「勲(いさお)なき我を」

以前、高校生の私がどのよう救われたかについて、2018年9月の月報に「地のちりにひとしかり」と題して証しさせていただきました。今日はその後どのようにしてNYに来たかをお話しさせていただきます。

私は中学3年の時に福音に触れ、高校1年で洗礼を受けました。その後、泉州から株別れした心斎橋キリスト集会では、20名ほどの高校生が救われ、私は若い信仰の仲間たちと、バイブルサークル、ムディー映画会、バイブルキャンプと忙しい毎日を過ごし、大学生になっても、礼拝、福音集会、トラクト配布や路傍伝道など、大阪市内を忙しく駈けずり回っていました。ところが、4回生の春に信仰の大スランプ?が訪れました。

神の愛を伝えながら、人々への愛が冷めていくこと。全能の神を信じながら、人を恐れること。日本語だけで聖書は理解できるのか。ユダヤ人を知らずして、旧約の神を理解できるのか。平和な日本で信仰は成長するのか。それは自分の信仰への疑念にはじまり、やがてクリスチャン・コミュニティーのぬるま湯の中で生きてきた自分への自己嫌悪に変わりました。迷いと不安と焦りの中で私が出した答えは、ニューヨークでした。

1981年の秋、23歳の私はJFK空港に降り立ちました。所持品はダッフルバッグ2つと200ドルだけ。2年間は大学のESLで英語を学び、長期滞在を望んで永住権を申請しました。NY商工会議所の事務局長にスポンサーをお願いし、3年で永住権を取り、その後すぐ日系の証券会社へ転職を企てました。ウォール街に行けばユダヤ人と出会えると考えたからです。経済の知識も金融の経験もない私でしたが、とにかく某大手証券会社に履歴書を送付し、証券業務の知識を即席で詰め込んで、面接に望みました。

面接官は30代の某国立大学出のエリート駐在員でした。彼にとって私の履歴書はただの紙切れです。証券業務への熱意を必死でアピールしましたが、反応はいまいち。するとなぜかその場に、金色のネクタイをした体格のいい怖そうな人が現れました。新設の営業部の部長でした。私の履歴書を一瞥するや、「なんやおまえも大阪か。」そして若い面接官に向かって一言。「こいつ取ったれ。」これで採用が決まりました。

配属は新設の営業部で、日系の機関投資家へ日本株を売り込む7人の営業マンを補佐する仕事でした。株式の約定の仕組み、為替の決済方法、配当金の支払いや税金と手数料の計算など、知らないことだらけです。取り扱う金額は億単位で、毎日が緊張の連続でした。金融バブル期で朝8時から10時まで残業続きです。ユダヤ人との接触は皆無でしたが、財務分析の基本、景気指標の読み方や証券取引法など勉強になりました。

 

そんな中、1987年10月19日、株が大暴落しました。ブラックマンデー「暗黒の月曜日」と呼ばれます。NYダウ平均が508ドル下落しました。それは歴史的な暴落で、たちまち全業務が縮小され、営業部も解体されました。私は会計管理の事務に回され、そこで1年間ほど退屈な業務を強いられました。そんなある日、一本の電話がかかってきました。転職を斡旋するヘッドハンターでした。

紹介されたのは、金融システムの開発と販売を業務とする米系の会社でした。金融の自由化で、日本の銀行はリスクの高い金融商品を扱いはじめていました。それはデリバティブと呼ばれる金融派生商品で、その複雑な取引には運用管理システムが必要でした。その会社は自社の金融システムを邦銀に販売する営業を求めていました。私は英語も金融の知識も中途半端でしたが、とにかく日本語のプレゼンができるという理由で、面接後すぐに採用されました。

幹部も社員も若く、ほとんどがシステムとファイナンスの専門家でした。上司は大手銀行出身の30代後半の金髪碧眼の超イケメンの営業マンでした。ドイツ系アメリカ人らしい結果第一主義者で、ノルマを達成できない年上の部下を5人解雇しました。それでも私にはマーケティングの基礎や効果的なプレゼンの方法を丁寧に指導してくれました。この人物が、後に私の信仰の転機になろうとは思いもよりませんでした。

