説教: 錦織学牧師
聖書箇所 : ローマ(Romans) 10:9-17
その日は突然やって来ました。2020年の年末も夫は建築の仕事に追われていました。
夫の仕事場で2人体調が悪く休む様になり、年始早々に夫も咳が始まり、その後会った友人も具合が悪くなりました。そして私も熱が2日続き、次々に体調が悪くなるのを見て、これはコロナかもと思い1月4日の月曜日に私はコロナの検査を受けに行きました。行くのもしんどくて大変でしたが、Paramus BCC内のドライブスルーでやってる駐車場で、寒いのに年始から外でマスクと手袋をして、あちこちに立ってるスタッフ達を見て、何とも言えない感謝で感動しました。中にはご年配の方も働いておられました。リスクを追いながらー5℃の中、優しくテキパキと対応して下さり、Bergen County 在住者には無料で検査して下さいます。大家族には助かりました。帰って結果を家で待っていましたが、このしんどさはきっとコロナだと確信していました。身体中が悲鳴をあげる程痛かったのです。3時間後に電話がかかって来ました。予想通り陽性でした。
家族6人をそれぞれの部屋で隔離させました。そして症状前に会っていた友人や義理姉夫婦に伝えてPCR検査に行ってもらいました。それがコロナの不安なところで、心配ばかりして精神的にも辛い日々でした。結果、次男と長女が陰性だったので、その日からグローブをし家族の食事を各ドア前に運んでくれ、薬を買いに行き、家事の全てをしてくれました。衛生上プラスチックフォークと紙皿を買って来てくれて一人でベッドの上で食べる食事。キッチンに行けばウィルスをまいてしまうので部屋にこもる2週間でした。家族に会えず最初はスープしか喉に通らず味覚と嗅覚を失い味気なく、まるで刑務所にでもいる様な気持ちになり涙が出て来ました。
その週は毎日誰かのコロナ結果が出て、長男、末っ子、義理姉、友人2人も陽性結果でした。ものすごい感染力です。家族の中で同じ陽性でも咳が酷かったり、それぞれ症状が違い寝る時間も違ったので、主人、子供達4人共に各寝室から出ず、オンライン授業に切り替えてコロナ中も授業を受けていました。9歳の末っ子はママを1日に何十回、ハグもいっぱいしたい子なので良く一人で色々出来たなと思っていたのですが、彼自身もコロナが怖いというのをニュースで聞いていたので近づきませんでした。
そんな中、主人がERに行きたいと言いました。咳が酷く40℃以上(105°F)の熱が3日続き、ドクターとのZoomで処方の薬を頂いていましたが、全く効きませんでした。救急車は高額なので長男と私でハッケンサック病院に連れて行き、付き添いはコロナで入れないので外で別れをしました。もう咳がひっきりなしに止まらない中、家族を頼むと言った夫の言葉にお互い涙ぐんでしまいました。待合室は真っ白でビニールが一面にかかり誰も入れず異様な雰囲気の写真が送られて来ました。コロナウィルスが目に見えたらいいのに、一人で心細いだろうな、と思いながら家に着くと他の子供達も心配して寝ずに待っていました。『とってもいい病院だから大丈夫だよ。もう寝よう。神様が守ってくれるよ』と言い聞かせて私も今夜は寝れそうだと思っていました。この1週間、自分も完治してない所に、主人を夜中2時間おきに様子を伺ったり薬の時間だったり、コロナにかかった友人達のことを思うと全く寝れてなかったのです。倦怠感もあり、動くのもやっとで自分も寝たきりでした。
ベッドに入った所に主人から連絡があり『レントゲン撮った結果、返されることになった。迎えに来て欲しい』と。またすぐ車で迎えに行き、家でのコロナとの闘いとなりました。多くの入院患者がいて、かなり重症でないと入院させてもらえないのです。
子供達が学校やスポーツに行ってなかったので、順番に知れ渡り、近所の人や教会の人が多くのメッセージ、励まし、手作りの大ご馳走、お花、果物、レストランのギフトカード等届けて下さり、祈って下さり、愛を沢山受けて辛い時期を助けて頂きました。必要以上のものを満たして下さり、誰も偏見の目で見ることはなく、それどころか、これほど多くの方に祈ってもらったのは初めてで、夫も自分自身も祈ることしか出来ないので神様と近い関係にいられて全てをお任せしていました。そしてその中で最も神様が働いて下さったのは、夫は10人兄弟でアイルランドに育ち22歳からアメリカに住んでるので長い間、疎遠になっていた兄姉や小さい頃遊んでた友人が連絡してくれました。きっかけを作って下さったのです。
喜びもつかの間、更に事態は悪くなる一方でした。ERに行って戻って来た3日後の午後、呼吸困難になり、毎日測っていた酸素数値が82になり、救急車を呼びその時はあっという間に連れられ、お別れも出来ないまま入院になりました。もうコロナ症状発症から10日経っていました。今まで家族全員が風邪を引いてても元気な夫。疾患もなくタバコも私が長男を妊娠した23年前に辞めていました。身体資本の建築業で55歳。そんな夫が重症化するとは誰もが予想しておらず、ナースにもそれがコロナの怖い所だと言われました。入院次の日に抗体のある輸血をするとドクターから電話があり、驚きました。そこまで悪いのか?日本語で検索してもそんな新しい治療はされておらず、日本の従姉妹のナースに聞いてもやってないと言われ、また不安になる中、主人から輸血直前に連絡があり、ナースが『マッチングするのが難しい中、こんな大きなバッグが与えられて貴方は本当にラッキー』と言われたと聞いて、まさに多くの方の祈りが届いて神様が与えて下さったと思わされました。
