2020年10月牧師室より「与えられているものを用いて」

今年の3月に、新型コロナウィルスの感染が広がって、「集まらない」「会わない」ことが、相手を尊重することであり、愛することである、という普通とは真逆な事が起こりました。いつもは時間を取り分けて集まること、時間と労力をかけて会いに行くこと、会って話をすることが、お互いを大切にすることでした。私自身、「大切なことは会って話をしなければ・・・」といつも思っていました。しかし、「誰が感染しているかわからない」「自分が感染していることを前提にして、周りの人々を感染させないように行動しよう」という状況の中で、「会う」ことは相手を危険に晒すことであり、「集まる」ことは、社会に対する無責任な行動となってしまいました。今は、少し状況が落ち着いて、礼拝だけは集まっていますが、そこでも、互いに距離を取り合い、握手はハグはなし、讃美歌も声を抑えて、曲を減らして歌っています。やはり、それが互いを尊重し、愛することだからです。たとえ、それが「なんだか物足りない」「さびしい」と思っても、そのようなお互いの気持を遥かに超えて、互いの安全を守ることが大切なことだと思うからです。それは決して、ある人々が言うような、見えないウィルスに対する「恐れ」による逃げではなく、「愛」による積極的な行動です。それが責任をもってこの地に生きる教会の使命なのです。

そのような状況の中で、インターネットやコンピューターの発達がどれほど助けになっているかと思います。

私がJCCNJの牧師となったのは、やっとeメールが普及し始めた頃でした。教会がホームページを作って、教会の存在を知ってもらうということが始まったのもその頃です。「ダイヤルアップ」でインターネットに繋ぎ、文字で情報を発信し、また集めていました。しかし、それから23年が経ち、今は教会の礼拝の様子をビデオで発信することができるようになりました。また、Zoomなどの会議ツールで互いの顔を見、互いの声を聞きながら、あたかも、同じところにいるかのように語り合い、祈り合う事ができるようになっています。これが今から23年前に起こっていたら、私たちはどうしていただろうかと思います。

最近の礼拝メッセージの中で繰り返し語られていることは、「私たちに与えられているものは、神様が私たちに任されたもの。私たちはそれを神様の望まれるように用いることが大切」ということです。お金や、時間、才能などを、神様が私たちに託されたものとして、互いのために、神様のために用いていくのです。今、私たちはそこに「テクノロジー」も加える事ができるのではないでしょうか。神様から任され、託されたものとして、このインターネットやコンピューターの発達も、思いっきり、色んな方法で用いさせていただこうではありませんか。そして、「お金」があくまでも神様が託された道具でありながら、しかし、私たちがそれに支配され、コントロールされてしまう危険もあるのと同じように、このテクノロジーも、私たちがそれに支配され、振り回される危険があることをわきまえながら、しかし、恐れないで大胆に、このテクノロジーを用いさせていただこうではありませんか。

「福音のために、わたしはどんな事でもする。」コリント第一の手紙9章23節

振り返って神の祝福を実感する – 福音と共に成長した証し-

わたしは子どもの頃、神の言葉と福音のメッセージを聞きながら育ちました。両親はクリスチャンで、私と弟を毎週欠かさず教会に連れて行きました。そこで私は、神が人間を創造されたこと、罪がどのようにしてこの世に入ってきたのか、そして私たちを地獄から救うためにイエス様が犠牲になられたことを学びました。子どもの頃,わたしたちは永遠の命と永遠の苦しみについて常に思い知らされていました。教会の長老たちが口癖のように言っていたのは「もし今夜死んだらあなたはどこに行くのか?」という言葉でした。自分がこのままでは地獄に行くのだと知っていましたが、小さな子どもだったわたしにとって、死はとても抽象的に思えたので、あまり深く考えたことはありませんでした。母は病院で薬剤師として働いていたので、家にいない夜が多かったのですが、父は母が働いていた病院の前を車で通ると必ず 「さあ、おかあさんに手を振って!」と言っていました。ある日、母の働いていた病院の前を車で通り過ぎた時、「ここがママの職場 」とは思わず、「ここは病気の人がいる場所 」と思ったのです。わたしの祖父はその何年か前に亡くなっていたのですが、亡くなる数日前に両親に連れられて、もう一度祖父に会いに病院へ行きました。ベッドで寝ている祖父を見て、なぜいつものように起きて私たちに話しかけてこないのだろうと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えています。それが祖父だとはわからないほどでした。帰りの車の中で、これらの記憶や考えが頭の中を駆け巡り、死はとても現実的で怖いものだと気付きました。教会の日曜学校で、先生が「天国に行く唯一の方法は、あなたの罪を背負って十字架で死んだイエス・キリストを信じることです」と言っていたことを思い出しました。両親に毎日怒られていたので、自分が罪人であることを知っていました。そして、両親に対して、何度も「ごめんなさい」と謝ったのと同じように、自分は罪人であり、自分ではどうすることもできないことを神様に悔い改めなければならないと思いました。そして、その夜、私はキリストを受け入れたのです。私はとても幸せな気持ちになりました。その時はまだ8歳でしたが、それくらい幼くても、救いの喜びを味わうことができたのです。

