説教: 錦織学牧師
聖書箇所 : イザヤ書49章14節〜17節
2014年2月から2017年7月まで、私は会社より派遣されて妻と2人でニューヨークに赴任をしていました。
もともと、海外勤務の希望を出していたこともあり、私自身はニューヨークでの仕事・生活を楽しんでいたのですが、帯同してきた妻は、日本で長年やりがいをもって務めてきた仕事を辞め、知り合いもいないなかで日々を一人で過ごさなくてはいけないという状況でした。
そのような状況の中、ニューヨークでの赴任が1年過ぎたころ突然妻から「ニュージャージーに日本語の教会がある。マンハッタンへの送迎もしてくれるようなので日曜日に教会に行かせてほしい。」と言われました。
自分のやりたいことを通してついてきてもらった妻への申し訳ない気持ちと、せっかくの週末を別々に過ごすこともないだろうという思いから、一緒にニュージャージー日本語キリスト教会に行くことにしました。
妻はもともと、クリスチャンホームに生まれ洗礼を受けておりましたので、礼拝に行くことが普通の生活でありましたが、結婚後は訳あって教会からは離れた生活になっていましたので、礼拝に定期的に参加すること、他のクリスチャンの方と交わりを持つことはニュージャージー日本語キリスト教会が私にとっては初めての経験でした。
それまで、キリスト教、クリスチャンというと(日本人の大半がそうだと思います)よくわからない、特殊な人たちの集まりといったあまりポジティブではないイメージを持っていたのですが、教会の方との交わりを持つ中で、クリスチャンの人々というのは「普通」の人たちであり、否むしろ非常に魅力的で尊敬のできる人々がたくさんいらっしゃることを知りました。私よりも経験を積んだ年上の方、元気いっぱいの10代の若い中高生と世代を超えて1つ同じ価値観を共有して集う時間は他では感じることのできない心地よさがありましたが、特に同年代のクリスチャンの家族との交わりは私の中でキリスト教、クリスチャンに対する印象を大きく変えていきました。たくさんの素晴らしい方々に囲まれながら非常に充実した米国生活をおくることができ、日曜日に教会に通うことが日常になっていきました。
そのような満たされた生活が続いていた2017年、私は社内の大規模なプロジェクトを任され、日本に帰任することとなりました。
帰国後に参加したプロジェクトはすぐに佳境を極め、昼ご飯を食べる時間もろくに取れず、連日終電で帰宅する生活が1年半も続き、精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していきました。
一方で教会生活においては、日本に帰任となった後もニュージャージーで知り合った方々との親交は続き、また日本での教会にも恵まれて引き続き教会につながる生活を送っておりましたが、洗礼を受ける決心はなかなかつかない日々が続いていました。
帰国してから2年目となっていた2019年の2月17日、私は担当していたプロジェクトに関して、役員向けの重要な会議での発表を前にプレッシャーに押しつぶされていました。案件の見積もりは数百億円にもなり、プロジェクトに参加するメンバーは100人を優に超える状況。私のプレゼン次第でこの案件が止まってしまうかもしれないという、18年にわたる社会人生活において経験したことのないプレッシャーの中にあり、初めて誰かに助けてほしいという気持ちでした。
そのような状況だった私に、会議が開始する直前、妻が1通のメッセージを送ってくれました。
「大変な仕事、本当にお疲れ様です。プレゼンうまくいくようにお祈りしてるね。時間があったら、イザヤ41:10開いてみて。God be with you」
すぐにトイレに駆け込み、イザヤ書41章10節を読みました。
“恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。”
この御言葉を読んだ瞬間、それまで疲労とプレッシャーでつぶれたボールのようになっていた私の中に何かが入ってきて、私の心は内側から支えられ、もとのボールの形に戻るような感覚を感じました。
こんなにも力強く、私を励まし支えてくれる神様が妻を通して、本当に必要としているときにその姿を現し私に力を与えてくれたことに、ただただ感謝の思いとともに涙を流しました。
結果、私はプレゼンを無事に終わらせることができ、プロジェクトは無事に先に進めることに関して承認が与えられ、現在はロンドン(ニューヨークの次に経験を積むならロンドンと思っていたので、こちらの願いも聞いていただいた神様はなんと太っ腹なんでしょう)にて、日々発生する問題に対峙しながらも貴重な経験を積ませていただいています。
教会生活としては、1歳の娘を連れて通える教会が多くの方の助け、祈りのもとに与えられたことにも感謝しております。
今回、ニュージャージー日本語キリスト教会にて洗礼を受けるにあたって、多くの方の支え、導き、お祈りがあったことに改めて気が付きました。
ニュージャージー、東京、ロンドンそれぞれの場所で聖書の学びの時間を与えてくださった、錦織先生、福田先生、清水先生。また、同じようにそれぞれの地で交わりを持たせていただいた教会の方々。そして何より、3回の聖書の学びを一緒に受け、日々の生活においては第一ペテロ3:1-2をそのままにそばで支えてくれた妻。
ちょうどうちの子供がヨチヨチ歩き始めたのと同じように、私自身は未熟なクリスチャンですが、ひびだらけの土の器である私からこぼれる神様の光を通して、少しでも周囲の人々に影響を与えられるものとなりたいと思います。
「クリスマスは終わらない」
新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
最後に年末年始を日本で過ごしたのは、もう28年前になりますが、その頃の日本では12月25日には街のクリスマスツリーが一斉に門松に変わったものです。クリスマスが終わると慌てて新年の準備をしていたように記憶しています。今でもそうでしょうか?アメリカにある日本語教会の私たちも、門松は飾りませんが、でも、やはりクリスマスが終わると、慌てて新年の準備をするのは同じかな、と思います。そして、一年を振り返って、新年は新しい気持ちでスタートをします。
しかし、最近思わされるのは、もうちょっとクリスマスの意味を考える時があってもいいのではないか、ということです。こちらの歌で12 Days of Christmasという歌がありますが、それはクリスマスまでの12日間ではなく、クリスマスからの12日間です。1月6日までの12日間です。ですから、今月号でも、もう一回だけクリスマスの話を書きますね。
先月号では(読んでおられない方、忘れてしまった方は、ぜひこちらからご覧ください)、イエスが暗闇を照らす光としてきてくださったことを書きました。キャンドルライトサービスの時もお話ししたように、暗い中、ろうそくを灯すのは、その雰囲気を味わうためではなく、暗闇の中にこられた光であるイエスのことを表すためなのです。
その時に、一人一人がろうそくを持って、火を隣の人から受け取って、また隣の人に回すようにしていただきましたが、それは、イエスの光を私たちが受け取って、また隣の人に受け渡していく、その使命をいただいていることを表しています。イエスは言われました。
「あなたがたは、世の光である。」マタイ5:14
イエスが光としてこの世に来てくださっただけではなく、私たちがその光を受けて、そのともしびを受け取って、今度は周りの人々に手渡していくのです。広げていくのです。あのイブのキャンドルライトサービスの時、一つ一つのともしびの光は小さくても、皆さんに受け渡していったときに、会場全体が明るくなったように、私たちの持っている光は小さくても、それを周りの人々に受け渡していく時に、この世を明るく照らすことができるのです。そういう意味では、クリスマスの日に起こったことは、クリスマスが終わったら、おしまいではなく、続いていくのです。クリスマスは終わらないのです。
教会ではいつでも皆さんを歓迎します。イブだけではなく、新年も、そして、特別な日だけではなく、いつでも、皆さんを歓迎します。ぜひこのともしびのリレーに加わってください!
12月、いよいよクリスマスがやってきますね。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする日ですから、教会では、ここぞ、とばかりに力を入れて、多くの皆さんにおいでいただけるようにと準備をしてお待ちしています。
みなさん、クリスマスというと何が思い浮かびますか?
最近の私は、クリスマスというとイルミネーション、という感じになっています。
毎年、クリスマスの時に、家族や友人とどこか行こうか、となると、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーをはじめ、マンハッタンのあちらこちらでイルミネーションを楽しみ、ブルックリンの Dyker Heightsに繰り出しています。
ふと考えたのですが、もしもこのクリスマスの時期、イルミネーションがなくなってしまったら、どうなるのでしょうか?NYでのクリスマスは、寒くて日が短くて、何か魅力があるだろうか、そう思うほどです。そして、もしも、本当に停電とかで、真っ暗になってしまったら、どうなってしまうんだろうかと。
ニュージャージー日本語キリスト教会では、毎年、12月24日のクリスマス・イブはキャンドルライトサービスを持っています。その時にいつもチャレンジするのは、ろうそくに火を灯す前、どこまで暗くできるだろうかということです。楽器を演奏する方々や、讃美歌を歌う方々の楽譜が見えないと困るとか、入ってくる人の足元が見えないと危ないとか、いろんな問題はあるのですが、その中でもできるだけ、暗くできないだろうか、と考えるのです。それは、イエスがこの世に来てくださったのは暗闇を照らす光のようなものなのだ、ということをできるだけ皆さんに経験していただきたいからです。
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)
本当の暗闇を経験しことはありますか?何も見えない暗闇。目の前に手をかざしてもそこに手があることさえもわからないような暗闇。足を10センチ前に踏み出すことさえ怖く感じるような暗闇。でも、その真っ暗な部屋に小さな小さな光が入ってくる時に、暗闇は消え去って、今まで見えなかったものが見えるようになってきます。そして、どうにもならない不安も消え去って、ホッと一息をつくことができます。
イエスが暗闇を照らす光としてこの世にこられた、とはそういうことです。もしも、マンハッタンやブルックリンのイルミネーションが見に行く機会がなかったとしても、イエスが私たちの心に来てくださるならば、それは最高のクリスマスになります。今年のクリスマス・イブのキャンドルライト・サービスは午後6時から7時15分です。ぜひお出かけください。
私たちの心に、私たちの人生に、イエスの光が輝くクリスマスとなりますように。
As a child, I always had so many questions about the world and I was always thinking about deep concepts like how things were made and what life is about. I loved thinking about the 5 senses and was so amazed at how everything in the human body functioned. I remember when I was in the car, I would look out the window and think Why did God create me? How did he create me? Is there more to life than just… life? It amazes me now, how much I questioned deep things like this at such a young age. But because I had so many questions, I found faith at a young age too, as the Bible had answered a lot of my questions particularly about creation and heaven vs hell. I was baptized at age 9 and I remember how strong my faith was. I was eager to learn more about God and with God because I thought it would help me understand and make more sense of the world.
When I went into middle school however, I looked to the world and became more confused with how broken and terrible it can be. At this point, most of my questions were why does God let terrible things happen? I thought God was good. I didn’t have a relationship with Him, but the little bit of faith in my heart was telling me that God was still good. I knew that he was real and that he was good, but I didn’t have any reasons; I just believed because it was all I knew.
In high school I developed a mindset that a relationship with Christ is one that is an exchange of obedience and reward. I wanted to please him by being a good person because I was afraid of what he would do in my life if I did something bad or committed sin, so I disciplined myself thinking God would love me and give me what I want if I’m good. So when I didn’t get the college results I anticipated, I thought God where is my reward? I have studied and done well in school, why aren’t you giving me the opportunities that I dreamed of? Many friends moved away, and I hated God for it, telling him God you give me wonderful people in my life for just a little bit and then you take them away! What did I do wrong? I became frustrated with God about things that hadn’t gone as I planned, and my prayers became selfish and resentful, blaming God for how miserable I felt when he wasn’t giving me what I wanted. The world didn’t make sense and the Bible didn’t make sense to me anymore. I hated that the world was so broken and terrible and I no longer saw any answers in the Bible that answered my questions of why the world was this way. My life was good, but my faith was almost nonexistent because I walked away from God, thinking my life didn’t make sense with Him in the picture.
Then I went to college where I came across a program called YoungLife, and I walked away from it thinking, I know about God, I don’t need an outreach program to tell me things I already know. But God transformed my heart by sending me to YoungLife camp. The speaker at this camp told a story about his relationship with his 4 year old daughter. He took her to a Disney on Ice show as a surprise for her birthday, dressed up, drove for hours, and bought her overpriced popcorn. During the show he whispers to her daughter, “Guess what?… I love you”. She whispered back, “Guess what?… I want more popcorn!”.
This expresses how my relationship with God had been for 10 years. God had repeatedly told me in my life through his blessings, “I love you”. And the only times I prayed were when things weren’t going the way I wanted. I was ignoring the thousands of times he has told me “I love you” in the events of my life, through nature, through people, and especially through the Bible. I didn’t understand the Bible because I never understood the power and the depth of God’s love. That night I went outside after the meeting and prayed under the stars in the middle of the night and for the first time in my life I went on my knees and I wept to God and prayed to Him for the first time in a long time– a true prayer. And that night I heard Him whisper in my ear, “I love you… you can either choose to live with the world or live with me.”
Choosing to live with God meant that I would live differently than what I desire for myself, but I know that it is better to live for God because I am serving the one who has saved the world! And there is no greater joy than knowing His love and living to share it with others for Him. What humanity wants to hear is that someone loves us, and we are looking for love through other things which results in the brokenness of the world. The world is broken because the world does not know about Jesus! I love Jesus because He loves me, and I want to share that love by loving them the way Jesus did. (1 John 4:19 We love because he first loved us)
I think people get so caught up in how we ourselves and other people are obedient or disciplined based on “religion”, which is what I was guilty of. But in times like this I catch myself and think, Jesus would love them above judging, and God is the only one who knows the condition of anyone’s heart. So I need to love them too, like Jesus does. The Bible is not a book about rules and discipline, but rather about LOVE and what stems from true love.
