<集会紹介>「The BRAVE」(2026年3月号)

名前の由来

私たちの教会では、教会学校のことを 「The BRAVE」 と呼んでいます。

この名前になったのは、当時の先生たちが、「アメリカで暮らす日本人の子どもたちは、平日は現地校、土曜日は日本語学校に通う子が多い。だから、日曜日まで“学校”という言葉で負担を感じてほしくない」と願ったことがきっかけでした。

そこで先生たちは、「学校」という言葉の代わりに、子どもたちに大切にしてほしい聖書の言葉を五つ選び、その頭文字を合わせて The BRAVE(勇者たち) と名づけました。

      • B=Bible(聖書)
      • R=Rock of Salvation(救いの岩)
      • A=Awesome God(すばらしい神様)
      • V=Victory(勝利)
      • E=Empowerment(神様から力を受ける)

The Brave

2025年10月から、The BRAVE の活動は新しい形になりました。

これまでの「大人が聖書の学びをリードする教会学校」から、「子どもたちが主人公の教会学校」へと大きく変わりました。

この改革には、「神様との関係を積極的に育てていける子どもを育てたい」という先生たちの願いが込められています。

新しい The BRAVE では、幼稚園児から高校生までが一つのグループとして活動します。

The BRAVE を 「子ども礼拝」 と位置づけ、賛美は大人と同じ礼拝で過ごし、その後はジムに移動して子どもたちと先生たちだけで礼拝を守ります。

この時間では、だれもが安心して過ごせて、楽しい場所になるように、みんなで力を合わせて活動を支えています。

5つの目標

The BRAVE に参加する子どもたちは、次の5つを目標にしています。

      1. 神様に愛されていることを知る子
      2. イエス様のように優しく素直な心を持つ子
      3. 祈りや賛美を喜んで行う子
      4. 友だちを大切にし、助け合える子
      5. 聖書の言葉から力を受けて歩む子

この5つは、イエス様の心や生き方を表しています。

子どもたちはこの目標に近づくために、「祈り・献金・聖書の学び」といった教会の活動だけでなく、「シェアタイム」や「お楽しみ会」など、心が満たされる交流の時間も大切にしています。

子どもたちは、The BRAVE の活動を通して、「ここが自分の居場所だ」という思いを育て、信仰者としてのアイデンティティを育てています。

The BRAVE の願い

The BRAVE の教師たちは、「子どもたちが The BRAVE で学んだことを、日々の生活の中で実践できますように」と祈りながら関わっています。

なぜなら、「学び → 実践」の流れこそが、子どもたちが キリストに似た者として成長する大切な機会 だと信じているからです。また、先生たちは、The Braveの子どもたちが「光の子として歩む」ことができるように、日々祈りと願いを込めて彼らと向き合っています。

The BRAVEは、子どもたちと教師たちが、「神の家族」として互いに愛を示し合う場所 です。

私たちは、新しいメンバーをいつでも歓迎します。

そして、The Braveに集う一人一人が心を一つにして、主イエス•キリストの御名をほめたたえて、この世界の光となっていきたいと願っています。

「20年後の今」

私は2006年にNJのある教会で洗礼を受けております。この文章製作により、今年2026年1月にしていただいた会員入会式がちょうど20週年目の年だと気付きましたが、これも証しの一つかもしれません。

