「母の受洗」

今年84歳になった母は、小柄な身体で、田舎道をどこへでも自転車で出かけるほど元気でした。ところが3月に心不全で救急車で運ばれ、緊急入院、その後の検査で、2つの心臓の弁が狭窄、閉鎖不全による心肥大に加え、肺水腫の診断を受けました。

知らせを聞いても、直ぐに飛んでいけず、涙と心騒ぐ私に、神さまは「あなたは私のために嘆きを踊りに変え、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。」〈詩編30篇2節〉と、み言葉を示してくださり、私の心も支えて下さいました。

母は、神さまに守られ、やがて酸素も点滴も取れ、1ヶ月後に自宅に戻ることが出来ました。近くに住む姉夫婦が、毎日のように、母が食べられそうな食事を作り、仕事の合間に届けに行っては、共に祈り、励ましてくれていました。

私が5月末に母のサポートのために一時帰国した時、母は、長い間の咳と痰に悩まされ、食欲、体力が落ち、食事と排泄以外、布団に伏す姿は、今まで見たこともなく小さく、弱く見えました。そのような中でも、私の出産の時のことを語っては、「範子を産んでよかった。」と涙ながらに語ってくれ、「ありがとう!」の言葉を交わす時が与えられたのは、感謝なことでした。
以前から、イエス様を信じて祈りに手を合わせる母でしたが、今回、水郷めぐみ教会の平山先生ご夫妻のお導きを頂いて、5月29日に自宅で病床洗礼に導かれました。

「神我らと共にいます」(マタイ1:23)
「我が国籍は天にあり」(ピリピ3:20)

そして、その数日後、しばらく会えず、祈っていた兄が帰ってきた時の母の喜び様は、まるで病気を吹き飛ばすような笑顔でした。私にはまるで幼子のような母が、大きな母に見えました。兄は早朝から玄関を履き、自ら「教会に行かなきゃ・・・」と語るのでした。私にとっても、神様の力以外に考えられない、神さまのみ言葉のお約束の出来事を見せて頂きました。兄は教会の祈りの時に、涙を流していたそうです。

それから、「お母さん受洗おめでとう」「祈っています。」のお言葉をたくさんいただき、母が、なんと多くの方に支えられ、愛されているかを知らされる、幸いな時でした。
母も、「ああ、ありがたいね。」とお祈りのサポートに感謝の言葉が続きました。

私の帰米後間もなく、再入院となった母ですが、身体の弱さの中にも、神様の守りと、祈りの使命が母を支えてくれています。この世で多くの苦労がありましたが、今、幼子のように天国の希望を握ることが出来たのは、何と大きな恵みでしょうか。

主に、そして皆さまのお祈りに心から感謝致します。

月報2013年7~8月号より

「高橋さんとは20年以上の…」

今回は、元JCCNJメンバーの五賀潔兄が、3月20日キリスト兄弟団成増教会でもたれた故・高橋剛兄の葬儀でお話しされたお証しを掲載させていただきます。
高橋兄の思い出

高橋さんとは20年以上の親しいお付き合いをさせていただきました。最初の出会いは、92年に私達夫婦が米国のニュージャージー日本語キリスト教会の聖歌隊に入った時です。高橋さんは以前より奥様と2人で参加されていました。その時はまだノンクリスチャンでいらっしゃいました。そして94年に当時の石賀誠先生が日本に帰国されることになった時、奥様と一緒に洗礼を受けることを決心され、その年のイースターに受洗されました。聖歌隊のメンバーと共に高橋さんご夫妻の洗礼を大変喜んだことを覚えています。

その後、正式な教会員として当時私が担当する委員会(宣教?伝道?よく覚えていませんが)にご参加いただきました。議事録作成の担当を快く引き受けてくださり、その委員会の議事録を作成してくださいました。その内容がポイントを簡潔・明瞭に網羅したもので、さすがだなーと感銘したことを覚えています。

高橋さんにとって青二才で経験不足な私のような者に対しても、謙虚に接してくださいました。また、ご自身のプライベートゴルフクラブに私達夫婦をご招待くださり、一緒にゴルフを楽しんだりしました。私を含め、多くの方が高橋さんのご好意に与ったと思います。

私たち夫婦が97年に帰国後、98年に成増教会に通うようになってから、日本のご自宅が近いこともあり日本に帰国された時は必ずといっていいほど成増教会に来られ、ニュージャージー日本語キリスト教会の近況を良く話してくださいました。ニュージャージーの教会の会堂建設の問題等、ずいぶんと心を砕かれ、ご奉仕されていました。2011年末に拠点を日本に移され、成増教会の会員になられてからは、ほぼ毎週のように日曜日の昼食をご一緒させていただいていました。

