「赤い小さな聖書」

私は1995年の8月第1週からJCCNJの礼拝に出席するように導かれ、同年の12月17日に前任の池原牧師から洗礼を受けました。今年で30年になるとは、時の経つのはなんと早いのでしょうか。

その頃、JCCNJにはクラーク先生が協力牧師としてジェーン夫人と毎週のように礼拝に出席されていました、クラーク先生はhi-b.a.の宣教師として、1951年から長年にわたって日本で主に高校生を対象に伝道されてこられました。いつからNJにお住まいだったのかは分かりませんが、当時はジェーン夫人のご実家だったWestwoodにお住まいでした。

お二人は1996年にJCCNJでスタートした「子育てクラス」(主に子育て中のお母さん達を対象にしたプログラム)で、20分程の聖書の時間を担当してくださいました。お二人のお話は、聖書を読んだことがない参加者にも分かりやすく、その時間はいつもとても和やかなひと時でした。

その後一年くらい経ってからでしょうか、何人かの女性教会員からのリクエストに応えて、ご夫妻によるバイブルスタディがスタートしました。これは教会の主催するプログラムではなかったのですが、月に1回くらい金曜日の午前中にParamusやRidgewoodの教会員宅に3~5名くらいの女性が集まっていました。確か1度、クラークご夫妻のご自宅に招いていただいたこともありました。

ある時クラーク先生は、日本でのご奉仕時代に出会った一人の女子高校生のお話をされました。彼女は熱心な求道者で「イエス様を信じて歩みたい、教会の日曜礼拝に出席したい。でも両親がとても反対していて、どうしたらいいのか分からない。」と泣きながら先生に話したそうです。そこで先生は彼女に「これをポケットに入れてトイレに持って行って、そこで読みなさい。」と一冊の赤い小さな聖書を渡したそうです。余談になりますが、この女子高校生はその後教会に通い、受洗し、やがて牧師夫人となったそうです

この話をされた時にクラーク先生はこの聖書のことを、”当時多くの受験生が持っていた赤い表紙の英単語集くらいの大きさのもの”というように説明してくださったんだと思います。私はそれを聞いて「赤尾の豆単ですか?私の母が、外国人宣教師からそういう聖書をもらったことがあります!」と、興奮気味に先生に言ったことを今でも記憶しています。先生によると、当時hi-b.aの集会では参加した高校生にこの赤いポケット版の新約聖書を配っていて、その聖書を毎日読み、いつも携えることを決心した参加者は、内表紙に自分の名前と日付を書いて、聖書を配った宣教師が贈呈者として署名することになっていたのだそうです。私は母から「宣教師から”赤尾の豆単”みたいな聖書をもらったことがある」とは聞いていましたが、実際にその聖書を見せてもらったことはなかったので、その時先生から「私のサインはありましたか?」と聞かれても「見たことがないのでわかりません」としか答えられませんでした。

その晩、母に電話をして件の聖書のことを聞いてみました。母が貰った聖書はまだ存在していたのですが、母の所属する教会に展示コーナーが新設されたので、戦後の日本での宣教活動の記録品として寄贈したので、母の手元にはないという答えでした。

私の母は中学の頃から教会に通い、中学卒業前に洗礼を授かりました。高校生の時、教会の友人に誘われて渋谷で行われていた集会に参加して、宣教師から聖書をもらったそうです。母は集会の名前も宣教師の名前も覚えてはいませんでした。母に内表紙のサインについて聞いてみましたが、母はそのことも覚えていませんでした。今のように携帯電話で写真を撮ってメールで送ってもらうなど普及していない頃ですし、内表紙に宣教師(願わくばクラーク先生)のサインがあるかどうかを母に確認してもらうのは無理だと諦め、次回の一時帰国の時に自分の目で確認することに決めました。

夏の一時帰国中の最初の日曜日、娘達2人を伴って母と教会に出かけました。その前日から期待と不安で落ち着かず、教会に着くと牧師への挨拶もそこそこに、会堂地下にある展示コーナーへひとり急ぎました。ガラスケースの中には、数点の展示物と並んで赤い表紙の小さくて薄い本が飾られていました。ケースを開けて手に取ってみると、古びて折れ線が入った表紙には「新約聖書」とありました。そっと表紙を開けると、母の名前が見慣れた筆跡のローマ字で書かれているのが目に入って来ました。そしてその下には、きれいな筆記体でKenneth W Clarkと記されていました。それだけを確認して、聖書をガラスケースの中に戻して、「神様、ありがとうございます!」と一言祈って礼拝堂に向かいました。

