「いばらに落ちた種」

聖書では「いつも喜んでいなさい。・・・すべての事について感謝しなさい。」(第1テサロニケ5:16~18)と書かれているが、自分は疲れて一人でいると、「人生厳しいな」「人生が俺を押しつぶしている」とつぶやく。
自分の親世代も自分もそうだったのに、子世代ももしかしたら大変な人生になるのでは・・・、こう考えると周りがさらにグレイに見えてくる。自分に対しても「失敗だらけだったが輝いていた青春時代も終わり、老いぼれた体だけ残ってしまった」と思うと、増々悲しくなってくる。
しかし、周りの状況や自分の人生を振り返ると、確かに主が共におられ祝福してくださっている。これを疑ってはいない。たまに感謝の言葉が自然に口からこぼれるくらい、祝福された人生だと確信している。
ただ自分という人間は単純でなく雑念が多いから、いつも喜ぶことはできない。これこそ、いばらの中に落ちた種の比喩その通りだと思う。率直に神様には感謝するが、不満も抱いている。(主に言いたいことは山ほどあるけど…)
自分なりに頑張っても生活が相変わらず厳しいのは、自分の能力不足や不信仰のせいだと認めざるを得ない。しかし長年頑張っても問題は解決しなかったり、解決するどころか出口さえ見えない時も多い。
それは親世代も一緒だった。父親は失われた子羊のような人生だったが、母親はシッカリした人で、いくら厳しい状況の中でも神様だけを握って歩んでいた人だった。「やり過ぎだ」という不満は家族の中にあったが、本当に死ぬほど頑張ってそれで亡くなった(悲)。
自分を含め三人兄弟だが、三人ともそれぞれ夢見ていた世界に入るため頑張ってきた。当時、社会の雰囲気かも知れないが、皆が明日は良くなるという希望を抱いて生き、ひたすら走ってきたと思う。できれば神様に頼らなくても人に自慢できるほどの人生、人の上に立つ人生になりたかった。自分も兄弟達も若かった時代と比べ、確かに金銭、地位、環境の面で良くなってきた。しかし人生はやっかいな奴で、新たな試練を次々と投げつけてきた。
親はすでに逝ってしまい、兄弟達も今は教会からは去っている。
親が死ぬ前や、子供達の不登校、兄のアル中、息子の自閉症等々助けてくださいと 大きな山に遭う度に神様にすがったが、特に答えがなかったように感じる。妻からは「神様から訓練されているから感謝しよう」「天に宝が積まれている」と言われるが、心に響くどころか「俺の人生、訓練で終わっちゃうなぁ」と反発の気持ちが浮き上がってくる。
主の答えを求め、ペンテコステ派の教会へ流れていき長年通った。妻の道代は満足していたが。そこで「自分の信仰が足りないから、積極的に求めてないから」答えが無いかなと感じた。周りで「解決された」「勝利した」 「悪霊に打ち勝った」と 毎週、喜びの声が上がる中、自分はその集団には入れない不信仰な者かなと感じ、増々心が重くなっていく日々だった。
アメリカに行けば何か変わるかもという漠然な期待を抱いて渡米したが、新たに様々な問題に溺れていた。
勝利の証を期待した方をがっかりさせてしまうかもしれないが、すべての問題はそのまま解決されず残っている。しかし最近、黙想する中で「神様から離れられない、神様無しでは何もできない、主のいない人生は考えられない」これこそが、神の真の祝福だと感じ始めた。
人生を振り返ると、自分の願いに答えが無いと不平不満だった。イスラエルの民のように、マナとウズラを、死なないくらい一日に少しずつしかくれないと不満だった。沢山くれれば自分は幸せになるのにと呟くばかり…。しかし黙想してわかったのは、もし自分は描いていた人生を手に入れたら、きっと教会から離れたと思う。
また殆どの場合、自分の願いが何なのか不明確で、自分も具体的には分からなかった。
奇蹟を描いていたある映画を観てから、自分の人生を振り返り、神様がどのように自分の人生を導かれたかを思い出してみた。自分が願っていた女性と共にいて、家に帰るとこんなに可愛い子供達がいる、幼い頃憧れていたアメリカで家族と一緒に住める、子供達も重大な問題は起こしてない ……… 何よりも自分は神様から離れては生きれない。神様から離れるという選択肢も無い。
若い時期、「クリスチャンは都合よい集団だ」と批判的に見たが、いつの間にか自分も都合のいいクリスチャンのおっさんになっていた。しかし考えてみれば、これこそ『一番の祝福』だと思う。
自分にとって都合がいい、弱い人間かもしれないが、神様から離れられない。これこそ本当に祝福された人生だというのを悟るのに、本当に長い時間がかかったと思い、ため息をつく今日この頃です。