I was selfish to think that God would reward me for being obedient and disciplined, but now I live in a way that glorifies Him because HE is good, and without Him, I am nothing. I now see God through everything in my life because I have finally given it to Him. He is constantly moving people like He has moved me. He has given me and continues to give me endless opportunities that show His goodness, and it is truly indescribable how much He is capable of doing. I still have little faith, but I am eager and excited to see what God is able to do in my life and to those around me. All my life I had been searching for the world to make sense… and I finally can say with confidence that the world only makes sense when you let God take over your life and show you.
Galatians 2:20: I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.
私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。そして、いつもそのことについて考えていました。例えば、「この世のものはどのように造られたのか」とか、「人生ってなんだろうとか」。自分の五感について考えることも好きでした。そして、人間の体の一つ一つの部分がどのように働いているのかを考えて、感動していました。ある時、車の中で、窓の外を見ながら、「神様はどうして私を造られたんだろう?」「どうやって、私を造られたんだろう?」「生きていること以上に人生にはなにか意味があるんだろうか?」そんなことを考えていました。今、考えてみても、そんな小さい時に、深いことを考えていたんだなあ、と驚きます。でも、私がそんなにたくさん疑問を持っていたからこそ、私は幼い時に、この世界がどのように造られたかとか、天国と地獄のこととか、聖書から答えをもらって、信仰を見出すことができたんだなあと思います。私は9歳の時に洗礼を受けました。そして、私の信仰がどれほど強かったかと思い出します。神様についてもっと知りたいと思っていました。そして、もっと神様と共に歩みたいと思っていました。それによって、この世について、もっと多くのことを知り、もっと納得できると思ったのです。
でも、中学生になった時に、世の中を知っていく中で、それがどれほど壊れて、どんなにひどいものかを見ることによって、混乱してきました。この時点では、私の疑問は「どうして、神様はこんなにひどいことが起こることを許されているんだろうか?神様は良い方だと思っていたのに。」ということでした。私は神様との関係を持っていませんでした。ただ、心の中のちょっとだけの信仰が、私に神様は良いお方だと教えていました。私は神様が本当にいてくださることを知っていました。そして、神様は良いお方だと知っていました。ただ、その理由は何も知りませんでした。ただ、私は全て知っているということだけで信じていたのです。
高校生になって、私はキリストとの関係を「従ったら報われる」という考えで受け取るようになっていきました。良い人間になって、神を喜ばせようと思ったのです。もしも、私が悪いことをしたり、罪を犯したりしてしまったら、神は私の人生にどんなことを与えるだろうか、と恐れ、自分が良い人間ならば、神が私を愛して私が欲しいものをくださると思って、自分を律するようになったのです。ですから、私が大学進学について、願っていたような結果が出なかった時は「神様、私への報いはどこにあるんですか?」「私は勉強も一生懸命やったし、他のことだって頑張りました。どうして、あなたは私が夢見ていたものを与えてくれないのですか?」また、たくさんの友達が引っ越して行ってしまった時にも、私は神様を憎みました。「神さま、あなたは私に素敵な友達を与えてくれました。でもそれは一瞬だけ。すぐに取り上げてしまうんですね!私は何か悪いことをしましたか?」物事が私の考えたように進まないことで、私は神様にイライラするようになっていきました。私の祈りは自分勝手な、反抗的なものになっていきました。自分が欲しいものが与えられない時には、どれだけ自分は惨めかと神を非難するものになっていきました。この世の中には意味はないと思うようになり、もう聖書も納得できるものではなくなってしまいました。このひどく混乱した世界を憎みました。この世界がこうなった理由を答えてくれていたはずの聖書は、もう何も答えを与えてくれないと思いました。生活はうまく行っていました。でも、私の信仰はもうほとんどないも等しいものになってしまっていました。神様から離れて、神様と共に歩む人生には意味がないように思っていました。
そして、大学に進みました。そこで「YoungLife」という働きを知りました。しかし、それに関わろうとは思っていませんでした。「私神を知っている。もう私が知っていることについて教えてくれるプログラムなんて私には必要ない」と。しかし、神は私の心を動かしてくださって、私を「YoungLife」のキャンプに導いてくださいました。そのキャンプで、メッセンジャーが4歳の娘との関係を話してくれました。彼は、誕生日のサプライズで娘をディズニーのアイスショーに連れて行ったそうです。綺麗な洋服を着せて、何時間も運転をして、ばか高いポップコーンを買って・・・。ショーを見ている時に、彼は娘の耳元でささやきました。「パパの気持ちわかる?・・・パパはお前を愛しているよ!」と。そうしたら、娘がささやき返しました。「私の気持ちもわかる?・・・もっとポップコーンちょうだい!」
この話は、まさにここ10年間の私と神様との関係を表していました。神は何度も私の人生で神様からの祝福をもって「私はあなたを愛しているよ」と語ってくだいました。私が祈ったのは、物事が願ったように行かなかった時だけでした。神様は、人生の中のいろんな出来事を通して、自然界を通して、人々を通して、そして、特に聖書を通して、私に何千回も「私はあなたを愛しているよ」と言ってこられたのに、私はそれを無視してきたのでした。私は神の愛の力も深さもわかっていなかったので、聖書のことを理解できないでいたのでした。その夜、集会の後、私は外に出て、夜空の星の下、祈りました。人生で初めて、ひざまずいて神に泣いて祈りました。久しぶりに心からの祈りを神にささげました。その夜、神は私の耳にささやかれました。「私はあなたを愛しているよ・・・あなたは、この世と共に歩むか、私と共に歩むか、選ぶことができるよ」と。
神と共に歩むのを選ぶことは、私が自分が願ったものとは違った生き方をすることです。しかし、神様のために生きることの方がいいことはわかっています。それは、この世を救ってくださった方に仕えることなのですから。そして、神様の愛を知って、それを他の人々に分かち合っていくことよりも大きな喜びはありません。人はみんな、誰かが自分を愛してくれている、ということを聞きたいものです。そして、私たちは壊れてしまったこの世界の中のものの中に愛を探しています。この世界はイエスを知らないが故に、壊れてしまっているのです。イエスが私を愛してくださっているが故に、私はイエスを愛しています。そして、イエスが私を愛してくださった愛で、この愛を伝えていきたいのです。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(第一ヨハネ4:19)
人々にとって、自分や他人が「宗教」に従うことや、戒めを守ることが大切です。私もそうでした。しかし、イエスは人々をさばくよりも愛してくださったのです。そして、人の心を知っておられるのは神だけです。ですから、私もイエスが人々を愛したよう愛するのです。聖書は規則や戒めについて書いている本ではなくて、愛についての本であり、本当の愛から生まれたものについての本なのです。
私は神に従って戒めを守っていれば、神は私に報いてくださるのだと勝手に思っていました。しかし、今は、神は良いお方だから、神の栄光のために生きたいと思っています。そして、神抜きでは私には何もありません。今、私は人生を神様にささげて、人生の全てを通して神を見ています。神様は私を変えてくださったように、人々を変えてくださいます。神様は、神様が良いお方であることを表す機会を私に与えてくださっています。与え続けてくださっています。神様の全能の力は語り尽くせません。私の信仰はまだまだ小さいです。しかし、神様が私の人生や周りの人々の人生にどんなことをしてくださるのか、楽しみです。ここまでの人生の中で、世界にはどんな意味があるのか、それを求めてきました。そして、今、自信を持っていうことができます。あなたが神に人生を明け渡す時に、その意味が見えてくるということを。
ガラテヤ2:20
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
私が一日で一番好きな時間は、夜寝る前の数分間です。体を横たえ、枕に頭を沈めて目を閉じると、ふわっと疲れが取れていきます。すると、頭の中をいつも同じ歌がめぐります。「今日も一日、主から受けし多くの恵み・・・たたえても讃えても、たたえ尽くせない♪」。
感謝できることを数えて一日を終えるのは、心安らぐひとときです。良いことがあったから感謝する。願い事がかなったら感謝する。ではなくて、感謝できることは日々たくさんあります。眠る場所がある。朝から無事に過ごせた。家族がいる。小さいことから大きいことまで、探せば溢れるほど出てきます。毎日、同じことでもいい。それだって、取り去られてみると、どれ程、ありがたいことだったかと思うものです。
私にとって一番感謝すべきことは、クリスチャンとして歩ませていただいていることです。信仰がなければ、独りよがりな生き方をしていたでしょう。信仰がなければ、迷ってばかりで心休まらず、何かを選んだとしても後から悔いる人生を送っていたことでしょう。世の中の不条理をなげき、不平不満をいつも抱いていたかもしれません。
私がクリスチャンになったのは、アメリカに来て5年目の冬のことです。かれこれ25年以上も前になります。それまでは、宗教とは全く無縁の生活。仏壇も神棚もない家に生まれ育ち、興味も持たないまま成長しました。そんな私に何が起こったか。今、思い返すと本当に不思議です。
当時、私は学生でした。冬休みに一時帰国する日本人の知人がいて、その人のアパートに寝泊まりして猫を世話することになりました。寒い冬。休みで退屈な毎日。アパートにこもりきりになって、部屋にある日本語の本を読み漁りました。文学専攻だった知人は数多くの本を持っていて、日本の書籍は値段が高くで買えなかった私は、この時とばかり片っ端から読んでいきました。
その中でひときわ心に残った本が一冊ありました。女流作家、三浦綾子さんが西村久蔵という人の生涯を描いた本でした。北海道に暮らし、十代のころクリスチャンとなり、のちに洋菓子店を創業した主人公は、事業に失敗したり裏切りにあっても、人を憎まず神を恨まず、人と神を信じ続けたのです。しかし私を圧倒したのは、愛娘を亡くしてもなお、神様への信仰を捨てないでいる姿でした。事業は失敗しても建て直せる。金銭は失っても取り戻せる。でも、いったん死んでしまった人間は生き返らない。戻ってこない。もう会えない。それなのに、どうして、この人はまだ神様を恨まずにいられるのだろう。神様に背を向けずにいられるのだろう。何が、この人を支えているのだろう。その日から、私の神様探しが始まりました。
ほどなく、近くの神学校に通う日本人留学生と知り合いになり、聖書の学びがスタートしました。他州から月に一度きてくださる日本人の牧師先生の聖書メッセージを聞きに出かけることもありました。読めば読むほど難解な聖書。湧き上がる疑問の数々。とくに、聖書に出てくる数多の奇跡はキリスト教を私から遠ざけました。死んだ人が生き返るなんてあり得ない。十字架にかかって墓に葬られ、3日後に蘇ったとされるイエス・キリストは架空の人物としか思えない。非科学的で非常識な考えと決めつけ、到底受け入れることはできませんでした。
もうひとつ、私がひっかかっていたのはクリスチャンの捧げる祈りでした。なにかあると「祈りましょう」、事あるごとに「祈っています」。聞くたびに、心の中がもやもやっとしました。「棚からぼた餅」ではないけれど、苦労しないで好運を得ようと願っているような、他人にたよって物事を成そうとする「他力本願」のような、虫のいい態度に見えました。
それがある日、聖書に出てくる何百歳まで生きたという人々の年齢を「あり得る」と思えた瞬間から、「聖書に書いてあることは全て真実」と信じられるようになりました。オセロゲームで黒いコマを一つひっくり返すと、パタパタパタ、、、とあっという間に白いコマが広がっていくように、小さな“真実”を認めた瞬間、私の聖書観は一転しました。イエス・キリストは実在した。聖いお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかかられた。人はみな生まれながら罪がある。キリストの死によって人間は神様との関係を回復できた。キリストは復活して今も生きておられる。そのお方を信じると永遠のいのちを受け、クリスチャンとして歩みだせる。
あれから四半世紀。人生の半分以上をクリスチャンとして歩むうちに、祈りは呼吸となり、祈りはわたしの命綱となりました。祈りは決して、神様に「おんぶに抱っこ」する行為ではありません。私は祈りを、例えて言うなら「人事を尽くして天命を待つ」ことだと考えます。人にはそれぞれ与えられた仕事があります。一人ひとり違い、その時々で変わります。小さいころは遊ぶのも仕事、学校に上がれば勉強が大切、就職したら責任をもって仕事に打ち込む。結婚したら女性は妻になり、出産すれば母親となる。どの段階においても、すべきこと、大切なことがあります。神様が授けてくださっている自分のお役目をきちんと果たした上で、あとはお任せする。全幅の信頼を寄せてお預けするのが祈りの真髄だと思っています。
私の好きな詩に「ニーバーの祈り」があります。
「神よ、変えられないものを静かに受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変えていく勇気を、
そして、この2つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」
祈ったあとは安心して先行きを静観できるのです。静観どころか、神様のしてくださることを想ってワクワクします。神様は最高・最良のものを最善の時に下さると知っているからです。
先日、市民権を取るための手続きを始めました。順調にいけば来年6月にはアメリカ市民になれるそうです。迷うことも気負うこともなく、すうっと始めた手続き。神様が用意してくださっている道なら次々と扉が開かれていくし、そうでなければ不思議と閉じられる。一歩踏み出すのは自分の仕事だけれど、あとは神様にお任せ。ひとたびお任せすると、あとはどっしり腰を据えていられます。むしろ、「この時期に市民権を取ることになったのは、どうしてだろう。」「この先に神様がなにを用意してくださっているのだろう。」先のことを楽しみにしながら次の段階を待っています。
市民権がとれたら、自分が何者であるかを表す言葉がひとつ増えます。アメリカ国籍を取得した日本人。日本は二重国籍を認めていないそうなので、私の日本国籍は事実上なくなります。そういえば、市民権の申請用紙に名前変更の欄がありました。おもに、結婚や離婚で苗字が変わる人のため欄だと思うのですが、一瞬どきっとしました。かつてアメリカに移民してきたユダヤ人の方々が、その出自を隠すために名前や苗字をアメリカ風に変えたと聞いたことがあります。ここで名前を変更したら、なんだか自分がまったく別人になるように感じられました。その時、私には決して取り去られることのないアイデンティティがあると強く意識しました。それは「私はクリスチャンです。」ということ。それは、私が今もこれから先も、一番大切にしたいアイデンティティです。
「自分も!」と共感してくださる皆さんがたくさんいることを信じて書くのですが、私はよく物を探します。出かけ間際には、お出かけ3点セット(財布、携帯、鍵)をしょっちゅう探して、歩き回っているので、家族には呆れられています。どうしようかとずっと悩んでいたのですが、何ヶ月か前に、この問題を解決しようと、携帯から呼び出せるタグを鍵と財布につけました。反対に携帯が見つからない時には、何とタグの方から携帯を呼び出せる「スグレモノ」です。これで、合計何時間もの時間が節約できています。でも、なぜか、何度も探したところや、自分の立っている目の前でタグが鳴ったりするんですね。不思議なものです。
でも、見えているのに見ていない、ということでしょうか?目には入っているのに、焦点が合っていないということでしょうか?人間はそのようにできているのだと思います。考えてみると耳もそうですよね。目の前の人の声よりも、遠くで自分の噂をされている声の方がよく聞こえるものです。どこに焦点を合わせるかによって、見えるもの、聞こえるものが変わってきます。
私たちの心もそうです。どこに焦点を合わせるかで、感じることが変わってきますし、心の状態も変わってきます。聖書はこのように語っています。
「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ人への手紙 4章8節
私も「もう11月になるなあ、サンクスギビングがやってくるけれど、何を感謝しようかなあ」と感謝すべきことに目を向けた時に、「あ、そういえば、あんなことがあった」「こんなことがあった」といろんなことを思い出してきました。残念なことに、それは自然にはなかなかできないことです。つい、納得いかないことや、困ったこと、がっかりすることや、心配なことに心が向いて、それに心が支配されてしまうものです。そんな時には、上の聖書の言葉の直前にこんな言葉があります。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙 4章6~7節
ひととき静まって、心の焦点を合わせ直しませんか?愛すべきこと、感謝すべきこと、喜ぶべきこと、そこに焦点をあてて、感謝しつつ、歩んでいきましょう。
「わたしは〜である」というのをできるだけたくさん、最低でも10個以上は書いてください、と言われたら、皆さんはどんなことを思いつきますか?「私は牧師である」「私は夫である」「私は父親である」「私は日本人である」「私は錦織学である」「私はクリスチャンである」・・・自分で書いてみると、自分が自分のことを何者だと思っているか、自分が無意識のうちに何を大切にしているのかが、わかってきます。まず「肩書き」や「勤務している会社名」が思いつく人、「母親」「父親」と、「親」が最初に出てくる人、「夫」「妻」が出てくる人(ちなみに、お母さん方で「母親」より先に「妻」が出てくる人はなかなかおられません・・・)、「日本人」「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「関西人」と国籍や民族、出身地が出てくる人、「男」「女」とジェンダーを思いつく人、それぞれ、自分が何を大切に思っているか、それが現れてくるのです。私もまず「私は牧師である」と最初に出てくる、ということは、いつの間にか、「職種」「肩書き」が自分のアイデンティティーの中で、大切なものになっているんですね。皆さんはどうでしょうか?
