「主のあわれみに生かされて!」

カリフォルニアから戻り、なつかしいNJの教会の仲間に再び入れて頂きました。若かった仲間の頭にも白いものが増えているのを微笑ましく見ながら、教会に忠実に仕えておられる姿を主に感謝し、昨日も今日も明日も変わる事のない素晴らしい主を共に賛美出来る喜びを感じています。NJを去る時はまたここに戻れるとは思っていませんでした。主人のリタイヤ後は、一人になった母の願いに応えて、日本で一緒に住む計画の方が強かったのですが、父が召された4年後に、あっという間に母が召されてしまいその機会を失いました。同時に起こったリーマンショックやマンハッタンで仕事をしている娘の事を考えると、 必然的に進むべき方向をNJにすることが最善であると示されました。カリフォルニアは日本とNJの丁度中間地点です。天国(?)の様な気候の中で、友人からは「何でわざわざあの寒い遠い所に移るのか?」、日本の親戚からは「もうそろそろ帰ってくるはずでは?と言われました。でも私と主人の思いが一致し、長いアメリカ生活を真実に導いて下さった神様がドアを開けて下さるのを待ちました。 そして、カリフォルニアから一歩を踏み出して、4300マイルを二人で旅しながら、遠いこの地に無事到着しました。知っている土地とは言え、シニアとしての歩みはどのようになるのか未知の世界ですが、与えられた人生の旅の続きをここで進んでいきたいと思います。
「いまは分からないが後で分かる」「私たちのうちに思いを起こさせかつ実現に至らせるのは神である」聖書。
今回、証の依頼を受けて、長くなった人生のどの部分をお証したらよいかと祈りつつ考えていましたが、カリフォルニアでの7年の間に両親を天に送った事を思う時、神様が私達小さいものに現わしてくださった家族の救いの恵みの一部をお話しして、家族の救いを祈って居られる方々の励ましになればと願います。そして自分自身、残された人生をどう生きていくかを考える時としたいと思います。
カリフォルニアでの7年間は高齢になった両親の為に日本に行く事の多い日々でした。教会の大きな行事の合間をぬって、主人の理解ある協力のもとに両親の世話に帰ることが出来ました。アメリカでの新婚生活スタートと同時に、主人と共に救いに預かった私の祈りはまず離れている両親の救いでした。母はクリスチャンホームで育ち、イエス様は受け入れていましたが、洗礼を受けるチャンスがありませんでした。父は大正生まれ、きびしい祖父の元で教育勅語にそった堅い教育を受けた人でした。(横浜でキリスト教の幼稚園に行ってみ言葉カードを集めていた事を後で聞き驚きました)。

妹は若くして洗礼を受けましたが教会から離れている状態でした。私の祈りのノートの初めに両親の救いと妹の信仰のリバイブが書き込まれました。その願いは、いつか必ず聞かれる、神様には出来ないことはないと信じながらも、現実に目が行き、だめかもしれないとくじけそうになる事がありました。両親がアメリカに来た時は共に礼拝に行きました。父は私が洗礼を受ける時も「貴方は自分の信じた道を行きなさい」と理解してくれるのですが、「私は自分の道を行くから」とキリスト教はやはり自分とは関係のないものと思っていたようです。クリスチャンが回りにいても、キリストの福音は知らなかったのです。日本に手紙を出すたびに、イエス様の愛を示す良い機会として、あらゆる手段を用いました。プレゼントに添え、力になるみ言葉やメッセージ、そして聖歌等を書き込みました。祈りつつ父を愛している気持ちをたくさん書きました。父の為に命さえも与えて下さるイエス様の愛が注がれている事を知らせました。それに対する反抗もなく、娘からの手紙は喜んで読んでくれていたようです。
NYにも2回ほど遊びに来ました。娘の大学卒業式に来た時は、錦織先生にお願いしてキリスト教入門の学びの時を作って頂きました。福音を知る一つのステップとなった事を感謝しています。祈り始めてからすでに15年近くがたっていました。
その頃、中野雄一郎先生の奥様のお話しを聞く機会がありました。中野先生のお父様は神学校に行く先生を勘当した程、キリスト教を拒否しておられたそうですが、長い間の祈りと愛の行為で仕えて行く内、「どうしておまえ達はそこまでしてくれるのか!と、イエス様を受け入れ、最後に「おまえが誰よりも一番親孝行だと言われた事を伺いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)「このみ言葉は真実ですよ、祈りは必ず聞かれます、あきらめないで祈ってください。」と言う奥様の言葉が心に残りました。次第に年をます父の救いに、希望を失いそうになっていた私は、否定的な思いが来ると、この聖書の言葉を口に出して言いました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」「主よ、信じます、どうぞ導いてください」。
すぐに事態は変わりませんでしたが、その間、父は母方のキリスト教のお葬式などに出席して、牧師の話に心が動かされるようになります。
父78歳の年、突然妹の17歳の長男が原因不明の病気で緊急入院しました。家族にとって初めてで最大の死に直面する危機でした。皆泣きながら祈り、助けを求めました。あらゆる検査をしても病原菌が見つからず、正確な治療が見つからず、甥は劇症肝炎で命を落としました。家族にとって青天の霹靂、神様に祈る力も失ってしまう悲しみの時でした。 関西におられたNJ教会の2代目の牧師、石賀誠師にお葬式をお願い致しました。甥の友人が200人近く参加した前夜祭で驚く事を聞きました。