礼拝後、牧師にそれまでの経緯を話して、この聖書を私が譲り受けることを承諾していただきました。こうして、この”赤尾の豆単みたいな赤い小さな聖書” (ポケット聖書連盟刊 新約聖書)は私の宝物となりました。

私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは それをよく知っています。
私が隠れた所で造られ
地の深い所で織り上げられたとき
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ
あなたの書物にすべてが記されました。
私のために作られた日々が
しかも その一日もないうちに。 (詩篇139: 14-16)

聖書の内表紙には、クラーク先生の字でその日の日付 2/24/52 そして I Cor. 2:2と記されています。母はその年の3月に高校を卒業していますので、恐らくこの時が母にとっては最初で最後のhi-b.a.集会であったのでしょう。受洗して数年、ほぼ毎週のように教会に通っていた母にとっては、その日受け取った聖書はそれほど意味があるものではなかったのかもしれません。それが45年を超える年月を経て、次の世代の宝物となる。神様だからこんなことができる、しかもこの私の琴線に触れるようなストーリーで。

今回この証を書くように導かれ、準備のためにhi-b.a.の歴史と働きについて、また、戦後の連合軍占領下にあった日本におけるキリスト教宣教についてなど、いろいろと知ることができました。また、2021年にオンラインでもたれたhi-b.a. 70周年記念本大会のビデオで、クラーク先生のスピーチを聞くことができたのも感謝でした。

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。(コリント前書2:2文語訳)

春です〜、花を描きましょう!

ニュージャージーの街は花盛りです!
皆様からお花を持ち寄って頂きました
じっくり観察してみましょうね


水仙、ヒヤシンス、バラ、梨の花、スミレ、それぞれ綺麗ですね〜


星野富弘さんの作品を鑑賞したり、詩を読んだりしながら、
それぞれの想いで描きました。


あなただけの花を想像して描いてみましょう


モデルさんも花に囲まれて華やかでしたね、
次の日曜日はイースター、先生の聖書のお話は

マルコの福音書14章3-9節

ある女が高価な香油をイエスの頭に注いだお話です。
イエスの事を愛していたがゆえに他の人が「もったいない」と思うことをしたこの女の人。それは、私たちを愛して、すべてを与えてくださったイエス様を指し示しています。

良いことって何だろう、自分達にできる事、
考えさせられました。

2025年4月<牧師室より>「共に歩まれる方」

先月の月報でのホームレスの方との関わりのこと、個人的に何人かの方から、「その後、どうなりましたか」と質問を受けています。皆さんが心にかけて、祈ってくださっていることに感謝します。実はそれから会えていないのです。毎週、彼のいるところを訪問しているのですが、暖かくなってきて、歩き回っているのでしょうか?サポートしてくださっている方々いるのでしょうか?荷物はあるのですが、私が行くときには、本人はそこにいないのです。でも、一回は、「いないなあ」と思って、帰ろうとUターンできるところまで行って戻って来たら、そこにいて、「あ、いた!」と思って今度はまた車をパーキングして、戻って来たら、またいなかった、ということもあったので、まだ、そこで生活をしておられると思います。車で片道30-40分かかるところなので、1週間に何度も行くことはできないのですが、例えば、朝早い時間とか、夕方遅い時間とか、ご訪問できればと思わされています。

前回の月報では書かなかったのですが、彼と最後に会ったときのことを思い出します。その日は冷え込みが緩んで、前の週は寝袋の中に潜り込んでいた彼が、少し起き上がって、座ることができたので、私も横に一緒に座って、持ってきたホットココアを一緒に飲んで話をしていました。ほんの10分ほどの時間だったのですが、歩道に座ってそこから見える風景が、立って話をしていたときとは全然違っていました。歩道に落ちているごみや彼自身か他の誰かが吐いた唾。立って見下ろしていたときには気がつかなかったものが、目に入ってくるのです。ああ、分かっていなかったな、と思いました。いや今も分かっていないと思います。

よく、JOYJOYキャンプのヘルプをしてくれる中高生に「子どもたちの視線で話せよ。君たちと子どもたちは全然視線が違うんだからね」と話をするのですが、自分もそれができていないことを思い知らされました。

