「私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を…」

今月は、JCCNJ教会員花崎由紀姉のお母様で、今年2月に日本で洗礼を受けられた内田真紀子姉のおあかしをご紹介させていただきます。

「私が幼い頃から何十年も毎週笑顔で母を訪ねてくる新興宗教の方々がいました。母は当たり障りのない返答で対応していたのを覚えています。宗教と名の付くものには何一つ耳をかさなかった母が、神様、イエス様に出会い、聖霊の働きによって導かれる姿を目の当たりにし、人の力ではどうしようもないことが成されるのを実感しました。途中でくじけるのでは?と思っていた一年間の受洗の学びも教会の方々に励まされ最後まで頑張る事が出来ました。受洗後も今までと変わらずマイペースで、でも神様、イエス様と向き合うときには襟を正し、気持ちは正座で、クリスチャン生活を送っています。」 (花崎由紀)

私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を停年退職しました。その時にすでに椎間板ヘルニアになっていて、半月後に入院し、2ヶ月間入院しました。見舞いに来られた人が熱烈な新興宗教の信者で、枕元で、信仰しないと直るものも直らない、と言われましたが、寝たきりで人に便器の世話をしてもらっている時に、話に耳を傾ける余裕など私にはありませんでした。

しかし、少し良くなった頃、今までの人生は何だったのだろう、と考えるようになりました。退職するまでは、働かなければ生活できないので必死で、人生のことをゆっくり考えたことがなかったのですが、時間ができたことと、病気をしたことが大きいと思います。退院してリハビリに励みましたが、身体が思うように動かず、情けない気持ちと空虚な気持ちで過ごしていました。

その頃、娘一家がアメリカのニュージャージーに居たのですが、一家も日本のお友達との出会いがあり、お友達に、野外礼拝があるのでご一緒しませんか、と誘われ、教会に行くようになりました。すばらしい牧師と沢山の日本人のお友達との出会いがあり、それから毎週教会へ行くようになったと聞いています。2001年にイギリスに転勤になり、ミルトン・キーンズの教会に日本の女性牧師が来られ、全員で学びをし、2003年4月に娘と長男と次男が洗礼を受けました。その頃から、私のほうに、毎週、牧師のメッセージや学びのテープが送られて来るようになりました。また、電話でもいろいろ神様の話を聞きました。

娘一家が今度はタイに転勤になり、タイの日本人教会で娘婿と三男が洗礼を受けました。その頃、娘が電話で、一度教会に行ってみたらと勧め、4つほどの教会を調べてファックスで送って来ました。私は娘があまり熱心に勧めてくれるので、一度覗くだけのつもりで行ってみようと決心しました。ファックスで送られて来た教会の中にチャペル・こひつじがあったのですが、私は迷わず、チヤペル・こひつじを選びました。何故だか分かりません。今になって思えば、それも神様の導きでした。私は勇気を出して、チャペル・こひつじに電話を掛けました。恵子さんが出られ、場所を聞きましたが、その後で恵子さんが、ぜひ一度いらして下さい、お待ちしております、と言われた言葉が心に残りました。2003年5月の第1週目の日曜日に、恵子さんの言葉に引かれ、白転車で行きました。これが私が初めて教会に行ったいきさつです。

教会に行ったものの、知合いの方がだれも居ない中で心細い思いをしていましたところ、三宅さんが私に声を掛けて下さいました。そのとき、三宅さんは「私は神様から内田さんの世話をするように導かれています。」と言われたのです。驚きましたが、心細かった気持ちがホッとし、とても嬉しかったことを記憶しています。すばらしい牧師に出会い、沢山の方々に出会い、優しい言葉を掛けていただき、メッセージよりも皆さんに会えるのが楽しみで、毎週礼拝に出かけるようになりました。

その頃、娘の長男が内臓に異常があり、タイの病院に入院していましたが、急遽日本に帰国することになり、歩くこともできない孫は、担架で飛行機に乗せ、日本の空港に着くと、救急車で病院に直行し、タイの日本人教会の牧師が手配して下さった順天堂大学病院へ入院することができました。紹介された教授もクリスチャンだったので、毎日祈って下さったそうです。孫が入院しているとチャペル・こひつじで話したところ、皆さんで祈って下さいました。そして、無事退院できました。

また、娘がひどい腹痛におそわれ、外国は日本のようにすぐに診療してもらえず、予約を取らないと診療してもらえないとのことでしたが、娘が祈り続けたら、腹痛がおさまったそうです。私は電話でこのことを聞いて、「あっ、やっぱり。神様は本当に働いておられる。働いて下さった。」と思い、感動し、確信を持ちました。私自身も今までにいろいろな出来事がありましたが、大きな事にならず、無事に過ごさせていただいているのも神様のおかげだと思います。

私は犬とのら猫2匹とで生活しています。娘にしたら、遠く離れているので、私が淋しくないだろうかと色々心配です。娘は自分が神様を信じ、心豊かに暮らしているので、日本に居る私にもその心の豊かさを持ってほしいと、一家で私が心淋しくないように、もっと信仰が深まるようにと、いつも祈ってくれています。私が娘一家を訪ねてイギリスやタイに行ったときに、皆でお祈りする姿を目にし、私もその輪にはいりたい、そのために神様を本当に信じて祈れたらと思い、もっと神様のことを勉強してみようと思いました。孫も全快し、私は神様が本当におられる、神様の働きは本当だと確信しました。それからは、礼拝が私の生活の一部になり、聖餐式も納得して受けることができるようになりました。

教会に行き出した頃、三宅さんが私にイエス様は内田さんのために死なれたと思いますか、と言われ、その頃は、イエス様は人間のために十字架にかかられたが、私のためにとは思えません、と返事したことを覚えています。でも今は違います。こんな罪深い私のために十字架にかかられたと確信しています。今までのことを梅い改め、これからの人生を神様と共に歩めたら、とても幸せです。

クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人、そして善の生活を行なっている人だけと思っていましたが、神様はありのままの私を受け入れてくださると、学びで牧師に教わり、神にゆだねなさいと学びました。孫は、洗礼はゴールじゃなくスタートだと、イギリスの牧師から学んだ、と教えてくれました。

神様、私の心を満たして下さい。そして、神様のあふれた力で人と接して行くことができるように導いて下さい。証をする機会を与えて下さった主に感謝いたします。

一回ただお言葉を下さい。
(マタイの福音書8章8節)