彼が英会話を習いはじめた宣教師の先生から、聖書:ヨハネ黙示録3:20「見よ、私は戸の外に立ってたたく、だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼の所に入って、彼と共に食事し、彼も私と共に食事をする」を通して、信仰告白に導かれていた事を知りました。何という憐れみと希望の光でしょう。 「なんでこんな事が起こるのか」そんな悲しさの中で、神様のみ手に抱えられた甥の姿が目に浮かびました。妹も石賀師に導かれ、信仰を新たにすることが出来ました。
前夜式が済んだ夜遅く、さみしい気持ちが充満している静かな部屋の中で、父が突然「私も洗礼を受けてクリスチャンになる」とぽつりと言いました。一瞬何を言ったのか耳を疑いました。「えっ!クリスチャンになるの!」その後は涙が笑いに変わっていったのを覚えています。 あまりに突然!考えてもいないときに祈りが応えられました。時間空間を超えた神様の時でした。神様の約束は真実でした。夜休んでからも胸が高鳴り感謝が溢れました。“此の事をして下さったのは主です” 感謝と喜びと畏敬の念で一杯でした。 しかし気持ちは複雑でした。どうして妹の子がとられたのか?どうして?
妹の子の死は父の救いの一つのきっかけとなりましたが、神様が父や妹の為に此の事をなさったとは思われません。ヨハネ3:16に「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」と書かれています。イエス様がすでに私たちの救いの為に十字架で死んで下さっているのですから。
「いまは分からないが後で分かる」ヨハネ13:7. 人の死は余りに深くて、私たちには理解できないことです。神様のみ手の中にある事と信じ、やがて天国に行ったらすべてが分かる事として神様におゆだねいたしました。
それから父の求道生活は遅れた時間を取り戻すかのように始まりました。
戦争をも含めての深い人生経験から罪もハッキリ分かりました。80歳で石賀師より洗礼を受け、罪から、死の恐れからも解放されて、本当に穏やかな人生に変えられました。年齢ゆえの肉体的苦しみは色々出てきましたが、天国(=神の国=神の愛の支配)への希望を持って、いつも電話すると「ハレルヤ!インマヌエル(主が共におられる)と出てきました。あまりの変わりように、私は嬉しくて笑い出してしまう程でした。母も父の変わりようを見て安堵したように、家族最後の受洗者となりました。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」主の憐れみにより 聖書の言葉が成就しました。 父は地上でのクリスチャン生活を8年間も与えられました。「もっと早くに聖書を読みたかったと言いながら熱心に聖書に赤線を引いていた父に肝臓がんが見つかり、自らホスピス入院を希望、私もホスピスでの一ヶ月を共に過ごしました。
肉体的苦しみの中で、永遠を支える神の平安に守られて天へと帰ることが出来ました。元気だった母も抗がん剤に負けたものの、最後まで明るさを失わず天国へと移動しました。私にとって日本は遠くなりましたが、再会の希望のある天国が近くなりました。主イエスを信じる事がどんなに素晴らしい事なのか、主イエスの真実がいかに本物であるのかを両親の死を通してもういちど教えられ、また日々味わう毎日です。私も母が召された年まで20年を切りました。地上での神の国(「神の愛の支配」と錦織師に教えて頂いたばかりです)を歩みつつ、天の神の国を目指して祈り続けたいと思います。
皆様も家族の救いの為にどうぞあきらめないで、主を信じ祈り続けてください。 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神のみ前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」第二コリント10:4
主を心から誉めたたえます。

月報2012年7月号より

「福島から避難して」

今月は浅野容子姉がお証しを書いてくださいました。浅野ご夫妻は以前、JCCNJのメンバーであり、日本にご帰国後も、住んでおられたその場その場で教会に通い、主に仕えて来られました。今回、原発の事故で山口に避難しておられますが、そのような中で、今回、原稿の依頼を引き受けてくださいました。感謝いたします。祈りつつご紹介します。

