6歳の女の子とママさんモデルを描く

久しぶりに家族でNJを訪ねてくれたOファミリーがご家族で参加してくれました。


Oちゃんとママ、モデルさん初体験記念の撮影


描く時、画面をいくつかのブロックに分けて描くと、
バランスが取りやすいですね。


ママと一緒に動かないように〜頑張ってくれて
ありがとうございました。

カレンダーの絵のテーマは、よろこび(Joy)です。
今日の錦織先生の聖書のお話は、カレンダーのこの絵の聖書箇所から、

テサロニケ人への手紙 第1 51618
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」

「いつも喜んでいなさい」「すべてのことに感謝しなさい」って言われても、辛い事も、悲しい事も色々とある生活の中で、簡単な事ではないですよね。
でも、そこに挟まれた、祈ることってできるのではないでしょうか?
守ってください、助けてくださいという祈りは天に届きます。
その時に、状況は変わらなくても、私たちの内側が変えられて、感謝と喜びの日々になるのです。

感謝したいことが沢山ありますね〜、と皆で話しました。

12月18日(水曜)にお会いしましょう。

2024年10月号<牧師室より>「祝福を持ち運ぶ」

9月21日のラトガーズ大学の天野先生をお迎えしてのセミナーはとても良い集まりとなりました。先生のお話は分かりやすく、また会場からも質問や意見も寄せられ、海外に住んでいる私たちに必要なお話を伺うことができたと思います。

特にその最後の方でお話いただいたこと、認知症の方々のサポートのために、個人でもなく、国や州の政府でもなく、コミュニティーだからできる事はないかという提言は私たちにとって、とてもチャレンジングな問いだったと思います。これから、この地域のネットワークがこの先生を通して、どのように広がっていくか楽しみです。そして、それだけではなく、天野先生をはじめ、何人かの方々から、「この日本語教会はすでに一つのコミュニティーですね」とお声をかけていただき、励まされたと共に、新しい視点を与えられたように思います。

今まで私は「教会が地域のコミュニティーに、日本語を使う人々のコミュニティーに出て行く」ことの大切さを訴えてきましたし、何ができるかを考えてきました。しかし、今回「この日本語教会はすでに一つのコミュニティーですね」という皆さんにかけていただいた言葉によって、私たちの教会自体が一つのコミュニティーとなり、周りの人々を巻き込んで行くことができれば、それはまた大切な使命を果たしたことになるのではないかと思ったのです。

聖書の中で、「信仰の父」と言われたアブラハムはこのように神様に語られました。

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」(創世記 12:1-2・口語訳)

 この約束は、今では教会に対する約束として受け継がれています。安穏とした生活から立ち上がって、神様に従って歩んでいくときに、私たちは祝福の基となって、周りの人々に祝福を持ち運んでいく存在になっていくのです。勇気をもってこの地域に住む日本語を使う方々に祝福を持ち運ぶ働きをさせていただこうではありませんか。

世界の小澤征爾先生を偲んで、描く。

描く事により、今まで見えないものが見えてくる事、
観察するようになる事ってありますね。


画面を縦横4x4に分割して、写してみましょう


音楽が聞こえてきそうですね。


知っているキャラクターも見ないで描いてみると、難しい〜ですね。
よーく見て描いてみましょう。

実技の後は、錦織先生による聖書のお話です。
今日の聖書箇所は

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で一番すぐれているのは愛です。
コリント人への手紙 第一 13章13節

私達の教会でよく歌っていた讃美歌の生まれた背景を聞き
歌詞のように、神様から愛されている事をあらためて感じました。

「君は愛されるため生まれた 
君の生涯は 愛で満ちている
永遠の神の愛は
われらの出会いの中で実を結ぶ
君の存在が 私には
どれほど大きな喜びでしょう
君は愛されるため生まれた
 今もその愛受けている」

Testimony

I feel that my life has been led by God.

However, it took me a long time to believe in God as my Lord, but through an event that took place in 2022, I was able to believe in and accept God. I am truly grateful for that.

I married my Christian husband from Taiwan in 1972 in the United States. My husband’s mother and four sisters were all Christians. So I started attending a Taiwanese church in Queens every week, as my husband’s relatives gathered at church. However, my husband never once told me to become a Christian myself. I think that was a good thing for me. If he had told me that, I would have run away.

If I had not believed it myself, I would not have wanted to be baptized.

God has invited me many times through many events. In 1984, an American woman took the trouble to order a Japanese Bible and gave it to me as a gift.

Then, in 1989, when the pastor of the Japanese church in Maywood was still Rev. Masaki, my husband was working in real estate at that time, and I met a Japanese Christian at that time, and he and his wife invited me to come to the New Jersey Japanese Christian Church for the first time, and then I started listening to Bible stories in Japanese.

Then, in 1992, my mother-in-law, who had been really good to me, passed away, and I made a promise to her at that time that I would be baptized someday.

But for the life of me, I couldn’t really feel God.

Then one thing happened in December 2022. I was on a trip at that time. But on the way back, I had a real problem at the airport. A woman saw my situation and approached me. She told me that she was a doctor and that she had to help me as soon as she saw my situation. Then, after hearing my story, the woman reached out to me with her time and what she had at her convenience. At that moment, I felt God’s hand in giving me that person’s presence. The person’s name was Nancy. When I heard her name, I remembered that my friend who gave me a Japanese Bible as a gift 38 years ago was also named Nancy. With a strange feeling, I came home and was relieved when I received a video from a Japanese friend. It was a video called “Love Letter from Heavenly Father” made by a Christian, and it was edited in such a way that words and stories from the Bible were spoken directly to me from God. It ended with the message, “I am waiting for your return.” As I watched the video over and over again, I realized that God was now calling me through each of these things. And I wanted to believe in Him.

