「生かされている喜びと感謝」

もし、私が神を知らなかったなら、この肉の体はとうの昔に滅びていたに違いないことを自分自身よく知っています。誰でも1度や2度は命にかかわる危険を、長い人生の間には経験することがあると思いますが、私はすでに5回も6回も神様に助けていただいたのですから、「もはや、生きているのは私ではない」という実感を強く持って生きています。

まだ幼かった頃、ペニシリンなどの抗生物質はなく、アズキ氷を食べ疫痢にかかった私はただ食塩注射を受ける以外治療の方法はなかったそうです。医者が「だめかも知れない」と言ったそうですが、母は神様に全てを委ね祈ったそうです。その母の祈りによって私の幼い命は生かされました。

母の父はカナダの神学校を出た牧師でしたし、母の兄も牧師でしたので、姉を始め、私や弟、妹たちは皆、生まれるとすぐ伯父から幼児洗礼を受けていました。

太平洋戦争も激しくなり、中学1年生の私たちも軍需工場へ動員され武器の生産に当たっていました。旋盤を教えられた通りに操作し、魚雷の部品を作っていたのです。ある日、空襲警報がなったと思った途端、工場は艦隊戦闘機の機銃掃射を受けました。一瞬、旋盤の下に身を隠し無事でしたが、無数のリンゴ大の雹がトタンの屋根を一気に撃ちつけるような衝撃に、12歳の少年であった私は死の恐怖を感じました。

ある晩、同じように空襲警報が鳴り、姉や弟たちと共に自分たちで掘った庭の防空壕に潜り込み避難しました。「お母さん、早く。」という私の声に答えて母は言いました。「小さい2人の子供がいるし、私はここにいます。神様に祈っていますから心配しないでください。」と言って家の中にいました。それを聞いて、私は子供ながら「お母さんは、凄い信仰の人だな。」と思いました。遠く空に飛行機の爆音が聞こえたと思った時、ドーンという鈍い衝撃音が聞こえました。(遠くに機影が見えたり爆音が聞こえる時が一番危ないのです。)当時、神戸市葺合区の山手に住んでいましたが、爆弾は100メートル程離れた林の中に落ち、家は何の被害も無く、私たちは守られました。このような生死の問題は、全て神様のご計画の内にあることで、自分ではどうすることも出来ないことであったのですが、「神様が私たちを守ってくださっている。」との実感を与えられました。(父は英語の達人で、その当時情報部付き陸軍少佐としてシンガポールに出征していて不在でした。)

しかし成長するにつれ、そのような神様のとりなしや恵みをすっかり忘れて自己中心的な生活に溺れるようになっていました。教会には行かないし、信仰告白はしないけれど神は肯定するという身勝手な信仰を持っていました。

大学生の時、2人の友人と京都保津川鉄橋(単線)を無謀にも渡っていた時、列車が走って来て、あわやはねられそうになったことがありました。汽車が鉄橋に入って来たのは3人が鉄橋を渡りきり、線路の両側の草むらに身を投げ出した直後でした。「バカヤロー」の機関士の怒声だけが耳に残っていますが、間一髪、神様の憐れみが3人の命を救ってくださいました。機関士の怒声を人の声としてではなく神の警告と受け取るべきであったのです。しかしそれからも私は自ら求めて危険と罪の中に身を置く生活から抜け出すことはできませんでした。

社会人となり、会社勤めも10年を過ぎ、課長の立場を与えられていましたが、「自分(我)」の思いの虜になったような生活をしていました。飲酒居眠りで大阪・奈良間のハイウェイであわや即死の事故を起こしました。シートベルトもエアバッグもない1960年代の車ですから、無傷で助かるはずのない死の谷への転落でしたが、血一滴流すことなく生還を許されました。この出来事を通して、不信仰な私にも、十字架でキリスト様が血を流されたのはこの罪深い私のためであったことがはっきりと示され、闇夜のハイウェイで天に向かい「神様、ありがとう。」と叫び、感謝しました。

「父のもとに立ち帰りたい」と願いながら優柔不断な生活をしていた私に、神様の戒めがくだる日が来ました。マンハッタンのミッドタウンで、パンクした後輪のタイヤを取り替えるためにジャッキで車を持ち上げていた時のことでした。サイドブレーキを引かず、ブレーキの踏み込みも甘かったために、車が前に傾きジャッキがスナップして飛ぶ危険が起こりました。私は、どんなことがあっても、回りで見ている人々に当たらないで欲しいと必死に神様に祈りました。「当たるなら、どうか私に当ててください。」と祈りました。妻は冷や冷やしながら私の側で成り行きを見守っていました。その祈りは聞かれ、勢いよくスナップして自由を得たジャッキのバーはまるで矢のような速さで飛んできて、私の右前額部を打ちました。メタルバーが私に向かって垂直に飛んで来ていたなら、体のどこかに突き刺さって大怪我をしていたと思います。すぐに救急車が呼ばれ、エマージェンシーホスピタルに運び込まれました。診察の結果、怪我は7針の裂傷で、脳には異常を認められませんでした。私はまたもや神様の許しによって残る者とされました。