「福島から避難して」

懐かしいNJ日本語教会の皆さま、いつも私たちのためにお祈りくださりありがとうございます。震災後一年以上過ぎた今も、私たちは第二の故郷・福島県を離れ、山口県で避難生活をおくっています。
私たち夫婦は退職後、自然の中で自給自足を目指した生活をおくりたい、子どもたちや孫たちにはいつでも来てのんびり過ごしてほしいと願い、福島県葛尾村に移住しました。阿武隈山系に囲まれた人口1500人余り、福島第一原発から約30kmの小さな村です。夫がほぼ独力で建てたログハウス、畑を耕し、鶏を飼い、ささやかな自給生活を楽しんでいました。
昨年3月11日午後2時46分。私は村の加工所仲間の家で、試作のパンをつまみながらお茶飲みしていました。突然、携帯電話の緊急地震警報がウィンウィンと鳴りだすと同時に強い揺れが襲ってきました。横の自動車整備工場の頑丈な建物も倒れるのではないかと思われるほどでした。揺れが少しおさまり自宅に戻るまで、カーラジオ(仙台発)は高い所に避難して下さい!とずっと叫んでいました。道路には大きな石が転がっていて、これは大変なことになった、神さま助けて下さいと祈り続けました。
自宅の建物には損害はありませんでしたが、台所の棚や冷蔵庫はひっくり返り足の踏み場もありません。二階への階段は落ち、薪ストーブもピアノも数十cmずれていました。強い余震がずっと続くなか、ただただ気持ちを静めるために、台所の床に散らばった食器類を片づけ、夫の帰りを待ちました。
郡山市内に通勤していた夫は夜9時過ぎにようやく帰ってきました。JRが不通となったため、会社の車を借り渋滞のなかを戻ってきたのでした。電気は通じていたので沿岸の津波の惨状をテレビで見、私たちはまだ生きているし、家も大丈夫だと感謝しました。一晩中強い余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。
翌12日は津波の被害にあい沿岸部から村の福祉センターに避難してみえた方々に毛布や冬物衣類を届け、その後一番近いスーパー(車で30分)まで食糧の買い出しに出かけましたが、すでに商品棚は品薄でした。午後、テレビで福島第一原発が爆発したというニュースが流れました。その時は電話とネットがつながらなくなっており、情報はテレビからしか得られません。夕方の政府発表は曖昧な内容で鵜呑みにしてはいけない、これはまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを積んで郡山に向かいました。ところが郡山市内も断水、建物の崩落など予想外に被害が大きくどこにも泊まれず、避難所になっていた開成公園という野球グラウンドにやっとたどり着きました。原発近くの市町村からの避難者を待ち受けていたのは、緊迫した雰囲気の中で行なわれるガイガーカウンターによる放射線量検査でした。原発の状況はやはり大変なことになっているのだと、この時、肌で感じました。
その夜から三日間、体育館で過ごしました。津波に追いかけられ泥だらけでやっと逃げおおせた方や、四世代の家族が寝たきりのお年寄りを囲んでいたわりあう姿もありました。原発は安全だと言われて信じていたのに…という声が体育館のあちらこちらから聞こえてきました。娘たちとも連絡が取れず心配をかけてしまいましたが、無事を確認しあえた時は皆、涙、涙で感謝しました。
その後、郡山の会社独身寮、浜松の次女の家、再び会社借り上げのワンルームマンション(郡山)と転々としました。その間に村は「計画的避難区域」に指定されてしまい、全村避難となりました。原発から二十キロメートル圏内の警戒区域と違い自宅への出入りは許されていますが、家の周囲の放射線量は比較的高く、さらに爆発があればもう二度と戻れないのではないかという喪失感に押しつぶされそうで、かつて村で過ごした日々の何気ない一コマ一コマも思い出され、不安な眠れない日々を過ごしました。この間、日本へボランティアに駆け付けて下さった範子姉ともお会い出来たのは何よりうれしい出来事でした。放射線量が高い郡山から避難すべきかどうか悩んでおられる姉妹を訪ね、実際にお聞きし共に祈ったことも忘れ難いことでした。その後、私たちは6月末に下関の実家近くに大移動し、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻し始めました。
私は以前から原発の危険性について知ってはいましたが、反対の声を大きく上げることはしてきませんでした。建設後四十年経った古い福島第一原発が廃炉にもならず、それどころか危険なプルサーマル燃料を使用する方針が決まった時にも大丈夫だろうかと疑問に思いましたが、うかつなことに福島県で原発事故は起こらないものと決めてかかっていたのです。でも、こうして事故は起こってしまい、 森林と里山がひろがる緑豊かな村の風景は震災前と何一つ変わらないのに、里山の財産ともいうべき豊かな森、雑木林、水、空気は目に見えない放射能に汚染されてしまいました。原発事故の当事者となって初めて、原子力発電がいかに危険なものか、どれほど人の心をむしばんできたのか、そして、この日本という国は私たち国民のいのち、そして一人ひとりの生活を大切にしない国だということに思いいたりました。私たちが経験した悔しさと怒り、将来への不安を次世代に負わせないために、二度とこういう事故を繰り返さないために、当事者として声を上げ続けていくことも私たちの責務だと思います。手探りですが、このことも主が最善のことをなして導いて下さると信じ、祈りつつ歩みたいと思います。
政府はこの春にも避難区域の見直しを行い、村への帰還を勧めてくるでしょうが、子どもたちや孫たちが遊びに来られない生活は、私たちの望む生活ではありません。今は山口県内で落ち着き先を求めて祈っているところです。今後の生活がどうなるのか、不安がないといえば嘘になりますし、神さま、この状況はいつまで続くのですかとつぶやくときもあります。でも、天に希望をおく私たち夫婦には平安があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
コリントの信徒への手紙一10章13節(新共同訳)

津波と原発事故により、今も苦しんでおられる福島の方々のことを忘れないでいてください。忘れないでいることも、原発事故を小さく見せようとする勢力に対する一つの抵抗だと思います。そして覚えてお祈りください。祈りの輪の中に神さまはおられ、その祈りを聞き届けてくださいます。神さまは祈られている者たちを覚えていてくださり、いつか立ち上がらせてくださると信じています。

「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌とともに希望の朝をむかえさせてくださる。…あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」
詩篇30篇(新共同訳)