Four months later. In the study of preparation for baptism, I have learned again about God’s love, my sins, and Jesus who went to the cross to forgive them, and I want to follow him as my Lord.

「証し」

3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。

途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。

小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。

毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。

15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。

その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。

1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。

今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。

幸いに手術で全ての癌は取り去られました。

2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。

連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。

64歳の「放蕩息子」です。

ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。

讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。

あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。

2023年2月号<牧師室より>「春を待ち望んで」

2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。

この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。

代表的な言葉を挙げると、

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節

ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。

あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。

*JCCカフェ通信-第3号*

第3号 (Vol.3 Winter 2021 Issue)
あっという間に2021年が終わろうとしています。1年が経つのは本当に早いですね!皆さんはどのような1年を過ごされたでしょうか?コロナの状況も良くなっているかのように見え、普通の生活に戻りつつあるように思われましたが、ここに来て感染者がまた増えてきたようですね。JCCカフェもいつ再開できるか分からないのですが、皆さんに「カフェのことを忘れないで!また会える日を心待ちにしています!」と言う思いをお伝えしたく、今回もカフェ通信をお届けします。
Cafe Newsletter Vol.3.pdf  をお開きください。
◆トピック◆
  • メッセージ from コーヒーマスター
  • カフェコーナー ~ Bûche de Noël:チョコレートスイスロールケーキ ~ 
  • アートコーナー
  • 集会・プログラムのご案内
それでは、皆さん、安全で楽しいクリスマス&年末年始をお過ごしください!
 
NJ日本語キリスト教会
カフェスタッフ一同
 
jccofnj.org/jcc-cafe(カフェブログ)
www.jccofnj.org(教会ホームページ)

<牧師室より>2021年9月号「沖へこぎ出しなさい」

ずっと祈ってきましたが、9月12日から、まずは毎月1回からですが、第2日曜日の午前中に、NYでの礼拝をスタートします。NY市の郊外に位置する私たちの教会には、ずっと、NY市から来られる方々が多くおられました。また、車の便が必要な方々のことを覚えて、送迎の車も出してきました。それでも、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

それが、2020年からの牧師としての任期を更新するかどうか、祈っている中で、この任期の中でNYでの礼拝をスタートすることができないだろうかという思いが強くされていきました。元々、2020年の9月スタートを目指していたのですが、コロナで多くのことが制限される中で、この計画も延期になりましたが、この延期を通して、2021年の初めからは、このために心に重荷が与えられた方々と共に語り合い、祈り合い、備えることができました。そして、今年の6月2日のNYでの礼拝のための祈り会のために準備をしている中で、

「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」ルカ5:4

の聖書の言葉が心に響いてきました。この言葉は、夜通し働いて、でも、何も獲れずに、がっかりし、疲れ果てて、網を片付けていた漁師のペテロに向かってイエスが言われた言葉でした。ペテロはいろいろ言いたいことはあったでしょう。理由をつけて、イエスの言葉から逃げることもできたでしょう。しかし、最終的にはこのイエスの言葉に従った時に、網が破れそうになるくらいの多くの魚が捕れたというのです。この言葉を心に与えられたときに、私自身は、これをNYでの礼拝をスタートするための、神様からの語りかけと受け取りました。従うときに、祝福が与えられる招きであると思わされたのです。

どうか、皆さん祈ってください。この働きを通して、神様を知る方々が起こされますように。イエスに出会い、イエスに心を触れていただいて、新しくされる方々が起こされますように。また是非、お知り合いをご紹介ください。一人でも多くの方々に届くことができますように。案内はこちらから。

Joy Joy Camp!

  今年の夏は、どんな夏休みになるかな?みんなで楽しもう!! 

2023 Joy Joy たんけんたい
2022 ピースレンジャー
2021 キラリンピック2
2019 ワクワクTown2
2018 タイムマシン
2017 はずむでこぼこ音楽隊
2016 レスキュー隊
2015 登山隊
2014 テーマパーク
2013 ファーム
2012 アカデミー学校
2011 Factory
2010 探検隊
2009 ハードロックカフェ
2008 キラリンピック
2007 実験
2006 ジャングルぐるぐる探検隊
2005 体だからだ
2004 船に乗って
2003 Galaxy Express
2002 めっちゃ好き地球
2001 わくわくTown
2000 宝島探検隊
1999 不思議チャレンジ
1998 タイムマシン
1997 宇宙はでかいぞ!
1996 神様の船に乗ろう

クロッキー教室:卵に目鼻、顔を描く

ジョイジョイキャンプの会場作り、音楽室のイメージです。


有名音楽家+??の肖像画を描きました。キャンバスも額もダンボール!


