*JCCカフェ通信-第1号*

皆さん、こんにちは!

お元気でお過ごしでしょうか?新型コロナウィルス感染拡大の影響で、今年に入ってか らお休みしているJCCカフェですが、今はまだいつカフェを再開できるか分からない状況です。このような中 でも皆さんと繋がっていることができたらと思い、この度「カフェ通信」を発行することになりました。これ から、定期的に配信することができればと願っています。今回はもうすぐサンクスギビングということで、それにちなんだ話題をお届けします!

*JCCカフェ通信-第1号*   をお開きください。

◆トピック◆

)メッセージFrom カフェマスター

「すべてのことについて感謝しなさい。」 テサロニケ人への手紙第一5章18節

 2)Apple Cake Sharlotka (Country Apple Cake)  作り方

フワフワ、しっとり。6種の材料でこんなに簡単に 出来るなんて!急なお客様にもぴったりです!

3)飢餓献金のご報告

4)集会・プログラム

それでは、皆さん、素敵なサンクスギビングを過ごされますように!
 NJ日本語キリスト教会
カフェスタッフ一同
 
jccofnj.org/jcc-cafe(カフェブログ)
www.jccofnj.org(教会ホームページ)

版画の4つの種類、牛も描こう

版画の種類は4つに分けられます。
2021年の干支は牛ですね、牛のスタンプ作りましょう。
小学校で、木版を作ったのを覚えていますか?
彫刻刀で怪我した人もいましたね。
銅板を削ったり、腐食させてインクを詰めて刷るのが
銅版画です。
リトグラフ、石版画でモンマルトルの
酒場のポスターなどが制作されました。
孔版は、Tシャツなどの印刷シルクスクリーンです。

(今回のクロッキークラスは日本からの発信でした)

クロッキー教室の後は、錦織牧師のバイブルショートメッセージ。
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「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」
第一テサロニケ5:16-18
サンクスギビングが近づいてきました。
今年も、感謝すべきこと、数えてみる時になりましたね。
皆さんはどんなことに感謝しようと思いますか?
でも、聖書は「すべてのことについて」感謝しなさい、と語っています。
感謝できないこともある、でも、そんなときも感謝しなさい、と語っているのです。
どうしたら、そんな事ができるのでしょうか?
その前に出てくる言葉に答えがあります。
祈ることです。ぜひ、試してみてください。
「神さま、こんなこと、感謝できないのですが、でも、こんなときにも感謝できるようにしてください。」
神さまは私達を助けて、感謝ができるようにしてくださいます。
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次回は、12月16日(水曜日)です、またオンラインでお会いしましょう!!

2020年11月牧師室より「嵐の中で」

夏の間、新型コロナの感染が収まっていたヨーロッパでまた感染が拡大して、ロックダウンに追い込まれた国々のニュースが流れてきています。ここアメリカの北東部も、10月の後半になって急に感染者の数が増えてきています。これから、恐れられていた第2波が来るのでは、という心配が募ってきています。そして、11月3日のアメリカの大統領選挙。この状況の中で、手続きが混乱するのでは?どちらの結果になったとしても、結果を受け入れられない人々が暴動を起こさなければいいけれども・・・などという思いが湧いてきます。

そんな時に、一つの聖書の情景が浮かんできました。ガリラヤ湖を渡ろうとしていた弟子たちに、突然の嵐の中で、嵐が襲ってきます。イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、「しっかりするのだ、私である、恐れることはない」と言われます。それを聞いてホッとした弟子たち、そのリーダーであったペテロが、「イエス様、あなたでしたか、でしたら、私に命じて、あなたのところに歩いて行かせてください」と願い出るのです。イエスは「おいでなさい」とペテロを招かれます。ペテロは小舟を出て、湖の上に踏み出すのです。一歩、二歩と歩み始めたペテロ、しかし、途中まで行って、ペテロは風を見て恐ろしくなった、といいます。嵐の中で、波風に気を取られて、恐ろしくなってしまったというのです。その時に、彼はズブズブと沈んでいってしまいます。そこで、イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロの引き上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた、という箇所です。ペテロはイエスのことを見つめていたときには水の上を歩けたけれども、風を見た時に、波を見た時に、嵐を見た時に、ズブズブと沈んでいってしまったのです。

