「私の生まれた地は、現在のロシア…」

私の生まれた地は、現在のロシアのサハリン(旧樺太、戦前は日本の領土)です。戦後、昭和23年11月に日本人として最後となった船で、親戚を頼りに大家族11人と共に引き揚げて、北海道紋別郡生田原町に落ち着きました。数年後、奇しい出来事が起こり、岩見沢市郊外に住み、小学から高校まで過ごしました。やがて、社会人として札幌に移り、数年後には結婚、長女出産、その後、室蘭市に仕事の関係で移り住みました。
ある日、近くで開拓伝道をしておられたスウェーデンミッション白鳥台キリスト教会のアナニア・トシエル宣教師が訪ねて来られ、一枚のトラクトを渡されました。以前、中学校で歴史の教科書で学んだキリスト教は、「自由、平等、博愛」の精神が根底に流れていると感じていて、宗教は嫌い、私には必要無いと常に思っていた私の心にその時何かが響いたような気がして、直ぐに祈祷会に出席し、礼拝へと導かれました。また、吸い込まれるように聖書をむさぼり、通読する日が続くようになりました。礼拝とは云っても、トシエル師と若い女性の伝道師と私の三人だけでしたが、私にとって恵みの時、救いの時だったと、後になり神様のご計画であったことを主から知らされました。間もなく、聖書の冒頭にある「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1-2」という御言葉に圧倒され、神様に捕らえられてしまいました。
そのような中にあって、人目にはわからなかったようですが、主人との関係が悪い状態に陥っていました。こんな時こそ神様にすがるしか道が無いと追い込まれました。すると、数々の御言葉が与えられ、祈られ励まされて、神様の愛がどれ程に深く絶大であるかを示されました。そして、何よりも神様の御名を冒涜し、傲慢な私の心が罪であることを知らされました。
二千年前にこの私の罪のために、父なる神は愛する独り子イエス・キリストを人として地上に送り、イエスは私だけでは無く全人類の罪を担い、苦しみの十字架の上で打ち砕かれ、血を流して死んでくださり、その血潮のゆえに罪赦されたことを知りました。また、三日目によみがえり、弟子たちに現れ、神の国を語り教え、天に昇り、父なる神の右に座し、今も私たちのために執りなしてくださっている事を知りました。永遠の命が与えられる希望を固く信じ、イースターにその教会の初穂として洗礼を受けました。洗礼の日、礼拝の始まる前より、涙が止まらず二時間ほど続き、洗礼式に臨んだ事は忘れられません。聖霊が私の体、霊の中に圧倒的に臨んでくださった事を後で確信しました。ハレルヤ!!  私の人生はこれからすべてバラ色、元の幸せな家庭生活が送れるのだと神様に感謝を捧げておりました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16:31」
しかし、主人は私たちの前から姿を消したのです。受洗二週間後、主人から丁重な手紙が届き、帰る事は出来ない、死を選ぶとの内容に驚き、地球が180度回転したような、頭の上では真っ黒な雲が渦巻いている幻を見てしまったのです。幸い、近くに教会がありましたので、1日に何度も祈りに行き、トシエル師には「ご主人は必ず生きていますよ」と励まされましたが、どこかの教会に飛び込んで、神に助けを求めてほしいと泣きながらの日々でした。
やがて、室蘭で住む事が困難になり、札幌に移り、OMF(国際福音宣教会)の教会に集い、祈りと励ましを受けました。興信所に足を運び、主人の行方を依頼する事になったのが、娘が5才の時でした。その時、何よりも力となり、私を支えたのは聖書の御言葉でした。
8ヶ月後、祈りが答えられ、その年のクリスマス・イブの日に仙台で再会し、数知れずの厳しい現実と向き合いつつ再出発しました。仙台で私が行き始めていた仙台国見教会のイースター礼拝に主人は約束通り出席し、礼拝のメッセージと聖霊の助けにより、イエス様を信じ救われました。礼拝後、赤裸々に罪を告白し悔い改めました。そして、ペンテコステの日に洗礼を受けました。
その主人が5年前にスキルス性の胃癌と宣告され、10日間の入院の間、お会いする方々に感謝の言葉を言い続け、イエス様が共に闘ってくれた事を語り、最後には神様の御手に捉まるようにしながら、身許に凱旋しました。葬儀には私の姉妹や甥たちも遠くから駆けつけてくれて、「キリスト教の葬儀はとても良いね。感じる事が多くあった」と言ってくれ、私も十字架の出来事を語る事が出来ました。錦織先生とは以前から再会の約束をしていましたが、ちょうど日本を訪問されていた先生が来られたのが前夜式の時となり、先生からも慰めの御言葉をいただき、神様の愛と憐れみを感じました。
翌年3月11日に東日本大震災が発生し、3分43秒の地震に自然界の恐ろしさを体験しました。私のしていた仕事の関係から、多くの被災者と向き合い、現場にも接し、その苦しみと悲しみを微力ながら共に分かち合いました。
その後、アメリカに住む娘たち家族と生活をするように導かれ、人生で一番長く時間を過ごした仙台を離れ、2012年11月にアメリカにやって来ました。翌年にNJ日本語キリスト教会のメンバーとして加えさせていただきましたことに感謝しています。はや3年を過ぎようとしています。
私が今思う事は、この世の厳しい時代に生かされた者として、この地上では残された時間は少ないかも知れないと感じています。しかし、私たちの国籍は天国にあり、そこには住む家を用意していてくださると約束されている希望のゆえに、患難さえも喜び、忍耐を持って祈り従う者となりますように。これ程までに愛して下さるお方を一人でも多くの人達が信じ、救われますように。そのために約束の御言葉を宣べ伝える事が出来ますように助けて下さいと祈る日々です。再びイエス様がこの地上に来られる事を固く信じます。主イエスよ、来て下さい!! アーメン