やがてジャスティン春山先生によって堅信礼を受け、再び神様との関係は修復され、同じように堅信礼を受けた長女、信仰を告白した次女・妻とともに家族全員がキリストを信じる者とされました。

このような命にかかわる色々な経験を経て、今日在る私は、「最早自分のものは何もない。全ては神様のもの。何なりと用いてください。」と、キリスト誕生2000年、70歳の誕生日に祈り願いました。主に仕え、教会に仕え、そして隣人に仕えることが、70歳からの私の人生だとの確信に導かれ、献身の思いに至り、JTJ宣教神学校で学びを始めました。働きながら学ぶことにはチャレンジもありますが、そのことによって主が喜んでくだされば、それは何にも勝る幸いだと信じて、感謝して励んでいます。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章4節

月報2000年12月号より

「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」

私が洗礼を受けたのは、高校1年生の6月です。父が私たちを収集し、「家族全員で洗礼を受ける」と言い出したのがきっかけでした。

幼い頃から叔父が牧師をする教会に通っていた私は自分自身を生まれもってのクリスチャンと思っていたので、父の唐突な提案にも快く賛成しました。母や兄は反対しましたが、結局一家揃って洗礼を受けることになりました。その時の私は、同時に5人も信仰を告白するなど教会はじまって以来のめでたいことと、ギネスブックに記録をのせるような誇らしい気分でいました。

晴れてクリスチャンとなったつもりの私は、心の中では十字架の愛の意味を理解していません。イエス様が誰かの罪のために死んで下さったことを感謝することが出来る自分は、なんと寛容な人間であろうかと思い込んでいたのです。従兄弟たちと遊ぶのが目的で教会に通っていたので聖書の内容に無関心、持っていくのが面倒で教会の本棚の奥に聖書や讃美歌を隠しては持ち出す、牧師先生のお話の時間は居眠りの常習犯、というありさまです。

そんな私の心を見抜いて、仲の良かった従兄弟は洗礼式をさかいに私を避けるようになります。「なんで話をしてくれないの?」と尋ねると、「とにかくしばらく私に話しかけないで!」という答え。いつも優しく寛容で他人事には干渉しない彼女に突然冷たく突き放され、唖然としました。周囲の励ましの言葉は頭の中で空回り。「こんなことなら洗礼なんて受けなければよかった」と、とんでもない間違いを犯してしまったという直感だけが胸をちくちくと刺すのです。最良の理解者の一人を失ったような気持ちになり、意欲も薄れ、教会から離れていくことになりました。表向きには平常心を装い、「彼女のとった一時的な私への強硬な態度」の記憶をまるで何事もなかったかのように心の奥底に仕舞い込みました。

数年後、友人に誘われてはじめて聖書の勉強会に参加した時です。信仰の土台がしっかりと築かれた友人との宝のような出会いを与えられ、心が安らぎました。しかし、共に賛美する喜びを味わう一方で私の心に徐々に劣等感が蓄積され、どうしても素直になれません。純粋な信仰を妬ましく思い、「そんなに熱心に聖書を読むのもいいけど、私たちの本業は学問でしょ」と、文句ばかり。そんな私の甘えに対しても彼らは一貫して神の愛を与えつづけ、祈りつづけ、励ましつづけてくれました。

その頃から一進一退を繰り返しつつも、聖書の世界にひきこまれます。特に、「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙8章38・39節)という箇所は私の魂を奮い立たせてくれました。「離れた私を見捨てずに愛してくださっている・・・これが神の愛」と確信し、涙しました。虚栄とプライドで固まった心を神は砕かれ、悔い改めへと導かれたのです。感謝のほかありません。

今では私の生い立ち、洗礼、勉強会での出会い、ローマ人への手紙、全てが主の恵みと思います。ニュージャージー日本語キリスト教会の聖書通読のプログラムを通して全体をはじめて通読するチャンスを与えられ、私の珍問に丁寧に答えて下さる錦織先生が与えらていることも、感謝に絶えません。心に負った傷が完全に消え去ることなく、「そんなこといったて、神様」と、愚痴をこぼす日々ですが、聖書の言葉によって「救われる」ような体験をさせていただくに違いないという希望があるからこそ、生きる勇気が湧いてきます。内心わくわくしつつ、今日もまたページをめくるのです。

「わたしの命をあらゆる苦しみから救って下さった主は生きておられる。」

列王記上 1章29節

月報2000年9月号より

「十字架の痛み」

私は今、2人目の子供を妊娠中です。9ヶ月目に入り、まもなく出産を控えていますが、今回はつわりはひどかったものの本当に神様に守られ、皆さんの祈りに支えられて、ここまで来れていることを心から感謝致します。妊娠中といえば、1人目の子供のときに一つだけ忘れる事のできない出来事がありました。それは妊娠6ヶ月のときに、尿管結石で入院したときのことです。突然、横腹の激痛を感じ病院で診察してもらった結果、尿管に石がたまる尿管結石だと診断され、即入院して石を出すことになりました。石を出すと言っても、『妊娠中なのでレントゲンをとって散らす』、という本来の方法での治療ができず、ひたすら点滴と水分をとることで下におりてくるのを待つことになりました。