ここには象徴的な意味があります。私達の人生でも嵐に遭う時に、イエスに目を留めていれば、イエスをまっすぐに見つめていれば、溺れることはありません。恐れる必要はないのです。恐れてしまうのは、嵐の方に注目してしまうからです。

これから、アメリカや世界に襲ってくる嵐、その中でも、私達は目を向けるべきところにしっかり目を向けていきましょう。決して周りの状況を無視するのではないのですが、でも、それに心を奪われてしまうのではなく、それに捕らわれてしまうのではなく、その嵐の中でも、たしかに共にいてくださるイエス・キリストに目を向けて歩んでいくのです。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

ヘブル人への手紙 12章2節

聖霊様に導かれて

私が洗礼に導かれて行った時のお話をさせて頂きます。

私の若い頃から、クリスチャンではなかった母が、しばしば、聖書は世界最高の書物だと言っていました。また、母は、教会や賛美歌を美しいものとしてとらえていたように思います。しかし、残念ながら私の日本での生活では殆ど教会に行くチャンスはありませんでした。

しかし、アメリカの生活が始まった頃からは少しずつですが教会に足を運ぶチャンスに恵まれる様になりました。何故ならば、元夫がカトリックのクリスチャンであったからです。夫の行動には素直に従って付いて行っていましたし、彼からの特別の強制も無かったので、自然な感じで教会に足を踏み入れていました。それから年月が経ち私達夫婦にも色々な試練が起こりまして、細かな話は致しませんが離婚に至る迄になりました。

そうこうしているうちに、子供達との三人の新生活にも大分慣れてきていた頃に、あるクリスチャンのピア二ストの友達の誘いで教会の礼拝前の音楽奉仕に参加させて頂く事になりました。そこは現地の教会でした。奉仕の後、すぐ帰るのも失礼な様な気がしまして、英語の弱い私でしたが、解らないながらも、どうにか礼拝の終りまで出席するようになりました。唯々牧師さんの素晴らしい人柄が滲み出ていたお説教に聞き入っていました。勿論英語なので理解する事は難しかったのですが、それなりに不思議な世界に浸っている自分がいました。そして、何時しか聖書の世界を知る上でも日本語の教会に行きたいという思いになっていました。

その様な矢先、別のクリスチャンの友人から、「私の行っている日本語教会に来ないか」との誘いがありました。「実は私も日本語教会に行きたかった」という事を告げ、直ぐOKの返事を致しました。彼女は祈りのハンナ(聖書のサムエル記に出てくる熱心に祈った女性の名前)と言うあだ名が付いている位祈りを大切にしていました。多分祈りの中に私を見たのでしょう。突然の誘いに不思議さも感じない訳では有りませんでしたが。

そこの教会の場所はニュージャージー日本語キリスト教会がお借りしているザイオン教会の様に立派な建物ではなく、一人の教会員の家でした。私にとっての「教会」のイメージは、外目に見ても教会だとわかるような建物だったので最初は少し驚きました。このような所でも教会として成り立っていけるのだろうか、と思いましたが、友達がいたので大丈夫という安心感はありました。私にとってのそこでの最初の礼拝で心に留まったのは、説教以外の話で、牧師さんが「来週は日本に行く前の最後の週なので洗礼を受けたい方のチャンスですよ!」と言われたことでした。勿論それは私にとっては全く無縁の世界という思いで聞いていました。