はじめて自分の経験を文章にする機会に、いままでの20年間を振り返って考えてみました。イエス様に見つけられ、以前の自分ではなくなった事、その後のさまざまな経験は、最初から導かれ何かにデザインされていたのかな、と思います。その過去の長い間にしてきた、どんなに苦しい時でも心の落ち着きと平安をくださる「祈り」とは、おまじないでも、直ぐに何か状況を変える(事もありますが)ようなものでもありません。物事は偶然かのように、とても自然に長い期間でもの事が動くため説明にも掴みどころもありません。また、その長い期間の中で、それぞれ自分にだけ心当たりのあるインダイレクトに知らされるメッセージやふとした不思議な思い付き、きっかけなどは、とてもパーソナルな事で、自分でも何かよくわかりません。でも、その時点では祈った結果が反対でも、自分の器量に合って結果ふさわしく収まることが多いです。不思議に思えば思うほど、更なる祈りへと連ねられ、あまり苦しまなくてもよい程度の状態へといったん落ち着かされ、そして又、新たな神様にすがらなければならない問題とともに毎日を現在進行して今があります。目に見えない霊的な働きを今でも不思議に思うわたしを、更なる信仰へと導き、祈りと忍耐を持続させるための状況を与え、操り、働かれるのが、神様こその御業なのだな、と、いつも思います。「愛する者に試練を与え」、それは、「耐えられないほどの試練に遭わせることはない」、そして 「思い煩ってはならない」とも聖書で数回教えられていますが、神様への信頼と不安定な自分の信仰との模索の毎日です。そして祈ることから離れていると、気分が淀んでくるのがわかります。今は、主日(日曜日)の礼拝だけは第一に守るように、と訓練中です。以前、毎週日曜日の仕事の予定をことわった後すぐ、その仕事が倍になったことがあります。その逆の経験もありまして、主日(日曜日)を選ばずにした企画がみな大失敗に終わったこともあります。

去年のイースターからJCCNJの礼拝に行き始めて以来、神様が明らかに私を助けてくださいました。教会へ行きはじめたのは、働いている学校や、移動、変わり目などの影響で、実は、その時期は本当に経済的に落ちこんだ時期でした。心配と不安な毎日でしたが、それでも半年ちかく、まわりの方々のたくさんの証し、協力、励ましとともに教会へ行き続けてゆくうち、ある時期に入って突然思ってもみなかった人や、昔の知り合いの家族など、全く予想外の人たちから同時に連絡が来るようになりました。ある知らないクリスチャンの学生からは、「祈っていたら私のところに繋がった」と言われましたが、それには驚きました。自分の祈りも自分で信用できない時もありますが、そのクリスチャンの学生を通して、私の全てについては全く神様に知られていることを再び納得しました。そして、これらの出来事はすべて経済回復につながる結果となり、しかも全く無理を必要としない環境へと導いてくださいました。神様はわたしを試されたあと、明確にその時期の経済状況を変えて下さったのです。

最近の事では、長いあいだ絶対に欠かせなかったサプリメントを飲んでいましたが、気がつくと何故か全く問題がないので購入の必要がなくなりました。とても感謝しています。

再びですが、神様が恵みを与えて下さる前には、試練と新たな信仰ステップの時期が必要ということも今まで以上に学びました。その試練を乗り越えられるまではとても落ち込む事もありますが、今では、「又次のテストが来た」、と、はっきり思えるようになりました。良いことがあって浮かれていると、又、悩みや苦労が訪れます。その厳しい状況の中でもイエス様は、「どうしても必要な事は一つだけ」(ルカ10:42)であり、どんな時にも、まず神様をほめたたえる事が私達の使命だと教えられています。「栄華を極めたソロモン」(マタイ6:29)でさえも、幸せを追求し、いつの時代でも日の下で繰り返される人間の虚しさを語った最後で、「結局のところ・・・神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)と、ありますが、私にもその結論しかありません。しかし、イエス様は、「主よ、主よ、という者ばかりが・・・」 御心に叶うわけではない、とも指摘されました。自分の解釈に走り、自分のことだけで精一杯な今現代の生活の中で、神の声に見聞き、従う、御心を行う、というのは実のところどういう事なのかな、とよく思います。

どうか、私の全てを見通されている神様御本人、イエス様の御旨にすこしでも近づくことができますように、Amen。

<集会紹介>「Ash Wednesday集会とGood Friday集会」(2026年2月号)

皆さんの中には、この時期、額に汚れがついている人を見かけて、思わず「あの・・・おでこ汚れてますよ」と声をかけそうになったという方もおられるかもしれません。人によっては、タオルを持ってきたり、拭いてあげたりしたくなる方もおられるでしょうね。これは2月の半ばから3月の初め頃にやってくる「Ash Wednesday」での風景です。イースターの前、日曜日を除いて40日を数えた日で、今年の場合は2月17日がそれに当たります。

この日、どうして額に灰を付けるのでしょうか?そして、なぜこの日は「Ash Wednesday」というのでしょうか?それは、この日から教会は「レント(Lent)」といって、イエスの復活を記念する毎週の日曜日を除いてイースターまでの40日間、イエスの十字架の苦しみに目を留めて歩むからです。そして、その最初の日に、自分が「チリや灰に過ぎない、はかない存在だ」ということを認めて、「罪を悔い改めて、イエスの十字架を信じます」というを信仰を表すために額に灰を付けてもらうのです。

