牧師室より2018年12月号「サンタ来る?サンタする?」

「サンタ来る?サンタする?」

子どもの頃、うちにはサンタのおじさんは来ませんでした。

煙突がなかったから、ということもありますし、また、あまりいい子ではなかったというのもあるでしょう。でも、それだけではなくて、昭和40年代、多分、まだサンタさんが来る家が少数派だったのだと思います。両親が牧師だったので、教会ではクリスマスをお祝いするのですが、サンタさんとは無縁でした。ただ、クリスマスの諸行事が終わって、学校が冬休みに入ってから、デパートに連れて行ってもらって、好きなものを一つ買ってもらえるのが楽しみでした。7歳年下の末弟のところにはどういうわけかサンタが来るようになって、それは謎なんですが、それはちょうど、時代がそうなってきていたということもあるでしょう。でも兄たちとしては「なんだかなあ」という気持ちだったことを覚えています。

それから20年くらい経って、自分が子どもを持ったときに、「さて、どうしようか」と思いました。そして、それなりによーく考えて、こう言うことにしました。「サンタさんは、お金がなくて、お父さんやお母さんがプレゼントを買うことができないおうちの子にプレゼントをあげるんだよ。ウチはお金があって、お父さんがプレゼントを買うことができるから、サンタさんは来ないんだよ」と。まあ、なかなかいい言い方だなと思っていました。なんといったって、サンタさんのモデルになった聖ニコラオスは貧しい人たちにプレゼントをした人なのですから!
でも、この話もほどなく破綻します。息子がクリスマスの後に「え?〇〇君のところにはサンタさんが来たの?〇〇君のおうちはお金がないんだねえ!うちはリッチだからお父さんが買ってくれたよ!」と大きな声で言って回るようになるという、ちょっと考えれば「まあ、そうなるよね」という展開で・・・。

アメリカには「オペレーション・サンタ」という働きがあります(今年で106年目!)。郵便局に届いた「サンタさんへの手紙」の中から、「この子にプレゼントを贈りたい」と思ったものを選んで、プレゼントを買って、郵便局に持っていくと、それをサンタさんからのプレゼントとして配達してくれるというサービスです。プライバシーの問題もあるので、今では相手の住所や名前も知ることはできず、子どもたちがどんな風に受け取ってくれるかを知ることもできません。それはちょっと残念な感じがするのですが、子どもたちの安全を考えると大切なことですね。この時期、多く団体が同じような働きをしています。この季節、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20:35)と言われたイエスの言葉をほんの少しでも味わうことができればと思います。

みなさんにとって、良いクリスマスとなりますように!

2018年11月25日 『我らを持ち運ぶ神』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: イザヤ書46章1節〜9節

 

アブラハムの伝説。「こんなのに、そんなことできるわけない」
人々に運ばれる神と、私たちを運ぶ神。神はあなたを背負われる。
1)あなたをここまで運んだ神
自分の力で生きてきたと思っている私たち・・・違う。私が運んだ。
イスラエルの民・・・アブラハム、ヨセフ、モーセ「出エジプト」
あなた自身・・・子供の時から、一つ一つの出会い、神のところに導かれた。今日ここにいるのも、神があなたを運ばれた。
JCCNJの歩み・・・30年の歩みを支えられたのは神。必要を満たし続けてくださった神。私たちが神を支えているのではなく、神が私たちを支えてきた。
私たちは偶像礼拝をすることはないかもしれない。
しかし、自分が神を支えている、自分が神のために頑張ってきた、と思っているならば、それは偶像礼拝をしているのと同じ。
2)あなたをこれからも運ぶ神
「聞け」(3節)→神に聞くこと。55章「神の思いは人の思いと全然違うよ、だから、神の言葉に聞け!」
私はあなたを造ったから、あなたをここまで導いたから、ずっとあなたを負っていくよ、年老いても、白髪になっても。
「介護が必要な、自分では身の回りのことができなくなっても」私があなたを運ぶから。
Footprintsの詩
イエスは私たちの罪を負われた。死をも打ち破って、私たちを迎えてくださる。
<テイクアウトQuestion>
1)あなたが神様に運ばれたと感じることはありますか?神様はあなたをどのようにここまで運ばれたでしょうか?
2)これからのあなたの歩みについて、心にかかることはどんなことがありますか?それについて、神はどのように約束をしておられるでしょうか?

 

2018年11月18日 『谷間に泉が湧く』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 詩篇84編

 

 

幸い・・・アシュレーという言葉。
・・・語源は「導く」→「導かれている」→「幸い」
幸せは、状況で左右されるものなのか?
どんな状況の中でも、変わることのない、幸い。
実はこの詩は、離れた地にあって、エルサレムを思って書いた詩。
1)主の家に住む幸い
あなたの居場所はどこか?ほっとできるところ。
家庭、職場?
神こそが、あなたの居場所になる。神はあなたのことを受け入れる。
2)谷間に泉が湧く幸い
バカの谷を行く時もそこに泉が湧く。
バカ・・・乾燥に強い植物。・・・渇いた谷、困難の谷。
新改訳「涙の谷」新共同訳「嘆きの谷」
状況が困難であっても、そこで泉が湧くのだということ。
「乾ききった谷を通り過ぎたら、オアシスがある」というのではない
涙の谷の只中で、泉を与えてくださるのが神様。
3)神を信頼する幸い
信頼する・・・身を投げ出す、という意味の言葉。
自分の願った通りにならなくても、主は良いことをしてくださるのだと信じること。⇔自分の願い通りに神様を振り回す。
「あたりまえ」ではなく「ありがたき」こと。
イエスが私たちのために命を与えてくださったのだから。
<テイクアウトQuestion>
1)あなたはどんな時に幸せを感じますか?こうなったら幸せなのに、と思うことはありますか?
2)状況に左右されない幸せ、というものがあると思いますか?それはどんなものでしょうか?
3)谷間の中でも泉が湧く、とは実際にはどのようなことなのでしょうか?そのような経験をしたことがありますか?

2018年11月11日 『『一切は空』から『主にある喜び』へ』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 伝道の書12章1節〜14節

 

序)
まず「神が・・・」から入らない方法もある。
「伝道の書」はそのアプローチ。
始まりは「空の空、空の空、一切は空」。
平家物語のよう・・・諸行無常
結論は「神を恐れよ」。
1)神抜きで生きる意味
ソロモンの権力、富、知恵、名声。・・・一切は空。
ジョージ・フォアマン・・・力、勝利、名声、富・・・こんなことのために生きているのか?
この水を飲む者はまた渇く(ヨハネ4:13)
私たちのうちにある空洞。それを埋めるためにいろんなことをする。
なんとか埋めようとする。なんとか見つけようとする。
しかし、それでは満たされない。
私が与える水を飲む者は、いつまでも渇かず、私の与える水は、その人の中で泉となる(ヨハネ4:14)
2)人の限界と神の支配
3章・・・全てのことには時がある。
→神のなさることは時にかなって美しい。(11節)
→でも、私たちは全てを見極めることができない。
水の上にパンを投げよ(11章1節)
無駄に見えるようなことでも大胆にしなさい。
見えなくても、神様は報いてくださるから。回収させてくださるから。
ローマ8:28・・・万事を益にしてくださる
テイクアウトQuestion
1)「はじめに神が・・・」と始まる創世記と、最初に神を前提としていない伝道の書と、あなたはどちらが受け入れやすいですか?
2)あなたの心を満たすものは何でしょうか?本当に神様によって満たされているという感覚がありますか?
3)神様を信頼する時にどのような生き方ができるでしょうか?

2018年11月4日 『炎をもって答える神』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 列王記上18章17節〜39節

 

序)
民は神と共に歩まない。神に背く、神を捨てる。
そんな中で、神と共に歩む人々。このエリヤもその一人。
神と共に歩むとはどういうことなのか、それをここからお話しする。
1)壊れていた祭壇を繕う
・祈りの祭壇・・・あなたの祈りの生活はどうなっているか?
 壊れていた祭壇・・・人々に忘れられていた/軽んじられていた。
 気にはなっていたのだけれども・・・実行しないとダメ。
・自分自身の献身
 ささげもの。
 最高のものを主に捧げる。
・イエスの十字架の恵み
 しかし、結局のところ、私たちの祭壇は、イエスの十字架。
 イエスの十字架に感謝すること、その恵みに応えること。
 →悔い改め。
2)天からの火を求める
・天からの火・・・聖霊様。
・聖霊様はどんなことをなさるか?
 罪を示し、救いを示す ヨハネ16章8節
 イエスを証しする ヨハネ15章26節
 私たちに力を与え、イエスの証人とする 使徒行伝1章8節
 み言葉を私たちの心に分からせてくださる
 平安を与えてくださる。
  不純なものを燃やし尽くしてくださる。
テイクアウトQuestion
1)「壊れていた祭壇」というところで、あなたは何が壊れた祭壇だと思いましたか?
2)聖霊様はどんなことをしてくださるでしょうか?今までどんなことをしてくださいましたか?今日は祈っている中で、どんなことを語ってくださいましたか?

 

「9月30日、私は・・・リッジウッドのベツレヘム教会にて・・・」

9月30日、私は5歳の娘エミリー、10か月の息子ウィリアムと共に、リッジウッドのベツレヘム教会にて洗礼を受けました。立ち会って下さった錦織先生はじめ、駆けつけて下さった日本語教会の方々、個別に祝福のメッセージを下さった方々、神の家族になる喜びを共に感じて下さり心より御礼申し上げます。

私のキリスト教との関わりは幼稚園とカトリックの私立中高でした。片道2時間かけて通学していたのですが、中1のある日、通学のバスの中で読む本がなかったので、聖書を手に取りました。この学校では6年間通して、週1時間「宗教」という科目が設定されているのですが、この日は「宗教」がある日だったので、カバンの中に聖書が入っていたわけです。旧約聖書から読み進めてみると、これがなかなか面白い。神と人との関わりを巡る物語に魅了され、しばらく行き帰りのバスの中は毎日聖書を読んでいた記憶があります。とはいえ、新約聖書に入った途端に、説教臭くなり面白くない、などと感じ、そのままになってしまいましたが。

中高では、附属の修道会のシスター達が教員もしており、「宗教」を教えていました。このシスターがこれまた揃いも揃って厳格で恐くて怒った顔つきをしていて、中学生の私には、何が楽しみで生きているのか分からないような人達に見えました。自発的に読むのと違い、「宗教」の時間に読まされる聖書には興味が持てず、シスターの話も絶望的に退屈で、何を聞いても右から左へ抜けていくばかりでした。「宗教」の定期試験は論文形式でしたが、適当に書いて最後を「神様は本当に素晴らしい」「神の栄光を讃えます」などとまとめておけば、評価はAがつくので、舐め切っていました。私にとって「宗教」もミサも昼寝タイムでした。
私自身、それ以来ずっと神様に無関心なままでした。それが変わったのは、2015年に一家で誰も知り合いのいないニュージャージーに引っ越してきて、3か月ほど経った頃、友人に誘われて、クロッキー教室に行った日のことです。絵を描いたあとは聖書を開き牧師先生のお話を聞く時間もあったので、びっくりしました。教会主催の教室とはつゆ知らず、錦織先生に「何か教会関係のお仕事をされているんですか」などという、とんちんかんな質問をしてしまったのを今でも恥ずかしながらよく覚えております。(独身司祭しかいないカトリックしか知らなかった私は、妻帯してよい牧師という職業のことをよく知らなかったのです。)

この初めてのクロッキー教室が一生忘れない日になった理由はもう一つあります。実はその前日、悲しい出来事があり、私は喪失感に打ちのめされていました。お腹の赤ちゃんが8週で亡くなっていることが分かったのでした。1週前は元気に動いているのも見えたのに。酷かったつわりもピタリと止まり、しかし腹部はまるで鉛の玉が入っているかのような重苦しさでした。外出する気分ではなかったのですが、元気を奮い立たせて出かけたところ、絵を描いている間は悲しみを忘れている自分がいました。また、この日、実に25年ぶりに聖書を手にしたのですが、錦織先生が開いた箇所に書かれた言葉は、まさにその時の私が最も必要としていたものだったのです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、すべての人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人知では到底はかり知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、イエス・キリストにあって守るであろう。(ピリピ人への手紙4:4-7)」これは、大きな悲しみ、苦しみや悩みがあっても、神様に心の内を、自分の願いをすべて打ち明けたなら、「人知では到底はかり知ることの出来ない」レベルの平安が私を守ってくれる、という約束なのだ、というお話でした。

この日、神様は私を絵と言葉で癒して下さっただけでなく、ニュージャージーにまだあまり知り合いのいなかった私に多くの友人を与え、日々を豊かにして下さいました。特に、クロッキーをきっかけに、月に2度の日本語教会のスモールグループ「奥様会」には3年弱お世話になっていますが、牧師夫人の範子さんのおいしいランチを頂きながら、小さな子供を持つママたちとの、子育ての悩みや喜びを共有し家族のために共に祈る時間に、今までどれほど救われてきたか分かりません。その後二度目の流産、そしてようやく第二子ウィリアムを授かった時も、「奥様会」の仲間たちは多大な心の支えになってくれ、この素晴らしい出会いにただ感謝するのみです。

神様はまた、いつも最善のご計画を私に用意して下さっていました。エミリーが生まれてから3年間は、私は専業主婦をしていましたが、ずっと、どこか大事なものが人生に欠落しているような、自分のアイデンティティが崩れ落ちていくような、そんな感覚を持っていました。日本にいた時はフルタイムで高校教員として仕事を続け、アメリカに来てからは大学や補習校で仕事をしながら大学院で研究生活を送り、とにかく突っ走ってきたので、突然自分が何者でもなく「母」「妻」でしか無くなった時に、苦しくなってしまったのです。