この場で高橋さんの素直な信仰、率直なお人柄を表したご自身の証しを紹介いたします。2006年にがんの手術を受けられた時の事の証しです。

(以下、高橋兄の証しの要約 : 高橋兄は2006年2月末、日本へ一時帰国された際に受けられた人間ドックで、大腸ガンの診断を受けられました。糖尿病の持病と心筋梗塞の病歴から手術の成功率は5分5分、でもこのままにしておけば2~3年は大丈夫かもしれないが、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょうと担当医から宣告されます。本来、体が弱く60才位まで生きられればいい方だと言われていたのに、75歳(当時)まで生きてこられたのだから今死んでも十二分に元は取れていると、手術を受けない決心をされました。ガンの宣告を受けたにもかかわらず、ご夫妻そろって平安を保っていられたのは、お二人がクリスチャンであるということにあると気付かれ、既に天に永遠の命が用意されていて、無意識のうちに死を恐れない安心感が与えられました。その後、温熱療法や気功治療を受けられましたが、病状の改善は見られず、10月の再検査の結果、主治医の判断で11月1日に手術を受けることとなりました。入院前、高橋兄は「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と祈られました。弟さんを脳梗塞で亡くされ、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさがよくわかっておられたからです。手術後、翌2日の朝まで麻酔から覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こすなど大変な手術ではありましたが、兄の祈りが聞かれ、手術は成功、ガンは切除され、2週間後に晴れて退院となりました。
この経験を通して、高橋兄は神様に守られていることを実感されました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと、第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと、第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で、担当医が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと、第四に脳梗塞を回避できたこと、そしてもう一つ、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘さんがご夫妻のサポートのために飛んできて、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと。「これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。」(本文より、以上)

(証の全文は2009年2月号月報に掲載されております。)    http://jccofnj.org/?p=536

この証しの中で、高橋さんはお医者様を通して手術を成功させてくださった神様に感謝し、この後の人生は死んでもおかしくなかったのに特別に付け足していただいたものとして、神様のために生きようと思われたそうです。

最後に一言、3月3日に見舞いに行った時、高橋さんが、「五賀さん、天国に先に行って、あなたの部屋を掃除して待ってますよ」とおっしゃいました。私は、「高橋さん、天国の部屋は掃除する必要がないほど素晴らしいそうですよ。」と言い、高橋さんが「そうですか。そんなに素晴らしいですかね!」笑っておっしゃいました。高橋さんご自身が平安で、天国を待ち望んでいることが強く感じられ、逆に励まされました。

高橋さんのような素晴らしい方が天国で準備して待ってくださることは何と幸いでしょう。主に感謝します。
(3月20日の葬儀にて)

高橋さんは、亡くなる前の数年間を天国への準備期間のように位置づけられて、いろいろな方々にお会いになってもてなされたり、親切にしたりしていらっしゃいました。最後は病室にご家族全員が集まって、天国に見送られました。

晩年をクリスチャンとして人生を全うするお姿を間近で見せていただけた私達は、本当に幸せでした。悲しみの中にも重苦しさはなく、むしろさわやかな気持ちにさせていただきました。

天国への希望を与えてくださり、生きた証しを見せてくださる神様をほめたたえます。

月報2013年7~8月号より

「母を天に送って」

母は3月4日に90歳の誕生日を迎え、3月20日に天国へと旅立ちました。
73歳の時にこちらに来たのが最後でしたが、高校生の姪と来たので、美術館へ行ったり、五番街やモールを歩き回ったりしながら、自分の歩く力が弱っているのをとても気にしていました。
それから少しずつ、少しずつ歩けなくなり、何度も家の中で転んでは入退院を繰り返していました。その頃はショートステイの施設でリハビリをしてはまた家に戻って来て、をしていました。そして週三回デイケアサービスでそこに通っていました。
毎年、母に会うために一時帰国をしていましたが、自分で靴を履いていたのが履かせてもらわなければいけないとできなくなり、最後は車いすの生活になりました。
それでも、車いすを自分の足で漕いで動いていたそうですが、ショートステイの施設はいつまでも置いてくれません。自分から有料老人ホームを探してほしいと弟に伝えたそうです。弟は何十箇所と見て回ったそうです。
家から近く、環境の良いそうして、払える料金のところ、そこは清潔で施設も整い部屋からは若草山が見えました。スタッフの方々も良さそうな方でした。
でも、個室で車いすの生活だと、人と接する機会も減り、去年入居したばかりの頃に会った時には、いろいろ話もしていましたのに、今回は本当にびっくりするほど喜怒哀楽がなく、会話も短いものしかできませんでした。
今回はただいつものように顔を見に帰っただけでしたのに、園に会いに行った次の日、急に具合が悪くなり、入院となりました。体中が痛い痛いと訴え、座薬を入れてもらい、眠り、また痛みのために目を覚まし、また薬、その繰り返しでした。
目を覚ました時、早く死にたいと頼みました。そこで、私はもう一度、私自身がクリスチャンになったことを母に話して、そんなに辛いなら、神様にお願いしようかと聞きました。母はうなずき、私は神様に早く楽になれるように、天国に連れて行ってくださるように、お願いしました。
次の日、うそのように痛みが取れました。
今回、帰る前から、長い間会っていない友達と会う約束をしていて、もちろん、キャンセルするつもりでしたが、弟や義妹が、病院に入っているから、一応安心だし、出かけたら、と言ってくれたので、出かけました。
毎日、様子を聞くために電話をしていたのですが、髪を洗ってもらった、体を拭いてもらった、飲み込む力をつけるため、
リハビリを始めた、と快方に向かっているようでした。予定どおり帰って来て、病院に行き、私のことわかる?と話しかけると、「典子」と言い、長男のことも洋介だとわかると言いました。先生からも一週間ほどしたら退院です、と説明されました。
長男は6年ぶりに母に会ったので、何か話してあげなよ、と言ったのに、あまりの変わりように、ショックを受け、泣いてしまって、何も言えませんでした。
抱き寄せて、ほほにキスしてあげたのが精一杯でした。明日、また来るから、と帰りました。
次の日、明日帰るからね、と病院への向かう途中、先生から電話が入り、早朝から容態が急変したと言われました。病院に着いた時はまだ意識はありました。その日は祭日で先生たちも少なく、説明しますと言われたとたん、急患が入り、そばについていましたが、私たちのことがわかっていたかどうか。
そんな中、心臓が止まり、一時は蘇生しましたが、元気な頃から延命行為はしないと決めていましたので、そのまま午後2時10分永眠しました。
今から思いますと、私を行かせてくれるために、一時的に回復し、そのおかげで、ちょうど同じ頃に天に召された高橋さんとも最後のお別れができました。
髪を洗ってもらい、体を拭いてもらい、旅立ちの準備をしていたのですね。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」            (ヨハネ第一の手紙4:14)

