1.「幼少時代におけるキリスト教との接点」

多くの日本人がそうであるように私は無神論の家庭で生まれ育ちました。 幼少のころは神道のことすら知らないにもかかわらず、毎年正月には近くの神社をおまいりするという、昔ながらの日本の文化の中で育ちました。 しかし、それがどのような意味を持つのか、そしてそれがかつて日本を戦争へと導いた神道と関係があるということすら教えられることも無く、 単に文化の一つとして肌で馴染んでいたに過ぎません。 何故か人が他界すると手を合わせて拝むということも、 宗教的な背景について一切教えられることなく、 これも単に習慣として馴染んで来たに過ぎません。 このようになんとなく習慣としてごく普通に日本人が行っていることを習ったものの、 そこにはなんら宗教的な背景はありませんでした。 このような無宗教な背景が、 おそらく他の多くの日本人がそうであるように、 私もまた神とは無関係の無神論者として育った理由になっていると思います。
一方では必ずしもまったくキリスト教と無関係でもなかったかもしれません。 敢えて記憶をたどり寄せてキリスト教との接点を探るならば、 私の小学校時代の知り合いの父親が牧師をしていたように記憶していますので、 それぐらいかもしれません。 こんな形で「牧師」、「教会」には少し触れる機会はありましたが、 それ以上のものはありませんでした。 また、 それ以後も、成人して米国留学をするまではキリスト教徒の接点はまったくといっていいほどありませんでした。

月報2005年4月号より

「ラザロよ。出て来なさい。」

アメリカに来て初めての大雪。青空の中、キラキラ輝いて美しい。 1月23日。 日曜日。 大雪のため外出禁止令が出され、いつもの午後からの日本人教会の礼拝も思いがけなく「お休み」となった。 へぇぇ。 こんなこともあるものだ・・・。
前夜、三人の子供たちに雪かきをしてもらっていたので、その朝はとても楽だった。 良い天気だったこともあり、雪の中でキャッキャッ。子供と共にワイワイ楽しく雪かきを続けた。
初めて海外に出た12年前。みんなあんなに小さくて、三人の年が続いていたこともあって、それはそれは大変だった。 多くの方々に助けていただいたなぁ。 それが今、こんなに大きく成長して、力仕事では戦力にもなり頼もしく、多くの面で支えられている・・・。 何とも言えない深い感謝に包まれて、祝福も真っ白な雪の中にあふれていた。
そして、昼過ぎ。その朝の連絡で「今日はそれぞれの家庭で礼拝を・・・」 ということでもあったので、母はその提案をした。 意外にも素直に応じた息子たち。 早速 一番日当たりの良い暖かい寝室に集合。 ベッドに入り込んだり腰を掛けたりしてそれぞれの姿勢で臨む。
「礼拝が雪で休み」ということに少々興奮気味の末っ子六年生が急に「僕が司会。 今日は大スケ牧師がメッセージ。賛美のリードはショウ平さん。 証はいとうナルミさんにお願いします。」と一人で勝手に仕切り出す。 夫は別室での仕事を片付けて、遅刻出席。
毎週の礼拝の流れを参考に、懐かしい聖歌をそれぞれ手に選曲。 この教会で良く歌われている乗りの良い「今風の賛美歌」は歌詞もなく、うろ覚えなので、残念ながらパス。 無茶苦茶元気良く、数曲賛美。
「使徒信条」も「主の祈り」もある。 そして、聖書朗読。 賛美しながら、今日はどこを読むべきかと思い巡らす。 そうだ。教会学校の今日の箇所「ラザロの復活」にしよう。 それがいい。 ヨハネの福音書11章の1節から44節までを一人一節ずつ家族五人で順に読む。 長い箇所である
イエスが愛しておられたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病んでいた。 助けを求めたけれど、イエスには考えがあって、すぐに駆けつけることはされなかった。 死んで四日も経ったとき、弟子たちをつれて悲しみの姉妹のもとにやって来られた。 イエスは涙を流された。 多くの人たちがあれこれ言ったり思ったりしている中、父なる神に祈った後、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれた。 すると、死んでいたラザロが長い布で巻かれたまま出て来た。 という有名な箇所である。
多くの奥義で満ちている。 一つ一つの隠された深い部分をみんなで一緒に考えてみようと思った。 「わたしは、よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。」
この部分からリョウ太に迫ってみた。 もし、事故か何かでリョウ太が急に死んでしまうことがあったとしたら、リョウ太は必ずイエス様のもとにいるという確信があるのか・・・と。 お母さんは、リョウ太がイエス様のところにいるのかな、どこにいるのかな、と思いながら悲しみ過ごすのはいやだ、と以前にも何度か聞いたようなことを質問してみた。
すると、少し照れて「うぅぅぅん。80%ぐらいかな。」とはにかむ。 「えぇぇぇ。80%の確信か・・・。」「じゃぁ。うぅぅん。90%・・・。」「・・95%・・・。」母の顔を見ながら、少しずつ少しずつ数字を上げてきた。 そうか。でも、お母さんは100%イエス様のところにいるから心配しないでね。 お葬式も盛大に教会で伝道葬式にしてね。 といつものように結んだ。 祈っているよ。早い時期に(最終的には)100%の確信の三人でありますように。
そして、司会者が大スケ牧師にメッセージを振ってきた。 すると、何を思ったのか、この牧師。 何の熟慮も感じさせない思いつきの口調で、「ラザロよ。出て来なさい。」というこの言葉は、ラザロだけに言っているのではありません。 リョウ太くん、あなたのことでもあるのです。 「リョウ太よ。出て来なさい。」という意味でもあるのです。 と、急に初めからおかしなことを言い出した。 何言っているの。 これはラザロに言ったんだよ。と一笑した母はその後しばらくして「はっ」とした。 本当にそうかもしれない。 そういうメッセージでもあるのだ、と神様から語られた気がしてうなった。 そうだ。みんな一人ひとり、名前を呼ばれて、深くて暗い墓の中から今の状態から「出て来なさい。」と声をかけられているのだ、と思った。 違う方向から光が差した気がした。
そして、牧師は「声を聞いたら、出て行きましょう。」と締めくくった。 長い布にグルグル巻かれたそのままの状態で出て行ったらいいのだ、と教えられた。 父はすぐに「そうだな。そういうことだな。」と自分の状況を重ねて同意していた。
母の証は「主よ。あなたの愛しておられる者が病気です。」この箇所から。 夫のために結婚前に一度。 今、再びここから切に祈らされていることを話した。 子供たちを前にして深い部分は省略したが「あなたの愛している者が病んでいます。」 「主よ。来てご覧ください。」 「その石を取りのけてください。」と必死に祈っていることを伝えた。 この姉妹たちのあの時の祈りはそのまま今の私の祈りである。イエス様は考えがあって「なお二日とどまられた。」 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものである。」 この言葉に信頼している母の祈り心を語った。 母は子供たちにも父親のために具体的に祈るように、課題も問題も出している。 よく理解して応援している息子たち。欠けの多い父だけれど、みんな父のことが大好きで、とても尊敬していて、いつもやさしく接している。 母の鋭い言葉も子供たちの「弁護の盾」は見事にポンとはね返す。 時にはこの盾、鋭い矢もきれいに吸収して飲みみ、細かく砕いてしまうこともある。
「Jesus wept.」この小さな家族にも主は心をおいてくださり、痛みを共有してくださっている。 父もこの日、思春期の子供たちの前で、自分の弱さや現状を抵抗なく出しながら、多くの慰めを得ていた。
最後の祈りはショウ平くん。 この子は真ん中でまた丁度難しい14歳。 今、?マークが付くことも多い子だが、この子のこの日の祈りは琴線に触れた。 まぁ。 何と素直で従順なストレートの祈りか・・・。 心に響いた。 今のこの子からこんなにすっきりした祈りが出るとは思わなかった。
新たな発見と驚きの家庭礼拝。 いつもだと誰かに逃げられそうだけれど、また時々しようね。 君たちから声がかかることを大いに期待して・・・
「主があなたを呼んでおられます。」
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