子供の写真を撮るのと、工作が大好きというKさんの
エッグアートの作品も紹介して頂きました。


エッグといえば、顔のデッサンの基本ですね、
卵を使って目鼻のラインの基本ラインを学びましょう


今日のモデルさんは、競泳の池江璃花子選手です。
すごいね!可愛いね!という気持ちを込めてみなさん上手に描けました。


クラスの後は、錦織先生による聖書のお話です。
——

今日は「顔」の話で、最初には楽聖たちの顔の絵がでてきましたね。
その中にもでてきましたバッハは、作った曲の最後にSDGという文字を書いていました。
それは、Soli Deo gloriaの略で、「すべての栄光は神に」という意味です。
聖書の中にこのような言葉があります。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。」 マタイによる福音書6章9節
これは「主の祈り」の最初の部分ですが、まず、わたしたちが神に祈るべきことは、バッハと同じように、「神の栄光が現されますように」ということです。
それは、神がわたしたちを愛してくださり、わたしたちのためにひとり子イエスを与えてくださったからです。
私達もその神様の愛に応えて、何をするにも神の栄光が現されることを求めていきましょう。

——

2019年12月牧師室より「光のクリスマス」

12月、いよいよクリスマスがやってきますね。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする日ですから、教会では、ここぞ、とばかりに力を入れて、多くの皆さんにおいでいただけるようにと準備をしてお待ちしています。

みなさん、クリスマスというと何が思い浮かびますか?
最近の私は、クリスマスというとイルミネーション、という感じになっています。
毎年、クリスマスの時に、家族や友人とどこか行こうか、となると、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーをはじめ、マンハッタンのあちらこちらでイルミネーションを楽しみ、ブルックリンの Dyker Heightsに繰り出しています。

ふと考えたのですが、もしもこのクリスマスの時期、イルミネーションがなくなってしまったら、どうなるのでしょうか?NYでのクリスマスは、寒くて日が短くて、何か魅力があるだろうか、そう思うほどです。そして、もしも、本当に停電とかで、真っ暗になってしまったら、どうなってしまうんだろうかと。

ニュージャージー日本語キリスト教会では、毎年、12月24日のクリスマス・イブはキャンドルライトサービスを持っています。その時にいつもチャレンジするのは、ろうそくに火を灯す前、どこまで暗くできるだろうかということです。楽器を演奏する方々や、讃美歌を歌う方々の楽譜が見えないと困るとか、入ってくる人の足元が見えないと危ないとか、いろんな問題はあるのですが、その中でもできるだけ、暗くできないだろうか、と考えるのです。それは、イエスがこの世に来てくださったのは暗闇を照らす光のようなものなのだ、ということをできるだけ皆さんに経験していただきたいからです。

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)

本当の暗闇を経験しことはありますか?何も見えない暗闇。目の前に手をかざしてもそこに手があることさえもわからないような暗闇。足を10センチ前に踏み出すことさえ怖く感じるような暗闇。でも、その真っ暗な部屋に小さな小さな光が入ってくる時に、暗闇は消え去って、今まで見えなかったものが見えるようになってきます。そして、どうにもならない不安も消え去って、ホッと一息をつくことができます。

イエスが暗闇を照らす光としてこの世にこられた、とはそういうことです。もしも、マンハッタンやブルックリンのイルミネーションが見に行く機会がなかったとしても、イエスが私たちの心に来てくださるならば、それは最高のクリスマスになります。今年のクリスマス・イブのキャンドルライト・サービスは午後6時から7時15分です。ぜひお出かけください。

私たちの心に、私たちの人生に、イエスの光が輝くクリスマスとなりますように。

「御手の中で」

私は東京都品川区に生まれ育ちました。6歳離れた兄がいます。
両親共、育ったのは典型的な日本の仏教の家です。仏教の行事は、私も全て行って育ちました。

大学卒業後は、稽古事の学校に入学し、その頃、アメリカを旅行したのが、私が将来、アメリカに住みたいと思うきっかけとなりました。

その翌年、サンフランシスコ近郊の、アメリカ人の家にホームステイをし、近くの英語学校に通いました。学校でよりも、私を家族の一員としてくれたファミリーとの生活の中で、英語を覚えていきました。また、家族の知人に日本人の奥さんを持つクリスチャンの夫婦がいて、私を娘のように可愛がってくださいました。私を教会にも連れて行ってくれました。

その後、日本に戻り、当時、女性のための外資派遣会社がスタートしていて、英語を少しでも話せると、すぐに仕事がもらえました。私は、数ヶ月働いては、この夫婦の家に遊びに行くというような日々を過ごしていました。

数年たち、産休に入るワシントンDCの友達に、半年間、日本の旅行会社で彼女の代理を頼まれました。この仕事が終わる頃、日本で、機関投資家間の国債の取引を始める外資の証券会社が、大蔵省より、男女雇用機会均等法に沿って、夫を含む、外人男性ブローカー3人に対し、日本人女性を3人雇わなければいけないという条件を出され、私は、債券ブローカーになりました。数年後に結婚をし、退職しました。

2000年、カリフォルニアの夫婦の奥さん(Yさん)が、バイブルクラスに行き、そこで会った方の家に招かれ、その家が売りに出ていると、聞きました。その家は、すでに買い手が決まりかけていたのですが、最終的に、私たちがこの家を買うこととなりました。

2001年、夫の仕事は、ほとんどコンピュータ化されてしまっていたので、会社からWorld Trade Center のNY Officeへ転勤か、退職をするかと提言されました。カリフォルニアに家を買った後だったので、私たちは退職を選びました。その2ヶ月後、9/11が起き、ノースタワーの上階にあった、夫の元の会社の殆どの方が、召されていきました。