痛みからも解放され、息子と孫と娘に付き添われ、お願いした通り、神様に天国へ連れて行っていただいたのと、確信しています。
私たちのことを待っていてくれたのでしょうか。
遠く離れて住んでいますのに、幸いにも最後に会わせてくださった神様に感謝いたします。
本当にすべてこれで良かったと思っています。
そうだよね、お母さん。

月報2013年5~6月号より

アンドリュー・ホンゴー牧師による証

今回は、私たちの教会を何度も訪問してくださり、(そのうち何度かはハワイアンの歌手であるご両親と一緒に)励ましてくださってきたAndrew Hongoさんが書いてくださった英文のお証しを、日本語に訳してご紹介します。
アンドリュー・ホンゴー

私は今までも宣教の働きに携わってきましたが、ずっと日本に特別な使命を感じることはありませんでした。私は貧しい人々と共に働くことに情熱を感じていたから、ということもあるでしょう。私はもっと冒険的なところ、エキゾチックなところを求めていたということもあると思います。もしかしたら、私が12歳の時に、私はハワイでサマースクールに行って、友達とテニスをしたり勉強をいっしょにしたりしたいと思っていたのに、両親が日本でのサマーコンサートのツアーに無理やり私を引きずって行ったからかもしれません。

けれども、ハワイの教会が日本へのミッショントリップを計画していることを知った時に、それは主が開かれた道だと感じました。ハワイアンの歌手である私の両親は、東日本震災で被災された方々のために、2011年の12月に日本に行く予定にしていましたが、父にガンが見つかり、直前でキャンセルになっていたからです。ちょうど日本に出発するはずだった日に、両親はカルフォルニアの病院で治療を受けるために飛行機に乗っていたのです。両親は私にこう言いました。「アンドリュー、私たちが行けなかったんだから、おまえが代わりに行かなきゃいけないんじゃないかな」と。

私は、このトリップがあの大震災で被災された方々のための働きであることを知っていました。しかし、その地に立つまでは、そのことの重大さがわかっていませんでした。私は「どうして神はこんなことが起こることを許されたのだろうか?」という問いに直面しなければならなかったのです。日本に着いて間もなく、おじのデニスと牧師の藤浪先生と私は、1年半前に起こった被害の大きさを物語る一つの場所に立っていました。そこには、何キロも内陸なのに、何も残っていない土地に、大きな船が打ち上げられていてそのままになっていました。その船の下、右の方には押しつぶされた車がありました。そして、正面には小さなテーブルが置かれて、そこにはソーダやビール、果物、手紙、そして、香炉と小さな十字架がおいてありました。私たちはそこで祈りをささげようとしたのですが、ただ、涙があふれてくるばかりでした。私は、愛の神がどうして、このような恐ろしい状況でたくさんの人々や子供たちが亡くなるということを許されたんだろうか、それを理解することが全くできなかったのです。

私はただ、この震災の被害状況を理解するのが難しかっただけではありませんでした。私たちは、翌日に気仙沼で、ハワイアンショーをする予定にしていたのです。私たちのなすべきことは、希望と喜びを失った人々に、その希望と喜びとを届けることでした。しかし、自分たち自身が悲しみに押しつぶされているのに、どうして、私たちが何かをすることができるというのでしょうか?

翌朝、私は目が覚めた時に、主からの幻を見ました。私たちのチームが公園のステージに立っているのが見えました。おじのデニス、藤浪先生、そして、私が赤いアロハシャツを着て、リリコと二人のダンサーが私たちの前に立っています。そして、私たちの後ろには父なる神が立って、その手を大きく広げて、気仙沼の人々がご自身の元に帰って来られるのを待っておられるのです。それはちょうど、ルカによる福音書の15章の放蕩息子の父親が愛をもって、忍耐深く、情熱的に放蕩息子の帰りを待っているかのようでした。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 (ルカ15:17-20)