入社して2年間、ロンドン、パリ、フランフルト、香港、シンガポール、邦銀の海外支店を回り、出張続きの営業で多忙を極めました。そんな中、イケメン上司のお姉さんが3人の幼い子供たちを残して乳がんで亡くなりました。社員全員が葬儀に参列することになりました。葬儀会場は、見上げるような荘厳な建物でした。中央の祭壇の両端にはには大きな巻物があり、正面の壁には、なんと十字架でなく、巨大なダビデの星が刻まれていました。

それは教会堂ではなく、シナゴーグでした。上司はドイツ系ユダヤ人でした。そればかりか、参列した30名余りの社員のほとんどが、胸ポケットからヤマカを取り出して、頭に被りはじめました。開発部のマイクも、テクニカルサポートのダグも、みんなユダヤ人でした。私は2年間も、ユダヤ人の上司に指導され、ユダヤ人と仕事をし、ユダヤ人と交流していたのです。まるで狐につままれたようでした。 

その時、私が今まで抱いていたユダヤ人への神がかった憧憬が消え去りました。みことばが心に迫りました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ5:39)パウロの証言が胸をつきました。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ3:8)

自分が知るべきお方は、主イエスであったこと。渡米して10年。神さまが示してくださった単純な真理でした。私は主イエスを知る知識と知恵を求めて父なる神に祈りました。やがて、旧約聖書の霧が晴れ、新約聖書の真意が明確に示されました。私のために御子をお与えになった父なる神の愛が、そして、私のために命を捨てられた御子イエスのあわれみが、再び私の心を満たし、賛美と感謝が溢れ出ました。

いつからか、神の前に善きしもべであろうと努力し、教会の中で善き兄弟であろうと奮闘し、人の前で善きクリスチャンを演ずるあまり、はじめの愛から離れてしまった自分。自己改善と自己修養ために費やしてしまった10年間。そんな私に、主イエスは優しく語りかけてくださいました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

放蕩息子(ルカ15:11-32)を喜びの涙で抱きしめた父親のように、神さまは私を迎えてくださいました。あれから、妻が信仰を告白し、洗礼を受け、2人の子どもが与えられました。父親は最上の着物と指輪と靴と肥えた子牛を放蕩息子のために用意していました。同じように、神さまも受けるに値しない私に善きものすべてを備えておられました。この父なる神と御子イエスに、栄光と賛美が帰されますように。アーメン。

勲(いさお)なき我を、かくまで憐れみ、イエス愛し給う、み許に我ゆく。

主を待ち望む

私は、2017年9月、約2年半前に、アメリカ、ニュージャージー州での生活を終え、日本の小さな地方都市に本帰国しました。覚悟をして帰国したにも関わらず、私にとって、約20年ぶりの日本での生活は、想像以上に厳しいものとなりました。

日本社会で
アメリカと比べると、日本では、色々な価値観や常識が違うことはある程度知っていたつもりでしたが、予想していなかったのは、その違いのレベルの深さでした。アメリカでも日本でも同じだと、私が思っていた「基本的なこと」さえ共通ではなく、日本の価値観が、私が想像していた以上に違うことに次第に気づき始めました。

この違いの大きさに、ひどく戸惑いましたが、もっと大きな問題は、その違いの「理由を理解できない」ことでした。日本で見聞きする言動の背後にある「考え方」が、私には全く見当がつかなかったのです。
さらに悪いことに、誰も私に理由を説明してくれません。そのような「価値観」は、同じ社会の中で暮らしていく中で、自然と習得されるものであり、わざわざ説明することではないからかもしれません。そして、そもそも、周りの人々は、私が「違う価値観」を持っているとは思わないのだと思います。私は日本で生まれ育ち、見た目も一般的な日本人、日本語だって難なく話すことができます。私が日本の「一般的な価値観」を理解・共有することを、彼らが期待し、その前提に基づいてコミュニケーションを取るのは、当然と言えば、当然でした。

