生が言われ、実際、彼女は翌日から熱心に聖書を読み始め、ご主人を驚かしているそうです。

みことばを述べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(第二テモテ4章2節)

月報2002年5月号より

「洗礼を受けてから四年が…」

洗礼を受けてから四年が経とうとしています。その間主の恵みは本当に大きなものでした。全知全能なる主の愛の中にあって日々強められ喜びを与えられました。これからもそうであることを信じています。しかし一時期私は神様の事が分からなくなっていました。

この前、私は神様が悲しまれることをしてしまいました。それが罪だと分かっていて、悪いことだと知っていて、このくらい大した事はないと自分を正当化していました。そしてその事によってそれまで親しくしていた親友をなくしました。何でも話せて自分のことを理解してくれていて、彼のことも理解しているつもりでした。自分のした罪によってその親友を傷つけ、それによって私から離れていったことを赦せなくなっていました。

私は自分のそんな汚い部分を見て落ち込みました。こんなに自己中心的だとは思ったこともなく、どちらかというと人を思いやることの出来るタイプだと思っていました。自分は偽善者だったと思わされました。その事を認めたくなくて、心の隅に隠して逃げていました。その問題に立ち向かうことのできない自分を見て自分の弱さを思い知りました。

頭の中では、そのことを主の前で告白しなければいけないと分かっていましたが、実際にこの問題を目の前にして何もすることができず、誰にも話すことが出来ませんでした。その問題から逃げようとすればするほど自分を苦しめていました。仕事も忙しい時期にあり、そして資格の試験の受験日も近いこともあり、仕事と勉強の毎日で、教会に行けない日々が続きました。一度に色々なことが起こり、心に平安はなく、私は渇ききっていました。

その後身体にいくつか異変が起こりました。まず初めに蕁麻疹が毎日のように出ました。身体中が真っ赤になってかゆくなり何も手につかないときが一ヶ月くらい続き、その後、鼻血が毎日のように一ヶ月以上続きました。

「神様なんなんですか...」と、心の奥底からその言葉が出てきました。

どうしてこんな事になるのかと、神様に疑問を抱きました。でもそんな時も神様は、共にいてくださいました。背を向けていた私を、祈ることもできないほど渇ききった私を、去年の夏に行われたJCFN (Japanese Christian Fellowship Networkという団体) の修養会に導いてくださいました。そこで神様は私の心にダイレクトに語ってくれ、罪意識に苦しんでいた心に入ってきて下さいました。その修養会のテーマが 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい...」 (ローマ人への手紙12章1節) だったのですが、聖い、生きた供え物のことを思ったときに自分の罪を神様の前で告白しなくてはいけないと思わされました。自分のどろどろとした汚い部分を全部さらけ出して、神様の前に出て祈らなければと強く思わされ、その修養会で同室だった友人にすべてを話し、彼も今まで誰にも言えなかったことを話してくれ、二人で祈りました。

「神様、赦してください」と。

そして主は、大きな愛をもってそれまで隠していた罪を赦して下さり、苦しんでいた心を癒して下さいました。赦されたことによって、それまで赦せなかった友人を赦せるようになりました。今まで私を苦しめていたものから解放して下さったのです。イエス様はこの罪のためにも十字架にかかって下さったのだと思わされました。主は進む道を、頼るものを見失っていた私を捕まえ、またもとの所に、本来あるべき所に私を導いてくださったのです。これから歩む人生の中で、このかたがいつも共にいてくださることに感謝です。

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。(ヨハネ第一の手紙1章9節)

月報2002年3月号より

「私は31歳の時に…」

私は31歳の時にまだ結婚する前の家内を通して、イエス様に出会いました。

今振り返れば、小学校のYMCAのキャンプや、高校の予備校もYMCA、また大学もミッション系でしたので、本人がその気になれば、もっと早くからイエス様を知り得たのかもしれません。しかし当時の自分にはずっと、天の父なる神様の存在は、よく言う「苦しい時だけの神頼み」でしかありませんでした。

逆に、肉親である父親の存在は私の成長に大きく影響しました。父は地元のPTAの会長を長い間務め、私への躾やモラルの教育には大変熱心でした。そして「人様には絶対迷惑をかけるな、そして社会の役に立つ人間になれ」と口ぐせの様に私にいっていたのを今でもおぼえています。そんな比較的恵まれた家庭でひねることなく育てられた私でしたが、社会人になり、資本主義の競争社会の波に飲み込まれていくと、父親から教わった事とは全くちがう社会の現実が待っていました。 名古屋で営業部に配属になると、「競争社会では食うか食われるかのどちらかだから、お人好しでは負ける、図太く生きろ。」とか、「他人の事よりはまず自分、仕事相手は信用する前にまず疑ってかかれば、だまされることはない。」などと先輩や上司に教わりました。自分自身では、疑問をもちながらも、当時、出世意欲旺盛だった私はいつしかそれを受け入れ、染まっていきました。

家内との出会いは、そんな人間社会の欲の中にどっぷり漬かってしまって、もうすっかり昔の自分を忘れてしまっている時でした。

彼女は学校を卒業して、私と同じ会社に入ってきたのですが、入社早々のあいさつで、いきなり「わたしはクリスチャンです。」と信仰告白をしていました。でも当時の私は、そんな彼女のことも 「何がクリスチャンや。」と取り合わず、むしろ その明るく天真爛漫ぶりに疑いの目を持っていました。

その後、何年間も親しく会話することはなかったのですが、ある仕事をきっかけに、話をする機会を持ち、彼女が幼くして、お父さんを亡くし、お母さんひとりの手で育てられた事を聞き、その逆境での生い立ちにもかかわらず、真っ直ぐな心を持っている彼女に自分の心の歪みを気付かされました。

それから、彼女との交際がはじまり、その天真爛漫ぶりが、どうやら彼女がクリスチャンであることに関係しているを知り、そこで、イエス様の事にはじめて興味を持つようになりました。以来私は進んで、「はじめてのキリスト教」とか、「キリスト教入門」など聖書以外のキリスト教書籍を読んだりしました。でも聖書は辞書みたいでとても読書嫌いの私には読む気にはなれず、何とかインスタントにキリスト教を知ろうとしたのです。また同時にデートの時には、キリスト教のことばかり話しするようになりました。

夕立ち後のデートで、虹の出現に、いきなり神様との約束を思い出すと言っておどろいた逸話が私たちにはありますが、それはこの頃の事です。幸い会社のすぐ横に教会があったので、日曜日以外にも金曜夕拝に仕事の終わった後、積極的に足を運ぶようになりました。でも既に自我と先入観念を確立していた私には、どうしても理解できないことや、一般常識では受け入れ難いことが多々あり、教会には行くけれども、全て納得できないととても洗礼を受ける気持ちにはなれなかったので、洗礼は一生受けないかもしれないと思っていました。

例の虹の事についても、虹は雨が降った後の大気中に残った水分に太陽光線が反射して虹ができると科学的に証明されているので、神様の意志で作ったものではなく単なる自然現象だとしか考えられませんでした。しかし神様は、そのような私の事もご存知でちゃんと私の為に特別な導きを用意していてくださいました。

皆さんは偶然が3回立て続けに起こることがあると思いますか。

私への神様の救いの導きは、そのような起こり得ない3回の偶然を用いて、はじめて人知を超えた神の意志もしくは計画の存在を教えて下さいました。

1つ目はあるキリスト教系の病院への通っていた教会からの献金でした。その病院とは、わたしの妹がまだ幼くして亡くなった病院です。大阪にあるのですが、医療ミスにより亡くなった疑いがあった為、その病院の名前は家族の中では、暗黙のうちに禁句となっていましたが、突然礼拝中にその名前がわたしの耳に飛び込んできました。私は「何で名古屋の教会がわざわざ大阪のしかもわたしの家族に少なからず関係するこの病院に献金をするのか。」と驚きました。それから、今度は1週間後の礼拝で、実家のすぐ近くにある教会で牧師が礼拝奉仕をするという報告。「また何で、名古屋の教会の牧師がわざわざ大阪のしかもその中で私の実家に一番近い教会なのか。」と思いました。聞けばその牧師がまだ駆け出し頃(私が中学生の頃)、その教会で伝道師をしていた関係で、会堂新築の記念礼拝で説教をなさるということでした。

その教会は中学校に行く途中にあったので、もしかすると、その牧師とは、以前ニアミスをしていたのかもしれません。わたしは、だんだん偶然の連続が恐ろしくなってきました。

そして、極め付けの3つ目は、それからまた1週間後に起こりました。それは、その年のイースターに向けての受洗希望者の案内が週報に載っていたことです。それだけでは、普通はあまり驚くことではないのですが、わたしにとっては、非常にインパクトがありました。それはその年のイースターは私の誕生日と重なっていたのです。

その前からの2週続きの偶然と、このことは、すべて自分に個人的に関わっており、この3つのことはとても偶然とは思えず、自分の過去を振り返ると、神様は私が生まれる前から計画をもって、この時に至るまでのあらゆること全てをもって、救いに導いてくださっていたと信じることができ、今までの迷いを振り払いこのタイムリーな神様の導きに洗礼を決意しました。

聖書の中にも、詩篇139篇には、このように書いてあります。

「あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

そして、ヨハネ15章16節には、「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び、任命したのです。」とも書いてあります。

このように、普通の人とは違い、非常に短期的に救われた私でしたので、人の罪やイエス様の十字架という意味では当時信仰はまだ薄かったように思います。

でも、わたしの場合、この受洗をきっかけにもっと神様を求めるようになり、そこから本当の信仰生活がはじまったような気がします。イエス様の事がどうしても信じられないと悩む日々もありましたが、信じられないではなく、祈って信じたい、信じようと思えば、神様は御手を差し伸べてくださいました。先ほどの虹の話にしても、今では、それができるプロセスは科学的には確かにそうかもしれないが、雨を降らすことも、その後に太陽を出すことも神様の意志により、簡単にできると思えば、虹を架けることも意志をもって契約のしるしとしてそれを作ることはできるんだと思えるようにかえられました。

 

月報2002年2月号より

「今思うと私の家族は…」

今思うと私の家族は人への思いやりという意味では決して豊かに与えることのできる家庭ではなかったように思います。やさしいけど無口な父を、気の強い母は頼りないと言い、私が高校生の頃に叔父の家からわが家に移ってきた祖母は、以前、自営ですが会社を経営していたこともあり、わが家の中心に居る人でした。

私は早く自立したかった思いもあり、学校を卒業するとすぐに仕事に就き、家から離れました。しかし、一人からの出発は苦労の連続です。私は次第に「最後に頼れるのは自分しかいない」と思うようになりました。イギリスへ留学、そして日本に帰ってきても再び東京で仕事に就き、前のように時々実家に帰るものの、家族とは離れて暮していました。

ちょうど大学の勉強を始めた頃から、ある人の勧めで教会へ行くようになりました。最初はやはり半信半疑、全く聖書の意味が不明でした。しかし大学で知り合う人達、そして私に教会を勧めてくれた人、教会の方々の不思議な導きで、私は次第に神様のことを考えるようになっていきました。

ある日いつものように西洋史のレポートの文献として選んだマルティン・ルターの宗教改革までを追った、ルターの伝記のような本の中でルターの「神の恩ちょうのみ」と言う言葉に出会いました。その意味自体わからないのにその時なぜか心にひっかかり、数日その言葉の意味を考えていました。しかし、ある日ふとその意味がわかったのです。と同時に今までずっと心の迷いの中にあった、神様の愛とは何か、がわかったのです。それは私にとって衝撃的な出来事でした。そして以前よりも熱心に聖書のみことばに耳を傾けていた時、神様は私にこの聖書のみことばを語ってくれました。

「わたしを強くして下さるかたによって、何ごとでもすることができる。」

(ピリピ 4章13節)

強がってきた今までの私に、神様は弱くてもいいことをずっと教えてくれていた、そしてそれが神様の恩ちょうから、無償の愛からであることに気付いたのです。神様を初めて信じ、受け入れた瞬間でした。教会を勧めてくれた人にそのことを話すと涙を流して喜んでくれました。そして数ヵ月後に洗礼を受け、私は今までの自分勝手さを悔い改めたのです。

あれから数年後、昨年の夏から今年にかけて、大きな困難にぶつかりました。暗く果てしなく長いトンネルを一人きりで歩いているような辛い時期でした。しかしそんな時、West Covina Japanese Christian Church牧師、そして義父である大川道雄先生がこの言葉をもって沈んでいた私を励まして下さいました。

「神は愛する者に試練を与える、それは愛する者が試練を通してでなければ訓練されることがないからです。」

愛する者ー私は神様に愛されている、そう思った瞬間喜びが、力が溢れました。その時、神様に全てを委ねることを学びました。そして数カ月後、神様は私達夫婦を再会させて下さいました。

今振り返るとその貴重な時間も、実は頑固な私の家族に、家族とは何か、そしてこれまであまり話せなかった神様や教会、教会の兄弟姉妹のことなどを語り会えた良い機会だったのだと、全ては神様の不思議な導きだったのだと思えるのです。

新しい命を得たこと、素晴らしい教会と多くの兄弟姉妹、そして夫とともに祈ることのできる日々を与えられたことに、またそれまでの不思議な神様の導きに感謝しつつ、これからも主の愛を、福音を語るものとして主の道を歩ませていただこうと思っています。

月報2002年1月号より

「International VIP Club との出会いと祝福」

1997年11月主の導きにより東京に仕事を与えられ12年振りに日本で働くことになり、単身帰国しました。長年の妻の祈りと教会の諸兄姉の祈りによって奇跡のように、1988年にアメリカで救われた私は日本での信仰生活は初めてでした。教会もJCCNJしか知らない私にはなかなか馴染めませんでした。与えられた職場でも、案の定クリスチャンは私だけ。時間の経過とともに信仰の火が消えて行く様に思え、寂しさをひしひしと感じておりました。その様な時に五賀兄弟(JCCNJのOB)を通してInternational VIP Clubを紹介されました。初めて出席したのは丸の内のパレスホテルでの朝食祈祷会でした。そこでInternational VIP Clubの創設者である佐々木弁護士、市村師を紹介頂きました。職場が有楽町で日比谷公園のそばでしたので、帝国ホテルの朝食祈祷会(毎週水曜日)を紹介され、それ以来再びアメリカに戻るまで、この由緒ある(同クラブの最初の集会が開かれた場所であったのです)帝国ホテルの朝食祈祷会へ出席する様に導かれました。そしてVIP Clubがイザヤ書43章4節の「私の目には、あなたは高価で尊い」(You are Very Important Person in God Eyes)からであり、その御言葉通り一人一人が神の目にはVIPであるとの理念で運営されていること、ビジネスマン、専門職の異業種交流の場であり、福音伝道の場であること、会員制クラブであり、どの宗派にもどの教会にも所属していないこと等が分かりました。

帝国ホテル朝食祈祷会を通してInternational VIP Club の色々な集会(昼食会、夕食会、オアシス祈り会等)を紹介され、お茶の水の夕方集会に出席したのをきっかけに、その「祝福の秘密」を知りたいと思うようになりました。「なんでこんなに祝福された集会なのだろう?」、「なぜ祝福されるのだろう?」と不思議に思い、全ての集会に出席して見ようとの思いが与えられました。およそ半年掛けて殆ど全ての集会に出て見たのですが、残念乍らその秘密はわかりません。そして出席していない集会は、オアシス木曜祈り会と月1回のオアシス徹夜祈り会だけ残りました。仕方なく(祈りが苦手だったので)木曜の夕方の祈り会へ出席しましたが、それでもまだ秘密はわからないままでした。そして最後に残った徹夜祈祷会へ、一大決心をして出席したのです。そして眠い目で朝を迎え、最後に全員で賛美している時に、その「祝福の秘密」がついに分かったのです!!そうです、「祈り」だったのです。決して渇くことのない「生命の泉」(ヨハネ4章14節)を体験した瞬間でした。

その後、多くの主にある祈りの友が与えられ、多くのビジネスマン・専門職の方々に生きて働かれるイエスさまの御業、「証」(あかし)を聞き、良き交わりをさせて頂き、正に日本の生活のオアシス(泉)となって、弱い私の信仰の火を絶やすことなく燃え続けさせて下さったのです。