ここまでは、私がどのようにしてキリストのもとに来たのかということを書いてきました。しかし、正直なところ、私のライフスタイルが変わるようなことは何もありませんでしたし、一人の人がイエス様を信じる時に経験するような試練は一つもありませんでした。これは神を中心とした家庭で育った者の特権だと思います。しかし、キリストを受け入れた後に私の試練は始まりました。私はクリスチャンになったことをすぐに両親に話しましたが、私の行動は何も変わらず、あまり簡単に信じたように見えたのでしょう、両親は信じてはくれませんでした。このことにとても傷つき、私は自分がクリスチャンであることを隠して学校生活を送っていました。クラスメートは、私が通っていた教会が他の教会に比べてとても厳しいことを知っていたので、いつも私のことを「良いクリスチャンの女の子」と思っていたり、私がどうやって楽しんでいいかわからないとか、私がとても頑固者だと思っていたりしました。そのため、自分がこの教会の一員であることが恥ずかしくて、恥ずかしくて、クリスチャンであることは、ルールを守らなければならないので、私の人生はつまらないものになってしまうのではないかと思いました。それに加えて、私は学校で唯一のアジア系の生徒だったので、自分の文化を楽しむ機会もありませんでした。学校に馴染むために、クラスメイトと同じように話したり、同じ音楽やテレビ番組に興味を持とうとしたりして、「クールなアメリカ人の女の子 」と思われるようにしていました。大学に入ると、また状況が変わりました。私が所属していた教会の正式なメンバーとなったので、私が守らなければならないルールはより厳しくなりましたが、それに従うのではなく、それとは正反対に生きようと思いました。その中には、女性はスカートを履いて頭を覆わなければならない、クリスチャンではない人と付き合ってはいけない、礼拝の中では楽器は使ってはいけない(全てはアカペラでした)、一切の例外なく日曜日の礼拝には出席しなければならない、そうでないならば、献身的なクリスチャンとは言えない、などのルールがありました。私はこれらの教えの多くには同意できず、反抗的になっていきました。聖書にはこれらの規則についての説明がなかったからです。大学では、教会の教えに反していたとしても、自分のやりたいことは何でもやり、自分が正しいと思うことは何でもすることを選びました。そして、私は自分が、共同体の一員であるという感覚や、さばかれないで愛される体験することを切に求めているのだとわかりました。私とは異なる霊的背景や文化的背景を持つ友人ができましたが、彼らは私が教会で生涯を共にしてきた人たちよりも優しさを見せてくれたのです。悲しいことですが、この時、私は強い信仰を持ったクリスチャンは、自分たちとは違っている人たちに対しての心を持っていないのだと信じるようになり、「良いクリスチャン」にはなりたくないと、神様から離れ始めていました。私は、教会と学校の二重生活をしていて、とても葛藤していました。私の両親、特に父は、この時期に私が幸せではなく、自分の霊的な成長に苦労していることに気がついていました。私たちは家族としても、教会と同じ価値観を受け入れるのに困難を感じるようになり、閉じ込められているように感じていました。このような状況は、家族でその教会を去ることを決意するまで4年間続いたのです。

私の弟は、子どもの時からニューヨークのディスカバリーキャンプという日本人クリスチャンのサマーキャンプに毎年通っていました。そこで彼は同じ日本人の友達と出会い、その友達の多くが私たちの近くに住んでいることがわかりました。そのキャンプの仲間のうち、弟と特に仲良くなった一人の子が、ニュージャージー州メイウッドにある教会に来てみないかと弟を誘ったのです。弟と父は、2017年の11月にニュージャージー日本キリスト教会(JCCNJ)を訪問しました。父はJCCNJの自分たちを歓迎してくれる雰囲気とそこでの人々との交わりにとても満たされて、数週間後に母と私を連れて行ってくれました。私は、それまでの教会を去ることについて父と同意するのに時間がかかりました。ずっと共に歩んできた仲間たちのところを去ることについて、私たちは口論になり、私は3日間泣き続けました。しかし、父の言葉が私にその教会を去る決意を与えてくれました。「あなたは、幸せかい?幸せならここにいてもいいが、神はあなたに賜物を与えたのだから、ここにいてもその賜物を使うことはできない。神は私たちが成長するためにはここを離れる必要があると言っているのだと思うよ。」一ヶ月後、私は初めてJCCNJの礼拝に行きました。最初の頃は、私が育った教会とは全く違っていたので、JCCNJを受け入れるのがなかなかできませんでした。しかし、少しずつですが、想像以上に日本の教会が好きになりました。JCCNJに来たことで、私は本当に新鮮な空気を吸うことができました。私は自分らしくいられるようになり、神様から与えられた関係を通して神様の愛を学び直すことができました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

これらの経験は、私の想像をはるかに超えた素晴らしい未来を神様が準備してくださっているということを確信させてくれました。生涯の友だちもでき、生まれて初めて、教会だけでなく、自分の人生全体に神様を受け入れたいと思いました。今では、家族や仕事、そして友人たちと生きていく私の人生を神様が祝福してくださっているのだという確信を持って歩んでいます。そして、心から喜びをもってイエス様への愛を宣言できます。アーメン

Looking Back and Realizing God’s Blessings – A Testimony About Growing Up with the Gospel

As a child, I was surrounded by the word of God and the gospel message. My parents were both Christian and brought my brother and I to church every week without fail. There, I learned about God created man, how sin was brought into the world, and Jesus’s sacrifice to save us from Hell. As kids, we were constantly reminded about eternal life and eternal suffering. A big phrase all the elders used was “if you died tonight, where would you be?” and I knew that I would be going to Hell, but death for a small child seemed like a very abstract concept so I never thought about it too much. My mom worked as a pharmacist in the hospital, so there were many nights when she was not home. Every time my dad drove us past the hospital where she worked, he would always say “wave to mom!” One day, when we drove past her hospital, instead of thinking “this is where mom works,” I thought, “this is where sick people live.” My grandfather passed away a few years before and a few days before he died, my parents brought me to the hospital to see him one more time. I still have a very distinct memory of seeing my grandpa sleeping in the bed and wondering why he wasn’t waking up and talking to us like he always does. I did not recognize him at the time. So in the car, on the way home, these memories and thoughts ran through my head and then did I realize that death was a very real and scary thing. I remembered that in Sunday School, the teacher would say that the only way to go to Heaven is to believe in Jesus Christ who died on the cross to bear all your sins. My parents would yell at me everyday so I knew that I was a sinner, and just like I repent to my parents many times, I had to repent to God that I was a sinner and could do nothing to help myself. I received Christ that night and was felt very happy. I was only 8 years old at the time, but I was able to enjoy the joys of salvation even at a young age.

This testimony of how I came to Christ but honestly, nothing life altering to my lifestyle and I did not have to face any trials a child to believe in Jesus. This comes with the privilege of growing up in a God-centered household, however, it was the time after I received Christ where my trials began. I told my parents right away that I became a Christian, but they were skeptical because my behavior didn’t change and it seemed too easy. This hurt me very much and I would go through my school days just keeping it to myself that I was Christian. My classmates knew the church I went through was very strict compared to other churches so they always pictured me as “the good Christian girl” or that I didn’t know how to have fun or I was very stuck up. This made me shameful and embarrassed that I was part of this church and that being a Christian would mean that my life would be boring because I must stick to the rules all the time. In addition to that, I was one of the only Asian students in my school so I didn’t have an opportunity to enjoy my culture either. As I went through school, in order to fit in, I would try to talk like my classmates and be interested in the same music and TV shows as my classmates so I could be seen as a “cool American girl.” When I went to college, things changed again. I joined as an official member at my church so the rules became more strict, but instead of following, I decided to live in the complete opposite way. Some rules were that women had to wear a skirt and head covering at all times, no dating non-Christians, no instruments during worship (everything was acapella), and you must attend Sunday worship without exception in order to be seen as  devoted Christian. I did not agree with many of these teachings and went through a rebellious stage because there were no explanations to these rules in the Bible. In college, I did whatever I wanted and chose to do whatever I felt right to do, even if it was against the teachings of the church. I realized that I craved a sense of community and experience love with no judgement or conditions. I have made friends who come from different spiritual and cultural backgrounds than me, but they have shown me more kindness than people I have known for my whole life in the church. As sad as it sounds, at this time, I created a belief that Christians with strong beliefs lack heart for others created differently from them, so I started to push myself away from God because I did not want to become that person of a “good Christian.” I was very conflicted living this double life, one for church and one for school. My parents, especially my dad, could see that I was unhappy and struggling with my spiritual growth during this time. Our family as a whole, were having a difficult time accepting the same values the church did and feeling like we were trapped. This progressed for 4 years until we decided as a family to leave that church.