月報2015年9~10月号より

「結婚前は自分のことを…」

結婚前は自分のことを愛情深い人間だと思っていました。
人生の価値はいくら貯金をしたかとか、高い地位に就いたとかではなく、どれだけ人を愛し愛されたかにあると公言するほどでした。

主人と私は2009年1月にNJで新婚生活をスタートさせました。ドラマのように甘く幸せな新婚生活を描いていましたが、実際は、初めての共同生活、初めて暮らす土地、言葉の壁、様々なストレスが一気に押し寄せ、口から出るのは不平不満ばかり。
主人は精一杯やってくれているのに、常に心を占めるのは「こんなに頑張っているのに、主人は分かってくれない」というつぶやきでした。
愛を持って穏やかに主人に接したいという思いとは裏腹に辛くあたってしまう毎日でした。

11歳で洗礼を受けたものの、神様から遠く離れた生活を十何年も続けていた私でしたが、その時は不思議と教会へ行こうと思い立ち、すがるような気持ちで毎週教会に通い、涙ながらに祈りました。
自分ではどうすることもできずにいた時、バイブルクラスでサマリヤの女の箇所が開かれました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13・14節

その時、自分の心がカラカラに干涸びた井戸のように思えました。
干涸びた井戸から、なんとか愛を絞り出そうとする自分の姿が見え、ハッとしました。

「神は愛なり」という御言葉は聖書をあまり知らない人でも聞いたことがあると思います。その箇所にはこう書いてあります。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 第1ヨハネ4章8節

神様は愛情深いとか、愛に満ちているというのではなく、「愛そのもの」だと言うのです。
そして愛とは、
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」第1コリント13章4~8節
だと言うのです!