その私の「見た目」とは裏腹に、どのように、この社会が回っているのか、私にはよくわかりません。不安と緊張が途切れなく続く毎日となりました。いつ私の価値観が拒絶されるかわからないことに怯え、言葉にされない「ルール」を学ぶために、人々の言うことすることを注意深く観察し、また私に対する人々の反応の一つ一つから、私の言動が「常識」から逸脱していないかどうかを読み取るのに、私は必死になりました。この、誰にも知られることのない、孤立無援の戦いは、ずっと続きました。

こうして、人との接触が増えれば増えるほど、むしろ私の孤独感・疎外感は増していき、苦しい日々が長くなるにつれて、私はただ受け入れられたいと願うようになりました。私を受け入れてもらうためには、日本社会で「うまくやっていく」ためには、私自身の価値観を捨てなければならない。つまり私は全くの別人にならなければ、少なくとも、別人のように「ふるまわなければ」ならないのだと、私は結論づけました。でも、心に平安はやってきませんでした。無理矢理、周りに合わせても、私の中の「本当の私」とのギャップがだんだん大きくなり、心が引き裂かれるような思いで、孤独感に苦しむのと同じくらい、苦しくなるだけでした。

教会で
私のアメリカ生活において、教会は、家族が実質的にいなかった私にとって、家族のように、愛され、受け入れてもらえる、唯一の場所でした。日本で孤独にあえいでいた私は、「安心できる場所」を当然のように教会に求めました。社会の「価値観」は、社会によって違います。でも、教会は、文化や時代を超えた神様、聖書という、普遍的な価値観に基づいているのだから、社会で感じる価値観の違いによる孤独から、私を「救って」くれると思ったのです。しかし、教会でも、状況はあまり変わらないどころか、むしろ、私の期待が大きかった故に、私の痛みはより一層大きなものとなりました。

当初、「教会の違い」とは、目に見える違い、例えば礼拝や賛美のスタイルの違い、や、神学上の解釈や強調点の違いぐらいなのだろうと、私は思っていました。たしかに、それらの違いは存在します。そして、その違いは時に大きいこともあるでしょう。でも、私にとって、もっと深刻な事実は、アメリカで得た価値観が日本社会で通用しなかったのと同じように、アメリカの日本語教会で当たり前のように享受してきた多くの事が、日本の教会では「当たり前」ではなかったことでした。

私は、渡米後に救われ、アメリカの日本語教会しか知りません。私が知っているアメリカの日本語教会の「普通」が、私にとっての「教会の普通」であり、「教会とはこうあるものなのだ」と無邪気に信じていました。
日本で、いくつかの教会に通ってみて初めて、アメリカの日本語教会のあり方は、アメリカの文化や価値観、集うメンバー、与えられた使命等、教会が置かれている状況に大きく影響されており、また、それに伴い、私自身の「教会観」も同じように影響を受けているのだと気付きました。
同じように、日本にある教会も、「日本社会」の中に存在するという事実に大きく影響されていると思います。そして、私はその「日本社会」について、ほとんど知らないのです。日本での、それも小さな地方都市での、一般的な人間関係の持ち方、文化・慣習、価値観を理解できていないのはもちろん、教会の立場やその課題が何であるかも知りません。

私はだんだんと、自分の「信じていること」に自信を失っていきました。「普遍的」だと私が思っていた真実は、本当に「唯一の」真実なのか、それとも、置かれた状況によって変化すべきことなのか、私にはだんだん判断がつかなくなっていきました。
私が信じることと違うことを教会で見聞きすることがあっても、「これが日本では「普通」なのかもしれない。私にはわからないのだから、すべてを受け入れるべきだ。」と、自分に言い聞かせました。でも、教会に行くたびに、傷つき、また違和感や疑問を持つようになり、最終的には教会を去るという選択をせざるを得ませんでした。

