「ホノコン ’06」

私は今年の夏、姉と2人でJCFNの15周年記念ホノルル・コンファレンスに行きました。私はどうしてもハワイに行きたかったんです。私にとってハワイは世界で一番好きな場所で今年の夏もハワイのビーチへ旅行したいと思っていました。あの爽やかな海風、暖かい気候、綺麗な海と素敵な風景はこの地上でハワイしか持ってない特徴だからこそ行きたくてしょうがなかったんです。そういう理由で私は、ホノコン(以下ホノルル・コンファレンスの略)に参加したのですが、神様は違う目的で私をハワイに送ったのです。では、ホノコンで何が起こったのかを書きたいと思います。

今年のホノコンのテーマは「You Gotta Paddle! Can’t You See It? ~主の波はもう来ている~」でした。そこで気がついたのですが、実は皆私の周りの友達はこの「~主の波はもう来ている~」に気付き、洗礼を受け、Strong Christianになっていたのですが、なぜ私だけがいつも置いてけぼりになっていたのか悩んでいました。でも考えてみると私ももうとっくに神様を信じてました。それは赤ちゃんの頃から教会で育ったような環境だったからかもしれませんが、「神様が私のためにイェス様を地上に送り、私の罪のために十字架につけられ、よみがえったからこそ私の罪は赦された」は100%信じていました。小さい頃から何か問題があれば神様に祈り、彼はいつも絶対に私の横にいる事を学んできたからいつも何かが起こったら神様に頼っていたんです。「…じゃあ、なんでまだ洗礼を受けてないの」の疑問にいつもたどり着きました。それがホノコン、そしてそこで出会った皆のお蔭で解決できたのでした。

私がホノコンに行きたかった No.1 の理由はハワイでした。別に信仰を深める目的もなかったし、何を期待するかも知りませんでした。でも、そこで歌った意味深い賛美のせいか、先生方の説教が本当に心に突き刺さったせいか、特別に最高だった Small Group で分かち合った時間のせいか、いつの間にか毎回賛美を歌った時や話し合った時、私の目はいつもウルウルしてて、涙が止まりませんでした。神様の十字架の愛、そして感謝の気持が溢れて、初めて賛美の意味が心に突き刺さって来た気分でした。

この気持の変化はDay2 の Small Group の ディスカッションからです。一体そのディスカッションで何が起こったかというと、荒井牧師が教えてくれたことです。Small Group の皆に私が持っていた悩みを相談したら、荒井牧師がニコッと笑って「レナさん、あなたは一人じゃないんですよ。本当の事を言うと、幼い頃から教会に行ってた人の方が洗礼を受けるのが遅いんですよ。それは、そうゆう人は神様に初めて出合って人生が全く変わった、すごい証をする人じゃなくて、何気なく信じているみたいだからからです。レナさんはもうすでに救われています。レナさんが波に乗りたい気持、ちょっと考えてみなさい。もう Paddle していると思いますよ。レナさんはもうすでに波に乗っていますから、あなたが言ってた洗礼への道、もう歩んでいますよ。これからは同じく神を信じ、洗礼を受けるだけですよ。もうクリスチャンなんですから。」と話してくれました。だけど私はまだ足りない気分を持っていたら、同じグループだった下部ゆうこさんがこう言ってくれました「もしかしてレナちゃん、何かが起こるのを待っているんじゃないかな。ちょっとしたアドヴァイスね:自分で波を作らなくていいんだよ。自分で作っても、神様の波の方が全然大きくて素晴らしいんだよ。『私はこんなすごい事が起こってクリスチャンになったんだ。人生、180度回転しました。』みたいな証できる事を待っているんじゃないかな。そんなのいいんだよ。最終的には皆で波を Surf できる事が一番重要なんだよ。だから自分の力で何かを作ろう!と思ってないで、レナちゃんを乗せようとしている神様が特別作ってくれた波を皆で Paddle すればいいんじゃないかな。」その一言で私が何かすごい事が起こるのを待っているのに気付き、そして人生を変えてくれるような出来事なんか必要じゃない事に始めて気付きました。

それから次の日賛美していた時、ただ歌ったんじゃなく、本当に歌詞を味わって初めて神様への「賛美」をしました。その日の一つの賛美は:

「主は導きをもって私をここまで支えられた
主の十字架の後をただついていきます
あなたのみかお見つめて みこえをたよりにして
みあしのあとをついていかせてください 愛する主よ」

でした。そして、やっぱり神様一番! と思いながら人生を振り返ってみました。本当に一歩一歩イェス様が共に歩んできてくれた事、そして今まで神様がすごく人生を祝福してくれた事に感謝でした。神様は頼れるお方でずっと気付いてなかったけど、いつも支えてくれていた事を賛美し、ホノコンで出会った皆の事を考えました。「こんなに暖かくて明るい皆に恵まれて、神様ありがとう!笑顔で本当に人生を無駄にしてない、楽しそうに毎日生きてる皆…神様の力はすごい!私も皆みたいに人生を生きて、神様の後をついていきたいな」と思いました。

それから Small Group の皆にその燃えていた気持を告白し、洗礼を受けたい事を分かち合いました。皆は感激してくれて、本当に支えられている気分でした。その時から神様が私の事を愛してくださって、愛してくれる人たちに囲まわれている事を本当に感じて、喜びで溢れて、スマイルが顔から離れませんでした。

次の夜、ホノコンの最後の夜、友達四人で徹夜しました。ゲームを遊び、話し合っていたら、もう日が出る時間になりました。その朝日が言葉で表せないぐらい綺麗で、やっぱり神様すごい!こんな素晴らしい地球を造ってくださったすごいお方だ!とまたまたおもいました。そしてその朝日を見ていた食堂の屋上で四人で賛美をし、最後のホノコンのお日様を迎えました。

そして帰りの日。ホノルルのアラモアナビーチで BBQ Party を持ちました。野外礼拝をして、皆でお昼ご飯を食べて、2,3人証しました。ビーチで遊び、とうとうお別れの時になりました。親しくなった皆にお礼とあいさつをして送迎のヴァンに乗りました。飛行場へ着いて、ハワイにお別れして、この洗礼を受けたい燃えている気持だけを持ってニュージャージーに帰って来ました。

その帰って来たその日に錦織先生、そして教会学校の中高科の立石先生と鬼頭先生にメールを書いて、洗礼を受ける決心の事を伝えました。先生三人とも私の気持をサポートしてくれて、一ヶ月後に洗礼を受けることができました。

教会、そして、私を励ましてくれた皆様、いつも祈って私の事を覚えていてくれてありがとうございます。どうかこれからのクリスチャンとしての歩みも支えてください。本当に教会を通して出会った皆様が応援してくれていた事に感謝しています。

