収穫の秋 10月のカフェはメニュー満載

10月に入りすっかり秋めいてきたNJ。今月のカフェはあいにくの雨でしたが、沢山の方が遊びにくてくださり、感謝の時となりました。食欲の秋!
今月のメニューは何かな?


いらっしゃいませ!カフェの入り口も秋らしいデコレーション


今月のスイーツ、カスタードシュークリーム、抹茶ミルクレープ、フワフワアップルケーキ、小豆あんカップケーキ


軽食はサンドイッチ、いなり寿司


コーヒーチーム、一杯一杯心を込めて

来月のカフェは11月13日です。皆さまのお越しをお待ちしております!

本日の聖書の言葉は、
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
詩篇126:5-6

 

セルフィーで自画像、似てるかな?

スマホで顔を自撮りして、顔の輪郭を描きましょう。
鼻、目、どんな形?


美人にハンサムに描けたかな?


曲線を使って画面を分割
それぞれのスペースをデザイン


初めてのモデルさん、お疲れ様〜、


後ろ姿も素敵ですね。

クロッキー教室の後は、錦織牧師のバイブルショートメッセージ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
みなさんは「私は〜である」という文をたくさん考えてみてください、と言われたらどんなことを思いつくでしょうか?
「私は人間である」「私は『肩書き』である」「私は『自分の名前』である」「私は私である」「私はおっちょこちょいである」「私はわがままである」・・・。
いいものも、悪いものも、いろんなものを含めて自分なんだなあ、と思いますね。
自分が何者であるかを知るために、聖書も一つのヒントを与えてくれます。
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2
そう、私たちは神様に愛されているのです。
大切な存在なのです。
他の人はなんと言うか、小さい時に親や先生がなんと言ったか、社会はなんと言うか、それらをはるかに超えて、神様は、私たちのことを「あなたは大切な存在だよ」と言ってくださるのです。

<牧師室より>2019年10月「あなたは何者?」

「わたしは〜である」というのをできるだけたくさん、最低でも10個以上は書いてください、と言われたら、皆さんはどんなことを思いつきますか?「私は牧師である」「私は夫である」「私は父親である」「私は日本人である」「私は錦織学である」「私はクリスチャンである」・・・自分で書いてみると、自分が自分のことを何者だと思っているか、自分が無意識のうちに何を大切にしているのかが、わかってきます。まず「肩書き」や「勤務している会社名」が思いつく人、「母親」「父親」と、「親」が最初に出てくる人、「夫」「妻」が出てくる人(ちなみに、お母さん方で「母親」より先に「妻」が出てくる人はなかなかおられません・・・)、「日本人」「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「関西人」と国籍や民族、出身地が出てくる人、「男」「女」とジェンダーを思いつく人、それぞれ、自分が何を大切に思っているか、それが現れてくるのです。私もまず「私は牧師である」と最初に出てくる、ということは、いつの間にか、「職種」「肩書き」が自分のアイデンティティーの中で、大切なものになっているんですね。皆さんはどうでしょうか?

でも、よく考えてみると、職種や肩書きは、自分という人間の一番大切なものではないですよね。たとえそれを失ったとしても、私は私でなくなってしまうわけではない、だから、もっと自分の存在深くに関わっている「私はこれだ」というものがあるのではないか、そのように思うようになりました。

私自身の存在深くに関わっている、大切な「私は〜である」は、なんだろうか?これがなくなったら、自分が自分ではなくなってしまう、そういうものはなんだろうか?そう考えた時に、「私は神様に愛されている者である」と言うことができるなあ、と思います。他の全てを失ったとしても、これだけは変わらない、自分自身と分けることなど決してできない、自分の一番深いところにあるアイデンティティーです。そして、これがあるから生きていける、そのように思わされます。

