牧師室より2019年11月「どこに焦点をあてて生きるか?」

「自分も!」と共感してくださる皆さんがたくさんいることを信じて書くのですが、私はよく物を探します。出かけ間際には、お出かけ3点セット(財布、携帯、鍵)をしょっちゅう探して、歩き回っているので、家族には呆れられています。どうしようかとずっと悩んでいたのですが、何ヶ月か前に、この問題を解決しようと、携帯から呼び出せるタグを鍵と財布につけました。反対に携帯が見つからない時には、何とタグの方から携帯を呼び出せる「スグレモノ」です。これで、合計何時間もの時間が節約できています。でも、なぜか、何度も探したところや、自分の立っている目の前でタグが鳴ったりするんですね。不思議なものです。

でも、見えているのに見ていない、ということでしょうか?目には入っているのに、焦点が合っていないということでしょうか?人間はそのようにできているのだと思います。考えてみると耳もそうですよね。目の前の人の声よりも、遠くで自分の噂をされている声の方がよく聞こえるものです。どこに焦点を合わせるかによって、見えるもの、聞こえるものが変わってきます。

私たちの心もそうです。どこに焦点を合わせるかで、感じることが変わってきますし、心の状態も変わってきます。聖書はこのように語っています。

「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ人への手紙 4章8節

私も「もう11月になるなあ、サンクスギビングがやってくるけれど、何を感謝しようかなあ」と感謝すべきことに目を向けた時に、「あ、そういえば、あんなことがあった」「こんなことがあった」といろんなことを思い出してきました。残念なことに、それは自然にはなかなかできないことです。つい、納得いかないことや、困ったこと、がっかりすることや、心配なことに心が向いて、それに心が支配されてしまうものです。そんな時には、上の聖書の言葉の直前にこんな言葉があります。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙 4章6~7節

ひととき静まって、心の焦点を合わせ直しませんか?愛すべきこと、感謝すべきこと、喜ぶべきこと、そこに焦点をあてて、感謝しつつ、歩んでいきましょう。

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