 私たちの教会では、額に灰を付けるということはしていませんが、聖書から「私たちがちり灰に過ぎない存在なのだ」ということについて、また「悔い改め」について学び、このレントの期間、イエスのみ苦しみに目を留めて歩んでいきます。

 そして、イースターの直前の金曜日、Good Fridayはイエスが十字架にかかった日。今年は4月3日です。この日はイエスの十字架に目を留めて、聖書から学びます。

 そして、40日間のレントが明けるイースターの日、共にイエスの復活をお祝いするのです。

 Ash WednesdayとGood Friday、この2回の集会、どなたでも歓迎です。それぞれ教会とオンラインと両方で、午後7時半から9時まで。詳しくはこちらまで。

<牧師室より>2026年1月号「使命に忠実に歩む」

12月の初め、クリスマスを前にして、スヌーピーと仲間たち(Peanuts)のNativity(イエスの誕生の場面を表した置物)をひっぱり出してきた時に、「あれっ、ヨセフがいない!」と大騒ぎになりました。ヨセフというのはイエスの母マリアの夫。婚約者のマリアが処女でイエスを身ごもるという出来事の中で、マリアを妻として迎え、イエスの父として、その子を育てたなかなかの男です。私の頭の中では、マリアとヨセフ、ヨセフとマリア、は一組で、二人でイエスを迎えたと思っていますから、ヨセフも当然いるものだと思っていました。
 
何度探しても、どこを探しても出てこない。「まさか・・・でも、もしや・・・」と思ってウェブで同じものを売っていないかと探してみたら、そのまさかで、最初からセットに入っていなかったのです。

製作者は「マリヤは外せない」とルーシーにそれを任せたけれども、「チャーリー・ブラウンはヨセフじゃないよな、羊飼いだろうな。じゃあ、ヨセフは誰にする?ライナスか?うーん、まあ、いいや、ヨセフは省いていいだろ」と思ったのでしょうか?ヨセフって、その程度に扱われているんだな、と軽い衝撃を受けました。しかし、考えてみるならば、私も毎年、このセットを見ているはずなのに、ヨセフがいなかったことに気付かなかったということは、わたしのヨセフへの思い入れも大したことはない、ということなのでしょう。

しかし、聖書を読むとヨセフの悩みと信仰の姿とそれを支えた神の語りかけが出てきます。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
・・・
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた。
(マタイの福音書 1章18-21, 24節)

自分の与り知らないところで、婚約者が身ごもる、という出来事、このヨセフの悩みはどれほど深かっただろうかと思います。「密かに離縁しよう」という決心も熟慮の末の決断だと思います。そして、また何よりも夢の中でのお告げにすぐに従ったところも、決断力と実行力の人だなと思います。しかし、このイエスの誕生の出来事の後、ヨセフが聖書に登場するのは1回だけ。マリアはイエスの生涯に何度も出てきますし、後代の歴史の中では「聖母」と神格化さえされるようになるのです。それに対して、ヨセフは舞台から去り、2000年後の「スヌーピーと仲間たち」のクリスマスの場面からも省かれることになるのです。

でも、この出来事を通して、私も、後代の人に、省かれても、忘れられてもいい、ただヨセフのように与えられた使命に忠実に歩ませていただきたい、と思わされました。

2026年もどうぞ、よろしくお願いします。

錦織学

出会いの中で神の愛は実を結ぶ

JCCNJに来て初めての証となります。どの様にして私が神様、イエス・キリストの救いに導かれたか、初心に帰る気持ちを込めて証ししたいと思います。

私は2004年のクリスマスに洗礼を受けました。
当時アリゾナ州ツーソンの大学に留学しており、神様を通して多くの出会いが与えられました。今振り返ると、そのすべてが神様の導きだったのだと確信しています。

留学先で日本語を勉強しているアメリカ人の友人と出会いました。
彼は長身でたくましく、革ジャンを着たワイルドなタイプで、私が思い浮かべる「ザ・アメリカン」な学生でした。でも彼は信仰によって人生を大きく変えられたクリスチャンでした。最初の私はキリスト教や「宗教」という言葉に苦手意識がありましたが、彼の人柄には惹かれるものがありました。