月報2006年5月号より

『「天使の涙」・・・ 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。』

母が転落事故で亡くなった。68歳。5月の深夜祈祷会から帰った夜中。姉からの電話。
「家裏の高台の石垣から落ちたらしく、頭を強く打って意識がない。
しばらく経っていたようだ。心臓がどんどん弱っている・・・。」
悪い夢を見ているのだと思った。
何度も電話が行き交い、震えがきた。必死で神に叫び求め、祈り続けた。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」ヨハネ14章が飛んできた。
意識が戻らない。手術も難しい。もうだめかもしれない。「泣くな。」弟が叫んだ。救急車が呼ばれた時間、主のみ前に出て祈っていたではありませんか。どうぞ助けてください。回復させてください。もう一度奇跡を起こしてください。でも、もし・・・・助からないの
でしたら、母の人生のすべての罪を私のこのとりなしの祈りゆえに、主にあってどうぞ赦してください。イエス・キリストの名を思い出
させ、今、信じることが出来るようにしてください。どうぞあわれんで母を天国に導いてください。神と長く真剣勝負の格闘をした。
朝を待って、みなさんのお祈りをお願いした。しかし、日本時間の深夜、その日のうちに、意識も戻らないまま亡くなってしまった。
夫婦の喪服が入っているス-ツケ-スが乗り継げなかった。私は母の喪服を着た。顔も頭もひどくつぶれているのだろうと覚悟していたが、実にきれいな安らかな顔をして横たわっていた。傷もシミもしわもなく、髪も黒々として若いきれいな母だった。神は、あの叫びを聞いて、母を救ってくださったのだと思った。
父に促されて母に触った。死人の冷たさだった。聖書に出てくる死人の復活を思い、大声で主のみ名によって、神に叫ぼうか。叫んでみてはどうか。もしかしたら、息を吹き返すかもしれないと思った。でも、しなかった。
2004年、私たちがアメリカに来た夏、父に胃がんが見つかり、二度の手術で全摘した。母は病院に泊り込み、つきっきりで看病した。そのとき、父の死を一度は覚悟したが、まさかの母の死だった。
父は深い悲しみの中、腸閉塞と胆石の激しい痛みに度々襲われ、あれから何度も入退院を繰り返している。
そして、去年の夏、とても元気だった主人の父が急に脳出血し、倒れた。右半身が完全に麻痺し、言語障害があり、認識も十分でない。一ヶ月の治療入院の後、四ヶ月、リハビリセンタ-にいて一月末に、施設に移った。回復は望めなく、自宅に帰ることもないだろうと思われる。義理の母はこの突然の悲しみと、先の見えない不安と痛み、疲れの中、心身ともに弱りきっている。
あっという間に取られる命と、障害を持ちつつも残され、与えられている命がある。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・」イザヤ55:8そのような頃、私たちに帰国の内示が出た。ここはまだ二年。ビザも残っている。次男の高校を長男と同じNYの高校に決めて、願書を詰めている時だった。「とにかく、辞令までの15日間、祈り続けます。はい。そうですか。と今は言えません。日本を向けませ
ん。」と夫に話した。まだまだここに私の心があった。日本の実家のことを考えると、「ありがとう。丁度良かったです。」と言える
ことなのかもしれないが、そう言えない自分がいた。旧約聖書の「エステル記」が頭によぎり、自分のことと重なり、この内示は必ず流れる、と思った。また既に、神様が導いておられると思うことが5つも6つも始まっていた。
私たちは思うこともなかったNJ転勤になった。ドイツを離れる時、神様は何度も美しい虹を見せて、私が導くから心配いらない、と語られた。聖書の約束に信頼しつつ、時には弱る心を注ぎ出して二人でよく祈った。
そして、やっと少しずつ少しずつ山が小さくなって動き出し、さあ、ここから・・・という矢先の辞令だった。何だか力がどっと抜けた。
そんな10月。多くのことが重なり、疲れ果てていた私の心に「天使の涙」は届けられた。「あっ」。天使の赤ちゃんの小さな小さな涙。たくさん次々、赤ちゃん天使の涙が連なっている。かわいい鉢植えの天使の涙、葉っぱたち。熱いものがこみ上げてきた。無言の優しさと熱い篤い祈りが迫り、慰めに満たされた。名前で決めたという鉢植え「Baby’s/Angel’s Tears」。毎日毎日、いっとき一時、眺めて祈るうちに、ドンドンドンドン元気が与えられてきた。一つ一つ神様の恵みを感謝しつつ、数えられるようになってきた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7変えられないことを受け入れる信仰を私にもください。
また、神様は全ての道を造り変えられることができる、という信仰をも与えてください。
全てのことを用いて、人の痛みがわかる位置に私もどうぞ置いてください。
そして、約束どおり、やがて私も義の実で満たしてくださいね、と祈ります。
「天使の涙」はNYに残る長男に引継ぎ、託します。祝福の管理を委ねます。
きっと寮で、あなたもあなたの友達も励まし続けてくれるでしょう。
2008年6月。卒業する時に、彼女の元に返してください。あの時のあなたの優しさは、こんなに大きく広がりました、と。枯らさないでね。水も忘れないでね。大きく立派にして必ず返してね。
一人ひとり、ここで出会った多くの方々のために祈ります。
熱い篤い祈りを共にしてくださった信仰の友、祈りの先輩。
みなさんの優しさと祈りを決して忘れません。本当にありがとうございました。
「主にある者は幸いである。」と喜んで、「私と私の家とは、主に仕えます。」ヨシュア24:15 と告白して新たな心で出発します。

月報2006年3月号より

「人を許す恵み」

私達一家が、このニュージャージー日本語教会の礼拝に参加するようになってから5ヶ月になります。この間に神様は本当にたくさんの恵みを下さいました。その中で、私が最初にいただいた恵みについて証をしたいと思います。

私達夫婦は2001年に 10年以上住み慣れたロサンゼルスと、心から信頼し愛する兄弟姉妹のいる教会を後に、夫の仕事のためにニューヨークに来ました。旅行では何度も訪れ楽しい思い出の多いNYでしたが、いざ、住んでみるとのんびりしたロサンゼルスとは全く違う文化、価値観、ライフスタイルに戸惑うことの連続でした。また、新しい土地というだけでなく、夫の新しい職場はとても忙しく帰宅するのが午前一時二時になる事も頻繁でした。その上、引っ越してまもなく妊娠したので、友達も親戚もいない見知らぬ土地で妊娠、出産、子育てをする事に不安でした。その頃住んでいた地域の教会に行って見ましたが、ここと思う集会に出会えず、ロサンゼルスの教会の兄弟の紹介で、クイーンズのフラッシングの集会に参加するようになり、ようやく私たちの心に平安がもどって来たように感じました。しかし、夫の仕事は年々忙しさを増し、それと共に私たちの会話は減り、私は一人で子育てをしているような孤独感と体力的な疲労で、いつも体調を崩していました。特に子供が二歳くらいのころは、子育ての方針のことで口論が絶えず、その頃の私たち夫婦は、二人共信仰をいただいているという大きな恵みを受けていながら、二人で祈る時間もなくお互いのストレスを気遣うという心の余裕もなかったと思います。教会の礼拝に行くことも、「礼拝に行きたいから行く」というより、「行かなければならないから」という義務感にさえなっていました。ただ、主は、そんな私でも、礼拝の中で、励ましと休息を与えてくださいました。自分では、義務感で礼拝にでているつもりでも、心のどこかで主にすがりたい一心で礼拝に出ていたのかもしれません。しかし、礼拝の中でいただいたその平安は、日常の生活にもどると、なんとなく消えてしまっていました。