月報2006年9月号より

「神様の恵みを受けて」

7月16日。私達夫婦の渡米2年目に家庭崩壊寸前の状態から夫婦揃って洗礼式を迎えるまでに至った経緯を「証し」としてお話ししたいと思います。

私達夫婦が3人の子供と渡米したのは、2004年7月、夫の2年間の留学のためでした。突然の留学話。2年間自費留学するための資金は無かったものの留学のためより『家族再生』のため、(何でもいい、今の状況が変るなら!)と生命保険や学資保険を解約し、売れるものは全て売り払い、どうにかこうにか渡米準備完了。荷物は5人家族で段ボール箱4つとスーツケース2つ、犬一頭が全てでした。
友人も知人もいない初めてのアメリカでの生活を思うと不安と寂しさ、心細さで一杯。でも一方で『家族再生!』をスローガンに「家族で過ごす時間さえ有れば何とかなる」と、期待も一杯でした。

――娘が1歳過ぎた頃、夫の転勤で大学病院勤務に戻ると、夫は帰宅が週に2日の激務になりました。そして、娘が1歳半のときに2番目の子供を妊娠。単身赴任の様な状況で、まだオムツも取れていない上の子を抱えて2回目の出産を迎えるのかと思うと、嬉しさよりもまず不安でした。漠然と親の援助を期待する事などを考えて行った2回目の検診で、実は2番目の子供だけでなく3番目も妊娠している事が分かり、嬉しいのか不安なのか、もう何が何だか分からず頭の中が真っ白な状態で娘と帰宅しました。上の子の妊娠時とは比べものにならない勢いで、みるみる膨らんでくるお腹に不安を感じていた頃、ある人に「双子を授かる人は神様に選ばれた人なのよ、」と言われ、私にとってはその後、子育てで辛い時いつも思い出し、心の支えになる言葉でした。幸い経過は順調で管理入院のため3ヶ月入院したものの、予定日の2日前に出産、しっかり一人分ずつの体重で生まれてくれたお陰で4日目には退院できました。しかし、自宅に戻ると私一人の先の見えない育児の始まりでした。2歳2ヶ月の娘と双子の乳児の世話で母乳も1ヶ月で止り、毎晩1、2時間おきの授乳で昼夜逆転、心身共に疲れ時々はっと、気付くとオムツを替える時も沐浴させている時も無表情で無言の自分。かわいい盛りの娘と生まれたての赤ちゃんの成長をゆっくり見る事の出来ない仕事に追われる夫も気の毒なはずでした。でも、(望んで産んだのに。)(私だけの子供じゃないのに。)そんな思いばかりが心を埋め尽くしていました。

双子の誕生から4ヶ月後、実家の父が脳内出血で倒れ、週に一度来てくれていた母の手助けが無くなりました。一命は取り留めたものの、それ以降約2年間続く父の入院では、娘として何も力になってあげられず申し分けない気持ちと裏腹に、いつも思いやってくれる母に対し、「たまには、手伝いに来てよ。病院に居るお父さんには看護婦さんやヘルパーさんがいるけど、私にはお母さん以外、誰も頼る人がいないのよ!」と、母に暴言として吐いた時、『夫と子育て』という意識は完全に消えていました。母との子供ではないのにおかしな話です。娘は放ったらかし状態になる事が多く、それに比例するように愛情の飢えも強く感じられる様になりました。息子達も日増しに活発になり、気分転換で公園に行っても四方に散らばる子供達を追いかけに行くだけで、ストレス解消どころか逆に疲れ、次第に引きこもり親子になっていきました。(一人になりたい!せめて3時間続けて眠りたい!)そう思うばかりで、娘に抱っこをせがまれても、すでにその気力は残っていませんでした。その頃の娘の「ママー!だっこだよぉ!」と泣く声は今でも耳から離れません。と、同時に(子供より自分の方が大事なんじゃないか)という疑問がいつも着いて回り、息子達の言葉の遅れも気になり始め、“無言育児”を思い出し、苦しみました。(このまま、こんな母親に育てられる子供達は、一体どんな子になってしまうのだろう、夫の知らない間に子供達は成長を続け、分かち合う思い出もなく思春期になった頃に、父と子の会話、夫婦の会話なんて出来るんだろうか。。。)と思うとどうしようもなく不安になり、焦り、その気持ちを話したい夫は居ないという状況で、一点の光も見いだせない暗い穴の中に居る様でした。夫も相変わらず多忙を極め、お互い日々、自分のやらなければいけない事で精一杯。お互いを労り合うなんてとても考えられない状況が続いた、そんな時に舞い込んだ留学話だったので、一も二もなく飛びついたのでした。

しかし渡米3ヶ月後、元来、前向きで自信に満ちあふれていた夫が一変しました。
この時娘は6歳、「このあいだ産まれたはずの赤ちゃん達」もいつの間にか4歳になっており、夫にとってほぼ“初めての子育て”は“初めて思いどおりに行かない対象”だった様です。“初めて”の事は他にも、子育てを通して“初めて向き合う自分の感情”にも戸惑い、“初めて心底向き合った夫婦問題”、“初めての慣れない環境と言葉”、これらの“初めて”によるストレスから体も心も荒んでいきました。常に体調が優れず、気持ちはマイナス思考、自己否定モードに入ってしまった夫。子供達は次第に夫を恐れる様になり、私自身もそんな夫の姿を初めて目の当たりにし、パートナーとして何もしてあげられない無力感と、夫自身のこの問題を(彼は乗り越えられるんだろうか?)という不安。ようやく一人ぼっちの子育てから解放されるはずだったどころか、夫と子供の仲介役。(なぜ?)(どうして?)(どうすればいいの?)の繰り返しでした。実はその過程は、私達の『家族再生』のために不可欠だった通るべき道で、神様が用意して下さっていた試練であった事はまだ知る由もなく、実際はすでに家族再生のために前進していたのに「家族再生はどうしたの?!」と、夫を責めました。(こんな状態になるために渡米したんじゃない!)と。それだけでなく、息子達の言葉の遅れや、型にはまらない二人は学校で問題児に。今まで見ない振りをしてきた小さな心配事が、後から後から大波になって押し寄せて来る様に感じていた時、小さな出会いがありました。