私はまだその疑問への答えを得たわけではありませんでしたが、神がどれほど日本の人々を愛しておられるのか、それを感じ始めていました。

それからの日々の中で、私は、そんなことがあるんだろうかと信じられないような証しをいくつも聞きました。ある牧師は津波で流されてしまった漁村で伝道をしていました。以前はその漁師のみなさんは、日々の生活のために忙しくて、聖書の話を聞くことなんか全然できないでいました。しかし、津波の後、漁師の仕事に戻れるまでに時間がかかったために、たくさんの人々が聖書の言葉に耳を傾けることができ、クリスチャンになったといいます。そして、その牧師に言ったそうです。「私たちは津波が来たことを感謝さえしている。それがなければ、私たちは決してイエスさまに出会うことはできなかったから。」ある女性はこう話してくれました。彼女は命からがら津波から逃げることができましたが、高台に逃げる途中に、津波がすぐそばまで迫って来るのを目の当たりにしました。家を失い、仕事も失い、仮設住宅の小さな部屋に住んでいます。でも、それらのことによって、彼女は主を知ることができたのです。彼女の顔は喜びに輝いていました。

神様がどうしてこんなことが起こるのを許されたのか、私にはまだ良くわかりませんでした。この地上にいる限り、わかる日が来るのかどうかもわかりません。しかし、この疑問に苦しみながら、私は自分の父のことを考えないではいられませんでした。父は1年間ガンと闘ってきました。いつまで続くともわからないドクターとのアポイントメント、抗癌剤治療、そして、腎臓透析の日々を送りました。自家造血幹細胞移植の後は話ができないほど弱ってしまいました。熱でうわごとを言うようになり、夜中にトイレに連れて行かなければいけない時もありました。そんな日々のことを思い出していました。そんな時はただただ、神に叫ぶしかありませんでした。でも、そんな時にこそ、今までの人生の中で、イエスの臨在を一番確かで、一番力強く感じたのです。神がどうして、私の父がガンになるのを許されたのか、ということも私には理解できません。しかし、私はすべての疑いを越えて、これらすべての経験の中で、今まで経験したことがないほどに、神が私たちを愛してくださることを知ることができたのです。

去年の8月、私は12歳の時よりもずっと日本が好きになっていました。34歳になって、やっと私は自分の祖先の地に愛着を感じるようになりました。食べ物や文化、言葉、そして、温泉も。私の人生の中で初めて、主の働きのためにそこに戻りたい、という気持ちになりました。今まで何年もの間、両親から「一緒に日本に行かないか?」と聞かれる度に、何の迷いもなく「ノー、サンキュー」と答えてきました。しかし、今、「いつか一緒に日本に行かないか?」と聞かれたら、即座に「ぜひ行きたい!」と答えるでしょう。私の祈りは、主が私の家族を日本にもう一度送ってくださることです。そして、そこで神様が日本の人々を神様の元に導いておられる御業を共に見せていただければと願っています。

月報2013年3~4月号より

「2013年は洗礼20周年です。…」

2013年は洗礼20周年です。これまでの歩みをすべて支えて下さった神様と、家族、教会の皆さんに心から感謝致します。

私の生まれ故郷の浅草は、寺社を中心に祭事の多い威勢のいい町でした。同級生の家は自営業中心で、商店、水商売、とび職、家内産業等でした。実家は製本業を営み両親は働き者で、子供の教育にも熱心でした。私は子供の頃から外国への憧れが強く、大学時代は海外旅行や短期留学をしました。卒業後は大手旅行社に就職し、中国室に配属となりました。上海へ駐在する話もありましたが、当時若い 女性を中国に送るのは危険との声があり、立ち消えになりました。入社後4年目に父を病いで亡くし、母は49才で未亡人となりました。私は若くして父を亡くしたことがショックで、なかなか立ち直れませんでした。親孝行することもなく、自分勝手に生きて来た事が父を殺したような気がしていました。そして弟が結婚し、家庭環境は激変しました。家業を廃業し、母と二人暮らしになりました。一人になるとわびしい思いが溢れてきました。自分がなぜここに存在しているのか、人はどこから来てどこに行くのか、答えのない問いが心を巡ります。時はバブル全盛期、仕事、夜遊び、習い事でスケジュールを埋め、ヨガ、瞑想、ニューエイジ系の本等、心の隙間を埋めてくれるものを探し求めていました。日本では聖書の話を聞いたこともなく、教会とも接点がありませんでした。

その後、海外研修に行くことになりました。行き先は北京か上海かと思いきや、地球の裏側のニューヨークでした。英語は苦手で、不安と期待が混ざる気持ちでNYにやって来ました。仕事もアフター5も充実して、一年弱の研修期間はすぐに過ぎてしまいました。帰国後すぐNYに戻りたくなり会社に交渉しましたが、聞き入れられず退社、母に2-3年行ってくるからと告げて一人でNYに戻ってきました。90年夏のことでした。

まず学校で英語とPCを習いました。久し振りの学生生活は楽しかったものの、減っていく貯金に心細くなり、働かねばという気持ちになりました。その時ローカル誌を開いてみると、一つの求人広告が飛び出してきたように目に留まりました。小さな旅行社でしたが、面接に行ってみるとその場で採用され、就労ビザもサポートしてもらうことになりました。しかし2週間経った頃、突然移民局の査察官が職場にやって来ました。出口が閉ざされ尋問を受け、移民局への出頭が命じられました。仲良くさせてもらった同僚はビザ切れが発覚し、その一週間後に強制送還となってしまいました。彼女も夢をもってNYにやってきた人でした。同じ状況で働いている人は大勢いるのに、やり切れない不条理を感じました。

