<集会紹介>「愛餐会」(2025年11月)

「愛餐会」って、教会以外のところではあまり聞かれない言葉ですね。でも、実は多くの教会で使われている言葉です。簡単に言うと、教会の食事会。イエスが人々と食事を一緒にしながら関係を築き、メッセージを語って行った姿にならって、教会でも、いろんな場面で食事を一緒にすることを大切にしています。教会によっては、毎週礼拝後に、食事の準備の担当に当たった方が準備して、一食5ドルとか10ドルを集めて食事をするというところもありますが、私たちの教会では、イースターとサンクスギビング、年に2回、持ち寄りで教会全体の愛餐会を持っています。

 イースターは、イエスの復活をお祝いする日、そして、サンクスギビングは一年の歩みを感謝する日。サンクスギビングデーは木曜日なので、その直前の日曜日にサンクスギビングの礼拝をささげて、愛餐会をしています。礼拝堂で一緒に心からの礼拝をささげた後、地下のジムで愛餐会のスタート。ターキーやハム、フライドチキン、コーンブレッドやマッシュポテトなど、アメリカの定番の料理のまわりに、炊き込みご飯や鶏の唐揚げ、ポテトサラダやそばサラダ、おいなりさんやキムチや中華ちまき、そしてデザートの数々。美味しい食事に自然と会話が弾みます。

 ごちそうをいただきながらの歓談も楽しいですが、全体でのゲームがこの愛餐会の一つのハイライト。企画担当の方が頭をひねって準備したゲームに、子どもも大人も一緒になって、真剣に取り組みます。これには「熱くなりすぎないで~」との声も。また、年によっては、イースターやサンクスギビングにちなんだプログラムが準備されることもあります。去年のサンクスギビングには「今、感謝したい人、もの、場所」など具体的に挙げていって、最後はそれをつなげてチェーンを作りました。挙げていくとたくさんの感謝すべきことがあるものですね。私たちの日々の小さな感謝も、このようにチェーンのように繋がって広がっていくのだと思わされました。

 そして、最後に牧師の聖書からのお話とお祈り。心も体も満たされて、新しく出発します。

 今年も11月23日の日曜日にサンクスギビングの礼拝と愛餐会を持ちます。礼拝が1時半から、愛餐会がその後、3時半から。是非礼拝からおいでいただきたいですが、「どうしても間に合わないから・・・」と諦めないで、愛餐会だけでも。皆さんを心からお待ちしています!

<牧師室より>2025年11月「嵐の中でも」

 10月の終わりから11月の初め、13年前にハリケーン・サンディーがNY地区を襲った時のことを思い出していました。大雨と強風で木があちらこちらで倒れて、停電が広がり、海沿い、川沿いでは高潮で大きな被害が出ました。教会も牧師館もほぼ1週間の停電。停電の影響で暖房も入らず、電気温水器の家だと温水も出ず、寒い日々を過ごしました。でも、あの時、私たちは互いに声を掛け合い、支え合って歩んでいたなあと思います。また、自分たちの電気が帰ってきたときに、より大きな被害を受けた地域に行って、ボランティア活動をしたことも思い出します。

 あの時に比べると、私たちは何倍も穏やかな11月を迎えています。でも、私たちは今、見失っているものはないだろうかと思います。

 あのようなことがまた起こったら良いのに、なんてことは決して思いません。でも、あの、電気も電話もインターネットも、全部止まったその中で、私たちは本当に大切なものは何かを経験していたのだと思います。声をかけてくれる人々の暖かさ、支え合うことの大切さ、共に歩むことの力、そして、誰かのために生きる事の幸いも。

 穏やかな11月と申しましたが、皆さんの中には、穏やかだなんて、とんでもない、今、まさに人生の嵐の中を通っておられるという方々もおいででしょう。このようなことは決して起こってほしくない、ということを経験しておられるかもしれません。でも、そんな中で、思い出していただきたいです。神はそのような困難の中でも、私たちに大切なものを教えてくださるお方だということを。

「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ人への手紙 5章3~5節)

聖霊様に従って歩む

私が単身でアメリカに来ることを決めた、神様の計画と導きを証したいとおもいます。

私が高校生のとき、ある預言の賜物をもつ先生に祈っていただく機会がありました。
そこで言われた2つのことがすごく心に残っています。
1つ目は、「あなたは将来色々な国に行くようになるでしょう」
2つ目は、「聖霊に従って歩みなさい。そうすればあなたは大きなものを動かすようになるでしょう」

これを言われた時は海外にも行ったことがほとんどなく、ただ神様は自分に計画を持っておられると知って嬉しかったことを覚えています。
そこから数年経って大学でフランス留学をし、その後就職した会社では海外マーケティングの部署に配属され、色々な国に出張する機会がありました。
そんな中で「アメリカ赴任」の話があがりました。

結婚してからも仕事の関係で遠距離をずっと送ってきた私たち夫婦は、その話が出る少し前に、ようやく一緒に暮らせるようになった最中だったので、私だけアメリカに渡るということに、最初はかなり後ろ向きな感情・不安が渦巻きました。
何の不安もなく安心できている場所から、一歩踏み出すということは本当に勇気のいることでした。また夫婦は一緒にいましょうという中、あえて離れる選択をするのは罪なのでは?と思い悩みました。

