4月のカフェは春爛漫

長い冬が終わり、NJにも春がやって来ました!今月のカフェは春爛漫。
赤ちゃんから大人まで集い、笑顔の絶えない楽しいかひと時となりました。
今月のカフェはイースター仕様。さりげなくディスプレイされた卵。何個見つけられたかな?


紫いものクリームシフォンケーキ、ごま抹茶シュークリーム、ピーチフラワーチーズケーキ、紅茶のパンナコッタ


鮭の押し寿司


桜も満開!


今月も気合十分のコーヒーマスター

今日の聖書の言葉は「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、
さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」イザヤ書35:1-2

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来月のカフェは5月8日です。お楽しみに!

丸と卵が描けたら、顔は簡単だ!

丸を描き、十文字のラインを描いてみましょう。
そのラインを基準に目や鼻の位置が決まります。
卵に顔を描いて、色々な角度から描いてみましょう。
人の顔も、まず卵を描いてから十文字のラインを描くと、立体的になりますね。
チューリップとモデルさん。
今日は皆さん顔がしっかり描けましたね。
クロッキー教室の後は、錦織牧師のバイブルショートメッセージ。
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春になって、枯れていたような枝から花や葉っぱが出てきましたね。
枯れたように見えていた枝も生きていたんだなあ、ということを感じました。
イエスは最後の晩餐の中で、こんな話をしました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)
どんな立派な枝でも幹につながっていないと枯れてしまいます。
反対にどんなに細い枝でも、幹につながっているならば、生きています。
イエスにつながって、そこから命をもらって生きていく、そこに私たちは招かれているのです。
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次回は、4月17日水曜日です!

牧師室より2019年4月号「いのちの勝利」

先月の月報で「今年は雪が少ないですねえ」と書いたとたんに雪が降って、その後も肌寒い日が続きました。私は庭に最初に咲くクロッカスの花で春の訪れを感じるのですが、一昨年は3月1日に、昨年は3月15日に咲いた花が、今年は3月26日にやっと開花。いよいよ春だな、と心から感じます。

そして、春の訪れを告げるお祭り、イースター。今年はこのイースターも4月21日と、いつもより遅いです。それはイースターが「春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日」と決められているからです。今年は春分の日の翌日が満月だったので、次の満月は4月19日。その次の日曜日ということで4月21日となるわけです。

いつお祝いするかよりも大切なのが、その意味。イースターはイエスが十字架にかけられた後、三日目によみがえられたことをお祝いする日です。ですから、イースターのメッセージは「死に対するいのちの勝利」です。私たちすべての者がいつかは迎えなければならない死。その前には私たちは全く無力であり、そこに佇むことしかできません。ある人は、「人間は生まれた瞬間から死に向かって生きているのだ」というようなことを言うほどです。しかし、イエスはその死を打ち破ってよみがえってくださったのです。

それにはいくつかの意味があります。

まず第一に、イエスを復活させた神の力が今も私たちのうちに注がれているのだ、ということです。人類最大の敵、最後の敵である死を打ち破る力が、この世の中で、いろいろな悩みや困難の中を通っていく私たちのうちに注がれている、それはなんと心強いことでしょうか?どんなに大きな問題だとしても、この死の問題よりも大きな問題はありません。その一番の問題を打ち破った神の力は、私たちの人生の問題に、勝利を与えてくださるのです。

第二に、死の意味が変わってしまったということです。死はもはや無敵ではありません。絶対のものではなくなってしまったのです。恐れる必要は無くなってしまったのです。神はイエスによって永遠の命を約束してくださって、私たちを永遠の世界に迎えてくださるのです。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント15:55)

まるで死んでしまっていたかのようだった木々も芽を吹いていのちのあふれる春。イースターはこの自然界と一緒に、私たちも、イエスによって死の問題に勝利することができることを告げるのです。

今年のイースター、子どものためのJOYJOYイースターは4/7の午後3時半から。イースター礼拝と愛餐会(どなたでも歓迎の食事会)は4/21の午後1時半から。お待ちしています。

「神の業が現れるため」(ヨハネ9-3)

3月17日はセントパトリックデーでした。今まで「アイルランドのお祭り」と、あまり気に留めていませんでしたが、4世紀末から5世紀にかけて働かれたパトリック宣教師の辛い少年期を知りました。そして彼が残した言葉に目が止まりました。
Christ beside me.  Christ before me.  Christ behind me.  Christ within me.
Christ beneath me.  Christ above me. (St. Patrick)

目の前が真っ暗になったあの日から、全く変わってしまった状況の中に封じ込められてもがく中で 、神の存在を喪ったかの様な時にも、パトリック宣教師の言われるように、確かに私を支える存在は、一番近くで囲み守り抱えてくださって、深い慰めを持って立ち上がらせて下さろうとしておられたと、その足跡を振り返る毎に感謝に溢れます。