ハレルヤ アーメン

月報2005年3月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の年末から2005年の元旦までCAのリトリート、Equipper Conference (EC)に行ってきました。そこで人生最高の時間をすごしてきました。色んな人に出会い、すばらしい先生方のメッセージを毎日二回ずつ聞き、熱い賛美を歌い、燃やされました。ECで神様の愛の事も語られましたけど、今回私を燃やしたのはユースの事でした。ユースでどう伝道していけばいいのか、どうやって皆に神様の事を伝えることができるのか、その事ばかり思わされました。

私はこのECに行く前に少し悩んでいました、『何で私がこの中高生の集まりを仕切っているんだろう。経験はないし、リーダーシップがすごいわけでもない、聖書を端から端まで知ってるわけでもない。』と思っていました。ですが、その日、杉本先生のメッセージでこう語られたのです『何かを変えるのに知識はいらない、過去、どの大学から出たのかなんて関係ない、ただ必要なのは情熱だ。』そして、その同じ日に佐藤先生が言われた言葉は『渡った橋は燃やせ、そうすればあなたはもう後戻りはできない。過去を捨てなさい、過去に戻るな、前に進みなさい。』この日私はああそうなんだ。と思いました。
その日は納得程度で聞いていましたけれど、次の日の盛永先生の説教には悩まされました。先生はおっしゃいました『イエスはあなたの愛す人を救います。そしてその愛した人が救われない限りあなたも救われない、あなたの命の意味がない。』と。そして最後に聞かれました『あなたの願いは何ですか?』私はどうしようかと思いました。何をどうすれば私の命に意味があるのか、必要とされるのかと。そう思っているとポール鈴木先生が高校生用のクラスで話してくれました。私たちの命は短い、私達の命全部を神様にささげてもたりないのに何を待っているのですか?何をのろのろとしているのですか?神様が必要としているのですから早くいきましょう。私は目が覚めたようでした。あ~そうなんだやっぱり私が今やるべきことはユースなんだと思いました。私ができる限りがんばってみよう、一人ではなく皆でがんばろうと。

私が自分の悩みを解決して最後の日を迎えると神様は私が考えていた事よりもはるか超えた事を用意していてくれました。最後の日、杉本先生は日本のクリスチャンの事を話してくださいました。日本は多神教であり、自分がスーパーマンになろうとしている。自分で道を決め、自分の力で生きる。そのせいか今私探しがはやっていると教えてくれました。杉本先生は言いました『人はスーパーマンになれないから、スーパーマンを作ったんだ。私探しなんてできない、私は自分なんだから。探せるわけがない。』皆クスクス笑いながら聞いていたら、先生は『人は安全な所を探しているから色々やるんだ。ノンクリスチャンに神様のことを伝えるのは簡単じゃない、だけどもし伝えなかったら求めている人はどうする。』最後に先生はアインスタインの言葉を教えてくれました『私は天才ではない、ただ一つの事に情熱を持っただけだ。』私は心を打たれました。何もいらない、情熱だけで何かは変わる。その夜、大倉先生の祈りの中で、悔い改めた人は前に出てきなさい、神に仕える人、宣教師、牧師になりたい人は、出てきなさい。その時私は前に行きました。神様は私を宣教師に使ってくれるらしいです。

その夜は400人皆が泣き、半分の人が前に出て、抱き合って祈りました。あんなに祝福された場面は私の人生で初めてでした。そしてそれを体感できた事が本当にうれしかったです。ECに行けたことを心から感謝しています。