ただ、これがもし神様の計画だったら必ず祝福があると思い、道が開かれると思い、祈りました。そして、もしこれが御心ではないのであれば完全に道を塞いでください、と祈りました。

祈り始めてから多くの変化がありました。
・同期の仲の良い友達が同じタイミングで同じ場所に赴任することになりました。
・新入社員の時からずっと面倒を見てくれていた上司がアメリカ会社の社長として赴任することになりました。
・現地の上司が不在でかなり負担がかかると聞いていたところに、素敵なドミニカ人上司が入ってきました。
・知り合いがNJ日本語教会の人を紹介してくれました。

他にも私の背中を押すような、不安を和らげるような出来事がたくさん起こり、これは神様の計画なのでは?と思える環境が整えられ、行くことを決意しました。

そして赴任して1年半が経ちました。
夫婦関係は守られ、職場でもクリスチャンの上司が与えられ、祈り合う教会の仲間ができたことに心から感謝します。
ただ最近、自分の力で頑張って苦しんでしまう場面が増え、もっと神様に祈り委ねる、聖霊様に導いてもらう経験をしなければならないと感じています。
アメリカ生活残り半年、もっと神様を見上げて、神様の計画・御心を祈り求めて行きたいです。

最後に私が赴任を決めた際の聖書箇所をシェアします。
「パンをねだる子どもに、石ころを与える父親がいるでしょうか。魚を食べたいという子どもに、ヘビを与える父親がいるでしょうか。いるわけがありません。罪深いあなた方であっても、自分の子どもには良いものを与えたいと思うのです。それならなおさらのこと、あなたの天の父が、求める者に良いものを下さらないはずがあるでしょうか。」
マタイ 7:9-11

自然の恵に感謝して描こう!

収穫の秋になり、街にはカボチャが現れました
いつもキッチンにある野菜なども描いてみましょう


いつもの冷蔵庫の野菜までもが、アートのモチーフですね。


お庭で作ったウリをかかえるモデルさん


初めての人も紙を大きくつかって、積極的に描けましたね


たくさん線を描いてバランスを整えましょう

錦織先生の聖書のお話し

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる
と書いてある。」では聖書の中にはどんな言葉とは何ですか?

聖書にはたくさんの言葉が書かれていますが、真髄となるような聖書の箇所を何ヶ所か紹介していただきました。十字架の意味を考えながら、私達の罪を背負ってくださったイエス様の愛を感じました。

生きるという意味、私たちの一人一人の存在の大切さ、神の愛はどこに表されているのか?を共に考えていきたいです。

 

<牧師室より>2025年10月号「ホンモノを求めて」

 先月の半ば、私が所属している合唱団のメンバーが1人ご帰国になるということで、送別会が持たれました。その席上、帰国される方がこのように挨拶をされました。「この合唱団は本当に楽しい。でも、楽しいだけだったら自分は続かなかったと思う。自分は、ある時、皆さんと一緒に歌いながら鳥肌が立つ経験をした。その経験があったからこそ、今まで自分はこの合唱団でやって来れたのだと思う」と。その話を伺いながら、本当にそうだな、と共感しながら、私たちのニュージャージーの教会はどうかな、と思わされていました。

 楽しいだけではない、ここに入った方が鳥肌が立つような経験をしていただいているかな、鳥肌じゃなくてもいい、心が震われるような経験をしていただいているだろうか、神さまに心に触れていただく経験をしていただいているだろうか。語られるメッセージも、単に聖書の教えに忠実にとか、神学的に正しいとか、理路整然としているとか、面白いとか、分かりやすいとか、ではない、ホンモノがここにあるだろうかと。

 それから1週間後の修養会、プログラムの最後の振り返りの時に、最初に立ち上がられた方が、「今、私の魂が喜んでいる」と声を震わせながらお話されているのを見ながら、こういうことなんだな、と思われていました。私自身、講師の先生方ご夫妻の姿に、その言葉の一つ一つに、真実な神さまとの関係の中から生まれるものを感じていました。

 以前、こんな話を聞いたことがあります。ある牧師さんが日曜日の礼拝が終わった後、メモを受け取った、誰からか分からない、でもそこに「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」とのヨハネの福音書12章21節の言葉が書かれていたそうです。その牧師さんはそれを読んで、まず腹が立った。「『イエスにお目にかかりたい』・・・つまり、私のメッセージで、イエス様に会えないというのか?」と。でも、その牧師さんは心の中で本当だと思った。自分は正しいことを話しているし、分かりやすく、面白く、話している、「良かったですよ」と言ってくださる方もいる。でも、集う方々にイエス様にお会いする経験をしていただけているだろうか?

 その牧師さんは、次の日曜日まで必死に祈りました。神さまに訴え、叫び、嘆き、そして、神さまからの答えをいただいて、礼拝のメッセージを語りました。礼拝の後、またメモが残されていました。そこには「弟子たちは主を見て喜んだ」というヨハネの福音書20章20節の言葉が書かれていたそうです。

 ただ楽しいだけではない、ただ正しいだけではない、そこに入った方が、鳥肌が立つような、心が震われるような、神さまに触れていただくような経験をする、そんな教会となりますようにと祈ります。そのために私自身、神さまとの更に豊かな関係へと導かれますように。