2017年後半、私達は多くの友人を天に送る不思議な年でした。12年間病と闘い続けた親友を含め10人の友を失いました。しかし最後に健康な主人が召されるなど?思いもしない事でした。「私達は明日のことはわからないのです。」(ヤコブ4:14)の通りです。

11月15日、どの位心臓マッサージが続けられたのでしょう? 救急医の「残念ですが。。」と言う声に、映画のシーンを見ている様な錯覚を覚え、主人の死に一人直面しました。まるで 生きている様な顔に思わず声をかけていました。「ね〜Aki」—–?     当たり前ですが、
返事が返ってこない、静けさの中に涙も出ずに立ちつくしていました。
主人が横たわるベッドと私の間の距離は僅かなものなのに、でもそこは全く声の届かない断絶の隙間でした。取り返すことのできない真っ暗闇「死」の壁がありました。
ヘンリー・ナウエンの慰めの手紙の中には、「死は私達のコントロールや影響が及ぶ領域から完全に外れたところにある。死は決定的な終わり、見たこともない終止符、完全な破壊。」と書かれていますが、そんな壁の前に立たされました。

「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっている」(ヘブル9:27)
神の言葉が迫りました。  これが? 神の言われる、全ての人間が迎える「肉の死」なのですか?   元気だった主人が突然迎えた命の終わりという現実を突きつけられて、答えを求めるようにつぶやきました。
全く聖い神の前に立つことが出来る人はいるだろうか?
裁きの前に、この世での多くの立派な働き、功績や財産などは何の力もないのでは無いか?

その時、十字架にかかられて血潮で真っ赤になったイエス・キリストの姿が、リアルに目の前に何度も迫って来ました。イエス様、わたしたちでなく、なぜ聖いあなたが、罪のないあなたが? 人間が掛かるべき十字架にかかられたのですか? 何故そこまでしてくださったのですか?言葉で表現出来ない程の重みを持って、十字架のあがないのすごさを受け取りました。

「私を通してでなければ、だれひとり神のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)
突然の主人の死でしたが、この一方的な御愛を信じ受け止めていた主人が、ただ恵みによって神のもとへ帰って行ったことをハッキリと感じました。      聖なる神の前に立つ時も、
このイエスご自身が執り成して下さる方であることも。
🎶 
ああ感謝せん〜  、ああ感謝せん〜 🎶 不思議に静かに賛美が心に響き始め、
断絶の闇だと思っていた死の絶望の中に、希望の光が圧倒的な力で迫り覆いました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4~5)

十字架にかかられて死に、3日後に復活された主、死に勝利された方の約束が響きます。
「私は蘇りです命です。私を信じる者は死んでも生きる、あなたはこれを信じるか」
「これを信じるか?」 はい信じていました、でも今はっきりとわかりました。
主人からの別れの言葉はありませんが、この約束が残された言葉であると感謝します。

召天から1年5ヶ月。 彼は最高の場所に帰ったことが段々とクリアに信じられるようになりましたが、当初、主人に頼りきっていた私は、空虚さ喪失感から抜けきれない毎日が続き、眠れず、運転も出来ず、聖書も読めず、祈れない、ただひたすら主の憐れみの中に弱さを留める時間でした。主人に何回か「アメリカで、貴方が居なくなったらどうするの」と聞いたことがありました。主人の答えは何時も「イエス様がいるから心配ない」でした。
全てを主にお委ねする状況に追いやられました。

「主の祈り」が私の祈りとなりました。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」!
寂しくなると、「Pray」という賛美を主に叫ぶように歌いました。
In time of sorrow, season of pain.
When all seems hopeless
One thing Remains
➖Our God is Faithful
His word is true, He said call on his name
And He will answer you.  Pray
!  Pray!
He has promised He will answer when you pray
Jesus is answer when you pray

詩篇を声を出して読みました➖「私のうちで、思い煩いが増す時に、あなたの慰めが、私の魂を喜ばせてくださいます様に。」詩篇94:19
「我が助けは天と地を造られた、主から来る」(詩篇121) ➖強められて行きました。

11/18=ハワイでお葬式。3/24 =主人の誕生日にNJでの記念会。5/30=日本の大和カルバリー教会での召天記念礼拝、沢山の皆様のお祈りとサポートによって無事に終えることが出来たことを感謝いたします。主人の死を知らせた時、父親っ子だった娘はどんなに辛かった事かと思いますが、あれからズーと私を支え続けてくれています。ありがとう!
「私は私を強くして下さる方によって」又歩み出しました。 お祈り有難うございます。
主人は「神の栄光の中で」、私はこの世で「神の業が現れるために」生きて行きます。
聖霊様どうぞ宜しくお願いします。   

『砕かれた心』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マルコによる福音書14章:66-72節

序)