愛して結婚したはずの主人に労りの言葉をかけることも惜しみ、求められるものも与えず、欠点を暴き出しては責め立てる・・。聖書が言う愛とは真逆の自分の姿に、私の心には元々愛など存在しないとはっきりわかりました。
そして、愛の源泉である神様に繋がって愛を頂きながら生きたい!と強く思いました。

愛が神様のものだとわかってからは、自分の力で愛をひねりだそうと自分自身に寄り頼んでいた私の傲慢さが浮き彫りになりました。
それと同時に、そんな私に無償の愛を注ぎ、許し続けて下さる神様の哀れみを感じ、私も主人を無償の愛で愛し、許したいという思いが与えられ、もう一度イエス様に従って歩む決心をしました。

この「二度目の救い」とも言えるような信仰のリバイバルから6年が経ちました。
雷に打たれたように、神様を信じたその日から劇的な変化が!という救いもありますが、私の場合、ノロノロと牛歩のごとくここまできました。
疑い深くなかなか納得しない私の性格に合わせ、神様はゆっくり時間をかけ、一歩一歩階段をのぼる様にわからせて下さいました。

数年前までの私には「何かを成し遂げなければ!」という焦りがありました。
駐在生活で仕事はできないにしても、それに代わる特技のような物を見つけて、いずれは教室が開けるぐらいに極める。というのが、私の生きる目的であったように思います。
それを実現している人を見ては、自分と比べ、焦ったり嫉妬する日々でした。
今思えば、やりたいことが決まっているわけでもないのに、極めたいと思う深層心理には、自分の存在意義を証明したいだとか、誰かに認めてほしいという欲求があったのだと思います。
でも、二つの御言葉に出会い、このような強迫観念が消えてしまいました。というか、生きる目的がすっかり変わってしまいました。

「主を賛美するために民は作られた」 詩編102:19
「全世界に出て行きすべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」 マルコ16:15

「神様を賛美する。」「福音を述べ伝える。」それが神様が私の人生に望んでおられる使命だとわかってからは、自分で自分に背負わせていた重圧から解き放たれ、空を飛べそうなくらい自由で楽しい気分でした。
ありのままの私を愛して下さる神様を前に、誰かと比べて落ち込む必要もなければ、躍起になって自分の存在意義を証明する必要もなく、「自分」の栄光を現すことよりも、ただただ自然体で神様に従って生きて「神様」の栄光を表す方が、何百倍も喜びがあるということを知ってしまいました。

死んだら天国に行けるという約束はもちろん素晴らしいですが、神様に従って生きる時、この地上で天国を一足先に味わえるというのはもう一つの素晴らしい約束であり、クリスチャンの特権です。
先に救いを聞いた者の責任として、福音を伝えること。特にかつての私と同じように苦しんでいる方々に、神様にあっての本物の自由と楽しさを伝えたいという願いが与えられ、それと同時に次々に新しい出会いが与えられています。
神様がどのような大きな御業を見せて下さるのだろうと期待し、わくわくしている今日この頃です。

月報2015年7~8月号より

「私は両親共にクリスチャン…」

私は両親共にクリスチャンの家庭に生まれました。というと小さい頃から教会の子供として育って来たのだろうと思われるかもしれませんが、実は家族揃って教会に行くというクリスチャンホームではありませんでした。父はクリスチャンスクールの校長を長くしておりましたので、学校と教会はほとんど一体で学校では生徒さんたちにお話もすることも多く、家ではよく聖書を広げていました。母は日曜日も祖母や子供達のクラブ活動などのお世話で、ほとんど教会には行きませんでした。兄は野球少年で日曜は不在、私は小学生の時は父と教会に行くこともありましたが、中高生になるとクラブ活動でほとんど教会には行かなくなりました。
大学生の時に韓国研修旅行で現地の礼拝に参加する機会がありました。その時に韓国の学生さんに両親がクリスチャンだと話すと、なぜ教会に行かないの?是非行ってみてと言われました。
いままで誰かに教会に行ったらと勧められた事がなかったので、その時の言葉が強く心に残り、また教会に通うようになりました。それでも自分は小さい頃からお祈りもしてきたし神様が守ってくれているという勝手な自信があり、洗礼を受けようと思った事はありませんでした。
社会人になり将来結婚して新しく家庭を持つことを意識するようになったとき、私は、両親の信仰により今まで守られていただけで、自分で都合の良い神様を作り上げ、本当の神様と直接つながっていなかったことに初めて気がつきました。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15章5節)誰しも一人一人が自分の信仰で神様とつながっていなければならない。結婚を意識した相手がクリスチャンでなかったこともあり(今の夫ですが)、私は自分の中にしっかりとクリスチャンの柱を立てて生きて行きたいと願い横浜の蒔田教会で洗礼を受けました。
結婚と同時(1995年)に駐在で上海に行きました。当時の中国ではキリスト教の集まりを宣伝することができず、どこに行ったら日本人のクリスチャンの方に出会えるのかも全くわかりませんでした。しかし本当に神様の導きとしか思えないように、すぐに家庭集会に出会うことができ、その後小さな礼拝に参加することができるようになりました。そこでは香港の日本語教会から送られてくる説教テープを流しながら礼拝を持ちました。中心になってくださっていたのはある銀行の駐在員の方でしたが、のちに牧師となられました。
日本に帰国後は、子供達が教会の幼稚園に通うようになると教会学校に通い始め、子供達はたくさんの聖句を覚え、私も励まされました。
『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神様があなたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一 16-18)日々の生活の中で、また困難やトラブルの中にある時、弱い私には実行するにはとても難しいのですが、私が常に忘れてはいけないと思っている神様からのメッセージのひとつです。