その後、育児は少しずつ楽になり、夫の仕事も忙しいなりにペースができてきて、少しづつ心身ともに落ち着いてきたと感じはじめました。そして昨年の3月に転居したことをきっかけにNJで教会を探すことにしました。私達はそれまでずっと現地の教会に参加してきたので、日本人の教会を探そうとは思っていませんでした。ところが、NJに転居してすぐに日本に一時帰国することになり、私はその帰国中に、まだ信仰を持たない私の妹に福音を伝えたいという強い負担を心に覚えました。しかし、現地の教会で救われ、養われてきた私は ずっと英語で御言葉を読み、祈り、賛美してきたので、日本語で神様のことを語ることに少なからず困難を感じ、日本語で御言葉を読もうと決心してアメリカに帰ってきました。
その頃夫は相変わらず毎日仕事で遅かったのですが、ある日、深夜に帰宅すると
「日本語教会があるらしいよ」と言って、彼にこの教会のことを教えてくれたリムジンの運転手さんのおぼろげな記憶をたよりに、教会のホームページを探し当てました。その時、夫も私も、何か特別な神様の導きをすでに感じていました。そして、8月の最後の日曜日の礼拝に出かけてみることにしました。その日は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師が説教をされました。その中で、ルカの「良きサマリア人」の箇所を通して隣人を愛するということを話され、御自分の結婚生活で、夫として、一番身近な隣人である妻を愛することを忘れていた、ということを打ち明けられました。そして、この説教を聞きながら、私は涙があふれて止まりませんでした。自分でも気がつかない隠されていた心の中の傷がひとつひとつ浮かび上がってくるような感じでした。その傷は古く、ニューヨークに引っ越して以来少しずつ夫との関係の中で受けた傷でした。それは、私にとっては驚きでした。学生の時からの知り合いである私達夫婦は、問題はすべて話し合って解決してきたと思い込んでいたからです。確かに、話し合い(口論?)によって、その「問題」は解決しましたが、私の心の「ゆるし」には至らず、いつのまにか、心の中に多くの resentment を抱え、夫を罪に定めていたのです。それは、罪とは呼べないような些細なことの積み重ねだったと思います。夫は心優しい人です。故意に私を傷つけるような事はなかったはずです。そしてそれは、夫の問題ではなく、私の問題であると神様は示されました。

それから数日間、私は夫を許そうと思い主に祈りましたが、どんなに許したいと祈っても、心の中に「許した」という平安の感覚は訪れず、そんな自分の心の「罪定め」というもっと大きい罪に苦しみました。ひとが生きていく中には、いろいろな罪がありますが、「人の罪を許せないという罪」がこんなにつらいものだとは、知りませんでした。数日後、もうどう祈っていいのか解らず、「主よ、私にはどうしても許せません。」という気持ちになった時、突然、心の中に主の十字架が浮かんだのです。その十字架の上で主は傷ついて血を流されていました。そして、私はその時、夫の罪はもう主によって許されている、というクリスチャンとして当たり前の、ごく基本の事実に気づいたのです。主は、私の罪も、夫の罪も、世界中の罪をも背負って、命を捨てられました。私が夫の罪を責める理由など存在しないし、私が「がんばって」それを許すこともできないのです。もうそれらの罪は主によって許され、私達はあがなわれているのですから。そう思ったとき、突然、目に涙が溢れ、心が温かく、軽く、自由になり、それまで心に負ったと思っていた一切の傷が癒され、消えたと思いました。その時はじめて、夫を心から「許せた」、そして、私も許されたと思いました。そして、これが主の許しの平安なんだという思いで満たされました。

以上のことや、その他のさまざまなお導きによって、私達夫婦は益々この教会を私達家族のホームチャーチとすることを神様は望んでおられるのではないか思うようになりました。そして会員にしていただくことをお願いするに至りましたが、その陰には、たくさんの兄弟姉妹が私達家族のことをお祈りして下さっていたとお聞きしました。感謝して、主の御名を賛美いたします。

しかし今では 御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえにたたせてくださったのである。 コロサイ人への手紙 1章22節
注) 「教会では私たちはイエス・キリストにあって家族なのだという思いでお互いのことを『兄弟姉妹』と呼ぶことがあります。」

月報2006年2月号より

「Good News(福音)を知った喜び」

私には4つの名前があります。一つ目は教会でも呼ばれている名前のファンオクスン(樊玉順)。これは結婚してから使っている名前なのですが、この「樊」という苗字は主人のもので中国の名前です。下の「玉順」は韓国の名前です。二つ目の名前は、権友子(ごんともこ)という名前で、小学生の時まで使っていました。三つ目は、権玉順(クオンオクスン)という名前です。中学から結婚するまでこの名前を名乗っていました。四つ目の名前は、 木下友子(きのしたともこ)という「通名」で、 場合によってはこの名前を使ったりもしていました。なぜこんなに色々な名前を持っているのかというと、私が在日コリアンだからです。私の両親は韓国で生まれ、4,5歳の頃にそれぞれの両親と日本に渡ってきました。 その両親のもと、日本で生まれ育った私は幼い頃からこのようにいろんな名前を持ち、状況によって名前を使い分ける、というのは否応なく自分のアイデンティティーを探し求めることになり、自分はどこから来てどこに行くのか、ということを考え続けることでもありました。

1992年、結婚を機にアメリカに住むことになり、メリーランド州のBaltimoreで生活がスタートしました。誰一人知り合いもない異国の地で、まったく育った環境そして国が違う二人が一緒に生活を始めるのは困難の連続でした。それでも時間が経つにつれ、いろんな人と出会い、親切にしていただいたのですが、どういうわけか私たちが本当にいい人たちだなあと思う人は決まってみなさんクリスチャンで、私たちが理想とするような家庭を築いていられるのを見て、いつも主人と二人でクリスチャンってどういう人たちなんだろう、と話すようになっていました。

1999年にニュージャージーに移り住み、近所で仲良くなったアメリカ人家族が通うマンハッタンの教会に連れて行ってもらったり、モールで教会の勧誘をしていた人がとても感じがよく、話がよさそうだから、という主人の意見で、確かTrentonだったと思うのですが、 何百人もの様々な人種の人たちが集まる体育館のような大きな教会に行ったこともありました。でもなかなか自分たちに合った教会を見つけるのも大変なことなんだと思っているうちに、主人の友人で同じ研究者である石井さんという方が一年の予定で日本から来られました。石井さんはクリスチャンで、以前から日本語の聖書を下さったり、クリスマスには娘に聖書のお話の本をプレゼントして下さったりしていたのですが、ニューヨークに来られてからは、私たちの為にMaywoodの日本語教会を探し出してくださり、一緒に連れて行ってくださって、それから家族でも通うようになりました。

いつも教会で聞く聖書のみ言葉に共感し、聖書を読む会や家庭集会にも行くようになり、 その時その瞬間はいつも共感するのですが、家に帰ればいつもの生活に戻り、なかなか点と点が結ばれることがありませんでした。しかしそれからしばらく時が経った後のある日の礼拝で、「天国には国籍はありません」という聖書のみ言葉を聞いた瞬間、魂がゆすぶられる思いがして、このみ言葉がストレートに私の心の中に入ってきたのです。物心ついた頃からさまよい続けていた自分のアイデンティティーの答えとその終着点が天国にあったんだという驚きと喜びは、なんて表現すればいいのかわからないくらい心ふるえるものでした。そして結婚生活をスタートした時から二人の間にあった様々な問題も 「すべて神様におゆだねします。」という私の初めての祈りを神様が聞いてくださり、多くの祝福を与えてくださったという信じられないような経験を通して、イエス・キリストを自分の心の中におむかえして、いつも神様が私の中心にいてくださり、神様に導かれて人生を歩んでいきたいという思いから受洗の恵みにあずかることになりました。昨年のクリスマスに洗礼を受け、ちょうど一年が経とうとしています。私のクリスチャンとしての歩みは人間の成長と同じように、ようやくフラフラしながらもヨチヨチと歩けるようになったばかりですが、日々神様への感謝の言葉が口から出るような私に作り変えてくださった神様に心から感謝しています。

