2025年3月<牧師室より>「神様からのチャレンジ」
先月の半ば頃、私たちの教会のHPを通して、一人の方から英語での問い合わせがありました。
「私が仕事に行く途中の道で、ホームレスの方を見かけます。こんな寒い中、何かできないかと思って、ある日、声をかけたら、英語が通じなくて、どこから来たのか聞いたら、日本からだと言っていました。それからスマホの通訳アプリで話をしているのですが、コミュニケーションが難しいので、日本語の分かる皆さん、助けてくれませんか」
世の中には、そういう話でお金をせびる詐欺を働く人もいるので、少しだけ疑いながら、その方にお会いすることになりました。教会に来られたその方は40代の女性。医療関係の仕事をしている、ポルトガルからの移民だと言っておられました。そして、その日本のホームレスの方のところに連れて行くから、ついてきて、というのです。その女性にお会いして、少しガードが下がりましたが(これがまた危ない可能性もあるのですが・・・)、実際に自分が行って何ができるだろうか、と思いながら、でも、少なくとも通訳はできるなと思いながら、現地に向かいました。
そこには、寝袋とバックパックだけで生活している男性がいました。私よりもずっと若く、背も高く、がっちりとした体格。髪がボサボサとか、服が汚れているとかを別にしたら、普通のホームレスの方のイメージとはかけ離れた感じでした。日本語で話しかけると、うれしそうに返事をしてくれました。アルコールやドラッグの中毒になっている様子もありません。でも、「どこから来たの?」と聞いても、何も覚えていないとのこと。「寒いから暖かいところに行こう」と言っても、「いや・・・」と言葉を濁します。その時は「また来るからね」と「これでいいのかな・・・」と思いながらその場所を後にしました。
それから、週に1回のペースで、温かいものを手に3回ほど訪問させていただきましたが、本人は「何も覚えていない」「自分の身元につながるようなものは何も持っていない」との話。もちろん、本当のことは何も知られたくなくて、とぼけているのかもしれません。そして、もっと心が通うことができてきて、何かが分かっても、私たちには何もできないかもしれません。でも、これも、この地域で生きていく私たちに神様が与えてくださった出会いだと思わされて、何ができるだろうかと自分に問い続けています。
その中で、この聖書の言葉が心に響いています。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙 2章14~17節
この地域社会とのつながりを持って歩んでいくということは、私たちに与えられている使命です。日々チャレンジです。神様が助けを与えてくださいますように。この使命に忠実に歩んでいくことができますように。
「ECでの恵みと振り返り」
私は今回初めて年末年始のEquipper Conference(EC)に参加しましたが、その中で経験し
Equipper Conferenceは、海外でキリストに出会った日本人クリスチャンたちが、キリストによって遣わされる者として、日本に帰国する前に、彼らをequipすることを目的としたカリフォルニアで行われるキャンプです。実を言うと今年のECはあまり行く気がありませんでした。知っている人が多くいるわけでも無く、講師もあまり知らない人ばかりでした。
もともとは去年のEC2023に参加するはずでしたが、新しい職場で体調を崩し急遽いけなくてなりました。去年のECは朝岡先生が講師としておいでになるはずでした。朝岡先生の話は、ポッドキャストWTP(What The Pastors!!)で、よく家族で聴いていたので、去年はすごく参加を楽しみにしていたのに諦めざる得ませんでした。しかし、なんと、その朝岡先生も直前に体調を崩し、今年再チャレンジとのことだったので、これは神様が与えてくださったチャンスなのでは、と思い行くことを決意しました。今回のECの参加のために祈ってくださった皆様に感謝します。
ECとその後のカリフォルニアでの時間を通して、神様の働きをすごく実感できました。今回の部屋は一番年上の部屋で、26歳から23歳までの、異なる経歴を持った男性たちと一緒でした。東京から来ている音楽業界の韓国人、マサチューセッツ州の大学ミニストリーの奉仕者、カルフォルニアからの中国系のハーフ、テキサス州のバイブルカレッジの生徒達、そこのOB,とあまりにも共通点がない人達が集まっていました。そのような7人でしたが、ECでは、毎回スモールグループの終わりに手を取り合い輪になって祈りあう、また礼拝ではお互いのために泣きながら祈るなど、あまり日常生活では経験することのない、言葉では表せない愛と恵に溢れた時を過ごせました。最近の教会での学びとして、日曜日の礼拝と個人での礼拝について学んできましたが、ECではいわゆる日曜日の礼拝、心許せる信徒達との礼拝がいかに大事なのか、というのを実感しました。
カルフォルニアでの時間を通し懐かしい出会いもありました。ニュージャージーの教会に集っていたメンバー達、またその人達を通しての新しい出会い、多くの出会いにも恵まれました。何も知らない地で、このように新しく、また懐かしい出会いがありえたのは、神様という共通点が我々をめぐり合わせてくれたからだと思いました。
第一 歴代誌 16:10