VIP Clubでの奉仕(「証」、司会役など)も、いつも生きて今も働かれる「イエスさま」が支えてくださり、「語るべき言葉を教えよう」(出エジプト4章12節)と示してくださり、奉仕を終えて見ると何時も「私ではない、私には出来ない」と祝福で満たしてくださったのです。

会社のリストラにより、1999年4月末で突然解雇され、たった1年半で又仕事を失いました。本当に驚きましたが、祈りで支えられ、全く動揺することはありませんでした。秋の修養会までにアメリカに戻ることにし、それまでの5ヶ月をInternational VIP Clubの祈りの友に、祈りで支えられ励まされ、特にNew YorkでのVIP Club開催の為に祈って下さいました。最後のオアシス徹夜祈り会で、私の滞日2年程を振り返り乍ら、VIP Club との出会い、主の導きにより徹夜祈祷会の「生命の泉」(上述)の体験を「証」(あかし)する恵みを頂きました。

2000年2月初旬、大雪の朝、第1回目の朝食祈祷会(現在のJCCNJの朝食祈祷会のマンハッタン45丁目のマクドナルドにて)と、徹夜祈祷会(42丁目のGrand Central Station前の友達のOfficeにて)が同時にスタートすることが出来ました。

失業中であったので、「リストラ・ミニストリー」だね!と苦笑し乍らも、VIP Club の為、Mid Townで仕事が与えられる様に毎週、真剣に祈り続け、JCCNJの皆様の熱い祈りに支えられて、現在の仕事が与えられましたが、何故かNew Yorkの郊外の職場が与えられました。「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ書8章28節)主に期待しています。

現在のInternational VIP Club の集会は、毎週水曜日夕方集会(午後7時15分~午後9時)と毎週金曜日徹夜祈祷会(午後11時~翌午前5時)を左記住所にて開催中です。ともに「生命の泉」に預かりたいと願っています。主の御名を心から賛美します。

211 East 43rd Street, Suite 1201

New York, NY (43rd Street, Between 2nd and 3rd Avenue)

詳細は、http://vip-club.tv/ 又は、E-mail: katoh7316@worldnet.att.net まで。

月報2001年12月号より

「去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました…」

去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました。予定日より3週間以上早かったにも拘わらず、体重は2700グラムを超えて健康で、外に出る日を待ち切れずに生まれて来たようでした。

日本では妊娠のことを「おめでた」と言います。アメリカでも妊婦さんに対して必ず「Congratulations!」と声をかけるように、妊娠は喜ばしいこと、幸せなこととされています。私の場合も例外なく、親しい方はもちろん、外出先で出会う見ず知らずにも祝っていただきました。その度に笑顔を作った私ですが、その実、どうしても素直に「ありがとう」と言えずにいました。私にとって、二番目の子供を授かったことは全くのハプニング(思いがけない出来事)だったのです。

我家には8月でやっと2歳になった男の子がいます。こちらは待ち望んだ子供で、胎に宿ったと知った時の喜びといったらありません。しかし、初めての子育ては慣れないことばかりです。試行錯誤の連続で、喜びも吹き飛ぶほど忙しい毎日が続きました。それが1年過ぎてようやく一息つけるようになり、これから始まる楽しい毎日――遠くへのお出掛けに図画や工作――を思い描いていた矢先、ハプニングは起きました。

これまで、私は比較的思い通り生きてきたように思います。両親は私を自由に育ててくれた分、責任も自分で取るように教えてくれました。そのためか、何事にも慎重で、行動を起こす前には入念な準備を欠かさないようになりました。しかし、裏返して言えば、予想外の事態に弱く、一度計画が狂うと軌道を修正するのに時間がかかるのでした。今回の出来事はまさにそれでした。買った物を要らないからと返品するように胎の子を戻すわけにはいかず、自力でどうにもならない事態に腹立たしく悔しい思いが募りました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

(伝道者の書 3章11節)

私のあまりの落胆ぶりに、友人達はいろいろな方法で励まそうとし、クリスチャンの友人は聖書の中からふさわしい言葉を語ってくれました。しかし、私の心は頑なで、「そんな言葉は知っている。知っているけれども受け容れられないから辛いのよ」と心の中で叫んでいました。事実、「時にかなって…」の一節は、聖書の中で最も好きな箇所の一つです。クリスチャンになる前は優柔不断で後悔ばかりしていた私を前向きな人間に変えてくれた一節でした。ところが、今回ばかりはその言葉すら跳ね除けてしまうのです。やるせない気持ちを抱える日が続きました。

そんな私も、月が過ぎてお腹が大きくなるにつれ、中にいる子供に愛情が湧いてきました。胎動が始まると、まだ見ぬ子への愛おしさは一段と強まり、さすったり話しかけたりするようになりました。お腹の子供もそれに応えるようによく動き、胎動をあまり感じない日は、かえって心配なぐらいでした。

そして9ヶ月を過ぎたある日――それは突然やってきました。朝から腹痛を覚えていたのですが、すぐに治るだろうと考えて、上の子供を遊ばせたり買い物に出たりしていました。しかし痛みはなかなか消えず、夕方、あまりの痛さに、お医者様に電話をかけると、初めはのん気に構えていた先生も暫くして異常を察知し、「すぐに病院へ来て下さい」ということになりました。とは言え、主人はまだ会社ですし、入院の荷造りも整っていません。上の子供を寝かしつけてもおらず、準備は何ひとつ出来ていませんでした。

慌てて親しい友人のご主人に病院までの足をお願いし、荷造りを進め、上の子供には寒くない格好をさせて待ちました。その間、腹痛――今思えば立派な陣痛――は強まるばかりで、何度もうずくまって待ちました。迎えが来た時は立って歩けないほどの痛みに顔がゆがみ、支えられるようにして車の中に乗り込みました。

上の子供も車に乗せてもらい、「さあ、病院へ」というその瞬間です。主人がいつもは約1時間かかる道のりを30分ほどで帰ってきました。すぐに車を出して2台で病院へ向かい、私は分娩室へ、子供はそのまま友人宅へ連れて行って貰いました。いつもなら親から離れて大泣きする息子がこの時はおとなしく、初めてのお泊りを難なくこなしてくれたから不思議です。

一方、病室に入った私は主人の付き添いを得て安堵していました。ただ、腹痛が治まれば帰宅できると考えていたところへ、お医者様から「今晩中に産みましょう」と言われ狼狽しました。入院準備はおろか、心の準備もできていません。そこへきて、希望していた無痛分娩の注射はタイミングを逸して打ってもらえず、予定外の生みの苦しみを味わうことになりました。そんなことは知る由もなく、お腹の子供は準備万端だったと見え、力強く生まれてきました。

何一つ思い通りにならなかった出産ですが、今振り返ると、ひとつひとつのことが偶然とは思えないほど良く準備されていたのが分かります。友人の助けや主人の帰宅、長男の様子などなど――そこに、神様が用意して下さった完璧な御計画をはっきり見ることができるのです。

退院した後も、神様は良くして下さいました。家の中は、慌てて飛び出したまま出産に突入したわけですから、赤ん坊を迎える準備など整っているはずがありません。両親が助っ人に来てくれるのは1ヶ月も先のことです。しかし、オムツ替えや授乳の時間は容赦なくやってきて、てんてこ舞いの毎日がスタートしました。

周囲の知人や友人は、そんな私を見兼ねてか、上の子供を預かったり食事を差し入れて下さいました。この時ほど、周囲が差し伸べて下さる助けに感謝したことはありません。あの時期を乗り切れたのは、こうした支えのお陰だと心から感謝しています。

時には、こちらからお願いすることもありました。私にとって、他人に物事を頼むのは、とても勇気の要る行為でした。親元を離れて生活するようになってから、いつしか自分だけを頼みに生きてきました。もちろん、キリストに出会って頼れるお方を得たわけですが、やはり何かして貰うと感謝するより恐縮する気持ちが強いのでした。それが、今回を通じて、人様の好意を素直に受け取ることの大切さを知り、お返しには、自分のできることをできる範囲ですればいいという心持ちになりました。

ハプニング続きの次男の誕生は、安穏とクリスチャン生活を送っていた私の目を醒ましてくれる出来事でした。あれから5ヶ月――おかげ様で丸々と太った我が子は、愛くるしい笑顔で育児疲れを忘れさせてくれます。これからも、子供2人を育てていく上で、いろいろなハプニングに出遭うことでしょう。でも、どれも神様によって丹念に練り上げられ、準備されたものだと分かっているから心配ありません。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」

箴言16章9節

月報2001年10月号より

「私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは…」

私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは5年くらい前のクリスマスの頃だったかと思います。

初めから、たくさんの人が暖かく声をかけて下さり、家庭集会にも送り迎えして下さったりした事を覚えています。初めは学生としてアメリカに来た私でしたが、こちらでの友人というと皆自分の事だけで精一杯。利用されたり寂しいがゆえ一緒にいる、きっと日本に戻ったりもう連絡をとりあう事もないだろうといううわべだけの友人でした。悩んだり傷ついたりして日本へのホームシックは募るばかりでした。それが教会では全く違う人達が集まっていて優しくされホッとする場所でありました。礼拝中も気持ちが穏やかになり自分と見詰め合ういい機会でもありました。

ただこの時、妊娠臨月で、あまり教会には足を運べずにいました。初めてのお産は緊急帝王切開。2泊で退院だったので無理がたたっていつまでもお腹の痛みはとれずベッドから一人で起き上がることも出来ず、夜中の授乳にも時間がかかりました。そんな時、教会の方々が状況を察して1日おきに主人と私の分の食事を運んで下さったのです。一番助けが欲しかった時に手を差し伸べて下さり、赤ちゃんを見て一緒に喜んで下さったことは有り難く忘れられませんでした。

それからは自然と教会に向かうようになりました。ただ洗礼を受けるまでには4年の月日が流れました。一番の理由は神を受け入れる、信じるということが心からできるまではと思っていたのと、聖書の意味もよくわからないしと壁をつくっていたのです。熱心な教会の方を見ては、私にはあそこまでいきついていない、まだまだと思っていたのです。

二人目の子を妊娠した時、教会を通じてお友達になったママ達がいました。その彼女らの誘いで友人宅に集まったのですが、一緒に悩みを分かち合ったり祈り合ったりするものでした。そこではどんな悩みもお互いがさらけ出し打ち明けられる場でした。それによって彼女らが信頼出来る何でも話せるかけがえのない友達へとかわっていきました。海外に住み子育てをしていく上でさらけ出せる友達、答えてくれる友達は、とても心の支えとなります。教会を通して知り合った人達は良い人ばかりで いつも私や家族の為に祈ってくれて手助けを行動で示してくれるのです。普通「何かあったら いつでも力になるから」そう声をかけてもらっても実際は頼みにくいものです。それをクリスチャンの友は察して動いてくれるのです。私の為に泣いて喜んでくれる人もいるのです。心から私の家族の為に一生懸命祈ってくれるのです。その心の純粋さ優しさをいつもどうしてかと知りたかったのですが わかったのは神様を信じ、愛されているから、人にも同様に出来るという事でした。

出産まであと2ヶ月と近づいた頃、恐怖や不安で一杯だった私は、このままではお産に良くないとわかっていても、どうしても前回のお産が思い出され打ち消すことは出来ませんでした。そんな時、主人が「洗礼を受けてみる?」と尋ねてくれて、その言葉はとても嬉しいものでした。その後は、すがる気持ちで助けて下さい、守って下さいという一心から洗礼を受けたのでした。

洗礼式は感動的でした。主人の家族の方も喜んで来て下さり、先生も気遣って英語で説教をして下さりました。その1ヶ月後いきなり強い陣痛が来ました。病院に行く前に痛みの中ふっと思い、口にしたのは、「主人のお父さんの形見のイエス様のネックレスを持ってきて。」そのネックレスを強くずっと握りしめたまま病院に着きました。その時から自然に不安や恐怖の気持ちよりも、絶対に自然分娩で元気な赤ちゃんを産もうという気持ちの方が強くなっていました。その結果祈りは通じました。

5月13日、母の日に素晴らしいギフトを授かる事ができました。安産でショーンは産まれました。

洗礼を受けて変わったことは、祈りは通じると知った事、感謝する気持ちが増えたこと、姉妹や兄弟と呼べる人がいるという事(この呼び方って家族が増えたようで親近感がわきますね)、そして心配事が出来てもきっと神様がいい方向にむかせてくれると身をゆだねるようになった事です。

ある方がこう教えてくれました。時に自分の欲しいものを与えられない事があるけれどそれには理由があって後になってわかる、貴方にいい方向に神は向けて下さったのだと。

今の楽しみはまだ一度も口にしたことのないあのワインとパン。どんな味なのでしょう?

「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」

ヨハネ第1の手紙 5章10節

月報2001年9月号より

「牧師の子供として育った私は…」

牧師の子供として育った私は、幼い頃から聖書や教会には慣れていました。しかし、小学校4年生の時牧師である父が亡くなってから、少しずつ教会との間に距離ができていて、気がつけば完全に教会から離れていました。でも、中学校時代の激しい部活動が終わると同時にまた教会に足を運ぶようになり、高校1年の時に洗礼を受けました。

この洗礼も今考えると周囲から急かされるように受けたので、本人は自分の罪の事、またイエス様の十字架の意味などまるでわからず、ただなんとなく受けてしまったのですが、それでもその時が明らかに信仰生活のスタートであったことは間違いないと思っています。

事実、その後、いろんな出来事を通して自分の罪が示されイエス様の十字架が私の為であったとわかってきました。

その中でも自分が一番忘れられないことを、今回は証しさせて頂きたいと思います。

毎年イースターが近づくと、胸が痛くなります。きっと一生忘れない様にと神様がこの時に定めてくださったのでしょうか。

今から6年前のことです。会社の先輩であった主人に、純粋に神様のことを伝えたいということから、だんだんとお付き合いが始まりました。私がしきりに教会へ行く事を勧めたので、半年ほど経ってから彼は教会に行き始め、その後まもなく、突然洗礼を受けると言い出しました。何でもその年のイースターが自分の誕生日と同じ日であるということ、またその他にもいくつか神様の導きを感じることがある、とのこと。

ふつうなら、クリスチャンになってほしいと願い祈っていた人が、洗礼を決心したら嬉しくて神様に感謝、感謝、なのですが、そのときの私は違っていました。ちょっとビックリ!!そんなに早く受けちゃって大丈夫なの?という気持ちと、まずい・・・その教会で受けちゃうの?でした。

というのも、私が育った教会が、あまりにも彼の教会に対するイメージとかけ離れていて、この教会では信仰を持って行く自信がないと言われ、でも、せっかく行こうという気になっているのだから今は彼の行きやすい教会へいけばいいと思い、別の教会へ行くことに賛成していました。神様はひとつ、どこへいっても同じなのだから、なんて物分かりのいいことを言いつつ、私のシナリオはこうでした。「もう少したったら自分の教会へ引っ張ればいい。」

まさかこんなに早く洗礼を受けると思っていなかったので、焦りました。そして、次の瞬間私は完全に頭が真っ白になりました。洗礼の仕方が「滴礼」であると聞いたからです。

洗礼には「浸礼」(全身水につける洗礼)と、「滴礼」(水滴を頭にかける洗礼)の2種類があります。NJ日本語教会でも滴礼でされていますし、今思えばほんとうにバカみたいな話です。でも、私は洗礼の仕方も浸礼が当然というような風潮の中で育ってきたので、「滴礼」で洗礼を受けるなんてことを受け入れることができませんでした。たくさん奉仕もして、知識もだんだん入ってきて、でもそういう事ばかりに心が奪われて一番大事な事が見えなくなっているとは思ってもいませんでした。

今年4月の洗礼式の時に牧師が言った事、「滴礼でも浸礼でも神様の前では同じです。」という言葉に今は全くそのとおりだと思っています。

とにかくそんなわけで、私はこの事を受け入れたら妥協することになる、一度妥協したらずっと尾をひく、と変に恐れて彼の洗礼を反対し始めました。当然、彼も戸惑いました。今までイエス様は救い主でね、なんて言っていた人が、これから洗礼を受けようという人に「浸礼」は良いけど、「滴礼」はダメとか訳の分からない事を言い出したからです。