My brother, went to a Japanese Christian summer camp in New York called Discovery Camp every year when growing up. There, he met many friends who were also Japanese and we found that many of these friends live close to us. One camper who was particularly close with my brother offered him to come visit his church in Maywood, New Jersey. My brother and dad visited the Japanese Christian Church (JCC) of New Jersey in November 2017. My dad was very pleased with the welcoming atmosphere and fellowship at JCC and brought my mother and myself weeks later. It took a long time for me to agree with my father to leave our church. We argued and I cried for 3 days thinking about leaving certain friendships. But it was what my dad said that gave me the determination to leave – “Are you happy? If you are, you can stay, but God gave you a gift and you will not be able to use your gift staying here. I believe God is telling us that we need to leave in order to grow.” A month later, I went to my first JCC worship. I was very stubborn to accept JCC in the beginning because everything was so different from the church I grew up in. Slowly, though, I have come to love the Japanese church more than I could every imagine. Coming to JCC has really given me a huge breath of fresh air. I was able to be myself happily and relearn God’s love through the relationships He gave me. In Jeremiah 29:11 it says “For I know the plans I have for you, declares the Lord, plans for welfare and not for evil, to give you a future and a hope.” These experiences of my life really affirmed my belief that God has a wonderful future waiting for me that is far beyond my imagination! I have made lifelong friends and for the first time in my life, I want to incorporate God into my whole life, not just at church. Now I live with certainty that God has blessed my life with family, work, and friends and I can declare my love for Jesus with joy from my heart!! Amen!

2020年9月牧師室より「困難の中での賛美」

「こんなに長くなるなんて・・・」。わたしたちは何度この言葉を口にしてきたことでしょう? 3月にCovid-19感染拡大の影響を受けて、生活に影響が出始めてから、ちょうど半年が経とうとしています。

NY・NJ地区が少しずつ落ち着いてくる中で、私たちの教会では7月からは感染予防対策をとって、いつもとは違った形で、ザイオン教会のジムに集まって礼拝をささげていますが、その中で、まず私の心に引っかかったのは賛美歌のことでした。

私は子どもの頃から、教会で大きな声で歌を歌ってきました。賛美歌を思い切り歌うのは、私にとっての礼拝の本当に大切な部分だったのです。神様に捧げる賛美ではありますが、賛美をささげている中で、心が整えられ、神様に語られて涙したことが何度あるでしょうか?しかし、感染対策を取るためにはマスクをして、控えめに歌って、また歌う曲数も歌詞も減らして、最低限にしなければなりません。場所によっては歌うことを完全に禁止されたり、自粛したりしているところもあると聞きます。そんな中で、私たちは集まることの意味があるのだろうかとさえ思いました。礼拝が完全にオンラインだったときは、私たちの家のリビングルームで何曲も賛美歌を大きな声で歌っていましたから・・・。

そんなことを思っていた時に心に浮かんだのは、ナチス・ドイツの強制収容所の中で信仰を守った人々の礼拝のことでした。彼らは秘密に持ち込んだ聖書を開いて、看守に気付かれないように小さな声で賛美歌を歌って、神に礼拝をささげました。そして、その礼拝のあるところには、人々の間のギスギスした空気が薄れ、ちょうど暗闇に灯火が輝くように、影響が周りに広がっていったといいます。大きな声で歌いたくても歌えない、命の危険もある、そんな状況の中でささげた賛美、その声がどんなに小さかったとしても、神様はそれをどれほど喜ばれたことでしょうか?

彼らのおかれた状況と、私たちの今の状況は全くレベルが違います。私たちには自由が与えられ、いろいろな制約はありますが、それはお互いを守るための制約です。彼らが経験したような厳しい状況と比べることはできません。しかし、その賛美を喜ばれた神様が、私たちがお互いを守るために、いろんな制約の中で集まって礼拝を捧げようとする中で、大きな声を控えて賛美をささげることを、喜ばれないことがあろうか、小さな声であったとても、私たちの心からの賛美を喜ばれないことがあろうかと思わされたのです。

「さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。」詩篇95:1-2

毎週、神様に心から捧げる礼拝の中で、賛美歌は以前よりも、もっと深い意味を持つようになりました。一つ一つの歌詞をもっと味わいつつ、心からの賛美として神にささげるようになりました。困難の中で、神は私たちをより本質を重んじるように、本質に立ち返るようにと招いておられるのだなあ、と思わされます。今月も心からの賛美を神様にささげながら歩むことができますように。

2020年8月牧師室より「内側からあふれるもの」

この8月に、私のニュージャージー日本語キリスト教会の牧師としての新しい3年の任期が始まります。もうこれが9回目の任期の更新ですが、何度更新しても、決して慣れることはありません。毎回、新しい気持ちでスタートします。毎回、あの30代の前半でこの教会の牧師になったときの思いに引き戻されます。今回、このような状況の中ですが、それでも、いや、それだからなおさら、新しい気持ちで、これからの3年間、神様がどんなことを準備しておられるのか、楽しみにしています!