その同じ週に、私に思いも寄らない事が起きました。日本からの姉の電話で、母が半年もつかどうか解らない状態である事を医師から告げられた事を知らされたのです。その電話口で二人で暫く時間も忘れ、泣き崩れていた事を覚えています。
それから直ぐに、祈り方も知らない私は生まれて初めて手を合わせ、「神さま」という言葉を口にし、私の思いを神様に聞いて頂きました。その祈りの中で、礼拝のときに牧師さんの言っていた事が思い出されました。洗礼を受けるという事の意味も、何も知らない私は、直ちに洗礼を受けて、神さまに、私の思いを母に告げるパイプ役、橋渡しになって頂こうと思いました。
聖書の勉強もした事が無く、中身も全く解らず、心の準備も十分に与えられずの洗礼でしたが、牧師は心から喜んで授けてくださいました。この牧師は、洗礼を受けたいという気持ちが先ずは大切で、それから聖書の世界を知る方が深く理解出来るのだという御考えをお持ちの方でした。
でも本当に何も知らなかった私には学びもとても大変なものでした。しかし、洗礼を受けた後で振り返ってみた時に、人にはそれぞれ洗礼を受けるタイミングがあって、私にとってはこの様なスタイルが相応しい形だったのだと、思いました。

いよいよ迎えました洗礼式は涙涙でした。全く泣く事を予想していなかった私は人前で大泣きした恥ずかしさで一杯でした。人前で泣く事は当時の私には実に恥ずかしい事でした。お願いだから私の涙を止めて下さいと、洗礼中ずっと願っていました。その当時の私は、流した涙がどういうものなのか、どこから来たのか、全く理解出来ませんでした。その涙を通して、私は不思議なものを見ました。勿論聖霊という言葉、存在すら知らない私だったので、目に気流の様なものが見えましたが唯の目の錯覚という思いでいました。今から思えば全てが聖霊様に導かれていた私の洗礼式迄の行程ですが、十字架によって贖われた私の罪を示す涙だったのだいうことがわかります。涙で終わった洗礼式も、今では、私の罪がきよめられた喜びの証しとなっています。不思議な事に、それから半年と言われた母の命も、三年の時間を与えて頂く事が出来ました。感謝の喜びでいっぱいです。
聖霊の働きは、陰の力、縁の下の力と目立たない存在です。私の日々の祈りの中でも、神さま、イエス様と頻繁に呼ばさせて頂いておりますが、聖霊様をこれからも沢山お呼びして、祈りの中心になって頂きたく思っています。
聖霊様有難うございます。この様に聖霊様によって今回の証しを書けるこの時にも感謝致します。これからも宜しくお願い致します。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」

コリント第一の手紙12章3節

キュビズムを学んでピカソになろう。

ピカソの絵って変な絵ですよね?
今日は、キュビズムを学びましょう。
特別講師の太田美奈子さん、よろしくお願い致します。

バイオリンも正面、横から、色々な方向から見て
同じ画面に描くのですね。

横顔から始まって、正面、防止、耳、手、足、
自由に同じ画面に描いていくのですね、キュビズム出来ました!

クロッキー教室の後は、錦織牧師のバイブルショートメッセージ。
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「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネ15:5
実りの秋になりました。
聖書の背景になっているイスラエル、パレスチナ地方の果物といえば、ぶどうです。
あなたがたはぶどうの枝なんだよ、枝は幹である私につながっているときに、実を結ぶことができるんだよ、と言われました。
もう随分前になりますが、裏の家の枝がうちの庭に落ちてきたことがありました。
その時、しばらくは緑だったのですが、1週間ほどたつうちに、葉っぱがしおれ、やがて枯れてしまいました。
私達も、時には「大丈夫、自分ひとりで生きていける」と思うかもしれません。
でも、もしも自分の心が枯れてしまっているなあ、と思うときがあったら、ぜひ、この言葉を思い出してみてください。
そして、神に祈ってみてください。
私達はこの生命の源なるお方によって力を頂いて歩んでいくことができるのです。
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