でも、よく考えてみると、職種や肩書きは、自分という人間の一番大切なものではないですよね。たとえそれを失ったとしても、私は私でなくなってしまうわけではない、だから、もっと自分の存在深くに関わっている「私はこれだ」というものがあるのではないか、そのように思うようになりました。
私自身の存在深くに関わっている、大切な「私は〜である」は、なんだろうか?これがなくなったら、自分が自分ではなくなってしまう、そういうものはなんだろうか?そう考えた時に、「私は神様に愛されている者である」と言うことができるなあ、と思います。他の全てを失ったとしても、これだけは変わらない、自分自身と分けることなど決してできない、自分の一番深いところにあるアイデンティティーです。そして、これがあるから生きていける、そのように思わされます。
そして、これは、すべての人々に与えられているものなのだと語ります。
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ヨハネ3:16
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ5:8
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」第一ヨハネ3:16
あなたもまた、神様に愛されている方です。
私が2~3歳の頃に両親が救われ、家族で教会に通い始めました。教会には同じ年代の子どもたちが大勢いました。当時の記憶は沢山はありませんが、ひとつはっきりと覚えていることがあります。教会学校で先生がイエス様のお話をして下さった後、質問をしました。「イエス様のことが大好きなおともだちー?」次の瞬間、周りの子どもたちが皆「はーい!」と元気よく手を挙げたのです。私はびっくりして戸惑いました。…聖書からイエス様の話をきいて、聖書もイエス様も本当だとは思う。イエス様は神様の子であり、よいお方で、すごいお方だとも思う。でも…“大好き”? 私はその時、自分がイエス様のことを毎週学んでもイエス様に「大好き」という感情を持っていないことに初めて気づかされました。急にまわりのお友達がまぶしく見えました。どうしたら、他のお友達のように「イエス様を大好き」になれるのだろう、イエス様を信じているなら大好きになるはずだし、なるべきなんだ。ならなくては…。でも、聖書のお話をいくら聞いても読んでも、心に残る箇所といえば、弟を殺してしまうカインとか、妬みと恐れに駆られるサウル、神の箱を触ってしまうウザ、群衆の声に押されてイエス様を十字架につけるピラト、そしてイエス様を裏切ったことを後悔して絶望するユダなど…。子どもながらに彼らの物語はとても残念で切なく、彼らが今頃は暗い黄泉で「泣いて歯ぎしり」しているのかなと想像し恐ろしく思いました。一方でダビデやマリヤなどは幸運な人だなと思いました。教会学校の先生方の意図に反して、自分もダビデやマリヤのように神様に愛される神の家族になれるとは思えず、将来には泣いて歯ぎしりしているような予感がしてなりませんでした。
小学校に上がると、夏のキャンプなどをきっかけに同年代の子どもたちは次々に神様との関係を深めているようでした。さっきまで一緒にふざけていたお友達が、夜のキャンプファイヤーで聖書のメッセージをきいた後に涙を流して悔い改め、イエス様の十字架を喜んで「もっとお祈りしたい」「まだまだ賛美したい」と先生にせがんでいる姿にショックを受けました。…私もこんな風に神様に出会わなければならないんだ。でもどうしたら神様と「出会える」のか分かりませんでした。お友達のほとんどは小学生のうちに受洗し、私も先生に受洗を勧められましたが、受ける気持ちになれません。…先生は私をクリスチャンとして見てくれている。でも神様の目から見て、私はどうなのだろう。私は神様を信じているのか、愛せているのか、そう神様は認めて下さっているのか自信がありませんでした。学年が上がるにつれて自分の罪がたくさん見えるようになり恐ろしさやふがいなさでいっぱいになる一方で、さらにその罪深さにいくらでも開き直れてしまう心、私のための十字架や復活という言葉も心を素通りするような、神様を畏れられない自分の心をどうしたらよいか分からず、先生にも説明できませんでした。
こうして「洗礼準備クラス」を3~4年程も受け続けたある日、ヨハネ20章のイエス様とトマスのやりとりの箇所が目に留まりました。…トマスもイエス様に呼ばれ弟子として共に長く過ごしていたのにイエス様が分からなかったのかな。ヨハネのようにイエス様に寄りかかったり、ペテロのように積極的にイエス様に近づこうと水の上を歩こうと思いつかなかった。12人の最前列ではなく他の弟子達の背中越しにイエス様を見ることが多い人だったかもしれない。でも、復活のイエス様に出会い損ねた時、やっぱり人越しではなく自分でイエス様と出会うことの必要や勇気、出会いたいと願う気持ちが爆発したのではないか。トマスがそうでなくても私はそうだと気づきました。私も他の誰かの背中ではなく、イエス様の前に行き、イエス様と向き合わなければならない、イエス様が私に与えて下さった信仰で、イエス様が私に与えて下さった道を歩み始めなければならないと思いました。そうして中学2年の時に洗礼を受けました。
その後も、時に同年代の教会の友人達の姿がまぶしく見えることはたびたびあり、聖書の約束が自分だけうまく実を結ばないと焦っては努力したり失敗したり、委ねてみたりあがいてみたり…を繰り返すような不信仰生活でしたが、やがて成人し、今や宣教師や牧師などそれぞれの場所で神様に仕えるようになった友人達と共に子ども時代を過ごせたことは神様からの大きな祝福だったと思えるようになりました。また、私を造られた神様は、私が本当は何が好きで心地良いかを知っておられ、実際にその道へと導いてくださっていることを実感し始めました。一度きりの人生、クリスチャンたるもの一生独身で宣教の働きに、などと若い決心で意気込んでも、いざ岐路に立たされるとその道を捨てて結婚を選んだ時は神様にうしろめたい思いがありましたが、結婚式の次の日に新居から外に出たときに、目の前に見える比叡山にくっきりとした半円の虹がかかっているのを見て、ふと、神様がこの道も許されておられること、この道を確かに用意され、共にいてくださると感じました。次の日曜に初めて主人の教会の礼拝に一人で出席する時も、前の教会との宗派や雰囲気の違いに戸惑いもあり不安な気持ちで向かっていましたが、行きの電車の窓から琵琶湖にかかる鮮やかな虹を通して、神様はもう一度私を励まして下さいました。
数年後、不思議な導きでアメリカに滞在することになり、そこでの3年間で神様は私のひそかな願い、神様の益になるものではなさそうなので祈りもしなかったような願いをことごとくかなえて下さいました。学生時代から憧れていたNJ日本語キリスト教会に通うこともそのうちの一つで、兄姉とのお交わりや学びもただただ楽しく、私は次第にこの神様のお計らいに何か意味や意図を見出さなくてはならないのではと思うようになりました。ただ感謝していて大丈夫だろうか、この滞在期間中にどんなことを学んで成長すべきなんだろう、などと楽しさと焦りが入り混じる日々が続きました。そんな帰国の迫るイースターの礼拝で、錦織先生がイエス様とトマスの描かれた絵を見せて下さいました。トマスを見ると自分に重ね合わせるクセのある私は、その絵の中でトマスがイエス様の十字架の傷にずっぷりと指を差し込んでいるのを見て、私の姿だと思いました。
信じないものにならないで、信じるものになりなさい、と今まで導いて下さった神様は、さらに、恐ろしくも十字架の事実を聞くだけでなく十字架の刺し傷までさわらないと分からないような私に、心ゆくまでと向き合って下さっているんだ。ことばによって信じられないのならわざによって信じなさいと、私の不信仰や愛のなさ、鈍感さと傲慢さをご存じの神様は、私の成長を上からご覧になっていたのではなく身をかがめてでも私がさわれるように付き合って下さっていたのだと感じました。自分の出来のなさを受け入れていないのは自分だけで、神様はあらゆる方法で私を「信じる者」の人生へと導いて下さり、そのための必要を満たし、愛を私に分からせようとして下さっているのだと思いました。トマスがあの時告白したようにイエス様は「私の主、私の神」なのだと分かりました。
アメリカ滞在中の3年間、特に教会の兄姉のご親切や交わりを通して神様が下さった大きな恵みを、どれだけ今後の人生でお返しできるのか自信がありませんが、神様の一方的な愛をたくさん経験することができて、ただただ感謝です。感謝しつつ、きっとまた時々行きつ戻りつしながらも…、神様が用意して下さる道を神様と共にこれからも歩んでいたいと思います。
「蒔かれた信仰の種」
第2次世界大戦が終わり、数年が経ち、復興途中にあった京都にヨーロッパから2人の女性宣教師が来日しました。祖国での優雅で便利な生活を捨てて、日本人へ福音を届けたいという二人の熱い思いと祈りによって京都で伝道が始まりました。最初は高級住宅街の集まる北区で伝道が始まったのですが、より市民の集まるところへという思いから、下京区に拠点を移し、そこで開かれた土曜学校に父が導かれ、信仰を持ちました。
数十年後滋賀県の大津で家庭集会を始めた父はやがて母と結婚し、両親は地域の人を招いては伝道を続けてきました。私は、クリスチャンホームで育ったため、子どものころから「聖書は神の言葉であること」、「イエス様が私の罪のために十字架にかかって下さった」ことを信じて疑いませんでした。素直に、聖書の御言葉を受け入れることができたのも、多くの兄弟姉妹からの祈りの支えがあったからだと思います。
毎年クリスマスの時期になると、京都での働きを終えイギリスへ帰国した宣教師に手紙を送っていました。いつも丁寧な返信をくれ、そこには私たちのことを覚えて祈っていると書いてくれました。その言葉が子ども心に私の信仰を支えてくれました。
「聖地旅行」