2ヶ月ほど平行線の状態が続き、私たちは行き詰まりました。私自身も疲れ果ててしまいました。というのもだんだんと将来にかかわってくる問題もからんできて複雑になってきたからです。「イースター=洗礼式の日」がどんどん近づいていき、ある日彼はこう言いました。「祐子と別れたとしても僕は洗礼を受ける。これだけは変わらない。」私は愕然としました。ここまで言わせて私は何をしているんだろう…。

本当に情けなかったでした。本来なら、神様の素晴らしさを証しして彼を導いていく立場である私が、洗礼を反対し、しかも教会の伝統の違いによって出てくる問題の事で醜い言葉を吐いている・・・。

イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られましたが、まさに私の事でした。

いよいよイースター前日、彼は洗礼を受けるというのに私はまだそのことをどう受け止めたら良いのかわからないままでした。

その当時、私は教会学校の先生をしていて、夜その準備をしていたときのことです。お話の準備をしていたのは、「種まきのたとえ話」のところでした。(マルコによる福音書4章3~9節)その話をイエス様が解き明かされたところにきたとき、私はハッとしました。

「種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を奪って行くのである。」(同14~15節)

この「サタン」て、今の私????今蒔かれようとしているのに私が奪おうとしている…何てとんでもないことをしてしまったのか。もうその場で泣き崩れました。「神様、私を赦してください・・・。」

「私を赦してください。私は自分の教会が一番と思っていて他の教会を見下していました。神様の御計画に委ねず自分の考えで彼を導こうとしていました。そして何よりも自分が一番正しいと思っていました。本当に傲慢でした。あんなに神様の喜ばれることをしたいと思っていたのに、実際は悲しまれる事ばかりしている・・・。神様、今から、今からでも間にあうでしょうか、どうか明日まで、彼の心を守って下さって、祝福のうちに洗礼を受ける事ができますように。」と祈りました。それはもう交際相手としてではなく、ひとりの人の救いを願う、まさしく私の最初の純粋な気持ちに戻っていました。ひとりの人が洗礼を受けるという事をイエス様はどれほど願っておられ、また大きな喜びであるのか、洗礼の仕方なんてもはやどうでもいいことなんだ、ああ、神様は彼の洗礼を喜んでくださっている、ということがひしひしと感じられました。

そのあと彼に電話で今までの事をすべて謝り、明日の洗礼を心から祝福すると伝えました。

神様はいちばん大事な事を見せてくださいました。その後も結婚まで、また結婚してからも同じような問題にぶつかりましたが、クリスチャンの常識のようなものにとらわれそうになるときはいつも、この事のためにもイエス様は十字架にかかられたことを思い出して、イエス様は何を望んでおられるのか、イエス様だったらこんな時どうされるのかをまず初めに求めるように変えられました。

ほんの少しずつですが、でももう二度とあんな事をしてしまわないように神様がチェックしてくださっているのを感じます。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」

エペソ人への手紙2章14~16節

月報2001年8月号より

「ハドソン河を渡った」

沢山の方々から祝福をいただいて、この4月8日に錦織牧師から洗礼を受け、晴れてクリスチャンの道を歩むことになりました。でも、1940年生まれ、61才の私がなぜ今更クリスチャンになったのか?

サラリーマンならばいつかはやってくる定年の影がちらつきだしたのは、私の2度目のニューヨーク赴任に家内(磯村禮子)がジョインした1998年頃だったかもしれません。自分がサラリーマンでいる内は、常に仕事が自分の人生の座標軸、そして仕事上の達成感が自分の人間としての心の充足を与えてくれるものでした。そしてこの人生の舵取りをするのはいつも自分でした。俺が俺がの自己中心の世界を泳ぎ渡って、それなりの成功をしてきたつもりでいたのです。

でも、このままでいけば、数年後には定年を迎える、それこそ自分が人生の座標軸としてきた「会社の仕事」が消え、座標の軸を失うのかしらとおぼろげに気になりだしたある日曜日、クリスチャンの家内の運転手として、彼女をニュージャージー日本人キリスト教会に送り、勧められるままに礼拝堂に足を踏み入れました。

私は、日頃宗教とか信仰から全く縁遠い人間だと思ってきました。キリスト教も新興宗教も五十歩百歩で、その信者も浮世離れした人間味のない、なにかというと「アーメン」なる呪文を唱える薄気味の悪い連中だと思っていたのです。家内にもそのような世界に足を踏み入れて困ったものだ、せめて薄気味の悪い狂信者にはならないでほしいと内心願っていました。

でも、この教会で会った人達は私のイメージとはまったく違っていました。錦織牧師を始めとして、実に人間くさく、知性に溢れ、そして何よりも皆とても「いい人達、キモチのいい人達」だったのです。なにがここの人達をしてこんなに「いい人」にしているのだろうか?彼らがクリスチャンである以外に理由などあるわけがないことを悟るのにあまり時間はかかりませんでした。こうして私の運転手としての教会通いが始まりました。

余勢を駆って秋の修養会にも参加してしまいましたが、これは幼稚園生がいきなり大学に入ったみたいなもので、ヘビーな体験でした。また聖書勉強会に出ても、聖書の世界、特に諸々の奇跡はとても信じられないことばかりでした。でも科学者でもキリスト教徒は皆これを信じている以上、史実や科学との間になんらかの相関関係があるはずだと思いましたが納得がいく説明には出会えませんでした。その間、家内は一貫して、「あなたが信ずるのではなく、神様が信じさせてくださる。」と言い続けていました。そして、キリスト教が自分の新しい人生の座標軸になってくれるかもしれないという期待は、その間、薄くなったりまた盛り返したりしていましたが、このままでは自分がキリスト教徒になることには全く現実味が伴いませんでした。でも錦織先生には「理屈で分かるのではなく、ある日フッとそうなってるんですよね。」と仰しゃっていただきました。

それはどういう瞬間なのだろうと思いつつ、気がついてみるともう3年も教会通いを続けていたのです。 その内に「門前の小僧も習わぬ経を読み」出していることにも気がつきました。若い人達へのお説教の中に、キリスト教的フィロソフィが交じり出したのです。苦笑しつつも悪い気はしませんでした。教会の中でも古手の域に達してきました。しかし求道者の方々が次々と洗礼を受けられるのを目の当たりにしても焦る気はありませんでした。自分の座右の銘「自然体」で接していたからです。錦織牧師も気にかけて下さいました。「いかがですか?」「うーん、先生、近づいてはいるんですが、まだハドソン河のこっち側にいるような気がして。川幅は広いですよねぇ・・・。」

しかし21世紀が開けた最初の月に、事態は一変しました。人間ドックの結果が、前立腺癌に罹患していることを示していました。生体検査の結果も立派にクロでした。すぐに転移の状況がチェックされました。その命に関わる検査をうけるプロセスを経る間に、サラリーマン生活40年弱の間培った自分自身の忍耐心・克己心への自信がガラガラと瓦解しました。「悪い目が出れば死に直結」する癌に自分一人では耐え切れなかったのです。

その日は、病院で骨への転移を調べるべく、Bone Scan検査をやっていました。アヤしいところがあるということで、頭骨のScanを撮りなおしていた最中です。「頭の骨に転移??」知らず知らずのうちに、口の中で「神様助けて!」と叫んでいました。フト気がつくと、検査室の天井あたりに、中世の宗教画風の画が浮かび、神様ともイエス様ともあるいはマリヤ様、モナリザともつかないお顔が私に向かって微笑んでいるような気がしました。「メトロポリタンミュージアムで見た画? それとも神様が?? そんなワケは・・・」

検査結果はシロでした。転移はありませんでした。そして、後顧の憂いなく全摘手術に向かうことができたのです。

手術を控えた聖日の前日に牧師宅に伺い、信仰告白をし受洗希望をお伝えしました。俺が俺がでやってきた人生は過信に満ちた傲慢極まりないものだったのです。これを悔い改め、神の愛を受け入れ、神様を信ずる人生に導いて戴きました。以前であれば、なんとか歯を食いしばって耐えようとしたに違いありません。でも神様はあの微笑みをもって私の人生の座標軸を変えてくださいました。

手術も成功でした。教会の皆様のお祈りをいただき、そして神様が徹底的に守ってくださいました。この世に2人といない素晴らしい日本人の医師のお世話になり、その Associateの飛切り腕の良い外科部長に執刀をうけ、摘出した前立腺からは癌が転移寸前の状況にあってギリギリ手術が間に合ったことが分かり、そして集中治療室での痛みとの闘いの中で頭のなかに鳴り響く「ハレルヤ、ハレルヤ・・・」の歌声。何なんだこれは?

そう、もうハドソン河を渡っていたのです。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇 23篇1節

月報2001年7月号より

「1998年のクリスマスは…」

1998年のクリスマスは私にとって特別なものでした。それは私が本当の意味でのクリスマスを知って迎える初めての年だったからです。伝道の書3章に「全てのワザには時がある。神の為される事は皆その時にかなって美しい」とあります。私が正にこの御言葉のとおりに「今」がイエス様が叩いておられる私の心の扉を開ける時だと確信した時のことを告白したいと思います。

聖書を学び教会に通うようになったのは、NJからアトランタへ引っ越してからでした。でも、それよりずっと以前から関心は持っていました。というのも、私の父と妹の一人がクリスチャンで教会は身近な存在だったのです。ただ、父も妹も自分の信仰や考えについて家族と話すことが無く、私からたずねる事もありませんでした。(特に父は私が生まれる前から教会から離れていたので)近くて遠いものでした。

父は私が結婚してすぐに急な病であっという間に亡くなってしまいました。父が何を考えどんな信仰を持っていたのか聞いてみたいと思った時にはすでに天国に召されていたのが残念ですが、それは私が神様の元に召されて父に再会した時の楽しみだと考えています。

結婚し駐在員の家族としてアメリカに来た1990年からの6年間のNJでの暮しは毎日が忙しく楽しいものでしたが時々、何か虚しさのようなものを感じていました。一日一日は充実しているようでも無意味に思われ、どんなにたくさんの友人がいても心と心の結びつきまでは求めようも無かったのです。

1996年にアトランタに転勤が決まった時,新しい土地で心の満たされた新しい暮しがしたいと心から願いました。その時はじめて自分の中に「教会に行きたい」と言う思いがわいてきました。そしてそれに応えるかのように、すぐに教会に導かれたのです。それは教会で開かれているInternational English Classを通してでした。毎週授業の後に開かれる日本人のBible Studyに出席しました。聖書を読み、初めてイエス様が救い主であり、私の罪の為に十字架にかかって下さった事を知り、少しずつ信じるようになりました。何よりうれしかったのは、イエス様がいつも側にいて、共に人生を歩んでくださる方だと知った事です。そして他の人にもこの福音を伝えたいと考えるようになり、最初は隠れるようにして通っていたBible Studyに次々に人を誘うように変えられました。心の痛みを分かち合える友も与えられました。その後、周りの方達の祈ると導きにより、1998年のクリスマスに洗礼を受けました。

今までの人生の中でもっと早く神様の事を知り信じる時があったのに、と思ったこともありましたが、私に与えられた「時」はその時だったのです。神様が私の為に用意して下さった「時」と「道」をよく見て歩んでいきたいと思います。

5月23日より我が家で、錦織先生に「聖書を読む会」を開いていただく事になりました。私自身がBible Studyを通してイエス様に出会えたように、まだイエス様を知らない人たちに福音を伝える場として用いられるよう願っています。どうか、お祈りください。またご興味のある方、ぜひおいでください。お待ちしています。

月報2001年6月号より

「私は山形県新庄市という小さな田舎町で…」

私は山形県新庄市という小さな田舎町で生まれ、そこで中学まで過ごしました。私が通った幼稚園は確か教会が運営していた幼稚園で、そこで讃美歌を歌ったことを覚えています。特に子供の頃にクリスマスの季節に歌った「きよしこの夜」は、その当時意味はよく解っていなかったと思いますが、とても美しい響きをもった歌だなあと感じていたことを覚えています。

その後数十年、これといった大過もなく時が過ぎ去り、教会・宗教からは全く遠ざかった生活をしていました。それでも1991年8月に塩見兄姉の家庭集会に誘われた時は、何かを求めるような気持ちで期待して出席したことを記憶しています。又その時御会いした教会員の方々は皆いつも笑顔で接して下さり、自分とは違った世界に住んでいるような印象を受けました。その当時の先生は正木牧師で、先生からはいつも素晴らしい説教を聞かせて頂きました。この会に出席するようになってから、祈ることの意味、大事さと罪の悔い改めについて考えるようになりました。しかし一方では、自分が犯した罪を神様に告白し悔い改めをするだけでそんなに簡単に神様は私の罪を赦してくれるのだろうかとの疑問ももっておりました. そうは思いながらもいずれは神様の前で真実を伝え赦しを請う必要があるとは考えておりましが、それを何時行うかは全く私の頭の中にはありませんでした。

私はその年の11月にニユーヨーク・マラソンに参加が決まっておりトレーニング中でした。そのことを知った正木先生は、レースの前の週に皆さんと一緒に私が無事に完走出来るようお祈りをして下さいました。初めてのフルマラソンへの挑戦で不安がありましたので、このお祈りは本当にありがたく思いました。おかげで無事完走することができましたが、今思えば、自分の後で神様が私を支えて下さっていたのでしょう。

その後石賀先生、池原先生と牧師先生が変わったにも拘らず、私の身辺には大きな変化もなく、相変わらず家庭集会にだけは都合の許す限り出席していましたが、教会にはほとんど行きませんでした。そんな私の心にもある出来事をきっかけに変化が現れ、それが自分でもはっきりと解かったので一日も早く罪の悔い改めを行い主を受け入れたい旨錦織先生にご相談した結果 先生の温かいご協力、ご指導のもと待望の洗礼を1999年12月に受けることができました。これも神様のご計画の中に有ったのでしょうか。こんな罪深い私をも受け入れて下さった神様に深く感謝しております。又此れ迄自分で全てを切り開いて生きて来たような錯覚をしておりましたが、イエス キリストを我が主として受け入れて以来、背伸びをして生きる必要もなくなり本当に感謝です。まだまだ未熟なクリスチャンですが聖書を通じて神様と会話ができることに期待しております。

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」

(詩篇119編105節)

主の御名を賛美し感謝して。

月報2001年5月号より

「私とキリスト教の最初の出会いは…」

私とキリスト教の最初の出会いは大学に入学した年です。それは私が自ら求めたものではなく、大学がカナダのミッション系だったことによることからです。今考えますと、その時神様は私にイエス様への信仰の扉を開けてくださったと思います。

大学時代、聖書の授業はありましたが、残念なことに私はまったく聴く耳を持っていませんでしたので、内容は何も覚えていません。でも今使用している讃美歌はその時に買い求めたものです。

卒業後、私は教会付属の幼稚園に勤務しました。子供たちが登園する前の毎朝のお祈りと毎日曜日のお礼拝は仕事の一部でしたが、キリスト教を理解していない私には大変なことでした。牧師先生のお説教は心地良い子守歌でした。でも今は何というもったいないことをしたという気持ちと恥ずかしさでいっぱいです。

その後幼稚園を退職して、あるきっかけで美術の仕事に就くようになったと同時に、キリスト教からはまったく遠ざかるようになりました。当時日本はバブルの最盛期。その中で私は同業の美術関係の男性と知り合い結婚をしました。彼の強い希望もあり、本当は家庭に収まりたかった私の気持ちに反しながらも、一生懸命に働きました。バブルの時期でしたから、美術業界は大変な勢いで潤っていました。私も片隅でそのあおりを受けて、彼の出張についてNYのアートオークションに参加したり、ブランド物を着飾り、高級レストランで食事をしたりする毎日でした。外見は誰から見ても幸せそうな夫婦でしたが、中身はまったく違っていました。そして次第に私の心にはぽっかりと穴があいていきました。

どの位仕事をしても、おしゃれをしても、おいしい食事をしても、心はちっとも満たされない日々が続きました。たまらない虚しさと寂しさを感じていました。「私は一体何のために生きているのか。」「人間とは一体何なのか。」を考えるようになり、毎日が辛く、苦しく、悲しく、死を考えることもありました。