2025年9月号<牧師室より>「かみさまはぼくらにもうむちゅう」

先月号の月報では、JOYJOYキャンプにかける私自身の思いを書かせていただきましたが、今年のJOYJOYキャンプも皆さんのご協力とお祈りに支えられて、エキサイティングな5日間になりました。小さい子たちから、上級生の子たちまで、みんな楽しんでくれていたと思います。

今年のテーマは「デカいぞ!あおいぞ!ちきゅうにむちゅう!」。

教会のジムに地球の風景、そして、その裏にトンネル迷路を作って、毎日少しずつ、神さまが造ってくださった地球の不思議を探検しました。大きな宇宙の中での地球がいかに特別な星なのかとか、この地球の自然界の美しさや大きさ、そして、植物や動物の不思議、そして、自然界の環境を守っていくことの必要性、私たち人間のお互いの大切さ、など、伝えていきました。またみんなで毎日少しずつ作っていった地球の絵。なかなかの傑作ができました。毎日の工作やクッキング、ゲームやテーマソングなどの歌も盛り上がっていました。

でも、その中で、もう一つ、どうしても子どもたちに伝えたかったことは、今回のテーマソングの一番最後のフレーズ、

「かみさまは ぼくらに もう むちゅう」

ということです。

テーマソングはこちらから。

神さまは私たちの事を大切に思っていてくださって、私たちのために、神のひとり子イエスを与えてくださったのだ、ということです。私たちが地球の不思議を知れば知るほど、地球に夢中になっていく。それは素晴らしいこと。でも、それ以上に、神さまの方が、私たちに夢中になっていてくださる、その神さまの思いを伝えたいと思ったのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書434節)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書316節)

でも、このメッセージは子どもたちだけではなく、すべての人々に、JOYJOYキャンプの時だけではなく、いつも伝えていくべきメッセージだと思わされています。一人でも多くの方々に、神の愛のメッセージが届きますように!

<牧師室より>2025年8月号「瞳の輝く瞬間を求めて」

自分が子どもの頃、教会には子どもたちがたくさん来ていました。幼稚園とかやっていない、50人くらいの大人の通う普通の東京の教会でしたが、毎週日曜日の朝9時に、子どもたちだけで50人くらい集まっていたと思います。クリスマスとか、特別な子ども会になると100人くらい来て、小さな教会堂は子どもたちでいっぱいでした。今のように日曜日に、他にやることがたくさん、ということではなかったのだと思います。同じクラスの仲間たちの中にも、教会に来ている子たちが何人かいました。日本ですから、自分で歩いてくる、自転車で来るということもできる環境です。親が教会に来ていない友達もたくさんいました。

でも、小学校の高学年くらいから、だんだん教会に来る子たちが減ってきました。中学受験のために塾に行くとか、水泳教室に行くとかで来られなくなる友達もいましたが、それだけではありませんでした。一度、以前教会に来ていた友達に「また教会においでよ」と声をかけたときの、その友達の答えは忘れられません。「教会?行かないよ、つまらないから・・・」

正直なところ、自分も小学校高学年くらいになったときに、教会はガマンするところになっていました。「小さい子たちのためにぼくらはガマンしなければ・・・」「ガマンして静かにお話を聞かなければ・・・」と。もちろん、ガマンすることがすべて悪いとは思いません。教会に楽しさだけを求めるのも間違っているでしょう。また、自分はこの後、中学生になってからは、仲間とゲームをしたり、ギターで歌を歌ったりして楽しく過ごすだけでなく、共に祈ったり、語り合ったりすることに意味を見つけていきました。その中で、神様の愛を知っていきました。でも、この小学校高学年くらいの子たちの居場所も、なんとか教会の中に作ることができないかとずっと考えてきました。