入院して4日目のことだったと思います。その夜、今までには感じた事のないほどの激痛に耐えられず、お腹の子供には影響のない注射を打ってもらいましたが、その注射も効かず、挙げ句の果てには痛みから来る吐き気で、一人トイレにうずくまっていました。もう自分がみじめで、悲しくて、痛くて、泣きながら「神様、どうしてですか?どうして、どうして私がこんなに苦しまなきゃいけないんですか…?」と神様につぶやきました。その夜は、結局3本の注射を打ってもらってようやく眠りに就くことができたのを覚えています。

次の朝、意識が朦朧とするなかで、その日が日曜日であるということに気付きました。少し落ち着きを取り戻したくて、何気なく聖書を手に取りました。そのとき行っていた教会では、毎週、新約聖書のヘブル人への手紙から連続してメッセージが語られていたので、そこに目を通していたときのことです。意識は朦朧としていたのに、次の箇所にきたときハッとさせられました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、……」

(ヘブル人への手紙 5章7~9節)

イエス様が十字架にかかられたシーンと重なり、私のうちに迫ってきました。イエス様が十字架上で苦しまれたのは、まぎれもなくこの私の罪のためであるのに、あの苦しみと痛みのなかでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。私の痛みなんてとても小さいもので、その何倍も、何十倍も想像を超えるほどの痛みと苦しみのなかで祈られたことば。私のうちから離れませんでした。私達を、いやこの私を罪から救うためにここまでしてくださったイエス様の深い愛に、涙が止まりませんでした。前日の涙も、この日の涙も、ともにもう一度イエス様の十字架の愛に触れるために必要なものでした。

あんなにもまたいつやってくるかわからない激痛を恐れていたのに、その後、不思議と恐れは消え、それどころかともにこの痛みの中を通ってくださる方がおられる、というだけで俄然ファイトが湧いてきて「いつでもかかってこい!」と言う心情でした。ところが、それ以降、痛みは一度もやってこず、その2日後には退院しました。結局石はでてきておらず、どこへ行ったかもわからないまま今に至っています。実は、妊娠中は普段の体の状態と違って石が溜まり易いということもあり、また再発するのでは、と少し不安もありましたが、神様はあの時にもう一度十字架の愛に触れさせてくださっただけでなく、癒してくださったと今改めて信じております。これほどまでに、一人一人を気遣ってくださる神様に心から感謝しつつ、これからもこのイエス様の十字架を覚えて歩んで行きたいと思います。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。」

ヨハネ第1の手紙 4章10節

月報2000年11月号より

「今から10年前の春分の日に…」

今から10年前の春分の日に、千葉の海岸で洗礼を受けました。それまでには色々な「出会い」がありましたが、神様はこんな小さな私のためにたくさんの人を通して導いてくださいました。

はじめて聖書を手にしたのは、大学の入学式でした。その頃は、毎日のチャペルの時間・聖書やキリスト教概論の講義など、チャンスはいつも目の前にありましたが、表面を撫でていただけで、近所の教会へもレポート提出のためにしばらく通った私でした。

こんな私が結婚して4年経った頃には3人の子供たちの母となり、カナダのバンクーバーで生活していました。上の子がナーサリーへ行っている間に、下の子2人を連れて英語のレッスンにバプテストチャーチへ通うことになり、日本で牧師をしていたというカナダ人の先生に出会いました。日曜日の午後には日本語礼拝をしておられると聞き、家族で参加したりもしましたが、先生の体調がすぐれないために、別のESLクラスへ通うことになり、それきりになってしまいました。