月報2012年5月号より

「助け手と共に逃れの道をも備えて下さる神様」

私が聖書を読み始めたのは、IL州に留学している大学時代のことです。日本から遊びに来ていたクリスチャン女性との出会いが大きく影響しています。彼女は、それまでに出会ったクリスチャンとは違い、とても活発で魅力的な人でした。ちょうど彼女と私は、好きな人が出来たところで意気投合し、仲良くなりました。彼女が、「私は何も心配していないんだ~。彼なのか彼じゃないのか、神様に聞くだけだから。」と言ったのです。私も運命の人を信じていたので、そのことを話すと、「だったら、その人が神様からの人なのかどうか、神様に聞いてみたら?」と言われ、彼女から聖書をもらい、読み始め、神様からの答えを求めて祈るようになりました。彼女と共に礼拝にも出るようになり、彼女が日本に帰る前には、日本人の宣教師夫婦も紹介してもらいました。このご夫婦も、とても素敵で、あ~、こういうクリスチャンだったら、なっても良いな~と思ったことを覚えています。そこでの交わりが楽しくて、私はバイブルスタディに通い、聖書とは、クリスチャンとは、ということを学んでいきました。卒業後、日本に帰ってからも神様を求め続けることが出来たのは、心に触れられる御言葉があったからです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(エレミヤ書29章11節)

この御言葉を読んだ時、神様は私にどんな計画を持っておられるんだろうとワクワクして、私はいつか必ず神様に出会うんだと思わされました。卒業後もバイブルスタディのメンバーと手紙のやり取りを続け、その中に、神様がこう語られた、神様がこうされた、と書いてあり、私は、そのような経験をしたことがなかったので、「神様、もし本当にあなたがおられ、私を知っていて下さるのなら、私に体験させて下さい。」と祈りました。

その数ヶ月後に、シンガポールでの仕事の話があり、シンガポールに行きました。それは、新しく立ち上げた現地の会社の社長の秘書兼経理の仕事で、社長が使いこんでいたお金を整理することがメインの仕事でした。最初、彼は私も取り込もうとしていたようですが、そういうことが大嫌いな私は、彼を追及し、結果、別の人を雇われ、仕事を取り上げられました。それでも日本側にはレポートを提出しなくてはいけないので、取り上げられたファイルをコピーさせてもらい、自分の仕事をしました。人生初のいじめに遭い、シンガポールの気候にも慣れず、辛い時期を送っていました。毎週教会に通い祈り、眠れない夜、神様に「助けて下さい。次の仕事を与えて下さい。」と祈る日々でした。

そんな中、友達の教会で集会があり、オーストラリアから預言の賜物がある姉妹が来るということで参加しました。その時に、仕事についても語られました。「仕事… 大変ね~。あなたを監視している人がいるけど、大丈夫。神様が、その人の更に上からあなたを見守っていて下さるから。もうしばらく我慢しなさい。時が来たら、あることが起こってあなたはそこから動くから。」預言は吟味する必要がありますが、仕事が大変で助けを神様にいつも祈っていた私にとって、この言葉は大きな励ましとなりました。そして、その言葉通り、その2ヶ月後に、仕事を辞めることになりました。辞めることを告げた次の日に、教会から連絡があり、家庭集会に誘われました。その集会のホストの女性は日本語ができる人で、私の現状を伝えると、彼女はとても驚いていました。というのも、彼女はご主人の都合で、会社を辞めるところだったのです。彼女の会社はドイツのメーカーで、ちょうど日本の企業との取引が始まり、きちんと日本語で対応できる人を後任として入れたいということで、すぐにレジュメを作り、彼女に出してもらいました。そして、面接に行き、あっという間に仕事が決まりました。この一連の出来事を通して、私は、神様が本当におられ、私を知っていて下さることを確信しました。

その確信を頂いてからの神様と歩む人生は、祝福を多く頂きながらも、試練もたくさんありました。でも試練は永遠に続くことはなく、いつも神様は助け手を送って下さり、逃れの道もその都度備えて下さいました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Iコリント10:13)

JCCNJに導かれたのも、試練の中にあり、更なる試練が訪れる前のことでした。VA州で大学院を卒業し、仕事でNYに来ましたが、家と会社の往復だけの忙しい生活で、日曜日に礼拝を守るのが精一杯の日々でした。私は日本人クリスチャンの集まりに対して恐れがあったので、ローカルの教会に通いつつも、NYには共に祈り合える姉妹もおらず寂しい思いをしていました。そんな中、ある人との会話の中で、はっと思わされました。アメリカ人のその人は、中国人伝道に重荷があるような気がするけれども、本当にそれが神様からの召しなのかどうか分からない状況の中にいました。その人との会話の中で、私は、日本人に対して重荷があることを話し、「はっきりと自分の召しが分かっていることは、神様からの祝福だね。」と彼に言われた時に、私は言っている事とやっている事が全く逆であることに気付かされたのです。あ~、私は日本語の教会に行かなくちゃいけなんだなぁと思わされ、主に祈り、私の行くべき教会へと導いて下さいとお祈りしました。

日本語の教会を探し始めた時、VA州で通っていた日本語のバイブルスタディのリーダーが、JCCNJで礼拝を守ったことがあり、良かったよ~と薦めてくれたのですが、NJまで通うのは無理だと思っていたのでJCCNJは全く考えていませんでした。でも その話を別の姉妹にしたところ、彼女がウェブサイトをチェックしてくれて、マンハッタンから送迎があることを教えてくれました。私は、毎日帰りが遅く、なかなか調べられない中、神様は、姉妹方を通して私をJCCNJに導いて下さいました。初めて教会に来た日は、不安な思いがありましたが、皆さんが気さくに話しかけて下さって、私は居心地が良く、それから通い始めました。その数ヶ月後に、会社からノルマを超えられなかったらレイオフもあり得るという話が出たのですが、その前にJCCNJに導かれた事は、神様の憐れみであり、助けだったと思います。次の道について神様に祈る中、会社をレイオフされる数週間前の10年目の受洗記念日に、永住権当選の書類が届き、神様は次の道をも開いて下さいました。