月報2005年2月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の最後の一週間、カリフォルニアで行われた日本人クリスチャンのためのEquipper Conferenceに参加しました。初めは高校生の参加者はかなり少ないと聞いていたので、ちょっと緊張していました。でも、神様は私に素晴らしい体験を用意してくれていたのです。

思っていたのとはまったく正反対で、特別の高校生用のプログラムが今年初めてできたぐらい私のようなteenagerの仲間たちがいっぱいいました。一人一人とものすごく仲良くなり、お互いのために祈り会い、本当に賛美と交わりのときが聖霊様に満たされた気がしました。そして、色々な先生たちに会うことが出来て、色々な説教を聴くことが出来ましたが、特に二つの事が心に残りました。一つ目は、ワークショップの時にHi-Ba のポール鈴木先生がペテロがボートから出てイエス様の所に行くために水の上を歩こうとしたときの話を語ってくれたことです。そして、ポール先生は皆に、“あなたたちにとってボートとははなんですか?自分の高いプライドかもしれない。心配事かもしれない。今まで努力してきたことでもいい。でも、そのボートから今日降りて、何も恐れずイエス様の元へ行こうじゃありませんか。イエス様を見上げて毎日を生きようじゃありませんか”と言われました。そして、次の夜の集会で、大倉先生が“ここに私がおります”と言う題で説教をしてくださいました。メッセージの中で先生は、自分がどこにいるのか分からない時でも神様は私たちのことをずっと探し続け、いつも見守っており、生きる目的を与えてくれることを教えてくださいました。その二人の先生方のメッセージを聞いて、改めてこの御言葉を思い出されました:“心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない”(箴言3:5)。

Equipperを通して、どんなに自分が努力して頑張って生きていこうとしても、神様の計画、使命、そして導きに耳を傾けていかなければ、人生を無駄にしてしまっていると言うことが明らかになりました。すべて主に委ねれば心に平安が与えられるし、本当の幸せの意味が知ることが出来ると分かりました。最近は、将来どこの大学に行こうか、何になろうかと、ものすごく悩み、自分の力でで行くべき道を選ぼうとしていたということに気づきました。でも、これからはどうしていいか分からない時、心配せずにもっともっと祈りの力を信じていきたいと思います。そして、神様が共にいつもいるというこの安心感と素晴らしさを周りの人々に積極的に口で語るだけではなく、自分の毎日の態度や行動でもっと伝えていけるようにお祈りしていきたいと思います。Equipperに参加できたこと、そしてその一週間学んだことすべてに心から感謝します。

月報2005年2月号より

「僕がキリスト教という‘言葉’に初めて…」

僕がキリスト教という‘言葉’に初めて出会ったのは、まだ日本に住んでいる頃でした。日本の小学生ならこう習うかもしれません。“フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた。”と。その頃の僕は、キリスト教が一体どういう宗教なのか全然わかりませんでしたが、一つだけは自分の中ではっきりしていました。当時小学3年生の僕は、キリスト教によい印象を持つことができなかったのです。何故なら教科書には、キリスト教徒は迫害され処刑された、というようなことしかのってないからです。“何故キリスト教徒はそんなことをされたのか。そうだ、きっと怪しいことをしていたに違いない。”と勝手に思い込んでしまいました。このことはそのうち忘れてしまい、僕が小学校4年生の時に、アメリカのニュージャージーに引っ越しました。このことが、後に僕の人生を大きく変えることを知っていたのは、神様だけでした。

初めて教会のイベントに参加したのは、確か2000年の野外礼拝でした。僕の目的はただ一つ、友達と遊ぶことだけでした。この後、教会にも家族で行き始めるのですが、僕は礼拝に出たかったわけではなかったのです。ただ友達に会えるから行っていたのです。まだ神様を信じているわけでもありませんし、聖書も自分から読もうとしませんでした。教会に行き続けたら、教会学校で学んで、礼拝にも少しだけ出るようにはなりました。これも、友達がそうしたいるからでした。けれども、今思うと神様はその友達を僕に遣わせてくれたのじゃないのかと感じます。彼らのおかげで教会に行き続けることができたのですから。

しかし、この後の2001年にイギリスに引っ越すことになってそこに住み始めたときに、はっきりとした変化が僕にみることができたのです。イギリスのミルトンキーンズという町にはその頃日本人の教会がありませんでした。しばらく教会にいけない日々が続きました。以前の僕なら、このようなことは気にもかけなかったはずです。けれどもそこには、教会を求めている僕がいました。アメリカを離れるときにもらった漫画聖書を毎日のように読みました。そのうち牧師先生が来ることを信じながら。そして2002年の冬に来てくれました。小島美子先生がミルトンキーンズに来てくれたのです。それからは毎週のように礼拝に出席し、教会でもらった聖書を読みました。2003年になると、家族で学びを始めました。純粋に、神様のことをもっと知りたかったのです。

学びを始めてから2ヶ月ほどたってから、小島先生に洗礼のことについて聞かれました。その頃僕は、クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人だけ、そして何よりも、善い生活を行ってる人だけだと思っていました。僕の考えを先生に伝えると、僕の予想していた答えと違う答えが返ってきました。先生は、そんなことないんだよ、神様はありのままの私たちを受け入れてくださるんだよ、洗礼はゴールじゃなくてスタートラインなんだよ、と教えてくれました。この瞬間、僕は洗礼を受ける決心をしました。洗礼を受けたのは、2003年の4月20日のことです。