そんな時、「奥様会」の友人が、学校で音楽を教える仕事の空きがあると知らせてくれました。最初は自分の専門分野とは違うと思い躊躇したのですが、強く勧めてくれたその友人の言葉に背中を押され、応募してみたところ、採用されました。約一年の勤務期間、これほど自分の趣味と仕事内容が一致したことは初めてで、天職ではないかと思えるほど、生徒たちと一緒に作る音楽が楽しくて、毎日が幸せでした。途中で妊娠が分かり時期を見て校長に報告に行ったときも、私は出産後も仕事を続けたいと強く望んでいることを伝えたのですが、学校に産休も育休も無いため、一旦退職しなければならないと言われました。やり切って満足して去るのであれば、もう振り返ることもないのですが、年度途中だったこともあり、自分の中でやり残したこと、これから生徒たちとやりたいことがたくさんあったので、大変に後ろ髪を引かれる思いでした。こうして私は出産3週間前に退職しました。

その後、二人目育児に専念する毎日の中で、私は出来るだけ、失ったもののことは考えないようにしていました。でもふとした時、授乳中や一息ついた時には記憶が蘇り、息が詰まりそうになるのです。なんとも言えない寂しさや悔しさがこみ上げ、なぜ辞めなければならなかったのかと、どうしたらまた戻れるだろうかと、どうにもならない思いを巡らせる自分がいました。赤ちゃんは可愛いし、この上ない恵みであったと思う一方で、退職に関していまだ納得のいっていない自分がいて、そのうち夢にまで見るようになりました。その繰り返し見る夢の中では、私は音楽教員なのですが、教室に行くと後任の音楽教員がいて「あなたはもう辞めたんですよ」と言われたり、合唱指導にてこずっている彼女を見かねて私が指導をすると、生徒たちの合唱が見違えるように良くなるとか、それはぽっかり穴が開いたような、それでいて傲慢な、自分の心の内をあらわした夢でした。その夢から覚めた時には、いつも何とも言えない嫌な気持ちになるのです。

それが、ある日を境に、悪夢にうなされることも、授乳中に無念さのあまりに窒息しそうな気持ちになることも一切なくなったのです。今年3月に私たちはリッジウッドに引っ越しをしたのですが、引っ越しを決めた後で気付いたのは、家の斜め前がベツレヘム教会だったということでした。オープンハウスの日は雪が降っていて気付かなかったのです。すると5月のある日、夫が突然日曜礼拝に行くと言い出しました。青天のへきれきでした。夫は信仰心の篤い家庭に育ち幼少の頃に洗礼を受けていますが、出会って10年、教会へ行くことはおろか、彼がクリスチャンらしい行動や言動を取ったのを見たことがなかったからです。夫はその次の日曜日も、そのまた次の日曜日も、子供たちを連れてベツレヘム教会に行きました。私はというと、家で自分一人で過ごす日曜の朝をのんびり満喫していました。一緒に礼拝に行くという考えはありませんでした。当時はウィリアムが夜中何度も起きてその度に授乳していたため、慢性的な寝不足で頭痛もあり、礼拝なんか行くぐらいなら家で休んでいたい、というのが本音でした。すると夫は「じゃあスリープトレーニングが完了したら、一緒に礼拝に行こう」と言い出しました。私にはなぜ夫がそんなに教会に行きたがるのか、まるで分かりませんでした。7月になり、ウィリアムのスリープトレーニングは無事成功し、夜を通して寝てくれるようになりました。私もまとまった睡眠が取れるようになり、体調も回復し、もう礼拝に行くのを断る理由が無くなったなどと考えていたとき、夫が言いました。「I have found my faith again.」と。

そういうことだったのか、と思いました。家探しを始めたその日に行ったオープンハウスで即決した家。目と鼻の先に教会。あれだけ神様から背を向けて生きていた夫が一度も欠かさず毎週日曜は礼拝へ。すべて神様のご計画のうちだったのです。そして次は私の番でした。夫の強い後押しを受けて、7月下旬から、私も家族とともにベツレヘム教会の日曜礼拝に行くようになったのです。あまりに熱心な夫に引きずられる形ではありましたが。そして忘れもしない8月5日、私にとって2回目の礼拝で生まれて初めて聖餐式でキリストの体と血を頂いた日。その日の朝、私は例の嫌な夢を見て目が覚め、何とも言えない鬱々とした気持ちでした。重い足取りで教会に入ったはずなのに、礼拝の1時間、神様の言葉を耳にし、賛美歌を歌い、静かな祈りの時間を過ごしていた間、悪夢のことは全く忘れていて、とても穏やかな気持ちで家に帰ってきたのでした。浄化されたような、救われたような感覚でした。「自分の方が子供たちを引き付ける楽しい音楽の授業が出来るのに」「制度上の理由で私を辞めさせるとは、学校にとってどれだけの損失になるかなんて上は考えてもいない」と、向けどころのない怒り、失望、思いあがった傲慢な考え・・・どれもネガティブな気持ち。そんなものが沸き上がる毎日に疲れ、神様にもっと救われたい。もやもやした気持ちから解放されて、神様が与えてくださった赤ちゃんとの生活を、もっと心から楽しめるようになりたい。そんなふうに素直に思えたのです。この日初めて、神様にすべて委ねたい、安らぎたい、と思え、洗礼を受けようと決意しました。そして、この日以来、悪夢を見ることもあの窒息しそうな感覚に陥ることもなくなりました。今では、仕事のことも、いずれ神様が私にとって一番良いタイミングで、私の進むべき道を用意して下さると信じ、平安の中に、失ったものではなく自分が持っているものに感謝をしつつ、日々過ごすことが出来ております。

ちょうど1年ほど前になりますが、錦織先生に聖書の学びのコースを受講させていただいた最後に、「今はどのようなお気持ちですか」と洗礼のことを聞かれて、今は準備が出来ていないしきっかけもないと答えた私に、先生は「では僕は待っています」とおっしゃいました。「クリスチャンになってすべてを神様に委ねる人生はとてもラクなんです」とも。神様の存在を信じる気持ちはずっとあったけれども、聖書も読破していないし、日曜礼拝に休まず行く自信はないし、クリスチャンになる資格はないと、私は勝手に思い込んでいたのです。しかし神様の愛はいつもそこにあり、私がそのことに気付けず神様を信頼できていなかっただけなのでした。

こうして私たちは家族4人で、ベツレヘム教会のメンバーになり、日曜礼拝を守るようになりました。エミリーとウィリアムを教会に育てて頂けることはこの上ない喜びです。夫は教会に通った子供時代の経験から、私はキリスト教系の幼稚園に通った経験から、子供たちの健全な人格形成のためにキリスト教教育をしたいと思ってきました。やはり大きな存在、大きな愛に守られているという安心感の中で自己肯定感を育み、感謝の気持ちや他者への愛を持つようになって欲しいと考えるからです。ここまで神様が一つ一つ導いてくださったこと、家族で同じ方向に心を合わせて歩んでいけることの恵みに感謝しつつ、私の証しとさせて頂きます。

「この世に、命を授けて頂いてから半世紀・・・」

この世に、命を授けて頂いてから半世紀以上、そしてその半分以上をクリスチャンとして生活している私ですが、洗礼を授けて頂いたボーンアゲインの頃の、純心な主への思いは、様々な困難により、強まる様でもあり、ゆるんで行く事も、多かれ少なかれ・・・のようです。
人生は、バラ色だの、楽しむものだのと、若い頃は夢多き日々を送っておりましたが、辛い日々の方が多いのでは?でも、その中で鍛えられているのです。

両親がクリスチャンだった母ですが、クリスチャンではない父と結婚をして、その父が肝癌で亡くなる2年前に、二人はアメリカに来て、NJ日本語キリスト教会の初代牧師から洗礼を授かりました。その後、母は晩年をアメリカで私と一緒に過ごして天国へ召されました。

私には、歳の離れた3人の兄がおり、兄弟みんな東京の玉川学園で、小学部からキリスト教の礼拝を受け、賛美歌を賛美し聖書を学びながら、青春時代を過ごしておりました。
ところが私はどうした事か、高等部卒業後、友達の反対をもおしきり、大阪のPL女子短大へ進みました。寮生活で、リーダー的な立場で、異教の教えにどっぷり浸かり、なんとも、変った宗教人生の、スタートを歩んで来ました。日本人の多くの方は、色々な様々な宗教や、教育を受けられて、こんなに柔軟な考え方、教育経験を持っておられる人種は、少ないのではと思います。

そんな中で、私がクリスチャンになれたのは、アメリカに元夫と来て、息子も生まれ、贅沢な人生を送っていた時でした。そんな生活だったのですが、親離れが出来ていない、お互いの生活に危機が起こり、近所に住んでいたNJ日本語キリスト教会の方に救われました。

そこで、家族3人で、洗礼を授かり、めでたしメデタシ・・・とは終わらず・・・。

元夫も、新品クリスチャンになった頃は、日本語教会の初代牧師のカバン持ちをするなど、熱心な教会活動をしていました。でも、何が起こるか、人知では計りしれません。その後、マンハッタンの日米合同教会に移籍する事になりました。
その時も、熱心に家庭集会を開いて、近所のクリスチャンでない方も招いたり、有名な、アーサー・ホーランド先生や、森祐理さんも、家に宿泊して頂いたりした事もあるほどの、信仰に恵まれていたファミリーだったのですが、その後、離婚、息子との別離が続きました。洗礼を授かりクリスチャンになって、イエス様を主として、愛の家族として生まれ変ったはずなのに・・・今の私には、全てを善き事にして下さる神様の御業は、まだまだ先が見えません。

私の証しでつまずく方も、おられるかもしれませんが、いまだに、クリスチャンではない方とキリスト教の話をすると、「だからクリスチャンって・・・」と言われると、抵抗出来ずに、なんと頼りない不信仰な私です。

でも、試練と共に祝福もあります。カルフォルニアに住んでいる兄家族が全員、義姉とお母様、娘と新婚でコリアンの夫5人全員もが、同時にクリスチャンに、なれたのです。また日本に居る一番上の兄も、強力な母の願いで、日本で洗礼を授かりました。残るは、真ん中の兄だけですが、来年の母のメモリアルに、カルフォルニアで集合する時をチャンスにと、祈り願っております。

今年は、カルフォルニアで、NJ日本語教会の牧師が講師で、「生きる」という事をテーマにリトリートがもたれました。素晴らしいリトリートでした。日本から一番上の兄も来て本当に恵まれた集会でした。
そこで、今までアメリカ人教会と日本語教会とフタマタで、ご奉仕を両教会から避けていて、ただ、礼拝と賛美の栄光だけを、毎週頂くという、なんとも、ズウズウシイ教会生活をさせて頂いていた事を、悔い改めさせて頂きました。気が変らないうちに、すぐに、転入届けを出させて頂き、又、元の古巣へ、戻って来る事が出来ました。

このきっかけになった事の一つをご紹介します。

私の住んでいる部屋はコンドの8階にありますが、元々、母が日本から持ち込んだ家具や、荷物が満杯で身動き出来ない状態でした。ところがクーラーを直しに来た人が栓を閉め忘れるという考えられない事件が起き、ほとんどの物が水びたしになり、ダメージを受け、カーペットも全て取り外しとなりました。費用は相手の保険が殆んどカバーして下さいました。それは、母が亡くなってから、半年たってからの事でした。
多くのものを処分してガラガラになった部屋に、スペースが出来たところに、日本語教会の聖歌隊リーダーが、ルームメイトとなってくださいました。その方と行動を共にする事が増え、礼拝だけではなく、家庭集会や他の集会にも、顔を出すようになりなりました。この事も、主のご計画の一つでしたのでしょう。

色々様々な出来事を通して、主は導き又、たまには、試されるのです!

私には、「キリスト教の教えを伝える」というよりも、「イエス様の愛を感じて頂く様に伝える」方が、平安で居られます。イエス様が、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に、休みが与えられるであろう。わたしの、くびきは負いやすく、荷は軽いからである。」(マタイ11-29~30)私のために準備されたカスタムメイドのくびきは、なんと有難い事でしょう。無理する事は無い。全て疲れている人は、イエス様の所に来なさい、とも言って下さっている安心感はなんとも言えない喜びです。

再び洗礼を授けて頂いた教会に戻り、聖歌隊にも入れて頂き、新しく又生まれ変わった私のこれからの歩みは、まだまだベビーの様に危なっかしいですが、皆様の御協力を得て、一歩ずつ進歩している様ですので、宜しくお願い致します。

牧師室より2018年11月号「感謝したいこと」

「感謝したいこと」

「今からお花持っていきます!」との電話から15分くらいで現れたのは近所のNさん。教会のメンバーでもある彼は、野菜もお花も上手に育てる名手です。今回も見たこともないような立派な鉢植えのカニサボテンを持ってきてくださいました。数え切れないほどのつぼみ、これからどんな花を咲かせてくれるのかが楽しみです。

サンクスギビングが近づいて、今、自分自身が一番感謝したいこと、それは何かなあ、と考えていました。そのときに、まず、思いついたのが、「洗礼を受けて喜びにあふれて歩んでおられる方々の存在」でした。信仰に導かれて、洗礼を受けた方々の存在は本当に大きな喜びです。

でも、もっと深いところで感謝していることはないかなあ、と考えてみました。もしも、それがなかったとしても、これがあるからやっぱり感謝、と思えること、それは何かあるかなあ、と。

「健康が与えられていること」「家族が仲良くしていられること」なども感謝しましたが、たとえそれさえも失っても、自分を支えているものはなんだろうか?一つ一つのことが削ぎ落とされて、そこに残るのはなんだろうか、と。

その時たどり着いたのが、

「神様をより深く知ることができていること」

「神様を近く感じることができていること」

「礼拝メッセージの中で力を与えられていること」

でした。

10月の「eお知らせ」でも書かせていただきましたが、今年の9月から「ひびみこデイリー」を毎朝発信して、その1週間の聖書の箇所から礼拝でもメッセージさせていただいている中で、本当に神様との関係がさらに豊かに、さらに深くされて、礼拝でも力をいただいて語らせていただいます。ああ、自分にとってそれがいちばんの喜びであり、力なんだなあと感じましたのです。

「洗礼を受けた方々の存在」「教会に集う人々が与えられること」などは、植物で言えば、花や実にあたるのでしょう。しかし、立派な花や実をつけさせるためには、しっかり根を張らせ、株を充実させなければいけません。それが日々の祈りであり、そこで語られたことを分かち合っていくことだと思うのです。見える結果を出すためには見えない部分に心を留めないといけないのですよね。

これからの歩みの中でも、もっともっと神様を知っていくことができますように。そして、豊かな実を結ばせていただくことができますように。

2018年10月21日 『神と共に歩む』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 出エジプト記20章1節〜17節

 

  • 十戒・・・十戒の全体像、十戒こそ、神と共に歩むガイドライン。
  • イエスの言葉、マタイ22:36-40「神を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。
  1. 神を愛しなさい。
  • 私の他に何者をも神としてはならない(1)・・・神を神としなさい。
  • 刻んだ像を作ってはならない(2)・・・神様を形の中に、自分のイメージの中に、閉じ込めようとしてはなりません。
  • 主の名をみだりに唱えてはならない(3)・・・神を自分のために利用してはならない。

→神様をあなたの子分にしていないだろうか?