その頃、長女は、アメリカのkindergartenにショックを受けたのか、泣き続ける日々が続きました。それを聞いたYさんが、ウォールナットクリーク日系キリスト教会(JCCWC)で同じくらいの歳の娘さんを持つ方を紹介してくれて、わが家に遊びに来てくれました。そののち、長女は学校でも、友達ができて、自分の居場所を作って行きました。

これをきっかけに、私と子供達はJCCWCの交わりに入るようになりました。

夫は、カリフォルニアに引っ越してから1年後の2012年9月にNYで就職し、私たちは、東海岸に引越そうとしました。その時、私は受洗を決意しました。1年間、自分を愛してくれたクリスチャンの皆さんとの絆を守りたくて、また、私もクリスチャンとして、NYでの生活をスタートしたいと思ったからでした。

しかし、夫の仕事は順調ではありませんでした。また、家を売ろうとしていた知り合いが直前にキャンセルをしたので、私と子供達は、カリフォルニアに残ることとなり、母娘3人にとって、教会生活が大切なものとなっていきました。
結局、夫も、翌年に帰ってきました。

夫の長い失業、株式での大損、経済的には、かなり厳しくなりましたが、そのころ、カリフォルニアの家の値段が急騰して、家を担保に、銀行からかなり借り入れをして、それまでと、変わらない生活を過ごしていきました。

私は、礼拝、集会、奉仕、信徒の交わりを多くすることによって自己満足し、“私は、一生懸命なクリスチャンだ”と、自負していました。
当時、神様に委ねるということは全くできずに、私が神様との関係を作っていました。自分に都合の良いように、神様を使ってさえいました。
祈りは、自分の希望、欲望を、ただ並べるだけでした。
もちろん、それらは御心ではありませんでしたから、ほとんど聞かれることはありませんでした。そうすると、私は不幸だ、神様に試練を与えられている、私の祈りは聞かれないのだ、と言っていました。

その頃、私は、いつもヨブ記を読んでいました。最後に、ヨブが、神様から与えられる多くのものを羨ましいと思いました。
自分が持っているもの全ては、自分のものだと勘違いしていたので、“なぜ、神様はこれすら私から奪うのですか”と聞いていました。

自分の家族(夫)に対しても、自分は、平和の基とは、かけ離れていました。
私たちは、毎週末、家族みんなで外出することを楽しんでいました。
私が、救われた後は、私は好んで、教会、信徒と、多くの時間を過ごすようになり、日曜日は、朝早く、子供を連れて教会に行き、夕方まで帰ってこないこともありました。
当時、子供と過ごす週末を、とても楽しみにしていた夫が、一人で過ごすことが多くなってしまいました。失業していたこともあり、私と夫の間には、平安は全くなく、常に、言い争いをしていました。信仰深いカソリックの家に生まれ、カソリックスクールに行った夫に、教会から距離を置かせているのは、私の過去の歩み故だったと思っています。

カリフォルニアで6年が過ぎ、2007年夏、夫にアジアでの仕事が決まり、私たちは日本に引っ越しました。やっと神様が私の祈りを聞いてくださったと思いました。もう大丈夫だと思いました。

しかし、サブプライム問題が起き、まだ持っていたカリフォルニアの家の価格は、やがて半分になりました。また、リーマンショックの後、2009年春、夫もレイオフされました。東京の家は、会社から支給されたものだったので、家族で実家に移りました。
当時娘たちは、私立に通っていたので、その一年後には、NJの義理の母のところに居候しながら、現地の公立学校に行けるようにと、頼みました。夫は、東京のある会社から、出来高払いという仕事をいただいたので、私の実家にそのまま残りました。

私たちは、家族や、周りの人に助けてもらわなければ、日々の生活ができないという状態でした。
私と子供達は、NJへ、各自、スーツケース1つに洋服、ダンボール1個にパーソナルグッズで、引っ越してきました。
その頃、私は、自分の家、生活、車は、一生持てない、と思いました。

しかし、この経験で、自分の全てを神様に明け渡すという信仰が産まれました。
古い“私“から解放されました。
本当に、自分では、どうしようもできないという現実の中で、“神様、私には、もう、どうすることもできません、助けてください。”神様は、長い間、辛抱強く、私のこの言葉を待っておられたのです。全てのものは、神様から与えられていて、自分のものではないということに、ようやく気がつけました。
私の祈りは、我が罪のためのイエス様の贖いの死―十字架の恵みを感謝すること、全てのことを御手に委ねること、地上で自分が与えられている使命を全うすることへの導き、へと変えられました。

2016年10月、私は交通事故に遭いました。夫と次女がカレッジヴィジットのために家を出て、1時間経った、夜の7時ごろ、犬と散歩に行き、横断歩道を渡っているときに、98歳の男性の運転する車にひかれました。
骨盤骨折、脳内出血、太腿と腰にかけて15センチと35センチの2箇所の裂傷、首、腕などのステッチ、全身の打撲や切り傷、私の怪我は生死に関わるものでした。数日間、集中治療室で手当てを受け、事故から3週間後には、腐敗した腿の一部の組織を取り除き、そこに皮膚移植をするという手術も受けました。
当初は、1週間に1度くらいは、痛みを苦痛に思ったり、ひと月に1度は、“なぜ私は事故にあったのだろう”と考えたりしていたように思います。しかし、家族は、私がそのようなことを言っていたのを聞いたことがないと言います。それは、神様が当時の私に平安を与え続けてくださっていたからでしょう。