月報2006年1月号より

「二度目のアメリカ」

僕は神様、イエス様に出会ってから沢山感じたことがあり、変わった事があります。
1つ目は、毎日祈るようになったことです。 洗礼を受ける前も毎日祈っていましたが、今は前よりも祈るようになりました。 今は1日に最低5回はお祈りしています。 ご飯の前3回と朝起きた時と、夜の寝る前です。 僕は夜の祈りが一番長くかかります。それは、1日の感謝とその日あった出来事、毎日家族ともお祈りしている事と、あと自分が言いたいことをお祈りしています。 2つ目は、いつも神様やイエス様が一緒にいて下さると言う事を知りました。 そして、いつも一緒にいて下さっている事で僕に安心感を与えてくださり、僕は1人でも大丈夫という気持ちになりました。

僕が、アメリカに来てすごく心に残っている集まりがあります。11月24日にNJの教会で中高生のLock Inをやりました。NJの教会の人と、NYから2人、そしてコネチカットからの4人が参加しました。 夜の9時にみんな集合して教会に泊まりました。最初はゲームなどをやって楽しくやっていました。 そして途中で証しをする時間がありました。 証しの時間で僕は、他の人の証しを聞いて沢山学んだことがあり、考えさせられた事、そして心に残る証しを5人の人から聞かせてもらいました。 まずその場で学んだことの一つは、証しをするのは「勇気」が必要だと言う事です。 自分の事を相手に伝えるのはすごい難しいことであり、凄い勇気が必要です。 それは、相手に自分の事を言ったら変な風に思われたりするかもしれないという思いが出てきます。 僕も他人に発言するときはついつい気にしてしまいます。 「これを言ったら嫌われるかも。」 「これを言ったら何かされるかも。」 などと気にします。 そして、言うには自分の前にある「壁」を越えなくてはなりません。 僕は今までこういった壁には何度も直面してきました。 だからその壁を越えるのは凄く難しい事だと言うのが分かりました。

次に学んだことは、教会は自分のかぶっている仮面を取れる所であるという事です。 僕は学校などではめったに泣きません。 ですが教会では泣けるような気がします。 教会に来る前に辛いことの考え事などをしていて礼拝の賛美の時になって賛美すると自然に目から涙が出てきます。 こういった事から教会では自分の仮面を外せる場所ではないかと思いました。 そして僕が一番大切だと思ったことは、相手を「信頼」する事です。 今僕の行っている学校では100%信頼できる友達はおそらくいません。 でも僕はこのような集まりにいる人達なら僕はその人達を信頼できます。 何故ならば、その人達はクリスチャンの人がほとんどで、そうでない人も教会にも通っていて神様やイエス様の事を知っているから僕はその人達を信頼して話をできます。 でも今回僕はその集まりで証しを出来ませんでした。信頼はしていましたが勇気が足らなかったのかもしれません。 次このような集まりがあったら是非自分から進んで証しをしたいと思います。 これから僕は、この集まりで学んだこと、思ったこと、心に残ったこと、そして今まで学んだことをもう一度しっかり考え直して、お祈りして神様と共に生きて行きたいと考えています。

月報2005年12月号より

「One Voice – 4年目の9月11日に思う事」

“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。

ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。

英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。

そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。

私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。

そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。

月報2005年10月号より

『本音の祈り 「時を忘れて」』

次の歌も私の代表曲となった歌です。 『時を忘れて』と言う歌です。 イエス様を信じたのは1978年。病気を通して、またキリスト教のラジオ番組を聴いて聖書を頂き、 その番組を通して教会を紹介していただきました。 山口県生まれの岡山育ちですが、 その当時は岡山に住んでおりましたので、 岡山聖約キリスト教会を紹介していただきました。 そしてその年のクリスマスに洗礼を受けました。 当時、 私が持っていた悩みは、病気で将来に対する不安があったということ、 両親が中学3年生の時に離婚しまして、 親に対して憎しみを持っていました。さらにその憎しみや病気のことを取り除いたとしても、 私にはもう一つ大きな問題がありました。 それは罪責感ということでした。 罪の意識、 どうしてあんな事をしてしまったんだろう、という思いにかられておりました。 心の奥の奥から変えられなければ、私は幸せにはなれないと思っていました。 そのような心で聖書を読み始めて、 最初に心の中に入ってきたみことばは、『だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第二5:17)でした。 この聖書のことばをいただいて、「確かに変わることができるかも知れない」という一筋の希望を持ちました。 「もっと聖書を読んでみよう、イエス様ってどんな神様なのかしら、 知りたい!」 という思いを強く持ちました。 そしてイエス様を知る中で、 私が心に持っていた罪の問題「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」という思いから解放してくださるのはイエス様だということを知りました。 「罪から解放されたい、罪責感から解放されたい」ということが私にとって一番の問題だったのです。 イエス様が十字架にかかって、 私のそうした罪のすべてを赦してくださることをわからせてくださったことをとても感謝しています。教会に導かれ、 もっと深く罪のことを知りました。 まことの神様から離れていることが、 人間にとっての一番大きな罪であること、 そして個々に犯している罪、 罪には刑罰が伴うこと、イエス様が身代わりに私の罪と刑罰を負ってくださったこと、 救われたことの大きさや、 神様の愛の深さは、 今も私の人生を変え続けています。

【上京し、テレビ伝道に携わる】

その後、 1981年に「イエス様と一緒に働きたいな」 という思いが与えられて、 聖契神学校で学ぶために、 上京しました。きっかけは岡山で行なわれた聖会でのメッセージでした。 古山洋祐先生が講師でした。 ハガイ書を開いてくださったのですが、『あなたがたの現状をよく考えよ』 聖書ハガイ書1:7)、 このみ言葉が心に残りました。 自分の現状を考えて、 病気であるけれども、 身体が弱いという以外、 学ぶことには支障が無いのではないかということで上京して来ました。 そして3年間学ばせていただいて、 その後、 PTLクラブというテレビ伝道に導かれて中川先生とご一緒に働くことになりました。 でもそのテレビ伝道もいろんな問題を抱え、 現在PTLクラブはありません。 また私はその頃、 体調がとっても悪くなったことと、人間関係にも行き詰まって、 テレビ伝道団体を辞めました。 しかし辞めたくなかったと言うのが本音です。 でも、 今では神様のご計画だったことを確信しています。

でも辞めた後はとても辛い思いをしました。またクローン病の症状が本当にひどくて大変でした。今年のように’88年も寒い夏だったんですね。 思い出すと、色々な方がアドバイスをしてくださいました。 「甘いものを食べたら駄目、白米駄目」、「それでは、玄米食はいいかしら」 と玄米食にしたのですが、 圧力鍋も無いので普通に電気釜で炊いて、 硬いんですよね。 それでもあごの運動になるからと一所懸命噛むんですけどあごが痛くなって、 今でこそ笑い話ですが涙が出てきて、 食事をする時に悲しい思いをするのは嫌ですよね。 食事をする時は楽しい方がいい。 そしてたくさん食べることが出来ることがいいですね。 私は情けなくて神様に祈りました。 「私、食いしん坊ですから、食べて治します。よろしくお願いします」 と祈りました。 その時以来何でも食べることが出来ますが、 さすがにお腹の具合が悪い時は、 自分の内から控えなさいという信号が出るみたいです。 今日もしっかり「控えなさい」という信号が出て、 食べることが出来ませんが、 良くなりましたら取り返しますので、 その時はお食事に呼んでください。 このように、辞めた後はしばらく心の状態が良くなくて、 それでまた落ち込む。 でも信仰があるから落ち込むんですよ。 信仰がなかったら、 憂さ晴らしにお酒の一杯でも飲んで皆とパーッと騒いでね、帰ってきてワーッと泣いてね、 たぶんその繰り返しだと思うんです。 でも、 信仰があるから踏みとどまらないといけないという思いがあります。 人に対する批判的な思いも、 許さなければいけないと思いますよね。 しかし、 感情の闘いがありますね。 これが苦しいですね。 こんな本音の話しをしながらいつも歌っていますが、 私は、 本音の中に神様が働いていてくださる、 ということを固く信じています。 ですが、