  • ペテロは教会の最初の指導者。
  • その指導者の話は、失敗ばかり。
  • 4つの福音書に出てくるのは、このペテロの否認の話
  • どうして、最初の指導者、信仰の大先生の失敗の話をこんなにするのか
    →私たちの信仰の出発点があるから。大切な信仰の本質
  • →自分の努力の限界、弱さを知らされて、砕かれて、神を頼る。
  1. 自分の力で失敗したペテロ
  • ペテロの決意(マルコ14:27-31)
  • 女中のことば・・・正式な裁判だったら?
  • どうして、ペテロはイエスを否定したのか?・・・人間の弱さ。
  • 自分は大丈夫だと思っている人こそ危ない、と聖書は繰り返し述べる
  • コリント第一8:2「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」
  • コリント第一10:12「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
  1. 砕かれて用いられたペテロ
  • ペテロは泣いた・・・ペテロが生まれ変わる出発点。
  • 自分の弱さを思い知らされた。そこに神の力が注がれた。
  • ペンテコステの日のペテロ「あなた方がイエスを十字架につけたのだ」
  • 使徒行伝4章では大胆にイエスの救いを語った。8-12節、18-20節。
  • ペテロの殉教

<テイクアウトQuestion>

  1. 聖書はどうして、最初の教会の指導者であったペテロの失敗する姿を何度も書いているのでしょうか?
  2. この世では自分の力で生きることの大切さが語られることが多いです。どうして、自分の力で生きていくことに問題があるのでしょうか?
  3. どうして砕かれた人は神に用いられることができるのでしょうか?
  4. あなた自身が砕かれた経験がありますか?どんな経験だったでしょうか?

積み木の輪郭、遠近法の風景画

積み木の輪郭線だけ見てどんな形の積み木かわかりますか?
2つ組み合わせると少し難しいですね。


遠近法は難しくありません、遠くの物は小さくて手前の物は大きく見えるだけ。


サイコロも描いてみましょう。
立方体が自然に見えますか?


手前の家は大きくて、遠くの家は小さくなります。
風景画もこの規則だけを意識していると、どんどん世界が広がりますね。


シャツの襟元をきっちり描いてみましょう。
モデルさん、初挑戦お疲れ様です。

クロッキー教室のあとは錦織先生によるショートバイブルメッセージ。
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前回から始まったイエスの十字架への道をたどる話、2回目の今日は、「最後の晩餐」。
最後の晩餐といえば、レオナルド・ダ・ビンチの絵が有名ですが、あの絵はイエスが「あなた方の中に私を裏切るものがいる」と言われたときの弟子たちの動揺を描いた絵です。今日はもう一つ、イエスが弟子達に語った言葉に目を留めましょう。
「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ22:34)
ペテロはそんなことを言われて、訳がわかりませんでした。「どこまでもついていきます!」と誓うのです。
しかし、ペテロは自分の弱さを知りませんでした。聖書は繰り返し、「自分は大丈夫だ」と思っている時、自分の弱さに気がついてない時ほど危ういと語っています。そして、ペテロは自分の弱さを思い知らされるのですが、その弱さを思い知らされた時こそ、神様の力をいただいて、強くなるチャンスなのです。
私たちもそうです。自分の弱さを知りましょう。そして、そこに注がれる神様の力を経験させていただきましょう。
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4月のクロッキー教室は、
3日&17日、水曜日です!

『足を洗うイエス』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章1節〜15節

 

  • 最後の晩餐・・・大切な人たちと、大切な話をする。
  • イエスが足を洗われたことは、イエスの愛の現れ。
  1. 弟子たちに仕えたイエス
  • 当時の社会の中で、足を洗うのは奴隷の仕事。
  • ここには奴隷がいなかった。誰が?互いに一番格下の存在を探した。
  • イエスは自分が立って、弟子たちの足を洗われた。
  • イエスは言われた。「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。
  • 今で言うならば、どういうこと?
  • 教会でいうならばどういうこと?
  • 注目されることでもなく、感謝されることでもなく、互いに「誰かやってくれるといいけど」ということ・・・。
  1. 弟子たちの足を洗われたイエス
  • 6-11節のペテロとイエスのやりとり
  • イエスの十字架は、私たちの罪を洗い流すことを象徴的に表していた。
  • 「もしも、私が洗わなければ、あなたは私となんの関わりもなくなる」
  • 「私の足は洗わないでください」・・・自分でやります?
  • それと同じことを私たちは神様に対してしていないだろうか?
    一生懸命自分で準備をして、「さあ、イエス様を受けいれます」と。
  • イエスは今も、私たちにそのままの心で来るようにと招かれている。
  • 洗うのはイエス様。自分の力できれいにするのではない。
  • 一番隠しておきたい、一番恥ずかしいと思うところをイエスに差し出すこと。

<テイクアウトQuestion>

  1. 人々の足を洗う、ということは、今の時代に当てはめるとどんなことになると思いますか?
  2. 教会で「互いに足を洗い合う」とは具体的にどんなことが考えられるでしょうか?あなたは何ができるでしょうか?
  3. あなたはイエスに、「自分の足を洗ってもらう」経験をしたことがありますか?どんな経験でしょうか?