事故の3ヶ月後、執刀医の一人の先生の診察で、“二度と事故の前の体には戻らない、痛みも残るだろう”と言われましたが、私は、この言葉を冷静に受け取りました。それは、たとえ、足は元に戻らなくても、それとは異なる恵みが与えられるという、神様の御業を信頼していたからです。将来の後遺症への恐れなどからも解放されています。事故前の姿が、私なのではなく、今の状態が、“私”なのだと思えるようになったことで、以前の体とは比べなくなりました。

事故から1年後に、裁判所であの車を運転していた人を見ました。この人が今まで事故を起こさなかったのが不思議なくらいの方でした。神様は、この事故に、私を選ばれたのだと思いました。そして、神様は、その日から、これまで以上に、私に絶えず働きかけてくださって、希望を与えてくださっています。

また、神様からいただく使命=軛というのは、自分が想像していたよりも、はるかに軽いものでした。神様の軛のおかげで、昨年2回行った手術や、全ての回復の道のりの中にも、思い煩いはありませんでした。
また、今年予定している数回の手術も、全き癒しへのステップだと、感謝しております。

見えないものを信じる信仰の中にいた私は、神様のご臨在を実感することによって、実際に見たもの(経験したもの)と共に歩む信仰へとなりました。そして、この事故も、恵みへと変えていただきました。

私が愛する神様が何もかもを最善にしてくださります。私は、ただ神様を信頼するだけでいいのだ、という平穏に包まれています。
そして、ヨブのように、多くの祝福をいただいています。
その祝福とは、以前私がヨブを羨んでいた、物質的な豊かさではありません。
万能なお方が、いつも私と一緒にいて、私を強くしてくださり、喜びと感謝に溢れた日々を与えてくださるのだという確信が、今の私を豊かにしてくれています。

また、慈しみ深い神様は、サプライズの祝福までもくださいます。2012年に夫と二人で会社をスタートしました。神様が日々、私たちに知恵を与えてくださり、そのビズネスは年々増え続けています。
2017年4月には、自分たちの家さえ持つことができました。

私を愛する神様の、私のための、最高のシナリオである、そのご計画は、時には、悲しみや痛みを味わうこともあるかもしれません。しかし、全てのことを相働かせて益となさる方です。
その先には必ず祝福への扉が開かれていることを、私は知っているので、いかなる時も、いかなることへも、恐れず、強く、雄々しくありたいと祈っています。

神さまのなさることは、全てが時にかなって美しいのです。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである     ―エレミヤ書29章11節

神様は、本当に、私たちを愛しておられます。

アーメン

「9月30日、私は・・・リッジウッドのベツレヘム教会にて・・・」

9月30日、私は5歳の娘エミリー、10か月の息子ウィリアムと共に、リッジウッドのベツレヘム教会にて洗礼を受けました。立ち会って下さった錦織先生はじめ、駆けつけて下さった日本語教会の方々、個別に祝福のメッセージを下さった方々、神の家族になる喜びを共に感じて下さり心より御礼申し上げます。

私のキリスト教との関わりは幼稚園とカトリックの私立中高でした。片道2時間かけて通学していたのですが、中1のある日、通学のバスの中で読む本がなかったので、聖書を手に取りました。この学校では6年間通して、週1時間「宗教」という科目が設定されているのですが、この日は「宗教」がある日だったので、カバンの中に聖書が入っていたわけです。旧約聖書から読み進めてみると、これがなかなか面白い。神と人との関わりを巡る物語に魅了され、しばらく行き帰りのバスの中は毎日聖書を読んでいた記憶があります。とはいえ、新約聖書に入った途端に、説教臭くなり面白くない、などと感じ、そのままになってしまいましたが。

中高では、附属の修道会のシスター達が教員もしており、「宗教」を教えていました。このシスターがこれまた揃いも揃って厳格で恐くて怒った顔つきをしていて、中学生の私には、何が楽しみで生きているのか分からないような人達に見えました。自発的に読むのと違い、「宗教」の時間に読まされる聖書には興味が持てず、シスターの話も絶望的に退屈で、何を聞いても右から左へ抜けていくばかりでした。「宗教」の定期試験は論文形式でしたが、適当に書いて最後を「神様は本当に素晴らしい」「神の栄光を讃えます」などとまとめておけば、評価はAがつくので、舐め切っていました。私にとって「宗教」もミサも昼寝タイムでした。
私自身、それ以来ずっと神様に無関心なままでした。それが変わったのは、2015年に一家で誰も知り合いのいないニュージャージーに引っ越してきて、3か月ほど経った頃、友人に誘われて、クロッキー教室に行った日のことです。絵を描いたあとは聖書を開き牧師先生のお話を聞く時間もあったので、びっくりしました。教会主催の教室とはつゆ知らず、錦織先生に「何か教会関係のお仕事をされているんですか」などという、とんちんかんな質問をしてしまったのを今でも恥ずかしながらよく覚えております。(独身司祭しかいないカトリックしか知らなかった私は、妻帯してよい牧師という職業のことをよく知らなかったのです。)

