<牧師室より>2025年1月号「何を大切にするのか」
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
12月の最後の日曜日の夜、カーター元大統領が100歳で亡くなられたとのニュースが入ってきました。
彼が大統領であった時代、私は日本で中学高校時代を過ごしていたので、政治のこと、アメリカのことなど何も分かっていませんでしたが、とにかく、敬虔な信仰の姿勢、また温厚な人柄、そして、キャンプデービッドでのイスラエルとエジプトの歴史的な和解に代表される、平和を求める姿にはとても魅力を感じたのを覚えています。後になって、アメリカの政治のことなども少しは分かってきて、彼が再選されなかったことにも、「まあ、しょうがなかったのかな」と思うようになってきていました。
今回、カーター氏の訃報を受けて、オバマ元大統領が投稿した文章を読みました。その中で、彼はこのように書いています。“He believed some things were more important than reelection – things like integrity, respect, and compassion.”(「彼は再選よりも大切なものがあると信じていた。誠実さ、尊敬、思いやりといったものだ。」DeepL訳)これを読んだ時に、本当にそうだな、と思いました。もちろん、ここにはオバマ氏の、再選にこだわった歴代大統領たち(と言うか、特に一人の人)に対する皮肉も込められているのでしょうが、カーター氏の生き方は、私たちが何を大切にしていくのかについて問うているように思います。
新しい年を迎えて、私たちはもう一度そのことを確認すべきでしょう。わたしたちは自分の人生で何を大切にしていくのか?本当に大切にすべきなのは何なのか?教会としても私たちが大切にしていくべきものは何か、問われていると思います。新しい年、本当に大切にすべきことを大切にして歩んでいきましょう。
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
コリント人への手紙 第一 13章13節
<集会案内>「教会の、それって何?」(2025年1月)
2024年の12月から始まった新しいプログラムです。
これは、教会のメンバーに知っておいてほしいことをお伝えするために始めたプログラムです。でも、それと共に、教会のメンバーだけではなく、教会に来はじめた方や、教会に行ってみようかな、でも・・・と躊躇している皆さんが持たれるであろう、教会ってどういうところなのか、教会が大切にしていることは何なのか、という疑問に答えることができれば、と思っています。
第1回目の12月1日は、「教会の、『礼拝』って何?」というテーマでした。まず、皆さんに「礼拝で大切にしていることは何?」と伺ったときに出てきたのがこちら。いやあ、とても活発にいろんなことが出てきて、うれしかったです。そして、皆さんが礼拝を大切にしている思いもビンビン伝わってきました。で、この日、お伝えしたかったのは、「こうやって、日曜日に集まって共にささげる礼拝、と共に、日々、私たちが生きていく中で、神様にささげていく『礼拝』の生活が大切なんですよ」ということでした。その延長上に日曜日の礼拝があるんですね。
毎月1回、第一日曜日の礼拝後に30分、ジムで持ちます。2025年1月は「教会の、『礼拝』って何?」の「そもそも礼拝は・・・」ってところから、次のステップで、「日曜日に集まって礼拝をささげる意味」って感じで話をしようと思っています。お楽しみに!
「起承転結 ― 神様のものさし」
2025年が、始まります。今年還暦を迎える私にとっては新しい章のスタートです。
0〜29歳 :“娘” -まだイエス様との出会いもなく、自由奔放に毎日を楽しんでいた私は、父と言われて頭に浮かぶのは、血縁の父。
30〜59歳:“妻”“母” -新しい家族ができ、救いへと導かれましたが、父と言われて浮かぶのは、日々二人の娘と健闘していたその父親である夫。
60〜(神様のとき歳):“私” -父といえば、天のお父様です。
天のお父様には、これまで多くのことを教えていただきました。そのお方は万能であり全てが可能で、どんなものにも変え難い平安を与えてくださること、そして誰よりも私を愛してくださっているということを、これまでの歩みの中で繰り返して実感しております。
これからの日々は、この天のお父様の大きな御手の中で、肩の力を抜きリラックスして父の示される道を歩んでいけるようにと祈っていきます。
1番の敵は、自分の常識を正しいと錯覚してしまうことです。たとえ、自分にとってはマイナスに思えることがあったとしても全てを益とされる方は、決して私を暗闇に置き去りにすることはなさらず、祝福というゴールを備えてくださっていました。神様の常識のもとでは、自らの思いはなんの効力もないことを自覚しています。日々、天のお父様のみ顔を求め、み声を聞き逃すことのないように、御言葉をうちに積み重ねて、力強く全身全霊を持って歩んでいきたいと祈っています。
主に望みをおく人は新たな力を得、 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
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2023年9月、自分が洗礼を受けた母教会の日本語礼拝が30周年記念を迎え、その時自らの信仰生活を振り返りました。その証をこれからシェアさせていただきます。