小学校5年生になった冬休み、教会のメンバーと一緒にイスラエル旅行へ出かけました。初めての海外旅行。ドキドキワクワクしながら関西国際空港から出国しました。イギリスまで12時間、空港で6時間待ち、イスラエルへ6時間。合計24時間のフライトでした。長距離移動&時差ボケで、テルアビブ空港に着いたときは入国審査を待つ列で思わず座り込んでしまったのを覚えています。しかし、現地は朝の6時。ホテルで休むわけもなく、すぐにバスに飛び乗ってイスラエル各地を見て回りました。ガリラヤ湖、エルサレムなど、小さいころから聞いてきた聖書の舞台が次々に現れ、今もその光景が目に焼き付いています。この経験を通して、聖書の御言葉がより具体的で現実的なものへと変わりました。
「受洗」
中学・高校はソフトテニス部で活動しました。心は神様から離れていたわけではありませんが、中高の6年間は試合などで教会に行かない時が増えていた時期でした。周りはスポーツで勝つこと、よい成績を獲ることが大きな価値観である中、自分の人生にはどんな意味があるのか。信仰を持つとはどのようなことかをぼんやり考えていました。高校3年の時に大学受験に失敗した私は、高校卒業後、浪人をしました。それまで次の目標、次の目標と追い回されるように過ごしてきた人生で初めて。自分とじっくり向き合い将来についてじっくり考える大切な一年となりました。当時はクリスチャンとして歩むことの窮屈さや教会生活への反発から、洗礼を受けていませんでした。一人で毎日聖書を読み、信仰生活を守れば良いと考えていた私に、神様は「神の群れの中に入り、私に仕えなさい。」と語り、次の御言葉を与えてくださいました。
『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6-7節
受洗することは、神様に従う第一歩だという確信が与えられ、受験勉強渦中でありましたが、同時に洗礼準備クラスをお願いし、数か月の準備期間を経て、洗礼にあずかることができました。
「従弟からの一通のメール」
大学に入学し、私のクリスチャン生活もスタートしました。私の周りには、信仰に命を懸けている信仰の篤い先輩が多く、聖書の読み方や教会への仕え方、メッセージの仕方など、ビシバシとトレーニングしてくださいました。そんな大学生活も一年が終わろうとしていた頃、従弟から一通のメールが入ります。
「プロテスタントのクリスチャンが集まる全国集会があるらしいけど一緒に行かへん?」
それまで、自分の教会のグループのキャンプしか参加したことがなかったので、クリスチャンが多く集まる集会には興味がありました。
そこで「いいけど、申し込みの締め切りはいつ?」と返信すると。
「締め切りは今日!!今日中に〇〇の口座に33000円振り込んで!!」
おいおい、振り込め詐欺かと思いましたが、まだクリスチャンになっていなかった従弟がせっかく誘ってくれているので、その足でATMへ向かいキャンプ代金を支払いました。
この日の振り込みが、その後の人生を大きく左右することになります。実はこのキャンプが3年に一度行われるキリスト者学生会(KGK)の全国集会でした。5日間行われたキャンプで従弟ははっきりと信仰告白をし、洗礼を受けることができました。また私にとっては、このKGKとの出会いを通して、その後KGKと強く関わっていくこととなります。初めて、他の教団の人と一緒に聖書について話をすることは、とても新鮮な体験でした。熱く語り合い、共に祈り合う仲間が与えられ、出会った信友との交流は今も続いています。
「就職」
大学卒業後は教員になることしか考えてなかったので、大学3・4年生になっても就職活動は一切せず、また受験生のように教員採用試験勉強をしていました。そんな中、KGKの主事からの薦めもあり、金沢にあるキリスト教学校へ就職します。初めての仕事と一人暮らしとで最初は慣れませんでしたが、同僚や北陸地区のKGK友人、教会のみんなに助けられて楽しく仕事をスタートしました。
就職した学校は毎朝礼拝から始まる一日でした。生徒と一緒に御言葉を聞き、一日を始められるのはこの上ない幸いなことでした。また毎月講壇から全校生徒へ御言葉を語ることができることもすばらしい経験でした。「多くの子どもたちに福音を伝えたい」という、その夢がかなった瞬間でした。教科を教えることの他、キリスト教も中心になって仕事をさせてもらい、充実した日々を送ることができました。
「京都へ」
金沢での生活が3年目を迎えた頃、母親が体調を崩し長期入院しました。これをきっかけに、実家に戻ることを考え、京都の公立の教員採用試験を受け直し、京都の公立へ再就職しました。金沢を去るときは後ろ髪をひかれる思いでしたが、神様はこのことを通して新たなステージを開いてくださいます。
関西に戻った私は、学生時代にKGKで共に過ごした信友たちと再会します。その一人に妻の優子がいました。数年後、結婚に導かれ、京都での新しい生活が始まりました。
比叡山がよく見える部屋で、毎朝聖書を読んで一日をスタートする結婚生活が始まりました。私たちが住んでいたのは、地球温暖化防止京都会議で京都議定書が制定された国立京都国際会館のすぐ近くでした。
数年後、2013年10月、国際会館でエンパワード21全日本大会という大きなクリスチャンの大会があると聞き、大会の最終日に部活が終わったあと、ちょっと寄ってみるかと軽い気持ちで訪ねてみました。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/12147/20131014/news.htm
会場には2000人ほどのクリスチャンが集まっていました。あまりの人数に驚かされると共に、伝統的な教会で育った私にとっては、聖霊派の先生方のメッセージや祈りはとても新鮮で心にストレートに伝わってくるものでした。賛美と祈りと熱いメッセージで燃やされた後は、派遣集会が持たれました。全員が1列に並び、一人一人メッセンジャーから額に油を注がれ、それぞれの場へと再派遣されていったのです。
その時は何も感じませんでしたが、後から振り返ると、この時をきっかけに私たち夫婦は新たな導きの波に乗りました。
「滋賀に引越」
エンパワード21が終わると、不思議と滋賀の不動産情報がたくさん手元に集まるようになりました。当時京都から滋賀の教会へ通っていたので、ちょうどよい機会だと思い滋賀に家を探し始めます。そして、通っていた教会の近くによいマンションが見つかり、そちらへ引っ越すことに決まりました。
引越をして半年後、子どもが誕生し3人での新たな生活がそこで始まりました。忙しくも楽しい日々でした。私たちのマンションは教会から近いこともあり、いろんな教会員の方との交わりや相談の機会を持つ場所を提供することができました。
「アメリカへ」
当時、滋賀の教会は試練の時を迎えていました。開拓から10年ほど経ち様々な問題が教会内で起こり、教会員の愛と信仰が試される時期となっていました。私たちもその渦中で心身共に疲れ切り、どうにもできないことにただ祈り、待つしかできませんでした。そんなときに不思議にアメリカ行きが決定します。
バタバタと準備が始まり、2016年3月に家族3人で渡米しました。渡米先には妻がずっと行きたかったニュージャージー日本語教会が家からすぐ近くにあるということがわかり、渡米3日後から教会に通わせていただきました。アメリカでも主にある兄弟姉妹と日本語で礼拝できる機会に恵まれたのは、本当に感謝なことでした。またスモールグループでは錦織先生を通して、どのように生活の中で神様を知り、神様との関係を深めていくかについて学びをしました。日本でずっと奉仕に追われてきた私たち夫婦にとっては、大切な学びであり、その後の信仰生活にとって大きな財産となりました。
Perspective World Christian Movementという非宣教地域、他宗教への伝道の学び会に参加しました。そこでは、50人ほどの参加者と共に、聖書に基づいた福音とは何か、異文化へのアプローチ方法、教会形成など実践的な学びをしました。そこで気づかされたことは、日本は世界で最も福音伝道の進んでいない地域の一つだということです。世界宣教について共に学ぶ中で多くのアメリカ人が真剣に、熱く日本のために一緒に祈ってくれました。アメリカから日本を見ることを通して、日本への福音の必要性を再認識することができました。
「日本へ」
3年間のアメリカ滞在を経て日本へ帰国しました、改めて思うことは、これまでもこれからも私の人生は主が導いておられるということです。主はご自身の計画の中で私を生かし、訓練し、導いてくださいます。どのような導きに対しても、主が共におられるので、ただ私は信頼して歩むことができます。これから日本で主に仕えていくなかで、ただ主の栄光だけが輝くことを祈りつつ歩めたらと思います。
ニュージャージーでの主にある兄弟姉妹との愛の交わりを感謝します。教会のお働きが益々祝福され、多くの方が主に出会うことができますように。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』詩篇119篇105節
♫ わくわく・・・どきどき・・・うきうき・・・どきどき・・・
お金じゃ買えないものってあるよね〜♫
今年も8月の初めのJOY JOY キャンプでは子どもたちの元気な声が教会のジムにあふれました。今年のテーマは「わくわくタウン2」。教会のジムに突然現れた不思議な町で「〜のためにどうすればいいか?」という使命を受けて、買い物をする、という設定です。18年前の「わくわくタウン」が楽しかった、という声を当時の子どもたちから聞いて、いつかもう一度JOY JOY キャンプのテーマにしたいと考えてきて、今年ついにそれが実現!今年も「買い物の時間」は大盛り上がりでした。私は個人的には「探検」とかをテーマにしたほうがいいんじゃないかなあと思うのですが、何で子どもたちは、そんなに買い物が楽しいのでしょうかね。一説には「いつも、お父さんやお母さんが買い物をしているのを見てるけど、お金とかさわれないし、『自分ももっと自由に買い物したい!』と思っているんじゃないかな?」ということですが、さて、どうなんでしょうか?