そして、これは、すべての人々に与えられているものなのだと語ります。

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ヨハネ3:16

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ5:8

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」第一ヨハネ3:16

あなたもまた、神様に愛されている方です。

「私の主、私の神。」

私が2~3歳の頃に両親が救われ、家族で教会に通い始めました。教会には同じ年代の子どもたちが大勢いました。当時の記憶は沢山はありませんが、ひとつはっきりと覚えていることがあります。教会学校で先生がイエス様のお話をして下さった後、質問をしました。「イエス様のことが大好きなおともだちー?」次の瞬間、周りの子どもたちが皆「はーい!」と元気よく手を挙げたのです。私はびっくりして戸惑いました。…聖書からイエス様の話をきいて、聖書もイエス様も本当だとは思う。イエス様は神様の子であり、よいお方で、すごいお方だとも思う。でも…“大好き”? 私はその時、自分がイエス様のことを毎週学んでもイエス様に「大好き」という感情を持っていないことに初めて気づかされました。急にまわりのお友達がまぶしく見えました。どうしたら、他のお友達のように「イエス様を大好き」になれるのだろう、イエス様を信じているなら大好きになるはずだし、なるべきなんだ。ならなくては…。でも、聖書のお話をいくら聞いても読んでも、心に残る箇所といえば、弟を殺してしまうカインとか、妬みと恐れに駆られるサウル、神の箱を触ってしまうウザ、群衆の声に押されてイエス様を十字架につけるピラト、そしてイエス様を裏切ったことを後悔して絶望するユダなど…。子どもながらに彼らの物語はとても残念で切なく、彼らが今頃は暗い黄泉で「泣いて歯ぎしり」しているのかなと想像し恐ろしく思いました。一方でダビデやマリヤなどは幸運な人だなと思いました。教会学校の先生方の意図に反して、自分もダビデやマリヤのように神様に愛される神の家族になれるとは思えず、将来には泣いて歯ぎしりしているような予感がしてなりませんでした。

小学校に上がると、夏のキャンプなどをきっかけに同年代の子どもたちは次々に神様との関係を深めているようでした。さっきまで一緒にふざけていたお友達が、夜のキャンプファイヤーで聖書のメッセージをきいた後に涙を流して悔い改め、イエス様の十字架を喜んで「もっとお祈りしたい」「まだまだ賛美したい」と先生にせがんでいる姿にショックを受けました。…私もこんな風に神様に出会わなければならないんだ。でもどうしたら神様と「出会える」のか分かりませんでした。お友達のほとんどは小学生のうちに受洗し、私も先生に受洗を勧められましたが、受ける気持ちになれません。…先生は私をクリスチャンとして見てくれている。でも神様の目から見て、私はどうなのだろう。私は神様を信じているのか、愛せているのか、そう神様は認めて下さっているのか自信がありませんでした。学年が上がるにつれて自分の罪がたくさん見えるようになり恐ろしさやふがいなさでいっぱいになる一方で、さらにその罪深さにいくらでも開き直れてしまう心、私のための十字架や復活という言葉も心を素通りするような、神様を畏れられない自分の心をどうしたらよいか分からず、先生にも説明できませんでした。

こうして「洗礼準備クラス」を3~4年程も受け続けたある日、ヨハネ20章のイエス様とトマスのやりとりの箇所が目に留まりました。…トマスもイエス様に呼ばれ弟子として共に長く過ごしていたのにイエス様が分からなかったのかな。ヨハネのようにイエス様に寄りかかったり、ペテロのように積極的にイエス様に近づこうと水の上を歩こうと思いつかなかった。12人の最前列ではなく他の弟子達の背中越しにイエス様を見ることが多い人だったかもしれない。でも、復活のイエス様に出会い損ねた時、やっぱり人越しではなく自分でイエス様と出会うことの必要や勇気、出会いたいと願う気持ちが爆発したのではないか。トマスがそうでなくても私はそうだと気づきました。私も他の誰かの背中ではなく、イエス様の前に行き、イエス様と向き合わなければならない、イエス様が私に与えて下さった信仰で、イエス様が私に与えて下さった道を歩み始めなければならないと思いました。そうして中学2年の時に洗礼を受けました。

その後も、時に同年代の教会の友人達の姿がまぶしく見えることはたびたびあり、聖書の約束が自分だけうまく実を結ばないと焦っては努力したり失敗したり、委ねてみたりあがいてみたり…を繰り返すような不信仰生活でしたが、やがて成人し、今や宣教師や牧師などそれぞれの場所で神様に仕えるようになった友人達と共に子ども時代を過ごせたことは神様からの大きな祝福だったと思えるようになりました。また、私を造られた神様は、私が本当は何が好きで心地良いかを知っておられ、実際にその道へと導いてくださっていることを実感し始めました。一度きりの人生、クリスチャンたるもの一生独身で宣教の働きに、などと若い決心で意気込んでも、いざ岐路に立たされるとその道を捨てて結婚を選んだ時は神様にうしろめたい思いがありましたが、結婚式の次の日に新居から外に出たときに、目の前に見える比叡山にくっきりとした半円の虹がかかっているのを見て、ふと、神様がこの道も許されておられること、この道を確かに用意され、共にいてくださると感じました。次の日曜に初めて主人の教会の礼拝に一人で出席する時も、前の教会との宗派や雰囲気の違いに戸惑いもあり不安な気持ちで向かっていましたが、行きの電車の窓から琵琶湖にかかる鮮やかな虹を通して、神様はもう一度私を励まして下さいました。