このアメリカ留学自体が、我が家にとっては長期旅行と決め込んでいたので旅行も観光も無し。同じ週末の繰り返しに煮詰まりつつあった渡米1年後のある日、
犬の散歩で大清水姉(*)と出会ったことがきっかけで、JOYJOYキッズクラブや日本語教会に、気が向いたときだけ行く様になりました。錦織先生のメッセージや中高生の面倒見の良さに触れ、(自己否定どっぷりの夫のために!)(子供達に隣人愛を!)という私の勝手な理由で行っていたものの、実は、夫や子供達を変えようとばかりしていた私へのメッセージだった事に気付いたのです。私自身の今までの傲慢な気持ちを神様はずっと見透かしていらしたのだ、と思うと恥ずかしく情けない気持ちでした。そして、何度となく聞いていた「人は生まれながらの罪人」ということばも、次第にその意味が自分のものとして実感する様になりました。確かに“何かモにすがりたい気持ちでいました。(信仰を持てたら楽になれるんだろうなぁ、)と。しかし、私も夫も多くの日本人の様に無宗教に近い環境で育ったため、信仰を持つという事に今ひとつ、積極的にはなれませんでした。しかし、錦織先生のメッセージ、教会の方との交流を通して自然な気持ちで神様、イエス様の深い愛に触れ、(聖書の事、神様の事をもっと知りたい!)という気持ちになり、バイブルスタディを始めて1ヶ月程経った頃、息子達の緊急入院がありました。親としての至らなさ、バイブルスタディも自分が救われる事ばかり考えているんじゃないか、と子供達に申し訳ない気持ちと自分を責める気持ちでいっぱいでした。そんな中、私や私達家族のために、お礼拝で教会の皆さんがお祈りして下さったそうです。以前から私達家族のために祈って下さって、私の学びを導きサポートして下さっていた小林葉子姉(*)、錦織先生ご夫妻の熱いお祈り、全てが私にとって衝撃的でした。私が神様の愛を実感するという事は、こうしてクリスチャンの方を通して実感出来たのです。

今思えば、双子を授かったのは「子供は3人欲しい、」と願っていたわたしがもしあの時、双子でなかったら夫の激務が続く中、3人目は望まなかったでしょう。私達が『家族再生』の為にアメリカに来たのも、私達が選んだのではなく、私達が知る前から、神様が全てを備えておいて下さった事を強く感じずにはいられない事ばかりです。日本から犬を連れて来るのにバックヤードにはフェンスが必須でした。
百件ほど見て語学力に自信の無い私達の借りたフェンス付きの家は、日本語ペラペラの大家さん。日本人なんて誰もいないだろうと思っていた娘の学校には同じクラスに日本人の女の子。しかも歩いて2分のお家。この方達には学校の事から犬、前述の息子達の入院など本当にお世話になってます。そして、どん底状態だった私達のために神様は、近くに教会や一緒に苦しみを分かち合ってくれる教会の方達まで用意しておいてくださったのです。まるで、「不自由しない様に色々揃えてあるから、とにかくいらっしゃい。」と。それでも神様を信じずに、「私がなんとかしなくちゃ、」という傲慢な心を悔い改めずにイエス様を救い主として受け入れない理由は、もうどこにもありませんでした。

私の少し後から夫も学びのときを持ち、私達の長女として、いっぺんに双子の弟の姉として我慢を強いられる事ばかりだった娘の8回目の誕生日に、私達夫婦も洗礼の恵みに預かる事ができました。本当に感謝です。もう一人で、夫婦で悩む必要も無く、それどころか祈りの先輩、祈りの友、まで与えられ聖書やメッセージを通して神様からのラブレターをいただき、どんな時も希望を持っていけるのです。
本当に感謝です。。。

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。』 第一コリント10:13

(*) 教会では、キリストのもとに互いに兄弟姉妹、という気持ちで、お互いのことを「~兄」「~姉」と呼ぶことがあります。

月報2006年8月号より

「イエス様の命と私たち」

僕らクリスチャンは、「私はイエスに愛されている」とか「キリストは罪びとのために死なれた」というようなことは「知って」いる。僕らはこのような言葉を数え切れないほど耳にしてきたが、しかし、「慣れ」というほこりが、これら素朴な真理を鈍らせることがある。こんなほこりを払い落として、神様の愛をもう一度新たに考えるべきである。

何度も何度も人生の道を歩いている私達なら、あたる壁。それは、「慣れ」である。人と人の関係の上で。神様と僕の関係の上で。常に「慣れ」というのは生じるものであってしまう。

ここで「慣れ」とは一体どのようなことかを下記のトピックをあげて考えたい。

Examination

問1:イエス・キリストを信じているのか

あなたは、イエス・キリストを信じていますか。クリスチャンであれば、もちろん答えは「はい」でしょう。実際、イエス・キリストが十字架にかかって、死んでくださった。それは、私たちの罪を赦すためである。わかりきっている事実である。しかし、信じているとしても素直に愛しているだろうか。本当に好きな人のためにはなんだってできる。しかし、私は、神様のために全力を尽くしているのだろうか。まさに、命の恩人。そんな神のために具体的に何をしているだろうか。疑問符がついてしまうことがある。

問2:命を捨てる準備はできているのか。

明日、地球は滅びます。あなたは、その日に死ねるか。「もちろん」イエス様を信じているのだから当然天国にいけるから準備はできている。
果たして、そんなに簡単に命を捨てられると言えるのだろうか。なにかやり残していないだろうか。
私たちは、事故を起こす電車の中で、非常口を知っている者だ。だが、その非常口のありかを誰にも「伝道」しないでいないだろうか。あなたが伝道していない友達はみんな、事故の中で亡くなってしまうのだろうか。
伝道をあまりしていない僕としての答えは、「いいえ」だ。まだ時間が必要だ。
焦らずとも、怠けずやり遂げたいことである。

問3:本当の愛とはなんだろう。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私はこう考えました。また、キリストが全ての人のために死んだ以上、全ての人が死んだのです。また。キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」 コリント人への手紙第二5章14~15節
イエスは、罪の色に染まりきった人間を十字架にかかって死ぬことで赦した。それはわたしたちに見せてくれた最大の愛であったと信じている。
では、なぜ人間は恋愛ができるのだろうか。神様の愛を実感できる今、自分の立場から他の人を好きになることは必要なのだろうか。必要であるのだろう。あるクリスチャンの雑誌にはこう書かれている
「異性との関係は、そこから何かを受けるためではなく、与えるためのものとなる。クリスチャンにとってすべての人間関係は、神が僕たちを愛してくださったように他の人を愛するための機会なんだ。」
私たちは神が私たちを愛してくださったのと同じ経験を私たちにさせてくださっているのである。それは、けして私たちが「きもちがいい」という経験をするためではないのである。