  1. 隣人を愛しなさい
  • 6つ目から9つ目は、明らかな周りの人との関係における戒め
    殺すな(6)、姦淫するな(7)、盗むな(8)、偽証をするな(9)
  • 人格を大切にしなさい・・・「神のかたちは人格である」
  • 「自分がしてほしいように、人々にもしなさい」マタイ7:12
  1. 自分を愛しなさい
  • 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」
  • 安息日を覚えなさい(4)・・・ただ、主の前に愛されている存在として、主に作られて、受け入れられている存在として「ある」。
  • 隣人のものをむさぼってはならない(10)・・・神様が与えられたもの、神様が託されたもの、そこに感謝をしなさい。
  • 父と母を敬え(5)・・・神があなたをあの両親のところに送られた。
  • 全ては最初の言葉が土台・・・「私はあなたを導き出した者である」
  • いつも神様の愛、神様の恵みが先。
  1. イスラエルの民はエジプトから解放されて、十戒を与えられましたが、あなたは神様からどんな解放を与えられているでしょうか?
  2. 神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することの中で、一番難しいと思うことは何ですか?

 

牧師室より2018年9-10月号「神の愛に満たされて」

「ああ、大変だ、もうアガペがない!」
「アガペを探しに行かなければ!」

今年のJOYJOYキャンプでは、「アガペ」をエネルギーに動くタイムマシンを舞台にしました。「アカペ」とは「神の愛」を表す「アガペー」というギリシャ語から名前を取りました。神様が私たちを愛してくださったその愛をエネルギーにして生きている、その私たちの思いを子どもたちに伝えたいと思ったのです。

また、その前、7月末から8月の初めまで、南カルフォルニアでのリトリートの講師のご奉仕に行って参りました。そのリトリートでいただいたテーマはずばり「生きる」。生きるためのエネルギーの源は、神の愛であることを思わされていました。

私たちは「オギャー」と生まれた時から、愛されなければ生きていけない存在です。親に愛され、周りの人に愛されて、それで生きていけます。それが生きるためのエネルギーになります。でも、成長していく中で、その人からのエネルギーが足りなくなる時があります。自分の中のエネルギーが枯れてしまって、誰か他の人にそれを期待するときに、期待を裏切られてがっかりするときもあります。そんなとき、他のところからの愛をもらう必要があるのです。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」第一ヨハネ3:16

イエスは私たちのために十字架の上で命を与えてくださいました。そこに、私たちが生きるためのエネルギーの源があります。そして、その愛をいただいて、私たちも周りの人々を愛することができるようになるのです。神の愛を求めていきましょう。

2018年10月7日 『祝福の約束』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記12章1節〜3節

 

「三つの願い」のストーリー。
あなたならば、何を願う?
私たちが願うべき「神の祝福」
1)「祝福」って何?
状況ではない。内側にあふれて外側に流れていくもの。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエルの歴史。
「祝福」は困難の中にあっても神によって与えられる力。
ブドウの実が熟して触ると果汁があふれてくる様子。
あなたは触ると何が出てくるか?
愚痴や文句、怒りが出てくることはないか?
2)呼ばれたら応える!
アブラハムは招かれて、神様に答えた。その通りに従った。4節。
自分を支えているもの、それを神様ゆえに手放した。
安定した生活、人の繋がり、慣れた土地
→頼るものは神なんだというところに立った。
神の約束を信頼した。
約束の子供が与えられるまでこれからさらに25年
ガタガタした時もあった。でも、そこでも神との関係に生きた。
3)やっぱりイエス様!
神の祝福はアブラハムとその子孫に。
その子孫というとユダヤ人、ユダヤ民族?でも究極的にはイエス
ガラテヤ3:16
そして、イエスを信じる者たちへ(ガラテヤ3:6-9)
イエスの十字架によって、神と共に歩む。
<テイクアウトQuestions>
1)あなたは今、何を求めているでしょうか?
2)「祝福」は何でしょうか?祝福されている人は周りにいますか?どうしてそう思うのですか?あなたは祝福されていますか?
3)祝福をいただくためには何が必要でしょうか?

2018年9月30日 『人の弱さ』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記11章1節〜9節

 

過ちを犯した人の言葉「自分の弱さと未熟さを自覚しました」
星野富弘さんの言葉「私は自分の弱さを自ら認めたくなかった・・・」
私たちは弱い存在。聖書はそのことをどのように語っているのか?
その中で私たちはどのように生きるべきか?
1)私たちの弱さ
アダムとエバの罪・・・神のように。逃げる、隠れる、責任転嫁をする。→それから罪が広がっていった。
カインの罪・・・妬み。
ノアの時代の罪・・・神に従うよりも、自分の好みを優先する
バベルの塔の罪・・・力を合わせて神に届く。
私たちの弱さ・・・もっと良く生きたいのだけれどもどうにもならない
でも一番弱さは、自分の姿を認めないこと。
2)弱さを持って生きる
弱さは克服しなければいけないような先入観。
→弱さを隠す。攻撃されると怖い。
⇔でも、聖書は弱さに神の恵みが注がれ流のだということを語る。
バベルの塔を建てた人々、「みんなで力を合わせる」
 力を合わせることによって、神に届こう
力を合わせることによって、散らされるのを防ごう
・・・地に満ちよ、と言われた神の言葉に対する不従順。
弱いから、神が必要。「神を信じるなんて、弱い人だ」?
神の前にひれ伏す。(ヨシュア記5章13−15節)
「一つになる」ことが変わる・・・神の前にへりくだることによる一致
<テイクアウトQuestions>
1)人は弱いものでしょうか?強いものでしょうか?強くなるべきでしょうか?そのままでいいでしょうか?どうしてそう思いますか?
2)バベルの塔を建てた人々の問題はなんだったでしょうか?
3)弱さを抱えて生きる私たちにとって、大切なことはなんでしょうか?

2018年9月23日 『罪の始まり』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記3章1節〜13節

 

 

・神が造られた世界・・・ならば、なぜ悲惨や不条理があるのか?
・神が造られた人間・・・ならば、どうしてこんなに問題があるのか?
・聖書の答え・・・罪が入ってきたから。
1)罪の本質
・サタンの誘惑「すべての木の実を食べてはいけないと?」
「あなたの目が開けて神のようになることを知っている」・・・神は意地悪、偽り者・・・神への信頼が揺るがされる。
・「あなたが神になる」
・・・神を神としないで、自分を神とする・・・これが罪の本質。
2)罪の結果
・恥ずかしい・逃げたい。
→「必ず死ぬ」・・・そこで倒れて死んだのではなかった。
・
神から離れてしまう・・・霊的な死。肉体の死も世の中に入って来た。
・責任転嫁・・・人に対して、神に対して。マタイ7:3
3)一筋の光
・15節・・・サタンに対する救い主の勝利。
・21節・・・皮の衣。
⇔アダムとエバのイチジクの葉・・・自分で自分の恥を隠そうとした。・・・すぐに萎れてしまう。
神はそれに代えて、皮の衣を作った。・・・動物が犠牲になった。
これはイエスの予表だった。神は救いの道を準備しておられた。
<テイクアウトQuestions>
1)罪の本質は何でしょうか?それが自分の中にもあると思いますか?
2)罪の結果、私たちにはどんなことが起こったでしょうか?それが自分にも影響を与えていることを感じますか?
3)その罪に陥ってしまった人間のために神様はどんな道を備えてくださったでしょうか?

2018年9月16日 『私たちの使命』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記2章4節〜9節

 

先週の休暇→「良い休暇というのは、その休暇が終わった時に、やる気を持って仕事に戻りたくなっているようにさせるものである
日曜日の夕方、月曜日の朝の気持ちは?金曜日の夕方の気持ちは?TGIF?
なんのために仕事をしている?
「生活の糧」「教会や牧師を支えるため」「職場で伝道するため」

「早くリタイアして、もっと教会のために・・・」
私たちの使命は「福音を伝えること」
・・・「全世界に出て行って全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)など。
しかし、世の始めからの私たちの使命・・・創世記1:28「地を管理する」創世記2:15「アダムにエデンの園を守らせ、耕させた」
→仕事をしなさい、この地を管理しなさい、土を耕しなさい。
「神のかたち」・・・「霊的な部分」「人格」(先週)
→神の代わりに地を治める。
それが変わってしまったのが、罪を犯して、神から離れたことの結果。
「一生苦しんで地から食物を取る・・・額に汗をしてパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)
・・・労働が苦痛になり、人生の意味を見失う。
イエスによって、私たちを愛で満たし、神と共に歩み、労働の祝福を経験させてくださる。
祝福を運ぶ器として、仕事の中でも、祝福を持ち運ばせてくださる。
<テイクアウトQuestions>
1)あなたにとって仕事はなんでしょうか?どうして仕事をするのでしょうか?なんのために仕事をするのでしょうか?
2)神様は天地創造の時に、人にどのような意味で仕事を託されたのでしょうか?神はあなたにどんな思いで仕事を託されたのだと思いますか?
3)罪によって、苦痛となってしまった仕事を、もう一度祝福として受け止めるためには何が必要でしょうか?あなたが今の仕事を神からの使命として受け止める時に、どんなことができるでしょうか?

2018年9月9日 『世界への神の情熱』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記1章1節〜4節

 

聖書は神の存在の議論ではなく、「はじめに神が」でスタートする。
神がこの世界を造られた。偶然ではない。
神は愛をもって、情熱をもって、この世界を造られた。
1)喜びをもって世界を造られた神
2節:世界が始まる前、混沌の時から神の霊が、世界を覆っていた。
そして、神は「光あれ!」という言葉から、世界を造られた。
一つ一つ「これはよかった」「ああ、これは素晴らしい!」と感嘆の声をあげながら、造られた。
ちゃちゃっと造られたのではない。一つ一つゆっくりと造られた。
2)ご自身のかたちに私たちを造られた神
26節:自分に似せて造る・・・自分に似た存在は嬉しい。
「神のかたち」・・・霊的な部分・・・神との交わりに生きる。
神を愛したり、礼拝したり、祈ったり、従ったりできる存在。
外側ではない、内側の問題。
関先生・・・「神のかたちは『人格』」・・・人格的に生きるのは人が幸せになること。傷つくのは人格が支配されること。
その神のかたちが神と共に歩んでいく時に、一番満たされるように造られている。強制ではなく、無理やりではなく、自分の決断で、自分の判断で、「あなたを愛します。崇めます。従います」と歩む時に、私たちの心は一番満たされる。
そのために、神は私たちと歩むために、イエスを与えた。
それが神の情熱。イザヤ9:7
<テイクアウトQuestions>
1)はじめに神が天地を創造された、という聖書の最初の主張は、あなたにどんなことを語りかけてきますか?
2)神のかたちが「霊的な部分」「人格」というときに、それが誰かに支配されるときに深い傷を受けるということは感じたことがありますか?どんなときですか?
3)神がこの世界に対してもっておられる情熱はどのようなものでしょうか?あなたはそれにどのように応えますか?