今から50年くらい前、私が子どもだった頃は、教会はたくさん子どもであふれていました。クラスの中でも必ず何人か、友達が教会に来ていたものです。そして、みんなで聖書を覚えたり、休まないで来たりすることを競ったものです。でも、いつ頃からか、教会に来るのは、ほとんどが、「親が来ているから」という子どもたちになりました。他の子たちには教会は「関係のないところ」になったのです。「テレビとかゲームとか、他の楽しいことがあるから・・・」と言われたりするのですが、もしそうだったとしたら、それは他の楽しいことに負けている教会の問題でしょう・・・ということで、とにかく楽しいプログラム、そして、でも、楽しいだけでは終わらない中身のあるプログラム、をと考えてきました。子どもも大人も、楽しいことって、大切ですよね。でも、楽しいだけじゃ物足りなくなる。だから、これからも、本当に楽しい、本当に心に届く働きを続けていきたいと思います。
今年も思ったのですが、もしかしたら、今年のJOY JOY キャンプに来た子どもたち、会うのがこの時だけかもしれない、もしかしたら、来年は都合が悪くなったり、日本に帰国したり、他の地に引っ越したりして、もうJOY JOY キャンプには来られないかもしれない、そう思うと、何としてでも、「十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったイエス様」「そこまでして、私たちを愛してくださる神様」のことを話さなければ、と思うのです。そのことをなんとか伝えたい、子どもたちの心に残るものとして受け止めてもらいたい、そのように思うのです。これから、いろんな楽しいこともある、でも、それに負けないくらいの、辛いことや悲しいこと、やるせないこと、悔しいこと、全てを投げ出したくなること、そんなことを経験するだろう子どもたちに、「神様は、君のことを本当に大切に思っているんだよ」ということをわかってほしい、わかって、何かあった時に、また「教会に行ってみようかな」と思ってほしい、そのように思って準備してきました。
「わくわくタウンで買い物する」という毎日だったのですが、でも、本当に大切なものはお金では買えない。目にも見えない、そして、その大切なものを神様はくださるんだよ、と子どもたちにお話ししました。伝わったかなあ、どうかなあ、と思います。なんとか、子どもたちの心の中で、その聖書の言葉の種が、芽を出し、実を結ぶ時が来ますように。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4:18
秋からも、教会の働きはそのことを伝えていく、また表していく、生きていくことが中心になっていきます。一人でも多くの方に、この神様の愛が届きますように。
「今度の土曜日、こちらの公園の南口で、うちの息子がお話をするから、ぜひ、来てくださいよ」
それは、20年以上お会いしていなかった友人の誘いでした。私がサバティカル休暇期間中、5月に日本に3週間ほど帰ることを人づてに聞いた彼は、日本に着いたばかりの私に声をかけてくれました。それは、東京の大きな公園のホームレスの人たちのための集まり。社会的にはある程度認められる地位にある彼が、毎週土曜日の朝、そんなに一生懸命ホームレスの方々のためにご奉仕しているのはどうしてなんだろう、という気持ちと、その息子さん、小さい時からちょっと天才肌だったなあ、どんな青年になっているのかなあ、という気持ちとで、幸い、時差ぼけで朝早く目が覚めたこともあり、出かけてみました。
最初に賛美歌を歌って、お話があって、そこまでは想像通りだったのですが、そのあと「さあ、食べ物や援助物資を配って解散かな」と思ったら、なんと、そこから15人くらいずつのグループに分かれて、今聞いた聖書の話の感想や、自分がどうしてここにいるのか、という話を始めたのです。それが、みなさんなんだか、生き生きと話をされるのです。「興味はあるんだけれども、まだ信じられないんだよねえ」という方が、一生懸命質問をしたり、すでにこの働きを通してクリスチャンになった方が、「僕も本当に惨めだったけど、イエス様に出会って、変わったんだよねえ」と自分の体験を話されたり、みなさんが心を開いて、本音で話をされているのです。「ああ、なんだかいいなあ」と思いました。モノや肩書きを失って、プライドも奪われた人々(「いや、自分はプライドがあったから、ホームレスだったんだなあ」と今は援助を受けて、家も仕事も得た人が言っておられて、それはそれで、また考えさせられましたが・・・)が、一人の人間として、神様を求めて、互いに向き合って、話をしている、住むところや仕事を見つけた人たちも、やはり、同じところに立って、話している。いや、この世では立派な肩書きを持っているような人も、そんなことはどうでもいいこと、として、一人の人として、向き合っている。それは美しくもエキサイティングなひと時でした。
それがあまりに魅力的な集まりだったので、私もそれから毎週土曜日の朝、その公園に通いました。
私たちはいつの間にかいろいろなものを身にまとって、身につけて、持ち物を増やして、でも、それによって失ってしまっていることもあるんじゃないかなあ、と思います。そういうものを一度全部おろして、一人の人間として互いに向き合ったり、神の前に出たりすることができればいいのに、と思います。
今年のJOYJOYキャンプのテーマは「わくわくタウン2」。お金じゃ買えないものあるんだよ、神様は、それをみんなにくださるんだよ、ということを子どもたちに伝えることができたら、と、また日々の教会の歩みの中で、そのことが自然と伝わっていくような働きができればいいなと思っています。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4章18節
アメリカ、フロリダの地であなたは愚かで汚れきっている私を一番近くで見ていたのにもかかわらず、私をこれでもかと愛し、優しく包んでくださいました。あなたの愛をこの世界、そして日本に伝えるために私のからだを用いてください。
自分がどれほど愚かで無知であったかを思い知らされたのです。ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。しかし、それでもあなたは私を愛し、私の右手をしっかりつかんでくださっています。 詩篇73:22~23(リビングバイブル)
去年の6月から今年の1月まで、アメリカのフロリダにあるディズニーワールドで約6ヶ月間のインターンシップに参加していました。これは、当時大学3年生の世界一流のホテルマンを目指していた私にとって素晴らしい機会であると同時に、親元を離れられる最高の機会でもありました。親が嫌いであった訳ではありません。むしろ大好きです。問題だったのは、私の信仰が神様を信じる信仰ではなく、神様を熱心に信じる親に対する信仰だったということです。クリスチャンファミリーに生まれ、物心つく前から教会にいました。洗礼は10才の時に受けて、高校生活が終わるくらいまでは特につまずくこともありませんでした。しかし、大学に入ると、徐々に自分の中でたくさん疑問が湧いてきました。「なぜ私は毎週日曜日に教会にいるのか」「この世界にはたくさん神様がいるのに、なぜ私はこの神様を信じているのか」――このような問いが自分の中にたくさん湧いてくる時に、立ち返る信仰という土台が私はしっかりしていなかったため、すぐに崩れてしまいました。この時は、教会に行かないと親に言ったら親を悲しませると思っていたので、しかたなく行っていました。そして、教会に行ったら熱心なクリスチャン両親を持つ息子として自分なりに良いクリスチャンのフリをすることをいつも考えており、偽りの自分で教会にいるのが嫌でしょうがなかったです。このタイミングで親元を離れて行く6ヶ月のインターンシップは、自分の中で大きな意味がありました。それは、自分自身の神様に対する信仰を自分で見つけられるかもしれないという期待の意味でした。
大きな期待を胸にアメリカに行きましたが、そんな甘くありませんでした。池田恵賜先生に勧められた日本人教会はタクシーで往復8000円かかり、日々を過ごすお金を稼ぐのにやっとの私は、教会にそれほどのお金を払って行く価値が見出せませんでした。そして持っていった聖書は一度も開かず、祈りもしなくなりました。週三回くらいのペースで同僚と夜のダウンタウンに行き、二日酔いになるまで遊んでいました。どんどん神様から離れていきます。かつて自分がアメリカに来る前に抱いていた期待を楽しさと酔いで忘れようとしていました。
帰国1ヶ月半ぐらい前になり、私は二つのことをずっと考えていました。一つ目は、日本に帰ったら親と違う教会に行こうということです。なぜなら、また偽りの自分でいなければいけないと思ったからです。二つ目は、こんな汚れきっている自分は教会に戻る場所すらないということです。自分のしていることが愚かで、もう神様に合わす顔がないと逃げていました。
そんなある日、「恵賜先生とマーティ宣教師がアメリカのフロリダにスポーツミニストリーの会議で来ているので、もし都合が合うなら会いなさい」と母からメールがありました。私は、この時正直「恵賜先生は帰国したらいつでも会えるし、マーティ宣教師って誰やねん!」と思っていました。しかし、ここでの出会いが私と神様の関係を大きく変えました。最初に恵賜先生と少し話し、そのあと初めて会うマーティ宣教師に、忙しい会議と会議の間の時間をとって頂きました。会話を始めるとすぐに、マーティは「君のスピリットはすごい!」と私に言い、マーティがすごく興奮していたのを覚えています。私は、彼がなぜこんなに興奮しているのか、そしてスピリットがなんのことを指しているのかもわからない状態でした。しかし、私が覚えているのは、こんなに明るくて楽しそうな人をディズニーでも日本でも今まで見たことがないということです。次のミーティングが始まるとのことでお別れすると思いきや、次のミーティングにぜひ参加してほしいと、参加費も払っていない私に対して言ってくださいました。そして飛び入りで参加したミーティングでは、オーストラリアのサーフィンミニストリーを代表する方がオーストラリアでのミニストリーの現状やこれからの課題を共有してくださいました。ずっと教会や神様から離れていた私としては、久しぶりに聞く神様の話でした。とても新鮮で神様のことをサーフィンで伝えたいという熱心な思いが、私には輝いているように見えました。そのミーティングに参加している皆が眩しかったです。
ミーティングが終わると、マーティは「私は今、フェスティバルを通して神様を伝える働きをしていて、日本全国を回っている。君に通訳をしてもらいたいから、早く戻ってきなさい」と言ってくれました。なぜか涙が止まりませんでした。もう帰る場所すらないと思っていたのに、神様はこんな私でさえも、とりこぼすことなく帰る場所を用意してくれました。すべてを知っている神様は、汚れていてもう自分ではどうしようもできない私に手を差し伸べてくださいました。マーティは泣いている理由も聞かずにただ自分を抱きしめ、「神様はあなたを愛しているよ」と言ってくれました。神様の愛は偉大です。私は神様の深い愛によって変えられました。今は、神様によってホテルマンへの夢が完全に取り去られ、献身する道に導かれています。神様がどのような計画を私に持っているか、まだしっかりわかりませんが、主に期待して歩んでいきます。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39(新改訳第三版)
2019年3月28日本郷台キリスト教会木曜祈祷会での証し:ご本人と教会の許可をいただき転載
月報でもおしらせしてきましたが、4月のイースターの後、6月半ばまで、サバティカル休暇として2ヶ月間のお休みをいただいて、教会の牧師としての働きを離れて、休息と研修の時をもってきました。多くの皆さんのお祈りに支えられて、また、留守の間を守ってくださった信徒の方々、近隣の教会の先生方、日本からご奉仕に来てくださった加藤義人先生など、みなさんのお働きによって、このような時を持たせていただいて心から感謝します。
2ヶ月にわたる特別なサバティカル休暇の最後の2週間、いよいよ復帰に向けて、心の準備をしたり、学んできたことのまとめをしたりしようと思っていた時でした。なんだか、胸から背中に痛みを感じるようになりました。普段はそういうことがあっても、いつの間にか忘れてしまうのですが、今回は、どんなに時間が経っても無くなりません。というよりも、何をしていても忘れていられないほどの痛みになっていきました。帯状疱疹でした。夜は眠れない、昼間は痛みで何もできない、市販の痛み止めを飲んでもおさまらない、そんな痛みが数日続きました。最後はお医者さんに行って、抗ウィルス剤と、市販の痛み止めの量を増やして、何種類か併用して、なんとかおさまっていきました。この原稿を書いているのは痛みが始まってからちょうど4週間後ですが、まだ痛み止めを少し飲んでいます。
サバティカル休暇が始まる時に、この2ヶ月間が終わった時には、リフレッシュして生まれた変わった自分、確信に満ちて、今までと違ったレベルのリーダーシップを発揮する自分を夢見ていました。「こんなことを学びました」とプレゼンテーションができるようにと思っていました(確かにいくつかのよき学びの機会も与えられました)。しかし、実際、このサバティカル休暇で学んだことの一番のことは、自分の弱さであり、愚かさであり、情けなさだったのです。普段は講壇から「クリスチャンは困難の中でも、賛美をすることができます。感謝をすることができます」と語っていました。しかし、自分が痛みの中で出てくることといえば、「なんとかしてくれ!」「この痛みを取り去ってくれ!」だけでした。感謝も賛美も出てこない。それどころか、一番身近な家族に当たってしまったり、傷つくことを言ってしまったりする自分がいました。その自分の姿を見せつけられ、肉体的にも、霊的にも弱さを思い知らされたのです。
それは自分にとって必要なことだったと思います。いや、そのことこそ、今の自分にとって大切なことだから、この痛みが神様から与えられたのだと思います。神様は私が本当の自分の姿に気がつくようにと導いてくださったのだと思います。これからも、「自分」が何をしたか、何をしているか、ではなく、「神様が」どれほど大きな方で、弱い私の人生にどれほど素晴らしいことをしてくださるのか、それを見せていただきたいと思わされています。そのことを証ししていきたいと思います。これからも神様が私の歩みの中で必要なものを与えてくださいますように。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント第二の手紙12:9)
救い主のお導きに、心から感謝します。
JCC of NJ関連の諸先輩、及びこれから信仰を目指す皆さんへ!