世間がそうだから。まわりの環境がそうだからと言って、慣れてしまっていることはないだろうか。伝道をしているなんてかっこ悪く見られるから。みんなやってないのだから、あとでいいや。世間は、恋愛なんて気持ちがよければいいと思っているから。そのような環境にいたらその色に染まってしまうのも当然のことであろう。だが、クリスチャンならば、そうならないことは容易のはずだ。ただ、「困難」に「慣れ」ているのだ。
大変なことではない。
バスケットボールでも同じことが言えるが、「感銘を受けた。」「生きがい。」と思いながら、練習するバスケットと、「ねむたいのに練習しなきゃ。」と思いながら練習するのでは上達率も全く違う。
そう。クリスチャンを好きになればいい。イエス様を純粋に好きになればいい。イエス様を信じることが、「感銘をうけるもの」であり、「生きがい」になるのであれば、そして聖書にあることを純粋に従うならば、私もあなたも救われる。
僕は、このようなことを、親がいないアメリカ・NJの教会の人のところに泊まることで、また、ユースのみんなと交流することで、改めてスタートラインに立たせてもらった。
このイエス様を信じる「喜び」を慣れなどには負けず、流されず、他の人に伝えることを惜しみなくしたい。天国の手帳に「伝道100回」と記されることを目標にしようと考えている今日この頃である。

「そこで、あなたがたに言うが、何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」 マルコによる福音書11:24

祈り:「天にいます父なる神様。ハレルヤ。日々を感謝します。神様、僕にどうか伝道できる勇気をください。伝道できる力をください。もちろん慶應の人だけではありません。自分の祖父母への伝道。YOUTHに来るみんなへの伝道。そして、慶應のみんなへの伝道。どうか、置かされている範囲は広いですからどうぞ、この口をきよめてお使いください。あなたが、NJにとってもすばらしい方々を送ってくださったことを感謝します。泊まれる家を感謝します。中高科のみんなを送ってくださったことをありがとうございます。今ぼくの頭の中に浮かぶ方々に祝福ありますように。素敵な人を送ってくれてありがとう。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

あなたへの祈りは聞かれましたよね。守ってください。祝福してください。

「僕は、イエスさまの命を無駄にはしたくない。」

月報2006年7月号より

「家族」-母の日に思うこと-

私は1998年のNYでの初めての個展がきっかけでNYに引越してこようと決めました。日本ではイラストレーションやデザイン業をやっていたのですが、バブルがはじけて企業が広告費を使わなくなり、仕事が減ってきたのと、何処にいても大変であるのなら、NYで頑張ってみようと、無謀な計画を立てたのでした。

学生ビザを取り、インターネットで調べた語学学校の寮を2週間予約し、友達も知り合いもいないNY生活が始まりました。

日系の新聞を買って、まずは日本語の通じる不動産屋に電話して、マンハッタンで一番安いアパートを貸して下さいと言うと、チェルシーに小さなスタジオを探してくれました。寮からの引越はイエローキャブで充分なほどの荷物しかなく、画材と折りたたみ式の自転車が、そのほとんどを占めていました。個展をやった画廊のオーナーは顔を覚えてくれていたので、電話をかけて布団を貸してくれるかと尋ねると心良く貸して下さり、ついでにお茶碗やお箸などもいただいて、とても助かりました。

マンハッタンにいるだけでワクワク幸せで、絵のイメージがどんどん出てくるので、学校や自宅でのデザイン業の合間は絵ばかり描いていました。日本では、締切りに追われ、睡眠時間も充分に取れないで、忙しい社会の中を飛び回っていたので、NYに来てこんなに時間があるのは社会人になってはじめてぐらいのことでした。

学校の友達が近くに教会があると教えてくれたのは半年後くらいのことで、偶然にも、10階の私のアパートの窓から日米合同教会が見えたのです。さっそく日曜日の礼拝に行ってみることにしました。

初めて礼拝に参加した日のことをよく覚えているのですが、私の頭の中は自分の子供の頃の家族の想い出で一杯になり、だんだん呼吸困難状態になってきました。すぐに、その原因が涙がこぼれるのを必死に我慢しているからだと気がつき、長い間ずっと緊張していた何かが初めてゆるんで、懐かしい感覚に包まれていました。今思うと、それは、『守られている』という安心感のようなものだったのかもしれません。

私は、都内のクリスチャンの幼稚園に3年間通い、今思うと、この頃が一番良い子であったと思います、小学校は、父の転勤もあり、3つめの小学校が北九州でした。その時私は5年生で、校庭の遊び場の取り合いでいつも喧嘩している東京の子供達とちがって、限りなく広い校庭の九州の子ども達は、純真で優しかっ たし、大自然が毎日の遊び場になっていました。東京では仕事で夜も週末もほとんどいなかった父が早く帰ってくるようになり、祖母もとても元気で、母もいつもニコニコしていました。当たり前なのかもしれませんが、いつも家族が一緒に食事したり、テレビを見たりしているというこの北九州の2年半が、私の家にとっては、最も家族らしい時期でした。

中学は姉と一緒に、クリスチャンの女子校に通いました。日曜日には教会に行き、通信簿にも聖書という欄がありました。いつも牧師先生からイエス様のお話 を聞いて、神様と家族からの愛情をたくさん感じながら、安心して生きていた時代だったのです。

しかし、中学2年の時に東京に戻ることになり、今度は、授業も成り立っていないような恐ろしい公立の中学に転校することになりました。それから、兄弟のように育ったコリー犬が死に、おばあちゃんもボケがひどくなり、母も疲れ果てていて、父もまた仕事人間になっていきました。私自身も、姉と一緒の高校に入ったのですが、バスケットボールクラブだけは熱中した後、このまま大学には行きたくない、美術系に進もうと毎日美術大学受験のための夜間学校に通うようになったので、ほとんど家にいない生活になりました。

私は小さい頃から、よく母に『あなたには、いつもビックリさせられる。。』と言われています。それは未だにそうなのかのしれませんが、子供の頃よく学校で熱を出して迎えに来てもらったり、頭に包帯グルグルだったり、松葉杖をついて帰宅したりしました。警察によくお世話になる方で、たびたび、警察から家に電話がかかってきました。
『新宿警察ですがお宅にK子さんいますか?』
『ハイ、K子はうちの娘ですが、、、』
お財布を落とす、大宮八幡の夜店で補導される、期限切れの定期券で改札で捕まる、オートバイ事故で病院に運ばれる、、、、等々、そのたびに母は、心臓が止まるほどビックリし、それでも次の瞬間には私のために母はお財布を握って走っていました。

私は大学時代からどこへ行くにもオートバイに乗っていて、実は、母にも言っていないのですが、もう1つ事故を起こしました。徹夜で仕上げたイラストレーションの仕事を届けに、表参道のあたりを渋滞の車の間を走り抜けている時、タクシーのドアが急に開き、そこに突っ込んでしまいました。救急車まで来てしまって、私は、『忙しいから病院には行かない』とか言ってもそうはいかず、警官は『家の人に連絡するので、電話番号を教えて』と言います。私は『いません。家族はいません』と、これ以上母に心配させたくないので、大丈夫ですと言い張りました。母が知ったら、ショックも受けるし、『なんでみんなのように徹夜なんてしないで、9時から5時みたいな会社員にはなれないの?死んでしまいますよ!バイクはやめてちょうだい!』、などと言われるのが目に見えるようで、私は、『家族はいません。大丈夫です』と、必死に言っていました。本当は一番心配してくれていて、愛していてくれている母親のことを『いません』と言っている私には信仰のかけらもありませんでした。『誰にも迷惑かけてないし、ちゃんと仕事もしているし、大丈夫です。』家族がいなくても、神様がいなくても、一人で生きていると強がっていました。