やがてその友人を通して日本語教会の牧師さんと出会い、教会に足を運ぶようになり、断れず(笑)バイブルスタディーにも参加するようになりました。正直最初は気が進まなかったものの、聖書を読み進めるうちに、創造主なる神の存在と、イエス・キリストの愛を少しずつ感じはじめました。

それでもなかなか信仰告白には至りませんでしたが、アメリカ人の友人、牧師さんは神様の愛について語り、私のために祈り続けてくださいました。

牧師さんがいつも語っていた言葉があります。

「人は行いではなく、信仰によって救われる。」

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
ローマ人への手紙 322

自分が何かを良い行いを行ったからではなく、「ただイエス・キリストだけを信じるだけで良い」のだということを教えていただきました。

ある日のバイブルスタディーの後、牧師さんに「神様は耕太郎君のことを心から愛しておられます。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死んでくださった耕太郎君はその愛を受け入れますか?」と尋ねられました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネの福音書 31617

いつもであれば、「いえ、もう少し考えます」とか、「いや、まだ大丈夫です」とか言っていたはずですが、

そのとき私は、「愛されているなら、それをわざわざそれ拒む理由もない」と感じ、素直に「はい」と答えることができました。それが私の信仰告白、そして信仰によって救われた瞬間でした。

“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」”
ローマ人への手紙 10章9~11節

その後すぐ、心がスーッと軽くなり、「自分は神様に愛されている」という平安に満たされました。信じるという行為は思っていたよりもずっと単純で、そして深いものでした。その時、神の聖霊の力が働いていたということは後から知ることになりました。

“ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”
コリント人への手紙 第一 12章3節

クリスチャンになってからも帰国後に教会から離れた時期や、霊的弱さを感じる時期もありましたが、でもイエス様は私を引き戻してくださりました。イエス様を信じることで、私は少しずつイエス・キリストに似た者へと変えられていることを感じています。

私は「君は愛されるために生まれた」という賛美の歌が好きです。その曲の中にある「永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ」という歌詞が今の私の思いをよく表しています。神様の愛を知ることができたのは、すべて神様が用意してくださった出会いがあったからです。

信じたからといってすぐに何かが劇的に変わったわけではありません。けれど「愛されている」という確かな安心感の中で歩むことで、少しずつ私が変えられてきたのだと思います。

あの時、神様の愛を受け入れ、信仰の一歩を踏み出せたことを心から感謝しています。

これからも信仰と愛をもって教会の兄弟姉妹、そして神様共に歩み、神様の愛を伝える出会いの一端を私も担えればと思っています。

<牧師室より>2025年12月「世界で初めのクリスマス」

 12月なりました。ホリデーシーズンに入り、街はクリスマス一色になっています。日本を含めて世界各地で祝われているクリスマス。12月号の月報が届く頃には、ロックフェラーセンターでの大きなクリスマスツリーの前に多くの人々が集まっていると思います。でも、世界で初めのクリスマスはそのような華やかなものではありませんでした。

 今から2000年前、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、まさに世界がBCとADに分かれるその出来事がおこったその夜、最初にそのニュースを聞いたのは町の外で野宿をしていた羊飼いたちでした。

彼らに天使がこのように告げました。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカの福音書2章10~12節)

 救い主の「しるし」・・・それは「目印」であった以上に「象徴」でした。この救い主はどのような意味での救い主か、それは「飼い葉桶に寝かされているような救い主」なのだというメッセージなのです。

 「飼い葉桶」とは家畜がエサを食べるところです。赤ん坊を寝かせるようなところではありません。イエスの母マリヤとその夫ヨセフは客間に滞在することもできず、生まれたばかりの赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かせなければならなかったのです。その飼い葉桶こそが、この救い主がどんな方かを象徴するしるしとなったのです。

 この時期、世の中が華やかになればなるほど、取り残された気持ちになる方がおられるといいます。イエスはそのような方々にこそ届く、救い主として来てくださったのです。そして、私たち一人ひとりの心の中の一番深いところ、一番人に見せられないところに届いてくださる救い主として来てくださったのです。