その後、何年か苦しんだ末に離婚をしました。その過去を引きずりながらも仕事を続けているうちに、NYにやって来ました。しかし仕事はそう簡単には上手く行くはずもなく、その中で多くのことを考えさせられました。私は心から人に感謝の気持ちを持ったことがなく、自己中心極まりなく、放漫な思いに満たされていたと。

その後、試行錯誤の中で、やっとこの地で本来の私の職に就くことができ、友人に誘われ二、三の教会にも行くようになった後に、こちらの教会を紹介されました。洗礼を受けることは考えていませんでしたが、聖日礼拝のお説教に毎回感動を覚え、錦織先生より勉強を受けさせていただくうちに、人間は生まれながらにして罪人であることを知り、そのことについて深く考えさせられました。そして今まで私が犯してきた多くの罪があれもこれもと思い起こされて、反省の毎日でした。更にイエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを知った時に、こんなに罪深い私でもクリスチャンになれるのかという迷いはありましたが、何故か自然に洗礼を受ける決心がついたと思います。

またこのような私でも神様は愛してくださる。そして私たちはこの地では旅人であるということを学んだ時、がんじがらめだった気持ちが軽くなり、癒されていくのを感じました。

神様は私に苦い経験を通して、その存在を気付かせてくださったと確信しています。今過去を振り返り、あの辛く苦しかった時は、私にとってはなくてはならない必要な時であったとつくづく思い知らされます。神様はすべて道を作ってくださったのです。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」

(ヤコブの手紙 第1章2節)

どのような時でも神様は私たちと共にいてくださることに感謝します。

最後に、私を愛情いっぱい育ててくれた日本にいる両親をいつも守ってくださっている神様に心より感謝致します。そして、これからの一歩一歩をイエス様の愛の御手に導かれて歩んで行きたいと思います。

月報2001年4月号より

「私が最初に教会というものに…」

私が最初に教会というものに足を踏み入れたのは小学校の2年生くらいの頃だった。動機はかなり単純で、友達が「お菓子がもらえるところだよ。」と誘ってくれたからである。その頃から食べ物には弱かったらしい。どのくらい教会の日曜学校に通ったのだろうか、神様を信じる、信じないの意識が出る前に、日本人特有の無信仰に近い仏教の家族達の反対でなんとなく行かないようになってしまった。しかし、若い脳みその記憶力とはすごいもので、あの頃覚えたお祈りの文句は忘れることなく、意味もわからずそのときから今まで毎日祈っている(さすがに今は意味くらいわかる)。

その後、教会との縁などさっぱりなくなってしまった私が、2度目に教会に通うことになったのは1997年にサウスキャロライナに住むことになったときである。ここでの動機も全く不純で、当時の彼氏が宗教の研究に興味を持ち、教会に行っていたため(彼もクリスチャンではない)一緒についていっていた、というものだった。神様の話を聞くより、彼の隣に座る方がずっと大事というとんでもない奴だった。しかし、土地柄か、人々のあまりの熱心さに私はかえって冷め切ってしまい、「私は一生クリスチャンになることなどないから、そんなに勧めても無駄だよ。」と心の中で思っていたもんである。

そしてサウスキャロライナを離れニューヨークへ。これでもう教会とはおさらばと思った矢先、どうしてか私のまわりにはクリスチャンが多く、それもなぜか私は彼らの標的になってしまうらしい。ここでも、クリスチャンの友人たちの熱心な教えに拒絶反応を示し、ますます「キリスト教ってカルト?」という今考えると大変失礼極まりない印象を持ってしまった。

その後1年のアメリカ生活を終え、日本へ帰国。夢中で過ごしたアメリカでの生活から、日本の落ち着いた生活に戻ったが、ここで私の心には今まで感じたこともない虚無感というか、なんともいえない不安や孤独が訪れたのだった。私は自分で言うのもなんだが、普通の家庭で愛されて育ち、成績も優秀、行動力もあり、それまでの人生で挫折と呼べるようなものは経験せず、有名大学を卒業し、難なく希望した国家公務員にも合格した。その上、職に就いて1年目で勝手に出した奨学金に合格し、特例として一年仕事を離れさせてもらった。帰国後も多少のやっかみがあるかと思えば、いい人ばかりに恵まれ、希望のセクションに配属され、仕事に行くのが楽しくてしょうがない毎日をおくっていた。お金も職もまわりからの愛情もすべて手に入れた、他人から見たら幸せこの上ない人間だったろう。でも、そんな私の心の中はどうやっても埋められない不満足感、いくら幸せをもらってももっと欲しくてしょうがないという説明できない悲しみが渦まいていた。

そんなとき、仲の良いのおばさんが家庭集会を開いているというので、ちょっとだけのぞいてみることにした。数人で聖書を読んでいると、今まで心に足りなかった何かがちょっとだけ埋まったような気がした。数回参加しているうちに、「ふーん、聖書っていいこと言うじゃん。」という気持ちが出てきた。

そして、日本に帰って2年後、またアメリカに戻ることになった。アメリカに来る直前、小学校のころ通った教会の先生に、なんとなーく挨拶する気になり、20年ぶりくらいに教会のドアをノックしたのである。「やっぱり神様は奇跡を起こしてくださる方だ!」先生は喜んでくれたばかりか、なんと私が小学生のころ教会に来なくなってからそのときまで、私がいつか教会に戻ってくることを祈りつづけていたということだった。そのときの私の感動といったら。「こんな私をここまで思ってくれるなんて、クリスチャンとその人たちの信じる神様ってただ者じゃあないかも・・・」

そうやって神様へ気持ちが傾きかけたまま、なつかしいニューヨークへ戻り、それならもうちょっと聖書を勉強してみようとしばらく近所で行われていたバイブルスタディーに参加していた。しかし、そのリーダーがテキサスへ引っ越すということで、そのバイブルスタディーは終了になり、聖書に触れる機会がなくなろうとしていたころ、錦織先生から直接連絡をいただいたのである。実家の方の教会の先生が錦織先生の神学校時代の大先輩だったという縁である。そしてこの教会でやっぱり神様についていきたいという気持ちが強くなり、昨年の12月に受洗させていただいたわけである。私の受洗は、今までなんとか私を神様の道に、と試みて失敗に終ったクリスチャンの友人たちやサウスキャロライナの先生方には寝耳に水だったらしく、「奇跡だ」の声が方々から聞こえた。でもそんなに奇跡、奇跡って私はそれほど露骨に拒絶反応を示していたのだろうか?

そんなわけで、20年も前から始まり、たくさんの人の縁に恵まれてクリスチャンとなった長い道のりにはとっても感慨深いものがある。疑問、疑問を乗り越えてクリスチャンになったのだが、いまだに疑問だらけで、時折その疑問が大爆発し、とても数ヶ月前涙を流して受洗した人とは思えない暴言を吐いて、錦織先生始め、まわりのクリスチャンフレンドに迷惑をかけている。そんな私でも神様は愛してくださるのだから本当にありがたい。これからも、少しでも神様に近くなれるように、神様を心から信頼していけるようにお守りください。

月報2001年3月号より

「神様に捉えられ」

12月初めに行われた洗礼式は印象深いものでした。ともに喜びにあづかりつつ、自分の洗礼式のことを思い出していました。また、ひとつひとつのキャンドルに灯りをともすことから始められたクリスマス礼拝では、心静められ、深い祈りへと導かれて恵みの時を過ごしました。主イエスキリストの誕生、罪の自分が主の十字架のあがないによって赦され、生まれ変わる死と再生の神の奥義をあらためて深く味わいました。今こうしてアメリカの地においても、礼拝をともにする信仰の友に支えられ、平安の内に暮らせる幸いを心から感謝しています。

15年前、私は家族とともに初めての海外生活をブラジル・サンパウロで送っていました。日本から遠く離れ、異文化の地で受けたカルチャーショックの数々は、当たり前と思っていた私の常識をひっくり返し、立つべき基盤を持たない自分に直面しました。青く広がる空と地平線まで続く赤い大地を見ていると、限りなく自分が小さくされ、「なぜここにいるのだろう?私はだれ?」と問わずにはいられませんでした。

ブラジル滞在3年目、思いがけず目の病を得て、失明の危機に陥り、結核の闘病生活を半年送りました。肉体的にも精神的にも闇の中に落とされて、自分の無力さと弱さを味わい、深く内省する時を与えられたことが神を知るきっかけとなりました。私の目となり手足となって支えてくれた友人達の中に、かたわらで祈り、集会へと誘い出してくれたキリスト者の友人夫妻がおりました。温かさに満ちた小さな集会で語られる牧師のみ言葉と賛美は、私の心深くに染み込み、聖書というものがこの私に向かって語られる神のメッセージであることを自然に知りました。闇の中に落とされている私を、神様はみ手の中に捉えてくださったのです。

夫の転勤でブラジルからタイに移り住んで半年後、目の状態が再び悪化しました。悩んだ末、独り日本に帰国し、レーザー手術を受け失明をまぬがれることができました。新しい地に慣れることで必死だった私は、神様のことなどすっかり忘れていましたのに、「神様の守りの中にいる」ことを強く感ぜずにはいられませんでした。すべてが備えられていたのです。「祈りは時空を超えてきかれる。タイにもキリスト者の仲間がいるはずだから..。」と言って送り出してくれた牧師の顔が思い出されました。そしてバンコク日本語キリスト教会の輪の中に加えていただきました。

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」 ヨハネ8章12節

このみ言葉に出会った時の嬉しさに導かれ、1991年、スラム伝道に身を奉げる山口譲牧師より洗礼を受けました。この時の平安と喜びは今も忘れられません。

私はタイのスラムや辺境に住む人々との出会いを通じて、この世のすさまじい人間の欲望と罪が、これらの人々に不条理におそいかかっている現実を目の当たりにしてきました。しかし、ここにも神の福音が届けられているのです。厳しい生活を互いに支えあい、主を賛美し礼拝するその姿に、わが身の貧しさがあぶりだされ、悔い改めを迫られ、何度も信仰の原点に引き戻されました。

神様は私達がどんな状態のときでも招いていてくださり、ご自身のものとして愛してくださいました。この愛に励まされながら、神の祝福の内に置かれた幸いを心から信じ、皆様とともに歩んでいきたいと願っています。

月報2001年2月号より

「生かされている喜びと感謝」

もし、私が神を知らなかったなら、この肉の体はとうの昔に滅びていたに違いないことを自分自身よく知っています。誰でも1度や2度は命にかかわる危険を、長い人生の間には経験することがあると思いますが、私はすでに5回も6回も神様に助けていただいたのですから、「もはや、生きているのは私ではない」という実感を強く持って生きています。

まだ幼かった頃、ペニシリンなどの抗生物質はなく、アズキ氷を食べ疫痢にかかった私はただ食塩注射を受ける以外治療の方法はなかったそうです。医者が「だめかも知れない」と言ったそうですが、母は神様に全てを委ね祈ったそうです。その母の祈りによって私の幼い命は生かされました。

母の父はカナダの神学校を出た牧師でしたし、母の兄も牧師でしたので、姉を始め、私や弟、妹たちは皆、生まれるとすぐ伯父から幼児洗礼を受けていました。

太平洋戦争も激しくなり、中学1年生の私たちも軍需工場へ動員され武器の生産に当たっていました。旋盤を教えられた通りに操作し、魚雷の部品を作っていたのです。ある日、空襲警報がなったと思った途端、工場は艦隊戦闘機の機銃掃射を受けました。一瞬、旋盤の下に身を隠し無事でしたが、無数のリンゴ大の雹がトタンの屋根を一気に撃ちつけるような衝撃に、12歳の少年であった私は死の恐怖を感じました。

ある晩、同じように空襲警報が鳴り、姉や弟たちと共に自分たちで掘った庭の防空壕に潜り込み避難しました。「お母さん、早く。」という私の声に答えて母は言いました。「小さい2人の子供がいるし、私はここにいます。神様に祈っていますから心配しないでください。」と言って家の中にいました。それを聞いて、私は子供ながら「お母さんは、凄い信仰の人だな。」と思いました。遠く空に飛行機の爆音が聞こえたと思った時、ドーンという鈍い衝撃音が聞こえました。(遠くに機影が見えたり爆音が聞こえる時が一番危ないのです。)当時、神戸市葺合区の山手に住んでいましたが、爆弾は100メートル程離れた林の中に落ち、家は何の被害も無く、私たちは守られました。このような生死の問題は、全て神様のご計画の内にあることで、自分ではどうすることも出来ないことであったのですが、「神様が私たちを守ってくださっている。」との実感を与えられました。(父は英語の達人で、その当時情報部付き陸軍少佐としてシンガポールに出征していて不在でした。)

しかし成長するにつれ、そのような神様のとりなしや恵みをすっかり忘れて自己中心的な生活に溺れるようになっていました。教会には行かないし、信仰告白はしないけれど神は肯定するという身勝手な信仰を持っていました。

大学生の時、2人の友人と京都保津川鉄橋(単線)を無謀にも渡っていた時、列車が走って来て、あわやはねられそうになったことがありました。汽車が鉄橋に入って来たのは3人が鉄橋を渡りきり、線路の両側の草むらに身を投げ出した直後でした。「バカヤロー」の機関士の怒声だけが耳に残っていますが、間一髪、神様の憐れみが3人の命を救ってくださいました。機関士の怒声を人の声としてではなく神の警告と受け取るべきであったのです。しかしそれからも私は自ら求めて危険と罪の中に身を置く生活から抜け出すことはできませんでした。

社会人となり、会社勤めも10年を過ぎ、課長の立場を与えられていましたが、「自分(我)」の思いの虜になったような生活をしていました。飲酒居眠りで大阪・奈良間のハイウェイであわや即死の事故を起こしました。シートベルトもエアバッグもない1960年代の車ですから、無傷で助かるはずのない死の谷への転落でしたが、血一滴流すことなく生還を許されました。この出来事を通して、不信仰な私にも、十字架でキリスト様が血を流されたのはこの罪深い私のためであったことがはっきりと示され、闇夜のハイウェイで天に向かい「神様、ありがとう。」と叫び、感謝しました。

「父のもとに立ち帰りたい」と願いながら優柔不断な生活をしていた私に、神様の戒めがくだる日が来ました。マンハッタンのミッドタウンで、パンクした後輪のタイヤを取り替えるためにジャッキで車を持ち上げていた時のことでした。サイドブレーキを引かず、ブレーキの踏み込みも甘かったために、車が前に傾きジャッキがスナップして飛ぶ危険が起こりました。私は、どんなことがあっても、回りで見ている人々に当たらないで欲しいと必死に神様に祈りました。「当たるなら、どうか私に当ててください。」と祈りました。妻は冷や冷やしながら私の側で成り行きを見守っていました。その祈りは聞かれ、勢いよくスナップして自由を得たジャッキのバーはまるで矢のような速さで飛んできて、私の右前額部を打ちました。メタルバーが私に向かって垂直に飛んで来ていたなら、体のどこかに突き刺さって大怪我をしていたと思います。すぐに救急車が呼ばれ、エマージェンシーホスピタルに運び込まれました。診察の結果、怪我は7針の裂傷で、脳には異常を認められませんでした。私はまたもや神様の許しによって残る者とされました。

やがてジャスティン春山先生によって堅信礼を受け、再び神様との関係は修復され、同じように堅信礼を受けた長女、信仰を告白した次女・妻とともに家族全員がキリストを信じる者とされました。

このような命にかかわる色々な経験を経て、今日在る私は、「最早自分のものは何もない。全ては神様のもの。何なりと用いてください。」と、キリスト誕生2000年、70歳の誕生日に祈り願いました。主に仕え、教会に仕え、そして隣人に仕えることが、70歳からの私の人生だとの確信に導かれ、献身の思いに至り、JTJ宣教神学校で学びを始めました。働きながら学ぶことにはチャレンジもありますが、そのことによって主が喜んでくだされば、それは何にも勝る幸いだと信じて、感謝して励んでいます。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章4節

月報2000年12月号より

「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」

私が洗礼を受けたのは、高校1年生の6月です。父が私たちを収集し、「家族全員で洗礼を受ける」と言い出したのがきっかけでした。

幼い頃から叔父が牧師をする教会に通っていた私は自分自身を生まれもってのクリスチャンと思っていたので、父の唐突な提案にも快く賛成しました。母や兄は反対しましたが、結局一家揃って洗礼を受けることになりました。その時の私は、同時に5人も信仰を告白するなど教会はじまって以来のめでたいことと、ギネスブックに記録をのせるような誇らしい気分でいました。