数年後、不思議な導きでアメリカに滞在することになり、そこでの3年間で神様は私のひそかな願い、神様の益になるものではなさそうなので祈りもしなかったような願いをことごとくかなえて下さいました。学生時代から憧れていたNJ日本語キリスト教会に通うこともそのうちの一つで、兄姉とのお交わりや学びもただただ楽しく、私は次第にこの神様のお計らいに何か意味や意図を見出さなくてはならないのではと思うようになりました。ただ感謝していて大丈夫だろうか、この滞在期間中にどんなことを学んで成長すべきなんだろう、などと楽しさと焦りが入り混じる日々が続きました。そんな帰国の迫るイースターの礼拝で、錦織先生がイエス様とトマスの描かれた絵を見せて下さいました。トマスを見ると自分に重ね合わせるクセのある私は、その絵の中でトマスがイエス様の十字架の傷にずっぷりと指を差し込んでいるのを見て、私の姿だと思いました。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい、と今まで導いて下さった神様は、さらに、恐ろしくも十字架の事実を聞くだけでなく十字架の刺し傷までさわらないと分からないような私に、心ゆくまでと向き合って下さっているんだ。ことばによって信じられないのならわざによって信じなさいと、私の不信仰や愛のなさ、鈍感さと傲慢さをご存じの神様は、私の成長を上からご覧になっていたのではなく身をかがめてでも私がさわれるように付き合って下さっていたのだと感じました。自分の出来のなさを受け入れていないのは自分だけで、神様はあらゆる方法で私を「信じる者」の人生へと導いて下さり、そのための必要を満たし、愛を私に分からせようとして下さっているのだと思いました。トマスがあの時告白したようにイエス様は「私の主、私の神」なのだと分かりました。

アメリカ滞在中の3年間、特に教会の兄姉のご親切や交わりを通して神様が下さった大きな恵みを、どれだけ今後の人生でお返しできるのか自信がありませんが、神様の一方的な愛をたくさん経験することができて、ただただ感謝です。感謝しつつ、きっとまた時々行きつ戻りつしながらも…、神様が用意して下さる道を神様と共にこれからも歩んでいたいと思います。

9月はアート&りんごの季節

夏休みを終え、ニューヨークの画廊も展覧会が始まりました。
デッザン用の木炭を使って、林檎を描きました。


丸くなれなれ〜と、指でこすったりして、始めての人も上手に描けましたね。
林檎の色、林檎の影、ピカっと白くぬいたら光も描けました。


右脳トレーニングは、自分のイニシャルの形を使って、建物にしたり生き物にしたり、
子供達に負けない想像力は若さの秘訣です。


ランチタイムで林檎と一緒にサンドイッチや手作りケーキ、夏休みのエピソードを語り合いました。

クロッキー教室の後は、錦織牧師のバイブルショートメッセージ。

私はいつも飛行機では眠れなくて、ストレスを感じます。
映画をいくつも見て、「ああ、まだ何時間もある」とげっそりします。
ですから、先週3泊5日で日本に行く時にも「大丈夫かなあ」と思っていました。
行きはやはり眠れなくて、映画を5本くらい見たのですが、
帰りはとてもよく眠れしました。
それは一つには空いていて、3つの席を一人で使えたからというのもあるのですが、
それ以上に、「映画の機械が壊れていて、何も見えなかったから」だったんですね。
実は「眠れないから映画を見なければいけなかった」のではなく、「映画を見てたから眠れなかった」のかもしれません。
私たち、当たり前のように与えられているものが取り去られた時に初めてわかるものもあります。
聖書の中にこのような言葉があります。
「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします。」(詩篇84篇5~6節)
人生の荒野を通る時に、私たちは「どうしてこんなことが・・・」と思うものです。
でも、神様は、そんな時にも、そこを泉の湧くところとしてくださることができるのです。
涙の谷を通り過ぎたらば、明るい未来が待っている、というのでもありません。
涙の谷のただ中を、泉湧くところとすることがおできになるのです。

September 11 祈りと共に

9月に入り、少しずつ秋の気配を感じるようになった NJ。7月8月と夏休みを頂いていたJCCカフェも今月から活動再開です。今月もお久しぶりの方、初めましての方、沢山の方々が遊びに来て下さいました。
ちょうどこの日は 9.11。18年前のこの日にNYで起きた悲劇。このようなことが繰り返されないように、私たちが憎しみに憎しみで返すのではなく、愛によって答えることができるように、またそうした世界になるように、皆さんと共に祈り賛美する時を持ちました。


今月のメニュー、北海道カップケーキwithホワイトチョコクリーム


いちごのミルクレープ、シュークリーム(カスタード、抹茶)


そばいなり


ミーティング中のスタッフ。来月以降のカフェについて作戦会議。

9.11 祈りと賛美の時
次回のカフェは10月9日です。お楽しみにー!

今日の聖書の言葉は
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭12:21