再び歩み始める
その後、別の教会に行き始めてからしばらくした頃、私は祈り、御言葉に従い、次の二つの事を決心しました。本当に大切なものが何かを見極め、それだけを守ること、そして、あとはすべて捨てること。

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』
これらよりも重要な命令はほかにありません。」(マルコ12:29-31)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」 (マタイ16:24)

私にとっての「当たり前」がすべて奪われる中で、自分の「常識」、やり方や好みを捨てることは、必要に迫られた決断でもありました。でも、私は、自分の「居場所」を失うことへの恐れから、周りの価値観をむやみに受け入れようとしていただけでした。私自身が孤独から逃れるためでした。その結果、私は、最後まで守るべき大切なことさえも見失い、教会を出ていくことになったのです。神様はそんな私に改めて、正しい理由のために、つまり主を愛し、そして主が愛する人々を愛するために、「自分を捨てる」ことを求められました。

教会の方々を愛するために、自分なりに誠実に祈り考え、小さな事をひとつずつ淡々と行っていく中で、自分の「やり方」や「期待」を手放すこと、理解できないことだらけの中で主に委ねることを求められる時もありました。そのたびに、私は「仕える」ためにこの教会に遣わされているのだと、自分を納得させました。
ところが、日が経つにつれて、だんだんと苦しくなっていく自分に気付きます。何かのきっかけで、抑圧していた「怒り」が自分の中で爆発することもありました。「なぜ私ばかり、相手を受け入れなければならないのか?どうして誰も私の価値観を尊重してくれないのか?」
そして、その思いを私自身の内に留めることが出来ず、教会に対する批判として、表に出してしまうこともありました。私の発言は聖書的に正しかったかもしれません。でも、私が自分の本当の動機を知るのに、自分の心を深く探るまでもありませんでした。私はただ、「私のための」快適な場所へと、教会を作り変えたかっただけなのです。もっともらしいことを言いながら、行いながら、私は教会に集う方々を愛するどころか、実際には自分以外の人のことなど、気にもかけてないのだと認めざるを得ませんでした。

私が人を愛そうとする時、自分さえ気づかない、心の奥底に隠された思いが多く潜んでいることを思います。「私がクリスチャンなら、人を愛するべき」という義務感、罪悪感。「愛せない自分を許せない」というプライド。「私は正しいことをしている」という満足感、優越感。そして、「見返りとして、私が愛されたい。」という、切なる願い。フォーカスは、あくまでも「自分」であり、神様でもなければ、相手でもない、自分本位な愛です。救いようのない人がいるとしたら、まさに私のことだと思いました。
私はいったい何をしに、教会に行っているのだろうと、涙が出ました。どんなに誠実に真実に歩もうとしても、「偽り」にすぎない自分自身に疲れました。パウロが言っているとおり、私は自分でしたいと願うことさえ行うことのできない、本当にみじめな人間です。

これから
この地で、神様は私に教会を与え、こんな私を忍耐し、愛そうとしてくださる方々を与えてくださいます。それでも、正直に言うと、教会で苦しいと思うことは今もあります。私の「普通」と違う時、私の価値観を受け入れてもらえない時、心が締め付けられる思いがします。私は、「自分を捨てる」ことがどうしても出来ません。

帰国して最初の冬、クリスマスのイルミネーションどころか、夜景の光さえないような田舎道を走りながら、思い起こした詩編の一節があります。

「私のたましいは 夜回りが夜明けを
まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって
主を待ちます。」(詩編130:6)