主の聖なる御名を誇りとせよ。主を慕い求める者たちの心よ、喜べ。
今回のECのテーマは「誇人」でした。5日間の中でバプテスマのヨハネ、エパフロデト、そしてパウロ、朝岡先生が言うには「神様の働きを助ける人たち、脇役」について学びました。彼らを通して学んだのは我々が今何を誇りに思い、クリスチャンとして本当に何を誇るべきなのかを考えさせられました。簡潔にいうと、クリスチャンとして、誇るべきものはクリスチャンとしての完璧さ、ではなく、人間としての欠点、愚かさを誇るべきものだと伝えられました。我々は自分の信仰深さ、神様の前での謙虚さという「偽りの誇り」を掲げるのではなく、キリストの十字架を誇るべきだと学びました。神様は我々に必要なものはすべて与えてくれ、弱さの中で力を与えてくださいます。キリストの十字架を誇りとできるから、人間としての弱さを誇るべきなのです。
少し政治的な話になりますが、今のアメリカの政治環境はキリスト教が根強くなってきています。クリスチャンが正しいと言い、迫害を正当化する光景が多くなってきてます。クリスチャンであることの「誇り」を大々的に宣伝し、そうでない者を脅し、軽蔑し、傷つけ、陥れます。聖書に言及されてないから否定的になることもあります。これがクリスチャンとしてあるべき姿なのでしょうか?これは自分も含め、クリスチャンの多くが「誇り」を自己満足と履き違えてるのではないでしょうか。救われたから、謙遜でいるから、一方的に神様から愛と恵みをもらい、それだけで満足しているのではないでしょうか。本当にすべきことなのは、静かに神様の愛に応え、用いられるべきなのでは、と思いました。クリスチャンとして、自分の愚かさを受け入れ、誇りの原点となるべきものは自分の信仰の強さではなく、神様であるべきだと思わされました。
今、自分は進路選択で戸惑っています。今後のキャリアを考え、どのような選択をしていけばいいのか、と迷ってしまいます。自分の中で何度も何度も色々と考え、模索しています。ただ、自分の知恵と力だけで人生を左右しようとしてもうまくはいきません。
コリント人への手紙第一 1章 25 節
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリント人への第二の手紙12章9, 10節
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
このように、人間の限界や、人間の不完全さをはるかに超えるのが神様です。それを自分で解釈しようとし、自分で自分の道を作り替えようとするのはあまりにも難しすぎます。逆に、我々はその人間の限界や、人間の不完全さをクリスチャンだから克服しようとするのではなく、クリスチャンだからこそ誇るべきなんだと学びました。
今回古き信仰の友たちとも進路選択の話ができました。彼らもまた、進路選択で迷っていた、迷っている人たちですが、神様の愛に応えそれぞれいるところへと行きました彼らがこうできたのはやはり、自分の弱さを誇り、自分の力では成しえないことを神様がしてくださると信じているからです。神様の愛を一方的に受けるのではなく、それに応え、行った先々で神様に仕えに行ったのです。今回もNJの教会の元メンバーが、ECでの奉仕を通しまた一人救いへと導きました。また、新しい地で伝道開拓の一環として、新しい教会を立ち上げました。また、もうひとりのメンバーは西海岸へ行ったことで仕事だけでなく、人間関係、信仰の恵みの実感を伝えてくれました。神様がともにいてくれるから、どこにいても祝福してくれると知っているからこそ、不安の中でも選ぶことを恐れず、その選択を神様は祝福しました。このようにキリストを誇り、神様の愛に応えて用いられるキリストに従う人々に教会を通して会えたことに感謝しています。
今振り返ると、自分は神様の愛に応えられていたのでしょうか。大学、インターン、職場、自分で選んでおきながらも全て自分では想像もしてなかったように神様は祝福してくださいました。それに対して自分は神様のために仕えていたのでしょうか、その呼びかけに応えられていたのでしょうか。振り返りの時間をこのECは与えてくださいました。ECを通し、クリスチャンとしてあるべき誇り、また生き方を改めて学びました。この先何があるかわかりませんが、神様はどれをとっても祝福してくれます。それに対し自分もまた、キリストを誇り、どこに行っても静かに神様の愛に応えて用いられるることが与えられますように。今回EC のために祈ってくださった人々、出会えた人々の今後も恵まれ、守られますように祈ります。
新聞紙丸めてちぎって、想像画!

3つの新聞紙の形を画面に描いてから、自由な線で繋げてみましょう。
お題は「冬」寒さもあり、縮こまっていた右脳が柔らかくなりましたね。

杖を持ったモデルの紳士、画面にに大きく描けましたね。
錦織先生の聖書のお話しは、ヨハネによる福音書8章1-11節
モーセは律法の中で、イエスが問われた答えが「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
その場面を皆で想像しながら、イエス様の言葉の深さを学びました。
私達も日常生活の中で自分自身の罪を認めずに相手の罪だけを指摘する事も反省しなければならないと、思いました。