皆さんは本音の部分を誰にも話さなくてもいいです。 ただ「本当の気持ちは、 こうなんです。 この私の本音のところにイエス様、来てください」 とお祈りして欲しいと思いますが・・・。 『時を忘れて』は、 10月号の『百万人の福音』のフォト&ポエムに掲載していただきました。 ’86年か’87年に書いた歌です。 長く歌っています。 私としては、 この『時を忘れて』の状態からはもう卒業していると思っています。 それでも歌うと、 まだまだ皆さんの心に届くということは、 それだけ多くの方が厳しい中を歩まれていることを思います。 その大変な中にイエス様が働いてくださいますように・・・。 卒業している、 といっても真理は変わることがありません。 目を閉じなければ見えないこと、 口を閉じなければ言えないこと、耳をふさがなければ聞こえないこと、 がありますね。 歩みを止めなければ会えない人が、 会えないお方がいらっしゃいますね。 このことを知ったことは私にとって貴重な体験でした。

_『時を忘れて』_

目を閉じなければ、見えない世界がある。
口を閉じなければ、言えない言葉がある。
耳をふさがなければ、聞こえない声がある。
歩みを止めなければ、会えない人がいる。
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて

(山口博子姉のコンサートでのお話の中から、 ご本人の了解を得、 一部を掲載しています。 山口姉のコンサート・略歴は報告・お知らせをご覧下さい。)
月報2005年10月号より

「4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には…」

4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には、3ヶ月そこらでボストンを離れ、NYに戻ってこのようにおあかしを書くということは全く予想していませんでした。神様は本当に人間の考えも及ばないことをなさる方だと改めて思います。

3年間働いた会社を辞め、意気揚々とボストンに引越し、新しい生活と仕事を始めて間もないうちに様々な問題が出てきてしまいました。弁護士にも相談する事態になり、その結果新しい仕事を見つけて早急に転職するしかないとのことで、ボストンに引っ越して早々、再び仕事探しを始めることになりました。いつ仕事が見つかるのかわからず、本当につらい毎日でしたが、思い返すとGod is faithful and never abandon you.という言葉は真実だと思います。

―サブレットさせてくれている人がクリスチャンで、私の状況を考慮し、柔軟にサブレットの期間などに対応してくれました。8月中、面接の結果を待っている間Homeless状態になる私の荷物を快く地下に置かせてくれたりなど、もしもこんなに柔軟に対応してもらえなかったら、リースやらストーレッジやらでもっと大変なことになっていたと思います。

―ボストンではすぐに日本人教会に溶け込むことができ、またそこは同じ年代のクリスチャンが多かったので、十分すぎるくらいのサポートが与えられました。解雇された経験を持つ人も少なくはなく、クリスチャンとして、経験者として良いアドバイスと励ましがもらえました。

―ボストンの教会で一番最初に知り合った女性が、実は数年前に私の前の会社のボストンオフィスで働いており、実は以前にMeetingで会ったことがある人でした。彼女も同じような経験をしているので、本当に親身に励ましてもらいました。
それとは別にDCの方の紹介でお会いした女性も、だいぶ前に同じ会社のボストンオフィスで働いており、励ましをもらいました。

―本当に落ち込んで、泣きながら地下鉄に乗っているとき、たまたまその日にホームでギターを弾いている人がクリスチャンソングを弾いており励まされました。

―1週間のうちに、4回も違う形で違う人から聖書の同じ部分が示されました。へブル人への手紙11章。つらくなるたびにこの御言葉を読みました。

―同僚は本当に良い人たちで、いつも励まされました。

挙げればもっとあると思いますが、ボストンでの夏は、お金もなく、最後の方には無職に近い状態になってしまったので、今までで一番教会に通い、すべての教会行事に出席し、暇があれば聖書を読んで祈る生活でした。そうする中で神様に頼ること、本当に神様にゆだねることを学んだと思います。

就職活動をする中で、6月にNYでずっと夢に見ていた教育機関から面接の機会をいただいたのですが、面接が良い印象で終わり、本当にそこで働きたいと思うことがありました。神様に毎日強く祈ったのですが、そこで働けなければ生きていけないという感じの強い祈りでした。神様、今なら私はNYに行ってもあなたのために働けます。NYに戻ったら、これもこれもこれもやって、あなたに近づけるようにします。だからこの仕事を私に下さい、と毎日祈りました。1ヶ月ほど面接の返事はなく、落ち着かない毎日が続きました。しかし、結果のわかる1週間前、ふと、この仕事は私のものではないということを感じました。そのとき、あんなに欲しくて欲しくて、泣きながら祈っていたのがうそのように静まり、「神様はこの仕事は望んでいない」と不思議に平安を感じることができました。結果はやはりだめだったのですが、まわりの人が驚くほど私が落ち着いていたので、神様が私の心を準備なさっていたのだと思います。同時に、自分が勝手に「神様これをくれたら私はこういうことができるんですよ。そうすれば神様はうれしいでしょう?」と勝手に神様に家を作ってあげようと決めたダビデのような状況になっていたことに気づきました。すべては神様が決めるのであって私が何をするかを決めるのではないのです。

その後もNY,Boston,DCを中心に面接をしていましたが、ボストンに残るのかなあと感じるようになりました。
ひとつボストンでうまく行きそうなところがあったので、私は勝手に自分で「何日までに決まれば引越しなんかもちょうどいいかな」とプランを立てていました。しかし、そこの選考プロセスも私が思ったようには進まず、結果がわからないまま、ボストンでの仕事を辞め、アパートを出ることになりました。面接の結果待ち中にホームレスになり、仕事もなく、どこに行けばいいのかもはっきりしない状況だったので「神様いつまでこんなはっきりしない状態が続くのですか?」と思っていましたが、ボストンを去る数日前、NYのある教育機関から電話があり、面接に来ないかと聞かれました。Applyしたのがだいぶ前だったため、どのポジションに応募したのか、どんな会社なのかも思い出せなかったのですが、ホームレスなので、NY経由でDCの西郷先生の家に行こうと考えていたため、ちょうどいいタイミングということでNYで面接を受けました。私の期待に反してそこはとても印象の良い会社で、面接を受けて数日後にオファーをいただきました。そこから手続き関係で時間がかかり、ようやく9月13日から仕事が始まるのですが、そのおかげで西郷先生の家に1ヶ月も滞在することができ、子供夏期学校をはじめいろいろな奉仕をすることができたことを本当に感謝しています。西郷先生の家での時間は朝から晩まで神様を第一とする生活で、ものすごく忙しい毎日でしたが、西郷先生たちの神様に対する熱意が本当に伝わる生活に加わることができとてもうれしいです。