当時、自分の置かれた状況の暗さに、私は打ちのめされていました。そして、帰国して3回目の冬を迎えた今、私自身の罪という闇の暗さに、それに対する自分の無力さに、絶望します。でも、暗闇が深ければ深いほど、私は、より一層、何にも勝って主を待ち望むこともできるのだと教えられます。
いつの日か、神様が、私の心を砕き、造り変えてくださり、「自分の思い通りにしたい」という欲望や、「自分が一番正しい」という傲慢さ、「自分の願い」を神様の御心にすり替えてしまうような愚かさ、自分の傷や悲しみへの執着、自分中心な愛から、私を解き放ち、私が軽やかに自由に、神様と、私の人生に与えられたすべての人を、イエス様が愛されたように愛することができるようにしてくださることを待ち望みます。

最後に
日本に帰国後、順調に問題なく教会生活を送っている人もいるかもしれません。それは本当に神様からの祝福です。一方で、私がそうであったように、様々な理由で教会に行けなくなってしまう帰国者もいるでしょう。でも、その試練もまた、神様からの恵みだと思います。私達それぞれの葛藤の中で、神様は銀を精錬するように、私たちを錬られ、私たちを豊かなところへと導きだしてくださる(詩編 66)と信じます。
とはいえ、決して簡単な、楽な歩みではありません。私たちの、帰国者としての孤独感・疎外感は決してなくならないかもしれません。すべてを諦めたくなる時があるかもしれません。神様への信仰が何か遠い過去の事のようにしか思えない時もあるかもしれません。でも、私達自身や状況がどのようであったとしても、神様は約束されたことを果たされる方であることを信じます。私たちの信仰を、日本でも、神様がきっと守ってくださると信じ、祈ります。

「主は すべてのわざわいからあなたを守り
あなたのたましいを守られる。
主はあなたを 行くにも帰るにも
今よりとこしえまでも守られる。」(詩編121:7-8)

2020年3月牧師室より「力の源はどこ?」

記憶にないほどの暖冬だった今年の冬。ほとんど雪が積もることもありませんでしたね。このまま春になるのかなあ、と思うと、嬉しいような、物足りないような、複雑な気持ちになりますね。しかし、今、世界の脅威になっている新型コロナウィルスの感染拡大は、この暖冬の影響で少しはましなのかもしれないと思わされています。少なくとも、気持ちがふさぎ込みそうになるこのニュースの中で、暖かさの中での春の日差しは私たちにとって大きな励ましです。

教会は2月26日のAsh Wednesdayから4月12日のイースターまで、イエスの十字架での苦しみに目を注ぎ、自らの歩みを省みて過ごすレント(Lent)の時を過ごしています。ニュージャージー日本語キリスト教会では、毎年、レントの期間中「レント集会」という名前で、学び会を持ってきました。
今年のテーマは「苦難の中でのイエスの祈り」で準備してきました。イエスは、いつも父なる神に祈り、そこで力を受けて、歩んでいました。それが力の源でした。特に、十字架への道、苦しみの道を歩んでいくときには、どれほど、それが大切であっただろうかと思います。いや、それがなかったら、どうにも耐えられなかったのではないだろうかと思います。

「祈り」というと「困ったときの神頼み」のように、「大変な時に、自分で何もしないで神に頼る」「なんだか無責任」という印象を持たれる方がおられるかもしれません。しかし、それは違います。祈りは、神様と共に過ごす時間、神様から力をもらう時です。祈りによって、神様から力を頂いて、私たちは勇気をもって、問題に取り組んでいくことができるのです。神様の導きをいただいて、前進していくことができるのです。少なくともイエスはそうでした。そして、イエスは、私たちを、同じように神様から力を頂いて歩んでいくための祈りに招いておられます。この世界を襲っている困難の中で、私たちは「困った時の神頼み」のためにではなく、神様から力を頂いて立ち上がるために、祈ろうではありませんか。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:6-7)

今年のレント集会は、残念ながら、この新型コロナウィルスの感染拡大の懸念から中止になりました。しかし、もともと学んでいく予定だったことを、このページに1週間に1回アップしていきます。ぜひ、ご訪問ください。共に聖書に聞き、共に祈っていきましょう。
http://njotenki.blogspot.com