この初めてのクロッキー教室が一生忘れない日になった理由はもう一つあります。実はその前日、悲しい出来事があり、私は喪失感に打ちのめされていました。お腹の赤ちゃんが8週で亡くなっていることが分かったのでした。1週前は元気に動いているのも見えたのに。酷かったつわりもピタリと止まり、しかし腹部はまるで鉛の玉が入っているかのような重苦しさでした。外出する気分ではなかったのですが、元気を奮い立たせて出かけたところ、絵を描いている間は悲しみを忘れている自分がいました。また、この日、実に25年ぶりに聖書を手にしたのですが、錦織先生が開いた箇所に書かれた言葉は、まさにその時の私が最も必要としていたものだったのです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、すべての人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人知では到底はかり知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、イエス・キリストにあって守るであろう。(ピリピ人への手紙4:4-7)」これは、大きな悲しみ、苦しみや悩みがあっても、神様に心の内を、自分の願いをすべて打ち明けたなら、「人知では到底はかり知ることの出来ない」レベルの平安が私を守ってくれる、という約束なのだ、というお話でした。

この日、神様は私を絵と言葉で癒して下さっただけでなく、ニュージャージーにまだあまり知り合いのいなかった私に多くの友人を与え、日々を豊かにして下さいました。特に、クロッキーをきっかけに、月に2度の日本語教会のスモールグループ「奥様会」には3年弱お世話になっていますが、牧師夫人の範子さんのおいしいランチを頂きながら、小さな子供を持つママたちとの、子育ての悩みや喜びを共有し家族のために共に祈る時間に、今までどれほど救われてきたか分かりません。その後二度目の流産、そしてようやく第二子ウィリアムを授かった時も、「奥様会」の仲間たちは多大な心の支えになってくれ、この素晴らしい出会いにただ感謝するのみです。

神様はまた、いつも最善のご計画を私に用意して下さっていました。エミリーが生まれてから3年間は、私は専業主婦をしていましたが、ずっと、どこか大事なものが人生に欠落しているような、自分のアイデンティティが崩れ落ちていくような、そんな感覚を持っていました。日本にいた時はフルタイムで高校教員として仕事を続け、アメリカに来てからは大学や補習校で仕事をしながら大学院で研究生活を送り、とにかく突っ走ってきたので、突然自分が何者でもなく「母」「妻」でしか無くなった時に、苦しくなってしまったのです。

そんな時、「奥様会」の友人が、学校で音楽を教える仕事の空きがあると知らせてくれました。最初は自分の専門分野とは違うと思い躊躇したのですが、強く勧めてくれたその友人の言葉に背中を押され、応募してみたところ、採用されました。約一年の勤務期間、これほど自分の趣味と仕事内容が一致したことは初めてで、天職ではないかと思えるほど、生徒たちと一緒に作る音楽が楽しくて、毎日が幸せでした。途中で妊娠が分かり時期を見て校長に報告に行ったときも、私は出産後も仕事を続けたいと強く望んでいることを伝えたのですが、学校に産休も育休も無いため、一旦退職しなければならないと言われました。やり切って満足して去るのであれば、もう振り返ることもないのですが、年度途中だったこともあり、自分の中でやり残したこと、これから生徒たちとやりたいことがたくさんあったので、大変に後ろ髪を引かれる思いでした。こうして私は出産3週間前に退職しました。

その後、二人目育児に専念する毎日の中で、私は出来るだけ、失ったもののことは考えないようにしていました。でもふとした時、授乳中や一息ついた時には記憶が蘇り、息が詰まりそうになるのです。なんとも言えない寂しさや悔しさがこみ上げ、なぜ辞めなければならなかったのかと、どうしたらまた戻れるだろうかと、どうにもならない思いを巡らせる自分がいました。赤ちゃんは可愛いし、この上ない恵みであったと思う一方で、退職に関していまだ納得のいっていない自分がいて、そのうち夢にまで見るようになりました。その繰り返し見る夢の中では、私は音楽教員なのですが、教室に行くと後任の音楽教員がいて「あなたはもう辞めたんですよ」と言われたり、合唱指導にてこずっている彼女を見かねて私が指導をすると、生徒たちの合唱が見違えるように良くなるとか、それはぽっかり穴が開いたような、それでいて傲慢な、自分の心の内をあらわした夢でした。その夢から覚めた時には、いつも何とも言えない嫌な気持ちになるのです。

それが、ある日を境に、悪夢にうなされることも、授乳中に無念さのあまりに窒息しそうな気持ちになることも一切なくなったのです。今年3月に私たちはリッジウッドに引っ越しをしたのですが、引っ越しを決めた後で気付いたのは、家の斜め前がベツレヘム教会だったということでした。オープンハウスの日は雪が降っていて気付かなかったのです。すると5月のある日、夫が突然日曜礼拝に行くと言い出しました。青天のへきれきでした。夫は信仰心の篤い家庭に育ち幼少の頃に洗礼を受けていますが、出会って10年、教会へ行くことはおろか、彼がクリスチャンらしい行動や言動を取ったのを見たことがなかったからです。夫はその次の日曜日も、そのまた次の日曜日も、子供たちを連れてベツレヘム教会に行きました。私はというと、家で自分一人で過ごす日曜の朝をのんびり満喫していました。一緒に礼拝に行くという考えはありませんでした。当時はウィリアムが夜中何度も起きてその度に授乳していたため、慢性的な寝不足で頭痛もあり、礼拝なんか行くぐらいなら家で休んでいたい、というのが本音でした。すると夫は「じゃあスリープトレーニングが完了したら、一緒に礼拝に行こう」と言い出しました。私にはなぜ夫がそんなに教会に行きたがるのか、まるで分かりませんでした。7月になり、ウィリアムのスリープトレーニングは無事成功し、夜を通して寝てくれるようになりました。私もまとまった睡眠が取れるようになり、体調も回復し、もう礼拝に行くのを断る理由が無くなったなどと考えていたとき、夫が言いました。「I have found my faith again.」と。