洗礼を受けてから11ヶ月ほど経った3月からアメリカに来るまでの間に、今まで以上に神様を感じることができる出来事が沢山ありました。3月半ば、僕は内臓にちょっとした異常があるということで入院していました。その2週間後には日本に引っ越すことが決まっていたので、家族で焦っていました。そんなときに、タイの教会の近藤先生が、知り合いに東京の大学病院の教授をしている人がいるから連絡してみるといってきてくれたのです。順天堂大学病院の稲葉先生はすぐにOKしてくれました。また、日本についたらすぐに入院できるように手配してくれました。彼もクリスチャンでした。最初入院中は食べることも許されず、検査の毎日でした。そんなときに近藤先生がほとんど毎日のように来てくださっては聖書の話をしてくださったことには本当に感謝です。知り合いのクリスチャンの方々も励ましに来てくれたり、日本に帰ってからもしばらく会ってない友達が来てくれたり、錦織先生のお父様や後藤兄*のお姉様との出会いなどがありました。ここまで連続的な出会い方や励ましがあるでしょうか。確実に、神様が働いてるに違いありませんでした。また、アメリカに留学するための交渉がなかなか進まない、もしうまくいっても学生ビザが1年しか出ないというときも、神様は僕にもっと好条件の学校を用意してくれました。その学校の手続きが、信じられないほどにスムーズに行ったのです。父がアメリカに出張中に学校を訪問することができ、入学のためには通常面接が必要なところ、偶然そのとき学校の幹部の方と話すことができたので、面接はいらないといってくれたのです。これは偶然でしょうか。そうではないと思います。

このことで沢山の人が祈っていてくれたと聞きました。本当に感謝です。その祈りに神様が答えてくださったのだと信じます。“わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。” (ヨハネによる福音書15章5節)

この言葉を身を持って感じました。神様やイェス様につながっているクリスチャンだからこそ祈りが届き、働いてくださるのだと実感しました。これからの歩みの中でも、多くの人とつながって、神にあって生きていけたらと思います。証しする機会を与えてくださった主に感謝。

注(*) 教会では、皆キリストにあって神の子であるという意味で、互いのことを    『兄弟』『姉妹』と呼ぶことがあります。

月報2005年1月号より

「御手の中で」

こうして、ここに書けるような事柄をあまり持ち合わせない私ですが、忘れられない思い出を2つ程お話しさせていただこうと思います。

1つは、去年の春先のことなのですが、5月頃のある日、アパートの非常階段の隣家の建物側の片隅に鳥の巣をみつけました。小枝を寄せ集めてそれは5,6mも離れた私の窓からは無関心でいたら気付かない程でした。オペラグラスで見ると孵ったヒナの小さな頭が2つ動いていました。朝な夕な見ているうちに忙しなくエサを運んでいる親鳥をみました。この辺りには珍しい山鳩でした。彼等を見ている私に気付いた親は一瞬ドキッとした風で暫くキョトンと私をみていました。その頃の気候はまだ定まらず、かなりまだ寒い日あり,強風あり、なんと強風を伴う大雨の続く日ありで、西側のL字型の踊り場の突端に危なかしくもある巣と中の子供達に随分気をもんだものでした。冷え込む晩には親は子供達といっしょだろうか(暗くて見えないが)、風の強い日には、巣ごと飛ばされないだろうか、嵐の日には、子供達はずぶぬれで大丈夫だろうかとか、野生に対して私が手を出すことがいけないのを承知しているので、ただただ窓から気をもむ日々でした。そして親が戻ってきて子供達のせわしげな食事風景を見る度ごとに、“君達元気でよかったね、神様に感謝しようね”と語っていました。ある時その日がきて、小鳥達は巣から這い出てヨチヨチ歩き始め、なにしろそこはファイアエスケープで、表面はスノコ状で、鋼鉄の板と板の間は3センチ位の板と同じ巾の隙間がありますから、そこに足をとられないかと又々気をもんだものでした。そうしてある日、大きい方の子が一人立ちして私が見た時、チビちゃんひとりが、残っていました。その土曜日の朝、チョコチョコするチビの周りを親鳥が行きつ戻りつしているのを見ました。“サア、貴方はもう飛べるのヨ、ソラ飛んでごらん”と言っていたのでしょう。2羽とも形は勿論、色も同じようで、なんとその時私は初めてエサをやっていたのはこの2羽で交代でやっていたのだと知りました。いつも同じのがやっているみたいなので、これはてっきり母鳥で父鳥は、責任放棄かなと思っていました。そうではなかったのです。感動でした。その美しい朝のうちにチビは一番近い木まで2,30メートルをちょっと戸惑って、でもどうやら飛んで彼等のドラマを見事に完結させました。こうして私が観察できる時間は限られていたのにほぼ全行程を見せてもらったこと、あたかも私が見られるように仕組まれていたかのように......なんと最上階のまるで屋根のない片隅に巣を作り、あの吹き付ける嵐を見事くぐりぬけた小さな命達を守るのには、神様の御手があったとしか考えられません。私はあの初夏の晴れた土曜日の朝、チビの初飛行を決して忘れないでしょう。

2つ目は随分昔の事なのですが、いつもつい昨日の事のように新鮮な想い出です。“今は昔”ある夏の日、私は初めてルーブル美術館のミレーの“晩鐘”の前に立っていました。足が釘付けになったように動けませんでした。ご存じのように“晩鐘”は思うより小さな、夕日に包まれてはいつつも、全体には暗い色彩の絵で農民夫婦が畑の真中で敬虔な祈りを捧げている図です。ルーブルには宗教画が数多くあり、ある一角は宗教画のみといったスペースがあり、当時教会にほとんど行ったことのない私にとっては意味がまるでわからず、素通りしたものでした。それが“晩鐘”の前でピタッと止められたのです。絵の中になにか深い精神性を感じたのです。神の存在を感じたと言ってもいいと思います。周りのほの暗い実りの畑、一日の労働の終わりを象徴する風景のせいでしょうか、祈る農民の姿があまりに自然だからか、あの絵に込められ滲みでる深みはどこからくるのでしょうか。つらい一日の終わり、鐘の音と共に、神に身を委ねて感謝の祈りを捧げる農夫、それは古代から延々と続く人間の日々の営みの基本です。ミレーは19世紀を生きたバビルゾン派の画家で、農民と彼等の生活を数多くテーマにしています。