無事に永住権を取得しアメリカに戻ってきましたが 今も試練はあります。仕事はまだ与えられていませんし、長い間祈っている結婚も、家族の救いもまだです。でもこれらの試練も必ず終わる時が来ると信じています。これからも神様が立てて下さっている将来と希望を与える為の計画を期待して待ち望み、体験させて頂きたいと思います。

※教会では、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」とのイエスの言葉から、互いを「兄弟」「姉妹」と呼ぶことがあります。

月報2012年3月号より

「いまわのときまで」

私の母はアルツハイマー病のため、認知症患者用のグループホームに2010年の春まで3年半入居していました。私は娘達と共に毎年夏に帰国して母を見舞っていましたが、ホームは実家から通うのに2時間近くもかかる場所にあったため、毎年せいぜい4~5回通うのがやっとでした。2年目に訪ねた頃から、母は私のことが認識できなくなったようでした。イザヤ書に、“女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。”(イザヤ書 49:15)とあります。母は病気なのだから仕方がないとわかっていても、“起きるはずがない”と思い込んでいたことが起きて、それまで自分が大好きだった聖句がとても虚しく聞こえるように感じました。
2009年末から翌年にかけての冬、母は血圧が低くベッドから起き上がれない日が多くなりました。食べ物の飲み込みも悪くなり、ホームのスタッフからは、状態が悪化した時に医療介護が無いグループホームでは対応できないので、できるだけ早く医療介護の整った老人ホームへ転居するように勧められました。グループホームは実家から通うには遠いところにはありましたが、小規模でスタッフの方々がとても良く面倒を見てくださる施設でしたので移りたくはなかったのですが、そのまま病状が進んでしまってからでは間に合わなくなるかもしれないと、2010年3月に実家から徒歩で5分とかからない場所にある老人ホームへ移ることになりました。
母が移転して10日程経った3月末に、イースター休みの次女と共に帰国して、1週間ほとんど毎日母を見舞うことができました。初めて母の滞在するホームに行った日、母の乗る車椅子を押して5階のエレベーターホール横の大きなガラスドアの前に立って、外に見える景色を母と眺めていました。実家の直ぐ側の公団住宅とバス通りが見え、その先傾斜に沿って目をやると、なんと母が所属する溝ノ口教会の十字架が見えたのです。その時の驚きは何とも表現ができないものでした。病のために聖書を読むことも賛美をすることもできなくなって久しいのに、主は実家のそばに母をもどしてくださっただけではなく、長年通った教会の十字架が見える場所に住まわせてくださったのです。あの時、母には十字架が見えていたのか、自分の教会の十字架だとわかっていたかどうか、私には分かりません。今思えばむしろあれは、主から私へのメッセージだったのだと思います。それまでの数年間、イザヤ書のあのみことばの一部分に囚われていた私に、主は「みことばの本当の意味から目をそらすな!」と語られたように思えました。
こうして母の入居先がちかくなったことで父は毎日のように母を見舞うことができ、それによって母の状態も落ち着いたようで、また食べられるようになりました。私もその年(2010年)と昨年、夏に滞在していた間は、週に4-5回母を訪ね、食事の世話をしたり部屋で一緒に音楽を聞いたりしました。数回聖書を音読してみたのですが、あまり反応はなく、母の信仰が守られているのかと不安になることもありました。
昨年の11月23日、急遽日本へ向けて出発しました。母が入居先の老人ホームで右肩甲骨の辺りを打撲し、内出血がひどく輸血が必要となり、整形外科のある病院に入院することになったのです。父は春頃から食欲不振に悩まされていましたが、腎臓癌のために右側の腎臓が2倍ほどの大きさに肥大していることが10月の検査で分かりました。そのため、11月末頃に入院して腎細胞の生体検査を受けることにはなっていたのですが、診察をした腎臓内科の医師から即入院して検査するように言われ、父と母がそれぞれ別の病院に急遽入院することになったのです。
実家に着いてみると、父は入院はしたものの、祭日や週末などで肝心の生体検査をいつやるのかわからないと言って、母の入院していることを理由に一晩も泊まらずに帰宅していました。翌日から私は、毎日母に昼ご飯を食べさせるために入院先の病院に通いました。母はアルツハイマー病がかなり進んで、食べることに対する興味も薄れており、また食べ物を飲み込むこともよくできなくなっており、一時間かけてもほとんど何も食べてくれない日が続きました。母のベッドの横でいつまで経っても減らない昼食の盆を見ながら私はとても虚しくなり、「頼むから食べて!主よ、私は何のために此処にいるのですか?」と心の中で叫んでいました。
一週間程で母は退院しホームに戻りましたが、ほとんど摂食できず体力不足のうえに肺炎を発病し、血中酸素量が下がり、退院からわずか5日で治療のためにホームと同じ建物内にある内科のクリニックに再入院となりました。父の生体検査もその週に行われることになり、2日後に父も都内の病院に入院しました。それからの5日間、午前中は父の病院へ行き、帰りに母の病室に赴くという日が続きました。父の検査は無事終了し、順調に回復して予定通りに退院しましたが、母の肺炎は抗生物質を投与し続けていても病気の進行を遅らせるのがやっとという状況でした。その頃からでしょうか、私が母の病床でする祈りが、癒しを願う祈りというよりは主の守りを求める祈りへと変えられました。私だったら、今、何を主に求めるだろうか?「癒してください。でももしもそれが御心でないのならば、みことばの約束の通り、最後まで共にいてください。どうか守り支えてください。」と主に願うのではないだろうか。こんなことを思いながら、母の手を握り祈りました。
延命処置になることはしたくないという父の意向により、総合病院に移って人工呼吸器を使って治療を続けることは断念しました。肺炎は両肺に広がっていて、母は酸素を充分に取り込むことができず、酸素マスクを付けてもかなり呼吸が苦しそうになりました。しかし意識はかなりしっかりしていたので、私の祈りを聞きながら私の手を強く握り返したり、好きだった讃美歌が聞こえてくると一緒に賛美したかったのか声を挙げることもありました。上半身を震わせるようにして息をする母の姿に、十字架の上で苦しまれたイエス様のことを思わされました。
今思うと、母が個室に移ってからの最期の3日間は、私と母がお互いにそれぞれの信仰を支え合うために主から与えられた時間だったのではないでしょうか。私はしゃべることもできなくなってしまった母の祈りを祈り、母は苦しみの中にあっても最後まで主を信頼して生きる姿を私に見せてくれました。母の教会の牧師が訪問してくださった時のこと、母は初め眠っていたのですが、牧師の「聖書をお読みします」の一言に急に目をぱっちりと開け、聖書朗読の間、じっと天井を見つめていました。体は衰弱し切っているのに、母の目には確固たる意志を感じさせるような強さがありました。
「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒行伝16:31)母を天に送って葬儀の準備を進めて行く中で、このみことばがずっと私の中にありました。アルツハイマー病になるずっと前から、母は「たとえ家の都合で自分のお葬式が教会でできなくても、骨は分骨して半分を実家の墓に、残りの半分を教会の墓地に納めてもらいたい」と言っておりました。やがて母は、病気のために教会に通うことも聖書を読むこともできなくなってしまいましたが、その間に主は父の心に母の願いを叶えてやりたいという強い思いを与えて下さり、母は望んでいたとおりに教会で葬儀を執り行うことができ、また、骨も半分ではなくすべて教会墓地に納めることとなりました。母はそんなことになったとは知らずにこの世を去りました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13:5)という主のことばを信じて、母は主にすべてをお委ねしたのだと思います。まさに、みことばを信じる信仰によって母は救われました。そして、そんな母の最期を見届けることによって、私も救われました。