私たちの家族(実家)に変化があったのは、父が9年前に亡くなった時です。ガンと宣告されてから2ヶ月、本当に短い時間で父は天に召されました。父の葬儀での教会員の方々の励ましや勤めていた学校での追悼礼拝などによって、家庭では見えなかった父のクリスチャンとしての歩みを垣間見ることができました。また、家庭ではいつもおだやかで優しく、よく勉強しよく働き、時にユニークで、でも反抗できないような毅然とした態度の父でしたがそれは教会や学校でも同じでした。そして天国で父が神様に『よくやったね』と喜ばれて迎えられているであろうことを心から感じました。
それから母は教会に行くようになり、教会を中心に皆さんに支えられて今は一人暮らしをしています。そして兄は父の死から1年後家族で洗礼を受けました。私は子供達がお世話になり通っていた大森めぐみ教会に転会しました。天国で父はとてもびっくりしているのではないでしょうか。それとも父は祈りが叶えられ、こうなることをちゃんと知っていたのかもしれません。
今思えば、父と神様のことを話たり、もっと色々と教えて欲しかったと悔やまれます。でも父はただ、私たちが自らの意志で聖書を読み、教会に足をむけ、聖霊の呼びかけに気がつくことを待っていてくれたのだと思います。
そしてこの度、孫娘の佳帆が洗礼を受けたことを誰よりも天国で喜んでくれていることと思います。

このニュージャージー日本語教会に来て、本当にたくさんのことを学びました。
礼拝で先生が語ってくださること、グループや様々な学びを通して、そして教会の活動を通しての教会の意味、大切さに改めて気付かされました。
『教会はキリストの体、一人一人はその器官である。』(コリント信徒への手紙一 12章27節)
それぞれが神様からいただいた賜物を用いて教会に仕える。人と比べて得意なものなど何もないと思っていた私ですが、こちらの教会での賛美の歌の奉仕、子供達のキャンプのお手伝いを通して、私にも教会で役に立てることがあるのではないかと思えるようになりました。そして自分が与えられている賜物をつまらないものであると思うのは神様に対してもとても失礼なことであることを知りました。
7月に4年の滞在を終え帰国することが決まりました。
日本の教会は転会後間もなく渡米してしまい、牧師先生も変わってしまいました。
懐かしいけれど新しい教会にいくような、そして私自身も変えられた今では、どんな教会生活になるのか期待と不安があります。新しくクリスチャンとなった娘と、まだクリスチャンではない夫と息子と共に、神様に期待してキリストにしっかりつながり、私を導いてくださるほうに歩いて行きたいと思います。