そういうことだったのか、と思いました。家探しを始めたその日に行ったオープンハウスで即決した家。目と鼻の先に教会。あれだけ神様から背を向けて生きていた夫が一度も欠かさず毎週日曜は礼拝へ。すべて神様のご計画のうちだったのです。そして次は私の番でした。夫の強い後押しを受けて、7月下旬から、私も家族とともにベツレヘム教会の日曜礼拝に行くようになったのです。あまりに熱心な夫に引きずられる形ではありましたが。そして忘れもしない8月5日、私にとって2回目の礼拝で生まれて初めて聖餐式でキリストの体と血を頂いた日。その日の朝、私は例の嫌な夢を見て目が覚め、何とも言えない鬱々とした気持ちでした。重い足取りで教会に入ったはずなのに、礼拝の1時間、神様の言葉を耳にし、賛美歌を歌い、静かな祈りの時間を過ごしていた間、悪夢のことは全く忘れていて、とても穏やかな気持ちで家に帰ってきたのでした。浄化されたような、救われたような感覚でした。「自分の方が子供たちを引き付ける楽しい音楽の授業が出来るのに」「制度上の理由で私を辞めさせるとは、学校にとってどれだけの損失になるかなんて上は考えてもいない」と、向けどころのない怒り、失望、思いあがった傲慢な考え・・・どれもネガティブな気持ち。そんなものが沸き上がる毎日に疲れ、神様にもっと救われたい。もやもやした気持ちから解放されて、神様が与えてくださった赤ちゃんとの生活を、もっと心から楽しめるようになりたい。そんなふうに素直に思えたのです。この日初めて、神様にすべて委ねたい、安らぎたい、と思え、洗礼を受けようと決意しました。そして、この日以来、悪夢を見ることもあの窒息しそうな感覚に陥ることもなくなりました。今では、仕事のことも、いずれ神様が私にとって一番良いタイミングで、私の進むべき道を用意して下さると信じ、平安の中に、失ったものではなく自分が持っているものに感謝をしつつ、日々過ごすことが出来ております。

ちょうど1年ほど前になりますが、錦織先生に聖書の学びのコースを受講させていただいた最後に、「今はどのようなお気持ちですか」と洗礼のことを聞かれて、今は準備が出来ていないしきっかけもないと答えた私に、先生は「では僕は待っています」とおっしゃいました。「クリスチャンになってすべてを神様に委ねる人生はとてもラクなんです」とも。神様の存在を信じる気持ちはずっとあったけれども、聖書も読破していないし、日曜礼拝に休まず行く自信はないし、クリスチャンになる資格はないと、私は勝手に思い込んでいたのです。しかし神様の愛はいつもそこにあり、私がそのことに気付けず神様を信頼できていなかっただけなのでした。

こうして私たちは家族4人で、ベツレヘム教会のメンバーになり、日曜礼拝を守るようになりました。エミリーとウィリアムを教会に育てて頂けることはこの上ない喜びです。夫は教会に通った子供時代の経験から、私はキリスト教系の幼稚園に通った経験から、子供たちの健全な人格形成のためにキリスト教教育をしたいと思ってきました。やはり大きな存在、大きな愛に守られているという安心感の中で自己肯定感を育み、感謝の気持ちや他者への愛を持つようになって欲しいと考えるからです。ここまで神様が一つ一つ導いてくださったこと、家族で同じ方向に心を合わせて歩んでいけることの恵みに感謝しつつ、私の証しとさせて頂きます。

Family Camp 2018

Family Camp 2018

 

開会礼拝 Opening Service

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全体集会(1)

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早天祈祷会 Prayer meeting 1

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賛美ワークショップ1

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全体集会(2) 聖日礼拝 Sunday Service

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分科会 関れい先生

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全体集会(3)

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早天祈祷会 Prayer meeting 2

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全体集会(4)

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閉会礼拝 Closing Service

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2018年3月11日 『共に歩む喜び』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ピリピ人への手紙2章1節から11節

 

ピリピ2:1–11
「共に歩む喜び」

7年前に思わされたこと。
支援する人々を支援する
長く覚え続ける

宮古の教会の歩み
教会存続の危機の中での震災
教会堂は被害を免れた。
「救援物資あります」「携帯の充電できます」の貼り紙
→誰も来ない。
避難所に出て行く。耳を傾けて行く。仕えていく。
→信頼を築いて行く。

高く掲げられる十字架
・・・しかし、私たちはそのように生きているだろうか?
イエスは私たちのために低くなられた。

・・・私たちと共に歩むために。
・・・その低くなられたことの極致が十字架。
→そこに私たちも招かれている。


テイクアウトQuestions
東日本大震災で被害にあった方々、痛みの中にいる方々のために、私たちは何ができるでしょうか?
あなたは十字架を見るときにどんなことを感じますか?イエスの十字架はどんな意味があるでしょうか?
あなたの隣人は誰ですか?