一番強く思わされているのは、この3年間、どんな状況の中にあっても、いつも内側から溢れるもので奉仕させていただきたいということです。

イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

聖書の中には、形だけ繕って、外側だけ整えて、それなりの生き方をしているように見せている人々もいました。イエスはそのような人々を、「偽善者よ!」と叱りつけて、内側からあふれるものによって生きるようにと、人々を招かれたのです。そして、その内側を私が満たそう、と言っておられるのです。渇かない水、心の中の泉を与えると言われるのです。

私自身、外側を繕って生きていたこともありました。外側ばかり、他人の目にどう映るかばかりを気にして、自分を守ってきました。そして、それでいいと思ってきました。しかし、ある時、「偽善者よ!」とのイエスの言葉が自分に向けられているのだということに気がついて、イエスの与える 生ける水をいただく経験をしました。私達の内側に泉があれば、それは強いですね。困難の中でも、状況に振り回されないで、強く生きていくことができます。

このような時代、その内側からの力、内側から溢れるものが、どれほど必要かと思わされます。それをイエスは「あなたに与えよう」と言われるのです。この力を頂いて、この満たしを頂いて、これからの3年間を歩ませていただきたいと思います。どうぞ、よろしくおねがいします。そして、日々、私に神様からの力が満たされますように、どうぞお祈りください。

「今までの歩み」

私は兵庫県朝来市という田舎の出身で、小学生の私が学校から家に帰るときよく目にしたものといえば酪農家、又は肉牛を育てているおじさんが牛を散歩しているところでした。そんな田舎ですから、クリスチャンは周りにはほとんどいません。その私がなぜ神様を知るようになったかお話します。

私は幼いころから地元にある少年少女のためのオーケストラに所属しており、打楽器を1 0歳ぐらいからそこで始めました。本当はピアノが大好きでピアニストになりたかったのですが、中学校の先生に「ピアニストなんかなれるわけない」と言われてピアノの道はあきらめました。でもクラシックが小さいころから大好きで音楽の道へすすむことになり、打楽器だったらなんとかなるかも、と言われ、当時はほとんど嫌いになっていた打楽器で先に進むことになりました。今思えば、このときから全部神様の御手の中にあったんだなあと思い感動しています。

大学は京都市立芸術大学へ進みました。そこで出会った先生が京都芸大の教授兼、牧師先生でした。先生は日曜になると家で礼拝をされます。学校でも神学の授業をされていたので、私もその授業を受けていましたが、その時はなんとなくいい話だなぁとは思いましたが、キリスト教自体には全く興味をもちませんでした。聖霊様のお働きなしには、神様の事は理解できないんだということを身をもって体験しました。先生はとても厳しかったですが、学校に真面目に来ない生徒にも、留年した生徒にも、また優秀な生徒にもいつも平等に接されていて、知らない間にとても尊敬していました。周りにもクリスチャンになった先輩や後輩がたくさんいました。 キリスト教には関心がなかったのですが、クリスチャンってみんな親切だなあという印象を抱いていました。

日本での大学生活は苦しみの連続でした。一番私を苦しめていたのはボーイフレンドとの関係だったと思います。私は彼氏という存在にひどく依存し、私を助けてほしい、救ってほしい、そんな思いがいつもありました。その気持ちがいつも暴走して、結果いつも相手を傷付けてしまい、最終的には嫌いあって別れるということばかりを繰り返していました。今では、こうなってしまった原因がなんとなくですが想像できます。私は13歳の時に父を胃ガンで亡くしました。その時、父親という絶対的な存在だと思っていた人が弱っていく姿を目の当たりにしました。急に細くやせこけて、自分で瞼も閉じられなくなった父、床に伏せって泣く母。もしかしたら私は家族から得られる心の土台的な何かをどこかに忘れてしまったのかもしれません。母には自分の悩みなどはほとんど相談しなくなりました。母が私の悩みをひとりで受け止められるか分からなかったのです。そして、ボーイフレンドの中に心の支えを見出そうとしていたのだと思います。でもそんなことがうまくいくはずもないことにずっと気づかず、結局は寂しさを積み重ねることを繰り返していました。

大学4回生になり、就職の時期が来ました。そのころすべてのダメージが体に表れていた時期で、よく体調を崩していました。夢とか目標とか何にもなかった私は人に勧められて自衛隊の音楽隊のオーディションを受け、なぜか落ちました。近所の高校生が受かっているのになぜ、と思いましたが、それもそのはずです、私は楽器の練習を全然していませんでした。何をするべきなのか、道が全く見えなくなっていました。実家に帰ってバイトしようと思いましたが、その道を選べば音楽はやめることになります。牛が散歩するほどの田舎に音楽の仕事はほとんどありません。私はそれでも良いと思いました。自分が演奏することに価値があるとは思えませんでした。でも私の先生だけがいつも励ましてくださいました。本当に尊敬する先生から「続ける事が大事」と言われたので、そうですか、じゃあ続けます、そのぐらいの軽い気持ちで続けることになりました。とはいえ、大学院に行くお金は一切ありませ ん。ちょうどその時、シンガポールに全額奨学金がでて、生活費ももらえる大学がある、ときいてシンガポールに行くことにしました。 シンガポールに行ってからもまだ同じ問題を抱えていましたが、ある夏休み、日本へ帰った時にクリスチャンの友達にこのことを相談しました。そうすると、「瑞生ちゃんの悩みは教会でしか解決できんと思う」と言われました。その言葉にすぐ従いました。本当に変わりたかったのです。そして自分の打楽器の先生が牧師をされている教会へ行きました。牧師の奥さんが「何か祈ることある?」と聞かれたとき、とっさに父親がいないことがたまに寂しいといいました。そうするとその方が「そっか、お父さんのことも神様に預けようね」とおっしゃいました。その言葉が自分にはとても衝撃でした。仏教の考え方では死んだ父を礼拝する感覚が強かったのですが、死んだ父よりその上の存在がいるとは考えたことがなかったのです。神様はあなたを愛しています、とはよく聞くけど、神様が私も、そして私の家族も愛している、と聞くことが本当にうれしくて涙がでました。

シンガポールに帰ってからしばらくは当時のボーイフレンドと付き合っていましたが、その人はヒンドゥー教徒であったため、 イエス様だけが道だということが納得できず、何回も大げんかをしました。私もほぼ知識がなかったのでかなり流されかけ、そして教会でも異教徒の彼をあまり歓迎する雰囲気でなかったのでかなり苦しみました。でも神様に「真実を教えてください」と祈っていくとき、 やっぱり逃れられない真実、「イエス様だけが道であり、真理であり、いのちである」をいろいろな方法で示されました。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 

そしてその人と別れてから、そのことをまっすぐ受け入れることができました。今思えば、神様は本当に私のことを離さずにいてくださって、いつも守ってくださっていたのです。そしてイエス様の十字架で示された愛をもって神様は私たちを愛してくださっていて、こんな小さなものを贖ってくださったことを感謝しています。