 

「地のちりにひとしかり」

今年の3月に妻と共に日本語教会に転入しました。錦織先生をはじめ、教会員の皆様に愛をもって受け入れていただき、感謝でいっぱいです。今日は私自身がどのようにして主イエス・キリストを信じ、救われ、クリスチャンとしての歩みをはじめたのかを証しさせていただきまます。

1970年、私は大阪のカトリック系ミッションスクールに進学しました。それは中高一貫の男子校で、大阪城の南、大阪冬の陣で真田幸村が徳川家康の東軍に対峙して布陣した真田山にありました。校舎の屋上には大きな聖母マリア像が建ち、そのやさしい目が校庭を見下ろしています。当時の公立の中学生の男子は丸坊主が一般的でしたが、私たちには短髪がゆるされ、大阪では「ボンボン学校」として有名でした。月に一度、全校生がステンドグラスの講堂に集められ、ミサに参加させられます。ステージに祭壇が設けられ、豪華なガウンに身を包んだ祭司が、一列に並んだ会衆の口に丸くて小さい煎餅を入れいきます。また銀のカップを高々に持ち上げるや、それを一気に飲み干します。キャンドルと香の香りに満ちたその儀式は厳粛な雰囲気に満ちていました。ただ、学校生活といえば、カトリックの教育方針のもと、厳格な校則と膨大な量の宿題に追われる多忙な毎日でした。成績は中の下、スポーツも取り立てて得意でなく、目立たない平凡な生徒でした。人前では従順で真面目な生徒を装いつつ、その心の中は、何の取り柄もない平凡すぎる自分への不満でいっぱいでした。

クラスメートは裕福な家庭に育つ「ええとこの子」ばかりでした。親が心斎橋を中心に関西割烹を数店も経営していたり、白浜の豪華なリゾートホテルを所有していたり、都銀のエリートバンカーであったり。それにひきかえ、私の父は輸出用のサングラスを生産する小さい町工場で経理として働いていました。母は自宅を洋裁店に改装して、四国や山陰地方から住み込みで上阪する若い娘たちに洋裁を教えながら、地元のおばちゃんを顧客にして洋服のリメイクやリペアで収入を得ていました。ところが、中学2年の夏ごろから、父の勤めていた会社が傾きはじめました。アメリカが電撃的に新しい金融政策を発表したのです。それはドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金を導入するというものでした。これで固定相場制が終焉し、1ドル360円の時代が終わり、ドルは暴落しました。ニクソンショックです。この円高によって、日本の輸出業者の収益が激減し、ほどなく父の勤めていた会社も倒産しました。私の学費に加え、四天王寺にある私立の仏教系スクールへ進学した妹の学費も加わり、もはや父の収入をあてにできなくなった母は、洋裁店で稼いだ資本を元手にアパート経営をはじめました。食べるに困ることはありませんでしたが、家計に余裕はありませんでした。そんな経済状況の中、親の苦労も努力も知らない世間知らずの私は、裕福な家庭環境にあるクラスメートが妬ましく、失職した父や懸命に働く母を見下しはじめていました。

中学時代は吹奏楽部でフレンチ・ホルンを吹いていました。全国大会に出場することを目指し、土日を返上して練習する毎日でした。中学2年の時に大阪大会で優勝し、有力候補と期待されながら、近畿大会では3位に終わりました。私が大事なパートで失敗したのが原因でした。先輩部員たちからは冷遇され、コンクールでの失敗に責任を感じて退部せざるを得ませんでした。その後、目標もなく、ぶらぶら暇をもてあましている時、福音集会の看板を目にしました。大阪南部の泉州にある和泉キリスト集会(プレマス・ブレザレン)が、大阪市内ではじめて開く特別伝道集会でした。それはカトリックのミサとは対照的で、小さい公民館の会議室で行われた50人ほどの集会でした。ただ、そこではじめて聞く聖書のメッセージは衝撃的でした。はじめて聖書を手にしました。読まれた聖句は創世記の1章1節でした。「はじめに神が天と地を創造された。」そこで宇宙を創造された方の存在を聞きました。自分はこの方に生かされていること。自分の人生には目的と意味があることを知りました。

もはや自分の取り柄のなさとか、クラスメートの裕福さとか、すべてがどうでもよくなりました。天地創造の神がいるという事実に心踊りました。その日から2年間、毎日聖書を読み、福音集会に通い続けました。ところが、クリスチャンとの交わりと聖書の知識が増えるに従って、神の存在に対する喜びと感動が徐々に薄れて来ました。聖い神と汚れた自分の心に大きな隔たりを感じ始めたからです。虫歯程度に考えていた自分の罪が、神の前には癌以上の深刻な問題であると教えられていきました。自分のわがままさ、自己中心、ねたみ、両親を見下す傲慢な心など、自分は神の怒り以外に何も値しない人間であることに気づきました。そこで一大決心をして、神の怒りを静めるために善行にも励みました。過去に犯した罪のリストを作成し、善行によってその罪をひとつずつ償おうとしたのです。ところが、努力すればするほど、新たな罪に気づかされ、自分の罪が累積債務のように増えていきました。

そんな重い心に沈んでいた高校時代、岐阜県高山市での二泊三日のバイブルキャンプに参加しました。それは若いクリスチャンたちが乗鞍岳の自然の中に集い、賛美あり、ゲームあり、証しありの楽しいキャンプでした。でも、私はひとり罪の重荷に押し潰されて、どんなプログラムも楽しむことができません。自分は神に嫌われている。自分はいつか神に裁かれ、神の手によって滅ぼされてしまう。もはや救いをあきらめ、疲れ果てた私は、人目を避けて、誰もいない場所を見つけて一人跪いて祈りました。「神さま、もういいです。今すぐ私を裁いてください。自分は罪だらけです。頭の上からつま先まで。もうどうにもなりません。」それは救いではなく、裁きを求める祈りでした。しかし、その祈りに対する応答はなく、しばらく静寂の時が続きました。すると自分のあわれな姿が、癒しをもとめてイエス様の足元に跪く全身をツァラトに冒された病人と重なりました。その瞬間、耳を疑うようなイエス様の言葉が心に届きました。―イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「私の心だ。清くなりなさい。」

涙がとめどなく溢れ出ました。父なる神とイエス様の思いは、私の罪に対する激しい怒りではなく、私の無力さに対する深いあわれみでした。溢れる涙を手で拭いながら、私は祈りつづけました。「こんな罪人をどのようにして清められるのですか。」次の瞬間、すべてが理解できました。「父よ。彼らをお赦しください。」これは自分を十字架に釘付けた者たちのために、イエス様が十字架で捧げられた祈りです。あの十字架の祈りこそ、私の罪を赦すためのとりなしでした。流された血潮は、私の魂を贖うための代価でした。そして、暗闇の苦しみは、私が受けるべき永遠の裁きの身代わりでした。私の悔い改めを待たず、神は赦しを用意し、惜しまずご自分の御子を犠牲にされました。赦しは神のあわれみであり、救いは神の一方的な恵みでした。心にのしかかる罪の重荷がすべて取り除かれ、平安と喜びで心がはじけそうでした。あの日から40年余りの年月が流れました。今、日本語教会に導かれ、あの日と同じ喜びと感動で主の愛を賛美できる恵みを感謝しています。

「地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ。御救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん、恵み深きイエスを。」

2018年8月26日 『愛されたから』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章34節〜40節

規則はいつの間にか一人歩きし、目的を見失う。
律法はまさにそういう状態。→イエスは本質を教える。
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。
申命記6:5とレビ記19:18
神を愛する
心を尽くして・・・intention, 意志、心の方向性。
精神を尽くして・・・全存在をかけて
思いを尽くして・・・知性、intelligence
これは、まず神が愛してくださったから。

神が私たちに心を向け、全存在をかけ、最高の愛を表された。
第一ヨハネ4:10
自分を愛する
自分を愛する・・・あたりまえ?
自分が愛せない問題→周りの人との問題へ。
比較?幼児体験?人の言葉?

⇔いろいろあるけれども、自分はこれでいい。と受け入れる。
神に愛されている自分を愛する。イザヤ43:4
隣人を愛する
神を愛する人は隣人を愛する・・・第一ヨハネ4:20
隣人とは誰?・・・レビ記19:17-18
憎んではならない、ねんごろにいさめなさい、

彼のゆえに罪を身に負ってはならない、
仇を返してはならない、
恨みを抱いてはならない
・・・愛しなさい。
テイクアウトQuestions
1)あなたは神を愛していますか?それを妨げているものはあるでしょうか?
2)あなたは自分を愛していますか?それを妨げているものはあるでしょうか?
3)あなたは隣人を愛していますか?愛せない人はいませんか?愛するために何が必要だと思いますか?

2018年8月19日 『時間を超える神の愛』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネの第一の手紙3章16節

今年のJOYJOYキャンプのテーマ
「さあいこう!タイムマシン『アガペごう』の大冒険」
「アガペ」・・・アガペーというギリシャ語「神の愛」
ギリシャ語の4つの愛
フィリア・・・友愛
ストルゲー・・・親子の間の愛
エロース・・・男女の間の愛、価値のあるものを愛する愛
アガペー・・・無償の愛、犠牲の愛
世には色々の愛がある。素晴らしい愛がある。
しかし、イエスが十字架にかかったことによって、私たちは「アガペー」の愛を知った。
私たちが神に背を向けている時から、神は私たちを「アガペー」の愛で愛している。(ローマ5:6-8)
神に愛された者は、今度はわたしたちの周りの人々に愛を注いでいく。命を与えていく。日々、命を与えていく。
テイクアウトQuestions
1)自分の愛と、神の愛はどこが似ているでしょうか?どこが違うでしょうか?
2)神はあなたの人生にどんな素晴らしいことをしてくださいましたか?感謝すべきことは何でしょうか?
3)神の愛に応えて、私たちは何ができるでしょうか?あなたが愛すべき人は誰でしょうか?その人のためにできること何でしょうか?

2018年8月5日 『神のものは神に』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章15節〜22節

 

 

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」政教分離?
ヘロデ党・・・親ローマ⇔パリサイ派
この対立する2つのグループが反イエスで協力。
ローマに納税すべき?
イエスの答えは「納税にはYES、でももっと大切なことがある」

→神のものは神に返しなさい
1)何が神のものか?
全てのものの十分の一・・・マラキ3:8-12
神様への信頼。神様を第一とする信仰告白。
才能・・・マタイ25:14-15
私たちの時間、人生、周りの人々、神様が私たちに託されたもの。
私たち自身・・・神のかたちの刻まれた者(創世記1:27)
2)どうやって返すのか?
十分の一献金は単純。
神のもとに帰る。自分の考えで生きてきたことを悔い改めて、神に帰る。
一瞬一瞬、神がほめたたえられることを求める。
神に身をささげて生きる=修道院や伝道者になることではない。
与えられたところで神を第一として歩んでいく。
仕事を通しても神の栄光を表す。
3)何がそうさせるのか?
神がそのように造られたから。そこに祝福があるから。
イエスが全てを与えてくださったから。
第一コリント6:19-20
テイクアウトQuestions
1)あなたが神に返すべきものは何でしょうか?どうしたらいいと思いますか?
2)私たちが神に全てをお返しすべきなのはどうしてでしょうか?どうしてそれができるのでしょうか?
3)私たちが神に返すべきものを自分のものにしてしまうことはあるでしょうか?神に返すのが難しいものはあるでしょうか?

2018年7月29日 『婚宴への招き』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章1節〜14節

 

パーティーに招かれるのも、来てもらえるのも。うれしい。
神様は楽しみにして、準備をしてこられた。
しかし、人々は2つの反応で神の招きを拒んだ。
1)招きを受け入れなかった人々。
ユダヤ人に向けたメッセージ。
神はあなた方を招いたのに、あなた方はそれを侮辱で返した。
→エルサレム滅亡の預言。
私たちはどうだろうか?
畑、商売・・・仕事。神様より仕事?

仕事は神様が与えてくださっているもの。創造の初めから。

問題は神様から任された仕事が、神様よりも大切になること。
お金も、才能も、家族も神様から与えられたもの。
で
もいつの間にか、神様よりも大切になる。
アブラハムに「約束の子」イサクを捧げなさいと言われた神。

アブラハムはいつの間にか、イサクが神よりも大切になっていた。
神はひとり子を与えて、私たちを婚宴に招いておられる。
2)礼服を着なかった人々。
礼服を着てこなかった人が追い出された?どうして?
礼服は入り口に準備されていた。・・・その礼服を着なかったということは、自分の服に自信があった。礼服を着たくなかった。
私たちのために備えられた礼服はキリストの十字架。
「キリストを着る」ガラテヤ3:26-27
それを着ないということは、自分の力で神に受け入れられようと思っている。自分は大丈夫と思っている。
テイクアウトQuestions
1)王の招きに応えなかった人々はどうして応えなかったのでしょうか私たちも同じような理由で神の招きに応えないことはないでしょう
2)礼服を着なかった人はどうして着なかったのだと思いますか?私たちに当てはめるとどのような気持ちでしょうか?
3)神様は私たちにどのようなパーティーを準備しておられるのだと思いますか?

2018年7月22日 『砕かれた心』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書21章33節〜46節

 

砕かれた心・・・信仰生活の中でとても大切。
⇔傲慢な心、「プライド」
私はあの人よりも信仰深い、結構良い線いっている
 自分はわかっている・・・
砕かれた心に神の恵みが注がれる。
1)神の思いと人の思い
ユダヤ人に向けたメッセージ。
神はあなたがたにこの世界に祝福を運ぶ使命を与えられたのに、それに従わなかった。預言者たちを送ったのに従わなかった。ひとり子さえも殺そうとしている・・・そのことを指摘した。
私たちに対するメッセージでもある。あなた方はどうなのか?
神は私たちに愛をもって使命を与えられた。
裏切られても、裏切られても、招いておられる。ひとり子さえ送られた。
私たちはその神様の愛に対して、神を退けて、この世界を「私たちのものだ」と主張している。人生も、時間も、お金も、才能も。
そこに気づいて砕かれることが必要
⇔自分が砕かれない→神を砕こうとする
2)隅のかしら石イエス
「隅のかしら石」詩篇118:22-23の引用。・・・イエスのこと。
他に土台はない。他のもので代用することはできない。
この石によって砕かれる。イエスに出会う時に砕かれる。
「
罪を犯すから罪人なのではない。罪人だから罪を犯さないではいられない」
詩篇51:16-17 「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂」
テイクアウトQuestions
1)神様は私たちに対してどんな思いを持っておられますか?どんなことをしてくださったでしょうか?今日の聖書箇所と、自分の今までの歩みから考えてみましょう。
2)私たちは神様からこの世界をどのように任されているでしょうか?
3)神様によって砕かれた経験はありますか?それはどんな経験だったでしょうか?