9月6日クロッキー教室バイブルメッセージ

 

この絵画はヨハネ福音書19章23〜27節を元に描かれました。

さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

この聖書箇所には、十字架につけられたイエスの服をくじ引きで分け合う兵隊の姿と、
夫と息子を失い、完全な未亡人となろうとしているマリアが路頭に迷わないよう、
イエスが愛弟子に養子縁組を頼む。という2つの出来事が書かれています。

イエスは十字架につけられた時、縫い目のないとても良い服を着ていました。
当時、縫い目がない服を作るのはとても難しく、祭司しか着ることのできない高貴な服でしたので、
この服は母親であるマリアがイエスのために特別に縫ったであろう服だと言われています。

イエスを十字架につけた4人組の兵隊は、この高価な服を分け前として取り分けようと揉めていました。

我が子が十字架上で苦しむ目の前で、自分が縫った服が剥ぎ取られてくじ引きの対象になっているところを見ていたマリアはどんな思いだったでしょうか。

この絵画は十字架をテーマにした多くの絵画の中でも、史実に忠実に描かれているという点で特徴的です。

多くの宗教画では、十字架が高い位置に描かれていますが、実際は下で見ている人たちの頭ひとつ分の高さにありました。
つまり、母マリアから息子の壮絶に苦しむ姿は、ごく間近に見えたのです。

十字架をテーマにした作品の中でも、「ピエタ」という母親の悲しみに焦点を当てたジャンルがあります。
十字架から下されたイエスを母マリアが抱える。という作品を皆さんもどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。

この絵画はその「ピエタ」の中でも異色です。
十字架からイエスが降ろされる前のマリアの悲しみを描いています。

同じく「ピエタ」をテーマとしたミケランジェロの有名な彫刻がありますね。
まさしく美の結集であり、これ以上完璧な彫刻はありえないと賞賛されています。

 

そのミケランジェロの遺作となったのが、同じ「ピエタ」のテーマで作られたこの作品です。

最後の数年間、ミケランジェロは腰も曲がり、目も見えなくなり、手探りでこの作品を彫りました。
あの完璧な美の彫刻とは似ても似つかない仕上がりに、これは未完成だったんだと言う人もいます。
死んだ息子のイエスが母親を背負っているなんて、目が見えなくて間違えたんだと言う人もいます。

果たして本当にそうなのでしょうか?

聖書の世界は、ただ読んでいるだけではなく、私たちの完成の全てを使わないと理解できません。
聖書の中に、「愛のないものに神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」と書かれていますが、
これは絵を理解する時にとてもよく似ているなーと思います。

ではここから更に、表面だけでは理解できないもっとディープな理解へと降りていきましょう。

 

イエスは30歳まで母親の元で暮らしましたが、その間のことはほとんど聖書に書かれていません。
当時は18歳頃に結婚するのが通例でしたが、イエスはずっと独身でした。
早くに亡くなった父親ヨセフの家業である大工を継ぎ、母親と兄弟を支えてきました。
十戒の中でも「あなたの父と母を敬いなさい」という教えを、イエスはとても大事にしました。

 

その書かれていない30年を想像しながら、もう一度聖書を読み、絵を見てみましょう。
このシーンでイエスは、「女の方」「婦人よ」と、とても距離感を感じる呼びかけをしています。
最期の別れが迫った場面で、息子から母親にかける言葉としてはあまりにも他人行儀で引っかかりませんか?

実は、この時以外にも一度だけ、イエスがマリアのことを「婦人の方」と呼んだことがありました。

それはイエスが30歳になって、伝道の働きを始める時に一番最初に起こした奇跡の場面でした。
この時、イエスは水をワインに変えるという奇跡を起こされました。
大事な結婚式でワインが底をついてしまい、困ったマリアがイエスに「ぶどう酒がなくなってしまった」と告げます。
するとイエスは、「婦人よ。あなたはわたしと何の関わりがありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えたのです。

マリアはこの時のことを絶対に覚えていたでしょう。
お子さんをお持ちの方はどうでしょうか?
一度でも子供から「女の方」とか「婦人よ」と呼びかけられたら、絶対に忘れないのではないでしょうか。

この時のマリアも「また出た!女の方発言!」と、水をワインに変えたあの時のことを、はっきりと思い出したことでしょう。

さて、イエスが何故2回にも渡って、最愛のマリアにこのような言い方をしたのかわかるでしょうか?
聖書の中でワインというのは、イエスが十字架の上で流された血潮を象徴する大事なモチーフです。

イエスは、十字架の上で流す血潮は、親子という関係以前に、一人の人間であるマリアのためのものでもある。
ということを伝えたかったのです。
30年余りも親子として過ごしてきたマリアにとって、息子を息子以上の存在として見ることは難しいことだったことでしょう。
けれども、これからはイエスの血潮を分けあって、民族も国籍も越えて救いを分け合うんだということを、イエスは伝えたかったのです。

この聖書の場面は、ただ養子縁組をお願いするという以上に、十字架のもとで新しい神の家族を作ろうとする瞬間です。
そうした理解を持ってもう一度この絵画を見ると、この絵が伝えたかった「良い知らせ」が見えてくるのではないでしょうか。

メッセンジャー:内村伸之師

 

 

「One Voice – 4年目の9月11日に思う事」

“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。

ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。

英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。

そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。

私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。

そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。

月報2005年10月号より