日本人が子供の頃に教わる画家の一人です。彼の有名な絵の中でこの“晩鐘”は私にとって“超”特別です。私から絵に入って行ったのではなく、絵の方から私に飛び込んできたと言えると思います。大よそ本当に良質のものは、芸術作品とか発明発見でもこっちから探りを入れる前に向こうの方から(芸術作品の方から)語り掛けてくるものだろうと思います。少なくとも私にとってそういうことが多く、こうした所にも神様の御手を感じないではおられません。

さて私自身の信仰ですが、友人に誘われるままに教会に行き始め、錦織牧師や諸先輩の暖かい熱心な励ましをいただいて2年前に洗礼を受けました。今まで私が見、感じてきた神様の色々な御技の確信を私の中にも大きく見せていただけるよう、心から祈っていきたいと思います。
これからもいいものをたくさん観て、感じて、毎日の無事を感謝しつつ神様と共にある実感を味わい、主を見上げて歩んでいきたいと思います。

(なお、ミレー、コロー等、バビルゾン派の作品は貸出し出張中でない限り、今はパリ、オルセー美術館にあります。)

月報2004年12月号より

「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とする」

「人生に、もし・・はない。」忘れられないドラマの台詞。与えられた三人のすばらしい息子たちと夫の深い愛に「もし、あの時・・」の人生はない。

誘われた「ベン・ハー」の映画がきっかけで、聖書に出会った。牧師と呼ばれる人のいない教会で「○○集会」と呼ばれ、一人の指導者を中心に、信仰篤い兄弟たちが祈りながら進めていく集会であった。

この世界には何か「真理」があるのではないかと、物心ついた頃から考えていた。続けて日曜日の集会にも集い、大きな疑問も反発もなく、聖書に真理があったことを喜び、毎回聖書の言葉やメッセージが深く入っていった。

誕生日プレゼントにいただいた「主の墓」の絵葉書が私に迫った。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」聖書の言葉が英語で添えられていた。主が十字架にかかられたのは私の罪のためであったこと。葬られ、約束通り三日目によみがえってくださったこと。今も生きていて執り成してくださっていること。がその場に臨まれた主にはっきりと示され、感動に満たされた。その集会は洗礼に関してもとても慎重で、本当に神によって新しく生まれ変わっている(新生)のか吟味された。やがて、熱い思いと喜びで受洗。イスラエル旅行にも参加し、あの主の墓の前にも立った。

当時、その集会の指導者は「ユダヤ人」のことを聖書から特別に教えられていて、本も出版し、あちこちで講演会も行っていた。特別な賜物が与えられた指導者と集会だった。結婚も祈りながらクリスチャン同士。もちろん、結婚後に信仰を持った人もいたが、独身の姉妹が多かった。また、聖書の霊的な深い部分もよく語られ、信仰が大きく揺さぶられることもあった。

そんな頃、主人とのことがあった。同じ職場の彼にもこの救いを知って欲しいと誘い、彼は日曜日毎に集っていた。結婚を意識して誘ったわけではなかった。しばらくして、ある兄弟から彼のことで話を受けた。あまりにも非情で霊的に重い言葉に動揺し、震えた。耐えることが困難な言葉だった。後に、その言葉に大きくつまずいて転倒し、立ち上がることができずに、苦しみの年月を重ねることになってしまったのである。信仰生活と恋愛感情を心配しての助言だったと今は受け止められるが、当時は誰にも語れない重い言葉となって、私を苦しめ続けた。

純粋に信仰を第一として歩みたいと願っていた私は、教会からの助言を神のみこころだと受けとめ、従おうとして、一度は彼のことを主に返して、手を放した。しかし、次第に喜びのない信仰生活となり、自分の中の偽りと不信仰に苦しむ鬱状態になり、限界の日はやってきた。心配した姉妹方の助言も固くなった心は受けつけず、拒絶して教会を離れた。私は彼と結婚した。

結婚の用意をしながらも、自分を責め、教会が受け入れられない結婚を選択した自分は神に打たれるのではないかと、恐れた。みんな幸せに結婚準備をしていくのに、私はこんなに苦しんでいる。祝福される結婚が、苦しみの中で始まった。クリスチャンであるという事実。キリスト教でない式は挙げられない。彼の両親にも伝えた。全然面識のないその場限りの出張牧師。クリスチャンの出席しない教会式の挙式。後に、違う教会に移った同じ会社のクリスチャンが自分のところの集会に来てみたら、と誘ってくれたが、どこにも行けなかった。集会の駅近くになると、どこかであの兄弟姉妹に会うのではないかと恐れ、顔も上げられなかった。

妊娠、出産、流産・・。結婚生活は忙しく進んでいった。自分を責め、悪夢にうなされ、目覚めて、あぁ結婚したのだと思った。自分の内面や信仰が夢の中でも追ってきた。

そんな中、神様のあわれみの「時」が動いた。私たちはウィーンへと運ばれた。当時、とてもお世話になっていたYさんが家庭集会に集っている、と言い、私を誘ってくださった。事情を知らないYさんを用いて、神は私に「回復の時」を与えてくださったのである。同じ主にある祝福された集いだった。教会に戻ろう、と聖霊に押し出された。