私のような田舎の出身者が、ジュリアード音楽院まで来ることができたのは、奇跡としか言いようがないと思います。小さい頃から英才教育を受けたわけでもなく、なにより田舎に住んでいたのでコンサートもほぼ聴きに行ったことがなかったです。私は正直今でもなんでこんな人生になったのかよく分かりませんし、特に名をあげたいとか、有名なオーケストラで働きたいと思ったことも一度もないです。周りの人と比べると経歴も情熱も知識も明らかに欠けていたので、なんでここにいるんだろうといつも不思議でした。でも、そんな私だということは神様は百も承知でここまで導いてくださったと思うので、神様のご計画の1パーツとして栄光をあらわすことができたらと、小さいながらに願っています。

これからの予定は、半年ほどは日本に帰ってオンラインで授業を受けようと思っています。日本に帰っても、ニューヨークに戻ってきても、イエス様をもっと知っていけますようにと願っています。イエス様を知る事が私の人生に大きな喜びをもたらすこと、そしてなによりも神様がそれを喜ばれることを確信しています。

最後まで私の証を読んでくださってありがとうございました。

「想定外の高校生活を通して神様に気づかされたこと」

病気をしていた長い間、皆様にお祈りいただいたことを感謝します。高校時代、いろいろな体調不良が続き、Sophomore(高校4年のうちの2年生)だった2018年春ごろから体調を崩し、学校を休みがちになり、手術や、何人ものドクターによる治療を受けても痛みがとれず、夏はほとんど薬により眠り続け、2018年秋のJunior (高3)になっても初日しか登校できませんでした。回復しない不安、同い年の子に遅れを感じる焦りが日に日に強くなり、精神的にも追い詰められていました。

そのような中、出席日数が足りないと、当時通っていた高校に呼び出され、ドクターズノートを複数の担当医師から入念に書いてもらって家庭学習を受けていたにもかかわらず、テストは指定時間に受けるようにとか、冬休み返上で課題を提出するようになど、学校側の正しい理解と協力が得られず、体力的・精神的な限界もあって転校することを決意しました。

当時は体の薬への拒否反応か、夜飲んだ薬も次の日の昼までうなされる程の通常より強い副作用の症状に悩まされました。しかし、午後から夕方にかけては、どうにか机に向かうことができたので、それまでの現地校のようにベルが鳴ったら次の教室に向かう時間割でなく、自由な時間帯に学習できる学校を求めていました。その結果、兄の友人が卒業した、TIHSという日本の通信制の高校に転入することができました。

TIHSは、日本の高校卒業、アメリカの高校卒業、またその両方を選ぶことのできる、リモート(コンピュータを通じて)のみでも卒業できるという最新型の学校でした。本校はワシントン州にあるのですが、私は日本で治療を受けることになる可能性もあったので、東京にある日本校に2019年2月に編入しました。ニュージャージーの自宅から一歩も出ずに高校の学習が続けられるという、当時の私にベストの環境を神様が備えてくださったことを感謝しています。TIHSは「オンラインスクール」とも少し違い、ワシントン州認定の高校カリキュラムに基き、週1度のスカイプ面談でラーニングコーチの指導があり、各教科の勉強を基本的には生徒が自主学習で進めるシステムです。学習目標の設定、自習、成果物の提出、単位審査を通して、各自に合ったペースで単位制学校だったので、私の健康状態による学習の遅れに対してもすごく理解があり、薬が変わって1週間動けなくても、体調の許すときにぶっ通しで勉強したりできたので、私にはうってつけでした。この画期的な学校システムは、周りに説明が難しいこともありましたが、未開拓地を切り開くパイオニアになれた気がして、体調が優れず部屋でうずくまっている私にも、コンピュータからアクセスできる数時間により世界が広がりました。今振り返ると、このレアな体験こそ、神さまが私に、「ネットの可能性」と「現場に執着しない」という、2つのことに気づかせるために導いてくださったのだと理解しています。

神様を通して気づかされたことの1つは、私がいるこの時代は、テクノロジーを使いこなせば可能性は思っているよりも広い、ということです。TIHSに転入する前も、別段コンピュータに疎いわけではありませんでした。しかし、一度も対面したことがない先生の元で学習をしディプロマを取得できる時代だとは、TIHSと出会うまで本当の意味で意味がわかっていませんでした。リモート学習とは、例えば、物理は解説ウェブサイトなどを通し動画や練習問題を解き、提出物はグーグルプラットフォームを通して日本へ数秒で提出でき、質問はメールで日本やワシントン州などと無料でやりとりができ、ビデオ通話で学習のアドバイスなどを受けるということです。実際学習を始めると、スペイン語でも、物理でも、自分のペースで教科書や解説動画を理解しようとするので、現地校で授業を受けていた頃よりも自分の勉学に責任を持ち、理解できていない学習範囲の動画をくり返し見て、わからないまま次の範囲へ進まないようになりました。そして、残り2年分の単位を1年弱で履修し終わり、同級生よりも半年早く卒業にこぎつけたのです。このように、ネットはもはや新しいツールとしてこの時代にあるだけでなく、使い方によれば学校制度や地理的制約といった社会のシステムまで変えているのだということをTIHSで身をもって体験しました。そして、この新たなネットの可能性を知った私は、テクノロジーを正しく理解し、使いこなせる人になりたい、と強く思うようになりました。(TIHSで学習していた頃は、数年後にはこのネット学校が普及するのだろう、と感じていましたが、2019年12月に卒業してから半年も経たずに現実にこのCOVID19状況下でリモート授業が社会に浸透した今、リモート教育を使いこなせる先生方に出会え、教えてもらえたことに感謝しています。)もちろん、新しいテクノロジーに飛びつくのでなく、どう使いこなせば可能性が広がるか等、必要性を見極める力も重要であることを充分理解しつつ、これから開発されるであろう新たなツールに柔軟に対応できる能力をつけたいと思うようになりました。

そして体調が次第に回復し教会へ行けるようになった頃、「今できること」の一つとして、教会の中高生たちと賛美動画を作成しYouTubeで配信する「B.I.G. Praise House」のプロジェクトを始めたい、という思いに導かれました。JCCNJに通うユースは、日本語と英語を使えるので、賛美歌を2か国語で歌い、アメリカにいる日本人、日本にいるクリスチャン、世界中の日本とアメリカに興味がある人に届けたい、とそれなら療養中の私にも出来るのではないか、と思ったのです。初めは中高生グループに動画作成に協力してもらえるかの不安、動画編集への不安、著作権への不安、発信した反響への不安など、色々と不安を抱えていたのですが、