日本へ帰国してから、時々聖書を手にすることも多くなった頃、エホバの証人の方々が時々訪ねて来られ、話をすることもありましたが、主人からは「近くにちゃんとした教会があるんじゃないの?」と言われ、友人にエホバの証人ってどんな人達なのか聞いたりしました。その友人がクリスチャンで、私にプロテスタントの教えとエホバの証人の違いを理解できるようにとお茶に誘ってくれ、友人宅で牧師さんに出会い、色々話してくださり、聖書学校・日曜礼拝へ誘われ、私はすぐその週から聖書の学びを始めました。それまで私は勝手に自分の神様に毎日お祈りしていましたが、学びを通して全てがパチンと合ったという思いが強くしました。その教会で、日頃遠くからステキだなあと思っていた方々と出会ったことは大きな驚きでした。喜びでいっぱいになり、御言葉を実行する人になりたいという思いを持って、海で洗礼を受けました。その頃には一緒に教会へ行くようになっていた主人が、洗礼式に深く感動し、半年後に主人も同じように海で洗礼式を迎えることができました。子供達も楽しく日曜学校へ通っていましたが、イギリスへ赴任することになり、しかも地西部のマンチェスターで、未熟な私達は不安でしたが、会社の家のある小さな町(ほとんど村)には、クリスチャンファミリーが待っていてくれました。4家族の日本人のうち3家族がクリスチャンというすごい確率でした。毎日曜日は地元のバプテストチャーチへ通い、月1回はバイリンガルサービスへ集うという恵まれた環境には本当に感謝でした。マンチェスターでは、ハワード夫妻という、神戸で宣教師をしていた方々に出会い、たくさんの日本人クリスチャンに出会い、アングロ・ジャパニーズ・クリスチャン・ミニストリーズ(A・J・C・M)という組織の始まりに参加することができ、隣の隣りに住んでいた友人の洗礼に立ち会い、日本からの留学生(17歳)の洗礼もありました。日本人が少ないこともあり、日本を紹介したり、私の教えていた粘土手芸を村のイギリス人婦人会の方々の前で作って見せたりと、つたない英語で四苦八苦しましたが、色々な場を通じ、友人を通じて新たな出会いがあり、たくさんの人を知ることができ、一歩ずつ前進できたのだと思います。

神様はこのようにいつも色んな人を通して働いてくださいます。今、私はここニュージャージーで色々な人に出会っています。自分の中に改めたい所がある私は、学ばされることがいっぱいです。これからも出会いを大切に、

「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。」

テサロニケ第1 5章16節~18節

このように歩んで行きたいと思います。主にあって。

月報2000年5月号より

「1997年のクリスマス、主人と一緒に…」

1997年のクリスマス、主人と一緒に生まれて初めて教会に行きました。その時まで、特に教会に興味を持ったこともなく、聖書にも触れる機会のなかった私にとって、教会はとても神聖な場所で、それまで味わったことのない雰囲気を感じました。

しばらくして主人と結婚することも決まり、私は主人の両親や兄弟、友人に会いたい気持ちもあり、教会に通い始めました。その頃主人はアメリカで留学生活を続けていた為、一人で行かなければならない心細さはありましたが、教会の皆さんが温かく接してくださり、とてもありがたく思っていました。ただ、私の心の中には、「クリスチャンの彼と結婚するのだから、私も早く教会のこと、神様のことが分かるようにならなくちゃ。早く洗礼を受けなくちゃ。教会のみんながそう望んでくれている。」という気持ちがありました。一方では、いつもそのことに反発する自分がいました。20数年間信仰について全く考えたこともなく、どちらかというと私には必要ない、自分の判断で生きていけると考えていた私には、すべてを素直に受け入れることはなかなかできませんでした。尊敬していた両親との関係も変わってしまうのではないか、自分自身も変わってしまうのではないかと、たくさんの不安がありました。真剣に考えようとすればするほど、それが悩みになっていきました。牧師先生に「結婚式の前に洗礼を受けることはとても意味がありますよ。」というお言葉をいただいたにもかかわらず、決断ができず、主人にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

結婚後すぐニューヨークに来て、2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、日本の牧師先生の紹介でこちらの教会に通うことになりました。礼拝に出席できるのはうれしかったのですが、また「洗礼」という言葉が重くのしかかってきました。この言葉がでる度にビクビクしていたような気がします。イースターの少し前、錦織先生から「どのように考えていらっしゃいますか。」と声をかけていただいた時、思い切って話してみようと思い、面談をお願いしました。その時から勉強会を通し、それまで自分が抱えていた悩みや不安を先生にお話しするにつれ、徐々に気持ちが楽になっていきました。主人とも洗礼のことについて話すようになり、相談する度にいつも「人にはそれぞれ時があるから、焦る必要はないよ。」と支えてくれ、その言葉にとても救われました。また、たくさんの方々に支え、励ましていただきました。「悩むことは、神様は望んでいらっしゃらない。」「洗礼を受けた時は本当にうれしくて、その日のことは一生忘れない。」というお話を聞いて、私もそんな風にうれしい気持ちいっぱいで洗礼を受けたい。きっと、私にもそういう時がくると信じていました。

その後もしばらく時間が必要でしたが、日帰りで出席した修養会の夜の集会で先生が「自分のために祈ってもらいたい方、前に出てきてください。」と言われた時、「私のために祈ってください。」と心から願って前に出ました。そして、「クリスマスに洗礼を受けたい」と先生に申し出ました。それからは不思議なように、たくさんの御言葉が心に入ってくるようになりました。神様が共にいてくださることのありがたさ、また人間の力には限界があり、そこにぶつかった時信仰を持って神様にお委ねできるすばらしさを感じさせられました。

昨年のクリスマスは私にとって初めて意味のある、感謝の気持ちいっぱいのクリスマスになりました。夫婦が夫婦としてだけでなく、同じ神様を信じて一緒に歩んでいける喜びを感じました。