そして、石川牧師夫妻に出会い、今までの重荷を初めて降ろすことができた。誰にも語れなかった、あの兄弟のあの言葉も初めて口にした。霊的なことが強調されすぎる危険性。「もちろん、信者同士の結婚が望ましい。しかし、信者の祈りによって相手が信仰を持つことも結婚生活で望む。」と言われ、信者と未信者の結婚式も挙げていると言われた。その後、ウィーンで、あの集会、あの指導者のことをよくご存知のK先生にお会いし、話を聞いていただく中でも私の傷はどんどん癒され、回復させられていった。K先生は「あなたは高い授業料を払ったのだと思う。」と言われ、本当に高い授業料を払った気がして、涙がボロボロこぼれた。「神は人生をトータルで見られる。」と先生は言われた。同じことを受けても、特別気にしなくて、悩まない人もいる。まじめで若かった私は、余計な苦しみを自分で背負ってしまったのかもしれない。と回復して後、牧師夫人に話したら「そういう性質も神様はあなたに与えてくださったものだから」と言ってくださった。

「他人に深い心の内を話す」ことで人は癒され、軽くなる。私は重荷を降ろす先、信頼できる信仰者を探し求めていたのだ。見えないところ、知らないところでの「祈りの手」も神様は見せてくださった。「私はあなたに誠実を尽くし続けた。」と主は語ってくださった。
人はそれぞれの弱さや性質の故に、回り道をしたり、必要のない苦しみを背負ってしまうことがある。牧師であってもクリスチャンであっても人をつまずかせることがある。そんなつもりではなかったのに、深い傷を負わせてしまう言葉もある。しかし、神様は一人ひとりの弱さもご存知で、しっかり包み込み「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われ、すべてのことを働かせて益としてくださるのである。マイナスや苦しみがプラスに転じて「用いられるもの」となる。
私はこういうことを通して、信仰から離れている人のために、また、ご夫婦そろっての救いのために祈るように導かれている。痛みを知っている者が祈れる祈りがある。主はあの時の私の叫びを聞いて、夫を救ってくださった。
ハンブルクの宣教師夫人は言われた。「主はこの結婚をあわれんでくださったのです。」と。本当にあわれまれたのだと思う。

また、今度はアメリカに運ばれてきた。「もういいです。十分です。」と信仰のない者は新しい地での新しい戦いを恐れ、後ろのものを振り返る。しかし、「見よ。私は新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。」と言われ、「この戦いはあなたがたの戦いではない。しっかり立って動かずに、主の救いを見よ。」と言われる。目が見たことのないもの。耳が聞いたことのないもの。そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものをここでも体験させてくださるのだと教えられる。確かに主は涙の谷を過ぎるときも、泉のわく所としてくださった。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたの病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」 詩篇103篇 2-5

月報2004年11月号より

「心の方向性」

1.突如教会へ
私は宗教色の無い家庭に育ちましたが中3の秋、「これからは教会に通います」と家族に宣言しました。ミッションスクールに進学希望で、キリスト教の空気を知っておきたいという下心からです。初めて行った教会は古い学習塾を借りて礼拝を守り、同年代は殆どおらず、お説教は難解。結局入試後も通い続けましたが、何が私の心を捉えたのでしょう。「人はパンだけで生きるのものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。マタイ4;4」「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。コリント第二4:18」のん気に日々を過ごす当時の私でしたが、生きていくとはただ働いて、食べて、蓄えて、何か見えるものを残してというだけのことではないだろうとは思い始めていたようです。教会で心の内側が探られる必要性を感じていたのかもしれません。

2.気休めの死生観
その後2年半程して、元気に布団を干していた母が突然気分が悪いとしゃがみこんだきり昏睡、1日もせずに40歳で亡くなりました。1度だけ意識が戻り病室で二人だけになった時、母は限界を悟ったようで私の手を握り、自分はもう助からないであろうから10歳の弟の面倒を頼むということと、その弟を可愛がってくれる人とならば父の再婚を認めて欲しい旨言いました。突然のことに私は「わかったから」としか答えられず、これは大きな後悔となります。なぜ励まして「元気になれるよ」と言わなかったのか。せめて「お母さん死なないで」くらい言えなかったものか。でもそれらは皆気休めにしか思えず、死に行く母の切羽詰った眼差しを前に言葉がなかったのです。今なら、イエス様は重荷に苦しむ人を受け止めて下さること、信じる者には全てを益として下さること、「イエス様はよみがえりであり、命であって、イエス様を信じる者はたとい死んでも生きる。ヨハネ11:25」そう言って手を握り返せるのにと思います。

3.人がつくる神
お葬式は仏式で行われ、母は突然「仏様」と呼ばれるようになりました。葬儀屋さんは勿論、親戚の人々もそう呼び始めます。母は仏様になりたかったのか?旅行の行先にだって皆様々なリクエストがあるのに、こんな大切な問題(死後の行先)を生きて残る人達が決めていいものかと感じました。数日後新しい仏壇と位牌を前に「今日、魂を入れてもらってきたからこの位牌をお母さんと思い拝みなさい」と言われた時には?マークが私の体中から大噴出でした。何故この板切れが母なの?魂って出し入れできるもの?誰にそうする力や特権があるというの?仏壇や位牌は金色飾りの演出で神々しく見えましたがどう考えても誰かがこしらえたものです。神様とは人間を創り、守って下さる方と思っていたのに、これでは人間が作った神様(仏壇、位牌)を人間が守っていくということではないか?ちょっと考えただけでもひっかかる点が沢山ありました。

4.乗り越えるべき壁
聖書の最初に天地創造を宣言され、人が作った物の中には収まりきらないと言われるイエス・キリストの父なる神様こそ本物ではと思うようになりましたが、全知全能の神様は私にとって母がどれ程大切であったかご存知の筈、愛なる神様ならどうして私をこんなに悲しませるのか納得できず、教会に行けなくなりました。大きな壁に心塞がれて9ヶ月が過ぎましたがその間毎週末、次の日曜礼拝のプログラムが切手の無い封筒に入って我家のポストに落ちるのです。牧師先生が黙々と届け続けて下さいました。けれども週報が届く度、その壁に引き戻されるようで苦しく、開封せず引出しに入れてしまうことが何度もありました。

