2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

<集会紹介>「NY礼拝」(2024年6月)

2021年9月にNY礼拝が始まってから間もなく3年になろうとしています。「もう3年」ですが、「まだ3年」です。

私(錦織)がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは30年前、1994年の秋だったのですが、その時も、NYからNJにある教会に集ってこられる方が多くおられました。ある方々は自家用車で、また、ある方々は毎週NJからの奉仕者が運転する教会のミニバンに乗って、集ってこられていました。

1997年にこの教会の牧師としての働きを始めたときに、マンハッタンの大学に通うクリスチャンの学生から相談されて、学内でのバイブルスタディーに行くようになり、そこから教会に来るマンハッタンやクイーンズの学生たちが増えてきました。洗礼を受ける学生たちも起こされてきました。その頃から「平日はこのように自分がNYに来て、集まりを持つことができるけれども、日曜日はNJの教会まで来るのが大変だから、そこで止まってしまう学生たちがいる、何とか、NYで礼拝はできないだろうか」と祈り始めました。

大学でのバイブルスタディーはクリスチャンの学生たちが卒業して、2-3年で終わってしまったのですが、その後も、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

そして始まったNY礼拝、毎月第2日曜日の午前中にマンハッタンのスタジオをお借りして集まって、礼拝をささげています。場所と時間は違いますが、ほぼ、NJと同じプログラムで、同じメッセージをお話しています。いつもNJまで来られる方々も、なかなかNJまでおいでになるのが難しくて、NY礼拝だけに来られる方々もおられます。住んでいるのはNJだけれども、車がないのでNYの方が便利な方や、旅行で来られる方、ウェブページを見て来られる方、ご高齢の方、若い方、いろんな方が集われています。まだ、このNY礼拝から洗礼にまで導かれる方は出ておられませんが、一人でも多くの方々に、聖書のメッセージを、イエス・キリストの福音を伝えたいと願っています。

今月は6月9日(日)午前10時15分から、場所はRipley-Grier Studios #2B (2階)    939 8th Ave (55thSt. & 56thSt.の間)。是非お出かけください。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

2024年5月<牧師室より>「宇宙ってホントにすごい」

  「おお、わお、すげえ・・・」

 自分はどうして、こんなにも表現力が貧しいのかなと思いますが、それが4月8日に皆既日食を見たときに出てきた言葉です。

 今から50年くらい前、小学生時代の誕生日パーティーで友達にもらった「宇宙のひみつ」という学習漫画にハマりました。何度も何度も読み返しました。その中に「日本で皆既日食が見られるのは2035年・・・その頃は僕たちはおじいちゃん・おばあちゃんだね・・・」というくだりがあり、「そうか、楽しみだな」と思っていました。しかし、その後アメリカに引っ越して、なんと、想定よりも18年も早く、2017年8月にサウスカロライナで初めての皆既日食を見ることができました。見事に真っ黒になって周りにコロナが広がっている太陽。必死になって写真を撮っていました。

 それから6年半。ずっと「次も見るぞ!」と思っていた皆既日食、前回の片道12時間に比べて、今度は4時間くらい運転すれば着く、ということで、絶対行くぞ!と楽しみにしていました。

 2週間くらい前から4月8日の天気予報を注目していたのですが、毎日コロコロ変わる予報。「ダメかなあ」「いや、行けるかも」「まあ、3日前まで分からないだろうなあ」と気分もアップダウン。でも、2-3日前には「大丈夫そう」ということで、ニューヨーク州のPlattsburghか、湖を挟んで対岸のバーモント州のBurlingtonに照準を合わせて準備をしていました。

 でも、当日になって、ちょうど日食の始まる2時頃から雲が広がってくるという予報。不安の中で何とか見えてほしいな、と思って朝7時に家を出ました。計算では11時半頃には着くはずが、途中混んでいて着いたのは1時半頃。何とか間に合いましたが、空は予報どおり薄曇り。「ダメかも・・・」と心配しましたが、薄雲も本当に極薄の薄雲で、3分間の天体ショー、存分に楽しむことができました。今回は、前回の反省で、写真を撮ることになりすぎないで、天を見上げて、自分の目で日食を見て、自分の肌で空気を感じることができました。

さっきまで直接見ることができなかった太陽が黒くなり、周りに明るくコロナが広がっています。

空全体が薄暗くなり、夕暮れのよう。そして、3分の後半、その黒い太陽の右下の方から赤い炎が漏れてきているようでした。

そして、だんだん右下の方が明るくなってきて、キラッとダイヤモンドリングが現れて、すぐにまた明るい太陽に。

ああ、こうやって書きながらも、あの感じ、あの空気は言葉ではうまく表せないなあと思います。

ちょっと引いて考えてみると、太陽の大きさは月の400倍。その太陽がほぼぴったり月に隠されるというのは、地球からの距離が太陽は月の400倍だから。

太陽を直径40センチのビーチボールの大きさにすると・・・

地球:直径約4ミリのご飯粒くらい。
月:直径1ミリのゴマ粒くらい。
地球と月の距離:約10センチ。

ですから、4ミリのご飯粒の周りに10センチ離れて1ミリのゴマ粒が回っている、それが地球と月の関係。そして、40センチの太陽が地球からどれくらい離れているかというと、2メートルとか、5メートルとかではなく、なんと40メートル。

→今回の日食:目の前10センチのところにある1ミリのゴマ粒が、40メートル離れた40センチのビーチボールをぴったり隠した、ということ・・・すごいと思いませんか!