「神様はご主人を通して、あなたを導いてくださったのね。」教会に通い始めた頃初めてこの言葉を言われた時はあまり意味が分かりませんでしたが、今は本当にこのことを感じ、私にふさわしい時に、ふさわしい方法で導いてくださった神様に心から感謝しています。

私の信仰生活はまだ始まったばかりですが、神様がいつも共にいてくださることに日々感謝し、最後までこの信仰を持ち続けられるよう導いていただきたいと思います。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

(ペトロ第1の手紙 5章7節)

私の受洗に際し、日本の牧師先生が送ってくださった御言葉です。

月報2000年4月号より

「主が共にいることの喜び」

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・

イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。」

(エフェソの信徒への手紙 一章十三節)

何年か前にことになるが、アメリカ留学を終え、その帰途にイスラエル旅行をしてきたある姉妹の証を聞いた。いくつかの話の中で特に印象に残ったものは、主イエスが十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで歩いて行かれたと言われている道を訪れた時の話だった。群衆からの罵声を浴びながらも人々の救いのために重い十字架を背負って歩いていくイエス様の姿を思い浮かべ、彼女は涙が止まらなかったと言う。自分もそんな光景を想像し、心を打たれる思いがした記憶がある。

当時は信仰生活が十余年目くらいの時期だったろうか。受洗後、しばらくして教会を離れ、その後また戻って来てからやっとまた教会に馴染みはじめ、信仰的にも再度充実してきた時でもあったように思う。翌年には母教会の青年会の会長職も勤めることにもなった。そんな時ではあったが、ある日人間関係の縺れからひどく落ち込むことがあった。その後何日間か、怒りとむなしさで辛い日々を過ごすことになる。

しかし、悪いことばかりではない。そのような中にあっても、物事が不思議とうまく運んだり、ふと心を静めて考えにふける時間が与えられたりもした。また、心からの祈りもできたのはなかっただろうか。ある日、「ああ、神様はこんな時でも自分のそばにいてくれるのだなあ」と本当に感じられる瞬間があった、と同時に聖書の言葉が与えられる。神が共にいてくださるのは、主イエスの十字架があったからなのだ、イエス様が人間の罪のために死んでくださったからなのだと。

あの時が初めてイエスの十字架が自分にとって身近に感じだ時だったと思う。確かにその出来事は約二千年前に起こった事である。しかし、先にあげた姉妹の話に出てきた、十字架を背負いながら歩くイエス様に対し、罵りの言葉と石を投げつける群衆の中に、自分自身の姿を見たような気がした瞬間でもあった。そして、そんな自分の罪のためにイエス様が命を捧げられたことを思った時、やはり涙が止まらなかった。

それから何年か経って、日本を離れアメリカにやって来たが、本当にクリスチャンであるがためにいろいろな場面で助けられ、また勇気づけられてきた。良き友たちとの出会いは本当に掛替えのないものであった。その度に主が共にいてくださるのだということを身をもって感じた。それらがイエス様の十字架によってもたらされていると思う時、やはり心から感謝せずにはいられない。

今年になって、この教会に導かれたが、また良き交わりの場が与えられたと本当に感謝している。今の自分にとって愛妻が導かれることが第一の課題であるけれど、クリスチャンホームの末っ子として生まれ育ち、祈られることはあっても大切な人の導きのために祈ったり、何かをしたりすることの少なかった自分にとって、これは途轍もない大課題である。そんな無力な自分がまずできることが、良き交わりの場としての教会を探すことであった。

今も主が共にいることを心から感謝している。近い将来、夫婦共にその喜びを心から分かち合える時があることを信じて・・・。

月報1999年11月号より

「えっ、転勤?ロサンゼルス?…」

「えっ、転勤?ロサンゼルス?いったい私はどうなるの?」これが父から転勤の知らせを聞いた私の心の中の呟きでした。当時、私は日本の高校1年生。幼い頃に体験したアメリカ(NY)生活は既に遠い昔の出来事でした。努力して希望する大学に入って、資格を取って専門職に着く、漠然とそんな人生設計をたてていましたから、父の転勤は正に降って湧いた災難でした。

現地校の11年生に編入。言葉が不自由なのに加えて私の心はひどく混乱していました。日本で身につけたものがアメリカでは通用しません。ひとつ例をとると、日本では自己主張が強く物事をハッキリ言う人間は煙たがられますが、アメリカでは逆に自分の意見をハッキリと発言しない者は、まるで存在しないかのように誰も気にとめてくれません(今振り返ると高校生と云う難しい年頃ゆえ余計それが強調されたのでしょう)。私は国境を越える度に(NYから帰国した時には「出る杭は打たれる」で随分いじめられた経験があった)自分の価値観や態度が大きく揺るがされるのに当惑しました。そして、国や文化に関係ない絶対的な価値観というのは存在するのだろうか、と考えるようになりました。生きていく上で、場所や時間を越えた確かな基準が欲しいと思いました。