私の体験談が、何かの好影響になれば幸いと念じ、拙い情報を思い出し、まとめてみました。
実は私、13ヶ月前、当教会にて、錦織牧師のご采配を得て、晴れの席で “受洗”を致しました。75歳の老齢であるにも係わらず、当日は、一寸感情の高振りがあったのを、今でも覚えておりますが、洗礼に至る背景は、こんなものでありました。
東京ベースの家電関連企業の駐在員として、米国本社にて業務に専念し、私なりに成果も出せたので 引退しました。しかし、仕事オンリーで有ったが為か、退職後、交じりあう人も少数で、暇でしょうがない現実に遭遇し、寂しさを感じ、ガッカリしていました。
(皆さん、仕事以外で交じえる人を、常に確保しておいたほうが宜しいですよ、天のお父さん[=神さま]と会話出来れば最高でありましょう)
問題解決には人の紹介で、シニアーセンター参加が実現しました。日本人主体で集まる会。そこでは毎回聖書解説と礼拝が、教会の牧師方の派遣で開催されています。何回かの集いに参加して、聖書に対する興味が湧いて参りました。錦織牧師を始めとする、数名の先生方の懇切丁寧な指導に依る影響があっての事だと思います。
当初は無知の世界ゆえ、とっつきにくく、モヤモヤの状況が続きましたが、幸い音楽が好きなので、賛美の歌には好感を持ち、その内容を理解すると楽しくなる経験を踏んでおりました。そのうちに、創世記が理解出来るようになり、天地の創造、人が造られる等々、読み進むにつれ、私は救いの主を 「これだ!絶対信ずるに値する!」と感じ、驚きと感動に浸りました。新たな世界が開かれたのです。
更にその他に経験した事も併記せねばなりません。
引退後、健康上の諸トラブルについてです。加齢からと想像致しておりますが、こんな病を次々と経験しました:
Dental Surgeries
Open Heart Surgery
Prostate cancer
Cataract Surgery
Pacemaker Implant 等であります。
これらの病への治療が開始される頃、教会の先生、教会の兄弟姉妹(教会では互いのことを神の家族として「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)らが、天のお父様へ祈って下さっていました。私も祈りました。そして家族も祈りも加わった為か、次々と無事、療養を終了致しました。医療関係の諸先生方に依る尽力も含められますが、忘れられないのは、主への真摯な祈りが多くささげられたことです。そして、私が今でも私なりに生存している事実を、誠にありがたく思います。
祈りを捧げてくれた 結果 今日になった次第です。
初期に於いては、私に対する親切なお祈り行動をありがたいと思いつつも、心にピーンと来るものではなく、むしろ混乱気味でした。しかし、今では皆さんのお祈りに、天のお父様が応えてくださった結果と心から思うようになりました。
3年前に、私は家族とマイアミに移住しましたが、そこでも、サウルさん(牧師先生)と彼の奥さんに懇意にして頂け、土曜日の集まりに、日本、米国、ラテン系信徒さん達と共に集い、聖書の学びをしてきました。そして、その中で、神さまとの関係が、更に深くなっていると信じさせられます。
このような経過によって、昨年の誕生月、4月には自分のこれからの生き様を“余生をお祈りで感謝、感激”と位置付け、神さまを受け入れるに至りました。聖書から、
1)創世記第一章の我々が生きる場としての、天地創造に感銘したこと。
2)総じて、福音書に散りばめた多々なる言葉、(4つの福音書の全てにイエス様が十字架にかけられ、 三日後に復活されたということが書かれていますが、神秘的で驚くべきで、信じるに充分、と私の心に収まったこと。
3)詩篇150篇等に感化を受け、そうだ!そうだ!と神さまに同調したこと。
それらが信仰の決め手になりました。
そして、NYに短期滞在で前立腺癌の治療に専念している時、神様に私の罪の悔い改め、昨年の5月13日にバプテスマを受けました。
以来、私が明るくなったと周囲から言われたりするので、皆さんの親切なる応援の祈りの力が作用したと信じ、主の御言葉を深く、広く、理解し、福音を更に深く理解することに専念しようと思っています。
只今はマイアミに住んでおりますが、JCC of NJを大切な拠り所として、皆様の懇意で接触を続けていければと期待しております。
私は東京都品川区に生まれ育ちました。6歳離れた兄がいます。
両親共、育ったのは典型的な日本の仏教の家です。仏教の行事は、私も全て行って育ちました。
大学卒業後は、稽古事の学校に入学し、その頃、アメリカを旅行したのが、私が将来、アメリカに住みたいと思うきっかけとなりました。
その翌年、サンフランシスコ近郊の、アメリカ人の家にホームステイをし、近くの英語学校に通いました。学校でよりも、私を家族の一員としてくれたファミリーとの生活の中で、英語を覚えていきました。また、家族の知人に日本人の奥さんを持つクリスチャンの夫婦がいて、私を娘のように可愛がってくださいました。私を教会にも連れて行ってくれました。
その後、日本に戻り、当時、女性のための外資派遣会社がスタートしていて、英語を少しでも話せると、すぐに仕事がもらえました。私は、数ヶ月働いては、この夫婦の家に遊びに行くというような日々を過ごしていました。
数年たち、産休に入るワシントンDCの友達に、半年間、日本の旅行会社で彼女の代理を頼まれました。この仕事が終わる頃、日本で、機関投資家間の国債の取引を始める外資の証券会社が、大蔵省より、男女雇用機会均等法に沿って、夫を含む、外人男性ブローカー3人に対し、日本人女性を3人雇わなければいけないという条件を出され、私は、債券ブローカーになりました。数年後に結婚をし、退職しました。
2000年、カリフォルニアの夫婦の奥さん(Yさん)が、バイブルクラスに行き、そこで会った方の家に招かれ、その家が売りに出ていると、聞きました。その家は、すでに買い手が決まりかけていたのですが、最終的に、私たちがこの家を買うこととなりました。
2001年、夫の仕事は、ほとんどコンピュータ化されてしまっていたので、会社からWorld Trade Center のNY Officeへ転勤か、退職をするかと提言されました。カリフォルニアに家を買った後だったので、私たちは退職を選びました。その2ヶ月後、9/11が起き、ノースタワーの上階にあった、夫の元の会社の殆どの方が、召されていきました。
その頃、長女は、アメリカのkindergartenにショックを受けたのか、泣き続ける日々が続きました。それを聞いたYさんが、ウォールナットクリーク日系キリスト教会(JCCWC)で同じくらいの歳の娘さんを持つ方を紹介してくれて、わが家に遊びに来てくれました。そののち、長女は学校でも、友達ができて、自分の居場所を作って行きました。
これをきっかけに、私と子供達はJCCWCの交わりに入るようになりました。
夫は、カリフォルニアに引っ越してから1年後の2012年9月にNYで就職し、私たちは、東海岸に引越そうとしました。その時、私は受洗を決意しました。1年間、自分を愛してくれたクリスチャンの皆さんとの絆を守りたくて、また、私もクリスチャンとして、NYでの生活をスタートしたいと思ったからでした。
しかし、夫の仕事は順調ではありませんでした。また、家を売ろうとしていた知り合いが直前にキャンセルをしたので、私と子供達は、カリフォルニアに残ることとなり、母娘3人にとって、教会生活が大切なものとなっていきました。
結局、夫も、翌年に帰ってきました。
夫の長い失業、株式での大損、経済的には、かなり厳しくなりましたが、そのころ、カリフォルニアの家の値段が急騰して、家を担保に、銀行からかなり借り入れをして、それまでと、変わらない生活を過ごしていきました。
私は、礼拝、集会、奉仕、信徒の交わりを多くすることによって自己満足し、“私は、一生懸命なクリスチャンだ”と、自負していました。
当時、神様に委ねるということは全くできずに、私が神様との関係を作っていました。自分に都合の良いように、神様を使ってさえいました。
祈りは、自分の希望、欲望を、ただ並べるだけでした。
もちろん、それらは御心ではありませんでしたから、ほとんど聞かれることはありませんでした。そうすると、私は不幸だ、神様に試練を与えられている、私の祈りは聞かれないのだ、と言っていました。
その頃、私は、いつもヨブ記を読んでいました。最後に、ヨブが、神様から与えられる多くのものを羨ましいと思いました。
自分が持っているもの全ては、自分のものだと勘違いしていたので、“なぜ、神様はこれすら私から奪うのですか”と聞いていました。
自分の家族(夫)に対しても、自分は、平和の基とは、かけ離れていました。
私たちは、毎週末、家族みんなで外出することを楽しんでいました。
私が、救われた後は、私は好んで、教会、信徒と、多くの時間を過ごすようになり、日曜日は、朝早く、子供を連れて教会に行き、夕方まで帰ってこないこともありました。
当時、子供と過ごす週末を、とても楽しみにしていた夫が、一人で過ごすことが多くなってしまいました。失業していたこともあり、私と夫の間には、平安は全くなく、常に、言い争いをしていました。信仰深いカソリックの家に生まれ、カソリックスクールに行った夫に、教会から距離を置かせているのは、私の過去の歩み故だったと思っています。
カリフォルニアで6年が過ぎ、2007年夏、夫にアジアでの仕事が決まり、私たちは日本に引っ越しました。やっと神様が私の祈りを聞いてくださったと思いました。もう大丈夫だと思いました。
しかし、サブプライム問題が起き、まだ持っていたカリフォルニアの家の価格は、やがて半分になりました。また、リーマンショックの後、2009年春、夫もレイオフされました。東京の家は、会社から支給されたものだったので、家族で実家に移りました。
当時娘たちは、私立に通っていたので、その一年後には、NJの義理の母のところに居候しながら、現地の公立学校に行けるようにと、頼みました。夫は、東京のある会社から、出来高払いという仕事をいただいたので、私の実家にそのまま残りました。
私たちは、家族や、周りの人に助けてもらわなければ、日々の生活ができないという状態でした。
私と子供達は、NJへ、各自、スーツケース1つに洋服、ダンボール1個にパーソナルグッズで、引っ越してきました。
その頃、私は、自分の家、生活、車は、一生持てない、と思いました。
しかし、この経験で、自分の全てを神様に明け渡すという信仰が産まれました。
古い“私“から解放されました。
本当に、自分では、どうしようもできないという現実の中で、“神様、私には、もう、どうすることもできません、助けてください。”神様は、長い間、辛抱強く、私のこの言葉を待っておられたのです。全てのものは、神様から与えられていて、自分のものではないということに、ようやく気がつけました。
私の祈りは、我が罪のためのイエス様の贖いの死―十字架の恵みを感謝すること、全てのことを御手に委ねること、地上で自分が与えられている使命を全うすることへの導き、へと変えられました。
2016年10月、私は交通事故に遭いました。夫と次女がカレッジヴィジットのために家を出て、1時間経った、夜の7時ごろ、犬と散歩に行き、横断歩道を渡っているときに、98歳の男性の運転する車にひかれました。
骨盤骨折、脳内出血、太腿と腰にかけて15センチと35センチの2箇所の裂傷、首、腕などのステッチ、全身の打撲や切り傷、私の怪我は生死に関わるものでした。数日間、集中治療室で手当てを受け、事故から3週間後には、腐敗した腿の一部の組織を取り除き、そこに皮膚移植をするという手術も受けました。
当初は、1週間に1度くらいは、痛みを苦痛に思ったり、ひと月に1度は、“なぜ私は事故にあったのだろう”と考えたりしていたように思います。しかし、家族は、私がそのようなことを言っていたのを聞いたことがないと言います。それは、神様が当時の私に平安を与え続けてくださっていたからでしょう。
事故の3ヶ月後、執刀医の一人の先生の診察で、“二度と事故の前の体には戻らない、痛みも残るだろう”と言われましたが、私は、この言葉を冷静に受け取りました。それは、たとえ、足は元に戻らなくても、それとは異なる恵みが与えられるという、神様の御業を信頼していたからです。将来の後遺症への恐れなどからも解放されています。事故前の姿が、私なのではなく、今の状態が、“私”なのだと思えるようになったことで、以前の体とは比べなくなりました。
事故から1年後に、裁判所であの車を運転していた人を見ました。この人が今まで事故を起こさなかったのが不思議なくらいの方でした。神様は、この事故に、私を選ばれたのだと思いました。そして、神様は、その日から、これまで以上に、私に絶えず働きかけてくださって、希望を与えてくださっています。
また、神様からいただく使命=軛というのは、自分が想像していたよりも、はるかに軽いものでした。神様の軛のおかげで、昨年2回行った手術や、全ての回復の道のりの中にも、思い煩いはありませんでした。
また、今年予定している数回の手術も、全き癒しへのステップだと、感謝しております。
見えないものを信じる信仰の中にいた私は、神様のご臨在を実感することによって、実際に見たもの(経験したもの)と共に歩む信仰へとなりました。そして、この事故も、恵みへと変えていただきました。
私が愛する神様が何もかもを最善にしてくださります。私は、ただ神様を信頼するだけでいいのだ、という平穏に包まれています。
そして、ヨブのように、多くの祝福をいただいています。
その祝福とは、以前私がヨブを羨んでいた、物質的な豊かさではありません。
万能なお方が、いつも私と一緒にいて、私を強くしてくださり、喜びと感謝に溢れた日々を与えてくださるのだという確信が、今の私を豊かにしてくれています。
また、慈しみ深い神様は、サプライズの祝福までもくださいます。2012年に夫と二人で会社をスタートしました。神様が日々、私たちに知恵を与えてくださり、そのビズネスは年々増え続けています。
2017年4月には、自分たちの家さえ持つことができました。
私を愛する神様の、私のための、最高のシナリオである、そのご計画は、時には、悲しみや痛みを味わうこともあるかもしれません。しかし、全てのことを相働かせて益となさる方です。
その先には必ず祝福への扉が開かれていることを、私は知っているので、いかなる時も、いかなることへも、恐れず、強く、雄々しくありたいと祈っています。
神さまのなさることは、全てが時にかなって美しいのです。
“主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである“ ―エレミヤ書29章11節
神様は、本当に、私たちを愛しておられます。
アーメン
イースターの礼拝、礼拝後の愛餐会(お食事会)には久米小百合さんをお迎えしました。久米さんは今から40年くらい前に「久保田早紀」という名前で歌手をされていた方です。私も高校時代に彼女のミリオンセラーの「異邦人」をよく聞いていました。というかいつもテレビで流れていたのを見ていたんですね。ですから、今でも、どうしても「あの久保田早紀さんね」という目で見てしまうのですが、今回、ほんの少しですが、個人的にお話をさせていただいて、また音楽やお話を生で聞かせていただいて、やっぱり、その人の魅力というのは、内側から溢れてくるものだなあ、と思いました。
とても素敵な方です。とても楽しい方です。そして、イエスに出会って、その喜びにあふれている方です。それはYouTubeで昔の映像を探し出して見てみても、わからないものです。伝わってこないものです。でも、個人的にお話をする時には、その心にあるものがビンビン伝わってくるのです。今回久米さんをお迎えすることができて、本当によかったなあ、と思います。
私は4月23日から6月16日まで長いお休みをいただきます。その中で一番大切にしたいのは、自分の内側がどうか、ということです。どんなにノウハウを学んでも、どんなに正しい教えを語っていても、自分の内側が渇いてしまっているとするならば、心の中にあるものが枯れてしまっているとするならば、それは虚しいものです。内側に溢れるもの、それが周りに流れていく、そのような歩みをしたいのです。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:13-14
私のライフメッセージです。このイエスの言葉を語り続けるために、もう一度、命の水の源である神様との関係に集中して、そこに目を留めて過ごしたいと思っています。どうか、お祈りください。神様が素晴らしいことをしてくださいますように。
先月の月報で「今年は雪が少ないですねえ」と書いたとたんに雪が降って、その後も肌寒い日が続きました。私は庭に最初に咲くクロッカスの花で春の訪れを感じるのですが、一昨年は3月1日に、昨年は3月15日に咲いた花が、今年は3月26日にやっと開花。いよいよ春だな、と心から感じます。
そして、春の訪れを告げるお祭り、イースター。今年はこのイースターも4月21日と、いつもより遅いです。それはイースターが「春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日」と決められているからです。今年は春分の日の翌日が満月だったので、次の満月は4月19日。その次の日曜日ということで4月21日となるわけです。
いつお祝いするかよりも大切なのが、その意味。イースターはイエスが十字架にかけられた後、三日目によみがえられたことをお祝いする日です。ですから、イースターのメッセージは「死に対するいのちの勝利」です。私たちすべての者がいつかは迎えなければならない死。その前には私たちは全く無力であり、そこに佇むことしかできません。ある人は、「人間は生まれた瞬間から死に向かって生きているのだ」というようなことを言うほどです。しかし、イエスはその死を打ち破ってよみがえってくださったのです。
それにはいくつかの意味があります。
まず第一に、イエスを復活させた神の力が今も私たちのうちに注がれているのだ、ということです。人類最大の敵、最後の敵である死を打ち破る力が、この世の中で、いろいろな悩みや困難の中を通っていく私たちのうちに注がれている、それはなんと心強いことでしょうか?どんなに大きな問題だとしても、この死の問題よりも大きな問題はありません。その一番の問題を打ち破った神の力は、私たちの人生の問題に、勝利を与えてくださるのです。
第二に、死の意味が変わってしまったということです。死はもはや無敵ではありません。絶対のものではなくなってしまったのです。恐れる必要は無くなってしまったのです。神はイエスによって永遠の命を約束してくださって、私たちを永遠の世界に迎えてくださるのです。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント15:55)
まるで死んでしまっていたかのようだった木々も芽を吹いていのちのあふれる春。イースターはこの自然界と一緒に、私たちも、イエスによって死の問題に勝利することができることを告げるのです。
今年のイースター、子どものためのJOYJOYイースターは4/7の午後3時半から。イースター礼拝と愛餐会(どなたでも歓迎の食事会)は4/21の午後1時半から。お待ちしています。
3月17日はセントパトリックデーでした。今まで「アイルランドのお祭り」と、あまり気に留めていませんでしたが、4世紀末から5世紀にかけて働かれたパトリック宣教師の辛い少年期を知りました。そして彼が残した言葉に目が止まりました。
Christ beside me. Christ before me. Christ behind me. Christ within me.