一年経つ頃には会社の財政状況が悪くなり、別のオフィスビルへ移転、多くの人が入っては辞めていきました。雰囲気が暗く時に怒号が飛び交い、クビを覚悟で2回ほど数日間のプチ家出(無断欠勤)を決行しました。ビザ切替申請もしてもらっていましたが、必要書類が会社から提出されずに、数ヶ月宙に浮いた形となりました。二回目のNYは思い描いていたバラ色からは程遠く、限界を感じていました。

その職場には社長の友人である男性が毎日来ていました。彼はクリスチャンになったばかりの人で、”神様はすごいんだよ”といつも熱く語っていました。社長は忙しく留守がちでしたが、私にも神様を知ってから彼の人生に起こったたくさんの事を話してくれました。ランチをよくご馳走してくれました。こんな会社経営者の中年男性をとりこにする神様とはどんなものだろうと思ったものでした。

誘われるまま、当時マンハッタンで行われていた新来者向けゼロ集会や、家庭集会に行くようになり、91年のクリスマスに初めて礼拝に出席しました。二人の方が洗礼を受けておられました。何だか自分がそこにいるのが場違いな気がしました。それでも、礼拝に何回か行くうちに、そこに聖らかな流れがあることを感じるようになりました。

ある家庭集会で、二代目牧師の石賀先生がこう言われました。”あなたは自分で米国に来たと思っているでしょう。でも違うんだ。神様がここに連れてきたんだよ。あなたはここで色々やりたいと思っているだろう。実は神様と出会う為に来たんだ。それがあなたが米国で経験する一番素晴らしい事になる。あなたが聖書の話を聞きたければ、僕はいつでも、どこにでも行きます。” その言葉を何日も反芻していました。

昔から超自然的な存在を感じており、父なる神様のことはすんなりと受け入れることができました。”でも、そこにイエス・キリストがどう結びつくですか?”核心的な問いが心にありました。ある時石賀先生は、神様⇔イエス様⇔人間の相関図を見せながら、”人間には罪があって、そのままでは聖なる神様のところには行かれない。神様はそれを憐れみ、ひとり子であるイエスを十字架に送り人々の罪を背負わせた。イエスは十字架で死んだのち葬られて三日目に復活した。イエスを信じる者には罪の赦しと永遠の命が与えられ、神様の子とされる。だからにイエスは神様と人間のあいだの架け橋となったんだ。”と教えてくれました。

頭で理解しても、魂のレベルでそれが分るようになるまで相当の時間を要しました。牧師や教会の皆さんは祈りをもって見守ってくれました。自らどうしていいか分りませんでしたが、ある時牧師が、罪の悔い改めとイエス様を救い主として受け入れる信仰告白の祈りをリードしてくれました。聖書の分らないところは、魚のように柔らかい肉から食べて、固い骨は後に取っておきスープにすれば良いと言われました。聖書を読み進むうちにここに真実があり、イエス様の教えは人間の知恵から出てくるものではないと確信するようになりました。

その頃グリーンカードの抽選があり、申請書を千通ほど送ったところ、弟と私が当選しました。ここで道が開かなければ帰国かというところでした。すぐに労働許可が取れ就活を始めると、ホテルでの就職が決まりました。色々ありましたが、社長に引き止められながら、感謝のうちに円満退社することになりました。

93年5月30日に父なる神、子なる神、聖霊なる神のみ名によって洗礼を授かり、罪の赦しが宣言されました。職場で初めて福音を聞いてから約一年半の時が流れていました。その夜それまでにない平安と温かさが心を包み、聖書で約束された聖霊様を受けた事を知りました。

やがて聖霊様は、父の死は神様の主権下にあり、誰も責める必要がないことを示してくれました。また、神様がご計画をもってこの時代に生命を与えNYに導かれたこと、罪過の内に霊的に死んだ状態から引き上げ、イエス様の十字架の恵みに招き入れて下さったこと、神様と歩む喜びに満たし、この地においてもたくさんの使命が用意されていることも….。消化できるよう時間をかけて悟るようにして下さいました。

洗礼に際して頂いた新改訳聖書の裏表紙に、石賀先生がみ言葉を書いて下さいました。
神の全能の力の働きによって、私達信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。(エペソ1:19)

洗礼は、神様による溢れんばかりの祝福へのスタート地点です。この20年間の歩みを通して、私が離れている時でも、神様はこのみ言葉どおり偉大で真実でした。結婚、出産、子育て、大学院進学、再就職等、人生の節目において教会があり、共に喜びを分かち合い、試練の時は祈り支えてくれる人々を備えて下さいました。毎週の礼拝では神様の下で憩い、新しい一週間を歩む力が注がれます。日々神様の恵みを分ち合い、祈り支え合う人々が与えられえています。又、福音を語ってくれた人々、祈ってくれた人々の仕える姿が、クリスチャンとして使命を果たしていく上での良き見本となっている事を感謝しています。

目に見えなくても、イエス様は日々羊飼いとしてその民の歩みを導き、豊かな命を得させて下さいます。そして主の真実はとこしえに変わることはありません。

すべてのご栄光を主にお返しします。

月報2013年1~2月号よ

宮古コミュニティーチャーチ岩塚和男牧師による証

今月は昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた宮古市を中心に支援活動をされている岩塚牧師にメッセージをお願いしました。岩塚牧師ご夫妻は、今年の6月にNJを訪問され、被災地の様子をご報告下さいました。