渡米3年目、初めて親元を離れて大学の寮生活が始まりました。何とかアメリカの大学に入学を許可されたものの、大学の勉強についていくのは大変でした。寮生活も、パーティー好きのアメリカ人学生の様には楽しめず、どこか味気ないものでした。その為、週末ごとに自宅に戻るとホッとしました。一学期が終わる頃、予定よりもずっと早く、父に帰国の辞令がでました。日本には帰りたい。でも、今学校を辞めたら今までの自分の苦労、努力は水の泡ではないか。結局、学年末まで私一人アメリカに残ることになりました。

週末に帰る家を失ってしまった私を、暖かく受け入れて下さったのが父の上司のご一家でした。奥様がクリスチャンで、その方を通じて私はロサンゼルス・ホーリネス教会の日本語礼拝に出席するようになりました。初めて日本語で聴く牧師先生のお話は新鮮で、渇いていた私の心に深く染み込みました。しかしながら、しっくりこない事も沢山ありました。イエス様の十字架、復活、永遠の命、等々。聖書によると私も罪人。頭で分かったつもりでも心にピンと来ません。全て納得いくまで自分はクリスチャンにはなれないと思いこんでいました。礼拝に出席し始めて数カ月後、特別伝道集会がありました。神様の愛についてのシンプルなメッセージでした。私はこみあげてくる涙を押し止めることができませんでした。異国の地で、ずっと張りつめていたものが、一気に弾けたようでした。メッセージの最後に、「今日イエスさまを心に招き入れたい方は、前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう。」との招きがありました。その時、私は理屈ぬきに、それまでの心のモヤモヤから解放されたいという気持ちに押し出され、まるで清水の舞台から飛び降りるような気持ちで前に出ました。その数週間後、帰国を1ヶ月後に控えて洗礼を受けました。

今振り返ると、当時の私の信仰はとても稚拙でした。日本に帰国してからは、たまにしか神様のことを思い出さない不信仰な時期が何年も続きました。その後、様々な出来事を通して、自分の罪深さを、概念的にではなく、生身の体験から思い知らされ、イエスさまの罪の贖いなしにはもう生きていけないと思うまでに砕かれました。

創世記を読むと、元来人間は神との交わりの内に生きる者として創られた事が分かります。私は10代後半、自分の意志に反してアメリカに来ましたが、結果的にそこで神様に出逢いました。しかもそれは私の人生の中で最大の出逢いとなりました。

月報1999年6月号より

「最近救われた者の証」

学生時代に本格的な登山をしていたこともあり、一日の無事を眠る前に感謝する習慣を持っていました。そしてクリスチャンである家内との結婚を機に、感謝の対象を神様にして祈ることを始めました。アメリカに赴任してから二年近くになります。転勤前の職場では肉体的にも精神的にも疲れ果てた状態にありました。そのような中で『今の職場から異動させてくれなければ会社を辞めます』という自分勝手な祈りをしたところ、有り難いことに祈りが聞かれました。この体験を通して、機会があれば聖書を通読してみようと思っておりました。

こちらに来てから「ハーベストタイム」を毎週観るようになり、昨年の8月から「リビングライフ」を用いて聖書日課を始めました。そして聖書のことをもっと良く知りたいと思い、昨年の11月から導かれて礼拝に出席するようになりました。

11月の終わり頃でしょうか、家内に「赦された罪人になるのは、それ程難しいことではない」という難解な問いかけをされました。意味も分からずに、どうしたらよいのかを聞いたところ『私は罪人です。どうか私の罪を赦して下さい。イエス様、どうか私の心の中に入ってきて下さい』と祈ればよいとのこと。それがどのような意味か分からないまま、その夜祈りました。それを家内に伝えたところ大感激し、その感激ぶりにかえって自分自身が激しく動揺することとなり、真剣に「罪を赦された罪人」とは何かを家内にたずねたり、改めて「罪」をキーワードに聖書を読み始めました。

その過程を通して、感謝なことに自分の赤裸々な姿や罪について多くを示されました。ただその時点では「自分で何とかしよう、もう少し努力してから」という気持ちを拭い去ることが出来ずに、「洗礼を受けるには絶対的に準備不足」だと思い込んでいました。そのような時、錦織先生から「洗礼を受けるということは信仰の出発点に立つことです」との励ましをいただいて、受洗の決心をしました。