そうは言っていても、本当にボロボロでした。ろくな物も食べていないし、ほとんど寝ていないし、いつも時間に追われていて、時間ができると不安にかられて仕事を探さなければならなくて、合間には、過激に遊んでもいたのですが、ホットしたり、安心したりすることなく、ずっとあわただしく生きていたのです。

そんな中、大人になってはじめてゆっくりする時間をもらい、NYの生活の中で、教会に行きついたのです。それから毎週教会に行くようになりました。NYの教会はバイリンガルで賛美歌は英語でも日本語でも歌っていいのですが、私はあえて英語を選びました。日本語の賛美歌は懐かしすぎて、泣きそうになるからです。
私は父を早く亡くし、姉とも仲違いをしてしまっていて、病気の母を一人日本においているということで、家族に対するコンプレックスがあったのですが、2000年のイースターに洗礼を受けて、イエス様の家族となり、家族というものはまたできるのだということを感じました。

2002年には結婚し、いきなり15歳の娘もでき、正に神様のご計画(?)で、また『家族』を与えられました。この母の日には、母も交えて4人で教会に行き、賛美歌を歌いました。もう日本語で歌っても涙は出てきません。

私はいつも感謝しています。母に、家族に、そして、それらを与えてくださった神様に。。。

月報2006年6月号より

「私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を…」

今月は、JCCNJ教会員花崎由紀姉のお母様で、今年2月に日本で洗礼を受けられた内田真紀子姉のおあかしをご紹介させていただきます。

「私が幼い頃から何十年も毎週笑顔で母を訪ねてくる新興宗教の方々がいました。母は当たり障りのない返答で対応していたのを覚えています。宗教と名の付くものには何一つ耳をかさなかった母が、神様、イエス様に出会い、聖霊の働きによって導かれる姿を目の当たりにし、人の力ではどうしようもないことが成されるのを実感しました。途中でくじけるのでは?と思っていた一年間の受洗の学びも教会の方々に励まされ最後まで頑張る事が出来ました。受洗後も今までと変わらずマイペースで、でも神様、イエス様と向き合うときには襟を正し、気持ちは正座で、クリスチャン生活を送っています。」 (花崎由紀)

私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を停年退職しました。その時にすでに椎間板ヘルニアになっていて、半月後に入院し、2ヶ月間入院しました。見舞いに来られた人が熱烈な新興宗教の信者で、枕元で、信仰しないと直るものも直らない、と言われましたが、寝たきりで人に便器の世話をしてもらっている時に、話に耳を傾ける余裕など私にはありませんでした。

しかし、少し良くなった頃、今までの人生は何だったのだろう、と考えるようになりました。退職するまでは、働かなければ生活できないので必死で、人生のことをゆっくり考えたことがなかったのですが、時間ができたことと、病気をしたことが大きいと思います。退院してリハビリに励みましたが、身体が思うように動かず、情けない気持ちと空虚な気持ちで過ごしていました。

その頃、娘一家がアメリカのニュージャージーに居たのですが、一家も日本のお友達との出会いがあり、お友達に、野外礼拝があるのでご一緒しませんか、と誘われ、教会に行くようになりました。すばらしい牧師と沢山の日本人のお友達との出会いがあり、それから毎週教会へ行くようになったと聞いています。2001年にイギリスに転勤になり、ミルトン・キーンズの教会に日本の女性牧師が来られ、全員で学びをし、2003年4月に娘と長男と次男が洗礼を受けました。その頃から、私のほうに、毎週、牧師のメッセージや学びのテープが送られて来るようになりました。また、電話でもいろいろ神様の話を聞きました。

娘一家が今度はタイに転勤になり、タイの日本人教会で娘婿と三男が洗礼を受けました。その頃、娘が電話で、一度教会に行ってみたらと勧め、4つほどの教会を調べてファックスで送って来ました。私は娘があまり熱心に勧めてくれるので、一度覗くだけのつもりで行ってみようと決心しました。ファックスで送られて来た教会の中にチャペル・こひつじがあったのですが、私は迷わず、チヤペル・こひつじを選びました。何故だか分かりません。今になって思えば、それも神様の導きでした。私は勇気を出して、チャペル・こひつじに電話を掛けました。恵子さんが出られ、場所を聞きましたが、その後で恵子さんが、ぜひ一度いらして下さい、お待ちしております、と言われた言葉が心に残りました。2003年5月の第1週目の日曜日に、恵子さんの言葉に引かれ、白転車で行きました。これが私が初めて教会に行ったいきさつです。

教会に行ったものの、知合いの方がだれも居ない中で心細い思いをしていましたところ、三宅さんが私に声を掛けて下さいました。そのとき、三宅さんは「私は神様から内田さんの世話をするように導かれています。」と言われたのです。驚きましたが、心細かった気持ちがホッとし、とても嬉しかったことを記憶しています。すばらしい牧師に出会い、沢山の方々に出会い、優しい言葉を掛けていただき、メッセージよりも皆さんに会えるのが楽しみで、毎週礼拝に出かけるようになりました。

その頃、娘の長男が内臓に異常があり、タイの病院に入院していましたが、急遽日本に帰国することになり、歩くこともできない孫は、担架で飛行機に乗せ、日本の空港に着くと、救急車で病院に直行し、タイの日本人教会の牧師が手配して下さった順天堂大学病院へ入院することができました。紹介された教授もクリスチャンだったので、毎日祈って下さったそうです。孫が入院しているとチャペル・こひつじで話したところ、皆さんで祈って下さいました。そして、無事退院できました。

また、娘がひどい腹痛におそわれ、外国は日本のようにすぐに診療してもらえず、予約を取らないと診療してもらえないとのことでしたが、娘が祈り続けたら、腹痛がおさまったそうです。私は電話でこのことを聞いて、「あっ、やっぱり。神様は本当に働いておられる。働いて下さった。」と思い、感動し、確信を持ちました。私自身も今までにいろいろな出来事がありましたが、大きな事にならず、無事に過ごさせていただいているのも神様のおかげだと思います。

私は犬とのら猫2匹とで生活しています。娘にしたら、遠く離れているので、私が淋しくないだろうかと色々心配です。娘は自分が神様を信じ、心豊かに暮らしているので、日本に居る私にもその心の豊かさを持ってほしいと、一家で私が心淋しくないように、もっと信仰が深まるようにと、いつも祈ってくれています。私が娘一家を訪ねてイギリスやタイに行ったときに、皆でお祈りする姿を目にし、私もその輪にはいりたい、そのために神様を本当に信じて祈れたらと思い、もっと神様のことを勉強してみようと思いました。孫も全快し、私は神様が本当におられる、神様の働きは本当だと確信しました。それからは、礼拝が私の生活の一部になり、聖餐式も納得して受けることができるようになりました。