2018年7月15日 『悔い改めへの招き』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書 21章28節〜32節

 

兄が「行きます」→行かなかった
弟が「嫌です」→心を変えて行った
なのか、その反対なのかは写本の問題。
いずれにせよ、指導者たちへの悔い改めへの招き。

→私たちに対する悔い改めへの招き。
1)義の道への悔い改め
「義」は神様との正しい関係。
神は私たちを神と共に歩む者として造られた。創世記1:26-27
「罪」は神と信頼関係が壊れてしまう。
「神は意地悪で、本当は私たちを愛していなくて、私たちを騙していて」
(創世記3:4-5)
悔い改めは「神との関係に戻りなさい」ということ。

正しいことをする、間違いを犯さない、ではなく、
神との関係によって、平安をいただいて、自由を与えられて、生き生きとした歩みをする。
「義」は「羊」の下に「我」がいる・・・十字架の元に自分を置く。
2)神の国への悔い改め
「悔い改め」:普通は「メタノイア」:思いを方向転換する
ここの30, 31節は「メタメレオー」:関心の向くことを変える
自分のことから、神のことへ。
「神の国」は「神の愛の支配」「神の愛に満たされる生き方」
神の愛に感謝して歩む生き方へ。
「悔い改め」・・・罪を犯さないように頑張る???
「罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す」

だから、悔い改めは、神の前の全面降伏。⇔自分は大丈夫
テイクアウトQuestions
1)「義」とは何でしょうか?それによって、私たちは何を得ることができるのでしょうか?
2)「悔い改め」とは何でしょうか?
3)悔い改めをためらわせるものは何でしょうか?どうしたら、悔い改めることができるでしょうか?

2018年7月8日 『何を恐れるか』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第21章23節〜27節

 

スポーツのゲームでの審判・・・権威を持っている。
それに従うことによって、秩序が守られ、ゲームが成立する。
神殿でイエスが商売をしている人を追い出したり、人々を教えたりしている。
・・・神殿の管理をしている祭司長や長老は「何の権威で?」
イエスは彼らの権威に中身がないこと、そして、自分は神から遣わされていることを言いたかったのだろう。
しかし、ここではストレートにそれを言うのではなく、質問をすることを通して、彼ら自身の姿を問うている。
・・・悔い改めへの招き。
しかし、彼らは恐れなくていいものを恐れ、恐れるべきものを恐れないで、結局逃げてしまった。
1)恐れなくていいもの
①人を恐れた
群衆が恐ろしい。
聖書の中には人を恐れて失敗をする人がたくさん。

創世記12章 アブラハム
ルカ23章 ピラト
②今まで築いて来たものを失うことを恐れた

バプテスマのヨハネを認める・・・
自分が悔い改めなければ
→自分が権威あるものとしてイエスに文句を言いに来たのに、自分が悔い改める側に
・・・それはできない。
結局はプライド。
2)恐るべきもの
神を恐れる(畏れる)
箴言1:7, 伝道の書12:13
テイクアウトQuestions
1)どうして人を恐れると、失敗をするのでしょうか?
2)今まで築いて来たものを失うことが恐れになるのはどうしてだとおもいますか?
3)神を恐れる(畏れる)とは具体的にどういうことでしょうか?

 

2018年7月1日 『見た目ではなく』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第21章18節〜22節

 

難解な箇所:いちじくの実がなっていなかったから枯らしてしまった?
→イエスは奇跡を通して、メッセージを伝えた。
「葉だけ繁らせていて、実を結ばないならば、切られる、枯らされる」
・・・当時のイスラエルの民への警告。
ルカ13:6-9のたとえ話「もう少し待ってください」と取りなす番人。
2つのストーリーをまとめる
→「実を結ばなくても憐れみの時があるが、いつまででも、ではない。」→実を結ぶ歩みへと招かれている。
1)実を結ぶとは?
①悔い改めの実(ルカ3:7-14)
 悔い改め・・・方向転換・・・自分中心から神に従う道へ
 
悔い改めの実・・・それにふさわしい歩みをする
②伝道の実(ヨハネ15:16)
 出て行って、伝えていくときに、救われる人が起こる。
③御霊の実(ガラテヤ5:22-23)
 聖霊が住んでくださる中で、与えられる品性。
2)実を結ぶために
実を結ばなければ・・・と、頑張って、実に注目して、実をつけようとすると「クリスマスツリー」状態に。
実を結ぶために必要なのは、
ヨハネ15:4-5「イエスにつながっている」

ルカ13:8「周りを掘って肥料をあげる」
詩篇1篇「流れのそばに植わった木」・・・みことば
山も動くことを信じて主に従って歩んでいく。
テイクアウトQuestions
1)実を結ぶとはどういうことでしょうか?あなたは実を結んでいると思いますか?
2)あなたは3種類の実の中で、どの実を結ぶことを大切にしたいと思いますか?
3)実を結ぶために、あなたの生活の中で何が必要だと思いますか?

 

2018年6月24日 『神と共に歩む喜び』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第21章12節〜17節

 

クリスチャンの歩みで一番大切なものは何?

礼拝に来ること?聖書を読むこと?お祈りすること?
「神と共に歩む喜び」「神の愛に感謝して歩むこと」
宮で商売していた人たち
両替
・・・ローマ皇帝の肖像付きのコインは神殿ではダメ。偶像礼拝。

     祭司たちの認めた肖像のないコインに両替する。
鳩・・・貧しい人々のささげもの、でも完全でなければならない。
    「いらないもの」ではなく、最高のものを神にささげる。
    「これは完全だ」と祭司が認めたものを売っていた。
どちらも手数料で祭司たちが儲けていた。
イエスは「わたしの家は祈りの家」だと神は言われた、と追い出す。
「神が子ども達の口に賛美を与えた」と子ども達の賛美を受け入れる。
神と共に歩む喜びは祈りと賛美の中に。
1)祈り
祈りは特別なことではない。神と語り合うこと。神と過ごす時間。
私たちが祈ることができるのは、イエスがいるから。

イエスの十字架によって、神との関係がつくられた。
祈りの中に主はおられる(マタイ18:19-20)
2)神と共に歩むところにある賛美
賛美は神様をほめたたえること。
神様は私たちの賛美を喜んでくださる。
賛美は天国に行っても続いている。・・・伝道も、説教も必要ない。
神は賛美の中に住んでおられる。(詩篇22:3)
テイクアウトQuestions
1)イエスはどうして、神殿で商売をしている人々に対して厳しい態度を取られたのでしょうか?どうしますか?
2)信仰生活の中で、一番大切なことは何だと思いますか?
3)祈るのが難しいと思う時はありますか?どうして、そう感じるのでしょうか?
4)あなたが好きな賛美の曲は何ですか?それはどうしてですか?

 

2018年6月17日 『あなたをつかんで離さない!』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書21章1節から11節

 

 

イエスが馬ではなく、ロバに乗ってエルサレムに入った思い。
平和の王として・・・軍馬に乗る勝利者ではなく。

軍馬に乗る勝利者は・・・私が勝ったんだから、私のいうことを聞け!
イエスは、事なかれ主義の平和ではなく、
誰かが我慢して実現する平和ではなく、
「シャローム」を与える方。
・・・内側から溢れる喜びと力。
そのためにはどうしてもロバが必要だった。
馬ではいけなかった。

馬がいなかったから仕方なくロバにしたのではない。
「主がお入り用なのです」
・・・平和の王として来られたイエスを示す存在。
「柔和」・・・日本では美徳のように思われている。
・・・ここでは、「惨めな」という意味を持つ言葉。
惨めな思いになる私たちのことをわかってくださる。
上から見下ろすのではなく、同じところに立ってくださるお方。

→究極は十字架。この箇所から、イエスの十字架までの1週間が始まる。
私たちを愛によって離さない神。ローマ8:35-39
テイクアウトQuestions
1)イエスはどうしてロバの子を用いられたのでしょうか?
2)平和の王としてこられたイエスは、当時の社会の支配者たちとどのように違っていたでしょうか?
3)このイエスを私たちの人生の王とする、とはどういうことだと思いますか?
4)私たちは神に従う時に、その動機は、恐れによって支配されていますか?愛によって支配されていますか?

2018年6月10日 『何をして欲しいのか』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第20章29節〜34節

 

「何をして欲しいのか?」
叫び求める目の不自由な二人の人に「何をして欲しいのか?」
彼らの答えは「目を開けていただくことです」
21節でもヤコブとヨハネに「何をして欲しいのか?」と聞かれる。
イエスは今日も、私たちに「何をして欲しいのか?」と聞かれる。
あなたは、「何をして欲しいのか?」と聞かれたらどう答えるか?
1.認めてください!
ヨハネとヤコブの「大臣にしてください!」
19章27節のペテロの言葉から繋がっている。
→こんなにやったんだから、こんなに有能なんだから認めてください!
私たちは認められないと生きていけない。
イエスの答えは「あなたが頑張ったから、こんなにやったから、有能だから認められるのではない、その前から、存在自体が認められている」
私たちが罪人である時からひとり子を与えるまで、私たちを愛した神
・・・私たちの存在自体を認めてくださっている。
2.目を開いてください!
この目の不自由な二人の求めは、弟子たちの求めとは対照的。
何も「これだけやりましたから!」というものがない。
自分の貧しさ、足りなさ、それを知っていた。
ヨハネ9:41「見えると言い張るところに、罪がある」
わかっている、見えている、と思っている時にはわからない。
マタイ5:3「心の貧しい人は幸いである」
神の恵みは低いところに流れる。
<テイクアウトQuestions>
1)私たちの「私を認めてください!」との叫びにはイエスはどのように答えられますか?あなたはそれをどのように感じますか?
2)イエスは今日も私たちに「あなたは何をして欲しいのか?」と尋ねられます。あなたはどう答えますか?

2018年5月13日 『賛美による大逆転』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 使徒行伝第16章25節〜34節

 

どんな時に賛美をするか?どんな環境で音楽を聞くか?
・・・「普通の状況」とは正反対の「牢獄の中での賛美」
1)賛美はあなたを変える
濡れ衣を着せられて投獄されていた。

・・・愚痴が出てきても仕方ない。
・・・出てきていたかもしれない。
・・・しかし、賛美をする時に、私たちの内側も変えられていく。
賛美の中で、焦点が変えられていく。
神を賛美する者に変えられる。
自然と湧いてくるまで待っていなくていい。賛美を始めよう。
2)賛美は状況を変える
囚人たちはパウロとシラスの賛美を聞いていた。
牢獄の扉が開いてしまっても、逃げなかった。
牢屋番はパウロとシラスの賛美を聞いていた。
「私は救われるためにどうすればいいですか?」と尋ねる。
ドイツの強制収容所で、日本軍の捕虜収容所で、文化大革命の労働改造所で、
賛美が人々の心を変え、環境を変えていく。
テイクアウトQuestions
1)讃美歌は自然と湧いてくるまで待ったほうがいいですか?それとも、賛美できない時にも賛美したほうがいいのでしょうか?どう思いますか?
2)好きな讃美歌はありますか?どんなところが好きなのでしょうか?賛美によって自分が変えられたことがありますか?どんな経験だったでしょうか?
3)状況が厳しい中で賛美をすることは難しいでしょうか?それを乗り越えるためには何が必要でしょうか?

 

2018年5月6日 『神の国の秩序』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第20章17節〜28節

 

「神の国の秩序」

エルサレムに向かって行く時のイエスの3回目の受難予告
↔︎弟子たちは自分たちの夢の実現が近づいたと思った。
ゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)は「イエスの右と左に」
他の弟子たちも同じ思い。
イエスは・・・「違うよ、私の国では正反対だよ」と言われた。
神の国の秩序・・・この世の秩序と違う。互いに仕え合う生き方。

イエスの杯を飲む
イエスに従う道はイエスの杯を飲む道。
神の愛をいただいたが故に、喜んで苦難を受ける。(コロサイ1:24)
イエスに従うが故に経験する悲しみ、苦難もある。
信じているから、平気、ではない。
マタイ26:36-39:イエスも悲しみ、悩まれた。
しかし、その価値がある、のが神の国の歩み。

しもべになる
イエスが歩まれたように歩む。
→自分の存在を与える。認められなくても、神の前に忠実に歩む。
「ちいろば」先生の保育園のおばちゃん。
誰も見ていなくても、無駄に思えても、給料が増えなくても。
「自分」のこだわりの問題。・・・「自分を捨て、イエスに従う」

イエスは私たちのために命を捨ててくださった。しもべとなってくださった。
・・・その愛をいっぱいに受けて、その愛に感謝して、しもべになる。

テイクアウトQuestions
自分の考えと、神様のみこころが違っていると思ったり、知ったりすることはありますか?どんな時ですか?
「イエスの杯を飲む」覚悟はできていますか?弟子たちも覚悟はできていましたが、イエスを捨てて逃げました。イエスに従うために必要なのは何でしょうか?
しもべとはどんな人でしょうか?あなたはしもべとして、具体的に何をしていきたいと思いますか?

2018年4月29日 『気前のいい神様』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第20章1節〜16節

 

「ぶどう園の主人」のたとえ話
朝早く、「1日1デナリ」で働いてくれと労働者を雇った主人。
その後も、9時、12時、3時、5時と労働者を雇う。
夕方、最後に来た人たちから1デナリずつ払う。
朝から来た人は持ってもらえると思ったが、やはり、1デナリだったので主人に文句をいう。しかし、主人は「私はあなた方と1デナリの約束をした。この最後に来た人たちにも同じようにしたいのだ!」と答える。

1) 神の国の生き方
経営を教えているのではない。
「天国は・・・」・・・つまり神の支配はこうなのだということ。
「天国」・・・死んだあとに行くところ、と考えると、最後にちょっと頑張ればいい、ということを教えているかのように誤解する。
「天国」・・・「神の国」→「神の支配」→「神の愛の支配」
→「神の愛に満たされること」「神の愛に満たされた歩み」

2)一方的な恵み
あなたはどこに自分の身を置いている?
朝から来た人の立場だと、「ずるい」と思う。
夕方来た人の立場だと「ありがたい」と思う。
・・・本当は私たちはみな、「夕方から来た人」なのだ。
ローマ6:23「罪の支払う報酬は死、神のギフトは永遠の命」
「先のものはあとになる」・・・自分が先の人だと思っていると神様の恵みの大きさがわからない・・・大切なものを見失う。
損をしたのは誰?・・・主人!神は犠牲を払い、リスクをとって、私たちを愛し、用いてくださる。

テイクアウトQuestions
1)あなたは自分をどこに置いてこのたとえ話を読んだでしょうか?
2)自分はこんなに頑張っているのに・・・と思う時はありますか?どんな時でしょうか?そのときに、あなたの目はどこに向いているでしょうか?
3)神様はあなたのためにどのような気前のいいことをしてくださったでしょうか?