 でもこの太陽とか地球とかは宇宙の中ではホンの片隅の星。この宇宙を造られた神様が、この小さな地球に生きている、ホンの小さな存在である私たちに目を留めてくださっている、日食も経験できるようにして、神さまの素晴らしさを教えようとしておられる。これはなんとすごいことではないでしょうか。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

詩篇 19篇1節

日本の皆既日食11年後です。是非、皆さん楽しみにしていてください。その他にも2年後のスペイン、3年後のエジプト、4年後のオーストラリアと、いろんなチャンスがあります。是非ご検討ください。

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

<集会案内>「礼拝」(2024年5月)

「皆さん、こんにちは!」

 私たちの教会の礼拝は、まず、この「こんにちは!」の挨拶と教会のニュースで始まります。それはどうしてかというと、私たちが一人一人個人的に神さまにお祈りすることも大切ですが、それと共に、一緒に集まって礼拝することが大切だと思うからです。

 聖書の中にはこのような言葉があります。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネの手紙 第一4章12節)

 神さまは目に見えないでしょ。神さまがいるっていうけど、見えないじゃん。でも、私たちが互いのことを大切にして、祈り合い、励ましていくときに、神様がそこにいてくださるんだよ!というのです。ですから、神さまが教会堂にいて、そこで一人一人バラバラに礼拝をするのではなく、素敵なステンドグラスがあるから、そこに向かってお祈りするのでもないのです。私たちが一緒に集まるところに、そして互いのことを心にかけて、一緒に礼拝をささげるときに、本当の礼拝があるのです。ですから、私たちは最初に「こんにちは!」と挨拶から始めて、教会の中のニュースをアナウンスして、礼拝をスタートするのです。

 そして、讃美歌。私たちはここ数十年の間に作られたノリのいい現代の歌も、歴史の中で歌い継がれてきた伝統的な讃美歌も、いろいろ歌います。大切なのは、心から神さまの素晴らしさを歌うこと、神さまの大きさ、愛と力に感謝して歌うことです。伝統的な讃美歌の中には「この歌、どこかで聞いたことがある!」「幼稚園の時に歌った!」みたいな曲もあるかもしれません。

 それから、祈り。祈りは、うれしいことも、泣きたいことも、何でも心にあることを神さまにお話すること。個人的に心の中で祈る時もありますが、誰かが代表して祈り、みんなでそこに心を合わせる時もあります。でも、心配しないでください。何の予告もなしに「あなた、みんなを代表して祈ってください」みたいな指名はしませんから。

 そして、聖書。「神からのラブレター」と言われる聖書の言葉を読んで、牧師がそこから説き明かし、現代に生きる私たちへのメッセージを語ります。だいたい30-40分くらい。毎月第2週は最初の10分くらい子どもたちのためにもお話します。コロナ禍でのリモートの時に始まった「バイブルおばさん」シリーズ、今も続いています。大人の方々の中にも「自分にはこれくらいがちょうどいい」という声も・・・。

  献金。神さまが与えてくださった素晴らしいことに感謝をして、クリスチャンは自分の人生をまるごと神さまにささげていく、その一つの表れとして、与えられたものの中から神さまに献金をします。これは入場料や会費ではありませんので、初めての方や、クリスチャンではない方はご心配なく。

 そして、1時間15-30分の礼拝の最後に「祝祷」と言われる祈りを牧師がささげます。これは、ここから出て行く時に、神さまが共に行って、守り、祝福を与えてくださるようにという派遣の祈りです。私たちはここで力をいただいて一週間の歩みに出ていくのです。

 いろいろ詳しく礼拝の中でなされていることの一つ一つの意味を書いてきましたが、礼拝は、目に見えない神様の前に、皆で一緒に出るとき。是非、一度お出かけください。私たちは、初めての方、クリスチャンでない方々も大歓迎です。百聞は一見にしかず、是非、一度私たちの教会の礼拝にお出かけください。

「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17

 

<集会紹介>(2024年4月)「祈祷会」

「祈祷会」って何をやるの?という方も多いかもしれません。その名前から「祈祷師さんか何かにお祈りしてもらうの?」という質問を受けたこともあります。英語では「prayer meeting」。祈りたい課題を挙げて、互いのために祈り合う集まりです。