主をほめたたえよ、わが魂よ、主をほめたたえよ、
われ生ける限りは、主をほめたたえ、
わがながらうるほどは、わが神をほめうたわん。
(詩篇146:1~2・交読文より)

月報2012年2月号より

「賛美と踊りと私」

詩篇150編には『どこで』『どうして』『何を持って』『誰が誰を』ほめたたえるのか書かれています。賛美の形は本当に様々。大切なのはそれが神様をほめたたえる行為である事。私が神様をほめたたえながら踊る時、神様はその賛美の中に住んでくださいます。

‐神様との出会い、受洗の証し‐
私は2004年9月、18歳の時にイタリア・ミラノスカラ座バレエ学校へ編入留学しました。初めての海外、イタリア語での生活に必死で、友達を探す余裕はありませんでしたが、留学生活が半年ほど経った頃、私はミラノ市主催のイタリア語教室に通い始め、そこでリー・ウンジョンという韓国人のオペラ歌手志望の女の子と出会いました。彼女はミラノ賛美教会という韓国教会の信者で、牧師は日本人伝道を使命としていて、そこには日本人のグループもあるのだということを教えてくれました。そしてある日「日本人の素晴らしい歌手が歌うから絶対来て!!!!日本人も沢山いるから!!!」と彼女から猛プッシュを受け、教会のコンサートに行きました。その歌手は工藤篤子さん、賛美の歌を通して伝道しておられる方です。その時は誰にも挨拶せずにさっと帰ったのですが、次の日曜日も私を教会に誘う彼女に押し切られるように、私は日本人のグループの方たちと一緒に初めての礼拝を捧げました。礼拝が終わってから牧師夫人が「聖書の勉強はじめませんか」と声をかけてくださり、私は「勉強したいです」と答えました。こうして受洗前の学びが始まり、神様が全ての創り主であること、自分が罪の性質を持った人間である事、それから解放されるにはイエス様の十字架が必要であることなど素直に信じました。嫉妬深い自分が醜く、いくら頑張って練習しても認めてもらえず、それでもプライドだけは高く自分の負けを認められない。人前で素直になれない。こんな醜い心の中は誰にも見せられない。その頃の私はこのままの私を受け入れて改良してくれるものが必要でした。それはまさにイエス様の十字架でした。このようにイエス様を心にお迎えした私は喜びにみたされました。私の暗かった心は神様の栄光の光で輝き始めました。