5.応答
週報の封筒には私の名が手書きされていて、その字を見るだけでも聞こえてくる声がありました。「死ぬということについて考えてみなさい」とのメッセージを母は命がけで発してくれたように思え、無駄にはできないと感じました。そして「どうして?」と神様を責め続けていても解決に辿り着かないと考え始めていました。死を考えると命を扱いなさる神様に繋がっていきますが、それはどう生きるのかを考えることにも繋がっていきます。「神様、どうして?」から「その神様の前にあって私はどう生きるのか?」にやがて心は向けられて行きました。では神様を見上げた時私は何を問われたのでしょう。神様を理解できたかということではなく、神様を信じられるかということでもなかったように思います。私には理解する力は勿論、信じる力さえなかったのです。非力な私に神様が問われたのは私の「心の方向性」でした。何を願うのかということです。「あなたは神のすることが理解できず、信じることも難しいと言うので一つだけ尋ねましょう。あなたは神を信じたいのですか?」……人生のどこかで決断せねばならぬこと、少なくとも死ぬ直前にはどちらかの返事をせねばならぬことと思われました。先延ばしにしていると思わぬ時に母のように生涯を終えてしまうかもしれません。「私は神様を信じたいのです」そう答えました。

6.神様の招き
「信じたい」ただそれだけの応答を神様は受け止め、洗礼を授け信仰のスタートラインに立たせて下さいました。それから少しづつ心の中に光が射し込んでくるようになり、以前は聞いてはいても自分との繋がりがピンとこなかった罪や救いについてゆっくりとですが実感し、神様に愛されていることが信じられるようになっていました。自分の決心で教会に通い始めたと思っていたことや、週報が届くこと、それに重苦しさを感じることの中にさえも神様の働きかけと絶え間無い招きが見えてきました。母の命と引き換えと思われていたメッセージはイエス様の十字架によって信じる者全てに与えられる永遠のいのちに覆われ、家族を失う私の悲しみにはひとり子を十字架につけて手放す父なる神様の痛みが繋がっていきました。信じてみて初めて見えてくる景色があることに気付かされました。私の命は死に向かってではなく、神様の愛に励まされながら救いの完成に向けて1日1日進んでいるのだと思えるようになりました。

月報2004年10月号より

「神の導きによる海外勤務12年間」

1992年10月10日、私の海外生活が始まった日でした。それまで海外に行ったこともなく、飛行機に乗るのも初めてでした。最初の勤務地はオーストリアのウィーンでした。
ウィーンには92年10月から97年12月まで約5年間滞在しました。もちろん、会社の命でのことで、特に希望してこの地を選んだのでもありませんでした。赴任当初2年半ほどはただ海外での生活と仕事に慣れるために必死で、知らぬ間に歳月が過ぎていった感じでした。妻も3ヶ月、2歳半、3歳の3人の子育てと言葉のわからない中での生活は大変でした。
95年になると、会社に私を含め3人いた日本人が続けて2人減員され、私一人で現地会社に取り残される状況となりました。これには、私もまいってしまいました。そんな頃、妻はウィーンの日本人教会に集うようになりました。妻は私と結婚する前からクリスチャンであり、ノンクリスチャンである私との結婚には大きな障害がありました。その為に一時的に信仰から離れる状況にたたされていました。彼女の信仰を回復させる機会にめぐりあったのでした。ウィーン教会の石川牧師夫妻を通して神によって完全に回復させられたのでした。私はこのような妻の心の動きに当初は気が付きませんでしたが、石川牧師の誘いにより度々土曜日の午後に牧師宅にて聖書の学びをする様になりました。また、日曜日の午後にはウィーン日本語キリスト教会の礼拝にも出席する機会を持つ様になりました。
しかし、会社生活しかなかった私にはその内容はなかなか入り込めないものでしたが、家族と一緒に礼拝には行く事にしました。そのうちに神の愛と恵みにより、私が生かされていること、その支えがイエス・キリストであることが家族や会社の人々・仕事を通してわかるようになりました。
そんな生活をしている内に、突然、神は私に次なる海外生活をドイツ・ハンブルクに移されました。ハンブルクでも神は私と家族にハンブルク日本人教会をお与え下さり、その地で98年11月に当時の牧師、メッツガー牧師から受洗することになりました。涙が出ました。ハンブルクは兄弟姉妹の少ない教会ですが、現在では河村牧師を中心に神の愛に満たされています。今年の夏にはヨーロッパキリスト者の集いの主催教会として、神の力により成功されたと聞いています。
私たちの海外生活も10年を越えた2003年夏になると、もうそろそろ日本への帰国になるだろうと考えていたのですが、神はまたも、次なる海外生活を米国に与え11月には当地へ異動しました。米国は会社にとっては世界中で最も重要な拠点で、何も力を持たない私などでは勤まらないと思うのですが、今は自分が仕事をしているのではなく、すべてが神様により与えられ、時間が過ぎているという不思議な状態です。いまこそ聖書によって、信仰によって生かされなければならない試練の時期だと思って、日々祈っています。人生は聖書の言葉と信仰です。その中で神により人は生かされています。感謝です。
ニュージャージーの日本語教会は大きな教会で、私にとってそれまで経験した海外の教会とは異なり、兄弟姉妹の年齢のバランスも良く、組織だった働きのできるもので非常に安心できます。

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』
ヨハネの福音書 5章39節

環境の大きく変わる海外での生活には人生観の変化があります。これから、神は何を私にされるのか、私には分りませんが、これからもただ神を信じる事で身を委ねるのみです
妻とのめぐりあわせ、ウィーンとのめぐりあわせ、石川牧師、メッツガー牧師とのめぐりあわせ、これらひとつひとつが別々のものでないことには驚きを感じます。すべてが繋がっているのです。
更に、これが予想もしていなかったドイツでの受洗、そして米国での今日と繋がっているのです。私自身、海外生活を始める前にこんな事があるとは到底考えてもみなかった事です。神の働きです。