「被災地の中心で神のシャロームを叫ぶ!」

宮古コミュニティーチャーチ牧師 岩塚和男

その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
He will be called, “Wonderful Counselor,” “Mighty God,” “Eternal Father,” “Prince of Peace.”イザヤ9:6

感謝と祈り
 2011年3月11日の東日本大震災から1年8カ月になりましたが、これまで様々な形でご支援下さり、お祈り下さった方々に心から感謝します。
また、先日ニューヨーク、ニュージャージーを襲ったハリケーン「サンデー」で被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。

最も被害が大きかったのは
 「東日本大震災で最も被害が大きかったのはどこですか?」
震災後に持たれた復興支援コンサートで司会をさせていただいた時に、このような質問をさせていただきました。
「大槌町」「(宮古市)田老」「……」などの地名があげられましたが、私が被災各地を回り、多くの被災者のお話しをお聞きした経験から「最も被害が大きかったのは私たちの心ではないでしょうか」というと皆さんが同意され、涙を流されていた方もいました。

なかなか癒えない心のダメージ
 ガレキが取り去られ、商店が再開し、外見的には復興が進んでいるように見えても、1年後のアンケートでは、85%の方たちが「まったく進んでいない」「ほとんど進んでいない」と答えています。1年8カ月になってもその数字はあまり変わらないように思えます。被災して心に受けたダメージの回復が遅れているのが現状です。
先日、ロサンゼルスで開かれた国際トラウマティック・ストレス学会で日本の精神科医により「福島の子供たちの21.5%が危険な心の状態にあり、大人は21.3パーセントが心的外傷後ストレス障害(PTSD)に陥っている」と報告されました。実に、5人に1人の方が精神的な問題を抱えているのが現状です。

悲しみに寄り添う働き
 昨年のお盆の前(震災から4ヶ月後)にある仮設住宅を訪ねたら、一人の男性が無表情で玄関にお盆の準備をしておられました。震災から1年8カ月を迎えようとしている11月に再びその方とお会いすることができ、玄関先でお話しをしました。しばらくすると、奥さまが目の前で津波にさらわれ亡くなられたことをお話し下さり、その深い悲しみで嗚咽しながら泣き出されました。私も一緒に泣きました。少し落ち着かれると、同じく奥さまを亡くされた友人を連れて、教会主催の仮設カフェに来られ、支援に来られていた牧師にこれまで一人で抱えてきた思いを打ち明けられました。そして「震災後初めてこのような機会を持つことができた。ありがとうございます。」とおっしゃって帰られました。この方は、1年8カ月もの間、悲しみを吐き出すことができずにいたのです。

震災で友人を亡くされた仮設住宅で一人で暮らされているご婦人は、自分だけが助かったことに罪悪感を覚えるようになり、また一人暮らしの孤独感で、時が過ぎるにつれて「海に飛び込もうか」「包丁でお腹を突き刺そうか」「……」と自ら命を絶つことばかり考えるようになったそうです。クリスチャンのボランティアが集中的に訪問することにより、今は、「もう死のうなんて言わない」「神様がいるってわかった」とおっしゃっています。

こうした、心が張り裂けそうな悲しみにある方がた、生きる希望が持てずに家にこもっている方がた、アルコール依存症の方がた、死にたいという思いに苛まれている方がた、……が今も大勢おられるのです。
そして、それは決して被災地に限った事ではないのです。
日本では、自殺者が年間およそ3万人、孤独死(孤立死)が東京23区だけで年間およそ3千人。大切な命が悲しみと孤独の中で失われているのです。

あなたの隣人が叫びをあげているのです。
悲しんでいる人々に寄り添う人が必要です。

「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」
 東日本大震災から二度目のクリスマスを迎えようとしていますが、
“その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)” と呼ばれる救い主イエス様が一人一人の被災者の心に、そして世界中の救いを求めている方々に訪れるように切に願わされます。

1.「素晴らしいカウンセラー」”Wonderful Counselor,”
 「不思議な助言者」は、尾山令仁訳では「素晴らしいカウンセラー」と訳されています。ほとんどの英語訳も同様に訳されているようです。多くの方が気休めや如何わしい助言者ではなく、まことのカウンセラーを求めています。どのような悩み、悲しみ、苦しみにある方にも、イエス・キリストこそその思いのすべてを受け止め、寄り添い共に歩んで下さり、解決を与えて下さるお方です。

2.力ある神
 震災後に多くの方がたが感じられて、言われたことは、それまで信じ、仕えてきた偶像の神々が「力ない神」で何の助けも得られなかったことです。教えを説き、御勤めやお布施を求めるが、具体的に助けることはできない神々。まさに“彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。(イザヤ46:1~2)”であったことを身を持って体験したようです。
しかし、震災後に、多くのクリスチャンボランティアに接した方がたが、クリスチャンの信じている神のことを知りたいと言われるのを聞きました。クリスチャンの愛の奉仕や証しを通して、その信じている神の偉大さ、力強さを覚えたようです。「あなたたちの信じている神様は強い神だ!」と言われた方もおられました。

3.永遠の父
 “わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)”とあるように、イエス・キリストは、私たちの父であり、愛する子供たち一人一人をみなしごにしない神である。
また、心の行き場のない人々が増えている現代社会で、父の家は私たちの帰るべき魂の故郷でもあります。
震災やさまざまな苦しみによって一人ぼっちになり、みなしごのような状態にある方々にとって永遠の父となって下さる救い主の愛が、私たちの奉仕を通して伝えられるように!