日本ではコロナになってから針を刺すのに抵抗があり、献血者が少ないとニュースを目にしました。それもそうです。コロナになった方が献血してくださった方がいたとは凄い事ですよね。友人のお父さんで抗体輸血plasma infusion受けた方が抗体輸血3日後には凄い成果が出て元気になって1週間後に退院したそうです。それを聞いて安心して期待していましたが、裏腹に、どんどんその後状態は悪くなり、2日目にはトイレに行ったら酸素数値が下がり、座るのも危険な状態で常にうつ伏せでいなければなりませんでした。酸素マスクは常に付けたままで周りには他の患者が咳やうめき声が聞こえ、ナースは走り回っています。コロナ病棟にいること事態怖かっただろうと思います。そしてこの日に主人は目を閉じたら明日は起きられるか分からないと思ったそうです。死はそこまで来ていました。3日目には丸一日連絡が途絶え、夜やっとメッセージが届いたと思ったら一言 “ tough day” ドクターからもこの日は連絡がありませんでした。
私は寝ることが出来ず、明け方から物凄い恐怖に襲われました。夫や私の家族には心配かけるので言えず、錦織牧師先生に全ての状態を伝える事が出来て一緒に祈って下さったのが大きな支えでした。この朝ドクターと話すことが出来たものの、後2日この状態が続けばライフサポートが必要になる。人工呼吸器です。肺の全体にコロナがいるとの事でした。夫を失うかもしれない恐れ、不安、心配で胸が痛く、締め付けられ、余りにも早い展開に心がついて行けずうろたえるばかりでした。この日1月12日は結婚24周年記念日でした。うつしてしまった友人の誕生日でもありました。彼女は自分が感染したことで、小さな子どもたちも家からオンライン授業を受けなければならず大変そうでした。そして、もう一人のかかった友人も赤ちゃんがいて授乳と食事作りとで心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。色々な想いがよぎり、辛く苦しい日になりました。そんな中、主人の姉も救急車で運ばれました。結局検査して5時間後にまた返されて夜中に迎えに行きました。もうこれ以上辛いことがないだろうと思うと次の日には更なる事が起こり、自分ではどうしようも出来ないので私のストレスはマックス。精神的に参っていました。助けられたのは『祈ってるよ』というテキストメッセージがアメリカだけではなく日本、アイルランド、イタリアから届いたことでした。神様に家族で祈る日々が続きました。そして祈りは天に届き、夫の命を救って下さいました。体がコロナに勝ち始めたのです!輸血もきき始めた様です。入院12日間後、ナースの拍手と共に車椅子で退院する事が出来ました。ナースの優しさ、素晴らしさは入院中も聞いていたので感謝で胸がいっぱいでした。
Welcome back サインが書かれた家族の待つ家に帰ってきました。7kg痩せて声も小さく弱々しくI am a survivor と夫は涙しながら病院での事をゆっくり話してくれました。子供4人達もハグしてお父さんの居なかった間どうだったかの話をしました。娘は大泣きしていました。今までの緊張の糸が切れた様でした。驚く事にコロナ発症から8週間、肺のダメージを受けたので未だ完治はしておらず抗生物質を飲んで居ますが、ゆっくりと回復しています。他のかかったメンバーは皆、治りました。コロナの中も家族を強めて下さり、友人らの愛を教えて下さり健康の大切さを分からせて下さり感謝します。私達はコロナに負けない。明日はどうなるか分からない今日を大切にし、コロナの中、千羽鶴を折ってくれた友人夫婦の様に愛を行動で表わせる人になりたいです。
『恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから、わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。』(イザヤ41:10)
毎晩子供と一緒に手を合わせ世界中のみんなの心身の健康をお祈りしています。
3月11日は東日本大震災からちょうど10年の日です。3月7日にはわたしたちの日曜日の礼拝を東日本大震災のメモリアル礼拝としてささげます。この日を覚えて、大切な方、大切なものをなくされた方々、今も痛みの中に歩んでおられる方々のために慰めをお祈りします。
メモリアル礼拝に備えて当事者の方々、支援活動をされている方々からのメッセージが届き始めていますが、それに触れる時に、次の聖書の言葉が心に響いてきました。
「進み寄って、・・・並んで行きなさい」(使徒行伝8:29)
自分たちも被害を受け、多くのものを失った人々や教会が、この聖書の言葉の通りの行動をして、地域の人々のところに進み寄って、歩調を合わせて、並んで歩んでおられます。津波や原発事故で建物を失い、新しく建てられた教会堂に、地域の人々をお招きしている教会、また、出ていって復興住宅の集会所で人々と触れ合う集まりをもっておられる教会、地域のリーダーと手を携えて人々に仕えている教会、今の新型コロナウィルス感染拡大によって働きが制限されている中でもなんとかして、地域に仕える働きをされている皆さんの姿に、心揺すぶられる思いがします。わたしたちもそこに歩調を合わせて、並んで歩んでいくようにと招かれていることを感じています。
「10年間、このメモリアル礼拝を続けていこう」と語ってきました。今年で区切りをつけて、わたしたちの教会の東日本大震災のメモリアル礼拝はこれが最後になりますが、これからも、続けて祈っていきましょう。続けて心を向けていきましょう。
3月7日、メモリアル礼拝は午前10時から、Zoomを使ってオンラインでささげます。ぜひ、皆さんご参列ください。Zoomのアクセスのリンク等、ご希望の方は、pastor.jccofnj@gmail.comまでお問い合わせください。共に祈りをささげましょう。
メトロポリタン美術館所蔵のルノワールの作品、ピアノを弾く少女は有名です。
Nさんの子供の頃のピアノの楽譜本のカバーだったそうです。