Christ beneath me. Christ above me. (St. Patrick)
目の前が真っ暗になったあの日から、全く変わってしまった状況の中に封じ込められてもがく中で 、神の存在を喪ったかの様な時にも、パトリック宣教師の言われるように、確かに私を支える存在は、一番近くで囲み守り抱えてくださって、深い慰めを持って立ち上がらせて下さろうとしておられたと、その足跡を振り返る毎に感謝に溢れます。
2017年後半、私達は多くの友人を天に送る不思議な年でした。12年間病と闘い続けた親友を含め10人の友を失いました。しかし最後に健康な主人が召されるなど?思いもしない事でした。「私達は明日のことはわからないのです。」(ヤコブ4:14)の通りです。
11月15日、どの位心臓マッサージが続けられたのでしょう? 救急医の「残念ですが。。」と言う声に、映画のシーンを見ている様な錯覚を覚え、主人の死に一人直面しました。まるで 生きている様な顔に思わず声をかけていました。「ね〜Aki」—–? 当たり前ですが、
返事が返ってこない、静けさの中に涙も出ずに立ちつくしていました。
主人が横たわるベッドと私の間の距離は僅かなものなのに、でもそこは全く声の届かない断絶の隙間でした。取り返すことのできない真っ暗闇「死」の壁がありました。
ヘンリー・ナウエンの慰めの手紙の中には、「死は私達のコントロールや影響が及ぶ領域から完全に外れたところにある。死は決定的な終わり、見たこともない終止符、完全な破壊。」と書かれていますが、そんな壁の前に立たされました。
「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっている」(ヘブル9:27)
神の言葉が迫りました。 これが? 神の言われる、全ての人間が迎える「肉の死」なのですか? 元気だった主人が突然迎えた命の終わりという現実を突きつけられて、答えを求めるようにつぶやきました。
全く聖い神の前に立つことが出来る人はいるだろうか?
裁きの前に、この世での多くの立派な働き、功績や財産などは何の力もないのでは無いか?
その時、十字架にかかられて血潮で真っ赤になったイエス・キリストの姿が、リアルに目の前に何度も迫って来ました。イエス様、わたしたちでなく、なぜ聖いあなたが、罪のないあなたが? 人間が掛かるべき十字架にかかられたのですか? 何故そこまでしてくださったのですか?言葉で表現出来ない程の重みを持って、十字架のあがないのすごさを受け取りました。
「私を通してでなければ、だれひとり神のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)
突然の主人の死でしたが、この一方的な御愛を信じ受け止めていた主人が、ただ恵みによって神のもとへ帰って行ったことをハッキリと感じました。 聖なる神の前に立つ時も、
このイエスご自身が執り成して下さる方であることも。
ああ感謝せん〜 、ああ感謝せん〜 不思議に静かに賛美が心に響き始め、
断絶の闇だと思っていた死の絶望の中に、希望の光が圧倒的な力で迫り覆いました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4~5)
十字架にかかられて死に、3日後に復活された主、死に勝利された方の約束が響きます。
「私は蘇りです命です。私を信じる者は死んでも生きる、あなたはこれを信じるか」
「これを信じるか?」 はい信じていました、でも今はっきりとわかりました。
主人からの別れの言葉はありませんが、この約束が残された言葉であると感謝します。
召天から1年5ヶ月。 彼は最高の場所に帰ったことが段々とクリアに信じられるようになりましたが、当初、主人に頼りきっていた私は、空虚さ喪失感から抜けきれない毎日が続き、眠れず、運転も出来ず、聖書も読めず、祈れない、ただひたすら主の憐れみの中に弱さを留める時間でした。主人に何回か「アメリカで、貴方が居なくなったらどうするの」と聞いたことがありました。主人の答えは何時も「イエス様がいるから心配ない」でした。
全てを主にお委ねする状況に追いやられました。
「主の祈り」が私の祈りとなりました。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」!
寂しくなると、「Pray」という賛美を主に叫ぶように歌いました。
In time of sorrow, season of pain.
When all seems hopeless
One thing Remains ➖Our God is Faithful
His word is true, He said call on his name
And He will answer you. Pray! Pray!
He has promised He will answer when you pray
Jesus is answer when you pray
詩篇を声を出して読みました➖「私のうちで、思い煩いが増す時に、あなたの慰めが、私の魂を喜ばせてくださいます様に。」詩篇94:19
「我が助けは天と地を造られた、主から来る」(詩篇121) ➖強められて行きました。
11/18=ハワイでお葬式。3/24 =主人の誕生日にNJでの記念会。5/30=日本の大和カルバリー教会での召天記念礼拝、沢山の皆様のお祈りとサポートによって無事に終えることが出来たことを感謝いたします。主人の死を知らせた時、父親っ子だった娘はどんなに辛かった事かと思いますが、あれからズーと私を支え続けてくれています。ありがとう!
「私は私を強くして下さる方によって」又歩み出しました。 お祈り有難うございます。
主人は「神の栄光の中で」、私はこの世で「神の業が現れるために」生きて行きます。
聖霊様どうぞ宜しくお願いします。
私の名前、“日和(ひより)”には二人の名付け親がいます。
一人は私の両親の共通の親友である“ひより”さんという方です。ひよりさんはクリスチャンではなく、両親が主の招きがあるよう祈っていた友人の一人でしたが、私が生まれる10年ほど前にグアム旅行でスキューバダイビング中に現地のインストラクターに海中に置き去りにされ、行方不明となったまま、帰ってきませんでした。母はその頃たまたま読んでいた本の中で、ある宣教師が海で難破に遭い水底に沈んでいく体験をした時、非常な恐れよりも神様の大きな御手の中に包まれていくような平安を感じた、と書かれていたのだということをひよりさんがグアムへ出発する前日に彼女に話したのだそうです。ひよりさんが最期、海の中で何を思っていたのか私たちには知るすべもありませんが、きっと母が伝えた宣教師の話と平安を思いながら願わくば主の御光の中天に上げられたことを両親は信じています。
もう一人の名付け親は母方の祖母である和子さんです。和子さんはクリスチャンとなった私の母である娘に連れられ教会へ行き、自身もクリスチャンとなりましたが、私が生まれる1年前に兵庫県を直撃した阪神大震災の後、地震による酷い粉塵で肺炎に侵され亡くなりました。私は阪神の震災の翌年、1996年2月22日の午後2時22分に2220gで生まれました。2の羅列という驚きも去ることながら、和子さんも昭和2年2月22日生まれで、両親は祖母をなくした悲しみがこのような形で喜びに変えられたことに神様の壮大な御計画を見、祖母の名前から“和”の字を、また天での再会を願いひよりさんから名前を借りて、私を“日和”と名付けてくれました。
そんなわけで、神様のユーモア溢れる御計画のもと10年間子どもに恵まれなかったクリスチャンの両親の間に一人娘として生を受けた私は、自分を認識するよりも前に神様の存在を教えられ、祈ること、御言葉を読むこと、聖日(日曜日)の日に教会へ行くこと、が当たり前として育ちました。両親は私を諭す時も、祝福する時も、励ます時も、いつも御言葉をもって語りかけました。父も母も共に芸術系の仕事をしていた為、私も物心ついた頃には既に紙とペンさえあれば幾時間も過ごせてしまうような子どもで、振り返ってみると、私の周りにはいつも祈りと御言葉と、そして芸術が寄り添っていたことに気づかされます。母は厳しかったですが、早生まれで他の同年代の子どもたちよりも要領の悪い上のんびり屋な私に忍耐強く付き合ってくれました。芸大で若い芸術家の卵たちを教えていた父はとても頭の柔らかい人で、私が昆虫に興味を示せば林に虫捕りに連れて行ってくれ、私が道端のカラスノエンドウの弾ける様子に見入っていれば気が済むまで一緒にしゃがんで見てくれ、私が絵を描きたいと言えば床一面に紙を敷いて広々と描かせてくれました。私は他の子どもたちよりも鈍いところがあったので、幼少期はよくいじめられ悲しい思いをすることも多かったですが、“芸術”という吐き出し口を与えられていた私はのびのびと育ったと思います。ただ、幼少のその頃植えつけられた他の子たちよりできないことが多いという劣等感は年齢が少しずつ上がってもなかなか拭えず、その不安をかき消すように勉強もクラブ活動の練習も人の倍以上頑張って取り組んでいた子ども時代でした。教会にも楽しく通っていて、神様という目に見えない存在を幼い頭を一生懸命働かせて理解しようとしていましたが、ある時は大洪水を起こして全人類を滅ぼす恐ろしいお方、またある時は子どもたちをその膝の上に乗せ愛でられる優しいお方、そしてまたある時は右頬を打たれたら左頬を差し出しなさいと諭され自ら十字架の道を歩まれる苦しみと忍耐のお方、とそのイメージが時にいろんな形に変わっていき、迷走していたように思います。しかし、一人っ子で紙とペンが友達のようなところがあった私は、周りの子どもたちと関わるにあたって自己主張の全然できない子どもで、大抵の場合“我慢”して自分を押し殺すところがありました。その分を両親が大きな愛情を持って受け止めてくれていたのですが、自分の性質上、神様というのも“忍耐”を強いる方だというイメージが次第に強くなっていきました。
時は進んで高校2年生の頃、中高一貫校に進学した私は中学の頃から弓道部に所属し、“文武両道”を掲げて友だちと遊ぶこともなくただひたすら勉強と部活動に打ち込んでいました。自由と自主性を重んじる、日本の教育機関にしては珍しいリベラルな学校であったので勉強のプレッシャーを生徒に与えない長閑な雰囲気でしたが、勉強好きな生徒たちが多いのか進学校に類される学校でした。私も周囲の空気に押されるように、国公立大学への推薦入学を目指して勉強に励みつつ部活動も精力的に取り組み、部内の誰よりも練習をして副部長の任も務めていましたが、そのあまりの熱心さ故に同学年の部員たちとの間に熱の差が生じ部活動でトラブルを抱えてしまいました。部活に行けなくなった私は、勉強への意欲も失せ家に引きこもりがちになり、授業の欠課時数は貯まり、担任の先生からもこのままでは進級も危うい、と言われました。当時の私は頑張って積み上げてきたものが全て崩れどん底に落とされたような心地で、どうして神様はこのような残酷なことをなさるのだろうと絶望しました。小さい頃から共に教会学校に通っていた子たちはみな中学へ進学する頃には教会を離れた中、私は毎週教会にもきちんと通っていたし、部活動も勉強も誰よりも真面目に一生懸命に頑張っていたのに、そして何より聖書の教え通り“忍耐”を実行していたのに、なぜ神様はそれに報いてくださるどころか全部奪われたのだろう、と。自分の置かれた状況への不満や怒りはそのうち、いつまでもそうして八方塞がりの中惨めにうなだれている無気力な自分に対する不甲斐なさと失望に変わり、クリスチャンなのにこんなにもたくさんの負の感情に覆われていることに自分はこの世界で一番情けない者だ、ととても落ち込みました。教会にはかろうじて行っていましたが、兄弟姉妹にかけられる「祈ってるよ。」の言葉はその時の私にとっては重荷で、自分のみっともない姿を周りから、そして神様からも隠してしまいたい、とさらに引きこもるようになってしまいました。
そんな時、母は私に旧約聖書に出てくるヨブの話をしてくれました。神様の前にも正しく、富も地位も家族にも恵まれたヨブがその全てを奪われた上酷い皮膚病も患い、妻からも「神を呪って死になさい」とまで言われた時、ヨブは自分の生まれたことを呪うほど苦しみましたが神を決して呪わなかった、
そして神様はその後ヨブに以前持っていた物以上の祝福をお与えになったこと。
私が自暴自棄になって大泣きしながら自分の体を傷つけた時、母は涙を流しながら私の隣で静かに祈ってくれました。日和は生まれた時から神様に守られているから、必ずこの先に神様の御計画があるよ、と。ひたすら沈む娘の姿をどんな気持ちで支えてくれていたことか、と今振り返ります。母があの時流した涙は、私には小さな者たちのために主が流してくださった清い涙と重なるのです。それまでは神様との祈りにおいても“いい子”でいようと努めて本心を出さないままでいた私でしたが、その頃初めて、神様に悪態をつきました。神様ひどいです、私はもうこれ以上忍耐なんかできません、と、どうしようもない自分のままで祈りました。
転機となったのは、弓道部を辞め先生から誘われるがまま美術部に入ったことでした。酷い落ち込み方をしていた私を見兼ねてだったのか、美術の先生が余っている50号の大きなキャンバスに絵を描いてくれないか、と声をかけてくれたのです。前述した通り、美術の溢れる環境で育った私だったので、もちろん絵を描くことは変わらず好きだったのですが、美術というフィールドにいるとどうしても芸術家である父の存在が大きく、「親の七光りだ」とか「サラブレッド」だとか評されることに抵抗感があったため、しばらく美術から敢えて遠ざかっていたところがありました。久しぶりにじっくり制作する時間を与えられて、始めこそキャンバスの前に呆然と座っていたものの一度筆を下ろすと時間も忘れて描き続けていました。その頃は、教室には相変わらず行けないことが多かったですが、美術室には夜まで入り浸っているような生活でした。