 今年のクリスマス、そのような本当のクリスマスの意味がひとりでも多くの方々に届きますように。

<集会紹介>「クリスマスイブ・キャンドルライトサービス」(2025年12月号)

 元々、いつだったか分からなかったイエスの誕生日。12月25日に祝うようになったのは、冬至を過ぎて、これから日が長くなっていくことと、暗闇を照らす光としてこの世に来てくださったイエスの誕生が重なるからだと言われています。

「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ書9章2節)

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 クリスマスの前の夜は、このことを私たちが視覚的に経験することができるようにと、キャンドルライトサービスを持っています。

 最初は礼拝堂をできるだけ暗くします。「暗闇」を表すためです。そこにキャンドルの小さな光が入ってきたときに一瞬に暗闇は逃げ去ります。まさに「闇は光に打ち勝たなかった」と書かれているとおりです。その小さな灯火を受け取った人は、その光を隣の人に回していき、光が会堂いっぱいにあふれます。そして、そのキャンドルライトの下で、クリスマスの出来事を記した聖書の箇所を読み、讃美歌を歌います。この日のために備えてきた聖歌隊が讃美歌を歌い、年によっては他の楽器での賛美も入ります。そして、聖書からのメッセージに耳を傾けるのです。

 全体で1時間余りのプログラム。立派なオーケストラも、ドラマチックな演出をする照明もありませんが、2000年前のベツレヘムの馬小屋での世界で最初のクリスマスを思わせてくれる特別な一時です。

今年(2025年)は、12月24日午後5時からです。是非お出かけください。

<集会紹介>「愛餐会」(2025年11月)

「愛餐会」って、教会以外のところではあまり聞かれない言葉ですね。でも、実は多くの教会で使われている言葉です。簡単に言うと、教会の食事会。イエスが人々と食事を一緒にしながら関係を築き、メッセージを語って行った姿にならって、教会でも、いろんな場面で食事を一緒にすることを大切にしています。教会によっては、毎週礼拝後に、食事の準備の担当に当たった方が準備して、一食5ドルとか10ドルを集めて食事をするというところもありますが、私たちの教会では、イースターとサンクスギビング、年に2回、持ち寄りで教会全体の愛餐会を持っています。

 イースターは、イエスの復活をお祝いする日、そして、サンクスギビングは一年の歩みを感謝する日。サンクスギビングデーは木曜日なので、その直前の日曜日にサンクスギビングの礼拝をささげて、愛餐会をしています。礼拝堂で一緒に心からの礼拝をささげた後、地下のジムで愛餐会のスタート。ターキーやハム、フライドチキン、コーンブレッドやマッシュポテトなど、アメリカの定番の料理のまわりに、炊き込みご飯や鶏の唐揚げ、ポテトサラダやそばサラダ、おいなりさんやキムチや中華ちまき、そしてデザートの数々。美味しい食事に自然と会話が弾みます。

 ごちそうをいただきながらの歓談も楽しいですが、全体でのゲームがこの愛餐会の一つのハイライト。企画担当の方が頭をひねって準備したゲームに、子どもも大人も一緒になって、真剣に取り組みます。これには「熱くなりすぎないで~」との声も。また、年によっては、イースターやサンクスギビングにちなんだプログラムが準備されることもあります。去年のサンクスギビングには「今、感謝したい人、もの、場所」など具体的に挙げていって、最後はそれをつなげてチェーンを作りました。挙げていくとたくさんの感謝すべきことがあるものですね。私たちの日々の小さな感謝も、このようにチェーンのように繋がって広がっていくのだと思わされました。

 そして、最後に牧師の聖書からのお話とお祈り。心も体も満たされて、新しく出発します。

 今年も11月23日の日曜日にサンクスギビングの礼拝と愛餐会を持ちます。礼拝が1時半から、愛餐会がその後、3時半から。是非礼拝からおいでいただきたいですが、「どうしても間に合わないから・・・」と諦めないで、愛餐会だけでも。皆さんを心からお待ちしています!