晴れてクリスチャンとなったつもりの私は、心の中では十字架の愛の意味を理解していません。イエス様が誰かの罪のために死んで下さったことを感謝することが出来る自分は、なんと寛容な人間であろうかと思い込んでいたのです。従兄弟たちと遊ぶのが目的で教会に通っていたので聖書の内容に無関心、持っていくのが面倒で教会の本棚の奥に聖書や讃美歌を隠しては持ち出す、牧師先生のお話の時間は居眠りの常習犯、というありさまです。

そんな私の心を見抜いて、仲の良かった従兄弟は洗礼式をさかいに私を避けるようになります。「なんで話をしてくれないの?」と尋ねると、「とにかくしばらく私に話しかけないで!」という答え。いつも優しく寛容で他人事には干渉しない彼女に突然冷たく突き放され、唖然としました。周囲の励ましの言葉は頭の中で空回り。「こんなことなら洗礼なんて受けなければよかった」と、とんでもない間違いを犯してしまったという直感だけが胸をちくちくと刺すのです。最良の理解者の一人を失ったような気持ちになり、意欲も薄れ、教会から離れていくことになりました。表向きには平常心を装い、「彼女のとった一時的な私への強硬な態度」の記憶をまるで何事もなかったかのように心の奥底に仕舞い込みました。

数年後、友人に誘われてはじめて聖書の勉強会に参加した時です。信仰の土台がしっかりと築かれた友人との宝のような出会いを与えられ、心が安らぎました。しかし、共に賛美する喜びを味わう一方で私の心に徐々に劣等感が蓄積され、どうしても素直になれません。純粋な信仰を妬ましく思い、「そんなに熱心に聖書を読むのもいいけど、私たちの本業は学問でしょ」と、文句ばかり。そんな私の甘えに対しても彼らは一貫して神の愛を与えつづけ、祈りつづけ、励ましつづけてくれました。

その頃から一進一退を繰り返しつつも、聖書の世界にひきこまれます。特に、「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙8章38・39節)という箇所は私の魂を奮い立たせてくれました。「離れた私を見捨てずに愛してくださっている・・・これが神の愛」と確信し、涙しました。虚栄とプライドで固まった心を神は砕かれ、悔い改めへと導かれたのです。感謝のほかありません。

今では私の生い立ち、洗礼、勉強会での出会い、ローマ人への手紙、全てが主の恵みと思います。ニュージャージー日本語キリスト教会の聖書通読のプログラムを通して全体をはじめて通読するチャンスを与えられ、私の珍問に丁寧に答えて下さる錦織先生が与えらていることも、感謝に絶えません。心に負った傷が完全に消え去ることなく、「そんなこといったて、神様」と、愚痴をこぼす日々ですが、聖書の言葉によって「救われる」ような体験をさせていただくに違いないという希望があるからこそ、生きる勇気が湧いてきます。内心わくわくしつつ、今日もまたページをめくるのです。

「わたしの命をあらゆる苦しみから救って下さった主は生きておられる。」

列王記上 1章29節

月報2000年9月号より

「十字架の痛み」

私は今、2人目の子供を妊娠中です。9ヶ月目に入り、まもなく出産を控えていますが、今回はつわりはひどかったものの本当に神様に守られ、皆さんの祈りに支えられて、ここまで来れていることを心から感謝致します。妊娠中といえば、1人目の子供のときに一つだけ忘れる事のできない出来事がありました。それは妊娠6ヶ月のときに、尿管結石で入院したときのことです。突然、横腹の激痛を感じ病院で診察してもらった結果、尿管に石がたまる尿管結石だと診断され、即入院して石を出すことになりました。石を出すと言っても、『妊娠中なのでレントゲンをとって散らす』、という本来の方法での治療ができず、ひたすら点滴と水分をとることで下におりてくるのを待つことになりました。

入院して4日目のことだったと思います。その夜、今までには感じた事のないほどの激痛に耐えられず、お腹の子供には影響のない注射を打ってもらいましたが、その注射も効かず、挙げ句の果てには痛みから来る吐き気で、一人トイレにうずくまっていました。もう自分がみじめで、悲しくて、痛くて、泣きながら「神様、どうしてですか?どうして、どうして私がこんなに苦しまなきゃいけないんですか…?」と神様につぶやきました。その夜は、結局3本の注射を打ってもらってようやく眠りに就くことができたのを覚えています。

次の朝、意識が朦朧とするなかで、その日が日曜日であるということに気付きました。少し落ち着きを取り戻したくて、何気なく聖書を手に取りました。そのとき行っていた教会では、毎週、新約聖書のヘブル人への手紙から連続してメッセージが語られていたので、そこに目を通していたときのことです。意識は朦朧としていたのに、次の箇所にきたときハッとさせられました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、……」

(ヘブル人への手紙 5章7~9節)

イエス様が十字架にかかられたシーンと重なり、私のうちに迫ってきました。イエス様が十字架上で苦しまれたのは、まぎれもなくこの私の罪のためであるのに、あの苦しみと痛みのなかでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。私の痛みなんてとても小さいもので、その何倍も、何十倍も想像を超えるほどの痛みと苦しみのなかで祈られたことば。私のうちから離れませんでした。私達を、いやこの私を罪から救うためにここまでしてくださったイエス様の深い愛に、涙が止まりませんでした。前日の涙も、この日の涙も、ともにもう一度イエス様の十字架の愛に触れるために必要なものでした。

あんなにもまたいつやってくるかわからない激痛を恐れていたのに、その後、不思議と恐れは消え、それどころかともにこの痛みの中を通ってくださる方がおられる、というだけで俄然ファイトが湧いてきて「いつでもかかってこい!」と言う心情でした。ところが、それ以降、痛みは一度もやってこず、その2日後には退院しました。結局石はでてきておらず、どこへ行ったかもわからないまま今に至っています。実は、妊娠中は普段の体の状態と違って石が溜まり易いということもあり、また再発するのでは、と少し不安もありましたが、神様はあの時にもう一度十字架の愛に触れさせてくださっただけでなく、癒してくださったと今改めて信じております。これほどまでに、一人一人を気遣ってくださる神様に心から感謝しつつ、これからもこのイエス様の十字架を覚えて歩んで行きたいと思います。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。」

ヨハネ第1の手紙 4章10節

月報2000年11月号より

「今から10年前の春分の日に…」

今から10年前の春分の日に、千葉の海岸で洗礼を受けました。それまでには色々な「出会い」がありましたが、神様はこんな小さな私のためにたくさんの人を通して導いてくださいました。

はじめて聖書を手にしたのは、大学の入学式でした。その頃は、毎日のチャペルの時間・聖書やキリスト教概論の講義など、チャンスはいつも目の前にありましたが、表面を撫でていただけで、近所の教会へもレポート提出のためにしばらく通った私でした。

こんな私が結婚して4年経った頃には3人の子供たちの母となり、カナダのバンクーバーで生活していました。上の子がナーサリーへ行っている間に、下の子2人を連れて英語のレッスンにバプテストチャーチへ通うことになり、日本で牧師をしていたというカナダ人の先生に出会いました。日曜日の午後には日本語礼拝をしておられると聞き、家族で参加したりもしましたが、先生の体調がすぐれないために、別のESLクラスへ通うことになり、それきりになってしまいました。

日本へ帰国してから、時々聖書を手にすることも多くなった頃、エホバの証人の方々が時々訪ねて来られ、話をすることもありましたが、主人からは「近くにちゃんとした教会があるんじゃないの?」と言われ、友人にエホバの証人ってどんな人達なのか聞いたりしました。その友人がクリスチャンで、私にプロテスタントの教えとエホバの証人の違いを理解できるようにとお茶に誘ってくれ、友人宅で牧師さんに出会い、色々話してくださり、聖書学校・日曜礼拝へ誘われ、私はすぐその週から聖書の学びを始めました。それまで私は勝手に自分の神様に毎日お祈りしていましたが、学びを通して全てがパチンと合ったという思いが強くしました。その教会で、日頃遠くからステキだなあと思っていた方々と出会ったことは大きな驚きでした。喜びでいっぱいになり、御言葉を実行する人になりたいという思いを持って、海で洗礼を受けました。その頃には一緒に教会へ行くようになっていた主人が、洗礼式に深く感動し、半年後に主人も同じように海で洗礼式を迎えることができました。子供達も楽しく日曜学校へ通っていましたが、イギリスへ赴任することになり、しかも地西部のマンチェスターで、未熟な私達は不安でしたが、会社の家のある小さな町(ほとんど村)には、クリスチャンファミリーが待っていてくれました。4家族の日本人のうち3家族がクリスチャンというすごい確率でした。毎日曜日は地元のバプテストチャーチへ通い、月1回はバイリンガルサービスへ集うという恵まれた環境には本当に感謝でした。マンチェスターでは、ハワード夫妻という、神戸で宣教師をしていた方々に出会い、たくさんの日本人クリスチャンに出会い、アングロ・ジャパニーズ・クリスチャン・ミニストリーズ(A・J・C・M)という組織の始まりに参加することができ、隣の隣りに住んでいた友人の洗礼に立ち会い、日本からの留学生(17歳)の洗礼もありました。日本人が少ないこともあり、日本を紹介したり、私の教えていた粘土手芸を村のイギリス人婦人会の方々の前で作って見せたりと、つたない英語で四苦八苦しましたが、色々な場を通じ、友人を通じて新たな出会いがあり、たくさんの人を知ることができ、一歩ずつ前進できたのだと思います。

神様はこのようにいつも色んな人を通して働いてくださいます。今、私はここニュージャージーで色々な人に出会っています。自分の中に改めたい所がある私は、学ばされることがいっぱいです。これからも出会いを大切に、

「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。」

テサロニケ第1 5章16節~18節

このように歩んで行きたいと思います。主にあって。

月報2000年5月号より

「1997年のクリスマス、主人と一緒に…」

1997年のクリスマス、主人と一緒に生まれて初めて教会に行きました。その時まで、特に教会に興味を持ったこともなく、聖書にも触れる機会のなかった私にとって、教会はとても神聖な場所で、それまで味わったことのない雰囲気を感じました。

しばらくして主人と結婚することも決まり、私は主人の両親や兄弟、友人に会いたい気持ちもあり、教会に通い始めました。その頃主人はアメリカで留学生活を続けていた為、一人で行かなければならない心細さはありましたが、教会の皆さんが温かく接してくださり、とてもありがたく思っていました。ただ、私の心の中には、「クリスチャンの彼と結婚するのだから、私も早く教会のこと、神様のことが分かるようにならなくちゃ。早く洗礼を受けなくちゃ。教会のみんながそう望んでくれている。」という気持ちがありました。一方では、いつもそのことに反発する自分がいました。20数年間信仰について全く考えたこともなく、どちらかというと私には必要ない、自分の判断で生きていけると考えていた私には、すべてを素直に受け入れることはなかなかできませんでした。尊敬していた両親との関係も変わってしまうのではないか、自分自身も変わってしまうのではないかと、たくさんの不安がありました。真剣に考えようとすればするほど、それが悩みになっていきました。牧師先生に「結婚式の前に洗礼を受けることはとても意味がありますよ。」というお言葉をいただいたにもかかわらず、決断ができず、主人にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

結婚後すぐニューヨークに来て、2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、日本の牧師先生の紹介でこちらの教会に通うことになりました。礼拝に出席できるのはうれしかったのですが、また「洗礼」という言葉が重くのしかかってきました。この言葉がでる度にビクビクしていたような気がします。イースターの少し前、錦織先生から「どのように考えていらっしゃいますか。」と声をかけていただいた時、思い切って話してみようと思い、面談をお願いしました。その時から勉強会を通し、それまで自分が抱えていた悩みや不安を先生にお話しするにつれ、徐々に気持ちが楽になっていきました。主人とも洗礼のことについて話すようになり、相談する度にいつも「人にはそれぞれ時があるから、焦る必要はないよ。」と支えてくれ、その言葉にとても救われました。また、たくさんの方々に支え、励ましていただきました。「悩むことは、神様は望んでいらっしゃらない。」「洗礼を受けた時は本当にうれしくて、その日のことは一生忘れない。」というお話を聞いて、私もそんな風にうれしい気持ちいっぱいで洗礼を受けたい。きっと、私にもそういう時がくると信じていました。

その後もしばらく時間が必要でしたが、日帰りで出席した修養会の夜の集会で先生が「自分のために祈ってもらいたい方、前に出てきてください。」と言われた時、「私のために祈ってください。」と心から願って前に出ました。そして、「クリスマスに洗礼を受けたい」と先生に申し出ました。それからは不思議なように、たくさんの御言葉が心に入ってくるようになりました。神様が共にいてくださることのありがたさ、また人間の力には限界があり、そこにぶつかった時信仰を持って神様にお委ねできるすばらしさを感じさせられました。

昨年のクリスマスは私にとって初めて意味のある、感謝の気持ちいっぱいのクリスマスになりました。夫婦が夫婦としてだけでなく、同じ神様を信じて一緒に歩んでいける喜びを感じました。

「神様はご主人を通して、あなたを導いてくださったのね。」教会に通い始めた頃初めてこの言葉を言われた時はあまり意味が分かりませんでしたが、今は本当にこのことを感じ、私にふさわしい時に、ふさわしい方法で導いてくださった神様に心から感謝しています。

私の信仰生活はまだ始まったばかりですが、神様がいつも共にいてくださることに日々感謝し、最後までこの信仰を持ち続けられるよう導いていただきたいと思います。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

(ペトロ第1の手紙 5章7節)

私の受洗に際し、日本の牧師先生が送ってくださった御言葉です。

月報2000年4月号より

「主が共にいることの喜び」

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・

イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。」

(エフェソの信徒への手紙 一章十三節)

何年か前にことになるが、アメリカ留学を終え、その帰途にイスラエル旅行をしてきたある姉妹の証を聞いた。いくつかの話の中で特に印象に残ったものは、主イエスが十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで歩いて行かれたと言われている道を訪れた時の話だった。群衆からの罵声を浴びながらも人々の救いのために重い十字架を背負って歩いていくイエス様の姿を思い浮かべ、彼女は涙が止まらなかったと言う。自分もそんな光景を想像し、心を打たれる思いがした記憶がある。

当時は信仰生活が十余年目くらいの時期だったろうか。受洗後、しばらくして教会を離れ、その後また戻って来てからやっとまた教会に馴染みはじめ、信仰的にも再度充実してきた時でもあったように思う。翌年には母教会の青年会の会長職も勤めることにもなった。そんな時ではあったが、ある日人間関係の縺れからひどく落ち込むことがあった。その後何日間か、怒りとむなしさで辛い日々を過ごすことになる。

しかし、悪いことばかりではない。そのような中にあっても、物事が不思議とうまく運んだり、ふと心を静めて考えにふける時間が与えられたりもした。また、心からの祈りもできたのはなかっただろうか。ある日、「ああ、神様はこんな時でも自分のそばにいてくれるのだなあ」と本当に感じられる瞬間があった、と同時に聖書の言葉が与えられる。神が共にいてくださるのは、主イエスの十字架があったからなのだ、イエス様が人間の罪のために死んでくださったからなのだと。

あの時が初めてイエスの十字架が自分にとって身近に感じだ時だったと思う。確かにその出来事は約二千年前に起こった事である。しかし、先にあげた姉妹の話に出てきた、十字架を背負いながら歩くイエス様に対し、罵りの言葉と石を投げつける群衆の中に、自分自身の姿を見たような気がした瞬間でもあった。そして、そんな自分の罪のためにイエス様が命を捧げられたことを思った時、やはり涙が止まらなかった。

それから何年か経って、日本を離れアメリカにやって来たが、本当にクリスチャンであるがためにいろいろな場面で助けられ、また勇気づけられてきた。良き友たちとの出会いは本当に掛替えのないものであった。その度に主が共にいてくださるのだということを身をもって感じた。それらがイエス様の十字架によってもたらされていると思う時、やはり心から感謝せずにはいられない。