4.平和の君
 先日、ある集会で「伝道は自分たちの教団、教派の拡大とそのための信徒獲得のみを目指すのではなく、この世界に神のシャロームを樹立することを目標とすべきだ」と話させていただいた。“シャローム”は単に、争いのない、「平和」な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいい、「健康」「平安」「健全さ」「安全」「欠けることのない十全性」という意味も含まれる豊かなことばです。
キリストはその十字架により、神と人とのシャローム、また人と人とのシャロームを成し遂げて下さった。その福音をことばだけでなく、私たちの存在のすべてを通して伝えられればと強く願わされる。
仮設住宅での生活が長引くほどその生活の過酷さを訴えられる方が増えている。経済の問題、健康の問題などもさることながら人間関係の問題が深刻になっている。ストレスも溜まりDVも急激に増えているようである。
人間関係の難しくなっている仮設住宅の自治会長さんから「教会のボランティアはそういう(和解の働き)のが得意のようだから手を貸してほしい」と相談されたことがあります。私たちには、神から“和解の務め”がゆだねられているのだと再確認させられました。
それは神が求めておられることですが、世の人々も求めていることなのです。
今こそ「平和の君」であるキリストのシャロームが必要です。

月報2012年11月号より

「みんなくるくるクールなスクール~ JOY JOY Academy」

2012年8月14日、ジムに学校の教室ができて、その裏には迷路が広がりました。そして、56人の元気な子供たちが集まって、JOY JOY Academyが始まりました!17日までの4日間、楽しく遊んで、たのしく聖書の話を聞いて、元気よく歌って踊って、スポーツや工作をして、迷路トンネルを探検して、エキサイティングな日々を過ごしました。
詳しくはwww.jccofnj.orgからJOY JOY Camp 2012の写真やニュースレターへのリンクをごらんください。

聖書のメッセージと「くーるVerse」はこのようなものでした。

1日目:
この世界は神様が造ったんだよ
「初めに神か_天と地を創造した。」 創世記1:1

2日目:
神様は一人一人を特別に造られた
「神様は一人一人に何かすく_れた能力を授けてくた_さっています。」 ローマ 12:6

3日目:
神様はイエス様によって私たちの罪を赦してくださいます
「神は実にそのひとり子をお与えになったほと_に世を愛された。それは御子を信し_るものか_一人として滅ひ_ることなく、永遠のいのちを持つ為て_ある。」ヨハネ 3:16

4日目:
イエスさまが友達になってくれたように、私たちも誰かの友達になろう!
「救い主のわたしは、実にこの人のような者を捜し出して、救うために来たのです。」 ルカ19:10

一つ一つの聖書の言葉が子供たちの心の中に残りますように、お祈りしています。

以下にキャンパーとご家族、そして、スタッフから寄せられた声をご紹介します。

<キャンパーとご家族から>

こんにちは。
JOYJOYでお世話になったOとWの母です。
キャンプでは息子達が大変お世話になり、ありがとうございました。昨年、今年と子供たちはとても楽しい数日間を過ごさせて頂くことができました。
昨年初めて参加させて頂いてから、JOYJOY Campのために家族旅行の計画をずらして欲しいというほど楽しみにしていた今年のキャンプでした。
毎日楽しみで、朝起きるのも上機嫌。
でも木曜日になると「あと1日しかないの…」とすでにしょげるほどみなさんによくして頂いて、楽しいだけの時間を過ごさせて頂いたようです。毎日帰りの車の中でも上機嫌で、キャンプであったことをいろいろ話してくれました。
Oのお気に入りの「しもりん」さん、話しの中には何度も何度も名前が出て来ました。本当によくしていただいたのだと思います。
Wにとても優しかった「えりか」ちゃん。いつも笑顔で接してくれて、私もとても話しやすい明るいいい子でした。
私の子供たちもいつかはこんな風に優しい、思いやりのある子供たちに育って欲しいと思うばかりです。
ほかのスタッフの皆様も、本当に優しくていい方ばかりで、こどもたちがJOYJOYファンになる意味がよくわかりました。

錦織先生はじめ、スタッフの皆様、ボランティアで関わってくださった皆様、お手伝いくださった若いリーダーの皆様、本当にありがとうございました。
また来年もお世話になれたらと願っています。
4日という短い時間でしたが、本当にありがとうございました。


とても楽しい4日間でした。ありがとうございました。
夏休みがまだ遠かった頃から、娘たちが参加できるといいなと思っていました。
聖書のお話しを聞いた事のない娘たち、このまま大きくなったらさみしいなと考えていました。
長い間、教会へ行っていない私自身ですが。。小学生の頃は、聖書のお話しを聞いたり 暗記したり 夏は何泊かバイブルキャンプへ行ったり、クリスマス会など懐かしい思い出があります。
Joy Joy Campに参加した4日間、娘たちは大好きな工作やダンスだけでなく、スタッフみなさんの温かさに触れてパワーUPした様子です。