月報2004年9月号より

「初心」

神様に初めて出会い、イエス様を救い主と受け入れてから9年が経ちます。以前から、教会や信仰書などを通じて、初心に戻るという表現をよく耳にしましたが、今になってようやくその意味がわかりつつある気がしています。

13歳に母親が急死したとき、私は自分が罪人と知りました。それは、母親に対して生前に犯した自分の罪を見つめるきっかけとなり、いくら悔やんでもどうすることもできない思いをしたのと、私の中で静かに少しずつ消えていった母への思いからです。それでも何とか自分の罪を誤魔化しつつ5年が過ぎた18歳のとき、私は人間関係で初めて苦しみ、自分が罪人であることを認めざるを得なくなりました。教会へ行かなければ、そんな切羽詰った思いを与えられて、友達の教会を訪ねました。教会の方々が新来者の私のために、私の心に聖霊が入ってくださって神様を知ることが出来るようにと祈ってくださる中で、私は私の心に聖霊が入ってきたのをはっきりと感じました。その瞬間、特別な予備知識がなくても、私には神様の存在を知ることが出来ました。本で学んだことでも、人から説明されてわかったのでもありません。私は論理的に物事を捉える傾向があり、頑固な頭の持ち主ですから、自分で納得できなければ信じることなどできなかったはずでした。その私にふさわしく、私が頭で考えて悩んだりする必要はもう何もないというほど明確に神様ご自身が私の前に現れてくださったと思います。神様が生きたまことの神様であること、愛に溢れた方であること、私の罪をも赦してくださった神様であること。そしてイエス様のこと、聖霊のことまでも。その後、教会に集い続け、聖書をよく読みましたが、それはあの瞬間に解き明かされた神様の謎を再確認するようなものでした。それはまるで使徒たちが五旬節の日に聖霊に満たされて、他の言葉で話し始めたかのよう(使徒2:4)、何とも不思議な経験でした。触れられた私は涙に溢れ、どのようにも表現することが出来ない安堵感に包まれました。ハレルヤ!神様の救いとは何とも不思議で何とも素晴らしいものです。

それから私は熱心に神様を追い求めました。求める中で、幾度も壁にぶつかりました。神様を信じているのになぜと思うこともありました。神様が御心を示してくださったと信じて歩んだ道が閉ざされたこともありました。もちろん神様を知った恵みがあまりにも大きいので、何があっても導きと最終的には受け入れることができ、今もかろうじて神様を信じられていますが、正直、神様を信じる前よりも、神様に出会ってからのほうが、苦しんできたような気がします。神様を信じているからこそ期待も膨れ上がっているのでしょう。この世でキリスト者として生きていくのは戦いです。それほどに信仰を妨げようとするものは多く大きく、それほどに罪の性質が私たちにははびこっているからです。信仰の戦いの中で試されたとき、神様を知りたい、神様の御心を知りたい、と激しく求めた時期がありましたが、そのとき私が出会ったのは伝道者の書。ソロモンに深く共感しました。「空の空、空の空、いっさいは空である。…… 私は心を尽くし、知恵を用いて、天が下に行われるすべての事を尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(伝道者の書1:2、13-14)」そんな時の私の信仰は求める気持ちは強くても、いくら一生懸命に聖書を読んでいても、決して前向きと言えるものではありませんでした。信仰書に出てくる長老の如く、何も恐れない平安に包まれた笑顔が溢れ出るような信仰や、天国ばかりに憧れを抱いて、今日を生きる姿勢には欠けていました。でも私は一体何をしようとしていたのでしょう。「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない(伝道者の書3:11)」のです。私は自分の頭であらゆることを理解しようとしていました。聖霊の助けがなければ、自分の頭では神様を知りえることができなかったではないですか!クリスチャンとして歩み始めて私はいつの間にか、霊的な範囲を超えて、自分であらゆることを知ろうとしていたのです。神様のこと、イエス様のこと、神様がなされるあらゆることというのは、霊的な助けなしにわかることはできないものでしょう。そしてそれはすぐにわかることばかりでもないでしょう。私たちが信じている神様は偉大な神様なのですから。

信仰にはきっと私がまだ知らない幾つかの局面がこの先もあるのでしょう。そんな局面を幾つか経験して、奥義のようなものを掴んでいくものかもしれません。でも今の私は、信仰とは、何年信じてきたから、どれだけ知識を増したからではなくて、何年信じても、どれだけ知恵や知識を増しても、そんな中で如何に初心に戻り、謙遜になれるか、ということかもしれないと思い始めています。神様に、「私は罪人です、今すぐにでもどうか救ってください」といった、初めて神様を知ったときのような切羽詰った祈りを、今の私は捧げられていないからです。主人の食卓から落ちるパンくずでもいいのでいただきたい(マタイ15:27)、そんな必死な思いをいつの間にか忘れ、神様の偉大な愛に安易にそして軽々しく甘えすぎている自分に気づかされているからです。

初心に戻る。それは本当に永遠に信頼することが出来る。永遠に私を裏切らない。永遠に私を愛してくださる。そんなお方に初めて出会ったとき、自我からも世的な思いからもすべて解放されたあの瞬間です。あの聖霊に満たされた瞬間。喜びと安堵感に溢れ涙が止まらなかった瞬間。私たちが信じている神様がどんなに素晴らしいお方か、私は本当に覚えているでしょうか。13歳で人は私を去っていくと悟った私に、「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。(ヘブル13:5)」そう言って下さった神様を知った喜びはどんなに大きかったでしょう。私は今一度初心に戻り、神様に出会った喜びに溢れたいと願っています。

月報2004年8月号より