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私がイエス様と出会えるための道案内をしてくださった母教会が、神様の愛の中で素晴らしいお働きをして30周年を迎えられたことを感謝、お祝いし、自らのこれまでの歩みを振り返ります。
起
2001年、夫は20代から勤めた金融業でのリタイヤを決心して、私たちは日本からサンフランシスコ郊外に引っ越しました。長女は幼稚園入園、現地校に馴染めず、毎朝学校に着くと泣き出し、困難でのスタートとなりました。その中で、私は車で15分の所にあったJapanese Christian Church of Walnuts Creekにつながっていくことになります。教会での集会、行事などに子供達と共に参加し、翌年クリスマスに私は受洗へと導かれました。その頃の私は神様に夢中で、毎日は教会生活が中心でした。
承
長女が中学校に入る準備をしていた2007年5月、6年間安定した仕事に恵まれなかった夫に、NYの証券会社から香港支社・東京支社での仕事が与えられました。夫は香港で1年間勤務、私は、強い信仰を持っていると勘違いしながら東京に帰りました。子供達もインターナショナルスクールに戻り、日曜日は共に教会に通い、長女は2008年、自らの意志で受洗、2009年、2歳年下の次女も自らの強い意志を果たして、受洗をいたしました。
転
2009年リーマンショック。しばらくして、夫はレイオフされました。会社から支給されていた家を数ヶ月後に出て、家族で私の実家に移り住み、子供達は翌1年、日本で学校に通い続けました。長女が高校入学の2010年、私はニュージャージー州に住む義理の母に、子供達を現地の学校に通わせるために、母娘3人で住まわせてもらえることをお願いしました。夫は続けて私の実家に残り、1年間、NYの別の証券会社の東京支店で、出来高制という契約の仕事をしました。
私が思う“試練“は、ここから加速して行きます。私が一生懸命頑張って願う思いは何もかないませんでした。たくさん笑う以前の私はそこにはなく、明日が見えずに日々を過ごしていました。しかしなぜだかその頃、初めて聖書通読をしました。私にとって、別の物語であった旧約と新約が、通読によって一つの大きな世界へと変わり、聖書の理解が別のものになりました。夫の母教会にも毎週、歩いて通いました。今も、時々このカソリック教会で礼拝をします。神様に守られていたことを、聖霊様が私に伝えるが如く、礼拝のたびに涙が溢れ出て、当時の信仰生活を思い出します。
また、夫の実家から車で15分の距離に、母教会の藤岡先生夫妻がWalnuts Creekに行かれる前にいらしたJapanese Christian Church of New Jerseyがあり、私は神様にあってこの教会に導かれ、その時から、多くの敬愛する兄弟姉妹に恵まれ、宝物を得たような日々を過ごせています。
2016年、私は98歳の方の運転する車で生死に関わる交通事故に遭いました。裁判所で、この方の体調を見た時に、神様が私を事故の相手に選ばれたのだと思いました。そののち2019年末まで、私は事故によって必要となった手術を、何度も繰り返すことになったのですが、今その頃を振り返ると、事故以前の私ではない私がそこにいて、神様が私と共におられたと痛感しています。
結
神様の憐れみにあって、私と夫は11年前に会社をスタートし、年月もかかりましたが、神様がこのビジネスを通して私たち家族に、日用の糧と必要を与えてくださっています。時々困難も訪れますが、神様の知恵を求めて祈る時に、主はそれに応えて下さり祝福をいただいています。
21年間の信仰生活の中、神様から様々な経験をさせていただきましたが、その歩み故に教えていただけたことは、この世の人知で測ることのできない平和があることです。
マタイによる福音書10章34−39節
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
自分中心の私の物差しで測って来た過去は、自分が望むもの以外を受け入れることが出来ずに、その全てを試練と思い、平安はありませんでした。それは人と付き合っていく中でも起こる事があり、それぞれの物差しは異なるわけですから、争いが生じたり、そこから平安が生まれるのは偶然です。
“神様の物差し”は、愛によって作られ、義によってはかられる、唯一正しいものです。
まずは自分の物差しを捨て、神様の物差しが持てるように祈り、自分の家族や隣人を、建前や偽り、愛するフリをするのではなく、真に愛せるように、御言葉が持つ奇跡の力で自らの思いから解放されることを願っています。
いつの日か平和の器になれることを信じて、これからも御心を知るために祈り、恵みを数えながら歩んで行きます。
今日の気持ちは何色ですか?
毎年12月のクラスは、色を楽しむ月です。
3原色の赤、青、黄色を使って、描いてみました。
この3色だけで、何色でも描けるのですね!
シルバーのオーナメントもキラキラっと!
筆とパレットナイフを使って〜、今日の気分を描いてみましょう〜!
パレットナイフの扱いも慣れてきましたね。
錦織先生からの聖書のお話は、イエス誕生の箇所です。
ルカによる福音書 2章7節
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
私達は華やかにクリスマスを祝っていますが、イエス様の居場所はあるでしょうか?
イエス誕生の歴史背景やその時の飼い葉桶という粗悪? な環境を想像して、私達の為にいらしてくださったイエスキリストの事を心に、神様からの愛をしっかりと受け止めていたいと思いました。
今年も皆様と楽しいクロッキー教室を開催できて感謝いたします。