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
コリントへの手紙第一15章58節

Therefore, my brothers, stand firm. Let nothing move you.
Always give yourselves fully to the work of the Lord,
because you know that your labor in the Lord is not in vain.”
1 Corinthians 15:58

のみことばに後押しされ、教会の仲間たちにこの企画を提案したら、思いの外、好意的に受け止めてもらえ、ピアノが得意なメンバー、ギターが弾けるメンバー、ボーカルで参加してくれるメンバーなどに恵まれ早速プロジェクトが動き始めたのです。著作権も、賛美したい曲の権利を持ついくつかの団体から返信をしてもらい、金銭の発生がないならと、承諾していただけました。動画編集も、友達からソフトへのアクセスアカウントを貸してもらえて、YouTubeで編集の仕方を少しづつ勉強し、なんとか1本目の賛美動画が作れました。いざアップロードしてみると、初めはメンバーの知り合いが視聴者のほとんどでしたが、1年が経った今、初期の動画は3千回の再生回数を突破していて、アメリカや日本に加え、最近は台湾やタイなどからも多くアクセスされているようです。このように、当初願っていたよりも広い地域から反響があり、直接面識のない方から「God Bless all of you!! God Bless Japan!! Greetings from Brazil!」とコメントしていただけたことにより、このプロジェクトを通して世界に賛美を届けることは格別大げさなことではないのだと実感し、心からの喜びを感じました。(COVID19で自粛している間、何年も会えていない遠くに住んでいるクリスチャンの友達にも多く参加していただけたり、礼拝堂で共に賛美できなくなった教会メンバーと賛美するなど、賛美動画も進化し続けています。最新の動画は、東京、アムステルダムとニュージャージーからの歌声が1つになりました。https://youtu.be/cmDcOu7uZCg

私が神様を通して気づかされたことの2つ目は、私がいるこの時代は、「場所にこだわらなくてもいい」ということです。TIHSは完全にオンラインの学校だったので、2019年12月の卒業後、年末の日本への旅行で学校を訪問するまでは、担当の先生を含め学校の先生方と画面上でしかお会いしたことがありませんでした。また、行ったことがないワシントン州の高校ディプロマ(卒業証書)が家に届いたときは、頭では理解していたにもかかわらず、驚きました。元気なころの私は、教室で先生から教わらないと熱心な指導は受けられない、各教科を深く理解するには学校へ通わないといけない、という固定概念を持っていたのです。しかし、TIHSの、校舎に執われないシステム実体験したことにより、今後は学校以外のことでも「場所」にこだわらなくてもいいのではないかと考えるようになりました。例えば1年ほど前、大学で何を学ぶかを考えていた際に国連の日本スタッフ募集のガイダンス説明会へ話を聞きに行ったのですが、難民キャンプに医師は必要だが、歯科医は送っていない、今のところ必要ないと言われました。その頃、近所の歯科医院で働かせてもらっていて、将来歯科医になる夢を持ち始めていた私は、歯科が国際機関でさえ後回しにされていることを知りショックでした。難民キャンプで腕から血を流している少年の傷口を治療する方が、虫歯だらけの歯を治療するよりも優先順位が高いことは分かっていても、国連スタッフから聞いた歯科は国連で必要とされていないという言葉が私の中から消えませんでした。なぜなら、いくら難民キャンプの少年の腕の傷を治しても、歯の健康が保たれていなければ、栄養を摂取できず、せっかく治療した傷口も、自己修復機能が衰えた影響で、雑菌などが完治しない傷口から入り悪化する可能性や、骨に栄養が届かず、折れやすくなる可能性も十分考えられるからです。そして、このCOVID19の影響で、医師さえも自由に現場へ行けなくなった今、歯科は感染リスクが高いため、私が勤めている地元の歯科医院も2ヶ月以上の閉鎖が続きました。考える時間が増えたこの自粛期間中に、私は、COVID19が解決したとしても歯科の弱点と向き合いたいと思うようになりました。私が思う歯科の弱点とは、内科医はリモートで診察ができ、薬を処方することが可能になったのに比べ、歯科はリモートで診察しようにも口の中を写す高性能の機材が必要だったり、虫歯の色が見えにくかったりすることに加え、虫歯を遠隔で治療するのは難しいということです。しかし、治療が必要な歯を何ヶ月も放棄していると、その歯は想像以上に悪化し、神経にまで進行してしまうと、痛いだけでなく、脳卒中を引き起こす原因になると言われており、このCOVID19で緊急事態宣言明けを待たざるを得なかった歯科の現状をこのままにしておきたくないと思ったのです。遠隔でも治療する方法や予防する方法を見つけられたら、次のパンデミックまで待たずとも、難民キャンプにいる患者さんの力になれるのでは、と考えています。このリモートと歯科の融合を模索する中、最近普及しつつある「イビザライン(Invisalign)」という新しい歯科矯正技術に今後の歯科の可能性をすごく感じました。それは、初めの診察時にペン型の小さな3Dスキャンナーを使い、患者さんの歯のデータを、えずくことなく型取りし、コンピュータに3Dの模型を作り、従来の矯正では2週間ごとにワイヤーを締めに矯正専門医のオフィスへ通わないといけなかったのが、この技術では3D模型を使い、微妙に違う形のプラスチックのマウスピースを3Dプリンターで作り、1週間ごとに新しいマウスピースを装着し、歯が徐々に動き、綺麗な歯並びに変わる仕組みになっています。このInvisalignは、診察の回数を減らすことができ、経過が順調であれば夜のみの装着でも効果が期待でき、ワイヤーがないので歯磨きやフロスも普段通りできる、画期的な技術だと私は捉えました。歯ぎしりする癖がある人は奥歯の噛み合わせが合わなくなってしまうこともあるようですが、歯科の世界でのこの進歩が遠隔治療へつながっていくのではないかと期待でき、ワクワクするのです。まだ遠隔で虫歯を治療する方法は見つかっていませんが、TIHSで「場所にこだわらない方法を見つければ良い」という新しい概念に気づけたおかげで、歯科も現地へボランティアに行くことが全てではなく、ニュージャージーからでも力になれる方法があるはずだと思い、今後の歯科の可能性を模索しながら歯科医になる道を歩みたいと今は願っています。

具体的に歯科医になる第1歩として、この秋からの大学進学することが決まりました。TIHSへ編入した頃は、大学進学の目処が立っておらず、学校の特殊性から興味がある各大学に問い合わせをしなければならず、受験できる大学も限られてしまいました。