4日間大変お世話になりました。
兄(8歳)弟(5歳)で参加させていただきました。
2人とも来年もまた行きたいと声をそろえて言っています。
迷路や実験?(ペットボトルの魚つり)が楽しかったようです。
最後の日、お祭り・表彰式から自宅へ帰って来くると次男が急に泣き出しました。
「寂しいよ~、またあそこに行きたいよ~」としばらく泣いていました。キャンプが終わってしまったことが悲しかったようです。素敵なスタッフや友達に出会えて、充実していたんだなぁと改めて感じました。
また来年も是非、参加したいと思います。
ランチまで付いていて本当に大助かりでした。母はとても楽が出来ました。
また来年もランチ付きでお願いします。
4日間ではなく5日間にしてもらえると子供達も喜ぶのではないかと、要望としてキャンプ期間を延ばしていただけたら嬉しいです。
素敵なキャンプを企画、実行していただきありがとうございました。スタッフの皆様、本当にお世話になりました。


とても楽しい4日でした。
本当にありがとうございました
Kはいまだに歌を歌い踊ってます
Sもとても楽しんでいました。
二人そろって歌っているときがあります。


今回兄弟二人ではじめての参加でした。
毎日子供達を飽きさせることのない内容に、スタッフの皆さまのご準備にどれだけの時間が費やされたのかと思わずにいられません。
皆さまに温かく迎えられ、子供達の癒しになったことは子供達の笑顔が語っています。
二人揃って「もう終わり?来年もまた行くね」と言っておりました。ありがとうございました。


こんにちは
KとYの母です。
2人とも、キャンプ中とても楽しかったようで、一番はトンネルで作った迷路と叫んでいます。
お祭りも、とっても楽しかったです。
手作りの工作も多く、楽しかったようです。

一つ・・・お昼ご飯で、自分たちで作った・・・トルティーヤに包んで食べたのが、苦くて食べれなかった・・・辛かった・・・と
美味しかったのは、カレー 牛丼 お祭りのたこ焼き~と言っています。
また来年も行きたい!!と、もう今から、話しています。
色々とありがとうございました。


今回、初めて参加させていただきました。
子供たちも最初はどんなことが始まるのか少し不安そうでしたが、毎日「JOYJOY楽しいよ~」と言って戻ってきました。
また、スタッフの皆さまの親切さ、優しさに、子供たちも安心できたのではないかと思います。
わが家はクリスチャンではありませんが、今回のキャンプで神様のお話を聞き、現地校、補習校に習い事と、親子共に心にゆとりがなく過ごしている毎日の中で「神様に守られている」「それぞれに才能を与えられている」等の言葉は少なからず子供たちの心の中に残りちょっと安心したのではないかと思います。これから先、つらい時にはまた思いだして頑張る力となることを願っております。
本当に楽しい毎日で終わってしまった日は、とても寂しそうでした。またJOYJOYに(キャンプだけではなく)行きたいと毎日言っていました。キャンプが終わり子供たちの顔が優しくなったような気がします。子供たちの心に安らぎを与えてくださり、本当に感謝しております。


TがJoyJoyキャンプに参加するのは今年で二回目。昨年、アメリカに来てすぐに参加させて頂いたのが楽しくて、その後、月一のキッズクラブにも参加させて頂くようになりました。
今年のキャンプも楽しみにしていて、思い切り楽しんでました。
特にサッカーに熱が入っていたようです。
会場の装飾からプログラムまで至るところに工夫があり、スタッフのみなさまの発想力に頭が下がる思いです。
そして、何よりキャンプの雰囲気が温かく心がこもってる感じがするのがこのキャンプの魅力の一つと毎回感じています。様々な年齢の子とふれあい、神様の教えも学び、そんな中で何か大事なことを感じてくれたらなあとも思ってます。
今年もたくさんのスタッフの方のお力でキャンプに参加出来た事を感謝しております。本当にありがとうございました。

<スタッフより>

いつもながら、こどもたちの心はスポンジのようでした。
神様が世界と地球を造ったんだ、という話に、
”神様って本当にいるの?”と聞いた5才の子。
悪い人は天国に行かれないものね?という劇の語りかけに
“そうだよ。”という反応。
小さいなりに、罪が生む深刻さを感じているんだ。
“そのままでイエス様のところへ行けばいいんだよ。
罪が赦されて、永遠の命がもらえるんだ。”
十字架の愛はいつも感動的。それがこどもたちの心へも拡がっていくのを感じました。
植えられた種、注がれた水。そして、それを大きくして下さる神様の働きを期待しつつ。

キャンプ中に作成した巨大モザイク。
小さな8色の紙片を何百枚も貼っているうちにだんだん声を
失ったものの、やがて出現したイチローに大喜び!
近視眼的には分からないが、遠くからだと見えるものがある。
人生もまさにそうではないでしょうか。
1ピースを一日と数えると、24,000ピースは約65年分。
昨日は赤色、今日は青色だったりするけど、いつか全体を
見わたす日がやって来る。

年々肉体的にはきつくなることを実感したキャンプでした。
準備3日間が終わった段階で、(つまりキャンプ開始前に)
疲労はピークに….。
教会やスモールグループの皆さんに毎日祈ってもらったことが大きな支えになりました。祈りのパワーに感謝と感動。

月報2012年9月号より