2018年4月22日 『愛されている』

お証し: 宮嶋裕子姉

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ルカによる福音書第10章24節〜37節

 

三浦綾子さんの作品の中には、聖書のメッセージ、神様からのメッセージが込められている。

「塩狩峠」の中にこの聖書の箇所が出てくる。
この聖書の通り、隣人を愛そう、誰かの隣人になろうと思った主人公
→問題のあった同僚の隣人になる。

その背景にあったのは、「自分のためにイエスが十字架にかかった」ということがわからない、自分の罪というのがそれほど深刻だとは思わない
・・・牧師のアドバイス「聖書の言葉を一つ徹底的に実行してごらん」

その同僚の隣人として生きる主人公。しかし、同僚は「うっとおしい」「見張られているようだ」と文句を言う。
→自分はこんなにやっているのに・・・と彼を憎む。
→自分は彼の隣人になろうとしていたけれども、ただ見下していた。
→この倒れているのは自分だったのだ。
→このサマリヤ人はイエス・キリストだったのだ。
自分は傲慢にも神の子の地位に自分を置き、友人を見下していた。
・・・これこそが罪だった。

倒れている人・・・周りの誰か。 サマリヤ人・・・私
倒れている人・・・自分     サマリヤ人・・・イエス
イエスは私の痛みをわかってくださり、飛んできてくださった。

テイクアウトQuestions
1)「塩狩峠」に出てくる牧師は「イエスを十字架につけたのは私だと思っている」と言いました。そのように感じたことはありますか?どうしてでしょうか?
2)あなたは良きサマリヤ人の話を読むときに自分をどこに置きますか?
3)良きサマリヤ人はこの倒れている人にどのようにしたでしょうか?それはイエスがあなたのためにしてくださったこととどのように重なりますか?

2018年4月15日 『何を頼るか』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第19章16節〜30節

 

 

イエスのところに来た青年
「永遠の生命を受けるためには・・・」
永遠の生命・・・いつまでも生きる・・・量の問題?
それだけではなく質の問題も大切。・・・神と共に生きる。
→結局「天国」→「神の国」→「神の愛に満たされること」
16節では「永遠の生命」23節「天国」
 →死を超えて神の愛の中で生きること。
「お金と信仰」というよりも、「何を頼りにするか?」という問い。

財産ではなく神を頼る
「何でも守って来ました」というこの青年に「財産を売り払って、貧しい人々に施して、わたしに従って来なさい」と言われた。
もう一つのしなければならないこと、というよりも「神を頼りますか?お金、財産を頼りますか?」という問い。
持っている人はそれを頼りに生きてしまう。持っていない人は神を頼りにして生きることができる。・・・富む人が天国に入るのが難しい。
でも、「人にはできないが神にはできる!」

自分の功績ではなく、神の恵みを頼る
ペテロ「ごらんなさい!私たちは全てを捨てて従いました!」
残念ながらペテロも勘違い。
「捨てる」という行動ではなく、神ご自身を信頼して歩むということが大切。
神の愛、神の恵みを感謝して歩むのか、自分がこれだけやったということを誇って、
報いを求めて生きるのか?・・・天国はどっち?
→20章に続く。

テイクアウトQuestions
1)この青年は悲しみながら去って行きましたが、いったい何が問題だったのだと思いますか?
2)ペテロはどうしてこのようなことを言ったのでしょうか?イエスはどのように答えられましたか?
3)私たちは永遠の生命を受けるために、どうすればいいのでしょうか?

 

 

2018年4月8日 『幼子のように』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第19章13節〜15節

子ども達を連れて来た母親たち。
→弟子たちは諌める。
→イエスはその弟子たちに対して憤られる。
「子どもたちが私のところに来るままにさせなさい」

マルコ10:15「あなたがたも幼子のようにならなければ」!!?
でも、聖書には「考え方では大人になれ」とある。
1コリント14:20, ヘブル5:11-14
イエスの「幼子のようになりなさい」はどんな意味か?

「天国」の先入観を取り除く。
「天国」→「神の国」→「神の支配」→「神の愛の支配」
→「神の愛に満たされること」「神の愛に満たされた生き方」

「幼子のようになる」とは?
「主の祈り」のよびかけ。・・・私たちの父よ。
「アッバ」・・・父親を信頼して呼びかける言葉。もともと幼児語。
マルコ14:36,
当時の人々はそのように神に呼びかけることは考えられなかった。
ローマ8:15, ガラテヤ4:6
奴隷の霊ではなく、神の子としての霊を受けている。
→イエスを信じる人々は神のご機嫌をとってビクビクする生き方ではなく、
神の子として、神を信頼して、その胸に飛び込む生き方へ招かれている。
⇔放蕩息子の兄のように「私はこれだけやったのに・・・」
この続きのペテロの言葉「私は全てを捨ててあなたに従いました・・・」

テイクアウトQuestions
1)「天国」「神の国」はどんなところだと思いますか?
2)あなたは大人になって、何か失ったものはありますか?子どもから学ぶことはあるでしょうか?
3)「幼子のようになる」ことはどういうことでしょうか?あなたにとって、そのために難しいことはありますか?

2018年4月1日 『信じるものになりなさい』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネによる福音書第20章19節〜31節

イエスの復活は信じられる?
昔だから信じられたのではない、イエスの時代の人も信じられなかった
→トマス「十字架の釘の跡に指を入れて、脇腹に手を入れてみないと」
そのトマスが信じられた・・・私たちも信じる者への招かれている。

トマスはどうしてこんなことを言ったのか?
取り残されたような?
どうして私がいない時に?
信じさせてくれ!
信じたいけど信じられない!

イエスはトマスにも現れた「さあ、あなたの指を、あなたの手を」
トマスは「我が主よ、我が神よ」と。
イエスを信じられなくて、仲間を信じられなくて、申し訳なさ。
神を神としないで、自分の考えにこだわって生きる・・・罪。
それを悔い改めた。
1週間前の自分の言葉「指をいれて、手を入れてみないと」を
イエスは聞いておられた。
見えない時にも、イエスは確かにそこにおられて、聞いておられた

トマスは私たちの代表。トマスがいてくれてよかった。
トマスへのメッセージは、私たちへのメッセージ。
トマスの信仰告白は、私たちの信仰告白。
カラバッジョや他の画家たちの絵・・・本当に入れたのか!?
そ
の手を引っ張っている手・・・イエスが信じなさいと招かれる。

テイクアウトQuestions
1)イエスの復活を信じてますか?どうして信じることができましたか?どうして信じることができないのですか?
2)トマスはどうしてこんなことを言ったのだと思いますか?
3)「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とのイエスのメッセージは私たちにどのような意味を持っているでしょうか?

2018年3月25日 『イエスよ、どこまで』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マルコによる福音書第15章16節〜41節

 

十字架は飾りではなく、アクセサリーではなく、私たちの生き方。
ただ、十字架を掲げるだけではなく、十字架を生きる。

1)イエスよ、どこまで人は罪深いのですか?
①王なる方を徹底的に侮辱するまで。
「王様万歳」「つばをかける」「十字架から降りてこい」
②自分の罪を自覚できないほどに
マルコ15:10ピラトは妬みのためであるとわかっていた
自分はわからない、でも、他人から見たら、妬み。
③私はここまでひどくないと思うまで。
私たちはこの箇所を読んで、ここまでひどくないと思う。
メル・ギブソンの「パッション」の撮影エピソード。
この人々の姿は私たちの姿。

2)イエスよ、どこまであなたは人を愛するのですか?
①徹底的な侮辱を耐えられるまで。
1)-①の侮辱をイエスは耐えられた。
「救い主ならそこから降りてみろ」
・・・イエスは降りることができた
・・・でも降りなかった。私たちの救いのため。
②父なる神に捨てられるまで。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
イエスは罪を負って罪の塊になって捨てられた。
③神殿の幕が二つに裂けるまで
聖なる神と罪をもつ人との間を隔てる幕
神が「これはもう必要ない」と真っ二つに裂かれた

<テイクアウトQuestions>
1)人はどこまで罪深いでしょうか?あなたはどこまで罪深いのでしょうか?
2)イエスはどこまであなたを愛していると思いますか?
3)あなたはこのイエスの愛に、どのように応えるでしょうか?

 

 

2018年3月18日 『夫婦についてのイエスの教え』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書第19章1節〜12節

 

マタイ19:1–12
「夫婦についてのイエスの教え」

パリサイ派の生き方・・・線を引く
どこまで許されるのか?
→離婚は許されるのか?どんな理由ならOKか?
イエスの教え・・・中心を示す
「夫婦は一体である」
「神が合わせられたものである」

創世記2章の夫婦の始まり。
第1コリント6:16の「遊女につく者はそれと一体になる」
→夫婦は霊的に、魂のレベルで一つになっている。

「私と相手は違う」というところからの出発。
結婚の誓い・・・どうして必要か?自然とできるわけではないから。
「私とあなたとは違う二人の人なんだけれども、神によって一体とされたのだ」ということころから出発する。

エペソ5:33
Emerson Eggerichesの”Love and Respect”
夫が受けるのが必要なのは尊敬であり、妻が受けるのが必要なのは愛である。

自分から始める。愛するためのエネルギーは神からくる。
神はひとり子を与えるほどに私たちを愛してくださった。
愛された喜びをもって愛する。

<テイクアウトQuestions>
1. あなたは線を引く生き方で満足していることはないでしょうか?例えばどんなことがあるでしょうか?
2. 夫婦の間での互いの違いを認めることと、夫婦として一体だということはどのように両立するでしょうか?
3. あなたが夫を妻を(または一般的に隣人を)愛するために具体的にすべきことは何だと思いますか?

2018年3月11日 『共に歩む喜び』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ピリピ人への手紙2章1節から11節

 

ピリピ2:1–11
「共に歩む喜び」

7年前に思わされたこと。
支援する人々を支援する
長く覚え続ける

宮古の教会の歩み
教会存続の危機の中での震災
教会堂は被害を免れた。
「救援物資あります」「携帯の充電できます」の貼り紙
→誰も来ない。
避難所に出て行く。耳を傾けて行く。仕えていく。
→信頼を築いて行く。

高く掲げられる十字架
・・・しかし、私たちはそのように生きているだろうか?
イエスは私たちのために低くなられた。

・・・私たちと共に歩むために。
・・・その低くなられたことの極致が十字架。
→そこに私たちも招かれている。


テイクアウトQuestions
東日本大震災で被害にあった方々、痛みの中にいる方々のために、私たちは何ができるでしょうか?
あなたは十字架を見るときにどんなことを感じますか?イエスの十字架はどんな意味があるでしょうか?
あなたの隣人は誰ですか?

2018年3月4日 『赦し合う教会』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章21節〜36節

 

18 章のテーマ・・・教会はどんなところか。
1-14・・・一人一人が神の宝として受け入れられているところ。
15-20・・・罪と悔い改め
21−35・・・赦し合い

罪が軽んじられるのではない。悔い改めに招かれている。
そして、どこまでも赦し合う。

  1. 神の豊かな赦し
    1万タラントの赦し・・・5000回の人生=自分では返せないもの。
    「あわれに思って」・・・原語では「ハラワタが痛む」
神は、私たちの痛みをご自身の痛みとして受けてくださった。
    赦されたことが事実。豊かに赦されたことが事実。
  2. 赦し合うために
    ペテロの「7回までですか?」・・・普通は3回だった。
イエスの答え・・・7を70倍するほどに・・・どこまでも。
    100デナリ・・・100日分の稼ぎ。・・・赦せない。
・・・それはお互いの関係だけで見ているから。
全体が見えていない・・・主人から1万タラント赦されている
    私たちも豊かに赦されていることを忘れていないか?
    私たちの人間関係は神のもとになければならない。
    「愛の正三角形」神とあなたとわたし
  • テイクアウトQuestions
    1)私たちは人が赦せない時、どういう理由で赦せないのでしょうか?
    2)互いに赦し合うために必要なことはなんでしょうか?
    3)神様との関係が変わった時に、人との関係も変わったということがありますか?それはどんなことだったでしょうか?

2018年2月25日 『教会のしるし』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章15節〜20節

18 章のテーマ・・・教会はどんなところか。
1-14・・・一人一人が神の宝として受け入れられているところ。
何が教会のしるしか?・・・マタイの2箇所の「教会」から。
①信仰告白(16:13-19)
②罪と悔い改め(18:15-20)

1)罪を罪として忠告すること
罪が軽く扱われてはならない。
噂話にしてはならない。皆の前で避難するもの違う。
まず一対一で→2−3人で→教会に訴える。

2)悔い改めに導くこと
一対一で語る時にも悔い改めが期待されて入る・・・兄弟を得る。
2−3人で語る時にも、教会に訴える時にも、悔い改めへの招き。
教会がその人を「異邦人や取税人のように扱う」時も、
悔い改めへの招き。・・・マタイ自身が「取税人」出身。

3)祈りによって支える
罪の忠告と悔い改めへの招きは祈りによってなされなければならない。
心を合わせて祈る祈り。
そこにある主の臨在
マタイ全体を通して貫くメッセージ。1:23→18:20→28:20

テイクアウトQuestions
1)自分の罪を示されたことがありますか?その時は、どんなことを思いましたか。どんなことを罪として感じたでしょうか?
2)誰かが罪を犯しているのを見た時に、あなたはどうするでしょうか?聖書が勧めていることを実行するのが難しいなと思うことはありますか?
3)先週のメッセージにあった「一人一人が神の宝として受け入れられているところ」ということと、今日のメッセージはどのようにつながるでしょうか?