次第に、散らかって何も見えなくなっていた自分の心が美術を通してクリアーになってきていることを感じました。私の前にも後ろにも左右にも道はない、八方塞がり、と思い込んでいたけれど、それならいっそうのこと真上に飛び上がってしまってもいいのではないか、と思った時、逆に言えば今私はとても自由なのだ、と気づいたのです。神様は私が固執していたこの世的なもの、良い大学へ進学して安定した将来を築くことだったり部活動で良い成績を納めて周囲からの賞賛を得ることだったり、そういうものを一度全て取り除けてくださったのだと思いました。また多くの立派な信仰と称される聖書の中の人物たちも、多くの場面で困難に頭を抱え、苦しみ悶え、そして神様に叫び、その弱さを神様に明け渡しながら歩んでいる様子が聖書にはたくさん書かれていることにも気づきました。人間である以上、苦しみの中で情けない自分の本性にうなだれるのは共通で、そこで神様に全身全霊で叫び呼ばわった時、神様は視界の霧を晴れさせそのビジョンを示してくださるのだ、と教わりました。
“私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰ることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。〜たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”
コリントII 4:8-9,16
高校3年生に進級できるかどうかも怪しかった私でしたが、側でずっと祈り支えてくれた両親や教会の方々と、私を信じて励まし続けてくださった学校の先生方、心配してたくさん話を聞いてくれた友人たち、そして愉快で無邪気な感性で疲弊した私の心を癒してくれた美術部の後輩たちに救われて、なんとか高校最後の学年を迎えることができ学校にも通常通り通えるまでに回復したどころか、その頃私は神様から新たな道を示されたのでした。美術の力を改めて身をもって経験したことで、将来は美術を媒体として誰かの心に寄り添うことがしたい、という思いが私に与えられました。特に、子どもと大人の間で大きなうねりにさらされる10代の若者たち、将来への限りない可能性に勇み歩もうとする一方、未知の世の中に踏み込む手前の不安で揺れる時期、私自身がそうであったように多くの10代の青少年たちが不安定な心の浮き沈みと格闘していることに私は心を砕くようになりました。私は幸いにも良い大人の方々に囲まれて立ち直ることができましたが、悲しいことに、多くの若者がそういう機会に恵まれていないというのが現実です。アートセラピーという、美術制作を通して自分自身と対峙し、対話し、そして整理する機会を提供しその過程をサポートするというお仕事があります。日本では未だほとんど認識すらされていない分野ですが、美術を通して青少年の心に触れることのできるアートセラピーを勉強したいという思いが私に与えられました。しかしながら、日本では勉強できないということで、それなら勉強できる国へ行こう、と自分でも拍子抜けしてしまうくらい私はあっさり異国の地での学びを決めたのでした。
“あなたは口のきけない者のために、また全ての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。”
箴言31:8-9
周りの同級生たちが大学受験に向けて必死な形相で勉強に励む中、私は担任の先生に「大学受験しません。アートセラピーが勉強できるアメリカの大学に行きます。」と大胆に宣言しました。それまでの慎重派な私だったらこんなリスキーな道を選択しなかっただろうと思いますが、なぜかそう目標を掲げた途端、普通の生活を送ることすらままならなかった空っぽの私の中にみるみる力が湧いて、高校卒業後はアメリカの大学へ進学するための英語の勉強やVISAの取得、渡米に当たっての資金調達のためのアルバイトの掛け持ちや派遣の仕事など、積極的に動くことができるようになりました。辛かった高校2年の大きな挫折はここに繋がっていたのかと思うと、本当に神様の御計画の素晴らしさを覚えずにはいられません。
“あなたがたは、さきの事を思い出してはならない。また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事を成す。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。”
イザヤ43:18-19
顎関節の不調のため2度ほど手術を受けなければならず、直ぐにはアメリカに来ることができなかったのですが、高校卒業から2年半の準備期間を経て、満を持して20歳の夏、2016年の秋学期からロングアイランドのコミュニティカレッジでの学生生活をスタートしました。念願叶ってのアメリカでの大学生活でしたが、文化も仕組みも右も左も全く分からず、言語の壁もまた大きく、幾度となく心を挫かれました。未知の土地での暮らしは、どんなに頑張っても自分一人の力ではどうにもならないことばかりで周りの方々に助けを仰がなければ生活できず、一丁前に自立して努力して進んでいると驕っていた自分を省みました。そして、自分の力で解決しようとする前に、まずは神様に委ね祈ることの大切さをレッスンされました。また、今まで当たり前のように近くにあった家族や友人たちという“支え”から離れたことで、これまで以上に聖書の言葉が私の拠り所となるようになったのです。
昨年末まで住んでいたロングアイランドの地元の教会にパラパラと足を運んだりはしていたものの、やはり英語で執り行われる礼拝では霊的な満たしが得られず、母国語でメッセージを聞き、賛美をし、交わりをしたい、との気持ちが次第に高まっていきました。正直なところ、生まれた時から教会に通い、小学生の頃に洗礼も受け、聖書の言葉も祈りの文句も諳んじれるというのに、私はこれまで心の底から神様を求めたことがありませんでした。気づいたら当たり前のごとくそこに神様の存在があったからこそ、その御恵みと本質を見失っていたのです。昨年末、個人的なことでいろいろと不安や悩みを抱え、かつてない霊の渇きを覚えた時、日本の教会の宣教師の先生から繋げていただいて、昨年のサンクスギビング特別礼拝の際初めてNJ日本語教会の礼拝に参加する恵みに預かりました。ロングアイランドから電車と地下鉄を乗り継ぎ、送迎の車に乗せていただいて教会の建物の前に降り立ったとき、私の霊が震えたのを感じました。聖霊様が働いてくださったのだと思いますが、なぜだか「私はこの場所をよく知っている」と思ったのです。確かにここには霊の癒しがあると感じ、教会の建物を見ただけだというのに、涙が止まりませんでした。久しぶりに日本語で歌う賛美、語られるメッセージ、全てがとてつもない勢いで私の渇いていた霊を潤していき、これまでのクリスチャンとしての歩みの中で一番恵まれた礼拝の時となりました。その時、錦織先生を通して語られたメッセージは導きについてでした。神様は私たちが気づいていなくてもいつも導いてくださっていて、私たちが“涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとし”てくださるというのは、その苦しみの渦中にあっても潤いと慰めを与えてくださるのだ、ということ、その時非常に心を悩ませていた私に直に響くメッセージでした。
神様の御力はこれだけに留まらず、NJの教会へ足を運んだのを合図にしたかのように次の数週間はものすごい恵みの連続でした。NYクリスチャンユースのバイブルスタディのVineへの参加で同世代のクリスチャンの仲間との出会いに分かち合いの機会が与えられ、高額なアメリカの大学の学費に頭を悩ませていたところに日本の教会の姉妹から学費援助の申し入れを受け、またその姉妹からの提案を聞いた同日に編入の願書を出していた数校の大学のひとつであったCUNY Hunter Collegeからの合格通知…恵みと驚きのドミノのような日々でした。Hunterはマンハッタン市内にある大都会の学校なので、マイペースに勉強したい私のような者にはあまりに忙しなく、合っていないだろうと願書を出した当初は第2〜3志望くらいに考えていました。第1志望であったアップステイトの私立校からも合格通知と高額な奨学金のオファーをその1週間後に受け取りましたが、NJの教会へ行けたこと、新たなクリスチャンの兄弟姉妹と出会ったこと、そして日本の姉妹からの学費援助の申し入れ、サンクスギビング礼拝の時に語られた神様からの“導き”を私の霊がそこに感じていました。このまま続けてNJの教会へ行きたい、兄弟姉妹との分かち合いに足を運びたい、今神様により与えられたこの場での繋がりを大事にしたい、その思いが募り2週間ほど祈った後、続けてNJの礼拝も守れる上バイブルスタディなどにも参加できる市内付近での生活を選び、第1志望を断ってHunterに進学することを決めました。
“あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”
詩篇37:5
こうして新しい学校での学びと共に、新しく与えられた多くのクリスチャンの兄弟姉妹との分かち合いを毎週持つことのできる生活が始まり、今私はこれまで感じたことのない霊の喜びを感じています。毎週礼拝の中で神様からの課題や問いかけを与えられ、毎朝のディボーションの中でさらにその問いかけに対する神様からの追求があり、その日その日を聖霊様からの語りかけに自分の思いを寄せながら過ごし、週に何回か参加させていただいているスモールグループやバイブルスタディなどの場で兄弟姉妹とその週自分と神様との間で持たれた対話について分かち合うという、とても霊において充実した日々を送ることができています。この度、正式にNJ日本語教会への準会員としての転入を承諾していただく恵みにまた預かり、兄弟姉妹とともに主に仕える機会が与えられたことにさらなる喜びと感謝に溢れています。振り返ってみると、出生時から主の祝福はいつも私の上にあり、私が塞がって主の光も声も届かなかった重たい時期においても神様は私に必要な助けと慰めを常に側に置いてくださり、私の思いやその先に見ていたビジョンをはるかに超えた素晴らしい御計画と道へ誘ってくださいました。そしてその導きにようやく私の霊も気づいた時、これまで経験したことのない満たしと喜びを受け取ることができました。アメリカでの生活はまたチャレンジで闘いの日々ではありますが、神様に全てを委ねて共にゆく道は、人智をはるかに越えた神様の御計画に期待し歩む喜びの道である事を私は今確信しています。
“それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。”
ローマ5:3-5
私たちの前に絶え間なく試練こそあれ、それによってさらに主との関係が強められ祝福されるのであれば、それは私の喜びです。昔のようにただ自分を押し殺す忍耐ではなく、主に全てを明け渡して、主に手を引いていただいて挑む日々に、希望を寄せて歩みたいと思います。
今年、ニュージャージーでは、本当に雪の少ない冬を過ごしてきました。11月に突然雪が降って、大混乱しましたが、そのあと、12月から2月まで寒い日はあっても、降るのはいつも雨。こんなに雪が少ない冬は今まであっただろうか?と思って調べてみました。すぐ見つかるのはニューヨーク市のの記録。教会のあるNJのメイウッドよりも雪が少ない場合もあるのですが、こちらの記録を見ると、ほんの7年前、2011-12年の冬は7.4インチしか降っていません。そして、2001-2年の冬はなんとたった3.5インチしか降っていないんですね。こんなにお天気バカの私でも、意外と覚えていないんだなあと思いました。
でも、3月に入っていきなり連日の雪の予報、早く春になってほしいなと思いますね。どんなに穏やかな、雪の少ない冬でも、早く春になってほしいものです。
そして、教会は3月6日にレントの期間に入ります。この言葉を初めて聞いた時には「アパートのレントと紛らわしいなあ」と思ったものですが、英語では「Lent」、アパートの方の「R」で始まる「レント」とは全く違う言葉。イエスの十字架への道をたどり、イエスの苦しみに心を向け、イエスの復活をお祝いするイースターを待ち望む時です。
21年間ずっとこの教会の牧師としてレントのテーマを考え、その学びを導いてきて、イエスが十字架に向けて歩んでいかれた思い、以前よりも深く感じるようになってきました。それまでは「イエスの十字架によって、自分も罪赦されてありがたいなあ」という程度だったのですが、このレントの学びを続けていく中で、「イエスはどんな思いで十字架に向かっていかれたのだろうか」というイエスの思いに心を向けるようになってきました。もちろん、ただの人間である私たちにはイエスがどんなことを考えておられたのかは完全にはわからないのですが、そこに思いを向けることによって、イエスの歩まれた道をたどること、イエスが人々を愛されたように、私たちが人々を愛するとはどういうことなのだろうかを考えることの大切さを感じています。
「キリストは、・・・おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8-10
今年のテーマは「イエスの苦しみ・私たちの苦しみ」です。私たち自身はどうして苦しみを味わうのか、3月8日から毎週金曜日夜7時半から9時まで、教会で学びをしています。是非お出かけください。
そして、「Lent」は語源をたどると「春」という意味があるそうです。春の喜びを少しずつ味わっていくこの季節に、私たちのために命を与えてくださったイエスの恵みを少しずつ味わっていくことができますように。