今年になって、この教会に導かれたが、また良き交わりの場が与えられたと本当に感謝している。今の自分にとって愛妻が導かれることが第一の課題であるけれど、クリスチャンホームの末っ子として生まれ育ち、祈られることはあっても大切な人の導きのために祈ったり、何かをしたりすることの少なかった自分にとって、これは途轍もない大課題である。そんな無力な自分がまずできることが、良き交わりの場としての教会を探すことであった。

今も主が共にいることを心から感謝している。近い将来、夫婦共にその喜びを心から分かち合える時があることを信じて・・・。

月報1999年11月号より

「えっ、転勤?ロサンゼルス?…」

「えっ、転勤?ロサンゼルス?いったい私はどうなるの?」これが父から転勤の知らせを聞いた私の心の中の呟きでした。当時、私は日本の高校1年生。幼い頃に体験したアメリカ(NY)生活は既に遠い昔の出来事でした。努力して希望する大学に入って、資格を取って専門職に着く、漠然とそんな人生設計をたてていましたから、父の転勤は正に降って湧いた災難でした。

現地校の11年生に編入。言葉が不自由なのに加えて私の心はひどく混乱していました。日本で身につけたものがアメリカでは通用しません。ひとつ例をとると、日本では自己主張が強く物事をハッキリ言う人間は煙たがられますが、アメリカでは逆に自分の意見をハッキリと発言しない者は、まるで存在しないかのように誰も気にとめてくれません(今振り返ると高校生と云う難しい年頃ゆえ余計それが強調されたのでしょう)。私は国境を越える度に(NYから帰国した時には「出る杭は打たれる」で随分いじめられた経験があった)自分の価値観や態度が大きく揺るがされるのに当惑しました。そして、国や文化に関係ない絶対的な価値観というのは存在するのだろうか、と考えるようになりました。生きていく上で、場所や時間を越えた確かな基準が欲しいと思いました。

渡米3年目、初めて親元を離れて大学の寮生活が始まりました。何とかアメリカの大学に入学を許可されたものの、大学の勉強についていくのは大変でした。寮生活も、パーティー好きのアメリカ人学生の様には楽しめず、どこか味気ないものでした。その為、週末ごとに自宅に戻るとホッとしました。一学期が終わる頃、予定よりもずっと早く、父に帰国の辞令がでました。日本には帰りたい。でも、今学校を辞めたら今までの自分の苦労、努力は水の泡ではないか。結局、学年末まで私一人アメリカに残ることになりました。

週末に帰る家を失ってしまった私を、暖かく受け入れて下さったのが父の上司のご一家でした。奥様がクリスチャンで、その方を通じて私はロサンゼルス・ホーリネス教会の日本語礼拝に出席するようになりました。初めて日本語で聴く牧師先生のお話は新鮮で、渇いていた私の心に深く染み込みました。しかしながら、しっくりこない事も沢山ありました。イエス様の十字架、復活、永遠の命、等々。聖書によると私も罪人。頭で分かったつもりでも心にピンと来ません。全て納得いくまで自分はクリスチャンにはなれないと思いこんでいました。礼拝に出席し始めて数カ月後、特別伝道集会がありました。神様の愛についてのシンプルなメッセージでした。私はこみあげてくる涙を押し止めることができませんでした。異国の地で、ずっと張りつめていたものが、一気に弾けたようでした。メッセージの最後に、「今日イエスさまを心に招き入れたい方は、前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう。」との招きがありました。その時、私は理屈ぬきに、それまでの心のモヤモヤから解放されたいという気持ちに押し出され、まるで清水の舞台から飛び降りるような気持ちで前に出ました。その数週間後、帰国を1ヶ月後に控えて洗礼を受けました。

今振り返ると、当時の私の信仰はとても稚拙でした。日本に帰国してからは、たまにしか神様のことを思い出さない不信仰な時期が何年も続きました。その後、様々な出来事を通して、自分の罪深さを、概念的にではなく、生身の体験から思い知らされ、イエスさまの罪の贖いなしにはもう生きていけないと思うまでに砕かれました。

創世記を読むと、元来人間は神との交わりの内に生きる者として創られた事が分かります。私は10代後半、自分の意志に反してアメリカに来ましたが、結果的にそこで神様に出逢いました。しかもそれは私の人生の中で最大の出逢いとなりました。

月報1999年6月号より

「最近救われた者の証」

学生時代に本格的な登山をしていたこともあり、一日の無事を眠る前に感謝する習慣を持っていました。そしてクリスチャンである家内との結婚を機に、感謝の対象を神様にして祈ることを始めました。アメリカに赴任してから二年近くになります。転勤前の職場では肉体的にも精神的にも疲れ果てた状態にありました。そのような中で『今の職場から異動させてくれなければ会社を辞めます』という自分勝手な祈りをしたところ、有り難いことに祈りが聞かれました。この体験を通して、機会があれば聖書を通読してみようと思っておりました。

こちらに来てから「ハーベストタイム」を毎週観るようになり、昨年の8月から「リビングライフ」を用いて聖書日課を始めました。そして聖書のことをもっと良く知りたいと思い、昨年の11月から導かれて礼拝に出席するようになりました。

11月の終わり頃でしょうか、家内に「赦された罪人になるのは、それ程難しいことではない」という難解な問いかけをされました。意味も分からずに、どうしたらよいのかを聞いたところ『私は罪人です。どうか私の罪を赦して下さい。イエス様、どうか私の心の中に入ってきて下さい』と祈ればよいとのこと。それがどのような意味か分からないまま、その夜祈りました。それを家内に伝えたところ大感激し、その感激ぶりにかえって自分自身が激しく動揺することとなり、真剣に「罪を赦された罪人」とは何かを家内にたずねたり、改めて「罪」をキーワードに聖書を読み始めました。

その過程を通して、感謝なことに自分の赤裸々な姿や罪について多くを示されました。ただその時点では「自分で何とかしよう、もう少し努力してから」という気持ちを拭い去ることが出来ずに、「洗礼を受けるには絶対的に準備不足」だと思い込んでいました。そのような時、錦織先生から「洗礼を受けるということは信仰の出発点に立つことです」との励ましをいただいて、受洗の決心をしました。

今でもそうなのですが、自分の努力で…という思いが根強く心に残っており、神様にそれを強く示されたのが「禁煙」を通してです。もちろん禁煙するしないは魂の救いとは無関係です。しかし洗礼を受けるに際して、大きな懸念として私の心に残っていました。この機会を逸するなら、もう一生タバコを止められないかもしれない。今から思うと「何を大袈裟な…」と思えるほどでしたが、その時は切実でした。先ずは洗礼の二週間前から止めよう…しかし止められません。毎日眠る前に『どうか禁煙する意志を、そして力を与えて下さい』と祈りました。一週間前になっても祈りは聞かれません。昨年の12月は特に仕事も忙しく、通常であればとても禁煙出来る状態ではありません。そのような中で洗礼の日は迫って来ました。 三日前になって、とうとう禁煙自体を諦めるところまで追いつめられました。そして『神様申し訳ありません。自分では、もうどうすることも出来ません。どうか助けて下さい』と祈りました。自分では出来ないと分かった時に、神様に明け渡すことができました。自分の力では何一つがんばっている訳ではなく、祈った晩から禁煙を続けさせていただいています。

受洗してからやっと三ヶ月が経ちました。信仰のスタートラインに立ったばかりで、日々新たな試行錯誤と自己中心な自我との闘いがあります。聖書を読み『御心を心に与えて下さい』と祈りながらも、自分の欲望や思いを最優先して日々を生きている自分の姿に気づかされます。今は御心に聞き従っていける従順な信仰を持てるように、どうか神様に成長させていただけるようにと祈っております。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ人への手紙二章八~九節

月報1999年5月号より

「ボクにはキライなヒトがいます。…」

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

ずっと考えていた。自分が存在する理由と、そこに付随する侘びしさについて。勿論、愛する兄弟姉妹を初じめとする御歴々の前で、このように力なき小さな者が、己の存在理由について言及するなどという大それた資格を有さないことは充分承知しているし、全くもって汗顔の至ではあるのだが、きっと主の御前にある証し人としてこの様な機会に恵まれたことをもって諒とされたい。

そもそも、僕がそんなことを考える様になったのは、僕の中で自分という存在が忌むべきものとして捉えられていたからである。もう一〇年程前のことになるが、僕は自分の現実と直面せざるを得なくなり、全く己に潜むモノと対峙するに至って。驚愕、辟易等と形容されるべき感情がそこにあった。あの頃僕は一五歳だった。学校に付随する似た年頃の少年達の集まる小いさな組織の中で、僕は僅かばかりの力を与えられ。もとより奉仕を基本として造られた組織の中で、その与えられた小いさな権力を駆使する僕には、大して歳も違わず年端も行かない後輩達の潤んだ瞳は全く見えていなかった。暴力こそ奮るわなかったが、次ぎから次ぎへと口をついて出る言葉の群は、鋭い矢となって彼等を傷付け、そして何よりその残酷さは僕自身を驚かせ、後に諸刃の剣となって僕を貶めた。今でも僕はその日のことを夢に見る。勿論その時点で一五年しか生きてはいなかったが、恐らく自分の中に自分の未だ見ぬ自分が存在することに薄々勘付いてはいたし、或る程度の覚悟もしていたが、自分の前に現実となって著れたそれは想像を遙かに凌駕し、一五歳のコドモに与えられた思考能力に於ける許容範囲を優に超えていた。自分など居なければいいと思った。存在が許されていることを心の底から疑った。別の人格などという卑怯な手段で片付けたくはなかったし、その様に処理できる程の度胸もなかった。その時の僕にできることといったら、口を開かないことくらいだった。その時の僕にできることといったら。

僕が口を開かなければ、己を表現しなければ、誰かを傷付けることもない。自分が傷付くこともない。辛ろうじて自我にへばりついた意識がそれを示唆し、あらゆる意味に於いて自己を著すことを拒絶していた。一言も口を聴かずに済んだことに悦びを憶えて眠りにつく日々が一年程続いた。暗い道を歩いていた。上を見上げれば木洩れ日の差す暖かい色の空が満面の微笑を湛えて迎えてくれているのかも知れなかった。でも僕は姑息で、孤独で、臆面もなく上を仰ぎ見るような勇気は持ち合わせていなかった。御手は遠かった。

そんな僕にも二人の友人が与えられた。返事もろくにせず、ついてくるだけの人間と友達になろうとは、全く奇特な人間をも造られたものである。依然、その「別の自分」が姿を著すこともあったが、彼等がいずれも肉体と文字を媒体とする表現者であった為か、彼等を通して僕は僕に近づいて行き、僕を通して僕は彼等に近づいていった。そうして僕は少こしずつ言葉を取り戻し、或る程度日常的な自己主張を余儀なくされる場所に身を置くことを決め、ほぼ滞りなく会話をこなせるようになった頃、橋本先生御夫妻を通じて教会に導かれた。余りにも自然だった。必然の流れは、至極当然のこととして僕に受け入れられた。主は見ておられた。これほど小いさき者にも目を掛けて下さっていた。僕は想った。どんな時でも僕は幸あわせだったことに。己に絶望し、下を見て歩くことしか出来なかったあの時でも、僕に生きる道を与えられていたことに。

尤も、一五の後悔を今日まで曳きずって、オトナにも為りきれず、コドモに戻ることも許されず生きてきた僕にとって、今やっとスタートラインに並んだのであって、未だに、他人の家で夜を明かすように己を晒らけ出すことは出来ず、話すことは疲労を産み、書くことは苦痛を伴う。十数年間に渡って学んで来たつもりの聖書についても、己の無知に辟易するのは言うまでもないが、エレミヤ書三一章に示された、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる。」という言葉に励まされ、日々歩みを続けることを許されている。嘗て錦織師が取り次がれた様に、己を愛すことの出来ない者は、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人をも愛す」ことも出来ないのであって、自分自身を含めて人を愛することに幼さない僕は、主によって様々な機会を与えられ、悦びをもって日々試される。主の御前にあって、主の御名を賛美し、主の証し人として、また自分を、そしてキリストを表現する者として自分の存在を認め歩み始めた僕にとって、人を愛する為に自分を愛す努力を続け、そうして与えられる日々に感謝する毎日である。

知れ、主こそ神にますなれ。

我らを造りたまえる者は主にましませば、我らはそのものなり。

(詩一〇〇編)

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

でも、

ちょっとだけスキになってもイイのかなと思えるようになりました。

これがボクのアカシです。

月報1999年4月号より

「弱さと信仰」

ニュージャージー日本語キリスト教会は、1987年メイウッドの地に呱呱の声をあげて12年目の春を迎えています。

現在の錦織先生に至るまでその間3人の牧師先生、二人の教育主事が主の僕として務めを果たされ、教会を愛する多くの兄弟姉妹の信仰と尊い奉仕及びザイオンルーテル教会の愛ある計らいによってここまで支えられ守られて来たことは、神のご計画と導きなくしてはあり得なかったことだと感謝いたします。単立超教派、役員会制の教会ですので、教派、教団に属する多くの教会のように教会を監督する上部機構やガイドライン、アドバイザリーボードがないため、全てのことは牧師の霊的リーダーシップと信徒一人一人の信仰に委ねられていますので、10年余の間には困難な時もあり、霊の戦いを経験したこともありました。

振り返って見ますと、わたし自身愛に欠けた者であり、主を自分の側に立たせる不信仰に気がつかないまま教会生活をしていたこともありました。

しかし慈愛の神は何時も聖霊をわたしたちの教会に送ってくださり、よしとされる導きをもって道を切り開いてくださいました。それはきっと、神がイスラエルのようにこの教会を愛し、「使命を与えて起こされた特別の教会」として取扱ってくださっているからではないかと思っています。ある者が種をまき、ある者は水をやり、育てられてきたニュージャージー日本語キリスト教会、そこにはアポロもなく、パウロもなく、ただ主のみいます教会をわたしたちに備えてくださる大いなる父なる神を褒めたたえます。

1997年7月、よき霊の指導者錦織先生を与えられ、新しい一節の成長期を教会は歩みつつありますが、自分の信仰を守るのみならず、そのよき訪れを広く世に伝える働きを委ねられていることを忘れてはならないと感じます。神が日本語を話す人々の魂の救いの使命を与えて立ててくださった教会は、ニュージャージーのみならずニューヨークからも若い兄弟姉妹が聖日、礼拝に集う教会であり、賛美集団として伝道の働きをしています。又ここから多くの兄弟姉妹が日本の各地に散らされて、良い働きをしておられることも、神の業の不思議という他はありません。

聖書を学び、賛美と祈りをささげて礼拝を守ることを教会生活の中心として、早朝、聖書通読と祈りの時を守りつつ信仰生活を続けていますが、「あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか」の主の問いかけを受けることが時としてあることを告白せざるをえません。信仰にはげみ、学びを通して聖書の奥義にも触れ、祈りと感謝の生活を過ごしていても、本当に主の前に裸になり切れないことがあるからです。それはどんなに罪深いことか、わかっていてもできない時があるのです。

先週、錦織先生はメッセージでいわれましたが「自分の弱さを知った人の集まるところが教会です」は、真のクリスチャン像を示された思いでした。現実に社会に生きていると、強くなければ淘汰させる不安にさらされることがあります。自分の弱みを見せないために、真実の姿でない自分を矢面に立たせて、裸であるべき己は、その影に隠れていることもあります。 肉の人間の思いは自己中心だなと、そのような時いつも反省しています。自分の弱さを知ることは、ありのままの姿で神の前にでることだと悟った時、アダムとイヴの話しを思いだしました。「裸で恥ずかしくないように神がつくられたのに、人は罪を着ると神の前にありのままの姿で出ることができなくなる」の教えは聖書の一番初めの部分に示されているのに、人間の祖として神が造られたアダムとイヴの禁断の木の実の話を、自分のことと受け止めず、聖書物語を第三者的な立場で読み過ごしてきた自分を恥ずかしく思います。でも、このように弱くみ心に背くわたしでも神が許してくださっているのですから、ハレルヤ、ハレルヤです。

