説教: 錦織 学 師
聖書箇所 :ヨハネ(John) 6:1-14
先月の月報で、NYでの礼拝をスタートすることをお知らせしました。「沖へこぎ出しなさい」との聖書からのメッセージを受け取って、踏み出す思いを書かせていただきました。そして、9月12日、ついにその日がやってきて、第1回のNYマンハッタンでの礼拝がスタートしました。初めての場所で、わからないことや、あれ、こんなはずじゃなかった,などということもあるだろう、当日になってバタバタすることあるだろうと思い、何度も確認し、緊張して会場に向かいました。早く着いたのですが、駐車スペースを探してぐるぐる回りました。結局有料駐車場に車を止めて、会場に歩きました。一緒に祈りつつ、準備を進めてきた皆さんと現地で合流し、会場に入りました。予想通り、バタバタ準備をしましたが、いざ、始まってみると、本当に自然で、いつものNJの教会でささげている礼拝と全く変わらないように思いました。期待していた以上の方々がおいでになり,心から感謝して共に神様に礼拝をささげました。
聖書の中に、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民がヨルダン川を渡る場面が出てきます。時は麦の収穫の時期、ヨルダン川は上流の山々の雪解け水で水量が増えていました。そのような時に民はこのヨルダン川を渡って向こう側に行くようにと、神から導きをいただいていたのです。せめて川の水量が少ないときにしてくれたら、どんなに楽だったろうか、と思ったことでしょう。しかし、神はこのタイミングで「進みなさい」と民のリーダーに語りました。その語りかけに彼らは従ったのです。そして、このように書かれています。
「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、-ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、- 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられた」(ヨシュア記3:15-16)
民の先頭を歩く人々の足が水に着くと同時に、その川の水は枯れ、乾いた地になりました。そして、民はそこを通っていくことができたのです。
私たちの歩んでいく道にも、しばしば、先がはっきりと見えないのに、完全に準備ができているわけではないのに,踏み出していくことを求められるときがあります。そんなとき、踏み出したときに見えてくる道があるのです。踏み出したときに開かれる道があるのです。ですから、勇気を出して踏み出していくことが大切なのです。
NYマンハッタンでの礼拝、10月はまた第2週、10日の日曜日午前10時15分からです。教会の礼拝はいつでもそうですが、クリスチャンであるなしに関わらず、皆さん大歓迎です。是非お出かけください。詳しくはこちらのチラシをご覧になってください。神様がこれからも道を開き続けてくださいますように。




「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31章3節
ずっと祈ってきましたが、9月12日から、まずは毎月1回からですが、第2日曜日の午前中に、NYでの礼拝をスタートします。NY市の郊外に位置する私たちの教会には、ずっと、NY市から来られる方々が多くおられました。また、車の便が必要な方々のことを覚えて、送迎の車も出してきました。それでも、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。
それが、2020年からの牧師としての任期を更新するかどうか、祈っている中で、この任期の中でNYでの礼拝をスタートすることができないだろうかという思いが強くされていきました。元々、2020年の9月スタートを目指していたのですが、コロナで多くのことが制限される中で、この計画も延期になりましたが、この延期を通して、2021年の初めからは、このために心に重荷が与えられた方々と共に語り合い、祈り合い、備えることができました。そして、今年の6月2日のNYでの礼拝のための祈り会のために準備をしている中で、
「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」ルカ5:4