Delight yourself in the LORD and he will give you the desires of your heart.
Commit your way to the LORD; trust in him, and he will act.”
Psalm 37:4-5

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
詩篇37篇4-5節

のみことばの通りに、大学進学の準備に間に合って体調の回復が与えられ、大学の門戸が開かれたことに感謝しています。Agnes Scott College というジョージア州のアトランタ郊外にある女子大に進学することに決心しました。そこで4年後デンタルスクール受験の準備をする予定です。しかし、歯科医になることは私の自己満足でなくVocationなのか、神様の私へのコーリングは歯科医になることなのか、まだはっきりとわからないでいます。しかし、確実に言えるのは、私がニュージャージーに生まれ、日本語と英語の能力を身に付けられる環境を与えられ、日米両国の文化の中で育って双方の「良い所どり」ができる視野を養ってくださったことは、全て神様のご計画だった、ということです。私は、この与えられた生い立ちを活かし、グローバルスタンダードを目指す一人として歩みたいと願っています。歯科で言えば、先進国と呼ばれる日本やアメリカでも、現状はお金がある家庭は歯ブラシやフロスなどが使え、虫歯になれば治療ができる一方、貧困に悩まされる地域では歯ブラシの習慣がない家庭もあり、40代で全部の歯を失う人も多くいます。私が目指したい歯科のグローバルスタンダードとは、格差がなく歯科予防の指導を受けることができ、歯科医院が身近な存在になり、生涯入れ歯を作らなくていい人が、どの国でも普通になることです。(しかし、グローバルと、世界を目指す前に、私はニュージャージーのBergen Countyという偏った地域にいる限り、アメリカさえ知らないのだと、トランプが当選した時や、最近のBlackLivesMatterの運動を通じて、これまで以上に思うようになりました。)これまでと違う世界を知るため、私はこれからの4年間、住み慣れた地元を離れ、景色の違うアトランタへ行く決意をしました。アメリカ南部の経験したことがないので、今心の準備をしているところです。さらに、健康不安を抱きながら初めて親元を離れ、感染が拡大している州へ行くので、守られますように、4年間の学びが全うできますように、教会が与えられますように、そして、経済的な支えがありますように。これまでも沢山お祈りで支えていただきましたが、これからもお祈りしてください。

2020年7月牧師室より「新しい時代を共に歩む」

私たちの教会では、7月5日から、いつもお借りしているザイオン・ルーテル教会のジムに集まっての礼拝を始めます。これは、3月にすべての集まりがオンラインに移行してからずっと待ち望んできたことです。しかし、まだまだ、NJ州全体で何百人レベルで新しい感染者が見つかっている段階なので、両手を上げて喜んでスタートできることではありません。換気に気をつけて、social distanceを十分にとって、細心の注意を払っての再スタートになります。

そして、今回準備している中で、気をつけていきたいと思ったことは、ひとりひとりの感覚が違うということです。すぐにでも喜んで集まって礼拝をささげたい、という方もおられれば、しばらく様子を見て判断する、またもう完全にリスクがなくなるまでは集まることはできない、という方まで、いろいろな方々がおられます。そして、それは決して「信仰」の話ではなく、それぞれの置かれた状況の違いであり、健康状態の違いであり、また感性の違いでもあるのです。その違うお互いを受け入れるのが教会です。

実際に教会堂に集まる礼拝が始まったときに、そこに集う方々と、「集えない」「集わない」方々が互いに互いを尊重し、受け入れ合い、励まし合って行くことがどれほど大切かと思います。そこに教会の真価が問われてくると思います。全員が同じ考えで同じ方向を向いているのではなく、それぞれ違うのだけれども、互いを受け入れ、互いを認め合って、神のもとにへりくだって共に歩んでいくのです。

「キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」(ローマ15:7)

先月ここに書かせていただいたように、私たちは元に戻るのではありません。新しい地に踏み出すのです。新しい時代に新しく「共に生きる」ということが問われています。互いの違いを受け入れ、尊重し、互いにとって何が一番プラスになるのかを考え、そこにエネルギーを使っていきましょう。神様が私たちの新しい出発を守り、支え、また新しい気づきを与えてくださいますように。

誠実なる神様に守られて

NYでコロナウィルスの感染が拡大し始めた3月2日の仕事帰りの地下鉄の中、ルームメートから今月末でアパートを出ようと思っているので、契約を引継ぐか出ていくか決めて下さいというメールが入っていて呆然としました。一か月を切っている中で、仕事をしながらのアパート探し、片付け、引越し、しかもコロナウィスル感染が拡大しつつあるこの環境下で。

頭が真っ白になる中で「神様、助けて下さい!!!」と祈りました。NYでのアパート探しは簡単ではなく今月中に見つけて引越せるのか。。。不安な気持ちでいっぱいでした。でも「神様に不可能はない!必要を満たして下さる神様が絶対素晴らしいことをしてくださる!主よ、あなたが栄光を現して下って御業を成して下さったら証を書きます!」と祈り、ふっとよぎるマイナスな思いを口にはしないようにして「必ず主が栄光を現して下さるから大丈夫!」と自分自身に言い聞かせ祈りました。

錦織先生、SGメンバーに連絡をしてお祈りをお願いし、知り合いの方々に不動産屋さんを聞いたり、教えてもらったウェブサイトをチェックして連絡をしたりと行動を起こしましたが、すぐには動きがなく、更なる祈りのサポートの必要性を感じ、祈り手の皆さんへのリクエストも出させて頂きました。皆さんのお祈りに支えられながら行動していく中で、会社の同僚経由で知り合ったブローカーの方が物件を紹介してくれることになりました。私の希望はクイーンズのアストリアかフォレストヒルズでした。フォレストヒルズのお隣のレゴパークで紹介できる物件があるということで内見の約束をしました。

3月5日内見に行く日の朝、内見を予定していた部屋は決まってしまったとの連絡がありました。同じビルに家賃は少し高くなるけれども空いてる部屋があるので興味があれば今日見せられると言われ、丁度その週末にフォレストヒルズにあるアパートのオープンハウスに行く予定にしていたので、そのアパートを見に行った後、フォレストヒルズのアパートに行って祈ってこようと思い、バジェットを超えていて興味のない物件ではありましたが内見に行くことにしました。

他にハーレムやブルックリンのアパートも紹介されましたが、私の希望はアストリアかフォレストヒルズであることを再度伝えたところ、その後、電話があってフォレストヒルズの物件が出てきたので興味があればレゴパークのアパートを見に行った後、紹介できると言われ、二つ返事でOKしました。