教会に行き出した頃、三宅さんが私にイエス様は内田さんのために死なれたと思いますか、と言われ、その頃は、イエス様は人間のために十字架にかかられたが、私のためにとは思えません、と返事したことを覚えています。でも今は違います。こんな罪深い私のために十字架にかかられたと確信しています。今までのことを梅い改め、これからの人生を神様と共に歩めたら、とても幸せです。

クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人、そして善の生活を行なっている人だけと思っていましたが、神様はありのままの私を受け入れてくださると、学びで牧師に教わり、神にゆだねなさいと学びました。孫は、洗礼はゴールじゃなくスタートだと、イギリスの牧師から学んだ、と教えてくれました。

神様、私の心を満たして下さい。そして、神様のあふれた力で人と接して行くことができるように導いて下さい。証をする機会を与えて下さった主に感謝いたします。

一回ただお言葉を下さい。
(マタイの福音書8章8節)

月報2006年5月号より

『「天使の涙」・・・ 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。』

母が転落事故で亡くなった。68歳。5月の深夜祈祷会から帰った夜中。姉からの電話。
「家裏の高台の石垣から落ちたらしく、頭を強く打って意識がない。
しばらく経っていたようだ。心臓がどんどん弱っている・・・。」
悪い夢を見ているのだと思った。
何度も電話が行き交い、震えがきた。必死で神に叫び求め、祈り続けた。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」ヨハネ14章が飛んできた。
意識が戻らない。手術も難しい。もうだめかもしれない。「泣くな。」弟が叫んだ。救急車が呼ばれた時間、主のみ前に出て祈っていたではありませんか。どうぞ助けてください。回復させてください。もう一度奇跡を起こしてください。でも、もし・・・・助からないの
でしたら、母の人生のすべての罪を私のこのとりなしの祈りゆえに、主にあってどうぞ赦してください。イエス・キリストの名を思い出
させ、今、信じることが出来るようにしてください。どうぞあわれんで母を天国に導いてください。神と長く真剣勝負の格闘をした。
朝を待って、みなさんのお祈りをお願いした。しかし、日本時間の深夜、その日のうちに、意識も戻らないまま亡くなってしまった。
夫婦の喪服が入っているス-ツケ-スが乗り継げなかった。私は母の喪服を着た。顔も頭もひどくつぶれているのだろうと覚悟していたが、実にきれいな安らかな顔をして横たわっていた。傷もシミもしわもなく、髪も黒々として若いきれいな母だった。神は、あの叫びを聞いて、母を救ってくださったのだと思った。
父に促されて母に触った。死人の冷たさだった。聖書に出てくる死人の復活を思い、大声で主のみ名によって、神に叫ぼうか。叫んでみてはどうか。もしかしたら、息を吹き返すかもしれないと思った。でも、しなかった。
2004年、私たちがアメリカに来た夏、父に胃がんが見つかり、二度の手術で全摘した。母は病院に泊り込み、つきっきりで看病した。そのとき、父の死を一度は覚悟したが、まさかの母の死だった。
父は深い悲しみの中、腸閉塞と胆石の激しい痛みに度々襲われ、あれから何度も入退院を繰り返している。
そして、去年の夏、とても元気だった主人の父が急に脳出血し、倒れた。右半身が完全に麻痺し、言語障害があり、認識も十分でない。一ヶ月の治療入院の後、四ヶ月、リハビリセンタ-にいて一月末に、施設に移った。回復は望めなく、自宅に帰ることもないだろうと思われる。義理の母はこの突然の悲しみと、先の見えない不安と痛み、疲れの中、心身ともに弱りきっている。
あっという間に取られる命と、障害を持ちつつも残され、与えられている命がある。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・」イザヤ55:8そのような頃、私たちに帰国の内示が出た。ここはまだ二年。ビザも残っている。次男の高校を長男と同じNYの高校に決めて、願書を詰めている時だった。「とにかく、辞令までの15日間、祈り続けます。はい。そうですか。と今は言えません。日本を向けませ
ん。」と夫に話した。まだまだここに私の心があった。日本の実家のことを考えると、「ありがとう。丁度良かったです。」と言える
ことなのかもしれないが、そう言えない自分がいた。旧約聖書の「エステル記」が頭によぎり、自分のことと重なり、この内示は必ず流れる、と思った。また既に、神様が導いておられると思うことが5つも6つも始まっていた。
私たちは思うこともなかったNJ転勤になった。ドイツを離れる時、神様は何度も美しい虹を見せて、私が導くから心配いらない、と語られた。聖書の約束に信頼しつつ、時には弱る心を注ぎ出して二人でよく祈った。
そして、やっと少しずつ少しずつ山が小さくなって動き出し、さあ、ここから・・・という矢先の辞令だった。何だか力がどっと抜けた。
そんな10月。多くのことが重なり、疲れ果てていた私の心に「天使の涙」は届けられた。「あっ」。天使の赤ちゃんの小さな小さな涙。たくさん次々、赤ちゃん天使の涙が連なっている。かわいい鉢植えの天使の涙、葉っぱたち。熱いものがこみ上げてきた。無言の優しさと熱い篤い祈りが迫り、慰めに満たされた。名前で決めたという鉢植え「Baby’s/Angel’s Tears」。毎日毎日、いっとき一時、眺めて祈るうちに、ドンドンドンドン元気が与えられてきた。一つ一つ神様の恵みを感謝しつつ、数えられるようになってきた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7変えられないことを受け入れる信仰を私にもください。
また、神様は全ての道を造り変えられることができる、という信仰をも与えてください。
全てのことを用いて、人の痛みがわかる位置に私もどうぞ置いてください。
そして、約束どおり、やがて私も義の実で満たしてくださいね、と祈ります。
「天使の涙」はNYに残る長男に引継ぎ、託します。祝福の管理を委ねます。
きっと寮で、あなたもあなたの友達も励まし続けてくれるでしょう。
2008年6月。卒業する時に、彼女の元に返してください。あの時のあなたの優しさは、こんなに大きく広がりました、と。枯らさないでね。水も忘れないでね。大きく立派にして必ず返してね。
一人ひとり、ここで出会った多くの方々のために祈ります。
熱い篤い祈りを共にしてくださった信仰の友、祈りの先輩。
みなさんの優しさと祈りを決して忘れません。本当にありがとうございました。
「主にある者は幸いである。」と喜んで、「私と私の家とは、主に仕えます。」ヨシュア24:15 と告白して新たな心で出発します。