今でもそうなのですが、自分の努力で…という思いが根強く心に残っており、神様にそれを強く示されたのが「禁煙」を通してです。もちろん禁煙するしないは魂の救いとは無関係です。しかし洗礼を受けるに際して、大きな懸念として私の心に残っていました。この機会を逸するなら、もう一生タバコを止められないかもしれない。今から思うと「何を大袈裟な…」と思えるほどでしたが、その時は切実でした。先ずは洗礼の二週間前から止めよう…しかし止められません。毎日眠る前に『どうか禁煙する意志を、そして力を与えて下さい』と祈りました。一週間前になっても祈りは聞かれません。昨年の12月は特に仕事も忙しく、通常であればとても禁煙出来る状態ではありません。そのような中で洗礼の日は迫って来ました。 三日前になって、とうとう禁煙自体を諦めるところまで追いつめられました。そして『神様申し訳ありません。自分では、もうどうすることも出来ません。どうか助けて下さい』と祈りました。自分では出来ないと分かった時に、神様に明け渡すことができました。自分の力では何一つがんばっている訳ではなく、祈った晩から禁煙を続けさせていただいています。

受洗してからやっと三ヶ月が経ちました。信仰のスタートラインに立ったばかりで、日々新たな試行錯誤と自己中心な自我との闘いがあります。聖書を読み『御心を心に与えて下さい』と祈りながらも、自分の欲望や思いを最優先して日々を生きている自分の姿に気づかされます。今は御心に聞き従っていける従順な信仰を持てるように、どうか神様に成長させていただけるようにと祈っております。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ人への手紙二章八~九節

月報1999年5月号より

「ボクにはキライなヒトがいます。…」

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

ずっと考えていた。自分が存在する理由と、そこに付随する侘びしさについて。勿論、愛する兄弟姉妹を初じめとする御歴々の前で、このように力なき小さな者が、己の存在理由について言及するなどという大それた資格を有さないことは充分承知しているし、全くもって汗顔の至ではあるのだが、きっと主の御前にある証し人としてこの様な機会に恵まれたことをもって諒とされたい。

そもそも、僕がそんなことを考える様になったのは、僕の中で自分という存在が忌むべきものとして捉えられていたからである。もう一〇年程前のことになるが、僕は自分の現実と直面せざるを得なくなり、全く己に潜むモノと対峙するに至って。驚愕、辟易等と形容されるべき感情がそこにあった。あの頃僕は一五歳だった。学校に付随する似た年頃の少年達の集まる小いさな組織の中で、僕は僅かばかりの力を与えられ。もとより奉仕を基本として造られた組織の中で、その与えられた小いさな権力を駆使する僕には、大して歳も違わず年端も行かない後輩達の潤んだ瞳は全く見えていなかった。暴力こそ奮るわなかったが、次ぎから次ぎへと口をついて出る言葉の群は、鋭い矢となって彼等を傷付け、そして何よりその残酷さは僕自身を驚かせ、後に諸刃の剣となって僕を貶めた。今でも僕はその日のことを夢に見る。勿論その時点で一五年しか生きてはいなかったが、恐らく自分の中に自分の未だ見ぬ自分が存在することに薄々勘付いてはいたし、或る程度の覚悟もしていたが、自分の前に現実となって著れたそれは想像を遙かに凌駕し、一五歳のコドモに与えられた思考能力に於ける許容範囲を優に超えていた。自分など居なければいいと思った。存在が許されていることを心の底から疑った。別の人格などという卑怯な手段で片付けたくはなかったし、その様に処理できる程の度胸もなかった。その時の僕にできることといったら、口を開かないことくらいだった。その時の僕にできることといったら。

僕が口を開かなければ、己を表現しなければ、誰かを傷付けることもない。自分が傷付くこともない。辛ろうじて自我にへばりついた意識がそれを示唆し、あらゆる意味に於いて自己を著すことを拒絶していた。一言も口を聴かずに済んだことに悦びを憶えて眠りにつく日々が一年程続いた。暗い道を歩いていた。上を見上げれば木洩れ日の差す暖かい色の空が満面の微笑を湛えて迎えてくれているのかも知れなかった。でも僕は姑息で、孤独で、臆面もなく上を仰ぎ見るような勇気は持ち合わせていなかった。御手は遠かった。

そんな僕にも二人の友人が与えられた。返事もろくにせず、ついてくるだけの人間と友達になろうとは、全く奇特な人間をも造られたものである。依然、その「別の自分」が姿を著すこともあったが、彼等がいずれも肉体と文字を媒体とする表現者であった為か、彼等を通して僕は僕に近づいて行き、僕を通して僕は彼等に近づいていった。そうして僕は少こしずつ言葉を取り戻し、或る程度日常的な自己主張を余儀なくされる場所に身を置くことを決め、ほぼ滞りなく会話をこなせるようになった頃、橋本先生御夫妻を通じて教会に導かれた。余りにも自然だった。必然の流れは、至極当然のこととして僕に受け入れられた。主は見ておられた。これほど小いさき者にも目を掛けて下さっていた。僕は想った。どんな時でも僕は幸あわせだったことに。己に絶望し、下を見て歩くことしか出来なかったあの時でも、僕に生きる道を与えられていたことに。