「わたしを愛するか」の神の問いかけが、エコーのようにわたしの心に響いてくるのを覚えつつ1999年、心を新たにして歩みたいと祈っています。

月報1999年3月号より

「石の上に現在二年」

主の御名を賛美します。ハレルヤ!  j-Gospelの音楽ミニストリーを佐佐木兄と始めて、はや二年が過ぎようとしています。皆様の祈りに支えられて来た事を感謝しつつ、私なりに感じて来た事を証ししてみようと思います。まずは、これまで訪問した所で印象に残っている出来事などから。

あれは忘れもしない去年のクリスマス。ある教会でのコンサートの時、「献金の時は、私達が演奏します。」ということで、その教会のご婦人方がリコーダーを演奏してくださるということでしたが、リハーサルを聴いてビックリ。「うわースゴイ。小学生よっかひどい。」と内心思ってしまいました。ところが、本番始まってみると、すっかり調子に乗れなかった我々をよそに、彼女たちの演奏は、音の澄みきった素晴しいものでした。

『ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』ヤコブ四章六節

主を愛している者は、レプタニ枚(貧しい女が持っていた最後の小銭)を献げ、イエス様はそれを見て喜ばれるお方です。

ある教会では、祈祷会に出席することが出来ました。この時は驚きました。彼らの熱い祈りに感動しました。となりの部屋どころか教会の外でも聞こえるような声の大きさ、夕方から始めて深夜にまで及ぶこともしばしばあるという祈りの長さ、何度となく呼ばれるイエスの名、あふれんばかりの賛美…。また、その場には、初めて行ったその教会の礼拝の祈りの時、一時間もの間ひっくり返って立ち上がれなくなってしまい、自分の中から悪い者が出て行って、聖い者が入ってきたことを経験した、元ニューエイジの青年がいました。主は今も生きて働いておられるお方です。 『主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』使徒二章二十一節

ある所では、オフで暇をもてあましていた日に、老人ホームへの訪問という機会が与えられました。「ここに来たら平均三年です。」というえらく悲しい言葉を聞きつつ、建物に入っていくと、沢山のご老人が、ベッドに横たわり、多くは車イスの上で、ほとんどは身動きせずにその日を過ごされていました。中に数名障害をもっている子供達もいました。人は皆老いたり病を負ったりします。まったく他人ごとではありません。私の心にはラザロの死の時、涙を流されたイエス様の姿が浮かんでいました。「主よ、私達は無力です。あなたがいなかったら私達の生涯はあまりにも空しい。主よあわれんでください。」と胸の内で叫ばずにはいられない思いのする悲しい施設でした。彼らがナースに連れられて一室に集まり、我々の賛美を聴いてくださいました。すると動かなかったご婦人が動きだし踊り出しました。アメージンググレースを賛美するにいたっては、その部屋全体を包みこむ不思議なうなり声(彼らの賛美)が私の心を打ちました。もう地上では会わないであろう一人ひとりの手をとりながら、その場を去りました。イエス様の言葉が嬉しいです。『あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』ヨハネ十六章十三節

賛美を録音するという作業についても語ることがあります。今の様な賛美を沢山作るという目標をもって働きについた段階では、何が出来るという自信なんぞ何にもありませんでした。ありったけのお金を投じて購入した器材を目の前にして、荷の重さにつぶされる気さえしていました。最初の一年は試行錯誤どころか、どこかで完璧に迷って穴に落ち、はまり込んで抜けられなくなってしまったことも何度もあります。(その結果が一枚目のCDです。沢山の応援に本当に感謝しています)。そしてニ年目にして、少しは向上したいと願っていましたが、一向に手がかりがつかめず苦しみました。何冊も専門書を買って読んだり、実際にプロのスタジオに通いノウハウを身につけるべく努力したつもりです。

そんな中でごく最近、インターネットのあるページで知った、私にとって大変有効な話があります。それは『Masking』という現象です。これまでにも何度か専門書などで触れられていたので知っていましたが、特に気に止めていなかったことです。どういう現象かというと、ある二つの音があったとして、その二つがほとんど同じ音質でなっていたとします。これを同時に同じ方向から聴くと、なんと音量の大きい方が小さい方の音をほぼ完全に消してしまうという現象です。そのページで強調されていたことは、人間の耳がそのように出来ているということでした。意味が分からないと言われそうな世代(?)の方々は、日本に「ザ・ピーナッツ」という双子の歌手がいたのを思い出してください。彼女らは時に、一人で歌っているように聞こえましたが、それはまさしく『Masking』なのです。同じ声を持った者たちが常にどちらかが他者の声を消して同じ旋律を歌うのですから、一人に聞こえるのは当然だったのです。もちろん二人の音程やリズムにズレがあったら意味が無いのですが…。

ちなみに御存知でない方も多いと思うので、説明しておきますが、通常の音楽の録音は、マルチトラックという方法で録音します。8チャンネルマルチトラックといえば、八回別々に録れるということになります。佐佐木兄をトラック1、ギターをトラック2という風に一つずつ録って行きますから、後でギターだけの変更も容易です。佐佐木兄の声を錦織先生のものに変えることも簡単です(いつかやってみよう!)。

j-GospelのCDの作成を始めた段階で、私が確信していたのは、良い音が集まれば、良い音楽になる、ということでした。佐佐木兄の声、私のギター等その他の楽器、全てがもっともらしい音を出していれば、それらをミックスして出しさえすれば、素晴しい曲が出来上がると信じていました。と・こ・ろ・が・違う、のでした。人間の耳は周波数でいうと大体1~5キロヘルツ(例えば佐佐木兄の声は500ヘルツー3キロヘルツ位を多く含む)がよく聞こえ、音楽においてもその音域を強調してやると迫力と情熱に満ちた音が出てきますが、つまり多くの場合各々は良く聞こえるそれらの音を重ねて同時に聴くとどうなるでしょう? 先ほどの『Masking』によって音は沢山鳴っているいるようですが、それぞれの音がはっきりと聞えないという事実に直面します。そこでそれぞれのトラックの1.15キロヘルツをBoost、佐佐木兄の1.15キロヘルツをCut、ピアノの3.2キロヘルツをBoostという風に音質を補正していくことになります。この段階でギターだけ、佐佐木兄だけの音を聴くと、けっこう間抜けな音になっていたりしますが、それらを同時に再生すると驚きです。きちんと各パートが協調し合い聞こえるようになっています。全体で聴くと美しい調和を得てくるのです。

長々と説明してしまいましたが、これらのことから何を感じているかというと、神様のデザインされた私達の耳の特性が、教会や社会の人間関係を導いているような気がしたのです。私達は時に情熱に燃え、元気一杯で何か良い事をしようとすると、以外な人から苦言をいただいて意気消沈、そんなら止めたということになったりします。正しいこと、良い事をしようとしているのに何故だ?と悩んだりもします。イエス様がマタイ十九章十七節で、『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。…』と語っておられますが、我々の誰かがこの「良い方」になろうとするといくつもの問題を生むことになるようです。

今の時代、必要であるならば格好良く聞こえるはずの1キロヘルツをCutし、私には出来ないといっている者の2キロヘルツをBoostされる私たちの主であるイエス様のミキシングのもと天国のような素晴しいハーモニーを教会で生み出す時だと思います。これこそ主に喜ばれる賛美であり礼拝だと思います。ついでですが、曲を完成させるのにHidden Noteと呼ばれる音を入れることがあります。云われても気がつかないほど小さな音、目立たない音質で演奏、録音されますが、全体で聴くとこれが有るのと無いのでは大違いというこだわりの音のことです。そんな働きの場が教会にもあったら素晴しいですね。

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』第一コリント十章三十一節

最後に、違いの分かる男にはなった(?)ようですが、違いの作れる男にはまだなっていない私のために引き続きお祈りいただけたら嬉しいです。イエス様が共に居てくださることをもっと体験していきたいと思います。99年初冬の日本ツアーのための限定盤「Spread the Gospel」が間もなく届く予定ですが、そのうち数曲は『Masking』を踏まえた上でのミキシングになっています。三枚目「キリスト賛歌(仮題)」は、99年半ばを完成目標にしています。いずれも乞うご期待! 音楽について賛美について語りあかしたい方はいつでも歓迎します!

月報1999年1月号より

「私の証」

神様が一人一人に与えるご計画は、わたし達の想像を超え、不思議な形で現れます。私はアメリカへ来て聖書に触れ、生まれて初めて教会に足を運んだものですが、振り返ってみると、神様は、本当に多くの人を通して、長い年月をかけて私を救いの道に導いてくださいました。

初めに、私はふとしたきっかけで、お祈りの方法を学んだのです。それは、高校卒業したての頃、デパートの紳士服売場でアルバイトをしていた時に出会った二十六歳の男性クリスチャンからでした。彼は私が働いていた店の隣のコーナーでジーンズを売っているお兄さんでした。当時未だ男性の間ではめずらしく耳にピアスをし、指にジャラジャラ指輪をつけていたその人は、高級志向のデパートの中で一人浮いている不思議な存在でした。さらに不思議なことに、彼はいつもお昼休みに一人で黙々と聖書を読んでいたのです。彼の風貌と聖書というギャップが印象的で『聖書って一体何が書いてあるのだろう』という興味が湧き上がりました。たまたま私のベッドには何故か姉が高校時代に使っていた聖書が飾りとして置かれてあり、そのとき初めて聖書を開きました。ページ数の少ないほうの新約聖書から読み始め、マタイの六章の『主の祈り』が書いてある所で私の興味は難しい聖書を読むことから神秘的なお祈りに変わりました。単純な私はこの言葉を何の疑いもなく信じました。聖書朗読は、まさに三日坊主で終わりましたが、お祈りは今日まで続いています。今考えてみると『主の祈り』でさえ意味を理解せず、ただ呪文のように唱えては願い事を神様に語りかけていましたが、そんなへんてこりんなお祈りをも神様は耳を傾けてくださいました。

その後、聖書を再び読む機会が与えられたのは六年後のアメリカに来てからでした。Art好きの私は、普通のカレッジに通っていながら、できる友人は何故かアートスクールに通っている人が多く、その中の二人の女の子達にバイブルスタディーに招かれたのがきっかけでした。彼女達の作った芸術品の並ぶお部屋でやるバイブルスタディーは今でも楽しい思い出です。その後行ったり行かなかったりしているうちに、ちょうど昨年の十月、父が腎臓ガンであるという知らせがありました。ガンは八センチにまで大きくなっていて、私はもう父の命はそう長くはないのではないかと心配で、毎日学校も行けず泣いていました。一時帰国が決まるまで、私は必死で祈りました。『父の命を助けてください…』神様の奇跡の力であんな大きなガンにもかかわらず父は癒されました。この御わざで本当に神様はいるという私の確信になりました。

NYに戻り、真剣に神様について知りたくなりました。私はもう一度バイブルスタディーを再開し、友人の行っているアメリカン・チャーチにも足を運びました。しかしどうしてもその教会になじめませんでした。ほとんどが若い大学生の信者でとてもパワフルな教会だったのですが、その勢いについて行けなかったのです。彼らが重点においていたのは『行い』でした。神を信じるだけでは救われない。行いによって救われるというのです。私はそれがとてもプレッシャーになり、神様のところに近づくにはこんなに大変なことなのかと思い込んでしまいました。そんな時、佐伯真理ちゃんからハンターカレッジのクリスチャン・フェローシップの誘いがあり、私は今までの教会仲間の強い反対を押し切って、そのフェローシップに行きました。第一回目の参加で私の抱えていた問題はあっという間に解決されました。錦織先生の穏やかな口調から出るみ言葉は、今まで受けたものと全く違っていました。そこでは神様が私に与える寛大な愛、なんとも言えない神様の愛が私の心に入ってきたのです。

『真理はあなたがたを自由にします』ヨハネ八章三十二節

このみ言葉が一人でガチガチに力んでいた私の心をほぐしてくれました。

振り返ってみると、ここまでたどり着くのに凄く遠回りをして来た様な感じがします。しかし、私の場合、ここに出てきた人達なしでは今の私はないのです。不思議なことに、神様は無神論者の父にまでも働いて、私を神の元に導いてくれました。いつかこの父にも神様の存在に気づける日がくるといいなと思います。受洗して六ヶ月、これからも多くの人を通して自分の信仰を強めることができるように、そしてまた私を通しても、神様に導かれる人が多くできることを期待しています。

月報1998年11月号より

「あゆみ」

私が語学留学のため、6年間の教員生活にピリオドを打ち、NYに単身やって来たのは去年の5月でした。誰一人、知人友人もいない、全くのゼロからスタートして、この約一年半の間に、大きなケガや病気もなく、たくさんの良き友人に恵まれ、心の寄り所となる教会に出会い、またこの9月から大学に編入、再び学生として音楽を学ぶ機会を与えられたこと、神様に感謝しています。

そもそも、留学を真剣に考え始めたのは、ゴスペル・シンガーとして日本で活躍しているラニー・ラッカー氏主催の『Bright Lights Choir』の一員として活動している頃でした。私達はラニーさんの指導のもと、アメリカの黒人教会で歌われているようなゴスペル・ソングを歌っており、時々教会やイベントに呼ばれてミニ・コンサートを催したりする傍ら、座間キャンプや横田基地などの米軍基地で行われる、ゴスペル・ミュージック・ワークショップに参加してゴスペルを学んでいました。ちょうどその頃、本業の教員生活の方でも素晴らしい音楽専科の先生と出会い、にわかに合唱指導に興味を持ち始めていたので、忙しいながらも充実した毎日であったと思います。そのような生活の中で、英語の習得も兼ねて、本場アメリカでゴスペルを学べたら、という思いが日増しに強くなり、ついに留学に踏み切ったという訳です。

大志を抱いてこちらに来たのですが、滑り出しは必ずしも順調ではありませんでした。英語がすらすらと話せないため、電話の加入、銀行口座の開設などからして、あちこちたらい回しにされ、スムースに行くものが、2倍も3倍も時間がかかる始末。英語もできない小娘が何しに来た、という冷やかな対応をずい分受けたものです。当時同居していたヒスパニックのルームメートとの関係でも神経がすり減る事ばかりで、みじめな気持ちになっては日本をなつかしく思う毎日でした。経済的にも貯金が頼りの自費留学だったので、不安は常にあったし、誰一人頼る者もいない生活の中で、自分は果たしてやって行けるのだろうか、と悩みました。

NJ日本語教会に通い始めたのは、ちょうどそんな時でした。日本の友人が古くから錦織牧師を知っており、私が渡米するということを前もって連絡してくれていたのです。一本の暖かいお誘いの電話から、錦織先生ご家族、NJの教会の方々とのお付き合いが始まりました。日本に居た時からゴスペルを通じて教会へ足を運ぶ機会はあり、また遡れば幼稚園、小学校と日曜学校に通っていた経験もあったので、私にとってキリスト教は全く未知なものではありませんでした。実際にゴスペルを学んでいく課程でクリスチャンになることも幾度となく考えましたが、自分の中に整理できない問題もあり、それが解決するまでは、と思っていました。ゴスペルのワークショップで熱狂的な礼拝体験をしながらも、その雰囲気に押しながされるような形でクリスチャンにはなりたくなかったのです。私には平静さの中で、膝を交えてキリスト教について話し合える人が必要でした。

神様は思わぬ所で思わぬ方々との出会いを用意してくれているものです。錦織先生ご夫妻というのは、私にとって“膝を交えて何でも話せる”方々でした。初めて教会に足を運んだ日から、陰にまり日向になり私の事を見守って下さり、また辛抱強く私の言うことにも耳を傾けて下さったのです。何度か牧師館にもお世話になりましたが、お互いを知り合うような暖かいクリスチャン・ホームはとても居心地が良く、また教会にあっては、座る暇もない程働いていながら、いつも笑顔を絶やさないお二人の姿が印象的でした。また教会員の方々も見ず知らずの人間に本当に暖かく接して下さり、教会に通うことで殺伐とした毎日の生活を忘れ、心が安らぎました。そして、「クリスチャンになるのなら、この教会で。」と思うようになったのです。

昨年の12月に洗礼を受け、正式に教会員となりました。今は子供聖歌隊の指導や教会のバンドの一員としてご奉仕させて頂いています。また、毎年一度催されるゴスペル・ミュージック・ワークショップ・オブ・アメリカ(GMWA)に3度目の参加を果たし、ラニーさんや日本のクワイアのメンバーと再会できたことも大きな喜びでした。心細い中でスタートしたアメリカ生活でしたが、神様は本当に必要を満たして下さっているのだなあ、と思います。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43・4)