 

 

2018年2月18日 『神の宝物』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章1節〜14節

18 章のテーマ・・・教会はどんなところか。
あなたは誰?「私は~である」という文章を20書く。何が出てくる?
「私は神の宝物」「この人も神の宝物」というアイデンティティー。

  1. あなたも神の宝物
    弟子たちの質問「天国では誰が一番偉いのか」・・・比較の世界の質問
    この質問は私たちの質問でもある。このイエスの答えは、私たちへの答えでもある。
    イエスの答え「この幼子のように自分を低くする者が・・・」「自分はどこまで自分を低くできたかな・・・」とを考えることではない。
    天国→神の国→神の支配→神の愛の支配→神の愛に満たされること
    神の愛を信頼してそこに身を委ねること、それが神の国の生き方。
    あなたは神の宝であるというメッセージを幼子のようにそのまま受け入れること。比べる必要はない、比べる意味はない。
  2. 彼も神の宝物
    自分を神の宝物として受け入れる時に、隣にいる誰かも神の宝。
    小さな者を受け入れる、小さな者も躓かせない。
    教会の功利主義、成果主義の危険。役に立つ人が大切にされる。
    →イエスがご自身の血を持って買い取ってくださった教会と違う。
    役に立つかどうか、それが教会にとっての大切さではない。
    神様に愛されなければいけない人々の集まり。
    第一コリント12:21-25・・・弱く見える肢体が必要。

テイクアウトQuestions
「私は~である」というものを20個考えてみてください。その中で一番大切なのは何でしょうか?
周りの人と自分を比べることはありますか?そんな時どんな気持ちになりますか?それに対して神様はどのように言ってくださいますか?
教会が功利主義になったり、成果主義になったりすることの危険はなんでしょうか?教会で一番大切にされるべきことはなんですか?

 

 

2018年2月11日 『神の子として』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マタイによる福音書17章22節〜27節

  • 2015年から読んで来たマタイによる福音書の続きに戻る。
  • 今年のみ言葉「わたしたちが神の子と呼ばれるためには・・・」
  • 「子は納めなくても良い」・・・元々「子は自由なのである」
  • しかしイエスは宮の納入金を納めた。人々を躓かせないため。
  • 私たちも神の子として自由。でも、その自由をどう使うか。
  1. イエスの自由
  • 出エジプト記に出てくる「神殿の納入金」
  • 王はその子から税金や貢物を集めない。では、神の子であるイエスは神殿の納入金は払わなくていいのでは・・・でもイエスは納めた。
  • 自由な神の子イエスが、私たちのために全てを捨ててくださった。
    ピリピ2:6-8
    十字架にまで行ってくださった。全世界の人々の罪を負って、罪の塊となって、父なる神に捨てられてくださった。
    →私たちの救いの喜びのために。私たちの平安のために。
  1. 私たちの自由
  • イエスの言葉「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
    でも、人々はそれで怒ってしまう。「私たちは元々自由だ!」
  • 自分が縛られていることを自覚するところから自由への道が始まる。
  • イエスによって与えられた自由を何のために使うのか?
    ガラテヤ5:13
    愛をもって互いに仕え合う。
  • 自由の中で、主を愛し、人に仕えよう。

テイクアウトQuestions

  1. あなたは自由ですか?
  2. あなたは神の子としてどんな特権を持っていると思いますか?どんな喜びを知っていますか?
  3. 聖書は私たちが与えられた自由をどのように使うように招いていますか?どのように使おうと思いますか?

 

 

2018年2月4日「だけん、輝やいとうとよ」

説教者 : 清水まお神学生

聖書箇所 : 第一ヨハネ5章1節〜5節

今年のみ言葉
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えて見なさい。」第一ヨハネ3:1

極みの愛によって、私たちは愛されている。

1) イエスがキリスト
• キリストとは「油注がれた者」という意
• 神によって生まれた者
• イエス様が大切にしているものを大切にする
• 神様の命令(伝えたいこと)は重荷にならない

2) イエスを神の御子と信じる者
• この世とは?
• 信仰 vs この世
• この世に打ち勝つ方法は一つだけ!

テイクアウトQuestions
1)イエス様からの命令はいくつあったでしょうか?また、その命令とは何でしょうか?
2)この世に住みながら、この世とどのように戦えばいいのでしょうか?
3)今、重荷と感じている事はありますか?それは何ですか?どうすれば、下ろせますか?

 

2018年1月28日「愛の極み」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : ヨハネによる福音書13章1節〜17節

今年のみ言葉

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」第一ヨハネ3:1

どれくらいの愛か・・・極みまで弟子たちを愛されたイエス

  1. 弟子たちの足を洗ったイエス
  • 弟子たちの姿・・・私たちの姿。
  • 弟子たちの姿にかかわらず愛し通された。
  • 最後の夜、何を語るか、何をするか、一番大切なこと。
  • 足を洗う・・・十字架で私たちの罪を洗うことの象徴。
    イエスは私たちの一番汚い、恥ずかしいところを洗ってくださった。
  • 「いえ、私は大丈夫です」というペテロ・・・プライド。
    「自分でできますから」「洗うほどではありませんから」
  • イエスに洗ってもらおう。イエスの愛を極みまで受けよう。
  1. 互いに足を洗い合いなさいとの招き
  • 自分が洗ってもらわなければいけない者であることを認めること
  • 誰かの足元に跪いて、足を洗うこと。その欠けや、醜さ、愚かさをおおうこと。あげつらうのではなく。
  • 上から目線で赦すのではなく。足元にひざまずく。
  • 16-17節:⎫ イエスのようにはできない。その限界を知りつつ、互いに仕え合っていく。

☆テイクアウトQuestion

  1. イエスの愛の極みとはどんな愛だったでしょうか?
  2. あなたの足元にイエスがひざまずいて、あなたの足を洗おうとされたら、あなたはどうしますか?
  3. 教会の中で、「互いに足を洗い合う」とはどういうことでしょうか?具体的なことを考えてみてください。そして、それを実行してみましょう。

 

 

2018年1月21日「赦しの世界への招き」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : マタイによる福音書18章21節〜35節

今年のみ言葉
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」第一ヨハネ3:1

私たちがこれほど愛されている→「赦しなさい」
実はこの言葉は第一ヨハネのテーマの1つ。第一ヨハネ4章19-21節

ストーリー
1万タラントの借金「もう少し待ってください。必ず返しますから。」
でも、主人はわかっていた、返せない。だから赦してやった。
そしたら向こうから100デナリ貸している奴が来た。
同じことを言うこの人。「ちょと待ってくれ、必ず返すから」。でも、彼はそれを赦さなかった。主人は怒って、彼を牢屋に入れてしまう。

100デナリ・・・100日分の稼ぎ。簡単に赦せない。
「お互い様」のことではない、「絶対に向こうが悪い」ということ。
100デナリ・・・先ほどは大したことはないと言った。でも、これはあくまでも1万タラント赦されたのだという前提があるから。
ここの部分だけ見ていると、簡単には赦せない。
1)自分が赦されたことを忘れている。
2)あれはあれ、これはこれ、と切り離して考えている。
3)1万タラントの意味がわかっていない。
→神を愛しているといいながら、兄弟を愛せない人は偽り者。

赦さないならば、苦しむのは自分・・・拷問役人

  • テイクアウトQuestion
    1)あなたはどうしても赦せない人がいますか?どうしてでしょうか?
    2)自分が赦せない時、上の1)2)3)のどの状態だと思いますか?
    3)あなたはどれくらい赦されたと思っているでしょうか?

 

2018年1月7日「神の招きに答えて」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : ルカによる福音書19章1節〜10節

 

  • 序)
    今年のみ言葉第一ヨハネ3:1
    クリスマスツリーの飾りと木の関係。
    外側を飾るよりも、内側から木を充実させよう。
    イエスに出会って、神の愛を知り、変えられた人・・・ザアカイ
  1. 目を留めて名を呼ぶイエス
    ザアカイ・・・取税人をも弟子とするイエスを見てみたい。
上から下を見下ろす。
    イエスは立ち止まり、声をかけた。
    神はあなたの名を呼ぶ方。あなたに目を留めて、声をかけられる。
    ヨハネ10:2-3
  2. あなたの家に泊まるイエス
    「あなたの家に泊まることにしているから」
    英語でも、”must”
    「片付けますから待っていてください」などと言わないで降りてくる。
    「財産の半分を貧しい人に。騙し取ったものは4倍にして返します」
→ザアカイが先ではなく、イエスが先。
    いつも神様の愛が先、私たちの信仰は応答。第一ヨハネ4:10
    イエスは後ろ指を指される。しかし、イエスはそのことを覚悟で断固たる思いでザアカイのところに行った。
    存在をかけて、命をかけて、あなたを愛してくださっている。
  • テイクアウトQuestion
    1)神様のあなたへの招きはどのような時に感じましたか?どのようなところで見ることができますか?
    2)イエスが、「あなたの心に入りたい」と行ったら、あなたは「もうちょっと片付けますから」と言いますか?すぐにイエスを迎えますか?片付けるとしたらどの部分でしょうか?
    3)神はあなたをどのように愛しておられるでしょうか?

 

 

新年から大盛り上がり!

本日のクロッキークラス

2018年最初のクロッキークラス。

この日は気温も低く、朝から雪がチラチラ。。

体調を崩している方も多いだろうし、きっと少人数でまったりクラスだろうなー。

と思いきや!なんと、雪の中12名もの方々が集まって下さいました!

 

こちらはアートカルタ。

 

一人一枚ずつ模写していきます。
ご本家より上手ですよね??!

 

皆さん素晴らしい作品ができましたー!

 

そして新年一発目の人物画は・・

もちろんこの方、錦織牧師!

 

男性のスーツ姿はバランスがとても難しいですが、初めての方もとても素敵に描けました!

 

クロッキー教室のあとはショートバイブルメッセージ。

ヨハネによる福音書6章20節
すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」

「恐れるな」という言葉は聖書にたくさん出てきます。
ある説では、365回出てくるとも言われています。
それだけ私たちが恐れやすい存在かということを表していると思います。

私は昔、絵を描くのが苦手でした。
ジャッジされることを恐れていました。
描いていても楽しくなかったですし、自信がありませんでした。
それが絵にも表れ、悪循環です。

このように色んな場面で私たちは恐れによって損しているのではないでしょうか。

この聖書箇所では弟子は嵐を恐れていました。
私たちの人生にも嵐があります。
環境、人の目に振り回されて損してしまうこともあります。

けれど、聖書は恐れなくて大丈夫と繰り返し語っています。
信じていきましょう。

 

バイブルメッセージのあとは、楽しいランチタイム。
新しい方も加わってくださり、自己紹介をしたり、新年の抱負を語りあったりと、お喋りに花が咲いた楽しいひと時でした!

次回のクロッキークラスは2月21日10:30〜13:00です。

どなたでも大歓迎です!

2017年12月31日「主の御手を信頼して」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : マタイによる福音書6章33節

  • 序)
    今年のみ言葉がマタイ6:33
    神を信頼して歩むように招かれた1年を振り返りつつ味わう。
  1. 地上での神の国
    空の鳥を、野の花をごらんなさい。神様は大切にしてくださる。
    あなたはもっと大切な存在・・・だから信頼していこう。
    神の国→神の支配→神の愛の支配→神の愛に満たされること
・・・神の愛に満たされて歩む。成果主義ではなく。
    神の義・・・神とのまっすぐな関係。神の前にありのままの自分で出る
    神の愛の中に抱かれる。
    神の国の生き方は・・・恵みに感謝して生きる。
⇔成果主義、頑張って認められる生き方
マタイ20:1-16
  2. 死を突き抜ける神の国
    多くの方々を天に送ったこの1年。
    聖書の約束
・・・イエスと共に、神と共に永遠に。悲しみも、痛みもない世界。
ヨハネ14:1-3
黙示録21:3-4
ピリピ1:20, 23
    私たちは希望を持って歩める。ローマ8:38-39
    イエスの死に対する勝利・・・ヨハネ11:1-44
  • テイクアウトQuestion
    1)この一年、あなたの歩みはどのような歩みでしたか?感謝したいことは何でしょうか?
    2)この地上で神の愛の支配に生きることは、どんなことでしょうか?
    3)死を突き抜ける神の愛の支配はどのようなものでしょうか?それを信じることは、私たちの地上の生涯にどんな力があるでしょうか?

 

2017年12月17日「我らとともにいる神」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : マタイによる福音書1章18節〜25節

  • 序)
    クリスマスの登場人物の中で、一番大きな役割・・・マリヤとヨセフ
    大きな使命、困難な使命・・・神が共にいるということが支えだった。
  1. マリヤと共におられた神
    ルカ1:26-38・・・マリヤへのお告げ
「恵まれた女よおめでとう。主があなたと共におられます」
    信じられない・・・「どうしてそんなことがありましょうか?」
    自分の身に起こってくる困難。
    使命を支えられる神
  2. ヨセフと共におられた神
    マリヤが身ごもっている。マリヤを信じられないでいるヨセフ。
ヨセフが訴えるとマリヤは石打ちの件
→密かに離縁しようと決心した。
    マリヤにとっては一番サポートが必要な時。
でも、ヨセフの判断は無理はない。
    無理なことを無理じゃなくす神の臨在。ヨセフはすぐに妻に迎えた。
  3. インマヌエルなるイエス
    イン=共に、マヌー=私たち、エル=神 イザヤ7章の預言
この方の中に神が共にいてくださる。
    イエスの生涯・・・人々と共に歩んだ。底辺を歩んだ。痛みの中にいる人と共に歩んだ。病の人に触れて癒された。
    イエスの存在・・・神と人が共にいる。
    十字架にまで共にいてくださった。どこまでも共にいる。
  • テイクアウトQuestion
    1)あなたはどんな時に神様が共にいてくださると思いますか?
    2)神様が共にいてくださるのはあなたにとってどんな意味があるでしょうか?
    3)神はあなたと共にいるためにどんなことをしてくださいましたか?