月報2015年5~6月号より

「私は小さい頃から教会…」

私は小さい頃から教会に行っていました。母がクリスチャンで、教会の幼稚園に通っていたからです。
このニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、小学四年生の時です。父の転勤で突然アメリカにやってきて、最初は英語もまったくわからず学校の宿題に追われる毎日で、母は教会を探す余裕もありませんでした。
そんなある日、母が聖書の会で、錦織先生と出会いました。そして、錦織先生が母と私を教会へ誘ってくださいました。それから2年が過ぎ、私は錦織先生の元で、洗礼を受ける決心をしました。
きっかけは去年の夏、「ひがきゃん」にいったことです。ひがきゃんとは、東海岸にある日本人教会に通っているユース(中高生)のキャンプです。私はここで神様と向き合う経験をして、たくさんの事を学びました。
一つは、栗栖先生が教えて下さった「神様がいるという証拠は神様によって、変えられた自分なんだ。」と言うことです。私は昔から教会に行ってはいても、神様は本当にいるのかどうかと信じられなかったり、疑ったりする事がありましたが、ひがきゃんに行って、自分が神様によって変えられたと感じました。
二つ目は、友達と大声で肩を組んで泣きながら、笑顔で心から神様を賛美するのがどんなに素晴らしいかを知りました。
そして、神様を信じると決めたのですが、なかなか洗礼を受ける気にはなりませんでした。なぜなら私はあと一、二年で日本に帰るので、洗礼は日本で受けようと思っていたからです。
でもある日、BIG(中高生の分級)で「なぜ教会に行っているのに洗礼を受けないのか」というワークシートをもらいました。その中に「先延ばしにしている人」という題があり、それはまるで私の姿だと思いました。先延ばしにしていると逃すものが多く、損をするだけだというところがすごく印象に残り、早く洗礼を受けたいと思い始めたその日の礼拝後、錦織先生が「クリスマス礼拝に受洗する?」と声を掛けて下さったのです。私はこれは絶対偶然ではなく、神様が受けなさいと私に告げているのだと思い、洗礼を受ける決心をしました。そして、昨年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。
私はもう先延ばしにする人ではなく、神様を受け入れ、これからたくさんのめぐみを受けることができます。この夏、日本に帰り新しい生活がスタートしますが、ここで出会った兄弟姉妹との交わり、たくさんの学び、「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章37節)と言う御言葉などを忘れずに神様と共に歩んでいきたいです。

月報2015年5~6月号より

「支援の中で感じたこと」

今月は元ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーで、今は日本におられる天野潤さんに、東日本大震災の後に支援活動をされた経験の中で、思わされたことを書いていただきました。

「支援の中で感じたこと」
         
NJ日本語キリスト教会の皆さま、本当にご無沙汰しています。

東日本大震災の時に、サマリタンズ・パース(2011.11~2013.8)の一員として復興について関わってきたので、今日、この記事を書くことになりました。

「なぜ神様はこれを許されたのだろう?」、「なにを見せたかったのだろう?」、「罰が下されたのだろうか?」などと自問します。しかし、まだ答えは見つかりません。この震災については、皆さまも思うところ多いと思うのですが、今日は支援をとおして、私なりに感じ、残しておきたい記憶をつぎの3点にまとめておきたいと思います。

1.終わりの日に備える
この震災では、「そのときは、ユダヤにいる人は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中のものを持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたが逃げるのが冬や安息日にならないよう祈りなさい。」(マタイ24:16-20)というみ言葉が現実となってしまったということを感じました。生き残った人の話でも、家に戻った人がそのまま帰らなかったという証言を多く聞きました。もういちど災害について、あるいは終わりの日に向かって、こころを引き締めましょう。

この大災害をとおして、●自然の災害は人間の想定を超えることがある、●電気のない生活がどんなものか、●石油がない時どうしたか、●食べ物が不足するときの生活、また、●放射能の被害とはどんなものか…など、これまでの各種報道で何度も見てきたと思いますが、来るべき困難な時代がどんなものか、そのサワリを示してくれたように思います。現代は、Proxyの時代だと言われているとおり、電気も、石油も、食べ物も、誰かに(どこかに)依存して暮らしています。実に子供の教育から、親のお世話まで委託に頼りお金で買う時代ですから、委託先がこけると悲惨な目に会います。高層マンションでは、エレベーターの故障・停電だけでも、生活できなくなってしまうでしょう。

もちろん、苦難の日の前に、クリスチャンは携挙(天にあげられること)されるので、信じていればよいというクリスチャンも多いのですが...皆さんはどうでしょうか?この災害が来るべき艱難時代(多くの災いが起こると聖書に預言されている時代)の、神様からの警告だと思われる方はいますか?