今年もイエスの復活をお祝いするイースター(復活祭)がやって来ます。復活されたイエスと出会った弟子たちの証言の一つに、「エマオへの途上」と言われる記事があります。2人の弟子たちがエルサレムから郊外のエマオへの道を歩いていました。彼らはイエスが神から遣わされた救い主だと信じて、イエスが彼らをローマ帝国から解放してくれると期待していたのです。そのイエスが十字架で処刑されて、自分たちの夢が破れて、トボトボと歩いていたのです。そこにイエスが共に歩まれました。聖書はその時の様子をこのように語っています。「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」(ルカの福音書 24章15節)そして、イエスは彼らの言葉に耳を傾け、その心の叫びに耳を傾け、そして、「救い主は人々の罪のために死んでよみがえることは聖書に預言されていたじゃないか」と彼らを諭すのです。

復活のイエスは私と同じ歩調で歩いてくださる方です。全く違った視野を持っておられるのに、私たちの視線で見てくださる方です。私たちの弱さや愚かさもすべて受け止めて、共に歩んでくださる方です。しかし、それだけで終わらずに、私たちの心を燃やし、力を与えてくださる方です。この復活のイエス様の愛と力をいただいて、歩んでいきたいと思わされています。

4月20日にはイースターの礼拝と愛餐会(食事会)が持たれます。今年のイースターが、皆さんにとって、そのイエス様の復活の愛と力を知って歩み始めるときとなりますように。

<集会紹介>「The BRAVE(教会学校)」(2025年4月)

私たちは教会学校を“The BRAVE”と呼びます。アメリカで暮らす日本人の子どもの多くは、月曜日から金曜日までを現地の学校で学び、土曜日は日本語学校に通います。それに加えて日曜日まで“学校”と名の付くところへ行くのは可哀そう・・・という思いから、当時の教会学校教師たちで話し合い、名前を変更しました。

The BRAVEという名前は、信仰生活に大切なものを英語で表記し、その頭文字を組み合わせて作りました。B=Bible(聖書)、R=Rock of Salvation(救いの岩)、A=Awesome God(すばらしい神様)、V=Victory(勝利)、E=Empowerment(神様から力を受ける)です。名前にちなんだテーマ聖句も選びました。ヨシュア記1章9節の「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」です。へブル書12章2節から着想したテーマソングも作り、「♪イエスさまから目を離さないでいなさい~♪」と当時は毎週のように歌ったものです。(是非また復活させたいです!)

※ 2025年10月より中高生たちも大人の礼拝と並行して持たれる子どもたちのための礼拝に合流し、プログラムをリードしています。また小学生以下の子どもたちもグループに分けないでみんな一緒に過ごしています。

The BRAVEは小学生以下のグループと中高生のグループ(B.I.G.)に大きく分かれます。現在、小学生以下のグループは大人の礼拝と並行して開き、中高生グループは大人の礼拝前に開いています。

教会学校には様々なスタイルがありますが、小学生以下のグループではこの時間を“礼拝”と位置付け、大人の礼拝と同じように、お祈りで始め、賛美をささげ、献金をし、それから聖書のお話という構成にしています。聖書のお話を年齢相応にするため、小学校3年生以下を下級科、4~6年生を上級科とさらに2つのグループに分けています。

昨今の傾向として、教会学校に集うこどもの数は決して多くはありませんが、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12章1節)とあるように、心が柔軟な頃に神様と出会い、神様を信じることはとても大切だと考えます。聖書の価値観が受け入れられ、大切にされ、教会学校に通わせたいという保護者の方々や、通いたいというお子さんが増えることを願い、The BRAVEではいつでも新しいお友だちを歓迎しています。

 

証し

 2025年2月23日、私は準会員としてニュージャージー日本語教会に転会致しました。そこに至るまでの神様の導きを証させていただきます。

 

「お父さんの母親がカトリック信者で、お母さんの両親はプロテスタントのクリスチャン。母方で数えると、私は四代目。それで、お父さんは私が中学に入る時に脱サラして牧師になったんだー。」「実家が教会だからさ。私もクリスチャンなの。教会の二階が家なんだよねぇ。」そう言うと、びっくりしながらもほぼ全員が納得した顔をしてくれるので、いつからか家族のことを聞かれると、そう答えるようになっていました。

 両親は熱心に奉仕する信徒で、私は小学六年生まで埼玉県の大きな教会で育ちました。朝から夕方まで奉仕で忙しい両親を待つ間、世代や性別を問わず多くの方に可愛がってもらったことを覚えています。教会は小学校以外の大切な居場所であるのと同時に、自分が愛されていることを実感できる場所。私は教会も、神様も大好きな子供として育ちました。