尤も、一五の後悔を今日まで曳きずって、オトナにも為りきれず、コドモに戻ることも許されず生きてきた僕にとって、今やっとスタートラインに並んだのであって、未だに、他人の家で夜を明かすように己を晒らけ出すことは出来ず、話すことは疲労を産み、書くことは苦痛を伴う。十数年間に渡って学んで来たつもりの聖書についても、己の無知に辟易するのは言うまでもないが、エレミヤ書三一章に示された、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる。」という言葉に励まされ、日々歩みを続けることを許されている。嘗て錦織師が取り次がれた様に、己を愛すことの出来ない者は、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人をも愛す」ことも出来ないのであって、自分自身を含めて人を愛することに幼さない僕は、主によって様々な機会を与えられ、悦びをもって日々試される。主の御前にあって、主の御名を賛美し、主の証し人として、また自分を、そしてキリストを表現する者として自分の存在を認め歩み始めた僕にとって、人を愛する為に自分を愛す努力を続け、そうして与えられる日々に感謝する毎日である。

知れ、主こそ神にますなれ。

我らを造りたまえる者は主にましませば、我らはそのものなり。

(詩一〇〇編)

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

でも、

ちょっとだけスキになってもイイのかなと思えるようになりました。

これがボクのアカシです。

月報1999年4月号より

「弱さと信仰」

ニュージャージー日本語キリスト教会は、1987年メイウッドの地に呱呱の声をあげて12年目の春を迎えています。

現在の錦織先生に至るまでその間3人の牧師先生、二人の教育主事が主の僕として務めを果たされ、教会を愛する多くの兄弟姉妹の信仰と尊い奉仕及びザイオンルーテル教会の愛ある計らいによってここまで支えられ守られて来たことは、神のご計画と導きなくしてはあり得なかったことだと感謝いたします。単立超教派、役員会制の教会ですので、教派、教団に属する多くの教会のように教会を監督する上部機構やガイドライン、アドバイザリーボードがないため、全てのことは牧師の霊的リーダーシップと信徒一人一人の信仰に委ねられていますので、10年余の間には困難な時もあり、霊の戦いを経験したこともありました。

振り返って見ますと、わたし自身愛に欠けた者であり、主を自分の側に立たせる不信仰に気がつかないまま教会生活をしていたこともありました。

しかし慈愛の神は何時も聖霊をわたしたちの教会に送ってくださり、よしとされる導きをもって道を切り開いてくださいました。それはきっと、神がイスラエルのようにこの教会を愛し、「使命を与えて起こされた特別の教会」として取扱ってくださっているからではないかと思っています。ある者が種をまき、ある者は水をやり、育てられてきたニュージャージー日本語キリスト教会、そこにはアポロもなく、パウロもなく、ただ主のみいます教会をわたしたちに備えてくださる大いなる父なる神を褒めたたえます。

1997年7月、よき霊の指導者錦織先生を与えられ、新しい一節の成長期を教会は歩みつつありますが、自分の信仰を守るのみならず、そのよき訪れを広く世に伝える働きを委ねられていることを忘れてはならないと感じます。神が日本語を話す人々の魂の救いの使命を与えて立ててくださった教会は、ニュージャージーのみならずニューヨークからも若い兄弟姉妹が聖日、礼拝に集う教会であり、賛美集団として伝道の働きをしています。又ここから多くの兄弟姉妹が日本の各地に散らされて、良い働きをしておられることも、神の業の不思議という他はありません。

聖書を学び、賛美と祈りをささげて礼拝を守ることを教会生活の中心として、早朝、聖書通読と祈りの時を守りつつ信仰生活を続けていますが、「あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか」の主の問いかけを受けることが時としてあることを告白せざるをえません。信仰にはげみ、学びを通して聖書の奥義にも触れ、祈りと感謝の生活を過ごしていても、本当に主の前に裸になり切れないことがあるからです。それはどんなに罪深いことか、わかっていてもできない時があるのです。

先週、錦織先生はメッセージでいわれましたが「自分の弱さを知った人の集まるところが教会です」は、真のクリスチャン像を示された思いでした。現実に社会に生きていると、強くなければ淘汰させる不安にさらされることがあります。自分の弱みを見せないために、真実の姿でない自分を矢面に立たせて、裸であるべき己は、その影に隠れていることもあります。 肉の人間の思いは自己中心だなと、そのような時いつも反省しています。自分の弱さを知ることは、ありのままの姿で神の前にでることだと悟った時、アダムとイヴの話しを思いだしました。「裸で恥ずかしくないように神がつくられたのに、人は罪を着ると神の前にありのままの姿で出ることができなくなる」の教えは聖書の一番初めの部分に示されているのに、人間の祖として神が造られたアダムとイヴの禁断の木の実の話を、自分のことと受け止めず、聖書物語を第三者的な立場で読み過ごしてきた自分を恥ずかしく思います。でも、このように弱くみ心に背くわたしでも神が許してくださっているのですから、ハレルヤ、ハレルヤです。

「わたしを愛するか」の神の問いかけが、エコーのようにわたしの心に響いてくるのを覚えつつ1999年、心を新たにして歩みたいと祈っています。

月報1999年3月号より