2.クリスチャンは必要なとき一致する 
サマリタンズのキャンプでは、復旧・復興・支援とフォローアップについて、教会を超え、教派・役職にかかわらずみんなが協力していました。(起床)(朝食)(全員でディボーション)(現場でお祈り)(作業)(家主さんとの会話)(作業)(片づけ)(お祈り)(キャンプでシャワー)(食事+分かち合い)(就寝)というルーチンでしたが、アメリカ、カナダ、ドイツ、オーストラリア、韓国、ブラジルなど、国を超え、ことばの壁を超えて協力し働きました。この一体感はとても心地よく、充実していて、天国の様子を垣間見た心持でした。僕たちクリスチャンは、必要な時に一致できるというのは、大きな励ましです。

使徒の働き2:44-47には、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあります。神様はこのことについても神の国の予告編を教えてくださったように思います。

3.愛は実践
ルカ福音書に記述されたサマリヤ人の例は実践です。旅路の途中、サマリヤ人は傷つき倒れた人に手を差し伸べ介抱しました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。ここにサマリタンズ・パースの原点があります。サマリタンズの働きで救われた人の証を聞くと、泥出しをする人・大工さんたちの働く姿、祈る姿を見て信じたという人が大変多く、実践は説得力であるというのが、僕の実感です。

フロリダの大工さんが言った言葉が耳に残っています、「Sweat & tears only change their hearts!」 汗を流してその人のために働くこと、また涙を流して祈ることが必要だというのです。同様に、子供は親の「やる」ことはまねるが、「言う」ことは聞かないと言われていますよね。

被災者に触れる時、イエスを信じてほしいけれど、自発的でなければ意味がない!その人のため働いていても、「どうせ ”string attach”だ」などと思われたくない!ほんとうの神さまに触れて欲しい!

「エルサレムの娘たち、私は、

かもしかや野の雌鹿をさして、誓っていただきます。

揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。

愛が目ざめたいと思うときまでは。」 雅歌 2:7

人を愛するって、忍耐でしょ!? (祈り)日本の魂にほんとうの救いが訪れますように。

(終わりに)  東北の各地で、この4年間にいままで教会のなかったところに、新しい教会が建てられてきました。今でも石巻では、サマリタンズで働いた若い人たちが残って、ボランティア活動を行っています。2月―3月の作業内容は、海苔の収穫や牡蠣の種付け、仮設の訪問、各種フェローシップなどです。

息子(亮)は(めでたく結婚し)、公立の小中学校では宗教的な「賛美」を教える事は認められないのに「ゴスペル」は、OKというので(笑)、石巻の学校でのゴスペル・クワィアーを通じて子供たちに関わっています。ご存知かもしれませんが、仙台で2014年11月3日、ゴスペルフェスティバルに参加した時、延べ、1500人のミュージシャンが仙台の街9ヶ所でのライブで、朝から晩まで賛美していたのを見ました。1ヶ所で一日中賛美があるのは聞いても、一つの都市で同時に9ヶ所で賛美が歌われたというのは、驚くべきことで、♪御国の心地す♪の祝福でした。また、復興に関わった牧師たちの連絡網は今も生きています。

いまは、わたしは直接は復興の現場に関わっていないのですが、”Food”がキーワードだと聞いたので、農とコミュニティーに関することを始めたいと考えています。フランスのColibris(ハチドリ)運動(南米エクアドルの先住民族の言い伝えで、森火事に一滴ずつ水を運ぶハチドリのこと)にならって終わりの日、または、愛の実践のために、自分にできるひとしずくですね。

賛美主♪天野潤

月報2015年3~4月号より