月報2006年3月号より

「人を許す恵み」

私達一家が、このニュージャージー日本語教会の礼拝に参加するようになってから5ヶ月になります。この間に神様は本当にたくさんの恵みを下さいました。その中で、私が最初にいただいた恵みについて証をしたいと思います。

私達夫婦は2001年に 10年以上住み慣れたロサンゼルスと、心から信頼し愛する兄弟姉妹のいる教会を後に、夫の仕事のためにニューヨークに来ました。旅行では何度も訪れ楽しい思い出の多いNYでしたが、いざ、住んでみるとのんびりしたロサンゼルスとは全く違う文化、価値観、ライフスタイルに戸惑うことの連続でした。また、新しい土地というだけでなく、夫の新しい職場はとても忙しく帰宅するのが午前一時二時になる事も頻繁でした。その上、引っ越してまもなく妊娠したので、友達も親戚もいない見知らぬ土地で妊娠、出産、子育てをする事に不安でした。その頃住んでいた地域の教会に行って見ましたが、ここと思う集会に出会えず、ロサンゼルスの教会の兄弟の紹介で、クイーンズのフラッシングの集会に参加するようになり、ようやく私たちの心に平安がもどって来たように感じました。しかし、夫の仕事は年々忙しさを増し、それと共に私たちの会話は減り、私は一人で子育てをしているような孤独感と体力的な疲労で、いつも体調を崩していました。特に子供が二歳くらいのころは、子育ての方針のことで口論が絶えず、その頃の私たち夫婦は、二人共信仰をいただいているという大きな恵みを受けていながら、二人で祈る時間もなくお互いのストレスを気遣うという心の余裕もなかったと思います。教会の礼拝に行くことも、「礼拝に行きたいから行く」というより、「行かなければならないから」という義務感にさえなっていました。ただ、主は、そんな私でも、礼拝の中で、励ましと休息を与えてくださいました。自分では、義務感で礼拝にでているつもりでも、心のどこかで主にすがりたい一心で礼拝に出ていたのかもしれません。しかし、礼拝の中でいただいたその平安は、日常の生活にもどると、なんとなく消えてしまっていました。

その後、育児は少しずつ楽になり、夫の仕事も忙しいなりにペースができてきて、少しづつ心身ともに落ち着いてきたと感じはじめました。そして昨年の3月に転居したことをきっかけにNJで教会を探すことにしました。私達はそれまでずっと現地の教会に参加してきたので、日本人の教会を探そうとは思っていませんでした。ところが、NJに転居してすぐに日本に一時帰国することになり、私はその帰国中に、まだ信仰を持たない私の妹に福音を伝えたいという強い負担を心に覚えました。しかし、現地の教会で救われ、養われてきた私は ずっと英語で御言葉を読み、祈り、賛美してきたので、日本語で神様のことを語ることに少なからず困難を感じ、日本語で御言葉を読もうと決心してアメリカに帰ってきました。
その頃夫は相変わらず毎日仕事で遅かったのですが、ある日、深夜に帰宅すると
「日本語教会があるらしいよ」と言って、彼にこの教会のことを教えてくれたリムジンの運転手さんのおぼろげな記憶をたよりに、教会のホームページを探し当てました。その時、夫も私も、何か特別な神様の導きをすでに感じていました。そして、8月の最後の日曜日の礼拝に出かけてみることにしました。その日は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師が説教をされました。その中で、ルカの「良きサマリア人」の箇所を通して隣人を愛するということを話され、御自分の結婚生活で、夫として、一番身近な隣人である妻を愛することを忘れていた、ということを打ち明けられました。そして、この説教を聞きながら、私は涙があふれて止まりませんでした。自分でも気がつかない隠されていた心の中の傷がひとつひとつ浮かび上がってくるような感じでした。その傷は古く、ニューヨークに引っ越して以来少しずつ夫との関係の中で受けた傷でした。それは、私にとっては驚きでした。学生の時からの知り合いである私達夫婦は、問題はすべて話し合って解決してきたと思い込んでいたからです。確かに、話し合い(口論?)によって、その「問題」は解決しましたが、私の心の「ゆるし」には至らず、いつのまにか、心の中に多くの resentment を抱え、夫を罪に定めていたのです。それは、罪とは呼べないような些細なことの積み重ねだったと思います。夫は心優しい人です。故意に私を傷つけるような事はなかったはずです。そしてそれは、夫の問題ではなく、私の問題であると神様は示されました。

それから数日間、私は夫を許そうと思い主に祈りましたが、どんなに許したいと祈っても、心の中に「許した」という平安の感覚は訪れず、そんな自分の心の「罪定め」というもっと大きい罪に苦しみました。ひとが生きていく中には、いろいろな罪がありますが、「人の罪を許せないという罪」がこんなにつらいものだとは、知りませんでした。数日後、もうどう祈っていいのか解らず、「主よ、私にはどうしても許せません。」という気持ちになった時、突然、心の中に主の十字架が浮かんだのです。その十字架の上で主は傷ついて血を流されていました。そして、私はその時、夫の罪はもう主によって許されている、というクリスチャンとして当たり前の、ごく基本の事実に気づいたのです。主は、私の罪も、夫の罪も、世界中の罪をも背負って、命を捨てられました。私が夫の罪を責める理由など存在しないし、私が「がんばって」それを許すこともできないのです。もうそれらの罪は主によって許され、私達はあがなわれているのですから。そう思ったとき、突然、目に涙が溢れ、心が温かく、軽く、自由になり、それまで心に負ったと思っていた一切の傷が癒され、消えたと思いました。その時はじめて、夫を心から「許せた」、そして、私も許されたと思いました。そして、これが主の許しの平安なんだという思いで満たされました。

以上のことや、その他のさまざまなお導きによって、私達夫婦は益々この教会を私達家族のホームチャーチとすることを神様は望んでおられるのではないか思うようになりました。そして会員にしていただくことをお願いするに至りましたが、その陰には、たくさんの兄弟姉妹が私達家族のことをお祈りして下さっていたとお聞きしました。感謝して、主の御名を賛美いたします。

しかし今では 御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえにたたせてくださったのである。 コロサイ人への手紙 1章22節
注) 「教会では私たちはイエス・キリストにあって家族なのだという思いでお互いのことを『兄弟姉妹』と呼ぶことがあります。」