この数ヶ月間、短い期間にいろいろなことが起こり、たくさんの人に出会い、いろんなことを感じたので文章できちんとまとめることができるかわかりませんが、今回神様は本当に神様の計画を持っていて、私が自分で考えた計画というのはなんのあてにもならないことを学びました。また、ボストンで同じ年代のクリスチャンたちとの交わりを持てたことも本当にすばらしい体験でした。そして、私は今まで大学も仕事も人間的に見たらいわゆる「良い大学、安定した職業」についており、それは自分の努力や能力で達成したという気持ちがどこかにありました。しかし今回、教育分野で働くことに迷い、ボストンでの建築オフィスでの仕事に移り、その中で困難に会うことで、自分がやっぱり国際教育の分野で働きたいということを再確認できたことを感謝します。今回NYで得た仕事は私の努力でも何でもなく、本当に神様が私に与えてくれた仕事だと思うので、大事に毎日神様のために働きたいと思います。今後また様々な試練があると思いますが、どんなときも神様はFaithfulで決して私たちを見捨てたりしないということを実際に体験したのでいつも神様の計画を信じていきたいと思います。

月報2005年10月号より

「EXODUS で受けた恵み」

この夏、私は今年からMessiah College の一年生になる生徒たちのために行われたbackpacking trip に参加しました。そのプログラムは ”EXODUS” 神様が守ってくださると約束された土地に行くために荒野の中を旅をする、と言う聖書の「出エジプト記」と同じテーマのものでした。10日間完全に文明から離れ、シャワーもトイレもない中、毎日 森のど真ん中でcampsite を作り、重い荷物を背負いながらハイクをし、神様が私たちに与えてくれた素晴らしい自然の中で leadership trainingを受けながらお互いのfellowshipを深めることが目的でした。でも本当は行く直前まで、こんなの本当にできるかな? と悩み、キャンセルするつもりでした。でもディレクターの人と話し、『絶対良い経験になるから来なよ!』と励まされ、結局行くことに決めました。でもその時はどのようにして神様がこの旅を私にやり遂げさせてくださるか全く分かりませんでした。

初日は一日中準備をして、ペンシルバニア州にある大学から3時間ほど離れた森の中に行き、美しい星の下で寝ることが出来ました。二日目からハイキングが始まり、5-6マイルのコースを歩いた後、毎晩違う場所に寝ました。思っていたキャンピングとは全く違い、何もない森の中に入り、生徒たちで寝れそうな場所を選ばなければなりませんでした。ビニールのシーツとロープ四本でテントらしき物の作り方を学んだりしました。また食料は、熊が来ないよう高い木に吊るさなければなりませんでした。そして、毎晩バイブルスタディの時間がありました。その中で、私達人間は、神様が創造されたこの大自然の“管理人”としての役目を神様からまかされていることを学びました。はじめ、森での生活は、食べ物も残り物を出してはいけないので全部食べてしまわなくてはいけないとか、使ったトイレットペーパーも持ち帰らなくてはいけないとか、なんて厳しいんだろうと思いましたが、神様が作られた自然を守り育てるためには、やらなければならないことだとわかりました。

そして、毎日変わりばんこで生徒二人がペアーになり、 “leaders of the day” (L.O.D.) となりました。その二人だけに時計と地図が与えられ、「今夜はこの辺に泊まりたいからどうにかして午後4時までにみんなを無事にここまで連れて行くんだよ。」と大人のリーダーに言われるだけでした。ハイクの途中間違えて LOD が違う方向に行ったとしても、大人たちは何も言いません。責任は全部その日のLODのもの。どこで休むか、どこで水を川から汲んだら良いかも全部LOD が決めます。私が初めて LOD だった時は、地図に書いてある様々な川が乾いてしまっていたため、水を汲もうと思っていた場所が使えず、計画していたことが台無しになってしまいました。でも神様は力と知恵を与えてくださったため, 無事皆をリードすることが出来ました。

ハイキングの他に、一日  “solo experience” と言う物も体験しました。それは、断食しながら24時間森の中で全く一人で過ごす時でした。皆それぞれ離れた場所で、寝袋、聖書、雨具、そしてテント代わりのビニールだけを持ち、祈ったりデボーションをしました。その間、たぶん聖書を半分ぐらいを読むことが出来たと思います。でも、長い間何も食べていなかったのでめまいがして、気分が悪くなってしまい、日が暮れる前に笛を吹いてリーダーに助けを求めました。でもそんなついらい思いをしても本当に恵まれた時が持てました。毎日の生活の中でどれだけの物が与えられているか、どんなに神様は私たちのことを愛してくださってこの地球を創造してくれたかが改めて分かりました。そして、鳥と虫の声以外完全に静かな場所にいたため、聖霊様が風となり、私の心に優しく「愛しているよ」と語ってくれるのを感じることが出来ました。人生の中で一番平和で落ち着いた時が持てました。

でも、一番神様の奇跡を体験したのは、2回目にLOD になった日でした。その日は突然 「今日は生徒だけの日です。僕らリーダー達は明日の夜までいなくなります。」と言われてしまい、頭の中では 何-?? と少しパニックしましたが、パートナーのクレッグが、「大丈夫だよ。地図とコンパスもあるし、僕ら二人なら出来るよ」と励ましの言葉をくれました。最初の内は皆のんきで、平らな道を歩きながら、「何だ、この位だっだらリーダーたちなんて要らないね!」、と言っていたのすが、道が狭くなり崖のような所を歩いている間に、何と3箇所も蜂の巣に出会ってしまいました。初めの2回は、皆1~2箇所刺されたのですが、3回目は、運悪く、蜂は私の所だけに来て、何十匹の蜂が映画のように私を襲ってきました。走ろうとしたけれど、シャツの中に入るは、長ズボンの中にも来るし、何十箇所も刺されてしまいました。しかし、今いる崖の所からリーダー達に助けを求めてもどうにも出来ないので、とにかく日が暮れるまでに普通の道路の所まで行かなければならない、と思い、頑張ってクレッグと一緒に先頭を歩きました。その間、皆は心配して、私の荷物を分け合って持ってくれました。暗くなった後リーダー達に電話し、夜中に来てもらいましたが、私はその時、本当に具合が悪くなってしまい、もうこれでこのままここで死んでしまうのかと思ったほどでした。それに気がついてくれたケイトは、夜中中2時間おきに私がまだ呼吸をして生きているかどうか起してくれました。そして翌朝まだ疲れて気分が悪かった私を皆寝せてくれて、クレッグとケイトはチェックしに来たり、ご飯を持ってきてくれました。

本当にその日は神様に守られたと思います。沢山の蜂に襲われ、森の中で何も治療をしなくても助かったのは、神様が守ってくれたとしか考えられません。そしてまた、神様は素晴らしい仲間達を与えてくれたと思っています。参加した生徒は6人だけでしたけれど、初めて出会ったこの仲間に一人一人違う面で助けてもらい、励まされました。皆神様に特別選ばれた子達のようでした。その日だけではありません。この旅の間、ずっと神様に守られて愛されました。何よりも、体が小さな私が25kg 以上のbackpackを背負いながらずっとハイキングを出来たことは、自分の力ではなく、神様が私を通して働いてくださっていたからです。この旅の間中、私を支えた聖書のみことばは、
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲の様に翼をかって登ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」― イザヤ書 40:31-でした。
そして、教会の人たちや家族が毎日この旅のために一生懸命祈っていてくださっていたのも大きな力になったと思います。本当に祈りの素晴らしい力とそれを聞いてくださった神様は、今も生きて私を支えてくれているんだと感じました。
最後に私が好きなクリスチャンシンガーの歌(旅の間、心の中で歌っていました)を紹介します。