その新たな物件についての詳細をメールで送ってもらい、内容を見た時に「あっ、これだな」っという思いが来ました。そして実際にアパートを見た時に「ああ、ここだ!」っと思いました。今回はアパートの希望のリストを書き出して祈ってはいなかったのですが、私が思っていた条件をクリアしていました。まだリノベーション中で完成するのが3月中旬頃とのことでした。私の中では心は決まっていましたが即答はしませんでした。その翌日、メールを送っていた不動産屋さんの1つから1件アストリアで紹介できる物件があるとのメールがありました。もう遅いんだけどなぁと思ったのですが、そこを見ることでフォレストヒルズのアパートが神様が備えて下さっている場所だというコンファメーションになるように感じ、翌日内見に行くことにしました。

思った通り、アストリアの部屋を見ることでフォレストヒルズのアパートが神様からのものだと確信し決断することが出来ました。今回は御言葉を頂くことはありませんでしたが、アパート探しを始めた時からいつも「神様の御心の場所だと私にはっきり分かるようにしてください!」と祈っていて、まさにその祈りは聞かれ、「ここだ!」と迷うことなく決断することができ、主に感謝します。

信じられない速さでアパートは見つかりましたが、その後引越すまで祈りの課題は次から次へと出てきました。まずは審査です。コロナ感染拡大の影響でアジア人に対する差別も増えている中で審査が通るのか不安でしたが無事に通り感謝でした。次はリノベーション。当初3月18日に完成、19日に契約、21日に引越しの予定でしたが、リノベーションが延びて、契約が23日の週前半頃になるとの連絡がありました。NYで外出禁止令が出るのも時間の問題という状況の中で、さらにリノベーションが延びたらどうしよう。。。と不安を感じ祈りました。次は引越しの日。23日の週前半に契約が出来たとしてその週後半の天気予報はほぼ雨。晴れの日に引越しが出来るように祈っていたところ、20日に連絡があり、翌日21日に契約、22日に引越しをすることになりました。そして引越し。コロナ感染拡大で自粛が進む中、2人で来る予定の引越し屋さんがもしかしたら1人になるかもしれないという話を契約直後に聞いて、「えっ、明日引越しできるの?明日の夜から外出禁止令出るけど・・・」と最後の最後まで祈らされ、また祈って頂きました。当日は無事2人で来てくれて、天候も晴れ、外出禁止令が発効される3時間前に引越しが完了しました。本当にギリギリ間に合って引越しができ、主のタイミングの凄さに畏れつつ感謝しました。

神様がなして下さったことはこれだけではありません。いきなり1ヵ月以内に引越さなくてはならなくなって呆然とする私に追い打ちをかけるようにルームメートからインターネットは13日で切るのでその後は自分で対応して下さいという連絡がありました。コロナの影響で在宅勤務となりネット環境は必須です。切れる日が近づいてきてモバイルWiFiを買わないといけないなぁと思っていたところ、丁度大家さんの息子さんが電話をくれたので、今回の経緯を話し相談をすると隣人にインターネットを使わせてもらえるよう交渉してくれることになり、切れる前日から使わせてもらえるようになりました。更にもし3月中に引越し先が見つからなかったら4月も今払っている分の家賃で住めるように大家さんであるお父さんに交渉してくれるとも言ってくれました。助け人を与え、万が一のバックアッププランをも備えて下さった主に感謝でした。

「神様が素晴らしい御業をなして下さったら証を書きます!」っと神様に約束してスタートしたアパート探しでは「神様助けて下さい!」と祈る度に神様は祈りに応え、御業を成して下さいました。そんな誠実な神様に対して、日々の忙しさや体調が良くないことを言い訳に約束を守れていなかったことをここに悔い改めます。引越しをして2か月が過ぎましたが、やっと神様がなして下さった素晴らしい御業についてお分かちできること、そして祈りでもって支えて下さった兄弟姉妹に心から感謝します。

最後に、リノベーションが延びて不安を感じていた時に祈り与えられた御言葉をシェアします。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。(詩編121:5-8)

2020年6月号牧師室より「新しい出発」

3月の初めに教会での集まりをオンラインに移行する時にも、4月の初め、イースターを迎えようとしているときも、こんなに長く、外出制限が続くとは思っていませんでした。また5月の初め、感染拡大もピークを過ぎている状況で、この5月のどこかでまた集まることができるのではないだろうか、という期待も少しは持っていました。しかし、6月になろうとしているこの時、少しずつ規制が緩んでいる中でも、教会堂に集まって共に礼拝をささげる見通しはまだ立っていませんし、また、もしも集まることができても、多くの制限の中で、どんな形で礼拝をささげるのだろうかと思います。

残念ながら、アメリカの大統領はそのような視点は持っていないようですが、多くの指導者たちは、「私たちはもとの生活に戻るのではない、戻ろうと思っても戻ることはできない。私たちは新しい出発をするのだ。」と人々に訴えています。そうだろうと思います。そして、同じことは教会にも言えるでしょう。ただ、回復するのではない、神様は私たちを新しい出発に導いておられるのだと。聖書のなかにはこのような言葉があります。

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:18-19

この言葉はバビロンに捕囚の民として連れて行かれたイスラエルの民に対して、解放の約束、回復の約束を語られた神の言葉です。バビロンから解放されて祖国に帰っていく、けれども、それは単なる回復ではなく、神が新しいことをなさるのだ、だから、今までの考えに捕らわれていてはならない、神はあなたが想像していなかったような素晴らしいことをなさるのだ、という預言だったのです。

19年前の9-11の時のことを思い出します。あの日から、ガラッと空気が変わってしまったアメリカの社会、早く元の平和な日々が帰ってこないだろうかと思っていた時に出たセミナーで「私たちは9-11前の時代にはもう戻れません。そのことを受け入れることが、第一歩です」と言われて、はっとして、それから前に踏み出すことができました。

私たちもコロナ前の社会にはもう戻れません。それは受け入れがたいことかもしれませんが、それを受け入れた時にこそ見えてくるものがあります。受け入れた時にこそ、前に進み出すことができるのです。そして、神様は私たちに「新しいことをなす」と言われています。より良いもの、より素晴らしい祝福を準備しておられます。私たちが経験したことがないようなもの、私達の思いを超えたものを準備しておられます。それを待ち望みながら、楽しみにしながら歩んで行こうではありませんか?