月報2006年2月号より

「Good News(福音)を知った喜び」

私には4つの名前があります。一つ目は教会でも呼ばれている名前のファンオクスン(樊玉順)。これは結婚してから使っている名前なのですが、この「樊」という苗字は主人のもので中国の名前です。下の「玉順」は韓国の名前です。二つ目の名前は、権友子(ごんともこ)という名前で、小学生の時まで使っていました。三つ目は、権玉順(クオンオクスン)という名前です。中学から結婚するまでこの名前を名乗っていました。四つ目の名前は、 木下友子(きのしたともこ)という「通名」で、 場合によってはこの名前を使ったりもしていました。なぜこんなに色々な名前を持っているのかというと、私が在日コリアンだからです。私の両親は韓国で生まれ、4,5歳の頃にそれぞれの両親と日本に渡ってきました。 その両親のもと、日本で生まれ育った私は幼い頃からこのようにいろんな名前を持ち、状況によって名前を使い分ける、というのは否応なく自分のアイデンティティーを探し求めることになり、自分はどこから来てどこに行くのか、ということを考え続けることでもありました。

1992年、結婚を機にアメリカに住むことになり、メリーランド州のBaltimoreで生活がスタートしました。誰一人知り合いもない異国の地で、まったく育った環境そして国が違う二人が一緒に生活を始めるのは困難の連続でした。それでも時間が経つにつれ、いろんな人と出会い、親切にしていただいたのですが、どういうわけか私たちが本当にいい人たちだなあと思う人は決まってみなさんクリスチャンで、私たちが理想とするような家庭を築いていられるのを見て、いつも主人と二人でクリスチャンってどういう人たちなんだろう、と話すようになっていました。

1999年にニュージャージーに移り住み、近所で仲良くなったアメリカ人家族が通うマンハッタンの教会に連れて行ってもらったり、モールで教会の勧誘をしていた人がとても感じがよく、話がよさそうだから、という主人の意見で、確かTrentonだったと思うのですが、 何百人もの様々な人種の人たちが集まる体育館のような大きな教会に行ったこともありました。でもなかなか自分たちに合った教会を見つけるのも大変なことなんだと思っているうちに、主人の友人で同じ研究者である石井さんという方が一年の予定で日本から来られました。石井さんはクリスチャンで、以前から日本語の聖書を下さったり、クリスマスには娘に聖書のお話の本をプレゼントして下さったりしていたのですが、ニューヨークに来られてからは、私たちの為にMaywoodの日本語教会を探し出してくださり、一緒に連れて行ってくださって、それから家族でも通うようになりました。

いつも教会で聞く聖書のみ言葉に共感し、聖書を読む会や家庭集会にも行くようになり、 その時その瞬間はいつも共感するのですが、家に帰ればいつもの生活に戻り、なかなか点と点が結ばれることがありませんでした。しかしそれからしばらく時が経った後のある日の礼拝で、「天国には国籍はありません」という聖書のみ言葉を聞いた瞬間、魂がゆすぶられる思いがして、このみ言葉がストレートに私の心の中に入ってきたのです。物心ついた頃からさまよい続けていた自分のアイデンティティーの答えとその終着点が天国にあったんだという驚きと喜びは、なんて表現すればいいのかわからないくらい心ふるえるものでした。そして結婚生活をスタートした時から二人の間にあった様々な問題も 「すべて神様におゆだねします。」という私の初めての祈りを神様が聞いてくださり、多くの祝福を与えてくださったという信じられないような経験を通して、イエス・キリストを自分の心の中におむかえして、いつも神様が私の中心にいてくださり、神様に導かれて人生を歩んでいきたいという思いから受洗の恵みにあずかることになりました。昨年のクリスマスに洗礼を受け、ちょうど一年が経とうとしています。私のクリスチャンとしての歩みは人間の成長と同じように、ようやくフラフラしながらもヨチヨチと歩けるようになったばかりですが、日々神様への感謝の言葉が口から出るような私に作り変えてくださった神様に心から感謝しています。

月報2006年1月号より

「二度目のアメリカ」

僕は神様、イエス様に出会ってから沢山感じたことがあり、変わった事があります。
1つ目は、毎日祈るようになったことです。 洗礼を受ける前も毎日祈っていましたが、今は前よりも祈るようになりました。 今は1日に最低5回はお祈りしています。 ご飯の前3回と朝起きた時と、夜の寝る前です。 僕は夜の祈りが一番長くかかります。それは、1日の感謝とその日あった出来事、毎日家族ともお祈りしている事と、あと自分が言いたいことをお祈りしています。 2つ目は、いつも神様やイエス様が一緒にいて下さると言う事を知りました。 そして、いつも一緒にいて下さっている事で僕に安心感を与えてくださり、僕は1人でも大丈夫という気持ちになりました。

僕が、アメリカに来てすごく心に残っている集まりがあります。11月24日にNJの教会で中高生のLock Inをやりました。NJの教会の人と、NYから2人、そしてコネチカットからの4人が参加しました。 夜の9時にみんな集合して教会に泊まりました。最初はゲームなどをやって楽しくやっていました。 そして途中で証しをする時間がありました。 証しの時間で僕は、他の人の証しを聞いて沢山学んだことがあり、考えさせられた事、そして心に残る証しを5人の人から聞かせてもらいました。 まずその場で学んだことの一つは、証しをするのは「勇気」が必要だと言う事です。 自分の事を相手に伝えるのはすごい難しいことであり、凄い勇気が必要です。 それは、相手に自分の事を言ったら変な風に思われたりするかもしれないという思いが出てきます。 僕も他人に発言するときはついつい気にしてしまいます。 「これを言ったら嫌われるかも。」 「これを言ったら何かされるかも。」 などと気にします。 そして、言うには自分の前にある「壁」を越えなくてはなりません。 僕は今までこういった壁には何度も直面してきました。 だからその壁を越えるのは凄く難しい事だと言うのが分かりました。

次に学んだことは、教会は自分のかぶっている仮面を取れる所であるという事です。 僕は学校などではめったに泣きません。 ですが教会では泣けるような気がします。 教会に来る前に辛いことの考え事などをしていて礼拝の賛美の時になって賛美すると自然に目から涙が出てきます。 こういった事から教会では自分の仮面を外せる場所ではないかと思いました。 そして僕が一番大切だと思ったことは、相手を「信頼」する事です。 今僕の行っている学校では100%信頼できる友達はおそらくいません。 でも僕はこのような集まりにいる人達なら僕はその人達を信頼できます。 何故ならば、その人達はクリスチャンの人がほとんどで、そうでない人も教会にも通っていて神様やイエス様の事を知っているから僕はその人達を信頼して話をできます。 でも今回僕はその集まりで証しを出来ませんでした。信頼はしていましたが勇気が足らなかったのかもしれません。 次このような集まりがあったら是非自分から進んで証しをしたいと思います。 これから僕は、この集まりで学んだこと、思ったこと、心に残ったこと、そして今まで学んだことをもう一度しっかり考え直して、お祈りして神様と共に生きて行きたいと考えています。

月報2005年12月号より

「One Voice – 4年目の9月11日に思う事」

“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。

ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。

英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。

そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。

私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。

そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。

月報2005年10月号より