これは受洗の記念に頂いた聖書に錦織先生が書いて下さった言葉です。このアメリカ生活の中で何度も自分がちっぽけで取るに足らない存在であるよう思えて悲しくなることがあるのですが、その度にこの言葉は私を励まし支えてくれます。

まだまだクリスチャンとしては駆け出しの私ですが、これから聖書の学びを深めながら、私が受けた愛情を今度は他の人々に返していけたら、と思っています。

月報1998年10月号より

「今思うこと」

今時々思うことがあります。 それは僕がクリスチャンになるなんて思ってもいなかったということです。日本で生活している時は、宗教について考えもしませんでした。どちらかと言うと宗教と言うものについて偏見を持っていました。やはりオウム真理教などいろいろ怪しい宗教が周りにあったせいか、神様の存在を信じている人達を白い目で見てきたように思います。実際にぼくの中では、神様を信じる人は弱い人間で、そういうものに頼らなければ何もできないような人だと言う解釈がありました。

その当時の僕は、いつも何かが足りないような感じがしていました。何か心にポツンと穴の空いたような、満たされていない感じがいつもしていました。そして自分の心を満たす為に、いつも自分勝手に自分のやりたいことをやって両親、それから周りの友達に迷惑をかけていました。とにかく自分の好きなことをやって楽しければ自分の心は満たされると思っていました。そんな状態でアメリカに来て、困難なことに出会い、精神的、それから肉体的な疲れや淋しさによって、今までに無く、心が満たされていないのを感じました。

そんな時、ミシガンで僕は、素晴らしいクリスチャン・ファミリーに出会いました。その人たちは、いつも僕の事を家族の一員だと言ってくれ、そしてそれは口だけのものではなく、本当に息子のように扱ってくれました。そうやってクリスチャンの人達と接することによって、僕の中にあった、宗教に対する偏見が無くなって行きました。そして教会に毎週行くようになって、キリスト教について少しずつ理解を深めました。

ミシガンを離れることになり、そしてニューヨークに来て、もうあまり教会に行く機会もないだろうと思っていましたが、そんな時ハンターカレッジでのクリスチャンフェローシップの張り紙が目に入ってきて、そして教会にまた導かれ、イエス・キリストを僕の救い主として受け入れることができました。

その決心ができた時、僕の心は、今まで感じることのできなかったものを感じることができました。今まで凍り付いていたものが解けた感じでした。そして、今まで満たされることの無かった心が満たされました。主は僕のような者を愛してくれているのだと言うことに気づき、そして、その愛がとても大きなものだと言うことを心で感じることができました。

最近、今の自分と以前の自分を比べてみると、人のことを愛せるようになったと思います。 以前の自分は表面的な付き合いしかしていなかったように思います。友達の事を本気で心配したりしたことはありませんでした。でも今は、友達に困難がある時、心が痛みます。 そして友達に何か良いことがあった時、自分の事のように嬉しくなります。やはりこれは、主が僕の事を愛してくれているからだと思います。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

マタイ五章三節

月報1998年8月号より

「だれが、キリストの愛からわたしたちを…」

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。

患難か、 苦悩か、迫害か、

飢えか、裸か、危難か、剣か。」

『ローマ書』 8:35

初めて死というものに直面したのは丁度一年前、1997年5月28日のことでした。過去67年間健康に恵まれた私は、前立腺癌に侵されていると知った時、表面上は冷静を装ったものの、内心恐怖に戦えていました。その年の2月に癌と診断されて以来、同じ病を患った方や、患った人を知っている方など幾人にも話を伺いました。殆どの方は手術を受けることを勧め、又ある方は放射線治療を、そして娘の上司の兄であるジョンズ・ホプキンズの医師には「心して安静」する様勧められました。私自身入手出来る限りの文献に当たり、それぞれの選択肢の長所・短所を吟味してみました。そして随分後込みしながらも、結局手術を受ける決断に至ったのです。

その時まで死や病気などは他人事だと高を括っておりました。私が教える哲学の講義で死を論ずることがあっても、それは抽象論の世界に過ぎませんでした。何らの兆候も自覚症状もなかったこともあり、癌だと宣告された後ですら現実のものだとは考えられませんでした。然し私自身のために敢えて自分の病気を人に隠さない様努め、大学においても教会においても聞いて下さる方には誰彼構わず病気について話しました。私が余りにも開けっ広げに話すので人に衝撃を与えたことも、また逆にこの話題を避けようと苦慮していた人を安堵させたこともあったかも知れません。大学の講義で私の病気を議題にしたこともあったほどです。

それまでは苦難を通じて神が我々の近くにおられることを本当に感じるのだとは分かっていませんでした。如何にして愛である神が患難を通して私達の心を満たして下さるのでしょうか。私の場合は手術の前にも後にも特に痛みなどは無かったのですから患難と言っても単に精神的なものでした。それでも、人生の中で本当に初めて一度神に見放されることが、神の愛を体感するのに必要であったのだ、否、見放されたそのことが神の愛なのだと気付くに至らされたのです。現代宗教思想家の中で私が最も敬愛して止まないユダヤ系フランス人、シモン・ヴェイルはその著書の中で辛辣にこう述べています。

「我々人間において、苦難を享受してこそ父とそのひとり子の間の隔絶を共有するという限りなく貴重な特権が与えられる。然しこの隔絶は愛する者にとってはただ一時の別れに過ぎない。痛みを伴っても、愛する者にとってこの別れは善である。何故ならそれは愛だからである。見放されたキリストの苦難ですら善なのだ。地上においてこの愛を共有する以上の善はあり得ない。神は我等の肉の故に我々のもとに全きまでおられることはない。然し神は究極の患難に置かれた我々をおよそ全きまで見放されもする。これこそが我々がこの地上で完全となる唯一の可能性であり、だからこそ十字架が唯一の希望なのだ。」

『Waiting for God (神への待望)』より

『The Love of God and Affliction (神の愛と患難)』 p. 127

人生において初めてこの筆舌に尽くし難い別れと結束の両方を体験したのです。

大学でも教会でも人々が私に惜しみなく愛を注ぎ、又お気遣い頂いたことは感謝の限りです。手術の日にわざわざ二度も病院を訪ねて下さった錦織師を初め、多くの兄姉が私の回復のために毎週祈って下さいました。特に、私のために教会全員でお祈り下さったあの土曜日のことは忘れることが出来ません。教会と祈りを通して溢れんばかりの神の愛を痛感しました。

娘マリもワシントンD.C.から幾度も足を運び私を癒してくれました。実のところ、私の病気があったからこそ親子の絆が強まったと言っても過言ではありません。父親を失うかも知れないという危機感が娘の心を開き、父親への愛を悟らせたのです。娘が一時も早く神への信仰に立ち帰ることが出来ます様、妻と私と共にお祈り下されば幸いです。

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、

だれがわたしたちに敵し得ようか。」

『ローマ書』 8:31

月報1998年7月号より

「私はクリスチャンファミリーに生まれ…」

私はクリスチャンファミリーに生まれ、物心がついた時には教会に行っておりました。日曜の午前は私と兄は日曜学校、その後両親の礼拝が済むまで遊んで待つと言う日曜日でした。ところが小学校二年生の時、母が脳腫瘍というその当時(昭和三三年)では大変な病気になり、我が家の平和な生活は一変しました。その時から私たち一家は教会に行かれる状態ではなくなりました。手術で一命はとりとめたものの多くの後遺症に母は悩まされ、その上一部の信者より、信仰が薄いせいで病気になったと陰口をたたかれ、心身ともに傷ついていました。幼い私には何の力もなく、両親の喧嘩の絶えない、暗く淋しい、逃げ出したくなるような家庭でした。母の一歩も家から出ない生活が始まりました。毎日の買物は私の担当でした。「あの時死んだ方が良かった」と言う母を慰める術も知らない私は、母の愛にひたすら飢えていました。

神様から離れた生活が何十年も続いたでしょうか。すっかり教会から遠ざかり自分勝手な生活をしていました。親に頼らず何でも自分で決断し、受験・入社と頑張って来たつもりでした。早く嫌な家を出て、暖かい家庭を作ろうと思っていました。やがて職場で出会った人と結婚し、子供二人に恵まれ、主人も優しく、何不自由ない生活、私の思い描いていた家庭でした。しかし何だか物足りない、何かが違う空虚な気持ちを埋めてくれるのは主人でも子供でもありませんでした。

そんな時、近所の人に誘われ何十年ぶりに教会の門をくぐりました。”Youth With A Mission”というアメリカの宣教師団体が農家を借りて牧会をしていました。彼らのつたない日本語を通して主の御言葉と賛美にふれ、心が満たされ、これが私の求めていた主と分かりました。小さいからし種程の信仰が多くの祈りに支えられ実を結び、二年後受洗することができました。三七歳の時でした。主はこんなに弱くて罪深い私を忘れずに赦してくれて、再び暖かく迎えてくださいました。

「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」

ヘブル 一三章五節

そして私の受洗を誰よりも喜んでくれたのは、信仰生活から離れていた両親でした。母はあの大手術で命を得ることができたのに、主に感謝せずに呪ってばかりいたのです。しかし、現在母も家族も命を得たことをどんなに主に感謝しているかわかりません。両親は教会にはつながっていませんが、再び主を受け入れているので私はクリスチャンだと思っています。

「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。

ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」

ヨハネ九章三節

主人・娘たちはまだクリスチャンではありませんが、必ず祈りがききいれられる日が来ると信じています。

「主イエスを信じなさい。

そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」

使徒一六章三一節

この御言葉が成就する日を楽しみに主に支えられて生きる毎日です。

月報1998年6月号より

「留学生として」

僕がアメリカへ単身留学したのは中学三年生となった春の事でした。それまで意味の無い学校生活を送ってきた自分にとってアメリカへ行く事は新しい人生の幕開けのように思えました。 多くの夢と希望だけを胸に夕暮れの成田を飛び立ち、どす黒く燃える西の空を見たとき親元を離れる淋しさを初めて知りました。

アメリカに渡り、ケンタッキーの学校にたった一人で放り込まれた時は淋しくて仕方がありませんでした。たまに日本から送られてくる小包さえも愛しく感じ、親からの手紙や、友人からの手紙は何十回となく読み返したりもしました。あれだけ嫌っていた過去の生活の思い出が、切ない浜辺の波のように静かに押し寄せてきては引いていきました。 英語はもちろんさっぱり分からず、授業はただ出席しているだけで、質問されても何が何だか全く分からずおろおろしていると、よくクラスメイトから小馬鹿にされました。英語が分からないと言うハンディーキャップは最初から分かっていたので別に驚きはしませんでしたが、馬鹿にされたときに反論できない自分の語学力に極度のストレスを感じ、学校から寮の部屋へ戻ると誰もいないのを確かめ、泣きながら壁を叩いた時もありました。 勉強は英語のせいなのか、自分の努力が足りないせいなのか、数学以外はさっぱりでした。学校の置かれている環境も悪かったとは思うのですが、陸の孤島に押し込められた様な、文明から遠く隔離された様な精神的に孤独な日々が続きました。生活は至って単純で、暇で仕方がありませんでした。日本から送られてくる安物小説を何度も読んだり、友人達といっしょにタバコを吸いながら、クラスで話題の女の子の話をしたり、遠くに光り輝く「大学」の事などを考えていました。

そんなこんなでアメリカで三度目のクリスマスを迎えようとしていたとき、僕は突然、転校する事になりました。 もちろん転校先は決まっておらず、一旦日本へ帰国し、二月の初めに父親と再び渡米しました。 そしてこの父親と二人で過ごした一週間は一生忘れる事が出来ない一週間となったのです。 僕はクリスチャン・ホームに生まれ、10歳のときにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、秋の大洗海岸で洗礼を受けました。 洗礼を受けているとき「潤君の罪が海の奥底まで沈んでいくように…」っと牧師先生は言っていたような気がしますが、暗い海の底まで罪が沈んで行く…っと言うのが幼心にも妙に現実的に思えたのを覚えています。 「クリスチャン」となった僕は5年生になると少年野球チームに入った為に日曜学校へ行く事はなくなってしまいましたが、食事の前の祈りと、寝る前の祈りは欠かさずしていました。アメリカへ渡った後でも寝る前の祈りは守っていましたが、それまで祈りの対象を、実存する全知全能の「神」としてはいなかったのかも知れません。 しかし、父と二人でアメリカに再び戻ってきたとき、僕は本気で祈ることになりました。

初めに訪れた学校はペンシルベニア州の片田舎にある、小さな私立高校でした。 校舎に入るなり、ケンタッキーでもそうであったように、僕は「外国人」として珍しがられました。 父親と付き添いの宣教師の方が校長先生とお話している間、僕はアメリカ史のクラスを受けさせてもらいました。授業が終わると、校長先生と父親達が待っていて、僕らは握手を交わして帰路につきましたが、途中、入学を断られた事を知らされました。 考えてみれば、ケンタッキーにいた頃、ろくに勉強した覚えの無い自分の成績は他人に誇って見せびらかせるような物ではなく、「入れてくれるはずが無いよ…」っと当然の事のように思ったのですが、車中これからの自分の人生を自分なりに考えて行く内、「拒否された」と云う事実だけが津波のように押し寄せてきました。現実と本来自分が思い描いていた理想とがかけ離れていることを徐々に認識しはじめたのでした。

それからの数日は幕末の如く、心身ともに不安定な日々が続きました。食欲はわかず、口から出るのは消極的な言葉ばかり。三人で祈っていても苦しくて仕方が無く、いっそ全てをかなぐり捨ててどこか遠くの知らない国にでも行ってしまおうか…、そんな事さえ考えました。 なんといっても苦しかったのは、自分には何も誇る事が無い、と云う事でした。 金持ちの家に生まれたわけでもなく、容姿が良いわけでもなく、頭が良いわけでもなく、得意なスポーツがあるわけでもなく、英語がきちんと喋れるわけでもなく…。 冷静に考えれば考えるほど、僕は窮地に追い込まれていきました。しかし、声にならない鳴咽が喉の奥を熱く締め付けている中で、驚く事に神様は何の取り柄も持たない自分に最高の道を備えてくれていたのです。 僕は自分が低いものだと認めました。 自分には何も無い、と認めました。 そして、自分が何も誇る事の無い低い者だと分かった時、真剣に祈る事が出来ました。 そんな現実を自覚した時、雑念が消え、進むべき道だけが見えたのです。進むべき道、それは「祈る」事でした。 小さい時からただ漠然と祈りをささげてきた「神」なるものが、切なる祈りの対象として明瞭に浮かび上がってきたのです。その日から僕は「何も無い者」とされた代わりに、「万軍の主を持つ者」とされたのです。

その後、知人の紹介でニュージャージーにあるイースタン・クリスチャン・ハイスクールを知り、面接に出かけました。 ペンシルベニアでの一件があるため、楽観は出来ませんでしたが、面接の席で代表役員の方と校長先生は自分の成績書には一目もくれず、僕に必要な住まいの事だけを心配していました。帰り際、笑顔で「いつから来られますか?」と聞かれ、彼らに僕を受け入れる意志がある事を知りました。

それから一ヶ月後、僕は外国人の全くいない新しい環境の中で勉強をしていました。友達も沢山でき、素晴らしい先生方も与えられ、大きな愛で僕の心を包んでくれたホスト・ファミリーにも出会いました。苦しみの中で途方に暮れ、立ち止まり祈り、本当の神様に出会えた事に感謝しております。

今回の証しは、ここまでとなりますが、実は本当の戦いはここから始まったのです。自分の人生は、それなりに波乱に満ちていたように思えます。 しかし、神様は苦痛の中にも逃れの道をすでに備えてくれています。今まで通ってきた荒野の道は神様による知恵の道でした。 そして、これからの人生も、これまで以上にエキサイティングになっていく事を疑う事はできません。最後に、僕が毎日の聖書朗読の中で高校時代に出会った素晴らしい聖書の個所を書き記して擱筆させて頂きます。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐える事の出来ないような試練に合わせるような事はなさいません。むしろ、耐える事の出来るように、試練と共に、脱出の道も備えて下さいます。」

第一コリント十章一三節

月報1998年3月号より