 

 

2017/12/1 マンハッタンオアシス 特別プログラム (ピアノコンサート) 

この日はピアニストの萌子さんをお招きした特別プログラム。

ドビュッシー(水の反映)、リスト (バラード2)、ガーシュウィン (Embraceable for you Fascinating Rhythm)などを弾いていただきました。

ピアニスト
千代崎萌子

水の反映は、印象派の絵のようなイメージで、オアシス会名称の由来となった

イエスが与える永遠の生命に至る水が湧き上がる(ヨハネ4:14)の様子を連想させるものです。

リストのバラード2番は嵐と平和が交互にくる曲想で、イエスが私たちの心の中の嵐を鎮めて下さることを表現したそうです。

 

バイブルトーク

そして、クリスマスを待ち望むこの日開かれた聖書はルカ2:1~20。

イエスの誕生に込められたメッセージが語られました。

世界で最初のクリスマスは、華やかなネオンもない静かな場所でした。

人々に大きな喜びを与える、救い主が生まれた!

この知らせは、まず野宿していた羊飼いたちに伝えられました。彼らは家畜の世話ゆえに安息日を守れずにいて、ユダヤ人の中で見下されていた人々です。

迎える客間もなく、家畜小屋で生まれた救い主、イエス。そのしるしは、布にくるまれ飼い葉桶に寝かされていると天使は告げます。

すぐに出発して、赤ん坊のイエスを探しあてた羊飼いたち。天使が告げたことはすべて真実でした。羊飼いらは自分の日常には戻らず、すぐ人々に見たさまを伝えに行きました。

クリスマスのメッセージを聞いて、そのまま日常に戻るのは、なんともったいない。

もしや、今年のクリスマス、楽しい気持ちではなくて不安を感じてはいませんか? クリスマスは幸せな人の為にある?と思っている方はいらっしゃらないでしょうか?

イエスはこの世の底辺に生まれました。

だから、人々の苦しみや痛みを分かり共感してくれるのです。

それがあなた方に喜びを与えます。

神様、それは本当ですか?

私も、その真実が分かるようにしてください。

そこに約束されている大きな喜びを、私にも与えてくださいと求めようではありませんか。

 

 

 

 

 

マンハッタン・オアシス

天突く高層ビルの摩天楼。

絶えない人々の流れと鳴り響くイェローキャブのクラクション。

煌びやかに輝くネオンの不夜城。エネルギーと活気に溢れた

マンハッタン。貴方にとって、憩える場所はどこでしょうか?

タイムズ・スクエア近くの一角で

牧師がバイブルのメッセージをわかりやすく語ります。

砂漠に突如現れたオアシスのように

希望と憩いの時となりますように。

read more                                                 

毎月第一金曜日 

場所 :Kirov Recital Hall @ 244 Rehearsal Studios
244 W 54th St. 10F (between Broadway & 8th Ave.) Manhattan, NY
スピーカー:錦織 学 (ニュージャージー日本語キリスト教会牧師)
連絡先 :1-201-221-6244 (牧師携帯)
参加費:無料 軽食付き
7pmより会場に入ることが出来ます。

Special thanks!

本日のJCCカフェ

 

あっという間に2017年も最終月。

クリスマスを控え、JCCカフェもクリスマス仕様です。

本日のスイーツメニューはこの季節ならではの、生栗から作るモンブランと、キャラメルブッシュドノエルです。

モンブランのトップと中には手作りの渋皮煮も。ベースはサクサクと口どけの良いメレンゲを敷いて、栗の風味が存分に感じられるモンブランに仕上がりました。

キャラメルブッシュドノエルは子供のころ大好きだったケーキ屋さんのキャラメルロールを再現。

カリカリにキャラメリゼしたナッツと、ほろ苦いキャラメルバナナをトッピング。

 

人気のスイーツプレートはレギュラーサイズとハーフサイズの組み合わせを自由に選んで頂けるようにしました。

スイーツプレートには特製のリンゴジャムとブルーチーズのカナッペがセットに!

これがもう、甘いのとしょっぱいのの禁断のマリアージュで。。!

1枚じゃ足りない!あと10枚!!という美味しさでした〜

色あざやかなピクルスプレートも準備万端です。

 

クリスマススペシャルとして、いつも来てくださる皆さんに、ささやかながらクリスマスクッキーをプレゼント♡

 

カウンターでは自家焙煎コーヒーをハンドグラインドして、ハンドドリップ!

なんとも贅沢なコーヒーです。

 

今回はクリスマススペシャルゲストとして、リッジウッド歌う会の皆さんがミニコンサートをして下さいました〜!!

クリスマスにぴったりなクリスマスソングや、日本の歌など、とっても素敵なハーモニー。

一気にカフェが華やかな雰囲気に包まれました。

 

皆さんリラックスしながら思い思いにコンサートを楽しんでいらっしゃいます。

小さな女の子は音楽に合わせてノリノリで踊っていてとっても可愛かったです♪

今後もまた是非、コラボレーション企画をして行きたいです!

 

8月にプレオープンしてからこの数ヶ月の間、誕生したばかりのJCCカフェにたくさんの方が足を運んでくださいました。

こんな場所があったらいいなーという思いを多くの方が共有してくださって、今年いっぱい続けることができました。

もっともーっと地域に根付いて、公民館とか児童館みたいな場所になればいいなと願っています。

あんなこと、こんなこと、アイデアは山積みですが、まずは一歩一歩ゆるりと皆さんと一緒に居心地の良い空間を作り上げていけたらいいなと思っています。

2018年もどうぞよろしくお願い致します。

 

☆次回のカフェは

2018年1月10日12:30〜15:30です!
※時間が変更になっています。ご注意下さい。

 

2017年12月10日「イエスのもたらす平和」

説教者 : 錦織学 牧師

聖書箇所 : イザヤ書9章1〜7節

  • 序)
    救い主は暗闇に輝く光。
    ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤ・・・イスラエルの北部
・・・周辺からの攻撃を受ける。そこに光が、平和が与えられる。
    暗闇のようなところを歩む私たちに光を、平和を与える救い主。
  1.  イエスが与える平和
    戦いがなくなる。武器は必要なくなる、という預言。
↔︎「わたしは平和ではなく、剣を投げ込むために来た」(マタイ10:34)
→表面的な平和、見せかけの平和を打ち壊し、本当の平和をもたらす。
    神との平和(ローマ5:6−11)
神に背いていた私たちのために、神は和解の手を差し伸べられた。
イエスの十字架によって罪が清算される。
    キリストの与える平安(ヨハネ14:27)
  2. あなたから始まる平和
    聖書はいつも「内側→外側」の方向性。
↔︎状況によって、平和が変わる。周りがガタガタしていると心も不安。
    軍事的リーダー、強いリーダーを期待していたユダヤの民。
↔︎イエスは私たちの心を照らして、私たちの心に平安を与え、世の光へ。
    「光によって、明らかにされて、それが光に変えられる」エペソ5:13-14
    アッシジのフランチェスコの祈り
・・・私を平和の道具にしてください。
・・・理解されるよりも、理解することを。
・・・愛されることよりも、愛することを。
  • テイクアウトQuestion
    1)どんな時に平和が実現すると思いますか?
    2)イエスはどのような意味で、救い主なのでしょうか?
    3)あなたはあなたの周りに平和を生み出すために、どんなことができるでしょうか?

 

 

一年の締めは色のお勉強

本日のクロッキー

12月は年に一度の色のお勉強です。

光の三原色と色の三原色は同じ色ではありませんよ〜

知っていましたか?

光の三原色は、赤、青、緑。テレビの仕組みも同じです。

色の三原色は、赤、青、黄。混ぜると黒くなっていきます。

 

雑誌をちぎって色々な色を探します。
雑誌をルーペでよく見ると、赤、青、黄色、黒のドットで表現されていますよ。
家庭のプリンターも同じ原理です。

 

様々な色を探したら、青い台紙に貼ってお魚を作ります。

画面に貼り付ける技法はコラージュと言います。

個性豊かな作品ができました〜!!

 

クロッキー教室のあとはショートバイブルストーリー。

ヨハネによる福音書1章1〜5節、9節
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。

この聖書箇所はイエス様がこの世に来たことを象徴的に表しています。イエスは光としてこの世界に来たというのが聖書全体を通してのメッセージです。

歴史を熱心に研究する人達の中にはイエスは12月に生まれたのではないと唱える人もいます。

12月の寒い夜、羊飼いが羊の番をするとは考えづらいので、実際イエスが生まれたのはもっと暖かい時期だったのかもしれません。

では、なぜ12月にXmasを祝うのでしょうか?
それは、キリスト教がヨーロッパに伝えられていったこと関係があります。
アメリカより更に緯度が高いヨーロッパでは、冬はとても日が短く、冬至はとても大切なお祝いでした。「これから日が長くなっていく!太陽が帰ってくる!!」と祝っていたのです。
それが、キリスト教がヨーロッパに伝えられていく時に、「光(イエス)が来る」と「太陽が戻ってくる」を重ねてお祝いするようになりました。

今日は、私達は色について学びましたが、光のない暗闇では、どんな色も黒にしか見えません。
光は私達にとってなくてはならないものです。
イエス様は暗闇を照らす光として私達のもとに来て下さいました。
日が短い時に光が来ることは大変な喜びですが、同時に私達の心にも光が必要です。

暗闇の中では全く気付かなかったシャツの染みに、光の中に出て初めて気づくように、私達も、光によって初めてその心の染みに気づくことがあります。
それは時として、とてもつらいことですが、その存在を知ることで、初めて「この染みを取り除いてください。」と祈ることができるのです。

皆さん、どうぞこのXmasに光を求めて、イエス様が私達のところに来たのはどういう意味なのか味わう機会として下さい。

 

次回のクロッキー教室は1月17日10:30からです。
新年最初のクロッキー教室で皆さんにお会いできるのを楽しみに待っています♪

2017年12月3日「慰めよ、我が民を慰めよ」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : イザヤ書40章1〜11節

  • 序)
    紀元前500年代のバビロン捕囚の中での解放の預言。
    もうダメだという民。70年間の捕囚。
    そんな絶望の中にいた民に慰めを語る神。救い主を待ち望む民への慰め
  1.  罪の赦しの慰め
    ・神が言われる。人の言葉ではなく、神が言われる。
    ・「我が民」と呼んでくださる。私のものだと、呼んでくださる。
    ・ここでは、十分に苦しんだから、あなた方は赦されると書かれているが、これが救い主の預言となる時、苦しむのは、私たちではなくて、イエス様、救い主。
    ・赦される=神とともに歩む。神に受け入れられる。私たちが立派になったら受け入れてくださるのではなく、そのままで受け入れられる。
  2.  御言葉による慰め
    ・御言葉によって慰められる。
    ・諸行無常・・・全ては変わっていく。⇔御言葉はいつも変わらない。
    ・御言葉が与えられる経験。御言葉が自分のものになる経験。
    ・神様の慰めをいただく。人に慰めを運ぶ。・・・第2コリント1章。
  3. 羊飼いの慰め
    ・私たちを抱きしめてくださる。受け入れてくださる。懐に入れてくださる。包んでくださる。
    ・神様の慰めは結局のところ、共にいてくださること。臨在。
    ・言葉で表しきれないもの。音楽や絵を通しても。
  • テイクアウトQuestion
    1)あなたが慰めを受けた経験はどんな経験がありますか?
    2)聖書の言葉によって慰めを受けた経験はありますか?
    3)神からの慰めを受けるために、あなたはどんなことをすればいいでしょうか?

 

2017年11月26日「我らは恐れない」

説教者 : 錦織学牧師

聖書箇所 : 詩篇46篇

  • 序)
    神が共にいてくださる。今ここに。
遠くではなく、困難の中でも。
    詩篇46篇の背景・・・紀元前700年ヒゼキヤ王のユダ王国。
大国アッシリア帝国に包囲される。18万5000人の兵。
列王紀下18-19章、イザヤ36-37章
  1. 神がその中におられるので、都はゆるがない。
    普通は「砦がしっかりしている」「城壁が堅固だから」「負けない位たくさんの兵士がいるから」
個人「老後の蓄えがあるから」「保険に入っているから」
教会「会計が満たされているから」「能力のある方がおられるから」
    そうではなく、「神がここにおられるから、私たちは揺るがない」
    「一つの川がある」・・・命の水を与えられたイエス。聖霊の満たし。
  2. 静まって、わたしこそ神であることを知れ。
    口語訳「静まって」、新改訳「やめよ」、新共同訳「力を捨てよ」
NIV “Be still”, The Message “Step out of the traffic!”
流れに身を任せて、振り回されて、ではなく、一歩退いて。外に出て。
    アッシリアに攻められたユダの国。エジプトと同盟、バビロンと同盟。
あっちの国と同盟、こっちの国に助けを求める、そんなバタバタしている民に対して、「静まりなさい、神の主権を認めなさい」と言われた神。
    忙しくて、そんな時間はない?・・・だからこそ、神の前に静まる。静まって神を神とすること。神を見つめること。
  • テイクアウトQuestion
    1)あなたは何を頼りにしているでしょうか?「これがあるから大丈夫」と思っているものは何でしょうか?それが取り去られたら、どうなるでしょうか?
    2)今、自分がstep outしなければならない状況は何でしょうか?
    3)神を神とするとはどういうことだと思いますか?あなたの現実の生活の中で、具体的にどんなことをすればいいでしょうか?