‐踊りの賜物‐
2005年7月4日に洗礼を受けた後もイタリアでの生活は続きました。でももう独りではなく神様と一緒でした。生まれたばかりの赤ちゃんのような信仰者だった私を祈って支え育ててくれたのはミラノの信仰の家族でした。特に内村伸之牧師、まり子夫人とは2007年から1年半ほど共同生活をさせていただき、その中で沢山の試練、誘惑、祝福を受けました。私はそのころ、学校を終えてヨーロッパでダンサーの仕事に就くという夢を抱いていました。オーディションの情報を集めてはあちこち飛び回り、そしていつも落胆してミラノに戻ってきました。
そんな私をいつも暖かく迎え入れてくださる内村先生ご夫妻ですが、ある日、見るに見かね、このように声をかけてくださいました。「神様の声を聞いていますか?」「踊る仕事を見つけることは本当に神様があなたに計画しておられること?」「今ミラノにいる事にどんな神様の計画があるだろうね?」正直あまり聞きたくなかったです。バレエの世界は本当に厳しく、仕事を見つけられる人はほんの一握りです。その一握りに入る為に毎日必死に練習します。バレエの事に詳しくない人に口を挟まれるのが私は大嫌いでした。内村先生は私の気持ちを良くわかっておられたと思いますが、その時は、私がその場を立ち去ることを許してくださいませんでした。とても悔しかったですが、事実私は神様を知ってからも自分の願いに縛られ神様の介入を無視して生活していました。内村牧師夫妻は私と真剣に向き合い、ふわふわした言葉ではなく高慢な私の心を砕く為の、鋭く痛い、愛で満ちた嘘のない真実な言葉で諭してくださいました。そして私は自分の部屋でうずくまって祈りました。敗北感でいっぱいでした。『私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得るためです。』(エレミヤ42章6節) 心に突き刺さった言葉に納得するのは私の敗北を認める事を意味していましたが、聖霊様によって、凍っていた心が融かされ、涙となって流れ、私は敗北を認め「主の御声に聞き従います」という告白に導かれました。そして自分の夢をあきらめました。「神様、踊る事があなたの御心でないなら私は手放します。でもこの心に空いた穴を埋める為にあなたが私に願う賜物をすぐに与えてください」と祈りました。神様のために私を用いていただけるなら何でも良かったです。私の中の優先順位が変わった瞬間でした。
『私は彼らを彼らの地に植える。彼らは私が与えたその土地から、もう引き抜かれる事はない』(アモス9:15)   『人の歩みは主によって確かにされる。主はその道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまには倒れはしない。主がその手を支えておられるからだ。』(詩篇37:23・24) この御言葉が与えられてから私はミラノ賛美教会に植えられているんだという確信と共に主の助けによる平安を与えられました。
このオーディションで最後、バレエは諦めます、とお祈りして、ミラノから200kmほど離れたビチェンツァという街にあるバレエ団のオーディションを受け、神様の憐れみでバレエ団に採用される事になりそこで4年間踊りました。「そんなに踊りたいなら踊りなさい。しかし私のために踊りなさい」という主の声が聞こえてくるようでした。一度手放した踊りを神様が私の元に戻してくださったこの時から踊りは賜物になりました。ダンサーとして生活しながら思うのは、踊っているときに神様ではなく私自身が主役になっているということです。舞台の上で目立ちたい、どうしたらもっと綺麗に見えるだろう、この人よりも前で踊りたい・・・というように私自身にスポットライトを当てようとしている事に気づきます。そして踊れる事を当たり前のように思い、同僚へのライバル心など自分の心の汚さに落ち込む事や、神様から与えられた五体満足の体に文句を言う事もあります。その度に「私が持っているもので神様から与えられたものでないものは一つもありません、自分を誇りません」、と悔い改め、踊りによって神様を讃え、神様の愛・平安・光・喜び・救い・真実さ・・を表現したいと願う心に変えられることは私が毎日受けている大きな恵みです。『私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身はイエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。「光がやみの中から輝き出よ」と言われた神は私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。』(�コリント4:5-7) これは私の23歳の誕生日に与えられた御言葉です。私は喜びに満たされて、神様を踊りによって伝える事が出来ると確信しました。私が踊っているときに放っている神様からの光は、まだまだ小さく消えそうなろうそくの火かも知れませんが、それでも誰かを照らす事は出来ると信じます。そして、踊りによって私たちの造り主を讃え伝えるために、私の踊りに影響力が与えられるよう祈ります。私は今の自分の姿を愛していますが、今の状態に満足せず私が反射させる神様の光がもっともっと強く暖かく輝くように変わっていく事を願います。

愛する神様、あなたの栄光のため私を踊らせて下さい。私がもっとあなたを知るように。そしてあなたを宣べ伝えさせてください。

月報2012年1月号より

「スモールグループを始めて」

「いまだかつて、誰も神を見たものはありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
第一ヨハネ4章12節