 中学受験を終え、晴れて第一志望のミッションスクールへの入学が決まった冬、父は私に「牧師になろうと思うんだけど・・。」と切り出しました。正直驚いたし、その言葉は具体的にどんな未来を示しているのか、当時の私には想像もできませんでした。けれども「サラリーマンとしてではなく、クリスチャンとして生きる方が父に似合っているのではないか。」そう強く思えて、「いいんじゃない?」と答えました。ふいに涙があふれて、不思議に感じたのが印象的でした。幸い祖母からの支援もあり、春からは希望の中学に進学が許され、6年間温室のような環境でぬくぬくと過ごしました。高校卒業と同じくして父も神学校を卒業し、千葉で開拓伝道を始めることとなりました。

実家=教会となった後も、両親と教会員の皆さんの優しさから「のんちゃんは礼拝に出ているだけでいい。」と甘やかされ、奉仕もろくにしなかったように思います。いえ、しませんでした。たまに、PK(牧師の子供)の方と出会い、「子供の頃から奉仕が当たり前だった。」などと聞くと、非常に恥ずかしく、肩身の狭い思いをしています。

 「礼拝に出ているだけでいい。」の後には、続きがありました。「まずは神様の愛に養われなさい。心の器が愛であふれるように、今は神様に向き合い、愛を思い切り味わおう。」父の説教で繰り返し聞いた言葉は、小さな教会に浸透しているようでした。

大学に進学し、社会の荒波に揉まれ、時に味わう挫折や、様々な人との出会い。私は神様に向き合うどころか、遠く離れては泣きついてを繰り返していました。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。(詩編126:5)』私の信仰は赤ちゃんレベルも同然でしたが、神様はどんな時も私を離さず、いつの間にか涙を静かな喜びに変えて下さるお方なのだ。私は少しずつ気づき始めました。

 

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)』

ニュージャージー州は、私たちが子育てする4番目の地です。転勤の多い夫について、家族友人知人がいない地に引っ越すのはいつも不安です。子ども達が新しい環境になじめるのかを考えると尚更でした。しかし、東京・ロサンゼルス・神奈川のどこへ行っても、私は多くの助け手に出会い、喜びや悲しみを分かち合うことが許されてきました。それぞれの地に、神様の家族が増えていくのは何とも言えない喜びです。私は姉妹たち(※)の生き様からキリストの香りを感じています。感謝し尽くせないほど、祈り支えられてきました。そして、クリスチャンとして、新米母として、育てていただきました。

だから私は今回も「良い教会に繋がれたらきっと大丈夫。」という思いを与えられ、新居に到着してすぐの日曜日、ニュージャージー日本語教会の礼拝に出席しました。牧師先生ご夫妻・教会員の方々に温かく迎えられ、渡米直後の不安が少し晴れたのを覚えています。

ニュージャージーでの生活の中でも、神様は今までと同じように恵みを用意して下さっていました。寂しさや不安がある中でも、エッグハントのように日常の中に見つかるのです。振り返ってみればずっとそうでした。神様の愛と恵みは一度きりではなく、長い時間をかけて、私がわかる形で、私が気づくまで続いている。毎週教会に集うなかで、私の心に喜びと感謝があふれるようにと、長い間愛を注ぎ続けて下さった神様の姿に気づかされていきました。本当に『主は良いお方』です。

 

『しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。するとイエスは言われた。「それを、ここに持ってきなさい。』(マタイ14:17-18)」

そんな時、錦織先生の説教でこの御言葉に出会いました。長い間愛だけ注いで待っていて下さった神様が、ついに招いてくださったのだと感じました。そのときの気持ちを言葉にするのが難しいのですが、自分の心に届いた神様からのメッセージが、あまりにタイミング良く、まっすぐだったので、「はい。」と応えるのが自然でした。もしも去年どこかの教会で「準会員になりませんか?」と訊かれたとしたら、断っていたかもしれません。今が、神様の完璧なタイミングであったと確信しています。神様は、良い意味で用意周到で、本当に粋なことをされると思います。

これが、転入会しようと思い至るまでの出来事です。私が持っているものはほんの僅かですが、神様の愛に応えようと思わされています。今は、神様が用意してくださった親子クラスでの奉仕に関わることができて、とても嬉しいです。これから、教会に集う皆様と交わり、一緒に祈り、神様を賛美して過ごせたら感謝です。

(※教会では同じ信仰を持つお互いを神のもとにある家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)