今から、30年くらい前、この教会でJOYJOYキャンプを始めた頃から、私の願いはそこにありました。小学校高学年くらいの子たち、それも、エネルギーを持て余している子たちにとっても楽しいプログラム、そして、楽しいだけでは終わらない、心に届くプログラムを持ちたい、思いっきりエキサイティングなプログラムを持ちたいと思ってやってきました。子どもたちの瞳がキラッと輝く瞬間を求めてやって来ました。それがどこまでできたか分かりません。また、30年前はなんともなかったことが、今は「とても無理!」と思います。それでも、この思いはずっと持ち続けていたいと思います。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」(マルコの福音書10章14節)

今年のJOYJOYキャンプ、「デカいぞ!あおいぞ!ちきゅうにむちゅう!」今年も、小さな子から、小学校高学年の子たちまで、みんな楽しめるキャンプ、そして、そこで楽しいだけではない、大切なことを知る機会になることを願っています。この世界への神さまの思いを伝えたいと思います。まだ今からでも、申し込みいただけます。詳しくはこちらの申し込み書から。

今年のJOYJOYキャンプ、今年も教会のジムに、子どもたちの歓声が溢れますように!

ありのままを生きることの難しさと恵み

私は会社員をしています。特に学校で学んだとかいう事を役立てているとかではなく、仕事をゼロから始め、教えられ、身につけて来た事を築き上げて来て今があり、給料を得ています。その中で一つ、日々の仕事の中で大切にしてきた習慣があります。もうすぐリタイアかなぁと思う歳になって来ましたが、長年それをひたすら続けて来たのです。それは、「ありのままを正確に認識し、誠実に報告すること」です。

問題が発生したとき、何が起きたのか、原因は何か、どれほど緊急性があるか、どのような対処が可能か——そうしたことを隠さず、事実のままに上司にも部署全員にも報告するのです。特に自分のミスや判断の誤りが関係しているときは、つい脚色したり、言い訳をしたくなるものです。しかし、私の会社では、「誠実な報告こそが最善の解決への第一歩であり、同じ事を再発させない対策を見つけるための正しい判断を生み出す」と繰り返し教えられてきました。その義務を全員で果たさなければなりません。当たり前のようで、実はこれが出来る環境は、なかなか作れないのではないでしょうか? 

最近この習慣が、実は私の信仰とも深くつながっていることに、気づかされました。

私は両親がクリスチャンの家庭に生まれ、幼児洗礼を受け、教会附属の幼稚園や教会学校にも通って育ちました。ただ、幼い頃の私にとって信仰とは、「クリスマスは特別な日」といった程度のものでした。兄や妹は成長の中で信仰告白をしており、私は少し遅れて24歳でクリスチャンとなりました。

クリスチャンの両親を持ったクリスチャンを妻とし、周囲には信仰を持った家族や親族が増え、私は「神様の祝福とはこういうことなのか」と自然に思うようになっていました。けれどもあるとき、私は実家の家族に関して重大な見落としをしていたことに気づかされたのです。

最近、あるインターネットの記事で「裏」という漢字の一部に「表」という字が隠れていることを知りました。その瞬間、「自分はずっと家族の“表”だけを見てきて、その上にちょこっとついている“裏”の部分を見ないで来たのではないか」と、はっとさせられました。

実際、私の家族は長年にわたって大きな問題を抱えていました。しかし、私たちはお互いに「ありのままを伝える」ことをしてこなかったため、正しい判断も、適切な解決策も見出せないままでした。とても親しいようでしたが、本当の事はあまり口にしていなかったので、問題として認識するのが遅れ、家族での作戦会議を開くような事は無かったのです。

私がその問題の存在を知ったのは、時間の経過が立った後、しかもそのごく一部で、更にその内容には事実と異なる話が含まれていました。つまり虚偽の報告です。それゆえ、問題の深刻さにも、当初は気づけませんでした。

問題の発端は、父が信頼していた知人の連帯保証人になったことでした。その人はほどなくして夜逃げしてしまい、父に多額の借金返済義務が降りかかりました。この事は確かな事実で、大きな問題の始まりでした。父は借金返済のために奔走しましたが、借金が借金を呼ぶ悪循環に陥っていきました。定年後に始めていた事業も立ち行かなくなり、最終的には長年かけてローンを完済し、手に入れた自宅まで手放さざるを得ない状況に追い込まれて行きました。こうした事実を、私はずっと後になってから知らされたのです。