<牧師室より>2025年11月「嵐の中でも」

 10月の終わりから11月の初め、13年前にハリケーン・サンディーがNY地区を襲った時のことを思い出していました。大雨と強風で木があちらこちらで倒れて、停電が広がり、海沿い、川沿いでは高潮で大きな被害が出ました。教会も牧師館もほぼ1週間の停電。停電の影響で暖房も入らず、電気温水器の家だと温水も出ず、寒い日々を過ごしました。でも、あの時、私たちは互いに声を掛け合い、支え合って歩んでいたなあと思います。また、自分たちの電気が帰ってきたときに、より大きな被害を受けた地域に行って、ボランティア活動をしたことも思い出します。

 あの時に比べると、私たちは何倍も穏やかな11月を迎えています。でも、私たちは今、見失っているものはないだろうかと思います。

 あのようなことがまた起こったら良いのに、なんてことは決して思いません。でも、あの、電気も電話もインターネットも、全部止まったその中で、私たちは本当に大切なものは何かを経験していたのだと思います。声をかけてくれる人々の暖かさ、支え合うことの大切さ、共に歩むことの力、そして、誰かのために生きる事の幸いも。

 穏やかな11月と申しましたが、皆さんの中には、穏やかだなんて、とんでもない、今、まさに人生の嵐の中を通っておられるという方々もおいででしょう。このようなことは決して起こってほしくない、ということを経験しておられるかもしれません。でも、そんな中で、思い出していただきたいです。神はそのような困難の中でも、私たちに大切なものを教えてくださるお方だということを。

「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙 5章3~5節)

聖霊様に従って歩む

私が単身でアメリカに来ることを決めた、神様の計画と導きを証したいとおもいます。

私が高校生のとき、ある預言の賜物をもつ先生に祈っていただく機会がありました。
そこで言われた2つのことがすごく心に残っています。
1つ目は、「あなたは将来色々な国に行くようになるでしょう」
2つ目は、「聖霊に従って歩みなさい。そうすればあなたは大きなものを動かすようになるでしょう」

これを言われた時は海外にも行ったことがほとんどなく、ただ神様は自分に計画を持っておられると知って嬉しかったことを覚えています。
そこから数年経って大学でフランス留学をし、その後就職した会社では海外マーケティングの部署に配属され、色々な国に出張する機会がありました。
そんな中で「アメリカ赴任」の話があがりました。

結婚してからも仕事の関係で遠距離をずっと送ってきた私たち夫婦は、その話が出る少し前に、ようやく一緒に暮らせるようになった最中だったので、私だけアメリカに渡るということに、最初はかなり後ろ向きな感情・不安が渦巻きました。
何の不安もなく安心できている場所から、一歩踏み出すということは本当に勇気のいることでした。また夫婦は一緒にいましょうという中、あえて離れる選択をするのは罪なのでは?と思い悩みました。

ただ、これがもし神様の計画だったら必ず祝福があると思い、道が開かれると思い、祈りました。そして、もしこれが御心ではないのであれば完全に道を塞いでください、と祈りました。

祈り始めてから多くの変化がありました。
・同期の仲の良い友達が同じタイミングで同じ場所に赴任することになりました。
・新入社員の時からずっと面倒を見てくれていた上司がアメリカ会社の社長として赴任することになりました。
・現地の上司が不在でかなり負担がかかると聞いていたところに、素敵なドミニカ人上司が入ってきました。
・知り合いがNJ日本語教会の人を紹介してくれました。

他にも私の背中を押すような、不安を和らげるような出来事がたくさん起こり、これは神様の計画なのでは?と思える環境が整えられ、行くことを決意しました。

そして赴任して1年半が経ちました。
夫婦関係は守られ、職場でもクリスチャンの上司が与えられ、祈り合う教会の仲間ができたことに心から感謝します。
ただ最近、自分の力で頑張って苦しんでしまう場面が増え、もっと神様に祈り委ねる、聖霊様に導いてもらう経験をしなければならないと感じています。
アメリカ生活残り半年、もっと神様を見上げて、神様の計画・御心を祈り求めて行きたいです。

最後に私が赴任を決めた際の聖書箇所をシェアします。
「パンをねだる子どもに、石ころを与える父親がいるでしょうか。魚を食べたいという子どもに、ヘビを与える父親がいるでしょうか。いるわけがありません。罪深いあなた方であっても、自分の子どもには良いものを与えたいと思うのです。それならなおさらのこと、あなたの天の父が、求める者に良いものを下さらないはずがあるでしょうか。」
マタイ 7:9-11