“When I call on Jesus, all things are possible. I can mount on wings like eagles and soar. When I call on Jesus, mountains are gonna fall. “Cause He’ll move heaven and earth to come rescue me when I call.” -Nicole C. Mullen

本当に神様、そして皆様の祈りに感謝します。

(礼拝で英語通訳のご奉仕を努められ、 今回お証を書いて下さった市ノ渡真奈姉はメサイア・カレッジ入学のため、 ペンシルバニア州グランダムに引っ越されました。 姉の新しい歩みのためにお祈り下さい。)

月報2005年9月号より

「クリスチャンホームに生まれた者の遠回り」

私はクリスチャンホームに生まれました。
私が生まれた時, 父はもう牧師を辞めてジャーナリストになっていましたが、大学は神学部を卒業、戦前は牧師だったと聞いています。母は父が神学生時代に教師をしていた教会学校の生徒だったと言う関係でした。

そういう事で教会と言う所は物心がついた時にはすでに生活の一部でしたので、 教会を遊び場として、礼拝堂の裏を走り回ったりして我がもの顔で遊んでいましたし、又、教会学校では話を最後まで聞かず、聖書の大切な箇所を先生が語られる前に結末を先に言って邪魔をしたりしていました。

しかし、反抗期に入るに従い、教会に集まる信徒の方々の言動・行動が偽善者のように感じたり、父の後輩にあたる牧師先生の裏表を見て幻滅を感じる様になって行きました。いつからか自分の教会には行かず別の教会に行ったりしていた時もありはしましたが次第に足は遠のいて教会にはクリスマスとイースター位しか行かない状態になっていました。

ただ、神様の存在は漠然とは信じていました。そしてイエス様は十字架に掛かって我々の罪の身代わりとして死んでくださった事は「知識」としては知ってはいましたが、自分とは関係がない話の様で、 聖書の内容もおとぎ話の様にただ記憶として入っているだけで、それが全部関連付けられて一つになることはありませんでした。

大学を卒業してからある小さな商社に就職しました。大変な就職難で大きな会社には入れませんでしたし、 大学の時にグリークラブ(男声合唱)の演奏旅行で行ったアメリカに住みたくて、その会社なら早く、駐在の可能性があるかも知れないと言う理由で決めた様なものでした。

会社に入って2年めで早くもチャンスは来ました。上司から、海外出張に行ってみないかとのチャレンジを与えられたのです。

同じ会社に居た、高校からの親友と二人でどちらが初海外出張の最年少記録を塗り替えるかと競争しようと話し合っていた矢先だったので、もちろん、その申し出を受けて準備を始めました。

出張先は、パキスタンでした。私は単純に、「選ばれた」という様な変な「錯覚」にとらわれて、有頂天になって一生懸命準備に取りかかりました。そして、出発の数日前に当時、営業責任者であった常務に上司とも一緒に呼ばれ出張の打ち合わせをしたのですが、その常務が打ち合わせの中で「何もまだわからない、経験も無いこんな者を出張に行かせるなんて何を考えているのだ。」 と上司に向かって突如、怒り出しました。それから私をそっちのけで上司と延々と議論を始め、喧嘩寸前の言い合いにまで発展し、自分が行くのは大変なことで 「失敗したら会社には居れない!」とまで追い込まれ、一転、プレッシャーのかかった気の重い結末となってしまいました。

単純な男ですので、それまでの「選ばれた」なんて思っていた「変な自信」はあっけなく砕かれてしまいました。 上司は新人を育ててやろうと思ってチャンスを下さったと思います。しかし、それまで新入社員を厳しい指導で辞めさせていたと言う「新人殺し」としてのうわさが思い出させられて、その上司が私を早く辞めさせる為の罠だったのではないかと疑いだしたりしました。今さら止めるとも言い出せず、会議の終わりには出張がうまく行かなければ責任を取って会社を辞めなければならないと悲壮な思いになっていました。

いよいよその日が来て、 まだ海外出張の珍しい時代(1977年)でしたので会社の社員と家族に見送られて出発しました。大阪伊丹空港、フィリピンのマニラ、バンコク、カルカッタを経て真夜中にやっと現地に着いてみると、航空会社でチェックインしたトランクはパキスタンには届いておらず、パリに行ってしまっていました。着いてから、英語も大してわからないのに、夜が明ける頃まであちこちたらいまわしにされて、やっとクレームのフォームを記入して、着のみ着のままで、仕事の書類のぎっしり詰まった書類鞄だけでその出張が始まりました。

食事は、どこへ行っても不潔きわまりない薄汚れた食器で出てきて、すさまじい匂いと、何を頼んでも質の悪そうな油の中に浮いていて、なんとか食べようと思っても喉がきゅっと締まって拒絶状態に陥り、全くのどを通らず、一昼夜何も食べられない状態でした。猛烈な暑さと湿気と匂いの中でお客を廻り、食事も食べれない状態で、いったいこれからの20日間、たった一人でどうなるのかと不安になったのを覚えています。もっとも人間とは良く作られたものでそのような状態が一昼夜続くと、その翌日から少しずつ食べる事が出来る様になりました。

しかし、今度は為替が大きく円高に変わり、本社からはいままで受けていた注文の残り(注残)を全部値上げせよとの命令が来て、全ての注文の残りの値上げが出来るまでは帰ってくるなとのテレックスが入ってきました。

受注どころの話ではありません。毎日、延々と時間をかけて値上げ交渉、そして、新規注文交渉と顧客を廻るのですが、 交渉は難航して疲れきってホテルに戻るという毎日で、ただ、むなしく日だけが過ぎて行きました。

とうとう、2週間程経ったある日、心身共に疲れきって、登校拒否の子供の様な状態になって、仕事に行く気がせず、ベットでやけになって大の字になって寝そべって、 「もう駄目だ、もう駄目だ」、「会社も辞めさせられる・・・、」 「自殺した方が・・・」 とつぶやいていました。 暗い穴の様な所に落ちて行く自分を見て居る様でした。 長い間、 同じ事をぶつぶつ言っていたと思うのですが、言い疲れて、放心状態になって居た様ですが、しばらくして、 ふと別の思いが出て来ました。

自分の出張の是非を巡る上司同士の言い争い、荷物が紛失し、食事が食べられず、為替の急騰、等々あまりにも偶然に悪い事がこんなに一度に重なるのは誰かが特別の思いをもって、意志を持って、自分にぶつけて来ているのではと、急に思わされ、最終的に、これは自分を「だめ」にするのではなく、「試され」ているのでは? という思いに変えられていきました。

そして次に思いついた事は「 ひょっとしたら、神様がなさっているのかも知れない」でした。そう思い始めると、どんどんその思いが強くなり、暗かった心の中に突然、光がさして照らされるような、何とも言えない熱い喜びが沸いてきているのを感じました。それまでは悪態の限りをつぶやいていたのに今度は一転、何年もしていなかった祈りの気持ちが溢れてきました。「神様、自分はこんな方法で試されるほどに、あなたから愛されていたのですね。・・・ありがとうございます。」と言う様な祈りだったと思いますが、その感謝の「祈り」とも「つぶやき」ともわからない事を何度も繰り返し、していたのを覚えています。