しかし、それだけでは終わらず、さらに驚くような話が親族から出てきました。それらは、私が幼い頃にまで昔にさかのぼるもので、信じがたいような「家族の裏の歴史」でした。人は誰かを悪く言い出すと、あまり関係の無い話まで持ち出して、その人を責め立てる事があります。ですので、それらの話は真偽を確かめる術すらなく、何が本当なのか分からないままです。そのような話を聞く私の心はとても痛みました。

父は晩年、老化が進み、会話がかみ合わなくなることが増えていきました。そして父が亡くなり、まもなく母もその後を追うように天に召されました。こうして、両親の口から真実を聞く機会は完全に失われてしまいました。

さらに、両親と長く近くにいたはずの兄や妹夫婦から語られる話は必ずしも一致しているわけではなく、私にはどうしても信用できない内容ばかりです。証拠となるものも何ひとつ示されず、私は何を信じていいか分からなくなりました。私にできることは、もはやほとんど残されていないように思えました。確かな手がかりがあるとすると、まだ元気だった頃、私に父が言った一言があります。「最近ヨブ記をいつも読んでいるんだ」と。(注: ヨブは、とても正しく信仰深い人で、家族も財産もあり、神に祝福された人生を送っていました。しかし、悪魔が「ヨブは祝福されているから神を信じているだけだ」と言い、神の許しを得て、ヨブを試すことになります。子供達や財産を失なわせ、彼自身病気に苦しみます) ちょうどその頃が家を失った頃と一致します。また、遺品の中に父が書き残していた書類がいくつかありました。それらの中には、会社の取引先の方からの手紙もありました。「私はあなたがクリスチャンであるという事で、ここまで信用してきたのです。あなたの誠意を信じて待ちます」という借金の請求で、クリスチャンを愚弄するような言葉が続けて書いてありました。また、私に宛ててしたためていた手紙や、私に金銭の工面を電話で依頼するための下書きも見つかりました。確かに何年も前、そのような話をした事を思い出して、あの時か、という感じです。その他に、神様への叫びのような言葉も記されていました。そして、私がその頃、何かよくわからないとはいえ、状況を察して書いた歌があり、譜面を送った事がありましたが、その歌詞まで手書きしてありました。こんなところに書いてないで、ちゃんと全てをそのまま分かるように話して欲しかったです。どんなにか苦しい思いをしていたかと、哀れな気持ちでいっぱいになります。

私は会社で「事実を正確に報告すること」の大切さを学び、それを実践してきました。しかし、自分の実家では、それが長年なされてこなかったことに、私は取り返しのつかない思いになります。クリスチャン家庭でしたからなおさらです。

聖書には、偽りや隠し事、不誠実、自分本位な言動のゆえに神様の祝福を失い、ひどい結末に至った人々の例が、聖書の最初から、いくつも記されています。私の家族も、もし神様の前に「ありのまま」を差し出すことを大切にし、その事について共に祈る事を第一として来ていたならば、歩んでいた道はまったく違うものになっていたでしょう。主イエスが、明らかな盲人に向かって、「私に何をしてほしいのか」とわざわざ尋ねられた意味がここにあると知りました。私の父が財産を失う出来事が起こる事を許された神様は、ご自分に真実の叫び声をあげるしもべ達を待っていて、そしてそれに応える準備もされていたと思います。

私の人生は残り何年あるのかわかりませんが、神様の前に忠実であり、ありのままでいる事を大事にして行きたいと願っています。自分の力でそれが出来るとは思えませんので、日々ただその事を祈り求める毎日です。主の祈りの最後、「我らをこころみにあわせず,悪より救い出したまえ」が、私の心からの主への願いとなっているのは、そのためです。これらのことを日々教え、証明し、勇気を与えてくださる方に信頼して歩む事以外に私が行く道はないのです。クリスマスしか大事でなかった幼い頃の私でしたが、主イエスの復活の出来事、イースターを喜び、そこから生きる勇気を受けていて、主が再び来られる日を待ち望む者です。いつの日か、天国で両親に再会して、全てが明らかになる事も分かっています。その時、どんな顔をして話してくれるのか、少し楽しみでです。

主イエスは言われました。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」ヨハネの福音書 16章33節