クリスチャンにとっては「祈り」は「呼吸」のようなものと言われます。それがなければ生きていけない「いのち」を支えるものです。また「神との会話」とも言われます。何でも、神さまの前に自分の思っていることを言葉にして(また、言葉にならない部分も合わせて)、訴えるものであり、また神さまが私たちの心に語りかけてくださるのを待つときでもあります。

私たちはその「祈り」を普段は個人的に一人一人の心の中でしています。日本の文化の中で育った皆さんはそちらの方がなじみがあるかもしれません。日本のドラマでも、神社で並んでお祈りをして、「何を祈ったの?」「それは秘密だよ」なんて言い合うセリフがあったりしますね。それが日本では普通なんでしょうね。でも、教会では、それと共に、声を出して一緒に祈る時もあります。

イエスもこのように言っています。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイの福音書 18章19節)

2-3人で、5人で、10人で共に祈る時があります。個人的にそのような集まりを持つこともありますが、私たちは今、教会全体として、毎週木曜日朝と夜にZoomで集まって祈り会を持っています。

実は、このZoomでの祈祷会、4年前にCovid-19の感染拡大で、教会の集まりがすべてオンラインに移行したときに、とにかく単なる一方的なオンライン配信ではなく、双方向通信で、お互いの情報を交換することも含めて集まり始めたのがスタートでした。仕事も学校もすべてオンライン、買い物に出るのもままならない中で、多くのメンバーが集まって共に祈っていました。4年が経ち、多くのことが平常に戻る中で、参加者もずいぶん減りましたが、続けてオンライン上に集まって祈っています。この集まりの中で「創世記」から読み始めた聖書も今は「列王記第一」まで進みました。

祈祷会は「spiritual ER」と呼ばれます。人の力の届かないところまで届く神の御手を動かす集まりです。この祈りの時は自分自身のためだけではなく、教会全体や地域社会、そして、世界で起こっていることへのとりなしの時でもあります。世界各地からアクセスできます。是非一度のぞきに来てください。Zoomのアクセス情報が必要な方はこちらまで。

2024年4月<牧師室より>「信じられない者への招き」

ハッピーイースター!

いつまでも肌寒い日が続いていますが、今年もイースターがやってきました。

このイースター、イエス・キリストが十字架につけられて、葬られたあと、3日目によみがえられたことをお祝いするお祭りです。今年も3月31日にはイースター礼拝と、礼拝後には愛餐会(ポットラックでのお食事会)を、また、4月6日には子どもたちのためのJOYJOYイースターを持ちます。是非お出かけください。

復活したイエスにお会いした、という人々がいる中で、イエスの十二弟子の中にもそれが信じられなかった人がいました。それはトマスという人です。イースターの日の夕方、イエスが弟子たちのところに現れて、本当にご自分がよみがえったのだと伝えた時、たまたま、トマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが喜びにあふれて「トマス、イエス様はよみがえったんだよ!」と言っているのを見て、彼はどんなに寂しい思いになっただろうかと思います。「どうして、私がいるときではなく、私がいないときにイエスは来られたのだろう」と思ったことでしょう。勢い余ってか、トマスは「私はイエスが十字架で手に釘を打たれたその傷跡に指を入れ、脇腹の槍の跡に手を差し入れてみないと、決して信じない」とまで言うのです。

それから1週間後、トマスがいるところに、イエス様が現れて、トマスが言っていたとおりのことを告げます。「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私の脇腹に入れてごらんなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

そこで、トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えるのですが、この場面、多くの画家たちによって描かれています。その代表的なものが、16世紀末から17世紀初めにイタリアで活動していたカラヴァッジオの絵です。

このトマスがイエスの脇腹に指を突っ込んでいる絵を初めて見たときには、本当にびっくりしました。私の想像では、トマスはイエスの言葉に、ただひれ伏すしかなかったのでは・・・と思っていたからです。「じゃあ、いいですか、指入れますよ」みたいな事をするだろうかと。今でもそのように思っています。

しかし、カラヴァッジオの絵をよく見てみると、トマスの手はイエスの手にしっかりと握られています。トマスの手を脇腹にぐっと引っ張っているのは他ならないイエス自身の手なのです。これは聖書に書かれていることではなく、あくまでもこの画家の解釈なのですが、イエスの脇腹の傷跡にトマスの指が入っているのは、彼の好奇心や「触らないと信じないぞ」という頑固さではなく、イエスの招きであり、イエスが「ほら触ってごらんよ」と手を引っ張ってくれたからなのです。

イエスは今も私たちを招いておられます。信じられないならば、調べてごらん。さあ、あなたの手を伸ばして調べてごらんと招いておられます。その上で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられるのです。

今年のイースター、一人でも多くの皆さんが、復活のイエスにお会いすることができますように。