最終的に、この出張がもし神様ご自身が仕掛けられたのだったら、たとえ失敗に終わっても何か別の道が絶対用意されているのだと強く思わされました。そうすると絶望的だった心がすっと軽くなるのを感じました。

それから不思議な事が起こり初めました。翌日からは苦労していた値上げの交渉が進むようになり、注文も少しずつではありますが取れる様になりました。最終的に、1週間の滞在延長を申請して、値上げが出来たばかりかその地域での新記録の売上になる注文を持って帰ることが出来ました。仕事の方法が変わった訳でも特別な能力が与えられた訳でも無く、明らかに何かの意思で物事が変わって行く今までに無い体験でした。

その時から、「神様は絶対に居られる事、そしてこんな取るに足らない者でも特別扱いして愛してくださり、 訓練をして下さる。」との確かな思いが与えられました。その後、あちらこちらと中近東を一人で出張して、 いろんな目にも会い、問題に突き当たる事も多々ありましたが、その都度、訓練の時と信じて進む時 いつも、 守られ、回答が与えられて来ました。

そんな経験をしてから数年後、 父が脳血栓で倒れ、 2年半闘病の後、 亡くなった事も、 全てが家族一人一人への意味のある、 訓練の時であり、 自分達を愛するゆえに神様ご自身が許されてそれが起こっていると心から思わされましたし、 その様になりました。
又、体が動かせず、 失語症になった父が、他の患者とは違ってその苦しさを表にはださず、周りの者ばかりを気遣う姿を見ることができ、クリスチャンとは凄いものだと思わされました。

その頃の私は、信仰は自分と神様の個人的な関係なので自分さえ信じて神様につながっていれば洗礼を受けなくても良いと思っていました。しかし、父の死をきっかけに、子供時代、偽善者だと思っていた教会員の方々のさりげない配慮のある行動を見て、自分には出来ない、他の人に対する愛を感じ感謝しました。そして、一人よがりの信仰では何も成長出来ない自分の弱さを知らされ、教会に繋がって神様に仕えて行くことが、これらの信仰の先輩方のように成長していく秘訣だと信じ、イースターに洗礼を受けました。28才とずいぶん遠回りをした洗礼式で、教会員の方々の涙を見て、自分の知らない所で多くの方の祈りが積み上げられて来た事を知り、 心から感謝をしました。

洗礼を受けてから、教会生活を始めて、自分がいかに強欲で汚い、罪深いものであるかがだんだん心からわかる様になり、その為にイエス様が十字架で死ななければならなかった事も実感として思わされ、それまでのばらばらでただの知識だった聖書の箇所がだんだんがひとつになり、イエス様の十字架の意味が実感として判るようにさせていただきました。

色々な方が色々な形でイエス様に出会い、クリスチャンになられますが、私は「本当に凄い方に愛されている」と言う暖かい、心の中に日が差して行くと言う実感で始まりました。 神様が個性の違う人それそれぞれの為にご用意下さっている特注の愛に感謝します。

歳を取るに従って、益々自分の汚さが自分自身に明らかにされて、何も変わっていない罪深い者である事を思い知らされる事が多いのですが、その時、そのような者をそのままご自身の命とひきかえに、許そうとされたイエス様の愛の大きさに感謝します。そして仕事においても、個人の事においても家族の事においても、全ての辛いことを通して何かを与えようとしてくださっている神様の愛を思うとき大きな喜びと信頼感を持つことを得させてくださっています。

ヘブル12章6節~10
「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。(中略)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」

ヘブル10:章35~36「 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」

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『イエス様と歩む喜び』

イエス様は、僕の罪のために十字架にかかって死んでくださり、それ程までに、僕を愛してくださった。罪の全てを消し去って希望を与えて下さったその十字架の愛に答えたい。イエス様からいただいた希望を力にして仕えていきたいと思うようになっている。
この希望を実感する場になったのが、英語を学ぶために行っていた語学学校だ。僕が通った語学学校では、 様々な国の人がいて、皆英語を学ぶ目的で来ている。
その語学学校では、月曜日になると必ず聞くことがある。「週末は何をしましたか。」
実は、僕は日本人学校にいるときから、他人に「日曜日に教会に行った。」と言ったことがなかった。もしかすると言いたくなかったのかもしれない。だからその時もあいまいに答えた。しかし、ある何人かの韓国人が、 「教会に行った。」 と口々に言った。彼らの言葉が、僕に希望を与えた。人に、自分はクリスチャンであると言うことに抵抗があった僕にとって、心が開かれた瞬間であった。
またさらに別の日、ある韓国人はこう言った。
「アフリカに行って、ゴスペルがしたい。」このような言葉は、僕に勇気と希望を与えてくれた。彼は、本当にイエス様だけを信じて従っているから、そのようなことが言えるのだと思った。イエス様の光を信じて歩んでいる姿を見ていると僕も心から喜びがあふれてきた。彼を尊敬すると同時にイエス様の素晴らしさを知った。英語を学びに行った僕は、同時にイエス様のことを学んでいた。また、そこにはクリスチャンの先生もいらっしゃった。 その先生との個人的な会話で先生は言われた。「It is important for us to know the God in our life.」 同感だった。そのままそう感じた。そして、その時クリスチャンであるということの特権に感謝し、喜びが満ちあふれてきた。
ビリーグラハム大会で、僕は、日本語のプラカードを持つ係になった。横にも「カミール」と書いてあるプラカードを持っている中学生ぐらいの男の子がいた。その彼と話す機会があった。彼は、インドのクリスチャン。僕は、正直、驚いた。クリスチャンが決して多くないインド。クリスチャンが全世界にいて、全世界でイエス・キリストを賛美している。文化、国民性が全く異なる場所でもイエス様によってつながっている喜びを感じ嬉しくなった。
世界中で賛美されるほどイエス様は偉大な方。世界中どこを見てもクリスチャンはいる。これは他ではない唯一の神様であるという証拠だと言える。ビリーグラハム大会で痛感した。
もう一つ僕にとって喜びを感じることがある。それは友情である。教会の友達はやはり特別なものだと改めて思う。どんなときでも受け入れてくれる。どんなときでも頼れる。どんなときでも祈ってくれる。そのような友達が周りにいるということが喜びをくれる。イエス様を通して兄弟であるクリスチャンの仲間がいることに感謝したい。
これから僕は、イエス様の御名だけを信じてこの心から湧き上がる喜びを世界中に伝えていきたい。それがイエス様の十字架の愛に対しての答えであると信じて。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」 マルコ16章15節
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝を持って祈と願いとをささげ、 あなたの求めるところを神に申しあげるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって、守るだろう。」ピリピ人への手紙4章6節7節
全世界に出て、福音を伝えていく。試練のときには神様に祈って生きていきたい。
韓国語では神様のことを「ハナニム」という。これは、三位一体である神様だから、「一」と言う意味の「ハナ」を含めた「ハナニム」と言うようだ。世界で唯一の「ハナニム」に委ねていきたい。
これからも神様の恵みを全て受けることができますように。

月報2005年8月号より