2010年4月、川崎招待キリスト教会で「家の教会」(スモールグループの一種)のセミナーに参加させて頂きました。今でも深く印象に残っているのが、数人のリーダーの方たちの証です。「家の教会」を始めるまでその効果や継続性に対して懐疑的であったこと、始まってからグループ内で感情的なもつれが生じて苦しんだこと、これまでずっと自分が精神的に頼っていたのは神様ではなく他人であったことを示されたこと、などをお分かちしてくださいました。証の中で、この方たちは時間が作れないはずだったのに「家の教会」を始めてから作れるようになった、集中祈祷で神様に自分の葛藤を全て注ぎだして自分の罪が示された、「家の教会」リーダーとなり一回り成長することができた、と報告してくださいました。
私達は不可能だと思うとき、何も頼るものが無いときに、また自分の弱さを知るときに、神様の示しに従うことができるか試されるように思います。私も最近、なぜ自分がリーダーになる必要があるのか?他にもっと適した人がいるではないか?という思いが心を占める経験をしました。一つには日本では小学生の頃から班長や学級委員などが選ばれる時に、面倒くさいからやりたくないから他の人にやらせようというクラスの雰囲気があったり、またリーダーには必要な知恵や助け手が与えられず孤軍奮闘するというイメージが定着しているからといえるでしょう。しかし神様の選びは、日本の公立学校でお荷物のように選ばれる学級委員などとは異なり、必要なサポートも与えられ、いつも最後には私たちを生かしてくださると信じる必要があります。
さらに最近、なぜリーダーを経験する必要があるのか?という記事を読む機会がありました。確かに適材適所という言葉が示すように、全員が同時にリーダーになる必要は無いですし、逆に方向が決まらずにグループがバラバラになってしまうように思えます。聖書にも「あなたがたはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。ではなぜ、それでも自分がリーダーに相応しいと思えなくても私たちはリーダーを経験する必要があるのでしょうか?それはリーダーを経験したことがある人は、他の人がリーダーになった時に、リーダーを尊重し、自分がどうグループに貢献することができるか考えることができるからだ、といいます。私もこれまでリーダーの方の苦労を知り、自分にできる貢献をすることによりグループをまとめる手助けをするという視点があったか?と反省させられました。リーダーを批判することばかりしてきたのでは無いか?と。
わたしたちのスモールグループは、短期的にニューヨークに滞在している方も含めて、女性7名で守っています。週一回のペースで集うことについて時間的な懸念がありましたが、いまのところ一人のメンバーの洗礼式があった週を除いて、欠かさず持つことができています。スモールグループの目的は、御言葉の分かち合い、霊的・精神的なサポート、アカウンタビリティー、祈祷課題や感謝報告を安心して分かち合える場所となることなどです。そして、ただの自助グループではなく、常に神様から頂いている恵みに満たされるような場所となることを願っています。
今わたしたちのグループが願っていることは、このグループが伝道の器として用いられることです。NJの教会にいくことができないNYにおられる方々のための飛び地伝道所としての働きができるように、切にお祈りしています。

月報2011年12月号より

「この一年を振り返って」

私にとって皆さんと過ごすことのできた一年間はあっという間でしたがとっても実りの多い一年でした。お一人お一人にお会いできたこと、祈りあえたこと、礼拝を共に守れたこと、行事に参加できたこと、挙げても挙げてもつきないほど私の中で神様に感謝でいっぱいになります。
昨年の10月末、まだ半袖で過ごしていたヒューストンから念願のニューヨークにとりあえず3ヶ月、仕事のため一人でやって来ました。アパートにスーツケースとかばんひとつで着いた時、アメリカに初めて来た時を思い出しました。夜になってももちろん夫は帰ってこないし、夜寝るときも一人だし、寝てるときもいびきは聞こえてこないし、なんだか慣れない生活が始まるんだという実感が沸いてきました(次の日主人は週末を使って来たのですが)。
仕事初日の前日、ニュージャージー日本語教会に初めて夫婦で行きました。ニュージャージーの教会に行こうと思った理由は10年前のサマーキャンプで、イエス様は私の罪のために十字架に架かってくださったと私の心に力強いメッセージをされたのが錦織先生でしたので、もう一度お会いできることを楽しみにしていたからでした。礼拝中の挨拶の時間やお茶の時間に本当にいろんな方に声をかけていただき、とっても歓迎された気持ちになり、次の週も来たいと思いでいっぱいになりました。仕事も、同僚も、生活も慣れないこと続きで不満がたまっていた次の週、やはり礼拝中の挨拶の時間に「今週もお目にかかれてうれしいわ。」とか「お元気でしたか?」という簡単な挨拶からでも神様の愛が伝わってきて胸がいっぱいになりました。次の週もまた来たいと思い、次もそのまた次もと結局一年お世話になりました。
仕事にも生活にも慣れていくうちに色々ハッと気付かされました。JCCNJでは受難週の集会、地域の集会、修養会、集まる毎に小さいグループに分かれ祈ることが多く、それほど親しい仲ではない私にも祈りの課題を分かち合って、ただおしゃべりをするだけではなくて、私のためにも祈ってくれるという関係が私には新鮮で、これって兄弟愛だなーと思わされました。一人ひとり課題があり、大変な中を通ってはいるのですがそれも分かち合い、共に今与えられている自分の役割に忠実に歩んでらっしゃる集まりで、すばらしいと思います。
もうひとつはヒューストンでは、いつから夫と一緒に教会にいかなくなったのか覚えていないくらいで、私にとってそれは優先順位の低いことだったことにも気づかされました。夫にとってもJCCNJは男の人もいて話ができる人がいるまた行きたくなる場所だったのだと思います。大好きだった仕事ですが優先順位が変わり、妻であることも神様の召しであることを喜んで受け入れられるように私も変えられていきました。

聖書の中でパウロが皆さんを訪ねたいと何回も出てくる気持ちが今はもっと理解できます。皆さんと交われ、教えられた一年私たち夫婦には宝物です。またお会いできる日を楽しみにしています。

月報2011年12月号より