ルノワールは現実には貧しかったり、家族の不幸があったり、晩年は病気と戦っていたのですが、
「風景ならその中を散歩したくなるような、女性ならその人を抱きしめたくなるような、そんな絵を私は描きたい」
と、生きる歓びを描き続けた信念が、人々に幸福を与える力になったのでしね。

みんなで「ピアノを弾くN子ちゃん」描いてみましょう〜。
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小さい時の思い出の中からも、それぞれの画面から、色々な曲が聞こえてきますね。

クロッキー教室の後は、錦織牧師による聖書のお話です。
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今、我が家ではポインセチアが赤くなって、日々の生活に彩りを添えてくれています。
ポインセチアは日が短くなると花芽をつけ、その周りが赤くなるのですが、この地域では秋には家の中に取り込まないと枯れてしまいます。しかし、家の中は夜まで明るいので、いつまでも鼻芽をつけられないので、赤くなることもなく、春になってしまいます。そこで、毎日午後5時から翌朝8時までカバーをして、「秋なんだよ」ということを教えてあげるのです。
今年はコロナで、大体夕方5時も朝8時も家にいるので、12月からカバーをし始めました。毎日毎日、何も起こらなくても、夕方5時にはカバーをしました。
そしたら、1月になってから葉っぱが少しずつ赤くなっていき、2月14日のバレンタインデーには見事な色になってくれました。
このポインセチアの姿を見ながら、思いました。
簡単に葉を赤くしたければ、赤いペイントを塗ればいい。
でも、ホンモノを作るためには、何の変化がなくても毎日毎日忠実にカバーをしなければいけない。
わたしたちもそうなんじゃないかと思ったのです。
「油断することなく 、あなたの心を守れ 。命の泉は ここから 流れ出るからである」 箴言4章23節
外側を飾るのではなく、時間がかかっても内側に目を向けて、内側から溢れるもので勝負をする、そのような歩みをさせていただきたいと思いますね。
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今日は、特別講師の太田美奈子さんによる
ゴッホについて学びました。

特にゴッホとゴーギャンとの関係は知っていると絵がより理解でき、
作品の鑑賞が楽しくなります。

平行四辺形をいくつも描くと椅子になりましたね。
椅子の上には自分らしい物をそれぞれ描いてみました。

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。
私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。
しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。
父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。
あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。
また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。
そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。
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両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。
旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。
しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。
そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。
私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。
旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。
―それが父の最後の誕生日となりました。
5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。
私はひと月強、実家に滞在しました。
初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。
頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。
ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。
その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。
両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。
もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。
父は、“はい”と答えました。
“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。
父は、始めはただ、聞いていました。
少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。
普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。
また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。
その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。
私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。
私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。
私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。
聖霊様のご臨在を実感しました。
何を祈ったのか、全く覚えていません。
ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。
延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。
私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。
これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。
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一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。
母は、本当に突然だったと言っていました。
母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。
父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。
どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。
詩篇23章6節
命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。
主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
アーメン