の聖書の言葉が心に響いてきました。この言葉は、夜通し働いて、でも、何も獲れずに、がっかりし、疲れ果てて、網を片付けていた漁師のペテロに向かってイエスが言われた言葉でした。ペテロはいろいろ言いたいことはあったでしょう。理由をつけて、イエスの言葉から逃げることもできたでしょう。しかし、最終的にはこのイエスの言葉に従った時に、網が破れそうになるくらいの多くの魚が捕れたというのです。この言葉を心に与えられたときに、私自身は、これをNYでの礼拝をスタートするための、神様からの語りかけと受け取りました。従うときに、祝福が与えられる招きであると思わされたのです。
どうか、皆さん祈ってください。この働きを通して、神様を知る方々が起こされますように。イエスに出会い、イエスに心を触れていただいて、新しくされる方々が起こされますように。また是非、お知り合いをご紹介ください。一人でも多くの方々に届くことができますように。案内はこちらから。
努力するものは報われると信じて疑わず、子供時代から猪突猛進してきましたが、30歳直前のあるとき努力ではどうにもならないことが世の中に存在する、という初めての挫折経験をしました。それをきっかけに心身共に苦しい日々を送るようになりました。失敗やそれにまつわる全てを自分の中で消化できず許すこともできず、ただ後ろ向きな考えに満たされながら鹿児島に住む家族、心を許していた数少ない友人達に支えられながら過ごしていました。
その中の一人である、遠く離れたミラノで救われて、当時日本に一時帰国しクリスチャンとして過ごしていた高校時代からの友人が、時を間もなくして私と同様の困難にぶつかったのです。諸事情により、実家住まいであった鹿児島、そして彼女の家族から離れて、横浜で一人暮らしをしていた私の家にて、短期間だけ滞在することとなりました。
短い同居期間、彼女は私のように苦しみもがき同じ場所でじたばたせず「このことを受け入れて神様に委ねて行こうと思う」と話しながら、私から見ると明らかな失敗と思える状況を受け入れており、そのことについて話す際には感極まったり涙を流すこともなく、夜は聖書を開きながら静かに過ごしていて、私の目にはゆっくりと前進していく姿を見ることになりました。
なぜ同じことをこんなに違うように受け止められるのだろうかと、彼女の姿を通して探究心が芽生えながら、メールなどでやりとりする中にて、マタイによる福音書 7:3 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか』 という御言葉があり、被害者意識で自己憐憫ばかりの重い気持ちでいたのに、ハッと目が覚める思いがしました。そして同時に視線が変わったことで心の重苦しいものが減ったように感じました。
もっと聖書のこと、神様のこと、愛とは何か知りたいと思うようになりました。
その友人を通じて帰省時に鹿児島市の丘の上にある単立鹿児島シティチャーチ(勝郁也主任牧師)の日曜礼拝へ足を踏み入れました。
エレミヤ29:11-12『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。』
礼拝の中で神様は生きておられる、この方についていけばこの先大丈夫な気がする、と思うようになり横浜に戻ってから少しずつ聖書の言葉に触れるようになりました。
聖霊の働きかけと導きが備えられ、イエス様の十字架によって新しく生まれ変わりたいと思うようになり、2008年12月4日、故芳賀正牧師先生(東京フリーメソジスト小金井教会元牧師、当時イタリア・ミラノ賛美教会協力牧師)のもとイエス様を心にお迎えし共に歩んでいく決意をしました。
その後仕事のため住んでいた横浜市にあるアッセンブリー教団港南シオンキリスト教会にて受洗の道が備えられ2009年8月23日野川悦子牧師先生より洗礼を授けて頂きました。
野川先生には年の離れた姉のように信仰生活・教会生活を手取り足取りご指導いただき仕事でも絶好調、信仰・教会生活も大いに充実した生活を送っていましたが、時は流れ、夏休みにひとり旅で訪れていたNYの地にて夫と出会い結婚することになりました。
別居婚を続けていましたが主が奇跡を与えてくださり子を授かりました。祈りつつ歩む中で日本での仕事を辞め息子と3人で暮らすように道が一つずつ備えられていきました。
渡米後、夫と同じ教会に転入会することを話す機会があり主から授かった息子に信仰を継承してことが夫婦のミッションであることで一致し、親子クラスをきっかけとして通うようになったニュージャージー日本語キリスト教会へ、今回転入会を希望致しました。この新しい地にて気持ち新たに信仰の土台を固く築いてまいりたいと思います。